白い人びと ほか短編とエッセー フランシス・バーネット 中村妙子訳 みすず書房

表題になっている『白い人びと』は、8年前に、文芸社から『白い人たち』として翻訳出版されているのを読んだことがある。そのときにも、非常に幻想の気配が強い作品だと面白く読んでいたのだが、今回再び読んで、ますます魅了されてしまった。この8年の間に、私もますます〈あちら〉よりになっているのかもしれない。

この物語の魅力は、スコットランドの茫々たる荒野にある。人間の主人公はイゾベルなのだが、彼女の役割は、人里離れた荒野と一体化し、その魅力をあまねく味わいつくすことにあるような気さえする。その年頃の少女の一般的な楽しみとはかけ離れた、荒野から生まれた精霊のような少女なのだ。イゾベルは、人里離れた厳めしい城に住んでいる。彼女が生まれたときに両親は死んでしまった。それからずっと親族の大人二人と住んでいるのだが、彼女の住んでいるそこは、まことに浮世離れしたところなのである。霧がヒースやエニシダの間に満ち、様々に形を変える荒野に囲まれた城。そして、幼くとも一族の長であるイゾベルには、専用の笛吹きがいたりする。バーネットの荒野の描写は冴えに冴えて、まさにこの世のものならぬ気配を湛えている。ここではない、どこか。あちらとこちらの狭間にあって、もやもやと二つが混じり合う場所。例えば、マイケル・ケンナの写真集や、内田百閒の『冥途』とかにもつながる〈あちら〉だ。ただ、面白いのは、イゾベルがあまりにも自然に、その〈あちら〉側にいることなのだ。さっきイゾベルが生まれたときに両親が死んでしまったと書いたが、正しくはイゾベルは仮死状態になった母親から生まれてくるのだ。彼女は、誕生のときから深く「死」に結びついた存在なのである。

イゾベルは、幼いある日、荒野で白い人たちに出会う。それは、まさに闘いの場から帰ってきたばかりの人々で、その中にいた幼い「小さな褐色のエルスペス」とイゾベルは友達になり、一緒に遊んだりするのである。しかし、その小さな友人が見えるのは、実はイゾベルだけなのだ。しかし、彼女にとっては、あまりに自然に彼らがそこにいるものだから、イゾベルは彼らがこの世のものならぬ人たちだとは気付かない。あらゆる場所で、イゾベルのすぐ近くに佇む白い人たちに、彼女は全く畏れを抱くことがない。人里離れた場所で、荒野と書庫を相手に暮らしているイゾベル。生身の人間よりも「白い人」に近しい彼女が、荒野と書物に非常に高い親和性をもっているということが、私にはとてもしっくりくる。

彼女は白い霧の向こうに耳を澄ます感受性を持つ人であり、古い書物に埋没することを喜びとする人。それは、根をたどれば同じことなのだと思うのだ。自然の声を聞くことと、書物の中の人間の営みに心を浸すことは、同じ波長の中にある。土地には、土地の声がある。優れた感性を持つ人たちは、その土地の声を聞く。例えば先日買った梨木香歩さんの『鳥と雲と薬草袋』などを読んでいると、ひとつの場所から、一つの地名から、梨木さんがどれほどの声を聞き取っているのかに、心がしんとする。いつまでもその頁にいたくなる。だから、全く読み進まないのだけれど。いしいしんじさんの本を読んでいても同じことを思う。いしいさんにとってどこに暮らすかは、彼の精神と深く結びつくテーマなのだ。そして、例外なく梨木さんもいしいさんも、〈あちら〉と〈こちら〉を超える、書物の人でもあるのだ。一族の族長であるイゾベルの血の中には、そこでずっと暮らし、一族の歴史を積み上げてきた時間が理屈ではなく堆積している。そして、書物に心を浸すということも、今、目の前にいない人たちの声を聞く営みだ。例えば、私が『小公女』の主人公、セーラ・クルーに対して抱く想いは、見知らぬどこかの誰かに対するものではない。セーラは、どこにいるよりも彼女のそばにいることが安らぎだった幼い頃からの私の親友なのだ。イゾベルにとっての「小さい褐色のエルスペス」への想いは、私にとってのセーラのようなものなのだろう。実際に、長じて後、イゾベルは書物の中に「小さい褐色のエルスペス」を見つけることになる。

そう思うと、この物語の中の「白い人」も、私たちが想像する幽霊とは、どこか違う存在のようなのだ。彼らはごく当たり前に生者のそばに佇んでいる。そして、ひたすらな愛情を寄り添う人や、自分の音楽に捧げているのだ。荒野を笛吹きのファーガスが意気揚々とやってくるシーンなどは、まさに喜びに溢れている。つまり、彼らは夢のような儚さを湛えてはいるけれども、「死」の昏さに囚われたものではなく、どこか憧れに繋がるような仄かな光を湛えた存在なのだ。その憧れは、後半、ヘクターとミセス・マクネアンという美しい親子と出会うことによって、ますます深まっていくことになる。このバーネットが生み出した物語世界では、自然も、過去に生きていた人たちも、「今」を生きるイゾベルも、すべてが等価に、存在している。私はそこに魅了されてしまうのだ。死も、生も、土地も、自然も、すべての則を超えてこの物語の中でひそやかな美しい会話を交わしている。その声をバーネットの言葉を通して聞くのは、〈あちら〉の気配がする物語に惹かれがちである私にとっては至福の時間であった。

実は、この作品の献辞は、十五歳で夭折してしまった息子のライオネルに捧げられている。この作品の後半、死は恍惚感を伴うほどの甘美さで、荒野の美しさと重ねられていく。それは、もしかしたら、生き残ってしまったバーネットが、その時強烈に息子が囚われた「死」に惹かれていたからかもしれない。実際読んでいても、あまりにも死が近しく甘美に語られるので、面喰ってしまうところもある。でも、だからこそ、この物語はバーネットにとって書かねばならないものだったのかもしれない。柳田邦夫さんがご子息を亡くされたとき、「書く」ということが一番自分の救いになったとおっしゃっていた。想像にすぎないが、やはり「書く人」であったバーネットもそうだったのかもしれないとも思う。この本には、『秘密の花園』のコマドリを思わせるエッセイ、「わたしのコマドリくん」や、バーネットが幼い息子たちに話して聞かせたような、「気位の高い麦粒の話」、庭に対する愛情を書いたエッセイの「庭にて」も収められている。エッセイは、大好きな『秘密の花園』に繋がるモチーフについて書いたもので、とても興味深かった。バーネットが愛したものたちが、この本にはいっぱい詰まっている。バーネットの作品に深い思い入れがある私にとっては、まことに堪えられない一冊だった。

余談だけれど、この八月に、友人と夏の旅行に行く予定を立てている。そこで、満月の夜に湿原を歩くという体験をしてみようと思っているのだ。イゾベルが月夜の荒野で体験した幽体離脱のような体験が出来るかも―というのは、無理だけれど。この物語を読みながら、ワクワクしてしまった。私にも、遥かな自然の声が聞こえますように。

2013年4月発行

by ERI

 

グーテンベルクのふしぎな機械 ジェイムズ・ランフォード 千葉茂樹訳 あすなろ書房

もし、私の人生に本が無かったら。想像することも出来ないほど真っ暗闇の人生だっただろうと思います。どういう遺伝子のいたずらなのか、物心ついてからずーっと活字中毒なんですよねえ。3つぐらいのときに、あいうえお磁石で文字を覚えたんです。「言葉」と「文字」が頭の中で結びついた瞬間、自分の中でぱちん、と音がして、もやもやしていたもどかしいものが、するん、とほどけていった。なーんて気持ちいい!と思った快感は忘れられません。それからずっと、私にとって文字は、活字は快楽なのです。その活字を発明してくれたグーテンベルクは、まさに恩人というか、心の御先祖さまというか、日々感謝を捧げても捧げ足りない人であることに間違いはありません。―前置きが長くなりましたが、この絵本は、グーテンベルクが発明した印刷技術を、手順を追って絵にしてある本なのです。紙と皮、真黒なインクと金や緋色やラピスラズリの青で飾られた美しいグーテンベルクの本が、どうやって作られたか。それは、グーテンベルクだけではなく、当時のすべての知恵と、気が遠くなるほど根気のいる作業の上に生まれたものだったのだと、この本を読んで思ったことでした。

頁の見開き左側に、「紙」「インク」「革」「金箔」などが項目ごとに語られ、一冊の本になっていくまでが順を追って解説されます。右側にはそれらの挿絵。唐草模様の装飾に、忠実に当時の風俗を再現した絵が見事です。凝りに凝った造りです。紙をすく人、革をなめす人、真黒になってインクを作る人、大きな木の機械を作る人―名前も残っていない、当時の職人や下働きの人たちが、ここにはとても丁寧に書きこまれています。ただ黙々と働いた、たくさんの人たちの努力があって、やっと一冊の本が出来る。そのことに対する尊敬と感謝がこの本から溢れています。

私にとって「読む」ことは、考えることと同義です。その訓練を長年紙の本で積み上げてきた結果として、私は読むことを紙の活字本から切り離すことが難しい。後書きで訳された千葉茂樹さんがおっしゃるように、印刷技術はここ数十年で恐ろしく進化を遂げて、グーテンベルクのような活字を使った印刷は無くなってしまいました。昔は―なんて話をすると、息子たちに過去の遺物を見るような眼をされるのですが(笑)―出版社ごとに活字が違って、本を開くとまず、どこの出版社かわかったものでした。活字と活字の間の微妙な空き具合や、紙の色の違い。組まれた活字から立ち上る気配のようなものを感じることも、読書の一部に組み込まれている世代です。ところが、「書く」ことになると、今度はパソコンに向かってキーボードを叩かないとダメなんですね、これが。原稿用紙に万年筆なんて、畏れ多くて何も書けない(笑)人間のこの順応性の高さと、一旦何かを自分の標準にしてしまったあとの融通のきかなさは、果てない世代格差を生むんですね、きっと。生まれたときから携帯端末が身近にあるような今の子どもたちは、情報ツールに対する意識も根本的に違うでしょう。印刷技術が発明されたことによって、母国語という概念が生まれ、中産階級が形成された。文学や哲学、科学技術を同時代の共有財産として分け合うことで、市民意識や民主主義が生まれていった。では、これから、私たちはこのインターネットの情報網を土台にして、何を生み出していくのだろう。ほんとに、これから何もかも変っていくのかもしれない。そうとも思います。

今、携帯端末に決して出来ないことは、この本に込められている「美」でしょう。装丁と印刷の美しさ。細部へのこまやかな心遣い。でも、それだっていつの日か、携帯端末が乗り越える時代が来るのかもしれません。でも、何があっても、どんな形態になろうとも、本がひとりひとりの心の扉を開くものであること、知る権利と自由を保障するものであること、国境も人種の違いも、性別も年齢も、時代も地理的な距離も、何もかもを超えて、ひとりの人間同士を繋ぐものであることは変わらないと思っています。数ある人間の中からたったひとりの人と友達になるように、本を愛する。その感謝と愛情を、この本と分け合えるのは、とても幸せな体験でした。グーテンベルクが発明してくれたのは、本によって魂の自由を得る幸せなのかもしれません。そのことを大切に、心から大切にしたいと思う一冊でした。

2013年4月発行

あすなろ書房

by ERI

 

いのちあふれる海へ 海洋学者シルビア・アール クレア A・ニヴォラ おびかゆうこ訳 福音館書店

タイトルの通り、それはそれは色鮮やかな海の生き物たちが溢れる本です。有名な海洋学者であるシルビア・アールの伝記絵本なのですが、絵が本当に素晴らしくて、いつまでも見ていたくなります。シルビア・アールは、12歳のときに移り住んだフロリダの海の生き物に魅せられ、海洋学者になりました。この本は、シルビアが海で出会ってきた生き物の姿に焦点をあてて描き出しています。生きていることは、こんなに美しいんだと感じさせる絵です。だからこそ、シルビア・アールの海に対する愛情が溢れるように伝わってくるのです。海の大切さ、そこに生きる命の美しさを目で体感することで、読み手がその愛情を共に感じることが出来る。どんな理屈よりも、心に訴える本の作り方だと思います。

いやもう、何度も言いますが、絵の力が半端ないのです。クジラが縦横無尽に泳ぎ回る絵だけでも、いつまでも見ていられそうなほど見事なんですよ。クジラというと、大きく悠々と泳ぎまわるイメージしかなかったんですが。こんな風にお茶目に泳ぎまわる生き物だったんですね。そして、海底に輝く星のような命のきらめき。エンゼル・フイッシュと一緒に泳ぐシルビアの眼差しの優しいこと。この本には、たくさんの美しいものがいっぱいに詰まっています。それだけに、後書きで作者のクレアさんが書いておられる海に対する環境破壊のあれこれが胸に刺さります。私たちの命は、多様性を基本にしたありとあらゆる存在に支えられているはず。しかし、どうも私たち人間は、競争や成長と称して、その多様性を潰していくほうに走っているような気がしてなりません。「地球の青い心臓」は、次世代の子どもたちのもの。原発の問題も含めて、未来にツケを残さないのが良識ある大人の取る態度だと思うのですが・・・。子どもにも、そしてたくさんの大人の人たちにも読んで欲しい本だと思います。

2013年4月刊行

福音館書店

象使いティンの戦争 シンシア・カドハタ 代田亜香子訳 作品社

ティンはベトナムの高地に住むラーデ族の象使いの少年だ。学校に行くのももったいないと思うほど大好きな象のそばにいたいティンは、将来立派な象使いになりたいと思っている。ところが、ベトナムからアメリカが撤退して二年後、かってアメリカ特殊部隊に協力した彼らの一族は、北ベトナムの攻撃を受けるようになってしまった。ティンの村にも危険が迫り、ある日いきなりの総攻撃を受けてしまうのだ。

大好きな象のことで頭がいっぱいの少年・ティンの日常があっという間に崩れ去るのが胸に痛くて、頁をめくるのがとても辛かった。私の幼い頃、まだベトナムは戦時下にあった。テレビのニュースでも度々見たのを覚えている。戦争は恐ろしいと思い、ニュースを見るたびに心が痛んだけれども、私にとってはどこか遠いところでやっている他人事の戦争だった。子どもというのは、とにかく自分のことでいっぱいいっぱいなもの。そして、どこかで大人たちがやっている戦争と自分は無関係だと思っていた。この物語のティンだって、そういう子どもの一人なのだ。なぜ、大人が始めた戦争のために、自分がこんな目にあわねばならないのか、わからない。しかし、子どもだからといって、戦争と無関係では決していられない。それどころか、まず一番に殺され、傷つけられるのは子どもたちなのだ。わけもわからぬままに、いきなり生死を分ける決断を次々と迫られるティンの慄きと恐怖が痛いほど伝わってくる。子どもが子どもでいられなくなる、それが戦争なのだ。しかも、突然の襲撃で、村人たちの半分近くが殺されてしまう極限状況は、ティンが信じていた世界を何もかも狂わせてしまう。

突然の殺戮は、村人たちを守っていた精霊の存在も吹き飛ばしてしまう。ということは、長い時の中で培ってきた土地との結びつきも無くなってしまうということなのだ。そして、一緒に暮らしてきた人たちとの絆も。辛くも兵士たちのところから逃げ出したティンは、ジャングルを仲間の象使いの少年たちと彷徨うのだけれど、極限状況の中でずっと親友でいたユエンや、象使いの先輩であるトマスとの仲も壊れていく。ティンの父は、優れたトラッキング(敵の足跡をたどること)の才能を持っていたので、何度かアメリカの兵士を案内したことがあった。ティンも、その手伝いをしたことがあったのだ。ユエンもトマスも、今のこの状況は、アメリカに協力した人間が招いたのだとティンを責める。苦しいとき、辛いとき、人はそれを誰かのせいにしてしまいたくなるものだ。責める二人にティンは反発し、ますます溝は深くなる。しかも、逃げ道のない状況は、大人たちも狂わせる。あんなに考え深かった父さんが、負けしか見えない戦いに突き進もうとしているのだから。

「ときどき、考えもしないうちに、一線を越えてしまうことがある。そして線の向こうにいってから、望んでもない状況に踏みこんでしまたことを知る。わかるか?わたしは、戦うという決断はしなかった。線を越えるという決断をしただけだ。」

なぜ戦うのかというティンの問いに答える、この父さんのセリフが胸に刺さる。戦争になるのか、ならないのかを分けるのは、こういう〈考えもしないうちに、踏み越えてしまう一線〉なのだろう。例えば、アメリカがベトナムに介入したときも。日本が軍国主義に染まってしまったときも。ドイツがヒットラーに政権を明け渡してしまったときも。きっとその前に踏み越えてしまった一線があったはず。私たちは、まだ踏み越えずにいるんだろうか。そうではないと、確証を持って言えないのが、また怖い。

でも、何もかも変ってしまった中で、唯一変わらないものがある。それが、象たちだ。象たちだけは、自分を可愛がってくれる少年たちを最後まで信じてついてくる。ジャングルの中で象たちが見せる表情の、なんて優しく穏やかなこと。佇まいの高潔なこと。深い絆で結ばれている賢い自分の象・レディと再会したティンは、どんなに嬉しかったことか。レディと、彼女が生んだ子象のムトゥ(星という意味)は、ティンの幸せそのもの。母子の象とティンが過ごすジャングルでのひとときは、それはそれは美しくて、読んでいて涙が出てしまう。彼らの幸せがつかの間だとわかっているから余計に切ない。でも、その喜びが、ティンにどうすればいいかを教えてくれるのだ。憎しみや悲しみではなく、愛情が、ティンに生きる道を指し示してくれる。苦しむティンの心の中から最後に生まれる微かな光が、とても胸に沁み渡るのだった。

シンシア・カドハタさんの文章は簡潔で、なおかつ抑制された文章から静かに滲みだしてくる詩情がある。風景が、心を持って語りかけてくるようだ。ティンたちが迷い込む果てしないジャングルが、苦しみ惑う彼らの心象風景と重なって、読み手に戦いの中で踏みつぶされていくたった一つの人生について問い続ける。もう大人の私は、戦争が地球上のどこで行われていようとも、自分と無関係で無いことを知っている。そして、今でもいろんな理由で戦争したがっている人たちがたくさんいることも知っている。だけど、私にその一線が見えるだろうか?自分も、無関心という罪を持って、うっかりそこをまたいでしまうのではないだろうか?そう思うと、とても恐ろしい。この物語を読んだ若い人たちが、その一線について、大きなものに流されようとするときに、私たちを呼び戻す象たちの声について、何かを感じとってくれたら嬉しい。私も、この物語を忘れまいと深く思う。

2013年5月刊行

作品社

 

そして、ぼくの旅はつづく サイモン・フレンチ 野の水生訳 福音館書店

音楽も本も、旅と深く結びついていると思う。本は頁を開くだけで、私たちをどこにでも連れていってくれるし、音楽なら言葉の壁すらない。辛いときや苦しい時、何百年も昔に作られた曲が心の真ん中に届いて痛みを和らげてくれることがある。その曲は、どんなにたくさんの人たちの心を、時間を旅してきたことか。そして、私の手元にある物語も、出版に関わった多くの人の手をわたって旅をしてきてくれる。そう思うと、出会いというのはやはり一つの奇跡です。この物語の主人公・アリも旅の途中です。母さんとしてきたたくさんの旅。そして故郷から離れてくらす異国の風景の中で、彼が奏でるバイオリンの音が胸に響きます。

アリは幼い頃に事故で父を亡くしてからドイツの祖父(オーパ)の農場で暮らしていました。バイオリンの手ほどきもしてくれたオーパはアリの精神的な支柱です。でも、アリは、11歳の今、オーパと離れて暮らしています。アリが8歳のとき、一緒に出かけたオーストラリアへの旅で、母が運命の人と出会ってしまったから。そのままオーストラリアに母と移住して3年、アリは思春期の入り口に立ち始めています。まるで友だちのような関係だった母との間にも、少しずつ違う感情が混じり始める頃です。親子として生まれる、ということは抜き差しならない偶然です。人生で一番深い関係なのに、自分で結ぶわけじゃない。誰を親に生まれてくるか。どんな性格の子を持つか。それは、全く選べないのです。だから、いつも幸せなわけじゃないし、理不尽に耐えなければいけないときもある。この物語は、その偶然が奏でる様々な音楽に彩られています。

アリはボヘミアン気質の母、イロナに幼い頃から振り回されっぱなし。まだ6歳のアリを連れてイロナは何カ月もの旅に出たりします。詐欺師に出会ったりしながら続ける、バックパッカーの旅は、幼い子には過酷です。でも、その旅は、生まれながらにアーティストであるアリの感受性を鍛えることにもなるのです。そして、はっきりとは書かれないのですが、このイロナの放浪は、若くして夫を亡くしてしまった彼女の中から生まれてくる、言葉にならない衝動でもあるのでしょう。悲しみ。孤独。寂しさ。怒り。どんな言葉をつけてもどこかが抜け落ちてしまうような感情が、イロナを旅に向かわせたはずです。そして、アリもそれを感じとっていた。遅れた列車を待って凍りつきそうな駅で上着にくるまった二人の姿がそれを感じさせます。でも、その過酷な旅は、アリの音楽の才能にとってはかけがえのない御馳走なんですよね。孤独と感受性は裏返しです。心の葛藤なしに、優れた芸術は産まれません。母と二人、行きずりの人に出会いながらアリは心にたくさんの風景を刻みます。その旅の途中で、アリはバイオリンを弾きます。その音楽を、じっと耳を澄ませて追いたくなるんですよ。もちろん聞こえないんですが、彼の音の中にきらめくような詩情が溢れているのがわかるのです。そして、そのバイオリンは、今度はイロナの新しい人生の扉を開きます。

イロナは、オーストラリアへの旅で、アリのバイオリンがきっかけで再び人生を共にする人を見つけます。そのせいで、アリは、今度はオーパと離れて住むことになるのです。アリは、音楽家ならではの早熟さと聡明さを持ち合わせています。それ故に、とっても「いい子」してしまうんですよね。自分をぐっと抑えてしまう。新しい場所に、見知らぬ言葉、新しい父親。その場所でバイオリンを人前で弾くことを自ら封じてしまうのは、自分を封印してしまうことに近いのでしょう。そして、最愛の祖父であるオーパを亡くしてしまったとき、アリはあまりに大きな喪失感から、心を閉ざしてしまいます。その彼が、どんな風に、自分の心の声であるバイオリンを取り戻していくのか。この物語は、そこが読みどころです。アリを解き放つ鍵は、やはり音楽にあります。父親とのたった一つの記憶をよみがえらせてくれた一枚のCD。オーパと過ごしたドイツでのレッスンの想い出。新しい父親であるジェイミーと鳴らす、母へのプレゼント曲。リー先生が導く新しい音楽の扉。音楽の喜びが、少しずつアリの悲しみを美しさで満たして、新しい力に変えていきます。そのシーンの素敵なことったら。耳には聞こえないけれど、アリは自分に降り注がれる愛情を、音楽と共に感じ、歩き出すのです。親も含めて、偶然の人との出会いは、悲しみももたらすし、かけがえのない喜びも生み出す。でも、その中から何を感じてどう生きるのかは、自分にゆだねられるのです。親に左右されてしまう子ども時代から、人生を自分の手で選び取る時代へと、アリが成長していく姿が音楽と共に描かれるのがとても魅力的です。

アリは、音楽と生きる喜びが直結している、希有な才能の持ち主です。でも、彼が抱く孤独や寂しさ、そしてたくさんの人と出会う喜びは、誰もが感じる普遍的なこと。そして、アリを取り巻く人たちが、とてもユニークで生き生きしているのも、この物語を豊かなものにしています。子どもも大人も、自分の人生に、出会った人に一生懸命向き合って生きている。その陰影や凹凸も含めて、しっかり描き込まれているのが魅力です。アリが奏でるバイオリンの音に、身も心もゆだねたくなる。そんな一冊です。

2012年1月刊行

福音館書店

 

引き出しの中の家 朽木祥 ポプラ文庫

朽木祥さんの『引き出しの中の家』が文庫になりました。(以前書いたレビューはこちら→「おいしい本箱Diary 引き出しの中の家」)単行本も赤い表紙のとても可愛い本だったのですが、今度はピンクの表紙で、これまた乙女心をキュンとくすぐる可愛さ、愛しさです。文庫化を機会に、またこの本を読み返しました。再読って、いいですね。新しい発見と、時間を経て自分の中に積み重なってきたものとの両方を感じながら読むことが出来る。若い頃、大学で物語の受容と創造について講義を聞いたことがあります。昔、印刷がなかった頃は、写本を繰り返して物語は波及していった。その際に、写本をしながら、読み手は自分の物語を少しだけそこに付け加える。もしくは書き換える。それを繰り返すことによって物語は変貌を遂げていくわけです。その変化を研究することによって、私たちはその頃の人たちの価値観や物語観を知ることが出来る。もちろん、私は写本はしませんが、初読みのときから自分の中につけ加わったものを意識することで、いろんなことを改めて感じ、また考えさせられました。これまで単行本で買った本を文庫本で買いなおすことはしませんでした。これが初めての体験なんですが、再読をきちんとし直す機会になってとても貴重でした。朽木さんの本は折に触れて読み返すことが多いのですが、読むたびに新しい発見があります。だから、いつも付箋だらけ。

この作品の感想は、以前のレビューに書いています。ですので、重なる感想は書きませんが。物語の、目に見えているものの奥にあるものの深さに、改めて感じ入ってしまいました。「小さい人」が登場する物語というのは、『床下の子どもたち』(メアリー・ノートン)を初めとして私が知っているだけでも幾つかあります。彼らは小さいがゆえに常に危険と隣り合わせに住んでいます。日本のもので有名なのは、いぬいとみこさんの『木かげの家の小人たち』と佐藤さとるさんの『だれも知らない小さな国』ですが、『木かげの家の小人たち』では戦争が、『だれも知らない小さな国』では、都市開発が彼らの前に立ちはだかる大きな困難として描かれます。この物語の「花明り」たちもそうなんですね。殿様によって弾圧された歴史を持っている。そして、もしその存在が大多数の人に知られるところになれば、散在が池で河童が見つかったときの大騒ぎのようになることでしょう。花明りたちが、ひっそりとどこで暮らしているのは、この物語で詳しく書かれていませんが、常に怯えながら生活していることは想像に難くありません。この物語の前半では、そんな花明りと、病気がちで義母ともうまくいかない七重の孤独な心が重なります。散在が池に身を隠す河童たち。そして、人差し指ほどの小さな人たち。朽木さんのファンタジーは、常にマイノリティである存在が描かれます。河童。小さな人たち。きつねや猫、犬。その心に寄り添い、そっと彼らの世界に目を凝らせて見えてくるもの。その中に、私たちが忘れてはならない一番大切なものが隠れている。思えば、子どもも、この社会の中でのマイノリティである存在です。常に七重のように大人の思惑に左右される。だからこそ、二つの魂は出会うのです。河童の八寸と麻が出会ったように。そんな彼らと心を重ね、寄り添うことで、私たちはとても美しい風景を見ることが出来る。それは、大きなものばかりを見ていては気がつかない、人間らしく生きるための原風景ではないかと思うのです。

大きくがなりたてるプロパガンダや、一斉に雪崩を打って変わっていく世論。マスコミの喧騒に、私たちはとかく引きずられがちです。でも、自分の心の中に、こんな小さな人や、幼い河童の姿を住まわせ、彼らの声に耳を傾けていれば。きっとすべての見え方は違ってくるのではないか。そう思うのです。小さな人は、私たちが守らねばならない時代の中で抑圧されていくものの影を背負っているのかもしれません。そう思いながら読んでいると、この大きな屋敷のからくりは、アンネ・フランクの潜んでいた屋根裏に、ふと重なるように思ったりもしました。小さな存在、隠れているもの、耳を傾けなければ聞こえない声の中に、私たちが守らねばならないものがある。この物語を読む子どもたちの心の中に、花の香りと光を放つ小さな人が住んでくれますようにと思います。そして、大人の心には、彼らが帰ってくる喜びがもたらされるはず。

物語の後半、「今」を生きる薫と桜子が、失われそうになっていた七重と独楽子の絆を結び合わせます。人間と花明り。大きさも生き方も違うけれど、お互いの立場を超えて心を繋ぐ薫と桜子の笑顔が、ラストで見事に花開く光景に胸が熱くなってしまいます。実は数日前にぱせりさんのブログでこの本の感想を読ませて貰ったのですが。ぱせりさんは、この物語の最後に脳内でアメリカに住む七重から手紙がくるシーンを付け加えてしまっていたらしいのです。それをふんふん、さもありなん、と読んでいた私なのですが、なんと私もちゃっかり同じことをしていました。「おばあちゃんが薫にこのライト様式の家屋敷をゆずるつもりで、手入れをしようと密かに決意する」「七重を乗せた飛行機がタラップに到着して、彼女の足先が見える」という二つのシーンを勝手に付け加えていたことが判明。何度もこの物語の細部を反芻するうちに、自分の願望まで付け加えていたんですね。そんなシーンがつけ加わるほど、私もぱせりさんも、この物語に「希望」を貰っていた。そんな気がします。希望は、これからを生きる力、そしてかけがえのない「今」を感じる力です。

「瑠璃のさえずりはね、忘れていた大切なことを思い出させてくれる。あたしたちが、どんなすてきなものを持っているか教えてくれる。ほんとうに大切なことを、きっと思い出させてくれる。だから、瑠璃と会えた人はとても幸せなんだって」

花明りの独楽子に、七重に、薫に、桜子に、またこの文庫で会えて、とても幸せでした。物語の力を信じることが出来る。その喜びも、またこの物語から貰うことが出来ました。薫のおばあちゃんの口からふと「散在が池」という言葉がこぼれて、私の脳内朽木ワールドの地図帳に、そっとこの家の場所が書き記されています。ファンとしては、そんなオタクな楽しみもまたこたえられません。この物語を読んだ人たちが、それぞれどんなシーンを頭の中で付け加えたのか。とっても知りたい・・・。

2013年6月刊行
ポプラ社

魔女のシュークリーム 岡田淳 BL出版

私は、小さい頃イチゴがとっても好きで、(今でも好きだけど)少しばかりのイチゴを妹と分け合うのが悔しくてならなかった。オトナになったら山盛りのイチゴを自分で買って食べるんだ!とずっと思っていた。ところが、いざ大人になると、そんなにイチゴばっかり食べられないんですよね、これが。第一、今、どんなに美味しいイチゴを買ってみても、記憶の中のイチゴとは何かが違う。去年のクリスマスに、同年代の友人3人と昔懐かしいバタークリームのクリスマスケーキを食べる会を催した。明らかに昔のケーキよりいい素材を使ってあるだろうに、あのロウが固まったようなクリームもどきのケーキの記憶に遠く及ばなかった。子どもの頃の新鮮な味蕾と食欲は、もう戻ってこないということなんだな、きっと。(気付くの遅すぎ・・・)この『魔女のシュークリーム』は、ぴちぴちの味蕾&食欲のダイスケくんが、これでもかというほど大好きなシュークリームをお腹いっぱい食べる、とっても幸せな物語です。岡田さんの物語に出てくる食べ物は、いつもとっても美味しそうなんだけれど、このシュークリームはまた格別に美味しそう。

ダイスケくんは、「あなたの頭は、シュークリームのことしか考えられないの!?」とお母さんに言われてしまうほどのシュークリーム好き。岡田さん描くダイスケくんも、ふっくらシュークリームみたいでとっても可愛い。ある日、そんな彼に100倍大きなシュークリームを食べる幸せがやってきます。しかも、それは魔女にいのちを取られているカラスとネコとヒキガエルの呪いを解くための闘いなのです。なんと気の毒なことに、彼らは魔女にシュークリームを、身の毛がよだつほど嫌いになる魔法をかけられているのです。ダイスケくんは、うはうはとシュークリームにのめり込みます。この一心不乱に食べるダイスケくんの幸福感といったら!甘いクリームにうっとりと埋没するダイスケくんに、カラスたちが「まことのゆうきをおもちである」「ほこりたかきライオンのようだ」なんて感心するところなんか、可笑しくて仕方がない。可笑しくて仕方ないんですけど、私は何だかすごくジーンとしてしまったんです。ダイスケくんの「シュークリームのことしか考えられない」という性格は、あんまり実生活では人に評価されないことです。でも、そのマイナスが、この物語ではくるっとひっくりかえって、困っている動物たちを助けるための武器になる。お母さんが言う「あなたの頭は、シュークリームのことしか考えられないの!?」というセリフが、魔女との闘いの最後に最大級の賛辞として動物たちからダイスケくんに捧げられる。そこが、たまらなくいい。この物語を読む子どもたちは、きっと心が深呼吸するでしょう。

私たちは、特に大人はすぐに明日のことばかりを気にします。でも、それこそ五感のすべてが手つかずの新鮮さで立ちあがっているような子ども時代は、もう二度と帰ってこない。大人になってからの時間のほうが、うんざりするほど長いんです。だからこそ、思う存分楽しんで欲しい。そして、ダイスケくんのように食べることを最大限に楽しむ感受性は、「今」を楽しむ最大の武器なのかもしれない。食べることだけは、明日病にかかっている私たちに残された「今」を生き切ることが出来る場面だなあ、と思う。・・・なんていう理屈は、この物語の楽しさの前ではかえって野暮かも(笑)余談ですが。やたらに美容を気にする魔女に、つい「美魔女」という言葉を連想して、「うふふ」となってしまう私は、意地悪おばさんです。美魔女、なんて言われるのは恥ずかしいよねえ。必死のパッチな感じがね、恥ずかしい。いや、私は絶対言われないから、いいんですけどね(爆)

2013年4月

BL出版

 

チェロの木 いせひでこ 偕成社

人は―と言うと、風呂敷を広げすぎかもしれないけれど。特に子どもは、歩いていける場所に森を持つべきだとこの本を読みながら思ったことだった。命を、生と死を内包しながら深く呼吸し続ける森。古の時を受け継ぎ、そして自分の命が無くなってしまったあとにも、ずっとそこにあって静かな音楽を紡ぎ続ける場所。奥深く迷い込めば帰ってはこれないかもしれない。恐ろしい獣に出会うかもしれない。でも、だからこそ心の奥底に何かを語り掛けてくる。自分という存在が、大きな命の流れに抱かれていること。同時に、かけがえのないたった一つの存在であること。そのどちらも感じながら生きることが、今はとても難しい。私たちは、どこを切っても同じような金太郎飴のような世界に生きているから。しかし、本来私たちは森と繋がるべき存在なのだ、きっと。

この本に描かれるのは、森が生み出す命の循環だ。森で育った一本の木が、美しいチェロという楽器になり、音楽が奏でられ、人々の心に届いていく。森と人が生み出す命の饗宴にうっとりと聞き惚れてしまう。森をはぐくむのも、チェロを作るのも、音楽を奏でるのも、心を込めて修行した優しい手。そのぬくもりが伝わってくる。森の中に踊る光が、静かに降りしきる雪の重みが、切り株が、少年に語りかけた物語が、きこえてくるようだ。命を受け継ぎ、思いを込め、新しい息吹を込めて次の世代に伝えていく。人の根源的な、忘れてはならない営みが、一人の少年をそっと揺らして、豊かな人生に送り出していく。祖父から父へ、そして自分へと受け継がれていく命。自分の目で、耳で、確かにその営みを確かめて大きくなる幸せがここにある。

私も、自分の近くに本物の森を持たない。残り少ない自然も、ますます切り取られていくばかりだ。家は受け継がれるものではなくなり、代替わりすれば全てが更地になる。この間も、町内の長年丹精こめられた庭が、あっと言う間に潰されて新しい家が建った。でも、私には本がある。たくさんの人に読まれ、受け継がれてきた本たち。ずっと幼い頃から読み返している大切な本たち。そして、こうして大切なことを伝えるために生まれてくる愛しい本たち。私はその本の森を歩き続ける。そして、この森が、次の世代に、受け継がれていくために・・・少しでも私に出来ることがないか、と思い続けている。日暮れて道遠し・・・ではあるけれど。遠いなあ。(愚痴ってどうする!)

2013年3月

偕成社

マルセロ・イン・ザ・リアルワールド フランシスコ・X・ストーク 千葉茂樹訳 岩波書店

YAの物語に惹かれるようになったのは大人になってからです。息子たちが思春期を迎え、子育てにあれこれ深く悩み始めた頃から、一気にハマりました。若い頃は自分のことをリベラルな人間だと思っていたのに、親業をしているうちに、自分の感性よりも「こうあるべき」とか、「出遅れちゃ駄目」とかいう、他人からどう思われるかを物差しにした、カチコチの価値観に縛られるようになっていた。そのことに気付かせてくれたのは、YAの物語たちです。大人の入り口に差しかかって、自分の手で扉を開けねばならないときの慄きや、傷口の痛み。不安を抱えてみつめる空の美しさ。自分の心の中に眠る風景を呼び覚まし、目に見えない大切なことに気付かせてくれる―そんなYAの物語に、どれだけ助けてもらってきたことか。この物語も、とても瑞々しい物語です。主人公のマルセロが初めて「リアル」を見つめる眼差しと一緒に、また新しい目で自分とこの世界の関わりを見つめることが出来る。内に閉じた美しい世界に暮らしていたマルセロが、悩みながら発見する新しい「美」に心が震えます。

この物語の主人公であるマルセロは、内面的に豊かな生活を送っている青年なのです。その象徴ともいえるのが、心の中に鳴り響く音楽、IM(インナーミュージック)を持っていること。宗教について深い関心があり音楽のCDを何千枚も持っていて、自宅の庭のツリーハウスで寝起きしています。アスペルガーに近い障害を持っている彼は、他人の表情を読み取ることや、たくさんの人がいる知らない街を歩くこと、予定を決めずに行動することなどが苦手です。マルセロは、閉じた美しい世界にいます。しかし、彼の父親は、そんな彼に「普通」になって欲しい。競争社会の中で生き抜く術を身につけて欲しい。マルセロは、そんな父の提案に従って、夏休みに父親の経営する法律事務所にアルバイトに行くことになるのです。彼はそこで、生まれて初めての恋と、悩みを経験します。これは、初めてリアルな世界に触れたマルセロの心の記録なのです。

この物語はマルセロの視点で描かれています。初めて「リアル」に触れるマルセロの視線があぶり出す私たちの世界が、とても奇妙なんですよ。「こんなもんだよね」という暗黙のルールは、矛盾や無神経を思考停止の中に閉じ込めてしまう。マルセロはそのひとつ一つにひっかかるが故に、とことんまで考える。その筋道をたどるうち、私たちが日々の暮らしの中でどれほど心の中からふるい落としてしまっているものがあるのかを思い知らされます。例えば、私が冒頭で書いた彼の障害について。それは、「科学的なひびきのことばで定義したほうが、ほかの人たちもわかった気になれる」のだけれど、本当はそんな言葉ひとつで、説明しきれることでも、個々の状態に対応することも出来ない。本当は、その「出来ない」部分が大切なのに、私たちはわかった気になったところで大概のことを切り捨ててしまう。競争社会だから。ただ、ひたすら前に進んでいかねばならないから。でも、一番大切なことは、その切り捨てられてしまうことの中にあるのです。マルセロは、ゴミの中に捨てられていた少女の写真を拾います。それは、父親が扱っている企業の製品の不具合によって大けがをしてしまった女の子の写真です。企業側に立つ父が切り捨てようとしていた少女の顔が、マルセロはどうしても忘れられない。その事件を調べたマルセロは、重大な発見をします。しかし、そのことを公にすれば、父親を窮地に追い込むことになる。傷ついた少女と父親の間に立って、マルセロは悩みます。

マルセロが、そこからどんな風に自分の進むべき道を探したのか。どんな風に自分の心の声を聞いたのか。この物語の一番美しい場面は、その答えを探しながら、事務所で仲良くなったジャスミンとゆく彼女の田舎への旅です。ジャスミンは、マルセロの中にある豊かな感受性と純粋さに気付くことの出来る女性。瑞々しい自然の中で目覚めるリアルな女性への愛情が、なんと煌めいて描かれていることか。初恋なんですよねえ。マルセロは、IMよりも美しいものを見つけてしまうのです。そして、自分がどうするべきか、静かに自分の心の声を聞きます。湖の上で彼がその答えを見つける場面が、印象的です。マルセロは、自分の中の声を聞き、正しい道を見つける。そのゆるぎなさも心に沁みるのだけれど、私が素敵だと思ったのは、彼がその正しさを追求するのと同時に、人との出会いを通して、自分の醜さと弱さもまっすぐ見つめるところです。人は誰も心の中に美しいものと醜いものを持っている。マルセロは、醜い欲望を持たない聖者のように見えるけれども、聖者というのは欲望を持たないことではなくて、欲望を持つ自分を静かに見据えることのできる人なんじゃないか。読み進めるほどに大好きになっていくこの青年の面影を想像しながら、そんなことを考えてしまいました。

もちろんマルセロは聖者ではありません。だから、ジャスミンの過去を知って苦しみもします。庇護してくれていた父親からの自立と、初めて知った愛の苦しみは、マルセロを新しいリアルな人生へと導きます。そのリアルは、勝ち組になるとか、人よりいい人生を送るためのリアルではなくて、なりたい自分と共に生きていきたい人とが美しい音楽を奏でるために必要なリアルなのです。マルセロがひと夏の間にたどった旅は、未知の自分に出会う深い心の旅でした。この物語は、訳者の千葉茂樹さんもおっしゃるように、私たちが常に出会う普遍的な命題への問いかけに満ちています。そして、その問いかけに、真摯に向かい合うマルセロの姿が、とても美しいのです。人生の垢に凝り固まった大人の心も溶かしてくれる静かに深い湖のような物語でした。何度も読み返したくなること必至です。

この岩波のSTANP BOOKS、とても選書が素敵です。これまで読んだ3作品、「アリ・ブランディを探して」「ペーパータウン」、そしてこの「マルセロ・イン・ザ・リアルワールド」どれも読みごたえのある作品ばかり。岩波の底力を感じます。これからの刊行に、期待大。YAのこういう物語が、日本からももっと出て欲しいなあ・・・。

2013年3月刊行

岩波書店 STANP BOOKS

by ERI