朗読劇『銀河鉄道の夜』 大阪大丸心斎橋劇場 感想

大阪の大丸心斎橋劇場に、朗読劇『銀河鉄道の夜』を見に行ってきました。見た、というよりは体感した、という方がいいかもしれない。映像と詩、朗読と音楽から成る、とても不思議な空間でした。テキストから磁場が生まれるんですよ。それがとっても刺激的で、まだ頭の中でイメージがぐるぐる駆け巡っています。出演は、古川日出男氏、柴田元幸氏、管啓次郎氏、という、御三方。そこにミュージシャンとして小島ケイタニーラブ氏。この組み合わせだけでも、文学オタクとしては興奮してしまいました。

この朗読劇の芯にあるのは、3.11の大震災です。まだあれから2年と少ししか経ってないんですよね・・・。でも、もう皆いろんなことを忘れかけてる。核を扱う実験現場でさえも、危機意識が薄れて弛緩してることに、びっくりします。株価が上昇したら、もうそれだけでええわ的なこの浮かれ具合に、どうも私は馴染めない。そんなに簡単に忘れてええのん?と言う声は、ますます大きくなる経済プロパガンダに消えてしまいそうです。それが怖いし、不安な気持ちがいつでもあるんです。大阪に住む私でさえそうなのだから、実際に被災された方々は、どんな想いをされていることだろうと思う。どんどん取り残されてしまうような気持ちをされているのではと、いろんなニュースを見るたびに思うのです。だから、今日のように、文学の第一線におられる方々が掲げる、あの日を照らし続けようとする灯りに、心がほっとしました。痛みと悲しみを共に、それぞれの風景の中に共有していこうとすること。管氏の自作の詩に佇んでいた少女の瞳に映っていた光と波の記憶。柴田氏が朗読された小説の、誰もが忘れてしまった妹の記憶。強烈に胸に焼き付いています。古川日出男氏の脚本による『銀河鉄道の夜』も、とても熱かった。宮沢賢治が走らせた銀河鉄道に、『今』が繋がって―遠い果てまで一緒に行って帰ってきたような気がしました。出演者の方々の祈りと強い想いが、確かな磁場を作って共鳴していました。それを生で体験できて、とても幸せな夜でした。

古川日出男さんが、あんなに熱い方だったとは。しかも、はにかんだ笑顔がとってもキュートで、魅力的だった。柴田元幸さんが想像していたよりとても若々しくて少年のようなのにも驚いた。朗読されていた小説があまりに印象深かったのでお尋ねしたら、さらさらと原典を書いてくださった。この手帖は家宝じゃ(笑)管氏の声が、まるで声優さんのように深くて魅力的なのにも驚いてしまった。少しだけれど、お話も出来て、文学オタクにはこたえられない夜でした。また、関西で公演してくださらないかなあ。絶対行きます。

by ERI

 

【映画】 ビル・カニンガム&ニューヨーク

タイムズの人気ファッションコラムニスト、などという肩書きを聞くと、そりゃもうキメキメでエキセントリックなファッション通で、という人物像を想像するのだけれど。このドキュメンタリーの主人公であるビル・カニンガムは、まるで生真面目な郵便局員、といった感じの品の良いおじいちゃんなのだった。ああ、この人はとても誠実で信用できる人なんだろうなあと、その顔を見ているだけでわかってしまう。彼のトレードマークは清掃員が着る青い上っ張り。そのスタイルで、彼はニューヨークの街を自転車で疾走して、ストリート・スナップを撮る。この映画は、彼の日常を、淡々と追いかけたものなのだけれど、そのピシッと筋の通った生き方のダンディズムに魅せられてしまった。私はダンディズムを持つ男性に弱いのである。「あまちゃん」のアキちゃんのように、キラキラの瞳で(?)「かっけ~~!」と心の中で連発してしまった。

彼は有名人には興味はないし、自分の衣食住にも興味がない。恋人も作らなかったし、家族もいない。そんな暇がないほど彼は自分の仕事に没頭し、ひたすら街に出て写真を撮る。まるで求道者のような生活なのだけれど、画面に映る彼はいつもひたすら楽しそうなんである。もう、ほんとに楽しすぎて、ほかのことをする暇が無かったんだろうなあと思う。だから、お金とも無縁。「金をもらわなければ口出しされない」というのも彼の哲学。どんな派手なパーティに出ても、水の一杯だって飲まない。「美を追い求める者は、必ず美を見出す」。これは、彼がフランスの国家功労賞を貰ったときの言葉だ。かっけ~!!彼は、果てしないファッションという海の中から、煌めく真珠を見出すアーティストなんだろうと思う。「美しさ」は、誰かが発見して初めて「美」になる。そして、ファッションの美しさというのは、それを着る人がいて表現されるもの。彼は、無料で着飾った有名人には興味はないらしい。自分の生活の中で、何を選んで何を捨てるか。自分の生き方を決めることは、「何が美しいか」を自分で決める選択だと思う。彼は、その美意識のアンテナがピリピリと立っている人のファッションに惹かれているようだ。思うに、そのアンテナが立っている人というのは、選んで選んで・・つまり、たくさんのものを同じく捨てている人なんじゃないかしらん。その孤独やストイックさ、「誰かとおなじ格好が出来ない」不器用さも含めて、きっと彼はファッションを、ファッションを纏う人々を愛しているのだと思う。だから彼は決して女性たちをけなさない。かって働いていた雑誌が、彼の写真を使って、街の女性たちの着こなしを揶揄するような記事を作ったとき、彼は激怒して即座にやめてしまった。そして、写真に映った女性たちを心配していたらしい。そんなところも、素敵だ。信仰について聞かれたときや、パーティからパーティに移動する夜の風景の背中に、「独り」が滲むんだけれど、幾つになっても凛と背筋を伸ばして一人でいるその潔さも、またカッコよかった。ラストの、同僚たちがしくんだバースデイのサプライズパーティに思わずうるうるしてしまった。ビルの生き方から、たくさんの喜びを貰える、そんな映画だった。

ニューヨークの街を歩く、胸がすくような個性的なファッションの人たちは、ほんとにカッコよかった。この映画を見たあと、梅田の街を歩きながら「ビルなら誰を撮るかなあ」と思いつつ人間ウオッチングしてしまった(笑)若い女性たちは、ほんとにおしゃれで可愛いけど、皆良く似てる。強烈な大阪のおばさまたちのほうが、ビルのお眼鏡に叶うかも。今週のNYタイムズのビルの頁を見ると、レースがいっぱい!この夏は大好きなレースの服を買おうっと。息子に「また、ひらひらやん」と言われてもかまへんわあ。

by ERI

スターリンの鼻が落っこちた ユージン・イェルチン 若林千鶴訳 岩波書店

橋下大阪市長の従軍慰安婦に対する発言が物議をかもしていますが、私は彼が使う「活用」という言葉が、彼の女性に対する考え方を語っているように思います。性は、人が人として生きていく根幹にある、自己の尊厳と不可避に結びついているもので、決して人に「活用」されてはならないものなのです。彼は、そういうことがわからない人なのでしょう。でも、今の日本では、こうして「おかしい」と思ったことについて発言も議論も出来ますが、もし政治に対して何も言えなくなってしまったときに、彼のような人間がトップに座ってしまったら―そう思うと非常に恐ろしい。この『スターリンの鼻がおっこちた』は、スターリン時代のソ連の少年が経験した恐怖の物語です。全く他人事ではない恐怖が目の前に迫ってくる迫力に満ち溢れています。

子どもは、一番強く時代の影響を受ける存在です。子どもは自分の弱さをよく知っています。そして、大人のように思想や教育から距離を取って生きていくことはできません。この物語の主人公であるザイチクも、秘密警察の父を幹部に持つ筋金入りの共産主義者として、ピオネール団という党の少年部に入団することを楽しみにしています。ところが、入団式の前日、今度は父親が秘密警察に逮捕され、連行されてしまうのです。密告したのは隣に住む男で、ほかに家族のいないザイチクはあっという間に夜の町に放り出されてしまいます。

ソ連という国がかってあったこと。スターリンが「大粛清時代」に2000万人もの人を追放したり処刑したり、収容所送りにしたこと。この本をいきなり手にした子どもは、そんな歴史的な知識を持ち合わせないことだろうと思います。でも、冒頭の、ザイチクが書いたスターリンへの手紙に、まず衝撃を受けるはずです。衝撃を受けないまでも、その為政者に対する盲目的な「いい子」っぷりに居心地の悪さを覚えるはずです。彼にとっては秘密警察にいる父親は英雄なのです。ザイチクを取り巻く何もかもが、今の自分たちの価値観とは違うらしい。ザイチクの眼を通じて感じるその居心地の悪さは、読むに従ってますます強くなります。監視しあっているアパートの人たちの目つき。いきなり鳴らされる真夜中の呼び鈴と、階段を上がってくる軍靴の音。いきなり連れ去られる父親の背中。ザイチクは一夜にして「いい子」から人民の敵の子どもに転がり落ちてしまったのです。転がり落ちてしまったザイチクの世界は一変します。しかも、ザイチクは学校でスターリンの胸像の鼻を壊してしまうのです。ゴーゴリの『鼻』の八等官のように、自分を取り巻くすべての世界が変わってしまったのです。今や、ザイチクも「人民の敵」。ザイチクは怯えます。教室内で行われる胸像を壊した犯人探しの恐ろしいこと。しかし、恐怖はこれで終わりません。これまで馬鹿にしていた同級生のメガネがまず自分の代わりに連れて行かれ、それから密告によって担任の先生が連れていかれ・・・ザイチクは校長に自分の父親を密告することを勧められ、そのときにもっと恐ろしい秘密を教えられるのです。

ザイチクの恐怖は、過ぎ去った過去の、自分とは関係ない恐怖なのか。この本は、読み手にそう語りかけます。自分の周りに、偉そうな洋服を着た「鼻」はいないか。もしくは、自分の鼻は、勝手に歩き出したりしないか。自分が信じている価値観が、一夜にしてくるりとひっくり返ったらどうするのか。カリカチュアライズされた挿絵の迫力も相まって、手がかりのない悪意の壁に囲まれるような孤独感が怖さを倍増させます。作者のユージン・イェルチンは、ソ連生まれです。それだけに、この物語には大粛清時代の恐ろしさが生きて脈打っているようです。私がこのザイチクの立場にいたら―きっと、彼のように「いい子」してしまったような気がします。子どもの頃、大人の顔色を読むことは抜群に上手でしたから。だから、この物語は他人事ではないし、今の日本にとっても他人事ではない。この物語のスターリン主義を、「グローバル」や「実力主義」という言葉に置き換えてみることだって出来るでしょう。訳者の若林さんが後書きで書かれているように、今の日本の子どもたちの状況に通じるものがあります。今の若い人たちに要求されるグローバリズム社会への適応力は、私のようなナマケモノには辛いとしみじみ思います。若い人の能力を、安価で、根こそぎ吸いつくそうとする化け物は、カッコいい服を着た大きな鼻かもしれません。そんな鼻はメガネくんの写真を塗りつぶしたように、ひとりの人間をモノ扱いします。そんな人をモノ扱いする大人の冷たさは、子どもの社会のいじめの問題にも繋がっている気がします。ザイチクの学校での粛清の恐ろしさに、学校での孤独を重ね合わせる子どもたちもいるでしょう。

「わたしたちがだれかの考えを、正しかろうが間違っていようが、うのみにし、自分で選択するのをやめることは、遅かれ早かれ政治システム全体を崩壊に導く。国全体、世界をもだ」

粛清の嵐が吹き荒れる教室の中で、たったひとりゴーゴリの『鼻』を教え続けるルシコ先生の言葉が身に沁みます。この物語は、ニューベリー賞のオナーブックに選ばれています。子どもたちにもぜひ読んで欲しいし、大人にも新しい目を開かせる一冊だと思います。この時代に収容所に送られた人がたどった恐怖は、『灰色の地平線のかなたに』(ルータ・セペティス 岩波書店)や、実際にシベリヤで抑留生活を送った石原吉郎の著書にも詳しく書かれています。

2013年2月発行

岩波書店

 

村岡花子と赤毛のアンの世界 生誕120周年永久保存版 河出書房新社

今日、初めて梅田のグランフロントに行ってきました。目的は、本を大好きなもの同士のおしゃべりです。デイヴィッド・アーモンド氏の講演会に行った折に、本当に偶然に知り合った若いお友達と、マニアックな本の話をしに行ったのでした。好きな本が重なる、というのはこんなに楽しいものかという勢いで喋りに喋り、気が付いたら夕方。本人たちの感覚では、つい1時間くらいしゃべったかな、くらいの感覚でびっくりしたのでした。本を読むというのはとても個人的な行為なのですが、思い入れのある本のことを同士とあれこれお喋りするのは、本当に楽しいことです。一つの本について、複数の目が持てる。自分が気付かない良さを発見する、話しあうことで深いところまで分かり合えたりする。そんな喜びは、本読みの大きな幸せです。この本のようなマニアックな特集本を読む楽しみも、そこにあります。村岡花子さんと赤毛のアンを大好きな人たちが集まって、自分の想いを語る楽しみ。今まで知らなかったことを教えてもらえる楽しみ。そして、これまで以上に、またその本が好きになれる幸せ。たくさんの喜びがぎゅっと詰まっています。

村岡花子さんについては、以前『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』を読んだことがあります。その時にも思ったのですが、こうして様々な論考やご自身のエッセイなどを読むと、モンゴメリという作家と村岡さんが出会った必然性というか、深い縁に驚きます。ポール・オースターと柴田元幸氏、フランクルの『夜と霧』と霜山徳爾氏、という風に、深く結びついて切り離せない名訳というのがありますが、それはただ文章を訳するという作業以上のものがあるような気がします。明治という時代に、特権階級でない女性が学問を修め、家庭を持ち、幼子を亡くし、戦争を乗り越えて生き抜いていく中で、モンゴメリの物語と魂が結びついていったのではないか、この本の様々な資料を読みがなら、その感はより強くなりました。そして、この本はまた新しい驚きもくれました。モンゴメリが亡くなった当日に出版社に届けられた原稿があったこと。それが最後の赤毛のアンシリーズとしてカナダで出版されたのが2009年であること。そして、その日本語訳が村岡美枝さんの訳で去年出版されていること!慌ててアマゾンでポチりました。アンの後日談ではなく、アンの周りにいた人たちの物語で、これまでよりもダークな、人間の影の部分に焦点を当てた物語が多いとのこと。(まだ全然読めていません)そして、モンゴメリが、最後は自分で命を断ってしまったことも、この本で初めて知りました。彼女は実生活でいろいろな苦しみを抱えていたんですよね。そのことはある程度は知っていたのですが。小説家として成功しながら、晩年を迎えて自殺しなければならなかったその苦しみを、この年齢になって考えると胸がしんとします。そのことも含めて、最後の小説が現れたことで、ここから新しい検証と論考が始まっていくのでしょう。それは、戦争や家庭、女性の生き方という「今」の困難と響き合うのものなのではないか。そんな予感もします。

『赤毛のアン』を、私は何度読み返したことか。アンのような友だちが欲しいと願った幼い頃から、このシリーズは理屈抜きの私の腹心の友でした。アン・シャーリーや『小公女』のセーラ、そしてアンネ・フランクが、ある意味、現実の友だちよりも大切な存在だった時もあります。その自分の強い思い入れが何故だったのか。私は今でも折に触れ考えることがあるのです。この本のような多角的な資料を集めた特集本は、その自分の心のへの道しるべとなるのです。一応図書館で予約して読んでみましたが、やはりこれはポチっと購入決定です。これまた大好きな梨木香歩さんと熊井明子さんの対談が載っているのにも興奮しました。河出書房新社さん、ありがとう。そして、今気付いたんですが、同じく河出書房新社から『図説赤毛のアン』という本も出てるんですね。これも読まねば。

 

フランケンシュタイン家の双子 ケネス・オッぺル 原田勝訳 東京創元社


「何と、あの人造人間を作ったフランケンシュタインが、双子だった!」と、思わずびっくりマークをつけたくなる設定で描かれた小説です。ケネス・オッペルはいつも設定が斬新なんですが、この人造人間を作る以前の、YA世代のフランケンシュタインを描くという発想が面白い。中世の錬金術のおどろおどろしさと、主人公たちの若い激情が迸って、極彩色のゴシックホラーになっています。

フランケンシュタイン家の双子、コンラッドとヴィクター。正反対の性格ながらとても仲良しの二人だが、ある日兄のコンラッドが重い病で倒れてしまう。何とか彼を助けたいと思うヴィクターと、彼らと一緒に暮らしている遠縁の娘・エリザベスは、城の地下から発見した錬金術の本を読解しようと錬金術師ポリドリを探す。ポリドリは、その本を解読し、不死の秘薬を作るために三つの材料が必要だと言う。ヴィクターとエリザベスは、その材料を集めるために命がけの冒険に乗り出すのです。

いきなりヴィクターがベランダから落っこちる冒頭の劇中劇から始まって、とにかくケレン味たっぷりなんですよね。錬金術の本を城の地下で見つけるシーン一つにも、隠し扉&底の見えない階段&白骨&腕をはさんで抜けない扉・・・と、もう、これでもかとてんこ盛りの演出なんですが、それが上手く登場人物たちのキャラクターに馴染んで展開していくのが、オッペルの腕ですね。想像力が刺激されて、次々と物語の迷宮を進みたくなる。その中で展開していく双子の弟・ヴィクターの揺れ動く心が、また読みどころです。

兄のコンラッドは双子で顔もそっくりなのに、冷静沈着で人づき合いも上手く、剣の腕もヴィクターより上です。しかも、一緒に暮らす美しいエリザベスの愛まで手に入れている。ヴィクターにとって兄は一番強い絆の持ち主であり、同時に激しく対抗意識を燃やすライバルでもあるのです。その兄のために、自分の命までかけるような冒険に乗り出していくヴィクターの胸は、冒険で流す血よりも濃い感情、嫉妬と愛情で揉みくちゃ。しかも、双子の間に君臨する女神のようなエリザベスの、小悪魔っぷりったら・・・ラノベのツンデレの比じゃありません(笑)野生の血がたぎるような魔性の女、しかも無自覚というのが、また始末に悪い。(これ、凄く褒めてます・爆)深い森の奥に生えるコケをとりに、月のない夜の中を秘薬でオオカミの目になって進むエリザベスとヴィクター。記憶の奥深くから蘇る野生にあぶられるような二人の姿が、美しくて官能的です。恋人であるコンラッドには決して見せない残忍さや激情を、エリザベスはヴィクターの前では無防備に全開にするんですよね。それは、絶対的に自分を愛している男に対して女が見せる甘えと残虐さでもあるんですが、こういう恋愛の駆け引きでは、16歳の少年なんて女に勝てるわけがない。夢遊病であるエリザベスが、ヴィクターのベッドに入ってくるシーンなんて、もう気の毒としか言いようがない感じ。そらなあ、もう骨抜きになるわなあ、と思わずヴィクターへの同情を禁じ得ないエリザベスの魔性っぷりです。オッペルは魅力的な少女を書く人ですが、この多重性をあらわにするエリザベスの美しさは格別です。彼女はこの物語の起爆剤。いやもう、ヴィクターは気の毒なほど頑張ります。しかも、三つの材料の最後は・・・これは、ネタばれになるんで書きませんが、えっ、そこまで!と思う大きな犠牲をはらうものなのです。(また、このときのエリザベスが凄い。サディズムの気配まで漂います)

このシーンを読んで、なぜこれがYA向けではなく、創元推理文庫で出たのか納得しましたが。どんなに心が揺れても、ヴィクターはとことんコンラッドを助けようとした。ワシと闘い、地底の奥深くに潜り、しかも最後には自分の命さえもかけてコンラッドの病気を治そうとした。彼が愛憎に揺れ動きながらも、いや、だからこそ、その気持ちを貫いた姿に胸打たれます。だからこそ、ラストでその彼が失ってしまったものの大きさに胸をえぐられるのです。大きな犠牲を払った上に大切な存在を失い、もしかしたらそれが自分のせいかもしれないと思ってしまったヴィクターが、これからどんな道を歩むのか。とても気になりますが、訳をされた原田さんの後書きによると、続編翻訳中だとか。楽しみにして待っていようと思います。

2013年4月刊行

東京創元社

 

つなのうえのミレット エミリー・アーノルド・マッカリー 津森優子訳 文渓堂

この本、絵がとても素晴らしいのです。表紙の女の子、主人公のミレットの表情に思わず引き込まれてしまう。きゅっと結んだ唇と真剣な眼差し。強い風の中で踏み出していく一歩目の緊張と勇気が伝わってきます。

ミレットは、パリの宿屋で一生懸命働く女の子。ある日宿屋に綱わたり師のペリーニという男がやってきます。彼が密かに綱わたりをしているところを見たミレットは、どうしてもやりたくなって密かに練習するのです。それを知ったペリーニは練習をつけてくれ、ミレットはどんどん上達します。ある日、ペリーニが有名な綱わたり師だったことをミレットは知って、一緒に仕事をさせて欲しいというのですが、ペリーニは一度失敗した恐怖から興行ができなくなっていたのです。勇気を振り絞って再び綱の上に乗るペリーニですが、やはり凍りついたように立ち止ってしまう。その彼のところに、思わず走っていくミレット。

私は絵については全く門外漢なのですが、綱わたりをしている時と、ただ歩いている時では、全く身体表現というのは違うだろうと思います。体全体に漲る鞭のようなバランス感覚。しなやかな筋肉の張り。集中しながら、余計な力が入らないようにコントロールする難しさ。そんな体の表現する美しさが、見事に描き表されていて見とれてしまう。しかも、ペリーニが長年興行を張ってきた一流のパフォーマーであることも、綱の上の彼の姿に刻みこまれているのです。それに対する、ミレットの子猫のような身軽さ。若さ漲る運動神経、負けん気の強い性格も、それはそれは生き生きと伝わってきます。絵に物語があって、それが言葉で説明されなくても見るものにわかる。だからこそ、二人が綱の上で会うシーンが胸に迫ります。まっすぐ自分を見つめる少女の瞳から溢れる信頼が、ペリーニにとってどんなに嬉しいことだったか。手を差し伸べ合う二人から生まれる新しい希望と力が、きらきらと夜空に輝くラストシーンがなんて美しいこと。

今、NHKでやっている朝ドラの「あまちゃん」を、毎朝楽しみに見ているのですが、主人公のアキちゃん演じる能年玲奈ちゃんの目が、とても綺麗で毎朝見とれてしまいます。水気を含んでキラキラしてるんですよねえ。きっと、ミレットが綱の上でペリーニをみつめた瞳も、何恐れることなく輝いていたでしょう。マネやロートレックの絵のような、ノスタルジックな味が漂う絵から、ピュアな気持ちが溢れてくる素敵な絵本です。

2013年4月発行

文渓堂

 

 

本のなかの旅 湯川豊 文藝春秋

旅に憧れ続けている割には、実際に行けることが少ない。2匹の猫をはじめ、諸々の事情が手ぐすね引いて待ち構えているややこしい主婦の身では、今のところ二泊ぐらいがせいぜい。この間も、親友とあれこれ旅の計画を練りながら、お互いを縛るものの多さにうんざりしたところだ。外国なんぞ夢のまた夢。だから、自分では行けない旅の本をたくさん買ってしまう。作家は旅好きな人が多いので、あれこれと読むのが楽しみなのだけれど、この本は「好き」という範疇を超えて、とり憑かれたように旅をする文筆家たちのお話だ。彼らの「旅」は人生そのものと抜き差しならないほど結びついていて、否応なくその人となりを語ってしまう。この本は18人の文筆家について語っていて、その客観的ながら熱い語りを読んでいるうちに、なぜ人は旅に出るのか、という根源的な命題があぶり出しのように浮かび上がってくるのがとても魅力的だった。私にとって、本を読むことは幼い頃から慣れ親しんだ「旅」であり、どこまで行っても終わらない旅なのだけれど、どうしても本物の旅に出てしまう彼らの心性と、どこか重なるような気がしてしまう。

この本で取り上げられているのは、宮本常一や柳田國男といった民族学者、開高健や金子光晴、ヘミングウェイ、ル・クレジオといった作家、チャトウィンやイザベラ・バードといった旅行家、と多岐にわたっているのだけれども、文学好きの私にとって一番惹かれるのは、やはり作家たちの旅。特に開高健と金子光晴、中島敦は若い頃耽溺して読んだ作家たちだけに、熱心に読んでしまった。若い頃の私はとにかく濫読で、その分読書も肌理が荒かったように思う。今日も昔に買った筑摩書房のトーベ・ヤンソンコレクションを引っ張り出して眺めていたのだけれど、当時と今では、読んだ印象が全然違う。一番大切なキモのところを読み飛ばしてたやん、とびっくりしたところだ。だから、こうしてもう一度丁寧な解読を通じて大好きな作家に出会うのは、懐かしく慕わしいと同時に、新しい気付きに胸を突かれてしまう。開高健の熱を孕んだ豊穣の旅に私は深く魅せられていたけれど、その芯にあった彼の孤独と寂しさを、どれだけ知っていただろうと思う。同じく、なぜか若い頃やたらに好きだった金子光晴の『女たちのエレジー』にも言及があって、一気にいろんな詩が蘇ってきたけれども、やっぱり18や19の私が、彼の哀歓の何かをわかっていたとは思えない。思えないけれど、私は湯川氏の言う、彼らの真ん中にある果てしない空虚や寂寥の気配に引き寄せられていたような気はする。ただ、あの頃は、それをカッコいいと思っていたような。冷や汗ものだなあ。でも、こうして纏めて頂いて思うのだが、小説家の旅は、どこまで行っても自分をめぐる旅という気がする。主体は旅ではなくて、その旅を味わう自分にあって、私は色濃い彼らの世界にいるのが好きだった。百閒先生など、その最もたる存在かもしれない。『阿房列車』はどこを旅しても濃い百閒ワールドで、あれを読んでいると、ぐるぐると百閒先生の手の中を巡っているような気になってしまう。湯川氏が、その文章を「世界が解体し、何かが無意味になる」と述べているのには、ものすごく納得してしまった。

自分の懐かしい本ばかりに触れてしまったけれど、こういう教養がたっぷり詰まった本を読む楽しみは、自分の知らない本を教えてもらえることだ。湯川氏の物凄い読書量と、教養にひたすら圧倒されるけれど、この本からは、旅を愛した人たちに対する、やっぱり深い愛情と尊敬が伝わってくる。だから、とにかく全部読みたくなってしまう。宮本常一の『忘れられた日本人』や、ル・クレジオのエッセイ、明治の初めに東北の奥地を旅したイザベラ・バードやアーネスト・サトウ、思わずまたチェックして読みたい本リストに書き足してしまった。(積んどく本がたっぷり増えてるのに、一体いつ読むねん!)去年買ったチャトウィンの旅行記も早く読まねば。本というのは、一冊読むとそこからまた道が繋がっていて、どこまでも終わらない旅になるのである。まだ見ぬ場所。私の知らない世界。それが、こんなにあるというのは幸せで、茫然として、果てしなくて・・・その旅の途中で間違いなく力尽きてしまうのがわかっていてやめられないのも、やっぱり旅だ。本の旅と、この足で歩く旅と、ふつふつと自分の中に渦巻く欲望を新たにかき立てられる一冊だった。

2012年11月

文藝春秋

 

 

トランプおじさんと家出してきたコブタ たかどのほうこ にしむらあつこ画 偕成社

音読、というのが結構好きです。声に出して読むと、黙読では味わえない言葉のリズムの面白さも味わえるし、とっても簡単に俳優気分も味わえます。その昔、とても長い間私は子どもたちに本の読み聞かせをしましたが、それは多分子どものためと言いながら、半分以上自分の楽しみだったんですよね。今はそれが出来なくてとても残念。特に、この本のように言葉が生き生きと脈打っているような物語に出会うと、「声に出して読みたい病」が再発して、困りました。子どもたちと、あれこれ突っ込んだりして笑いながら、読みたかったなあ。

まず、登場人物の名前が面白い。動物の言葉がわかるトランプおじさんは、ほとんどいつも本を読んていて、イルカーネポポラーネという白いずんどうの、ソファでいっつもごろごろしてる犬と暮らしています。この「イルカーネポポラーネ」っていうのを、「いるか~ね ぽぽら~ね」ってまず引き延ばして読みたいじゃありませんか。まったり暮らしている二人のところに、トゥモロウというブタが転がり込んできます。トゥモロウは、モンドリ・ドリーさんというおばあさんと一緒に暮らしていたのですが、家族だった動物たちが次々といなくなったのがおばあさんのせいだと思い込んで家出してきたのです。そこで、トランプおじさんとイルカーネポポラーネは、いなくなったカモとワニとテンと小鳥がどうなったのか、調査することになったのです。

このトゥモロウというブタさんの微妙な人(?)となりといい、トランプおじさん&イルカーネポポラーネの、のんびりした探偵っぷりといい、だあれも偉い人や「ああしましょう、こうしましょう」という人が出てこないのが最高に楽しいんですよね。たかどのさんの軽快な言葉のリズムに乗って、つるつる物語の中を滑っていく楽しみ。ところどころに「ふくみがあったのです」「じくじたる思いがしたのでしょう」なんて、大人の言い回しが出てきて、うまくジャンプする場所を作ってあるのもいい。こういう言葉を知って、自分の頭に書きこむ楽しみって、読書の喜びの一つですよね。このあたりの言葉遣いの呼吸が、さすがです。

猫のシマモヨウにそそのかされて生まれたトゥモロウのモンドリ・ドリーさんへの疑いは、実は妄想なのです。でも、調査しているうちにトランプさんたちもその妄想にどんどん巻き込まれていっちゃうんですよね。そのあたりにハラハラしながら、でも、読み手には彼らの妄想が、妄想であることがちゃんと伝わるように書いてあります。だから、子どもたちは、トゥモロウの妄想に皆が巻き込まれる物語を安心しながら楽しめるし、その一部始終を客観的に眺めることにもなっているんですよね。言葉というのは魔力があって、表に見えているものだけを使って、どんな風にも物語を作ることが出来る。それって、ほんとは怖いことなんですよね。例えば・・・ですが。皇太子妃の雅子さんに対する報道なんかを見ていると、マスコミの姑根性を凄く感じてしまうんですよ。ご病気が長くて自分のことを語る機会がないだけに、どんどん勝手に物語が作られてしまっている気がします。心の病を抱えた家族に対して、これは暴力に近いよなあと溜息が出る。そして、こんな風に誰かを追い詰めることを、自分もしてしまうかもしれないと怖くもなる。だから、トゥモロウが作った物語が、ドリーさんの実際の姿からどんどんかけ離れていくのを読みながら、「おーい、帰ってこいよ~!」と子どもたちが思ってくれたら嬉しいな、とこの物語を読んでいて思いました。「これはね、じぶんのよわいこころにつかまっちゃったってことだとおもうんです」という最後のトゥモロウの言葉に、つるつるっと楽しく読みながら、ぽーんと飛びこんで、「ああ、よかった~」って思える。たかどのさんの物語の中に張り廻らされた何気ない仕掛けに、「うんうん」といっぱいニコニコしながら頁を閉じました。子どもと一緒に読むと、ほんとに楽しいだろう一冊です。にしむらあつこさんの絵も、とっても可愛い。エプロンの似合うトゥモロウが最高です。

2013年4月

偕成社

 

 

モッキンバード キャスリン・アースキン ニキリンコ訳 明石書店

アメリカで「初めてのライフル」という子ども向けの銃で、5歳の兄が2歳の妹を撃ち殺すという事件があったそうで・・・。『馬を盗みに』(ペール・ペッテルソン 西田英恵訳 白水社  )を思い出してしまう。妹を殺してしまった兄はたった5歳で人を殺した記憶を背負って生きていくことになります。こんな残酷な事件が再三起こっても、なかなか銃を規制できないアメリカ、などと避難する言葉をつい言いたくなってしまうけれども、あれだけの悲惨な事故があっても日本が原発をやめられないのと、根は一緒なのかもしれないなと思います。どちらも、被害者として苦しむのは、幼なかったり、弱い立場にいる人たち、というのも共通しています。この物語の主人公のお兄さんも、学校で起こった銃の乱射事件(これまた、『少年は残酷な弓を射る』(ライオネル・シュライヴァー 光野多恵子/真貴志順子/堤理華訳 イーストプレス)を思い出します)に巻き込まれて殺されてしまったのです。残された妹のケイトリンは、アスペルガー症候群というハンディを抱えていて、お兄さんは彼女をいつも支えてくれた大切な存在でした。これは、兄を失ったケイトリンと、泣き虫のお父さんの、「その後」を描いた物語です。

自閉症スペクトラムの方たちがご自分で綴った文章を読むと、ぎゅっと引き込まれてしまうことが多いのです。チェスタトンが『棒大なる針小』で述べていた、小人の視点と重なるものがあるというか。私たちが一歩であるくところを、十歩かけていくような感じ。私たちには普通の庭に見える場所が、例えばコウロギくらいの体なら、そこはジャングルそのものでしょう。見えているものは同じでも、その尺度が全然違うのです。だから、いろんな発見がある。新しい発見もあれば、自分が幼い頃から長年慣れ親しんできた感覚や、ものの捉え方などに通じる箇所に、はっとすることも多いのです。でも、そんな彼らの内面は、外からは上手く見えない。『自閉症だった私へ』の中で、ドナ・ウィリアムスが「あまりに細かく感じすぎるが故に、かえって回りにはそのミクロさが見えない」というようなことを言っていました。つまり、見えない、もしくはわかりにくいだけで、悲しみも傷つく気持ちも、喜びも、おんなじなんですよね。そして、それが周りに伝わりにくい分、理解されなくて苦しむことも多いのです。ニキリンコさんが後書きで言うように、外国で一人いるようなものなのかもしれません。

この物語の主人公のケイトリンも、とても豊かな内面世界を持っています。でも、彼女と周りの世界との通訳をしてくれていたお兄ちゃんは、悲惨な事件で死んでしまった。彼女は深い深い孤独と悲しみの中にいます。お兄ちゃんが残した作りかけのチェストを見つめ、そこに潜り込むケイトリン。彼女が全身で泣いていることを、「悲しい」という言葉も、涙も一切書かずに伝えてくるアースキンの文章の力に、初めから引き込まれました。でも、たった一人の家族になってしまったお父さんも、彼女の気持ちを捉えることは出来ません。自分の悲しみで、いっぱいいっぱいなんですよ。ケイトリンは、少しずつ、手さぐりで歩き始めなければいけないのです。人は一人で生きられない。共に生きていくことは、痛みや悲しみ、喜びを共有することなんだけれども、それはアスペルガーのケイトリンにとって一番苦手なこと。でも、彼女は、お兄ちゃんのことを考え、「気持ちの区切り」を、まるで珍しい昆虫を探すように一生懸命探します。そんな彼女の真摯な真面目さが、とても切ない。もう、ほんとに小人が大きな山を越えるように、傍から見たら滑稽にも見えるくらいにアップアップしながら、一人で海にこぎ出していく彼女の姿に心打たれます。そして、彼女は自分だけの世界から少しだけ歩き出して、残酷な最期を迎えて、やりたいことも出来ないままに死んでしまったお兄ちゃんの心を思いやることを知るのです。「わたし自分の気持ちじゃなくて、お兄ちゃんの気持ちを代わりに感じてたよ」と叫ぶケイトリンは、悲しみと同時に、理解しあう世界への切符を手に入れたのです。

自分の気持ちを上手く伝えられなかったり、すれ違ったり。そのせいで誰かを傷つけたり、傷ついたり。ケイトリンのような孤独やしんどさは、アスペルガーの人だけが抱えるものではありません。私だって、自分の気持ちを言葉にしてしゃべることは、とても苦手です。こんな、何日もかかってやっと一つレビューをかけるようなトロいスピードですが、文章で書くほうが、まだマシ。だから、この物語のケイトリンの心に寄り添いながら、私は覗きからくりを反対から見るように、自分自身が、もしくは私たちが抱えている生きることの困難さをたくさん見つけることが出来ました。根っこは同じなんですよね。誰だって、理解されないこと、理解したいのに出来ないことに苦しんでいる。だからこそ、自閉の人たち、上手くこの世界と折り合っていくことが大変な人たちが生きやすい社会を作ることは、この世界そのものを生きやすくしていくことだと、この物語を読んで切実に感じたことでした。何だか世界はますます反対の方向に向かっているように思えて仕方ないけれども。作者のアースキンさんの危機意識も、そこにあるように思います。

さっきも書いたように、自閉スペクトラム、アスペルガーの方たちが、この世界をどんな風に見ているのかについての本を読むと、はっとさせられることが多いのです。初めて読んだのは、ドナ・ウイリアムス の『自閉症だったわたしへ』。この本を翻訳していらっしゃるニキリンコさんの『俺ルール!』(花風社)も目からウロコでした。『ぼくには数字が風景に見える』(ダニエル・タメット 講談社)という数字に共感覚を持っている男性の手記もとても心惹かれました。彼らと暮らす家族の視点から描いた児童書としては、『アル・カポネによろしく』(ジェニファ・チョールデンコウ こだまともこ 訳 あすなろ書房 )『ルール!』(シンシア・ロード おびかゆうこ訳 主婦の友社 )『トモ、ぼくは元気です』(香坂直 講談社)などがあります。

2013年1月刊行

 

 

 

 

桜ほうさら 宮部みゆき PHP

GWだというのに、このところ寒かったですね。花冷えの頃のようなお天気で、私のような寒がりには辛い。今日は暑いくらいでしたけど、また明日は冷えるとか。北海道は雪。気分は春というか初夏なのに・・・という落差がこたえるんですよね。この、「そうあるべき」という気持ちと、現実との落差というのは、概して精神状態に悪い。そして、家庭というのは、この落差だらけの場所なのかもしれません。

主人公の笙之介は、故郷を離れて江戸で暮らしているのですが、その理由は賄賂の疑いがかかった父が、自宅で切腹して果てたことにありました。もちろん家は断絶です。しかし、笙之介の父親は真面目一方な畑を耕すのが楽しみという人柄で、どうやら誰かの陰謀で罪をきせられてしまった疑いが強い。身に覚えのない父を追い詰めたのは、彼の手跡にしか思えない手紙でした。二男である笙之介は父の汚名を濯ぐ手がかりを求めて江戸に出てきたのです。人の手跡を、本人でさえわからぬほどに真似ることのできる人間を求めて、富勘長屋という貧乏所帯ばかりが集まる長屋で暮らす笙之介は、次々にいろんな事件と関わり、たくさんの人と出会います。長屋の気のいい住人たちとの友情や、桜の精のような女性・和香との出会い。狭い故郷の藩の中では見えなかったものが、江戸という人のるつぼの中で様々な人間の暮らしに向き合っているうちに段々見えてくるのが読みどころです。

家庭というのは、密室性の濃いものです。それだけに、離れてみて、もしくは時間が経ってやっと見えてくるものがあったりします。笙之介の母は、思い通りにならない自分の人生の帳尻を、自分に似た長男で合わせようとした。それが、一家の破滅の始まりだったんですが・・・。こういう理不尽なめぐり合わせにがんじがらめになってしまう人たちのドラマを書かせたら、宮部さんの右に出る人はそういないでしょう。笙之介の母だって悪人ではありません。本人は正しいことをしている積りなのです。この、正しいことをしている積りの人、というのがこの世で一番始末に負えません。自分の行動の裏に、何があるのかを考えてみることはしないので、軌道修正出来ないんですよね。子は親の影を生きる、といいます。母に可愛がられた兄は、母が溜めこんだ毒と一緒に、今度は金と権力が欲しい邪心と出会って破滅への道を進んでいくのです。

家族というのはなかなか厄介なものです。親子だから、兄弟だから、気持ちが通じたり、愛し合って生きていきたいと誰しもが思う。でも、そんなに簡単にはいかないんですよね、これが。この間も、佐野洋子さんの「シズコさん」を読み返していたのですが、母を愛せないという自責の念をずっと抱えていた佐野さんの苦しみが、娘として、母親として胸に沁みました。「親を愛せず、親から愛されないとしても、それだけで人として大切なものを失っているわけではない、家族だけが世界の全てではない」(著者インタビューより)ということを、宮部さんはこの物語で書きたかった、とおっしゃってますが、そのことを自分の心の真ん中まで得心させるには、なかなか大変なものがあります。この本の分厚さは、その心の旅の長さなのかもしれません。笙之介が、結果的に自分の名前も過去とも決別することになった最後の試練は、読むのは辛くなるほどキツいです。でも、笙之介には自分の居場所とも言える、自分で手に入れた人との繋がりがあった。その暖かさが、桜の花びらのように笙之介に降り注ぐラストが素敵でした。家族だから愛し合って当たり前、という「当たり前」を捨ててみたら、案外そこから新しい関係が始まるのかもしれない。現実を変えることは難しくても、心に届く物語の力がもたらすカタルシスによって、現実を新しく見つめなおす。最後の笙之介と和香の笑顔を思い描きながら、その可能性を思った一冊でした。

2013年3月刊行

PHP

 

とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢 ジョイス・キャロル・オーツ傑作選 河出書房新社

ジョイス・キャロル・オーツの傑作選です。以前読んだ『フリーキー・グリーン・アイ』もそうでしたが、オーツは「恐怖」がにじり寄ってくるのを書くのが上手いです。にじり寄ってくるというか、自分がにじり寄っていってしまうというか。ぽっかり空いている穴を覗き込みたくなる恐怖。恐怖って、ずるずると紐を手繰ると人間の個々の枠を超えて繋がる共同領域(勝手に言葉作ってますが)に赤ちゃんのへその緒のように繋がってるような気がする。オーツは、その恐怖の源泉のありかをよーく知ってるんでしょうね。自分たちのまわりに普通に転がっているアイテムを使って、その共同領域から無限の闇を引き出してみせます。だから、初めて読む短編なのに、知らないのに、デジャブ感があって、余計に怖い。しばらく現実に戻ってこれない怖さという、読書の幸せを感じました。怖いお話は、こうでなくちゃね。

オーツの筆は、グロテスクで独特な美しさを湛えています。例えば、七つの短編の中で一番長い作品、「とうもろこしの少女 ある愛の物語」。とうもろこしのヒゲのような、輝く金髪の少女が誘拐され、監禁されてしまうのですが、犯人は、なんと同じ学校の同級生の少女たち。そのことを知っているのは、彼女たちと、読者だけです。警察も母親も、学校の先生も、そのことにだーれも気づかない。気づかないままに進行する、監禁された密室での儀式めいた行為が、おぞましい。おぞましいんですが、昔、この少女たちの年頃に、オカルトめいたことを皆でしていたことをふっと思い出してしまいました。こっくりさんとか。放課後の教室でのタロット占いとか。のめりこみすぎて、集団ヒステリーのような状態になってしまったりとか。ラップ現象みたいなことが起こって、パニック起こして走り回ったりね。催眠術ごっこして、戻ってこれない子を皆で必死で介抱したり・・・。いやいや、おバカさんなこと、いっぱいやりました。だから、読んでいて、妙に疼くものがあるんですよ。知ってる。私、この怖さをどこかで知ってる、って。第二次性徴の前のほの暗い部分やコンプレックス、首謀者の女の子の深い絶望と過去の渦巻く古い屋敷の地下で展開される儀式の中心で輝く少女の髪の輝きに、くらくらします。

地上では少女の母親をめぐって、これまた私たちがよく知っている恐怖が展開していきます。マスコミと警察によって、シングルマザーである母親は、徹底的に秘密を暴かれ、好奇の目にさらされ、消費されていく。そして、偽の犯人に仕立てあげられた男のプライバシーも、徹底的に破壊されます。少女がいなくなったとわかった時、母親が警察に電話するのをためらうシーン、「九一一に電話すれば、人生捨てたも同然 九一一に電話すればあなたは乞食同然 九一一に電話すれは あなたは丸裸」・・・この恐怖を私たちはイヤというほど知ってる。自分が当事者でなければ、他人のプライバシーほど面白いことはない。無関係な人間への、そんな無自覚な残酷さを改めて掘り起こすオーツの筆にしびれます。地下と地上の狂気は、眠らされている少女を生贄にして展開し、爆発します。ラストの穏やかささえ、何かを孕んでいるように思わせるオーツの筆力が悪魔のように魅力的な一篇です。

ほかの短編も、それぞれ読み応えがあります。昔に別れたっきりの義理の娘(これが、また気味悪い娘なんですよ)に、墓地に連れていかれる「ベールシェバ」。「化石の兄弟」と「タマゴテングダケ」は双子をテーマにした話ですが、これもまた血の繋がりというものの、何ともいえない厄介さと憎しみと愛情が渦巻いてくらくらします。私が一番心惹かれたのは、「私の名を知るものはいない」という、妹が出来たばかりの少女・ジェシカの内面を描いた作品。帝王切開で出来た赤ちゃんに、両親や親戚の視線も愛情も集中してしまい、孤独にさいなまれるジェシカ。ぴりぴりした少女のアンテナが、何も言わなくてもすべてを見通しているようなネコの瞳と感応していくんです。もやのように立ち込める少女の悲しみに気付くものは、ネコと読者だけ。オーツの筆があまりにも美しくそのもやの立ち込める風景を描き出すものだから、ラストで赤ちゃんの息を吸い取ろうとするネコに自分が憑依しているような錯覚さえ覚えます。少女の内面を、こんなに繊細に描き起こしてしまうオーツに痺れました。以前読んだオーツの『アグリー・ガール』は、自分のことを醜いと思っている少女の内面を、細やかに描きだした佳品でしたが、こういうYA世代をテーマにしたオーツの作品を、もっと読みたいと改めて思います。

恐怖って何なんでしょうねえ。この本を読みながら、ずっとそのことを考えていました。恐怖というのは「知っている」ことが前提になりますよね。動物たちの恐怖のバリエーションは、人間よりはよほど少ないでしょう。想像力が深ければ深いほど、知覚できる喜びが大きいほど、その裏にある恐怖は大きく膨れあがっていく。数年前に、うちのぴっちゃん(ネコです。私はネコ馬鹿です)が行方不明になったときの恐怖は、私には筆舌に尽くしがたいものでしたが、それは、ぴっちゃんが私にはかけがえのない存在だからなんですよね。失うものがなければ、きっと恐怖は存在しない。この物語を読んだあとで、ネコたちのあったかい体を撫で撫でして「おかあさん怖かったわ~」と報告するのは、一種の快感でしたが、恐怖は快感とも深く繋がっているとも思います。恐怖って、もしかしたら生きるパワーの一つなのかもしれないですよね。とにかくオーツのこのパワーに、ある意味充電された感のある、がっつり読み応えある短編集でした。栩木玲子さんの翻訳と、あと書きのオーツについての文章も素晴らしいです。それによると、オーツはとても多作らしいです。もっと翻訳されないかなあ。

2013年2月発行