オレたちの明日に向かって 八束澄子 ポプラ社

「出会う」というのは偶然なものだけれど、出会うべくして出会った、と思えることが時々あります。偶然だけど必然だったよね、という出会い。そんな出会いは、人を変える力があるものです。この物語の主人公・勇気も、ジョブ・トレーニングでの出会いをきっかけにして、これまで見えなかったものが少しだけ見えるようになります。若い身体と心が大きくなるときを、伸びやかな筆遣いで描いた素敵な作品でした。

主人公の勇気は、勉強にはいまいち身が入らないし、部活に出れば顧問に怒鳴られっぱなしという中学二年生。ある日、保育園に勤める姉が、交通事故を起こしてしまうのだが、どうやら相手の中学生は、親に強要されて当たり屋をしているらしい。一歩間違えれば大変な事態になるところを助けてくれたのは、保険代理店の今井さんだった。それがきっかけで、勇気はジョブ・トレーニング(職業体験)で今井さんのところに行くことを選ぶ。そこで出会ったのは、保険という大きなお金が絡む世界の、大人の姿だった・・・。

保険というのは、大金が絡むだけに、今井さんの言うように「人間の負の側面を刺激する」んですよね。お金というのは、生きていくことと直結しているだけに、非常に生臭い一面を持っています。勇気は今井さんのところに通っている二日間のうちに、人のいろんな面に触れます。その冷たさや暖かさが、勇気の若い心にまっすぐ沁みこんでいくのを読みながら、ああ、これが「知る」ということなんだなあと思ったんですよ。何でも知っているふりをする人っていますよね。「そんなこと、ニュースでもいつもやってるよね」とか、「ああ、どこかで読んだことあるよ」というくらいで、「知っている積り」になっている、そんな人の「知っている」は、「忘れてた」と同じくらいの重みしかない。「知る」というのは、心に刻むこと、自分の内的な体験として血肉化することです。介護する奥さんの頭をなでるおじいさんの無骨な手や、稲刈りのお礼にとおばあさんが作ってくれたちらし寿司の味や、今井さんが話してくれた交通事故のあとの何ともやるせない光景。そして、姉の車に当たり屋として突っ込んできた男の子の家庭の事情。それまで無関係だと思っていたことが、姉の事故や、今井さんとの関わりを通じて、顔が見える人の出来事として勇気の胸に刻まれる・・・それが、彼を変えていくのです。

この週末、広島に行っておりました。(その話は、またゆっくり書きますが)。平和記念公園の中に、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館があります。そこには、原爆で命を落とされた方の名簿と写真が収められており、常にそのお顔を見ることができるようになっているのです。映し出される一人ひとりの顔を見つめながら、私は、何万人という死者の一人ではない、たった一つの存在であったそれぞれの方の命の重みを感じました。誰も、「どこにでもいるような一人」ではなく、ほかの誰でもない、たった一人の存在であること。その認識を持つことが、かけがえのない命をもって生きる人間同士が生きていく基本なんですよね。そこを失ってしまったとき、私たちは大きな間違いを犯すことになります。そして、他者をかけがえのない存在として認識することは、自分の大切さにも気付くこと。関わりを持った人に誠実に対応する今井さんの仕事ぶりを見て、勇気は「この社会のどこかに自分の居場所と仕事がある」と、ぼんやりとでも思えるようになる。それもまた、他者に顔の見える存在としての自分を思い描けた上のことだと思います。何やら不安だらけの、漠然とした未来に押しつぶされそうになる若い子たちに、この感触を伝えたいという作者の思いが伝わるような気がしました。

勇気の家庭のあけすけな明るさや、勇気が友達のきぼちんと、犬のマロンの三人(笑)ではしゃぐおバカっぷりが楽しくて、保険という重いテーマをテンポ良く読ませる役割を果たしています。雪合戦のシーンなんかは笑いながら、なぜか涙が出てしまいました。若い子の笑顔に泣けるなんて、年やね・・と思ったりしましたが(笑)挿絵や、今井さんの業務日誌がはさんである工夫も面白くて素敵なんですが、少しもったいないと思うのが、タイトルです。もう少しひねってあったほうが、若者の食い付きが良かったんじゃないかしらん。ラノベ世代にはストレートすぎないかしら・・などと、余計な心配をしたりしました。凝りに凝ったラノベのタイトルを常に見ているものの老婆心かな。とにかく、たくさんの若い人が手にとってくれたらいいなと思います。

2012年10月

ポプラ社

冷血 高村薫 毎日新聞社

神は細部に宿るというけれど、この小説における高村さんの仕事の見事さは恐ろしいほどだった。CGなんて目じゃないほどの緻密さで小説が立ち上がってくるのである。圧倒的な力でねじ伏せられ、引きずり込まれる。虚無へ、人間が持つ果てしないブラックホールのような虚無へと連れていかれ、逃れるすべもない。しかし、その中に、ほんの少しだけ見える、人として踏ん張る足がかりがあって、それが合田という、ずっと高村さんと共に歩んできた存在に見え隠れしているのが、今、この時代の『冷血』として高村さんが命がけで提示してくれたものなのかもしれないと思う。

この物語の背後にあるのは、フラクタルな、逃げ場のない都会の近郊地の風景だ。著者の高村薫さんが、インタビューで、「16号線があって、初めてこの人物の物語が成立する」とおっしゃっていたが、ここに描かれる16号線の風景は、東京という都会の周り、日本のどこに行っても広がっているような大きな道路沿いに広がる無機質な風景だ。都会と田舎の境目、田舎ほど濃い人間関係もなくて人の出入りも激しいけれど、どこか全てが他人事のような風景だ。トラックとコンビニと、チェーンの飲食店にショッピングモール。車で旅行していると、あまりに同じような風景が続くんで、時々どこを走っているんだかわからなくなることがある。それは、ル=グウィンの言う「同じものが常に、同じものへとつながっていく」「他者はない。逃げ道もない」(※)風景なのかもしれない。その逃げ場のない場所から、二人の殺人者がむっくりと立ち上がり、特に理由もないままに歯科医の一家を惨殺する。高村さんの筆は、その二人の男が身体の中に抱えている、逃げ場のない熱量を文章の細部にまで漲らせる。犯行前の二日間ほどの二人の行動を読んでいると、爆発寸前のような膿が、二人の間に膨れ上がっていくのがわかる。この二人は出会いサイトで知り合った行きずりのような関係性なのだけれど、彼らにはある共通性があると思う。それは、思考停止だ。

犯人の二人は、一家四人を即死させるような理不尽な犯罪のあと、まことに幼稚な行動をとる。何だかもう、犯罪を隠すのもめんどくさい、というような投げやりさなのだ。ペタペタとあちこちに足跡をつけた二人は逮捕され、そこから合田も含めた捜査班の徹底的な検証が始まる。生い立ちから成育歴、当日の行動から何もかも調べ上げられ、追求されるのだけれど、そこには犯罪に繋がる「なぜ」という理由はまったく見当たらない。ただただ、二人のたどった、やり切れない人生の風景だけが延々と立ち上がるだけなのだ。その一つ一つは犯罪と明確な繋がりは持たないのだけれど、少しずつ積み重なることで、親不知が腐る圧倒的な疼痛のように彼らから思考能力を奪い、雪崩が起きるように理不尽な暴力へと二人を押し流していく。「考えていたら、やってません」という彼らの言葉は、掛け値なしに本当なのだ。私には、その思考停止が、「冷血」というテーマに繋がるものだと思えて仕方なかった。そして、彼らのような思考停止は、私の中にも巣食うものであると思わざるを得ないのだ。

私の人生にも、彼らのように積み重なってどうしようもない風景がある。犯罪は侵さないけれど、そこから目をそらして考えないようにすることで、成り立っている日常があるのは事実だし、自分の人生から目をあげても、やはりそこには累々と積み重なっているやり切れない風景が広がっている。私は最近になって漸く戦争や、ヒロシマと長崎の原爆投下や、貧困や、原発について考えるようになった。それらについて少しずつ勉強し始めて思うことは、これまでの自分の徹底的な無関心と思考停止だ。こんな大きなことを自分のような小さな存在が考えてみたところで、なんになるだろう。それよりは、自分の目に見えていることだけを考えて過ごしたほうが、精神衛生にもいいし、という感覚でほったらかしてきたことがたくさんある。その自分の無関心を振り返ってあれこれ考えていると、私と同じような無関心の洞が、あちこちに空いているのが見えるような気がする。私もやっとその洞を見始めたところなので、何の偉そうなことも言えないし、その洞を見つめれば見つめるほど、どうしようもない人間存在のカオスにはまり込んでいくことは目に見えているのだけれど、その洞に目を凝らしておかないと、大変なことになるんじゃないか(いや、もう、なっているんだと思うけれど)という予感がしているのだ。『新潮』の2月号「有限性の方へ」という評論の中で、加藤典洋さんが、今私たちの足元に空いている巨大な穴ぼこについて言及されているけれど、たとえ視界に入らないような大きすぎる穴ぼこであっても、「仕方ない」という思考停止だけはしてはいけないように思う。この年齢で青臭いといわれても、マイノリティとして小さな小さな声に過ぎなくても、考えて、それを言葉にしていかなければ、この穴ぼこはもっと巨大になってしまうような気がする。この『冷血』という物語の男たちに穿たれている思考停止という洞は、今、私たちの中に、足元に空いている穴ぼことそういう意味で繋がっていると思うのだ。

その巨大な穴ぼこの前で、ただひたすら目をそらさずに見つめる役割をはたしているのが、合田という人間だ。この『冷血』というブラックホールのような暗闇の中で、唯一光となって掲げられるのは、この犯罪と二人の男に正面から向き合い、ひたすら泥臭く正体の見えない暗黒を見据え続けた合田という男の眼差しだと思う。犯人にも「学生のようだ」と言われるような合田は、輪郭を持たない化け物のような彼らの犯罪を調べつくし、何とかして言葉にしようとあがき続ける。この物語のほとんどは、その営みで埋め尽くされている。そして、世間が彼らのことを忘れる頃になっても、彼らにハガキを書き、会いにいく。何度わからないと言われても、とにかく彼らの言葉を聞き、彼らと同じ映画を見たり本を差し入れたりして読んだ感想を述べ合ったりする。そんな高村薫さんがおっしゃるように、「事件を超えて人間そのものと向き合うようになった」合田に対し、殺人者である井上が書き送るハガキの内容が、「文学」なのだ。多分彼らにも、自分自身の犯したことは「わからない」ことなのだと思う。でも、合田との、まるで合同作業のような検証と、「人間として」彼らと向き合う眼差しから、井上の中に言葉が生まれてくる。その言葉は、生きて思いを伝え合うからこそ生まれる、『冷血』の中に微かにめぐる希望なのかもしれないと思う。希望という言葉を使っていいかどうかわからないほどの希望ではあるけれど。そのほのかな温かみは、冒頭に置かれている、もう誰とも思いをかわすことの出来ない殺されてしまった少女の日記の言葉が放つ死者の孤独を際立たせる。彼女の日記は、誰も受け止めてくれる人がいないまま、打ち捨てられるのだ。血のつながった祖母にさえも、「見たくもない」と言われてしまう、少女が唯一残した言葉たちが不憫で仕方なかった。それに比べて、井上には最後の最後まで自分の言葉を聞いてくれた合田がいた。少女と井上を分けていたのは、生きているかどうかという違い、その言葉を受け止めてくれる誰かがいるかどうかの違いなのだ。その理不尽も含めて、「生きよ」とぎりぎりの場所から発する高村さんの問いかけは、カポーティの『冷血』をそのまま使ったタイトルに相応しい、今読むべき本だと思う。図書館の返却期限があったので、だいぶ急いで読み飛ばしてしまった。これは、買ってじっくり読み直さなければな、と思う。

(※『いまファンタジーにできること アーシュラ・K・ル=グウィン 河出書房新社)

2012年12月刊行

毎日新聞社

 

 

 

劇団6年2組 吉野万理子 学研教育出版

懐かしや、クラス演劇。思い出すとけっこうやってましたねえ。外したときのリスクも高いんですが、その分ツボにはまったときの達成感は半端なかったことを覚えています。盛り上がれば盛り上がるほど凝り性になって、家からいろんなものを持ってきてあれこれ作ったり。私たちの頃は、放課後塾に行っている子なんて全くいなかったので、時間が使い放題だったというのもあるかも。そして、あの頃はドラマ全盛の時代です。百恵ちゃんの『赤い~』シリーズに本気で泣いていた時代ですから。漫画だって『ベルサイユのばら』に『ガラスの仮面』という、セリフを口にするだけでお芝居気分になれたものがいっぱいありました。どれだけ皆で真似っこしたことか。近所のバラの生垣のところで、オスカル役とアンドレ役を決めて、ラブシーンやったり(笑)そんな下地もあったせいか、とにかくやってみたかったんですよね、お芝居というやつを。この本を読んで、久しぶりにあの頃のときめきと楽しさを思い出しました。

お芝居の楽しさは、何にもない空っぽのところから、皆で架空の国を作り上げるところ。この物語もそうです。学校に公演に来たプロの演技に魅せられて、卒業のお別れ会でお芝居をやりたい!と思った立樹が、クラスの皆と自分たちだけのシンデレラのお芝居を作り出すところが描かれます。お芝居なんて、どうしたらできるのかわからない立樹たちは、プロの人に話を聞きにいったり、自分たちで台本を探したりします。でも、俄然面白くなるのは、台本通りにする必要はなくて、自分たちの自由にお話を作り上げていけばいい、と知ったところからです。誰もが知っているシンデレラのお話。でも、なぜ継母はシンデレラに意地悪したくなるのか。魔法使いはなぜシンデレラを舞踏会に送り込んだのか。「なんで?」と登場人物の気持ちになって考えていくことで、物語はどんどん膨らんで、自分たちだけのリアルな心が入っていく。そして、それが、見ている人に伝わっていく。「伝わる」ということは、とても嬉しいことなんですよね。その喜びが、とてもストレートに物語から溢れてきました。

「伝える」というのは、本当は生きていく基本なんですが、これがけっこう難しかったりします。立樹たちがこのお芝居から見つけた「人の気持ちを考えると、これまで見えなかったことが見えてくる」ということは、思いを伝えたり、伝わったりするために絶対必要なことなんだと思います。自分ではない誰かになりきってみる、という経験は、これまで知らなかった人の心に踏み込んでみることに繋がりますよね。この物語でも、立樹やクラスの子どもたちは、お芝居を通じてお互いの知らなかった部分に気づきます。自由な想像力は、現実を変える力ともなるのです。そのパワーを、さわやかに描きあげた楽しい物語でした。ト書きというあまり子どもたちが目にしない脚本形式を物語の中に交えてあるのですが、とても自然で新鮮な印象になっていて、これはとても苦労されたところではないかと思いました。脚本家でもある吉野さんの手練の賜物ですね。挿絵も『チームふたり』のコンビである宮尾和孝さんで、さすがのチームワークです。

2012年11月刊行

学研教育出版

 

 

大きな音が聞こえるか 坂木司 角川書店

毎日がつまらない。このままオトナになっても、退屈な人生しか待っていないような気がする。「なりたいタイプの大人がいない」のがここ数年来の悩みである主人公の泳。何かに向かって努力する気力もわかず、ただぼんやりしている夏休みが、「ポロロッカ」という目標にロックオンしたとたんに激変します。狭い場所で、言葉をこねくり回して何もかもわかった積りになっていた泳が、自分の身体を使って生きることを確かめていく旅。若い身体は、成功も失敗も、すべてを糧として吸収していきます。その「骨がぎしぎしいうくらい」の成長を、物語として言葉で読む面白さに酔いました。ポロロッカというのは、月の引力が引き起こすアマゾン河の大逆流です。3mもの高さの波が河口から内陸に向かって逆流する。海の波なら消えてしまうものが、一方方向にどこまでも続いていく。サーファーには応えられない波なのかもしれません。主人公の泳は、その波に乗りたいと思うのです。

かったるいけど特に反抗もせず、学校でも空気を読んで本音は言わず、自分の居場所を確保する。最初に展開する友達の二階堂との会話なんか、THE・男子高校生の日常という感じ。この「空気を読む」というのは、日本独自の文化ですよね。お互いぶつからずに物事を進行させるという面においては優れていますが、常に束縛と排除されるかもしれないという恐れをはらみます。皆でぬるま湯にいることをお互いに監視して、抜け駆けを許さない。でも、ポロロッカでサーフィンするという目標を定めてバイトを始めたところから、その「空気を読む」文化から、泳は抜け出していきます。引っ越しのバイトも、まるで外国のような中華料理店のバイトも、お互いの空気を読めるかどうかを判断基準にするような付き合い方では、到底勤まらない職場です。そして、アマゾンという場所に行く手続きを一人でするためには、誰かが空気を読んでくれるのを待っていても何も始まらない。ちゃんと正面から話をし、自分のやりたいことを説明する必要があるのです。このあたりから、学校にいる時の泳と、自分のやりたいことに向かう場所にいる泳に違いが出てくるんですよね。違う世界に触れることで、新しく生まれてくる自分の手触りが、学校の同級生の女の子たちのゆるふわぶりとバイト先のエリという苛烈な女子の対比や、クラスメイトとの諍いを通してうまく描かれています。若いっていうことは、次々と自分の殻を抜け出していけることなんですよね。うらやましいわ、ほんとに(笑)

その脱皮ぶりが、ブラジルに渡ってからすごいことになるんですよ。このあたりからぐんぐん波に乗っていくサーファーそのものの弾けっぷりで、読んでいて面白かったのなんの。いきなり日系人の可愛い女子と・・・という展開になったときは「おいおい、調子に乗りすぎやろ」と爆笑しましたが(笑)強烈な日差しの中での濃い経験は、くっきりと光と影をつくって泳に刻まれます。違う文化や価値観に触れること。大きな自然に身一つで相対してみること。どちらも少年を大人にします。泳は外国人のパーティの船に乗せてもらい、ポロロッカに乗ることになるのですが、何しろ外国人相手に空気をどうのこうのというのは全く無理です。自分の言いたいことをはっきり言わないと、かえってややこしいトラブルを生むことになります。そして、泳はアマゾンの自然から、自分を含めた人間が、最後の最後は、自分の身体ひとつで生まれて死んでいくだけのものであることを教わっていくんですよね。河に落ちる夕焼けの中でぼんやりと自分が死ぬときのことを想像する泳は、身体と心が釣り合って過不足ない幸せの中にいるんだと思います。ただ身体一つで波に乗ることだけを考えてわいわいと過ごす船の上の男たちの、なんて楽しそうなこと。その生き物としての根源的な喜びが爆発するポロロッカのサーフィンのシーンは圧巻で、理屈抜きに楽しかった。

俺なんて、俺の身体以下の存在なんだ。カラダ、えらい。
心なんていらない。オレ、いらない。

このサーフボードの上での泳の叫びは、完全に自らの身体性を取り戻した雄叫びのように聞こえました。旅から帰った泳は、両親が嘆くほど大人になって帰ってきます。でも、そこで子どもっぽいと泳が思っていた父親からかけられるラストシーンの言葉がいいんですよね。目の前にいるよく知っているはずの人間だって、「こんなもん」と思い込んですむ存在じゃない。この父と子の関係も、この物語の面白さの一つでもあります。

これから、泳はとってもモテる男子になるに違いない。いい男になるには、旅だね!と勢い込んで本を閉じたものの、家でぐだぐだしてる息子を見つめて遠い目になる今日この頃。うちの息子たちは、いつ旅に出るのかしら・・・。などという愚痴は置いといて(笑)坂木さんの、若者たちへのエールがきこえてきそうな力作でした。読み応えたっぷりの青春小説です。

 

2012年11月刊行

角川書店

かえでの葉っぱ D・ムラースコーヴァー 関沢明子訳 出久根育絵 理論社

とても美しい絵本です。この何とも美しい絵本に、もっと他に素敵な表現はないかといろいろ考えたんですが、美しいものは美しいんだから、仕方ない。(開き直ってますね)金色で、片方のふちがピンクの大きなかえでの葉っぱが、ふわりと自分の樹から旅立ち、さまざまな場所に自分のその身を置く話です。ムラースコーヴァーさんのとてもシンプルなテキストと、出久根育さんの詩情に満ち溢れた絵が溶け合って、一頁一頁がとてもドラマチック。ツバメと葉っぱが一緒に空を飛んでいる頁なんて、一緒に風を感じてドキドキします。こんな風に空を飛ぶなんて、絶対に私たちは体験できない。でもね、不思議なんですけど、私はどこかにこの記憶を持っているようなんです。少年と山の上で出会うことも。虫を乗せて川を下るのも。無数の星たちを見上げて夜の空を飛んでいくのも。雪の下で、じっと春を待つのも。この絵本の舞台のチェコなんて全く知らないのに、葉っぱの出会う風景が、心がぎゅっとするほど懐かしい。散々旅をして、いっぱい命と出会って、そのあと懐かしい人に火の近くで再会して燃え尽きる。そんなことが、いつか自分にもあったと思うんです。

生まれて、死んで。輝いたり燃え尽きたり、風に吹かれて舞い上がったり、どこかに落ちてそのまま朽ち果てたり・・・きっと、私たちはそんな風に命を繋いで繰り返してきた。その流れが、自分にも、葉っぱにも、少年にも、ムラースコーヴァーさんにも、出久根さんにも、そして私にも流れている。言葉にならない原風景のような記憶が溢れるような、静かだけれどもドラマチックな時間がここにあります。ただただ、その時間に身を浸す寂しさに近いような幸せを感じました。手元に置いて、いつも眺めたい一冊。この絵を原画で見たいものです。どこかで原画展をしてくださらないかしらん・・・。

 

2012年11月刊行

理論社

 

映画 100万回生きたねこ

私は、否定的なことをネットに乗せるのは好きじゃない。せっかく語るのなら、好きなもの、自分が感動したことについて書きたいと思うから。でもなあ・・・今日は辛口です。何故かというと、佐野さんファンとして、とても残念だから。佐野さんという稀有な存在をドキュメンタリーにするのに、あれでは残念すぎて仕方ないと思うのです。

『100万回生きたねこ』を今日kikoさんと見てきた。大好きな佐野さんのドキュメンタリーということで、期待は大きかった。佐野さんはとても大きな人で、ありのままで、何もかもを丸ごと見つめる人。時々、自分が嘘っぽくて空っぽになってると思うと、私は佐野さんの本を読む。すると、内臓がちゃんと自分の中に帰ってきてくれる気がするのである。佐野さんの体はいなくなってしまったけれど、佐野さんとはいつも本を通してしか繋がっていなかったせいもあって、私にとっては永遠の存在だ。でもでも、その最後の日々に、映像を通して触れることができるかもしれないと思うと、私はこの映画がとても楽しみだった。

しかし映画の内容は、期待していたものとは全く違った。まず残念だったのは、佐野さんと、ほかの登場人物たちが、全く有機的な繋がりを持たなかったという点だ。ほんの一瞬佐野さんの肉声が流れただけで、そのあとは延々と「それぞれの生きづらさと向き合う読者たち」が絵本を読み、自らの生きづらさを語る映像が続くのだが、私には、彼女だちの生きづらさと佐野さんの絵本や生き方がどう関わりを持つのか、さっぱりわからなかった。それもそのはず・・・映画に参加した女性たちは、この監督さんの前作の映画を見に来た方たちなのである。佐野さんとも、「100万回生きたねこ」とも、なんの関わりもない。だから、単に自分語りに終わってしまうのである。しかも、その苦しみの描き方というか、映像の演出が、これでもかこれでもかと過剰すぎて、かえって彼女たちの真実が卑小化されてしまってこちらにまっすぐ伝わってこない。「人の苦しみってこんなもんでしょ」という監督さんの思い込みの中に、佐野さんも読者の人たちもすべてを押し込んでしまったようなそんな印象だった。これでは、佐野さんに対しても読者の方たちに対しても失礼ではないのかしらと思う。

 

そして、何よりも残念だったのは、佐野さんという大きな存在に対して、全く切り込んでいないこと。佐野さんという天衣無縫な人を前にしてどうしていいのかわからない、というのはわかる。簡単な物差しでは測れない人だし。だからこそ、佐野さんを自分の理解できる場所に無理やりあてはめるのではなく、「わからない」ということをまっすぐ見つめてぶつかっていくべきだったと思う。簡単な理屈なんかに人間を押し込めては、大きなものが抜け落ちる。映画では、お顔を撮影するのは佐野さん自身が拒否されたということで、肉声だけが流れた。その声の、なんと魅力的なこと。一度も聞いたことがないにも関わらず、「ああ、佐野さんだ!」とすとん、と胸に落ちてくるほど説得力がある。もっと聞かせてよ!と私は歯ぎしりしそうだった。「私ね、もうすぐ死ぬのよ」なんて、あの声で言える人は、そうそういない。佐野さんへのインタビューは、撮影時間にして20時間もあるらしい。もったいない。心底もったいない。それをしっかり編集して、佐野さんのアトリエや自宅の風景とともに見せてくれるだけで十分だったんじゃないか。佐野さんは、佐野さんだ。いつ、どこにいても、死の間際にいても、大きな樹がただそこにあるように100%佐野さんで、私はそんな佐野さんにずっと触れていたかった。猫のように、すりすりしたかった。佐野さんのインタビューだけで、もう一つDVDを作ってくれはらへんかな。アトリエにあった、原画や未公開の絵を、もっと見たかったな。何の小細工もいらない。ただ、そこにいる佐野さんを感じたかった。先日見た『天のしずく』は、監督さんがまったく表に出ずに辰巳さんという「人」を丁寧に見つめ、そこから始まる広がりを見事にとらえていた。ドキュメンタリーは、そうあって欲しい。

残念のあまり、筆が進んでしまいました(汗)でも、監督さんが佐野さんに会いにいかなければ、佐野さんの肉声を聞ける機会はなかったんですよね。うん。そこは、素直に感謝です。もったいないけどね。ほんまに、もったいないけどね・・・(何回いうねん!)

 

サースキの笛がきこえる エロイーズ・マッグロウ 斎藤倫子訳 偕成社

この物語の主人公であるサースキは「とりかえ子」です。妖精が、人間の子どもをさらうかわりに、置いていった子どもが「とりかえ子」。しかも、サースキは妖精の母親と人間の父親との間に生まれた子。つまり、妖精の世界でも居場所がなくて人の世界に送られてきた子なのです。サースキは、妖精であったときの記憶を自分の心の奥底に封じ込め、なぜ自分がこんなに他の人とは違うのかということがわからぬままに苦しみ、悩みます。両親とも、村の人たちとも違う自分。「とりかえ子」という悲しい言葉の響きそのままに苦しむサースキと、彼女を育てる両親の心の痛みを感じながら・・・いつしか、彼女の悲しみと苦しみが、自分の中に潜むいつの日かの自分と響きあっていくのを感じました。

サースキは見かけもやることも、人間の子とは違っています。少しの間もじっとしていられないし、人間ならだれも恐れて近づかない荒れ地が大好き。壁を駆け上がれるほど身軽です。誰に教えてもらわずとも、バグパイプの演奏ができる。そんな彼女は村の子どもたちだけではなく、大人からも冷たいまなざしを向けられます。それは、彼女の両親だって例外ではありません。サースキがほかの子と違うということを、一番よくわかっているのは父と母。そして、サースキが「とりかえ子」であるということを一番先に感じていた祖母のベスです。その不安と戸惑いも、この物語はきちんと描き出します。なかなか分かり合えないサースキと家族の行き違いは、読んでいてとても切ない。サースキは、幼いころにすべてに戸惑い、壁に囲まれているような違和感に固まってばかりいた自分のようだし、サースキの両親は、手探りで悩みながら子育てをしていた自分の姿を見るようなのです。人がどこに、どのような親の元に生れ落ちてくるのか。それは、全く自分には意思決定権がありません。だから・・・行き違うし、誤解しあうし、全く理解しあえないこともあるし、気持ちが通じないことだってたくさんある。親子だから分かり合える、などというのは思い込みや幻想にすぎないのです。でも、その幻想に私たちはとことん振り回されます。この物語の中でも、サースキを理解し、お互いに安らぐ存在になれるのは、赤の他人であるタムという少年だけ。でも、サースキの両親は、サースキを理解できなくても、ただひたすら守ろうとします。災いをもたらすものとして村の大人全員が、サースキをつるし上げようとしても。(この集団心理の描き方は見事です)親って、ほんとはこれだけでいいのかもしれません。その気持ちさえあれば、子どもはそこから生きる力を生み出すことができる。サースキは、そんな両親に少しずつ愛情を感じ、彼らの本当の子を妖精たちから奪い返そうとするのです。その不器用な、ぎこちない愛情が生まれていく様子がなんとも愛しくて仕方ありませんでした。親子であることの苦しみと喜びが、子どもであった、親でもあった(両方とも過去形ではないけれども)私の心に、しみこんでいきました。荒れ野に広がるサースキのバグパイプの音のように。

 

そう、どこにも馴染めないサースキが奏でる音楽だからこそ、響いてくるものがある。彼女が傷だらけになりながら獲得していく感情のひとつひとつの感触が、今更のように胸の底に落ちてくるのです。自分の声が届かない悲しみ。絶望。誰かを大切に思うこと。自分を守ろうとしてくれる愛情を感じること。理解してくれる人と出会う奇跡。レコードの針が小さな溝のくぼみをたどって美しい音楽を奏でるように、サースキの心の震えは、読み手の心の中に埋もれていた柔らかい部分から大きな共振を引き起こします。それは、サースキの心を借りて、また自分自身と向き合うということでもあると思うのです。物語だけが果たすことができる役割が、ここにあります。

 

サースキは、失っていた記憶を取り戻し、自分が自分でいられる場所を探してタムと旅立ちます。悲しい結末ではありますが、私はそこに新しい希望を感じさせるすがすがしさも感じました。ここにカタルシスを感じる子どもたちもたくさんいるのではないでしょうか。生きる悲しみと喜びを見事に浮かび上がらせた物語でした。訳と装丁も、繊細さを伝えて素敵です。このタイトルに惹かれて読んだ自分の勘が、見事に当たった一冊でした。

2012年6月刊行

偕成社

 

ウエストウイング 津村記久子 朝日新聞出版

一昨日だったか、テレビのバラエティで、大阪府民の県民性をえらい誇張してやってました。大阪の男は声がでかいとか、やたらに「くさっ」と言うとか。まるで大阪府民が全員お笑い芸人みたいな取り上げ方で、なんやら片腹痛いなと思ったりしました。そないに、皆がみんな、お笑いに走ってるわけやないですしねえ。まあ、確かに人を楽しませたいとか、大阪人同士の独得の間の取り方とかはありますが、大阪弁は、お笑いだけに特化した言葉やない、当意即妙の距離感の伸び縮みがある言葉やと思ってます。その距離感の伸び縮みというのは、年齢だけやない、「オトナ」であることをわきまえてるのんかどうなんか、という物差しなんやと思うのです。津村さんの小説読んでもろたら、そのへんがわかってもらえるかもなあ、と思った次第です。

年代物の雑居ビルを職場にしているネゴロさんと、フカボリくん。そして、ビル内の塾に通ってきているヒロシという小学生。ビルの物置をそれぞれが休憩所にしている縁で顔も見ずにゆるく繋がっている3人の物語が同時進行します。仕事をきちんとこなす中堅事務職で、それだけにややこしいことを抱えがちな事務職のネゴロさん。真面目でおっちょこちょいで、自ら貧乏くじを引いてみたがるような、可笑しみのある男のフカボリくん。そして、母親にいわれていやいや塾に通ってはきてるんだけれども、全く身が入らずに絵ばかり書いているヒロシ。それぞれの人間関係の円がゆるく重なって、模様を作ります。この大人の世界の中に、ふっとヒロシが上手いこと紛れこんでるとこが、面白い。絵が好きで、多分それで食べていける才能のあるヒロシは、年齢的には子どもやけど精神的にはすっかりオトナです。絵を描く人、写真を撮る人というのは、物事の本質をすっと見抜く目を持っていることが多いんですよね。そこを一目で見抜いてバイトに据えたレンタルロッカー屋の親父はさすがです(笑)オトナ子どものヒロシ、雨の地下道にゴムボート浮かべて乗り入れたりする子どもオトナのフカボリくん、しっかり者でオトナオトナのネゴロさん。その三者三様の描く模様が古いビルのゆるい風景の中で雨に打たれて滲んでいくような独特の風情が読みどころでした。成長戦略とか、グローバルとか、ぴかぴかのオフィスで働いてはるとことは、ちょっと違う、圧倒的大多数の大阪民の匂いです。その匂いがやたらに濃く匂う(文字通り濡れた靴下のかほりまで漂う)大雨に閉じ込められる日のドタバタなんか、お腹抱えて笑いました。

テレビ用の言葉ではなく、日常の中で生きてる大阪弁の微妙なやり取りを、その時の空気感も含めてごく自然に小説に出来る、というのはとても難しいことやと思うんですが、津村さんはそこがとっても上手い。この小説も、ほんまに普通の私らとおんなじような大阪の子(大阪では大人にも「子」を使います。)の毎日―そないにぱっとしたこともなく、地味にひたすら働いて、その割にはお給料安いし、けどこの仕事かていつまでちゃんとあるんやろ、と思いながらなんとか暮らしてる。そんな毎日の中にある、ちっさいけどおっきなこと、ほんまに狭い世界での出来事やけど、うちらにとってはそこが大事やねん、ということが見事に書いてあるなと思います。生きてるってそういうことですよねえ。その大事なことは、大人であれ、子どもであれ、人に指図されて決められたり、わかったような顔で図られたりするようなもんではないんです。ヒロシの通う塾の講師が「こんな所で働く人間になったらダメだ」というような古いビル。そんな一元的な価値観がはびこりかけてる日本ですが、そんなゆるい所にだからこそ生まれる人と人との繋がり、コミュニティがあって、本当はそっちのほうが毎日生きていくには大切なんちゃうかな、と思います。大雨の中で、「あ、あそこ入ろう」と走り込みやすい、すっと何もかも受け入れる余地がある曖昧な場所。そんな場所を、効率や欲得ばかりではなく、ちゃんと確保して大切にしとくのが、ほんまのオトナ社会というもんやんな、と。津村さんの描くあったかい場所を失ったらあかんなと思いながら、この本を読み終えました。

 

2012年11月刊行

朝日新聞出版

 

気仙川 畠山直哉 河出書房新社

3・11から、あと数ヶ月で2年。あの日を忘れまいとする声は、世間的には少しづつ少数派になっていくような気がします。原発推進を唱える自民党が選挙で大勝ちしましたし。でも、3・11がアートや小説として登場し、語られていくのはこれからだと思うのです。あの日に自分が感じたこと、体験したことを発信するには、内的な作業がそれだけ必要だと思うのです。この写真集も、昨年の9月に刊行されたもの。ここに収録された作品を見、震災時に故郷の陸前高田に向かった畠山さんの文章を読んで、繰り返し語られねばならない「あの日」について、また考えることができました。

私は、この写真集のきっかけになった2011年の東京都写真美術館での写真展『畠山直哉展 Natural Stories ナチュラル・ストーリーズ』を見ています。これぞ畠山さんというスケール感の大きな作品たちとは区切られた一角で、この故郷を撮影した作品たちは静かに震災を、在りし日の美しさを語っていました。そして、その写真たちが飾られた一角を、大きな満月の写真が照らしていました。それを見たとき、上手く言えないのですが、ただもう、あるがままに悲しかったのです。震災をめぐるもろもろの動きに対するもやもやした怒りや、自分自身に対する苛立ちや、そんなものとは無関係に、失われた命と風景に対するただひたすらな悲しみがまっすぐ伝わってきて、ぽろぽろと泣けたのを覚えています。

 写真は「あの日」を伝えるものとして、震災後からたくさん目にしました。写真や動画というのは衝撃的な力があります。あの日ー流されていく車や家に「逃げて」と叫ばずにはいられなかった、でも絶対的にその声は届かないという無力感と絶望に日本中の人が苛まれました。映像には有無を言わせぬ圧倒的な説得力があるのです。でも、だからこそ、写真にはコマーシャリズムをはじめとする様々な計算もつきまとう。報道の傍若無人さもあいまって、その頃の私には、映像の毒が回っていたのかもしれません。そんな時に見た畠山さんの写真は、私の中の混乱を解きほぐし、写真本来の力を以て「あの日」を伝えてくれたのです。あれから一年経って再び出会ったこの写真たちを見て、やはり記憶が薄れかけていた私は、畠山さんが何の気なしに撮影していたという在りし日の陸前高田の美しさに改めて衝撃を受けました。何とも色鮮やかなかっての故郷と、灰色に破壊された震災後の風景との落差に改めて愕然としたのです。
畠山さんは日本を代表する写真家の一人です。彼の写真は見るものに真実とは何かを考えさせる力があると思います。この震災前の故郷を撮影した作品は、誰に見せるつもりもなく撮影されたらしいのですが、まるで動き出すかのように鮮やかに美しい。それ故に、一瞬にしてこの風景を失ったあの日を刻みつけているのです。失われたが故に永遠のものとなってしまった写真たち。震災後の気仙川沿いの写真は、有無を言わせぬ圧倒的な力が過ぎ去ったあとの灰色の風景です。これらの写真と共に、言葉としてあの日のことが語られているのは、この写真集がアートではなく、記録としての位置づけであるが故なのでしょう。その生々しい記憶を読むと、畠山さんが、まだあの日のこの場所に、ずっと佇んだままであることが伝わってきます。震災を遠い記憶にしようとしている今の空気と、未だあの日に佇む人たちとの落差。それが、震災前と震災後の風景との落差に重なって見えます。もうすぐ阪神大震災がおこった1月17日もやってきます。今だからこそ、たくさんの人に手にとって欲しい本だと思います。
2012年9月刊行
河出書房新社

インヘリタンス 果てなき旅 ドラゴンライダーbook4 クリストファー・パオリーニ 静山社

前作の『ブリジンガー』から3年あまり。待っていた完結編が刊行されました。上下巻の力作です。ただ人がたくさん死ぬ戦闘ファンタジーは苦手なんですが、この物語は単なる善悪の二元論に止まらず、争いという出来事の中にある人間の複雑さや心情をしっかり描き出しています。手に汗握る展開といい、キャラクターの魅力といい、この分厚さを一気に読ませて圧巻です。

そう、この物語の読みどころは、戦争という特殊な状況の中での、主人公たちの内面の葛藤や弱さが克明に描かれるところだと思います。ドラゴンライダーとして、ガルバトリックスという最強の敵と対峙しなければならない重圧に苦しむエラゴン。寄せ集めの軍隊をまとめて指揮をとるナスアダは強い女性ですが、今回は敵に誘拐され拷問を受けるという苦難に陥ります。そして、魔力も特別な能力も持たずに、自らの知恵と力だけで妻子を守り抜こうと苦闘するローラン。命をかけたぎりぎりの場所でまっすぐ自分の弱さを見つめた時に、もう尽きたと思った場所から新しい力が溢れてくる。そこに大きなドラマがありました。

でもねえ、ほんとにたくさん人が死ぬんですよ。息子たちがやっている「三国無双」を連想するくらい。ちょっとうんざりしかけました。でも、読んでいるうちに、そのあたりの矛盾も、作者は意識して書いてるんじゃないかと思ったんです。敵はばったばったとなぎ倒して死に対する感覚も麻痺するぐらいなのに、自分の身内の死に対しては深い喪失感に苦しむ。戦争の中で、エラゴンの身内に赤ん坊が生まれます。口に障がいを持って生まれたその子を、エラゴンは時間と力を使って必死に治すんです。何百人という人を殺したその手で。でも、本当はなぎ倒される名も無い兵士(実は名も無い兵士なんていないのですが)一人一人に家族があり、大切な人生がある。そこを感覚的に切り捨てる無自覚の怖さと、無自覚に気付いたときの苦しみ。その矛盾と葛藤の中に人は生きている。

それを象徴するのが、エラゴンとガルバトリックスとの最後の戦いと戦後処理の描かれ方です。ネタバレになってしまうので、あまり詳しいことは書きませんが、最後の戦いでは、相手を力でねじ伏せるのではなく、「理解」を求めるところから活路が見いだされる。この迫力溢れるシーンは圧巻でしたが、その戦いで勝利を収め(そこは予定調和だから書いていいよね)英雄になったエラゴンの身の処し方に、ああ、そうなのか、と私はこの物語のテーマが腑に落ちるような気がしたんです。ここも書いてしまうとこれから読む人が面白くないんで、明言は避けますが。エラゴンは、ガルバトリックスが犯した過ちを二度と繰り返さぬために、栄光とは無縁の、厳しい生き方を選ぶのです。そこには、ル=グウインの言うヒロイックファンタジーの本質ー「人が過ちを犯すこと。そして、ほかの人であれ、本人であれ、誰かがその過ちを防いだり、正したりしようと努めて、けれどもその過程で、さらに過ちを犯さずにはいられないこと」を描き出そうとする営みがありました。これを読んだ子どもたちは、ハラハラドキドキしながら、自分自身と語り合い、矛盾も含めた人間という存在に思いを馳せることになると思います。この壮大なファンタジーを締め括りに相応しい爽かなラストも良かった。何はともあれ、最後までこの分厚さにめげずに読み終われてほんとに良かった(笑)

2012年11月刊行 静山社

 

※表紙の画像を入れたいのですがiPadでどうしたらそれができるのかわからない。ああ。。。普通のパソコン欲しい(笑)

映画:『最初の人間』ジャンニ・アメリオ監督

あけましておめでとうございます。皆様、良いお正月をお過ごしでしょうか。私、なんと元旦からパソコンが壊れるというアクシデントに見舞われました。何をやっても立ちあがらない。とうとうリカバリまでしましたが、やっぱり立ち上がらない。仕方なく、本日修理入院となりました。正月休みということもあって、いつ治るかわからないとのこと。がっくりです。従って、しばらくは家族のiPadを使わせてもらうことにしたのですが、これがまあ、慣れないので非常に使いにくい。文章もそこはかとなく電報みたいでぎこちない。読みにくい箇所などございましたら、どうか教えてくださいませ。お願いします。

今日、パソコンを修理に持っていくついでに、息子と映画を見てきました。ジャンニ・アメリオ監督の『最初の人間』です。カミュの自伝的な遺作を映画化した作品で、静かな語り口の中にたくさんの問いかけのある映画でした。祖国アルジェリアに帰郷する有名な作家のコルムリ。独立運動に揺れる祖国のために投げかける彼の言葉は、その時は一部の人にしか届かなかった。映画の中で、恩師に彼が、自分の政治的な立ち位置の苦しみを伝えるシーンがあります。その時、恩師は彼に「小説を」書きなさいという。小説の中にこそ真実がある」と。

この映画の舞台となっているのが50年ほど前。民族や領土をめぐる問題はネットの普及も手伝って、より複雑になっているようにも思います。また、政治的に威勢のいい言葉が、年末には日本でもたくさん飛び交いました。その一方で、静かに核廃絶を訴えて座り込みを続ける方たちがいるのも事実です。今、多数の人に支持されるのは、威勢のいい言葉なのかもしれない。でも、カミュが自らの軸足を非暴力に置き続けたこと。その根底にある母への愛情や、祖国への思いが掘り下げられたこの作品を見て、最後に人の心に残っていくのは、やはりここに、非暴力に軸足を置く人間の言葉なのだと思いました。小説、物語というものはマイノリティな存在だと思います。世界の流れを変えたり、主流になることは決してないのかもしれません。でもカミュのような小説家の物語が流れる時の中で生き残っていてくれることは、とても大切なことであり、もしかしたらぎりぎりの所で私たちが踏みとどまれる最後の力になり得るのでは・・・そんなことを思った年頭でした。

少年時代のコルムリを演じた少年が、聡明な繊細さと芯の強さを見せてとても凛々しかった。彼の魅力もあって、回想の少年時代の映像がとても詩情に溢れていて素敵でした。そして主人公のコムルリのジャック・ガンブランが個人的にとても好みでした。手の表情が良かったなあ。静かに座っているだけでコムルリの、カミュの背負うものの重みを感じさせるんですよ。パソコンが壊れてしまったのは残念ですが、お正月からいい映画を見て、今年もこつこつやっていこうとおもえたのはとても良かったと思います。今年もどうかよろしくお願いいたします。