なめらかで熱くて甘苦しくて 川上弘美 新潮社

性をテーマにした短編の連作です。タイトルが、ちょっと怖いもんですから、ちょっと身構えました。女の性(さが)を自分のカラダで確かめました系のめくるめく愛欲の世界・・・なんていうのは、もはや読むのがめんどくさいんですよ。でも、川上さんだから、そんなことあるはずもなく。久しぶりにずっしりと読み応えのある川上さんの濃密な言葉の世界でした。

「aqua」「terra」「aer」「ignis」「mundus」という五つの短編が並んでいます。少女時代から時系列に並べられている形なんですが、川上さんなので、そんなに簡単に読み解けるしろものではありません。(うふふ・・・しろもの。「aer」に出てくるこの言葉が頭を離れない)実験的に表現形式も温度も視点も変えて紡がれる小説たちが、この一冊の中でぐるぐると生と死を繰り返しているようなのです。ことに面白くなってくるのが、「aer」から後の3編。ここに「しろもの」が出てくるんですよ。しろもの、とは、赤ん坊のことです。あの妊娠・出産期という、自分が自分でなくなってしまう時間の中に流れていた濃密なもの。そう、自分も「どうぶつ」だったなあ、と。そして、あの頃にさんざん翻弄されていた赤ん坊を「しろもの」と言ってしまう川上さんの言語感覚に、強烈なカタルシスを感じてしまう。だって、あの頃私は「どうぶつ」だったのだから、自分が体の奥底に抱えていた充足と恐怖をこんな風に言葉にすることは出来なかったもの。言葉にならないことを言語化するという営みは、私たちを普遍に連れていきます。一人の少女から生まれた「性」は、たった一人で死んでいく女のつぶやきも、しろものを産んでしまって右往左往する母親の戸惑いも、女とは全く違う男という生き物との果てしない距離も、すべてを連れて旅し、どこか知らない混沌に帰っていくのです。川上さんの言葉は、「言葉」という抽象でありながら、肉体を伴って、そのまま滅びていく手ごたえがある。それがとても不思議で、魅了されます。

伊勢物語と浄瑠璃の道行をかけあわせたような「igunis」が特に面白かった。道行、というよりはお遍路さんの歩く道のイメージに近いかな。苦行のような、諦めのような(笑)もしかしたら、今の私が、この短編のどんぴしゃな年齢なのかもしれないんですが。ラストの「mundus」は、詩と散文の間を揺れ動くような、密度の濃い一篇。何度読み返しても、夥しく語られる「それ」の正体が頭の中で伸びたり縮んだり、膨れ上がったりして眩暈がします。「それ」はどこからかやってきて、どこかに去っていく私たちに刻印されている夥しい記憶なのかも。段々「それ」が何か、何て考えることもやめて、川上さんの紡ぐ言葉の川に身をゆだねて流されるままに流されました。その川は「なめらかで熱くて甘苦しくて」、どうやらたどりつくのは彼岸らしいとわかっても、そのまま流されたくなります。うん。ずーっとこうして「性」に流されてきたなあと。最後の最後でまたしても川上さんにやられた、と思う、そんな一冊でした。

2013年2月刊行

新潮社

 

 

天山の巫女ソニン 江南外伝 海竜の子 菅野雪虫 講談社

大好きなこのシリーズの外伝を読めるのはとっても嬉しい。しかも主人公は男前の花王子、クワンです。彼が華やかな見かけの中に抱えているものが深く掘り下げられていて、ファンにはとても嬉しい一冊です。「人の90%は目に見えない。 人間というものはもっと見えているつもりなのかもしれないけれど、 10%しか見えていないの。」この物語を読みながら、今月の19日に亡くなったカニグズバーグの「ムーンレディの記憶」の一節を思い出しました。

巨山の王女であるイェラの外伝を読んだ時にも思ったのですが、王子や王女に生まれるということは、大きな渦の中に生まれ落ちるようなものなんですよね。権力とか富とか、欲望とか思惑とか、ありとあらゆるものに翻弄される。クワンは、自分の出自も知らないまま、実力者の叔父に守られた少年時代を過ごします。しかし、故郷の湾が毒で汚染されてしまった事件をきっかけに、叔父も母も、故郷も失って、妹と二人きりで放り出されてしまうことになってしまうのです。あまり深くものごとを考えない性質だったクワンには、それが何故だか初めは全くわからない。しかし、慣れない宮廷で苦労し、王妃の命で危険な任務にかり出されているうちに、少しずつ霧が晴れるようにいろんなことが見えてくるのです。叔父が自分を湾の外に出さなかったこと。あまりにも不自然な事件の起こり方と、湾を封鎖するという後処理の厳しさ。その裏に何があるのか。でも、見えたところで、クワンには何も出来ないという現実が襲いかかります。あまりにも大きく複雑に絡み合う権力に、まだ若いクワンとセオは屈服せざるを得ないのです。この物語の中でクワンのたどる苦すぎる道のりは、読み手が生きている「今」を物語の光で照らしだしてくれる力があります。読みながら、私もいろんなことを考えました。

私たちは、王子でも王女でもないけれど、時代や生まれた国の事情に深く織り込まれている存在であることは同じです。その混沌とした営みの中に生きていくことは、いつの時代も簡単なことではありません。いきなり生まれ故郷が封鎖され、放り出されてしまう・・・そのクワンたちの姿は、そのまま明日私たちの身の上にふりかかることかもしれない。あの震災で起こった原発事故も、単なる不幸な事故ではなく―その裏には巨大企業の利権や、危機管理の甘さ、原発推進に励んできた国の政策や、もっとたどれば原爆投下のアメリカの思惑と、複雑な歴史と国の在り方の果てに起こったことです。でも、私も含めて、日本人は、深くその危険を考えることもしなかった。しかも、その危険が露呈してしまった今でも、この国の舵は、また原発推進に大きく切られようとしています。その裏に何があるのか。私たちは、見据えなければならない。クワンとセオが絶望の中から再び歩き出したように。

菅野さんの物語は、いつも自分の目で観察し、目に見えないものを見据えて自分の頭で考えていくことが一つのテーマとして流れています。私たちはちっぽけな存在でしかないけれど。何の権力も持たない、毎日を生活のために必死に働いて生きている、そんな人生だけれど。自分の目で見て、誰かの言うことを鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考えること。皆が一斉に「そうだ」ということが、ほんとうに正しいのかをしっかり見据えること。そんな「個」が声をあげていくことが、地味だけれども危険な一元化に流れていこうとするものを押しとどめる唯一の力であるような気がします。・・・何て偉そうなことを言いながら、職場の「?」なこともなかなか変えられなかったりする微力すぎる自分でもあったりするんですが。ほんと、うろうろしてるありんこみたいだなーと、しみじみ思う(汗)でも、どんなに絶望しても妹のリアンを守り通したクワンのように。果てしなく困難な道と知りながら、クワンを王にするべく歩き出したセオのように。自分の大切なものを守り、自分の頭で考えることを死ぬまでやめないでおきたいと思います。

これからの時代は、グローバル、などという国家をも超えた新しい理不尽が荒れ狂う時代になるような予感がします。その中で、物語が問いかけるもの、たった一つの命が語る心の声は、ますます大切になるんじゃないかと思うのです。菅野さんの物語が語りかける声をもっと聞きたい。また、ソニンのシリーズを一から読みたくなりました。昨日届いた本2冊も、まだ封を開けていないのに、どうしたらええのん・・・(知らんがな!)

2013年2月刊行

講談社

嵐にいななく L・S・マシューズ 三辺律子訳 小学館

この物語、冒頭からとてもドキドキします。嵐の夜、お母さんと二人きりで暮らすジャックの家を洪水が襲います。あっという間にあがってくる水の中、ボートで漂う二人・・。思わず3.11を思い出してしまうのですが、その後の展開は津波の話ではありません。でも、この不気味に襲ってくる水のような不安は、この物語の中にずっと漂うことになります。上手いなあ・・・と引きずり込まれるうちに、この物語が近未来のような複雑な設定になっていることに気付くのです。ひたひたと迫る暗い水のような時代の不安。その中で少年が自分の手で掴む、信頼という黄金がきらきらと泥の中から現れる。その鮮やかさに思わず涙してしまう物語でした。

村を襲った洪水から逃れ、新しい町に引っ越ししたジャック。そこで彼は、一匹の傷ついた馬・バンに出会う。バンは、人間とトラブルを起こしたせいで、もうすぐ殺されてしまうという。思わずバンを飼うことにしたジャックだが、動物をペットとして飼うことは許されていない。馬なら、運送に使うという目的でしか飼育できないのだ。一度も馬と過ごしたことがないジャック。でも、両親と隣に住むマイケルの力を借りて、何とかバンに荷を引かせる訓練を始める・・・。

主人公のジャックは、あまり自分に自信を持てていない男の子なのです。度重なる父親の転勤で、まとまって学校に通えず、読み書きが遅れがち。しかも引っ込み思案な彼は、友だちも作りにくい。読みながら、私は、そんなジャックの不安が、そのまま自分の中の不安と繋がっていくのを感じていました。ジャックの生きる世界は、私たちの社会の不安が、そのまま膨れ上がっているような世界なのです。先進技術がありながら、エネルギーが足りない。動物も自由に飼えない。戦争が絶え間なく続き、気候も不順で雨季と乾季を繰り返す。そして、どうやら教育もお金の有無で格差が広がっているらしい。いろんなことを考えれば考えるほど、まるで窒息しそうな息苦しい世界。でも、ジャックは引っ越してきた町で、バンに出会ったのです。躍動する命、温かい体とまっすぐな眼差しを持った美しい馬が、ジャックの内に眠っている力を呼び覚ましていくのです。その毎日の手ごたえが、とても瑞々しく描かれます。「ぼくはこうやってここに、馬といることで、とても満たされた気持ちになる」というジャックの気持ちが、私はとてもよくわかります。嘘偽りなく生きている動物がくれる愛情と信頼ほど、胸にまっすぐ沁み込むものはないですから。バンのいななきが、温かい体が、ジャックの視界に一筋の光を連れてくるのが見えるようでした。

そして、もう一つ大切なのが、隣に住むマイケルとの関係です。このマイケルの描き方がねえ、それはもう上手いというか、何というか。この物語は、ジャックの視点からの部分と、マイケルが日記として書いた部分とが交錯して進みます。マイケルはジャックに自分の日記を書き写すことを勧めて読み書きの手ほどきをするのです。読み手は、ジャックとともに、マイケルの日記から、彼の人となりを想像しながら読み進めていくのですが、いい意味で、その想像を最後の最後で裏切られることになるのです。このどんでん返しが、何とも鮮やかで、「やられた」と思いながら涙が溢れて、もう一度この物語を初めから読み返したくなること請け合いです。マイケルがジャックに与える優しさと希望が、読み返すたびに胸に沁み込んでいくのです。

作者のマシューズさんは、読み手の想像力を刺激することに長けた方です。以前読んだ『フイッシュ』も、とても不思議な味わいの物語でした。読み手の視点によって、プリズムのように様々に色を変えるような、そんなお話なのです。この物語も、そんな仕掛けがいっぱいです。ジャックの世界は、どうしてこんな風になってしまったのだろう?犬や猫が全く出てこないけれど、ペットが許されない時代で、彼らはどうしているのか。・・・そんなことを考えてしまう。ジャックの世界も、私たちの世界も、簡単に答えの出るようなことばかりではありません。簡単に見せかけていることほど、裏にややこしい、どす黒いものを秘めていたりする。情報が溢れるほど押し寄せるこの時代に、子どもたちは一人でこぎ出していかねばならないのです。その中で生き抜く、お仕着せではない知性、本当の知恵とは何かを、この物語は考えさせます。そして、どんな時代であっても、自分の手で繋ぐ信頼こそが、人の背中を押してくれるということを教えてくれるのです。彼らの信頼という黄金は、バンを、ジャックを、マイケルを、嵐になぎ倒されてしまいそうになった村の人たちも救っていくのです。訳された三辺さんもおっしゃっていますが、この最後の驚きを、ジャックとバンとマイケルが成し遂げた奇跡を、どうか味わってみて頂きたいと思います。

2013年3月刊行

小学館

 

 

双頭の船 池澤夏樹 新潮社

昨日、関西では久々に震度6の地震がありました。私の住んでいるところでは、震度4くらい。阪神淡路大震災以来の久々の長い揺れでした。時間帯が同じくらいだったのも手伝って、あの記憶が一気によみがえりました。何年経っても、恐怖の記憶というのは体と心の奥底に潜んでいて無くなりはしないのだと、しみじみ実感し・・・東北の方々が延々と続く余震の中で、どんな気持ちで毎日を送ってらしたのかを改めて思いました。

この物語は、3.11をテーマにした連作です。あれから2年と少し経ちました。3.11については夥しい数のドキュメントや資料があります。ツイッターやブログというネット発信を含めると、それはそれは膨大な量になるはず。でも、3.11が物語として語られるのは、これから何だと思うのです。なぜ物語として語られなければならないのか。それは、物語が記録では見えないものを語るものだから。私たちが失ったもの。あの日からずっと心の中に鳴り響く声。闇から吹き上げる風、苦しみの中から見上げた空の色・・・それらをもう一度手繰り寄せて、失ったものを失ったままにしないために、心に深く刻んでいく営みが、「物語として語る」という行為です。そして、池澤さんのこの物語は、その出発点のような役割を果たすものなのかもしれないと思うのです。

この「双頭の船」は寓意的な手法を使って描かれています。物語を経るごとに大きく膨れ上がっていく船。200人のボランティアが舞台の上の書き割りのようにどっと移動し、甲板の上には瞬く間に240戸の仮設住宅が立ち並ぶ。そこには生きている人と、あの日にいなくなってしまった死者たちが同時に存在し、オオカミたちが命のオーラを放ちながら徘徊し、傷ついた犬や猫たちがつかの間の休息ののちに、あの世に旅立っていく。私は物語をたどりながら、なぜ池澤さんが、この物語の舞台を「双頭の船」にしたのか考えていました。この船のイメージは、間違いなくノアの箱舟でしょう。大昔に押し寄せた洪水の記憶が、人々の集まりの中で、もしくは子どもたちに語る枕辺で何度も何度も繰り返されて一つの共通の記憶となっていく。神話には、民族の心を同じ記憶に重ね、共有していくという無意識の意志が働いているはず。それは物語というものの在り方の原点だと思います。

「小説にもまた同じような機能がそなわっている。心の痛みや悲しみは個人的な、孤立したものではあるけれども、同時にまたもっと深いところで誰かと担いあえるものであり、共通の広い風景の中にそっと組み込んでいけるものなのだ」 (※)

これは、村上春樹氏の言葉ですが。物語は、たった一つの心に寄り添うもの。この世でたった一つだけの命に向き合おうとするものです。たとえば、去年レビューを書いた朽木祥さんの「八月の光」のように。「八月の光」はヒロシマの原爆をテーマにした物語です。それは、忘れ去られようとする「個」を徹底的に描くことで普遍へと繋げようとする、真摯な営みでした。鮮烈な記憶が時を超えて立ち上がります。それに対してこの「双頭の船」は、寓意的な手法を使って描かれています。登場人物たちも、どこかひょっこりひょうたん島の登場人物のように、実在の人物というよりは、キャラクターのような感じです。これは―私が勝手に思うことなんですが。3.11の東日本大震災を語る営みは、まだ始まったばかりです。「個」にリアルに向き合う物語を、今東北の方々が読むのは、きっと辛すぎる。だからこそ、ノアの箱舟という心になじみ深い神話を重ねることで、池澤さんは何とか道を開き、3.11を物語として語る回路をここから開こうとされたのではないか。この物語は、神話という原始的な物語の力を借りて、「個」に向かおうとした、営みなのではないか。そう思うのです。圧倒的な力になぎ倒されたたくさんの心たち、この世界から旅立ってしまった命に、何とかして寄り添おうとする営み。残されたものの痛みを共に感じ、分け合っていこうとする切なる願い。

平らになった地面はまるで神話の舞台のように見えたけれど、そこではまだどんな神話も生まれていない。この空っぽの場所の至るところに草の種みたいな神話の種が埋まっているのが見える気がした。(本分より)

何とかして希望の種を、あの空っぽになってしまった海辺に播こうとする、作家としての真摯な挑戦を、私はこの物語から感じました。だから、この「双頭の船」は、過去と未来を繋ぐもの、何度も何度もなぎ倒されながらもここまで歩いてきた過去と、これからを生きていこうとする未来を行き来しながら希望を運ぼうとする、私たち人間の営みという大きな流れを旅する船なのだと思うのです。神話と土の匂い。心の奥深いところから様々なシンボルが立ち上がり、トーテムポールのように各々の物語を語る。その声の語り部になってしまったような池澤さんの筆が冴える一冊でした。

※「おおきなかぶ、むずかしいアボガド 村上ラヂオ2」 村上春樹 大橋歩画 マガジンハウス 

[映画】ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの

この映画を楽しみにしていたのに、背中痛に阻まれて、なかなか電車にも乗れず・・・でも、今日は絶対!と勢いこんで出かけたものの、寒いわ、梅田のホームで失礼な男にむこうずねを蹴られるわ、グランフロントのビル風が物凄いわ、地下道が臭いわ(文句多すぎ)で少々へこみながらガーデンシネマにたどり着いたのです。でもでも。この映画を見て、季節外れの寒気に凍えた気持ちがすっかり持ち直して暖かくなりました。

この映画は、ハーバート・ヴォーゲルとドロシー・ヴォーゲルという夫婦のアートコレクターのドキュメンタリーです。ハーバートは郵便局員、ドロシーは図書館司書。特にお金持ちでもない二人は、大の美術好きで、お給料で買える現代アートを40年間1DKのアパートに集め続けました。その数およそ4000点。彼らはコレクションをワシントンのナショナル・ギャラリーに寄贈することにします。でも、ナショナルギャラリーだけでは、彼らのコレクションを展示しきれない。そこで、50×50プロジェクト、全米の美術館に50作品ずつコレクションを寄贈するというプロジェクトが始まったのです。この映画は、その様子と、各美術館を巡るハーブとドロシーの姿を追ったドキュメンタリーです。

このお二人が、とってもキュートなんですよ。彼らがアートを集めたのは、お金のためじゃありません。ただ「好きだから」。1DKのアパートは、もう壮観と言っていいほどアート、アート、アート・・・その間に猫と水槽。それだけしかない。ある美術館は、その部屋を再現してコレクションを展示していました。わかるなあ。作品と資料と猫に埋もれたその部屋は、二人で築いたど迫力の芸術作品そのものです。「コレクションの根底にあるのは、アートに全力を注ぐという行為」(by リチャード・タトル)であり、芸術に捧げた愛の証なんですもんね。僭越ながら・・・その徹底したアート馬鹿っぷりといい、猫好きといい、(アートと文芸というジャンルは違えども)芸術にとり憑かれた(笑)人生を送った先輩として、その生き方に心から共感してしまいました。

彼らのコレクション魂。よーくわかります。私も、読み切れないほど家に本があっても、とにかく本を買ってしまう。好きな本を手に入れるのは、多次元の宇宙を手に入れるようなものです。そこから広がる新しい世界を自分の本だなに並べる楽しさ。別に誰に褒めてもらわなくても、それが何にも利益を産まなくてもよいのです。コレクションし、その作品に対する愛情を語っていたいのです。私だって、なんでこんなレビューを日々書いているのかと言われれば、ほんとに、ただ「好き」だから。本や映画を愛していて、その話をしていたいからなのです。私が書いたレビューは、ここに越してくる前の「おいしい本箱Diary」に2000本ほど(多分。ちゃんと数えたことがない・爆)、まだこちらは100本に満たないので、彼らの数にはまだまだ及びませんが、多分その根底にある気持ちは一緒なんやろなあと思うのです。ハーブはたくさんの芸術家と親交があり、常に芸術の話ばかりしていたらしい。顔を合わせれば95%アートの話。はい、その通り(笑)。私も、本を愛しているお仲間さんにお会いすると、ひたすら本の話で終わります。そこも一緒。

芸術というものは、発信する人と、受け取る人と、二種類の人間があって成り立ちます。彼らは徹底的に受け取ることで、アートを支え、作家たちを応援してきた。彼らに愛され、評価されることで支えられたアーティストたちが、この映画には何人も登場していました。二人が買い続けてきたのは、既に評価の定まっている、たとえばサザビーズでオークションにかけられるような作家の作品ではなく、現在進行形で「今」を歩いている作家たちだった。二人は、彼らと現代アートの最先端を作っていったんですよね。それは、ハーブとドロシーが、お金や名声ではなく、芸術を生み出し、発信する作家たちの魂に最大の愛と敬意をささげていた証です。普通の暮らしをしていた二人が、こつこつと、ひたすらにその愛情を積み上げていった結果として、非凡な一大コレクションを成し遂げた、というところに、たまらないカタルシスを感じます。私も、こつこつと、書き続けよう。お二人のような偉業は無理だろうけれど、私もハーブとドロシーがアートを愛するように本を愛してるから。猫好きも同じだし(笑)―と、行きに凹んだ気持ちがすっかり膨らんで帰ってきました。寄付を募って資金を集め、苦労してこの映画を作られたのは、日本の佐々木芽生さんという監督さんです。それも、とても嬉しくて誇らしかった。どうせなら、こんな人生を送りたい。ほんとに素敵な映画でした。アート好きな方、必見です。

火山のふもとで 松家仁之 新潮社

去年遊びに行った金沢の21世紀美術館での体験が忘れ難く、時々建築の本などを覗いてみたりします。21世紀美術館を作ったのは妹島和世さんと西沢立衛さんという二人の建築家ユニット「SANAA」。先日特集番組も見たのですが、軽やかで光溢れる建築の数々に魅了されました。建築というのは非常に求心力がありまよね。素晴らしい建築が一つあるだけで、その町の風景や雰囲気を変えてしまう。人が、その場所を目指してやってくる。そういう「場」を作ってしまうドラマチックな力があります。この物語も、建築と人が作る「場」を語ります。この物語を読んでいる間中、浅間山を望む北軽井沢の自然と、「夏の家」が織りなす空気の中にいることが、とても心地よくて幸せでした。

物語は、主人公の僕が、「村井設計事務所」に入所して初めて「夏の家」という山荘で過ごす日々が描かれます。所長の村井俊輔は、フランク・ロイド・ライトに師事し、端正で美しい建築を生みだす、知る人ぞ知る高名な建築家。夏には、北軽井沢の山荘で仕事するのが、この事務所の恒例です。高齢の村井所長を中心に、個性豊かな人たちが共同生活を送りながら設計に取り組んでいく毎日が描かれます。これがもう、「美」を生み出すに相応しい、素晴らしい場所なんですよ。程よい緊張と自然との一体感がもたらす安らぎと、文化を育んできた歴史が、静かに結実しているような、みっちりと生きる手ごたえを感じる「ぼく」の日々。もう、うらやましいの一言です。村井氏は、木を使った非常に繊細なディテールを持つ建築を生み出す人として描かれています。その建築に対する姿勢は、そのまま、この物語の作者である松家氏の思想でもあるのでしょう。「細部と全体は同時に成り立っていくんだ」という言葉通り、ありとあらゆる細部に神経が行き届き、それらが見事な調和を見せる物語でした。だから、どこを読んでいても気持ちが好い。松家氏の美意識の鋭さと繊細さが、「ぼく」の眼差しの初々しさと重なって、もう二度と帰らない夏の想い出を煌めかせます。

そう、この夏は二度と帰ってこない「ぼく」にとって忘れられない夏なんですよね。この「夏の家」の日々は、初めから僅かな滅びの影を纏っています。急ぐように熱を帯びるコンペの準備や、村井氏が語る言葉のひとつひとつに、ある予感が孕んでいる。どんなに優れた才能と頭脳の持ち主でも、貴重な、積み上げた経験とともに滅びる日が必ずやってくる。人も、必ず朽ちていくものなのだけれど、どう生きるか、という志を持った美意識は、心から心に伝わっていくものなのです。それを残していくのが建築であり、物語なのだと、そう思います。人生にこぎ出したばかりの「ぼく」の若さ、生命力と、最後に燃えあがろうとする老建築家の気概が重なり合って、清冽な「場」を生み出す。どっしりと変わらぬ浅間山を背景に、より良く生きようとする人たちのコミュニティの在り方に深く共感できる物語でした。

ここからは、この物語を読んで私が考えたことなんですが。日本人の仕事の理想的な在り方は、こういうところにあるんじゃないかと思うんですよ。繊細な美意識と手仕事。自然との調和。各々の長所を生かした共同作業。緻密な手触りのディティールが生み出す心地よさと清冽な佇まい。冒頭に書いた「SANAA」の仕事も、日本の伝統的な建築の在り方を受け継ぐ美意識が、海外の人に高く評価されているそうだし。世界市場と渡り合う競争力、なんていいますが、それは果たしてTOEFLで何点取る、なんていうところから生み出されるものなのかどうか、はなはだ疑問です。日本人にしか生み出せないものは、何なのか。もちろん語学は出来るに越したことはないけれど、それ以前にやるべきことがたくさんあるんじゃないか。繊細な美意識や手仕事を伝え、継承し、磨き上げていくためには、やはりそれを言い表す日本語の語彙や表現能力が必要です。外国にない、日本人にしかない感性は、やはり美しい日本語があってこそのものだと思うのです。今、それがあまりにもないがしろにされすぎなんじゃないか。この物語の中の、お互いの建築理論を語り合う言葉の豊富さを読むにつけ、優れた仕事と言葉の結びつきの重要さを感じます。感性と思想を伝える「自分の言葉」を持つことは、やはり優れた母国語の感性あってのものではないか。そう思うのです。松家氏は、長年新潮社で優れた文学の仕事をされてきた人。その方が今、この小説を書かれた思いに、そっと心重ねてみたくなる、そんな物語でした。

2012年9月刊行

新潮社

 

 

ペーパータウン ジョン・グリーン 金原瑞人訳 岩波書店スタンプブックズ

岩波が出す新しいYAシリーズの一冊です。装丁がとてもいい。ペーパーバックのような、軽くてすっきりしたデザインに、表紙のこっちを向いている女の子がとても印象的です。そう、中身も印象的な場面がとてもたくさんある物語なのです。冒頭の幼い主人公のQと隣に住む幼馴染のマーゴが公園で死体を発見するシーン。誰もいない夜中に、高層ビルの窓から二人が見るジェイソンパークの光景。マーゴがいたかもしれない廃屋の破れた天井から、覗いている夜空。テンポのいい物語の割れ目から、時おり瞬くようにこぼれてくる繊細さがとても魅力的です。

Qは日本で言うような草食系男子。両親の愛情に包まれて育った真面目な男の子です。一方、隣に住むマーゴは学校中の伝説を一手に引き受けるような、クールで魅力的な女の子。卒業を間近に控えたある夜、マーゴはQを一夜限りの冒険に引っ張り出します。ムカツくやつにスカッとするようないたずらを仕掛け、シーワールドや高層ビルに不法侵入する、無敵の夜。でも、その夜を最後にマーゴは学校から、隣の家から姿を消してしまうのです。そこから、Qのマーゴを探す日々が始まります。Qだけに残された、マーゴからの暗号を読み解き、マーゴが身を潜めていた廃屋で夜を過ごす。プロム(卒業パーティー)という一大イベントに浮かれる同級生たちの中で、一人マーゴのことばかりを考えて過ごすQの日々。しかし、マーゴはどこに行ってしまったのか、まったく見当がつかない・・・。

奔放な女子に翻弄される気弱な男子、というのは日本のラノベでも典型的なお決まりパターンです。ツンデレは男子の永遠の憧れ。Qも、密かにそれを期待していた気配です。何しろ、マーゴは最後の夜の冒険に、自分を選んでくれたのだから。傷ついていなくなったマーゴを探し出し、彼女が涙を流しながら「ありがとう」と抱きついていて、ハッピーエンド、なんて、甘い夢。でも、マーゴの足跡を探しているうちに、Qはマーゴが自分の思い描いていた彼女とは違う女の子だと気が付いていくのです。マーゴがいた場所は、孤独と荒廃の気配ばかりが漂って、どうしてもQに「死」を連想させる。Qはいなくなったマーゴと向き合い、彼女が残していったホイットマンの詩を読み解こうとします。

このQくんが、本当に必死にマーゴを探すんです。こんなに他人と、生身の、自分以外の誰かと真剣に向き合い、理解しようとしたことが、私には無かったかもしれない。難解でわかりにくい詩に分け入るように。マーゴという少女の心になんとかにじり寄っていこうとするQの心の旅は、すなわち自分自身への旅でもあるんですね。学校でマーゴが見せていた顔とは違う孤独や悲しみを見つけることで、Qは、未知の自分をも発見していきます。カウンセラーである両親が、わかりやすく読み解いてくれる自分とは違う自分が心の中に眠っていること。簡単に嘘をつける自分がいること。卒業式をサボる、なんていうことが出来る自分だっている。自分の青春時代を思い返すと、若いころって、世間の何もかもを簡単に「こうだ」と決めつけることが多かった。「そんなもんだよね」と割り切ることが大人になることと誤解していた節があります。でも、ステレオタイプに「こんなやつ」と自分や他人を区分けすることは、自分の心に負荷はかからないけれど、その分大切なことを見失いがちなんです。だから、こんな風に、目に見えない人の心のうちを想像し、心重ねてみること。そして、そこから帰ってくる自分だけの意味を読み解いていく経験は、人と理解しあって生きようとする人生への、出発点でもあるわけです。

だれかの身になって想像するのも、世界をほかのなにかに置き換えるのも、わかりあう唯一の方法なんだ。

でも、その想像がそのまま相手への理解につながるとは限りません。Qが心の中で見つけた、と思っていたマーゴは、苦労の挙句にやっと見つけた実物のマーゴに、あっと言う間に否定されてしまいます。でも、それでいいのです。誰かの心を完全に理解することなんてできない。自分の心だって、簡単に探りきれるものではないのです。だからこそ、想像したり、理解しようとしたりする、お互いに伸ばしあう手だけが、信頼を繋ぐものになる。自分を知ろうとする旅も、一生続いていくのです。・・・って、わかったようなことを言ってますが、私も若い頃から、おんなじことばっかり繰り返してるような気がしてなりません(汗)ああ、また、やっちゃったよ、と思うんですけど、また同じパターンにはまったりして・・。つい最近も、自分が長年強く思いこんで、人にも吹聴していたことが「そうじゃない」とわかって、びっくりしたところです。しばらく、穴があったら入りたい状態になってました。だから、この物語の最後のQくんの心情が身に沁みる(笑)この岩波のシリーズは刊行されたら必ず読んでみようと思います。

 

2013年1月刊行

岩波書店

 

 

 

魔道師の月 乾石智子 東京創元社

私たちは「今」を俯瞰することはできない。いや、俯瞰しようとはしない、と言うべきかも。例えば私が今パソコンのキーを叩いている、この光景も、本当はありとあらゆる過去の積み重ねの上にあるものなんですよね。無造作に積んでいる本の一冊一冊、テーブルの下に敷いてあるラグから電話、壁にかかっている時計ひとつにしたって、発明と工夫と、それを使い続けてきた人たちの歴史があり、精神と物語がある。いわば、この瞬間、私たちが命を刻んでいる「今」は、同時に膨大な時間と空間の広がりを孕んだ宇宙の物語そのものなのだ。―なんてことを書くと、「大げさやな~」「この人、大風呂敷広げてはるわ」という字面になってしまうのだけれど、この物語を読むと、この私のやたらにハイテンションな物言いを幻視化させてくれる言葉の魔法に、目をみはることになるはずです。これは、文学だけが叶える魔法。奔流のように展開していくこのイメージを映像でもゲームでも具現化するのは無理かと思います。

『夜の写本師』に続く乾石さんの2作目のファンタジー。舞台は一作目より前の時代に始まりますが、物語は歌とタペストリーに導かれ、過去に、別の生命体へと旅して複雑な展開を見せます。主人公になるのは、キアルスとレイサンダーという二人の魔道師。レイサンダーは次期皇帝のガザウスに可愛がられていたが、ある日ガザウスに献上された「暗樹」という漆黒の円筒に、恐ろしい邪悪さを感じて逃げ出してしまう。一方、キアルスは、前作でアンジストに殺されてしまった少女を救えなかったことにヤケを起こして、大切な「タージの歌謡集」を燃やしてしまう。しかし、その歌謡集こそが、「暗樹」という根源的な悪意の塊に対抗するものなのだった・・・。

この「暗樹」という存在が、この物語の芯です。太古の闇、人が必ず持つ暗黒。邪悪を導き、破滅を喜ぶもの。この「暗樹」の姿が、非常に気味悪い。うっすらと目をあけるところなんか、背筋がぞくりとします。このイメージの具現化力が、乾石さんはとても高いんですよね。初めて読む物語なのに、こういう邪悪さの姿をいつか見たことがあるような気さえしてきます。キアルスは、失われた歌を求めてティバドールという別の男の人生を夢の中で生きる。そして、レイサンダーは、『クロニクル千古の闇』の生き霊わたりのように、人以外の生き物の命をわたり歩いて、闇を遠ざける力を探し続ける。しかし、どうやら、その暗樹を滅ぼすことは出来ないらしい。出来るのは、自らの命と引き換えに共に闇に沈むことのみ。この二人がどうなるのか、最後まで物語は息もつかせません。物語の密度が濃いんですよねえ。矢継ぎ早に繰り出される展開に翻弄されながら、物語は冒頭で述べたように過去と今を結んで大きな命や時の循環の中に、激しく光る一点を結びます。このあたりのダイナミックな展開は、ぜひ読んで頂きたいところ。まさに物語のうちに千夜を過ごす喜びを感じることが出来ます。

ここから少々ネタばれ。

人の中に潜む暗闇は、滅ぼすことは出来ない。また、暗闇を嘆くだけでは何も出来ない。たとえ心に暗闇を持とうとも、「善意と愛と美をめでる心」を持ち続けていれば、暗闇に喰われてしまうことはない。長い長い闘いを経たあとにもたらされる、この物語のメッセージは、とても共感できるものでした。物語の中で、キアルスが可愛がっていたエブンという少年が、書きかけの歌謡集を火から守って死んでしまうのです。私がこの物語で一番心に残ったのは、彼の死と、エブンを抱きしめて嘆くキアルスの悲しみでした。邪悪さは、大きな暴力で人の運命にのしかかるけれど、私たちがそれに対抗する力は、いつもとても小さい。歌謡集を守って焼け死んでしまった小さな背中のように。でも、その小さな積み重ねこそが、私たちを光に導くものだと、強く思うのです。最後に笑いあうキアルスとレイサンダーの姿に、小さな人間同士が結ぶ信頼を見ました。「世界はやっていける、人生は生きるに値する、ひとは信頼できる」。先日読んだ岡田淳さんの言葉を思い出しました。世界中のあちこちにどんなに恐ろしいものが巣くっていても、物語は自ずから光を求めて言葉を紡ぐ。私はいつもそこに生きる力を貰っているように思います。

・・・これは全くの余談ですが。恐ろしいと言えば、最近流行ってる「地獄」の絵本って、どうなんでしょうねえ。あれをしつけに使っているところも多いそうですが、私は好きじゃありません。私は、幼い頃に、この地獄極楽図というやつを、散々見せられ、講釈を聞かされました。幼い頃、私は(今じゃ考えられない、と言われますが)非常に怖がりで、蚊や蟻さえも怖い、同級生も宇宙人に見えるほど怖い。ジャングルジムに足をかけることも出来ない子でした。その怖がりが、あの血みどろの絵を見せられて、「死」について延々と聞かされる、恐怖といったら・・・。存在不安や離人体験のようなことも、今思い起こすとあったりして、けっこう辛い記憶です。私ほど極端でなくても、多かれ少なかれ、子どもというのは、この世界に対する不安を持っているのではないかと思うのです。絵本を読む時間というのは、やはり、親子の愛情を確かめ合う時間であってほしい。子どもの不安を抱きしめて、「大丈夫だよ」と伝えるものであって欲しい、そう思うんですよね。暗闇を見つめることは大切なことです。でも、その暗闇を功利的に扱うことと、きちんと向き合うこととを一緒にしてはいけない。そう思います。余談が長くなりましたが・・・。ファンタジーの力を強く感じる一冊でした。乾石さんの3作目を読むのが楽しみです。

2012年4月刊行

東京創元社