月白青船山 朽木祥 岩波書店

この物語のプロローグをもう何度読み返したことだろう。追っ手の気配を感じながら闇の中で笛に隠された瑠璃を塚に埋める若者。若者を導くような、妖しく光る白猫。この幻想的かつ、若者の血と汗の匂いまで感じるほどの緊迫した空気に肌が総毛立つような気さえする。ここから、引きずり込まれるままに物語にのめり込んでいく気持ちよさは唯一無二だ。物語は一旦夢から醒めたように現代へと移り、兵吾と主税という古風な名前を持つ兄弟が登場する。ある事情で夏休みの間東京を離れ、父の生まれた古い家に滞在することになった二人は、近所に住む靜音という少女と犬のダンと共に、不思議な場所と現実を行き来する一夏を過ごすことになる。

鎌倉には、八〇〇年近く前からの落ち武者の道である切り通しがそのまま残っているという。三人と一匹は、その切り通しから、時が止まったまま流れない村に迷い込む。その村の桜はつぼみのまま咲くこともなく、人々は闇に食い尽くされそうになりながら恐れと不安の日々を繰り返している。三人と一匹は、村人に失われた瑠璃を取り戻してほしいと頼まれるのだ。現代に帰ってきた彼らは、「星月谷」「大姫」「瑠璃」という言葉を道標に、鎌倉に秘められた悲しい伝説に迫っていく。歴史という地層が積み重なっている鎌倉という土地の魅力、小さな手がかりから謎を解き明かしていく探偵の謎解きのような面白さ。吾妻鏡をベースにした古典世界に触れる典雅な趣。あちこちにちりばめられている、次の本への扉。開けても開けてもきりが無い玉手箱のような作品世界の深みにため息が出る。これだけの複雑な構成をするりと読ませる手腕はさすがとしか言いようがないが、何より心打たれるのは、子どもたちが歴史や時間の壁を越えて、悲しみや痛みに閉じ込められた過去の魂を解放していくところだ。

この物語には幾つかの時代の深い悲しみが、夜空を貫く天の川のように流れている。いや、流れているならば良かったのだ。理不尽にもぎ取られ、踏みにじられたまま置き去りにされた悲しみ。その過ちを解放するのは、「不思議なできごとを苦もなく信じられる」子どもの力だ。その力は物語の力そのものでもあるし、大人の心に秘められた子どもの心を取り戻すことでもある。時間が止まった村の人々の願いを叶えたいという子どもたちの行動が、現在を生きる大人の心もまた動かしていく。ミッションを果たした子どもたちが見た鮮やかな風景は、その力の具現化したものなのかもしれない。「歴史とは過去と現在の対話である」とE・H・カーは述べている。まるで自分と関係なさそうな歴史の出来事が、実は現在と地続きの場所で繋がっていることを子どもたちは実感する。鎌倉という歴史と深く結びついた土地で、過去との対話を通して開いた心の扉は、未来を開く扉でもあるはずだ。物語への旅は、すぐに現実を変えるものではない。しかし、この旅で子どもたちと読み手の心には、先の見えない未来へ進むときの方向感覚のようなものが宿るのではないだろうか。いつか、この物語を手に鎌倉を旅してみたい。靜音や兵吾や主税とともに、輝く星空を眺めてみたい。

2019年5月 岩波書店

バレエシューズ ノエル・ストレトフィールド 朽木祥訳 金子恵画 福音館書店

 三人姉妹がいる。ポーリィンとペトローヴァとポゥジ-という可愛い名前の三姉妹だ。彼女たちはロンドンの大きなお屋敷にコックやメイドたちと暮らしているが、実は三人ともみなしごだ。屋敷の主人である大叔父の化石収集家が、世界中のあちこちで出会った親と暮らせない赤ちゃんを、お屋敷に送ってよこしたのだ。だから彼女たちは誰一人、実の親と会ったこともない。お屋敷を管理しているシルヴィアと彼女の乳母のナナ、コックやメイドたちと暮らしている。大叔父さんはポゥジーを送ってよこしてからは全くの行方不明。彼女たちは残されたお金で細々と暮らしているので、生活は倹約一筋。食事だって、お芝居で体験する『青い鳥』のチルチルとミチルとあまり変わらないくらいだ。だから、一番の問題は、子どもたちの学費をどうするかなのだ。教育にはお金がかかる。三姉妹は家計を助けるために舞台芸術学校に入り、自分で人生を切り開いていこうとする。

この物語の面白いところは、登場人物たちの誰一人、血が繋がっていないというところだ。大人たちは血の繋がっていない三姉妹にこれでもか、と愛情を注ぐ。親代わりの真面目で人の良いシルヴィアも、厳しくて世話焼きで愛情深い乳母のナナも、下宿人としてやってきたシェイクスピアの専門家のジェイクス先生も、数学の専門家のスミス先生も、芸術学校の先生のセオさんも、自動車修理工場の経営者のシンプソン夫妻も。教養であったり、知識であったり、ちょっとした楽しみであったり、自分たちが持っている有形無形の豊かなものを、チームを組んで三姉妹に注ぐのに何のためらいもない。それは三姉妹がみなしごだからとか、かわいそうだから、というところから発生した行動ではないように思う。目の前に困っている子どもがいるのなら、何かしら出来る大人が迷い無く手を差し伸べるのが当たり前でしょう、という潔い割り切り。こういうのを、ノブレス・オブリージュというのかもしれない。風邪をひいたポーリィンに薫り高いジンジャーティーを入れながら、彼女たちが姉妹になったいきさつを聞いたジェイクス先生がさらりと言う。

「あなたのことが、ほんとにうらやましいわ。そんないきさつでフォシルを名乗ることになったり、思いもかけないめぐりあわせで姉妹ができたりなんて、胸がおどるようなことだわ」

個としての人間の誇り高さをお互いに持ち合う、そんな人生の過ごし方がこの物語の中にいい風を吹かせていて、その空気を思い切り深深とすいこむのがとても心地良い。百年前のロンドンが舞台の物語なのだが、少しも古くない。ストレトフィールド自身がプロとして関わってきた商業演劇の神髄が感じられるし、何より少女たちの日常のデティールが見事に描かれている。彼女たちがいつも苦労する、オーディションのドレスにまつわるあれこれ。細かい生地の値段まで、額を付き合わせて真剣に相談するのを読んで共感しない女の子はいないだろうと思う。クリスマスの楽しい一日。夢のような舞台の裏にある現実。出演料の計算まで、しっかり描かれていておもしろい。完訳の強みだ。隅々まで考え抜かれた訳文はどこまでも読みやすく、やはり惜しげも無く豊かなものがさらりと詰め込まれているのが伝わってくる。子どもは親の愛情だけで育つのではなくて、こんなふうに様々な大人たちの眼差しや優しい手に包まれることが理想なのだと思う。この本に託された祈りのような愛情もまた、その優しい手の一つなのだ。

姉妹たちはつましい暮らしのなかで、思い切り笑って、悩んで、自分たちで答えを探していく。美貌で長女の責任感にあふれたポーリィン。本当は自動車と本が大好きで、舞台が苦手なペトローヴァ。バレエの天才で、幼さと老練さが同居する不思議な個性のポゥジ-。彼女たちは失敗もたくさんするけれども、そのときの大人たちの見守り方も素敵なのだ。装丁も美しく、訳注も後書きも何度も読んで飽きない。長く手元において、繰り返しこの姉妹たちに会いたい。

2019年2月刊行 福音館書店

トリガー いとうみく ポプラ社

二人の少女が、少しの間学校と家庭を離れ、生きる意味を問う旅をする時間が、とても繊細なタッチで描かれている。音羽(とわ)と亜沙見(あさみ)という、この少女たちの名前がいい。町の中に細くゆらめく、この二人にだけ見えている場所で、この名前が何度も何度も、お互いの心を開く呪文のように呼び交わされる。そのたびに、ふっとこの物語の中に自分も沈み込んでいくような気がする。

年の離れた姉が死んでしまってから、様子のおかしかった親友の亜沙見が家出し姿を消してしまった。亜沙見が悩んでいることを薄々感づきながら、何も踏み込むことが出来なかった音羽は、自分を責め続けていた。しかし、姿を消して三日後、そっと音羽のところに亜沙見がやってくる。母の目を盗んで一晩眠り、また出ていこうとする亜沙見に、音羽は、今度は見失わないという決意でついていく。 亜沙見がなぜ家を出たのか、それには彼女の出生の秘密が隠されている。亜沙見はそれを知ってしまったことで、自分が生まれてきたことが罪ではなかったのかと苦しむのだ。

この作品の中に三浦綾子の『氷点』という小説の話が出てくる。これも主人公の陽子の出生の秘密が物語の鍵となる、長編小説だ。その昔、遊びに行った先の親戚の家にこの本があり、あまりに面白くて、大人の本を読んで怒られはしないかとびくびくしながらも一晩で読んでしまった記憶がある。原罪、という言葉が、よくわからぬままに強烈に胸に刺さってしばらく抜けなかった。 自分はなぜ生まれ、なぜ死んでいくのか。自分が生まれてきた意味とは何か。こんなことを面と向かって誰かに聞いたら、「中二病?」「アイタタ」とちゃかされてしまうのがオチだろう。しかし、この世に人間と生まれてきて、この問いが心に浮かばない人がいるだろうか。誰かに聞いてみたいと思わない人がいるだろうか。誰もが抱えていて、だからこそ口にするのが怖いこの問いにまっすぐ取り組む、いとうみくという作家の姿勢に、私は背筋がきゅっと伸びる思いがする。人は、この問いの中に首まで深く漬かることが必要な時があると思うからだ。例えば生きるのが苦しいと思うとき。自分の居場所がないと思うとき。同じ問いの中を彷徨いたいと、人は本の扉を開くのだから。

「とわ」という音がフランス語の、あなた、toi という音と同じなのは偶然だろうか。とわ、と、あさみ。あなたと、朝を見る。二人で揺れ動く心のトリガーを握っているような、ひりひりと痛む夜の旅には、忘れがたい風景が、心に焼きついて離れない言葉がたくさん刻まれている。いとうは、言葉にならない思いを、言葉で風景にして見せることのできる、希有な作家だ。どうしたって届かない、本当にはわかりようがない他者の痛みと心に、わからないから必死に手を伸ばし、寄り添う音羽の葛藤が、この作品の一番の光だと私は思う。迷い、戸惑いながらもその光を連れて朝の中に帰ってきた二人の物語を、何度も味わいたい。

2018年12月刊行 ポプラ社

むこう岸 安田夏菜 講談社

 印象的な表紙だ。渋谷のスクランブル交差点のような場所を、制服を来た少年が陸橋から見下ろしている。中一の和真は、有名中学に猛勉強の末に入学したものの、落ちこぼれて公立の中学に転校した。頭の中は惨めな敗北感でいっぱいだ。そして、もう一人、見下される場所に閉じ込められ、水槽の中の金魚のように窒息しかかっている少女の樹希がいる。父が借金を残して死に、パニック障害を抱える母親は働くこともできない。生活保護を受けながら、母親のかわりに家事をして妹の面倒を見ている。この物語は、スクランブル交差点をすれ違う人たちのように、この社会のなかでほとんどお互いの姿を見ることのなかった二人が出会い、見つめ合うところから何が始まるのかを描いた物語だ。 

「けどさー。生まれた家によって、できることって決まっちゃうんだよねー。愚痴じゃないよ、それがほんとだもん。」

 

樹希には夢がある。しかし、生活保護を受けている家庭では、大学進学は許されない。高校を卒業すれば、働くことが義務づけられている。結局、この生活からは抜け出せないのかという憤りと理不尽。「働かずに金もらえるんだ」とさげすまれることに、樹希は疲れ果てている。まるで、閉じ込められた水槽の金魚のように、窒息しかかっている。

ふとしたことでアベルというナイジェリア人のハーフの少年の勉強を見ることを樹希に頼まれた和真は、「居場所」というカフェでアベルと勉強をはじめる。それまで「貧しい世界」に住んでいる人たちのことを怖いと思い、嫌悪感を抱いていた和真は、樹希とアベルと知り合ううちに、二人の居場所の無さが、自分の孤独と響き合うのを感じ、安らぎを覚えるようになる。そして、樹希の夢と、それが叶えられない理不尽を知って、生活保護のことを調べはじめる。

生まれる場所や環境、性別、親の有無。生まれる場所を私たちは選べない。選べないからこそ、私たちの人生は社会や歴史の構造的な問題と密に繋がっているのだが、生まれた場所しか知らない子どもたちからは、その仕組みは見えない。見えないままに、あなたたちはそこにいるしかないんですよ、という理不尽を、あたかも自分で選んだ道のように思い込まされることになったりする。その不条理にぶち当たり、もがく二人の姿が、いちいち胸に響いてくる。ひたすら人に勝つことを親に求められる和真と、とにかく貧乏人は大人しく小さくなっていろと言われる樹希の苦しみは、そのまま、大人社会の生きづらさと理不尽に繋がっているからだ。

しかし、二人はただ黙って負けてはいない。同じ空気を吸っていても違う場所にいた二つの視線。それが交差し、ぶつかる場所で火花が散って、化学反応のようにお互いの心に燃えていくものを、安田は骨太に描き出す。面白いのは、その希望の火が「知る」という養分を吸って燃えさかっていくところだ。自分たちの権利とは何か。生きていく尊厳とは何か。とっつきにくい法律のなかにその問いかけがあり、叶えられていない理想があり、対応しきれていない現実があるということが、実感をもって迫ってくる。そして「知る」ということが行動に繋がる。そこが、とてもいい。この世界は変えられる。その気概が読み手の胸を叩いてくる。

和真が最後に見つけた、自分が「知りたい」「学びたい」となぜ思うのかという問いに対する答えを、何度も読んで私は心に刻んだ。子どもたちだけではなく、ぜひ大人にも読んでもらいたい。感じてもらいたい。そして、心に火を燃やしてほしい。この世界を変える火を。

2018年12月刊行

青いスタートライン 高田由紀子作 ふすい絵 ポプラ社

東京オリンピックの影響だろうか。最近、若い子たちの活躍が大きく取り上げられることが多い気がする。将棋の藤井四段のような、何十年に一度という天才の活躍は確かに心弾むけれど、心配性の私は、あんまり若い子たちを急かさないで欲しいなあと思ってしまう。
ゆっくり大きくなるタイプの子どもは焦ってしまうんじゃないだろうか。

この物語の主人公、颯太もゆっくりタイプの男の子。でも、仲良しのハルは、もう中学受験の準備を始めている。そして、お母さんのお腹の中には、生まれてくる妹か弟がいる。颯太は、自分の周りの流れが、急に速くなったように感じてしまう。おばあちゃんのいる佐渡に夏休みの間行くことになった颯太は、おばあちゃんが見せてくれたオープン・ウォータースイミング、つまり遠泳の大会の映像に心惹かれて、なぜか自分も出場することを決めてしまうのだ。プールで25mしか泳いだことのない颯太に、おばあちゃんは夏生という17歳のかっこいい男の子をコーチにつけてくれる。佐渡の美しい海で、颯太と夏生の夏が始まるのだ。

この物語の魅力は、言葉が五感を鮮やかに立ち上げてくるところだ。海の匂い。日焼けした肌の感触。颯太が体で感じることが、まっすぐに心の波として打ち寄せる。颯太は、決して要領が良いわけでも、運動神経がいいわけでもない。海もほんとは怖かったりする。でも、そんな自分にまっすぐ向き合う素直さが颯太にはある。この、海という大きな大きなものに向き合うときの、もう、自分以上でも、自分以下でもない感じ。自分がちっぽけだよなあと思う爽快感が、颯太と、夏生という二人の少年の姿から自分に吹き込んでくる。この風に、吹かれているのがとっても気持ちいいのだ。海に向かうときは、誰かと比べる必要なんてない。遠泳は、最後は心だという、地元の漁師のおじいちゃんの言葉が、とてもいい。佐渡に生きている人だからこその、人生の言葉だ。

海の魅力は、怖さとセットになっていると思う。どこまでも広がる視界は、気持ちいいけれども、果てがなさ過ぎて、不安になる。入ってみたい衝動にかられるけれども、いきなり深くなって足を取られたり、見た目ではわからない急な流れがあったりする。子どもが、人生という、先の見えないものに対する恐れや不安にも重なるようにも思う。その海の、ほんとに短い距離だけれど、自分の力で泳ぎ切って見えた輝く風景を、颯太と一緒に見て欲しいなと思う。きっと海に行きたくなる。佐渡は作者の高田さんの故郷だ。この海、私も行ってみたい。もう、颯太のように泳ぐのは無理だけど(笑)

八月の光 失われた声に耳をすませて 朽木祥 小学館 


偕成社版に収録されていた「雛の顔」「石の記憶」「水の緘黙」、文庫版に収録された「銀杏のお重」「三つ目の橋」、そしてこの美しい本に新たに収録された「八重ねえちゃん」と書き下ろしの「カンナ―あなたへの手紙」。密やかな声を心に響かせる短篇が7篇積み重なって、こんなに美しい装丁で再刊されたことがとても嬉しい。君野可代子さんの装画と挿絵が素晴らしい。表題紙の上には桜の花びらの薄紙。それぞれの短篇のタイトルにも、手向けの花のような、心のこもったイラストがついている。七つの物語は、あの日から少しずつ違う時間軸で描かれている。原爆という途方もない暴力になぎ倒された、小さな人間たちの物語に、とても相応しい装丁だ。

「いとけないもんから・・・・・・こまいもんから、痛い目におうて(あって)しまうよねえ」

これは、老犬のトキを権力に殺された日の「八重ねえちゃん」の言葉だ。戦争末期に、軍服用の毛皮にしたり、軍用犬として使うという名目でたくさんの犬たちが殺された。年老いて、もはやしっぽもすすけてしまった老犬まで殺されてしまうと思っていなかった綾は「なんで連れていかれたん、なんで、なんで」と泣き叫ぶ。しかし、その問いにきちんと答えられる大人はいないのだ。ただ、お人好しで、皆に軽く扱われていた八重ねえちゃんだけが、「いけんよねえ、こうようなことは、ほんまにいけんようねえ」と一緒に泣いてくれた。この少女たちの、小さなものを踏みつけにするものたちへの怒りと、人の痛みに共感する力が、もっと、もっと、人間には、今の私たちには必要なのだ。

この7篇の物語を、私は何度読み返したことだろう。まるで自分の記憶のようになっている、と思うほどなのだが、やはり読み返すたびに違うものが見えてくる。例えば、「水の緘黙」。この短篇は、7篇の中で、一つだけ「ウーティス―ダレデモナイ」という『オデュッセイア』のキュプクロスに寄せられた頌が物語の前に付けられている。この物語の中に出てくる人たちは、「僕」「K修道士」という風に、固有名詞を持たない。「僕」は、あの日からさすらい続けている。

「水の緘黙」の自分の名前を忘れてしまった「僕」は、ついてくる影たちから逃げるように彷徨うが、夜には川のほとりに寝に帰る。そこは、原爆スラムと呼ばれた川沿いの町だったのだろうか。だとすれば、そこで、ただ彷徨う「僕」を助けていたのは、やはり被爆して、そこにバラックを建てて住んでいた人たちだったのだろうか。原爆スラムは、「ヒロシマの恥部」と言われ続け、その後強制撤去されて平和公園の一部になった。そう思うと、「僕」は、忘れられていく町の記憶とも重なるようにも思える。そこで、懸命に生きていた人たちの姿とも重なるように思う。記憶は、歴史の出来事として記録されるときには単純化されてしまう。物語だけが、人間の心と体の厚みをもって、語り継がれていくのだ。

私は、この物語は、生き残ってしまった者と、あの日に声も上げずに死んでいった人たちとの、魂の対話の物語だと思っている。生き残った人たちにも、ずっと苦しみはつきまとった。「三つ目の橋」の娘の同級生たちは、あの日奉仕作業でピカにあい、誰一人助からなかった。彼女は腹痛で休んでいたのだ。本当に偶然にすぎなかった生と死を分けた理由は、ずっと娘を苦しめる。被爆による差別。親を亡くした生活の困窮。「僕」は、復興していく町が見かけを変えていっても、ずっと変わらず苦しみを抱えている生き残ってしまった人たちの心そのもののように、行き場もなくさまよい、数え切れないほどの人たちが死んでいった水辺にうずくまっている。

しかし、「水の緘黙」の扉絵に添えられている百合の花のように、この苦しみは、人間が人間の心を持っているがゆえの、切ない希望なのだと思う。この7篇の物語の主人公たちの苦しみに触れると、その尊い痛みから、ひそやかで香り高い、小さな花が生まれるように思うのだ。作者が、渾身の思いを込めて咲かせたこの花が、この表紙のようにたくさんの人たちの心に咲いて、世界中に広がっていくことを、私は心から願っている。それこそが、照りつける八月の光を、絶望の闇から希望の光へと変える力になるのだから。書き下ろしの「カンナ あなたへの手紙」は、70年以上経った日本から、世界に向けて警鐘を鳴らす物語だ。今月の7日、ニューヨークの国連本部で、核兵器禁止条約が採択されたが、世界で唯一の被爆国である日本は、その条約に署名しなかった。「八重ねえちゃん」の少女のように、「どうして、どうして」と問い続ける決意も込めて、この物語を、また何度も読み返そうと思う。何度も、何度も。

 

海に向かう足あと 朽木祥 角川書店

この物語は、近未来ディストピア小説だ。朽木さんは、この物語を、未来への強い危機感をもって書いたという。折しも、アメリカの大統領が交代し、彼が次々と放つ手前勝手な政策は、世界中を混乱に陥れている。この不安の中で読むこの物語の、なんとタイムリーで美しく切なく恐ろしいことか。

主人公は、エオリアン・ハープ(風の竪琴)号という美しいレース用のヨットを共有している6人のクルーたちだ。オールドソルト(年期の入ったヨット乗りのこと)の相原さん、照明デザイナーの寡黙でいい男のキャプテン村雲。家族思いの公務員三好。物理学者で政府の研究機関に勤める諸橋。可愛い泉ちゃんという妹のいる若い研人と、バイトで生活費を稼ぐ他はすべてをヨットに捧げるヨットニートの洋平。彼らはチームでレースに出る。そのために、生きていると言っても過言でもないほどの海にとりつかれた男たちだ。
彼らは、新しい船を手に入れて、シンプルで最上の滞在型ホテルのある三日月島を起点にしたレースに出る計画を立てる。前半では、その楽しい未来に向かっての、光溢れる充実した日々が鮮やかに紡がれる。しかし、読み進むうちに、彼らを取り巻く世界の空気が徐々に影を増していくのが伝わってくる。そして念願のレース当日、なぜか応援に来るはずの家族も現れず、電話も繋がらない。ネットとかろうじて繋がった電話からの断片的な情報から伝わってくる現実に、ヨット乗りのユートピアのような島で、彼らは恐ろしいまでの絶望に見舞われてしまうのだ。

作者は、クルーたちの家族や恋人、ペットや仕事との関係を前半で細やかに描いている。そのディテールの楽しいこと。特に海とヨットの情景のすばらしさは、朽木ファンなら『風の靴』でお馴染みで、嬉しいことに、やっぱり彼らのホームは『風の靴』の舞台でもある風色湾だ。つまり、この湾のどこかには、海生のおじいちゃんの別荘があり、アイオロス号が係留されているんだと思うと、一気に想像は膨らんでいく。この作品は成人向けなので、主人公たちの世界も広い。特に寡黙なキャプテン村雲と、どこか儚げな輝喜の恋は印象的だ。残る5人の個性も鮮やかで、彼らが楽しげに船を走らせる、そのあれこれを読んでいるだけで、自分も海の空気を吸っている気持ちになれる。そう、かけがえのない日常の美しさが溢れているのだ。

6人が協力しないと走らないヨットのように、私たちは目に見えない糸を、共に生きる人や動物、土地や仕事、大切にしている場所に編み目のように張り巡らせて生きている。その奥行きと肌触りを、作者は6人のクルーたちを中心に、これまでの作品世界も重ねて緻密に描きあげ、奥深い作品世界を作り出す。だからこそ、彼らを襲う絶望が、彼らが失ってしまったものの重みが、自分の痛みのようにずっしりと伝わってくる。私は初めて読んだとき、ラストシーンの切なさに涙が止まらなかった。

「だけど、俺たちにとっては、いきなりなんかじゃない。俺もお前も、お前らも、ぼんやりとでもわかってただろう。こんな日が来るかもしれないって」

最年長の相原さんのこの言葉は、きっと、今誰しもが持っている不安そのものだ。だからこそ、今、世界を不安が覆い始めた今、読んで欲しい。この物語は、一つの絶望の形だ。しかし、これは生きる喜びと輝きをふんだんに詰め込んだ絶望、たくさんの人がこの絶望を噛みしめて別の足あとを作って欲しいと願う希望でもある。

 

車夫2 いとうみく 小峰書店

浅草を舞台に、人力車を引いている「吉瀬走」という少年を軸にした連作短編の二作目。「力車屋」の男たちや、そこにやってくる客の視点で一話が描かれる。走は両親の蒸発、という事情があって一人で力車屋にやってきた。他の男たちも、何かありそうなんだが、一作目ではあまりわからずにいた。この「わからない」というのもミステリアスでいいのだが、この二作目では少しずつ彼らの事情がわかっていくのに、ときめいてしまう。いきなり間合いをつめるのではなくて、この連作のように、人とも小説ともゆっくり知り合うのが好きだ。そして、二作目まできて、前作にぼんやりと感じていたことが、ますますくっきりしてきた。それは、この物語が、去るものと去られるものが複雑に交差する物語だということだ。

それを象徴するのが、冒頭の「つなぐもの」だ。この物語は、走という少年が母に置き去りにされてしまうところから始まる。いつも、そこにあると思っていた日常。部活をして、ご飯が用意されていて、進学すると思っていた場所から遠く離れてしまった彼が見つけた居場所が、力車屋だ。しかし、この「つなぐもの」は、走に置き去りにされてしまった部活の仲間の少年遠間直也の視点から描かれている物語だ。走は、自分が去ったことが、これほど仲間たちの心に影を落としていることには気づいていないのだろう。この人間の立体感を短編連作という形で見せてくれるのが、この物語の面白いところだ。人は、案外自分が人にどんな波紋を投げかけているのか、知らぬまま生きている。

「ストーカーはお断りします」「幸せのかっぱ」「願いごと」「やっかいな人」「ハッピーバースディ」と、その他に五つの短編が収められていて、走や力車屋の人たちのところに様々な人たちがやってくる。走たちも彼らも、大切な人や、当たり前にそこにあると思っていた場所を失ったり、無くしかけている人たちだ。しかし、つかの間、走たちの車に乗り、いつもと違う場所から自分を眺めて、笑顔を一つ抱えて帰っていく。その笑顔がまた、走たちの心を動かしていく。そのダイナムズムをとらえる作者の目は鋭くて優しい。人はそれぞれの人生を、それぞれの速度で駆け抜けていく。親子や夫婦でも、全く同じ歩調で歩く、などということはできないし、いつも何かを置き去りにしたり、失ったり、ぐるぐる堂々巡りしたりしながら生きている。この力車屋に集まっている面々の顔ぶれも、心のありようも、数年後には変わってしまっているのだろう。この物語の底に流れている切なさは、かけがえのない「今」が鮮やかに刻印されているせいではないだろうか。

最後の「ハッピーバースディ」で、走は自分を捨てた母から自分の意思で旅立っていく。縁も人との関係も、失ったものも、またそこから初めて自分で掴んでいけばいい。このシンプルな願いにたどり着くまでの走の心の軌跡が、人力車の轍のように鮮やかに胸に残って切なく、後悔だらけの人の生が愛しくなる。「やっかいな人」で、1の冒頭に出てきたミュールの女の子が出てきてしまったから、「車夫」はもうこれで終わりなんだろうか。「3」が読みたいなと、もう思っているのだけれど。

あと、これは余談だが、前作からずっと高校生という年齢の子たちのセーフティネットについて気になっている。走の場合は事業に失敗した父親がまず蒸発し、生活に行き詰まった母親も走を置いていなくなった。私学に通う走は学費も払えなくなり、家賃も生活費もなく一気に行き場を無くして途方に暮れてしまう。走は、先輩の前平くんが力車屋に連れてきてくれたから良かったものの、いろんな理由で親を頼れなくなる高校生は、きっととても多いのではないかと思うのだ。人と人との繋がりが薄くなり、自己責任という冷たい言葉が大きな顔をしている今、相談したり、頼ったりできる大人が身近にいる子は少ないだろう。そして、見た目は大人に近い高校生の子たちを食い物にしようとする闇は、あちこちにぽっかりと口を開けているはず。彼らの困難を捨て置いて、いいはずがない。いとうさんのこの作品はそういう社会に対する一つの問いかけでもあると思う。

風の靴 朽木祥 講談社文庫

暑い。とにかく暑すぎるので、爽やかな風が欲しくてこの本を読み出したら止まらなくなった。海風に乗って、心がどこまでも駆けていくような気がする。

出来のよすぎる兄と同じ私立中学の受験に失敗した夏。中一の海生は、もやもやした気持ちを連れて、親友の田明と愛犬のウィスカーを連れて家出を決行する。江ノ島のヨットハーバーから、風色湾のおじいちゃんのクルーザー、アイオロス号まで。A級ディンギーのウィンドウシーカー号を、自分たちだけで駆っていこうとする冒険の旅なのだ。海生にヨットの操縦を教えてくれたかっこいいおじいちゃんは、受験のあとで急死してしまった。抱えきれない思いがふくれあがった少年は、海に向う。

ヨットを子どもたちだけで乗り回す。もちろん私にはそんな経験はないのだが、海生たちがウィンドウシーカーで海にこぎ出していく瞬間、胸が疼くような本物の喜びがある。海やヨットを知り尽くしている作者の知識が深く、海の輝きと風を切るヨットの音まで伝わってくることが一つ。そして、読み返して改めて感嘆するのは、この物語が内包している世界観の深さと広がりだ。

この物語は、海生という少年の他に、もう一人主人公がいる。それは、ウィンドウシーカーとアイオロスの持ち主で、今、目の前にはいない海生のおじいちゃんだ。海風に洗われたような、かっこいいおじいちゃんだが、彼の人生も、決して平坦ではなかったようなのだ。彼と、海生の父である息子の間にあっただろう葛藤や、失ってしまった愛するものへの悲しみの物語が、どうやらこの物語の背後にはあるらしい。目の前にいないからこそ、読者は残された船や本や、海生の思い出から彼の生き方を想像し、思いを馳せる。凜と生き抜いたおじいちゃんの人生は、海生という少年の心と体の中に、しっかりと根を張って息づいている。だからこそ、おじいちゃんが海生に残した言葉が、羅針盤のように、しっかり胸に届くのだ。その言葉は、ぜひ物語の中で読んで欲しい。そのとき、この物語のタイトルが、星の輝きのように胸に落ちてくるはずだから。風はいろんな方向から吹いてくる。しかし、その風をどう掴み取るか、どう生きるかは自分で決めることなのだ。こう言ってしまうのは簡単だが、それはとても難しい。でも、難しいからこそ、船出していく喜びもあるんだということが、この物語の中で夏の海のように煌めく。海の風が心を後押しする。

夏休みの子どもたちと船、というとアーサー・ランサムを連想するのだが、ランサム・サーガの第一巻『ツバメ号とアマゾン号』の解説で、訳者の神宮輝男が、物語に寄せて、こう書いている。

「このよろこびは、レクリエーションというようなものではなく、人間がもっとも人間らしくなったときに感じる深いよろこびだとわたしは思います。」

この言葉を、私はこの『風の靴』にも捧げたい。神宮輝男氏というと、私たち児童文学に関わる人間には神のような存在なのだが、その神が『風の靴』にも見事な解説を寄せている。それも、ぜひ読んで欲しい。文庫で再刊になって、ますます手にとりやすくなった。夏休みに、親子で読むと、絶対楽しい一冊。

2016年刊行
講談社

小やぎのかんむり 市川朔久子 講談社

夏休みになった。ツイッターでも誰かが言っていたが、家庭にあんまりいたくない子どもたちにとっては、しんどい季節だ。家庭というのは密室みたいなもので、子どもが生き辛さを感じていても、それを自分で自覚したり、意識化するのは難しかったりする。抑圧されていればいるほど家庭の中は風通しが悪くなる。この物語の主人公の少女、夏芽も、DV気質の父親がいる家庭での生き辛さを抱え、摂食障害に苦しんでいる。そこから一歩抜け出して、風通しのいい場所に出た彼女が見た夏の風景が、この物語には広がっている。

DVって、男性的な価値観と深く繋がっているんだなあとしみじみ思う。女性を自分の支配下におきたいという欲望。夏芽を殴ったり、わざと貶めたりする父親が、清楚な制服の私学の女子校に夏芽を通わせたがること。その制服を着た夏芽に、電車の中で痴漢が群がってくること。それはほの暗い欲望の水脈で繋がっている。アイドル、という名の女の子たちに、プロデューサー顔したオジサンたちが制服を着せて性的な歌を歌わせるのも、水脈は同じなんだろう。でも、その欲望は社会的に許されているのに、当の女の子たちが被害を訴えても、「おまえたちがしっかりしていないからだろう」「服装がだらしないせいだろう」と言われるのがオチだったりする。人を支配するには、尊厳をとことん奪うのが近道だから。抑圧されて膨れあがる憎しみは、夏芽自身を傷つける。でも、風が吹き抜ける山寺にきて、やはり家族の暴力に苦しむ小さな雷太を守ろうとしたとき、夏芽は、自分の尊厳こそ一番大切なものだと気付き、教えられるのだ。その夏芽をそっと見守る美鈴や穂村さん、とぼけた味の住職の存在感が、とてもいい。

子どもが、この表紙の小やぎのように頼りない足で歩き出したとき、頭の上に載せてあげなければいけないのは、「あなたは、かけがえのない、唯一無二の大切な存在である」という、当たり前で、でも、一番大切なかんむりなのだ。そのかんむりは、人間なら誰しもが持っている。ところが、それが「ある」ときちんと声に出し、言葉にし、お互い大切にすることは、この物語のように、一筋縄ではいかないことが多い。しかし、そのかんむりは、あなたの頭の上にある。例えどんな卑怯な手段で奪われても、何度も自分の手で掴むことが出来る。そして、誰かに優しく載せてあげることも出来る。出来るんだよ、という作者の声が、「ベヘヘヘエエ」というやぎの声と一緒に聞こえてくる。

市川さんは、今年度の日本児童文学者協会新人賞を『ABC!曙第二中学校放送部』(講談社)で受賞されている。柔らかさと強さを併せ持つ言葉が、いつも新鮮で素敵だ。次作も楽しみで仕方ない。

2016年4月刊行 講談社

八重ねえちゃん 朽木祥 日本児童文学 2016年7・8月号

 
戦時中に、たくさんの犬や猫たちが、殺されていったことをご存じだろうか。食糧事情が悪くなる中で、ペットを飼うことが敵対視されるようになり、軍服用の毛皮にしたり、軍用犬にしたりするためという名目で犬や猫が供出させられたのだ。役立つどころか、ただ無残に殺されてしまっただけの子たちもたくさんいたという。この物語の主人公・綾子の飼っていた老犬のトキも、役所の人に連れていかれてしまった。日向ぼっこと綾子を迎えに出てくるのが精一杯のおじいさん犬だったのに。何の罪もない動物たちを、人間を信頼しきって暮らしていた犬や猫を、なぜむごたらしく殺さねばならないのか。泣きながら「なんで連れていかれたん。なんで、なんで」と聞く綾子の問いに、大人たちは黙ってしまうか、苦々しい顔をするだけ。母には「お国のため」だから「仕方が無い」と、叱られてしまう。ただ一人、年の近い叔母の八重姉ちゃんだけが、綾子の問いに何とか答えようと一生懸命言葉を探し、「こうようなことは、いけんよねえ」と、怒りに震える綾子と共に泣いてくれたのだ。

賢い大人たちは、綾子の「なんで」という問いかけに「聞こえないふりや見ないふり」をした。心のどこかでおかしいと思っていても、その気持ちと向き合えば、「非国民」であることに繋がってしまうからだ。それは、すなわち危ない目にあうことでもあり、大きな壁にたった一人でぶつかりにいくようなことでもあった。だから、皆、自分の家の犬や猫が殺されていくのを、見て見ぬふりをした。私だって、戦争中に生きていれば、同じことをしただろう。しかし、老犬のトキが連れていかれてから半年後、広島には原爆が落とされ、昭和20年だけで14万人が死んでいったのだ。「聞こえないふりや見ないふり」をした大人たちだけではなく、たくさんの、本当にたくさんの若者や子どもたちが死んでいった。爆心地近くでは建物疎開などの勤労奉仕作業のために、女学校や中学校の学生たちが多数集められていた。彼らの大多数は、即死し、遺体も残らぬほど焼けてしまったのだ。綾子と一緒に泣いてくれた八重姉ちゃんも、帰ってこなかった。朽木は、この短い短編で、史実を踏まえ、歴史を見据えた問題提起を、小さい子どもの眼差しを通して見事に描き出している。子どもたちは動物への愛情を通して、戦争の残酷さを心で知ることが出来る。また、この物語を読んだ大人は、「どうして」という綾子の問いかけのくさびを、胸に打ち込まれるはずだ。

「いとけないもんから・・・・・・こまいもんから、痛いめにおうて(あって)しまうよねえ・・・・・・」

戦争で一番先に踏みにじられるのは、子どもや弱い立場にいるものたちだ。八重姉ちゃんは、良く言えばおっとり、要領が悪い愚直な人だった。でも、彼女だけが綾子の、連れていかれたトキの痛みと苦しみに共感し、「こうようなことはいけんよねえ」と言う力を持っていたのだ。人が生きていくには、賢く社会の中で立ち回るのも必要なことだ。しかし、それだけでは、人は大切なものを見失ってしまう。
 アウシュヴィッツ収容所にいた経験を、評論や小説で語り続けたプリーモ・レーヴィは、当時の大多数のドイツ人が、「意図的な無知と恐怖が、ラーゲル(収容所)のおぞましい残虐さを証言したかもしれない多くの「市民」の口をつぐませることになった」と述べている。(『溺れるものと救われるもの』)私たちは収容所、というとアウシュヴィッツやビルケナウ、ダッハウ、くらいしか思いつかないが、当時のドイツ領には、地図が真っ黒になるほど収容所があった。そこに物品を納入したり、労働力をただで使って利益を得ていた一般企業も多く存在した。囚人服、ガス室の装置、多くの薬品、建築資材。何しろ500万人以上のユダヤ人たちが収容され、殺されていったのだ。その維持に「普通の人々」が関わらないはずがない。でも、彼らは「目と耳と口を閉じて」語らなかった。そして、皆が自分の足元に開いている暗闇を見ようとしなかったのだ。賢く生きるということは、「意図的な無知」に繋がりやすいのだ。
 これは他人事ではない。日本にも、あまり知られていないが、ナチスドイツのように中国大陸から人々を強制連行してこき使った収容所がたくさんあった。今年の課題図書である『生きる 劉連仁の物語』(森越智子 童心社)はその問題を扱っている。日本は、その戦争の反省に立って、平和憲法を守ってきたはずだ。しかし、その足元が揺らいでいる。参院選で自民党が圧勝し、その大勢が判明した途端に、憲法改正という言葉が大量に、それまで沈黙していたメディアから流れた。本来なら権力の監視役としての機能を果たさねばならないメディアは、もうその役割を放棄して、「賢く」目と耳と口を閉じていこうとしている。その姿勢は、私たち日本人の心性をそのまま反映しているのだと思う。『帰ってきたヒトラー』という映画を先日見に行ったのだが、その中でヒトラーは「普通の人々が私を選んだのだ」と言っていた。大きな暗闇が、今、「賢く」生きていると思っている私たちの足元に開いてはいまいか。

この物語の最後、18歳になった主人公の綾子は、原爆のあの日を思い出しながら、「どうして、あんな恐ろしいことが起きたのだろう」と激しく読み手に語りかける。その声が、いつまでも胸の中でこだまする。愚直な子どもの「どうして」を大人が手放してしまったあと、犠牲になるのはこれからを生きる子どもたちなのだ。この物語には、「今」に繋がる大切な問いかけがたくさん詰まっている。たくさんの人に読んで欲しい。

一三番目の子 シヴォーン・ダウド パム・スマイ絵 池田真紀子訳 小学館


一人の女が産んだ一三番目の子を、その子の十三番目の誕生日に、生け贄に捧げよ。そうすれば、一三年間の繁栄が約束される。約束が守られないとき、村は暗黒の神ドントによって滅ぼされるであろう。その呪いにより、主人公のダーラは、明日一三歳の誕生日を迎え、足に石をくくりつけ、海に沈められるのだ。ダーラはそのためだけに、家族からも離されて育てられてきた。

この残酷な一日を、作者は様々な眼から描いていく。ダーラの、死を目の前にした夜。恐怖に震える彼女の前に、一度も会ったことのなかった双子の兄・バーンが現れる。村では、一三番目の子を誰も産みたがらない。二人の母・メブも、自分が双子を妊娠していることに気付かなかったのだ。十二番目に生まれたのが男の子のバーンで、十三番目が女の子のダーラ。しかし、この最後の夜に、二人はクロウタドリの案内で、「運命の裏側」を覗くことになる。どちらが十三番目の子どもだったのかを知ってしまうのだ。真実を隠してきた母の悲痛な叫びと、それを笑う産婆の会話を聞いた二人が、それぞれお互いを助けるために死を決意する。その姿に、母のメブは「どうかこの一度だけ、正しい道をお示しください!」と神に叫ぶ。

生け贄になるダーラ、双子の片割れのバーン、母のメブ、家族はそれぞれの苦しみにあえいでいる。なぜ殺されるのが自分なのかという苦しみ。また、なぜ自分ではないのかという苦しみ。二人の子のどちらかを選ばねばならなかった母の苦しみ。そのどれもが、抑制された音楽的な文章からずっしりと伝わってくる。彼らの苦しみは、愛情と贖罪ゆえの、人としての苦しみだ。この苦しみも恐ろしいが、この物語の中で一番恐ろしいのは、この家族の傷みを全くの他人事として見放している、その他大勢の村人たちだ。これまでそうだったから、という思考停止。一人の命を捧げることで、大多数の人間が幸せになるなら、それが正しいという考え方。皆にあわせておかないと、矛先が自分に向かってきちゃ困るんだよね、という気持ち。その名前を名乗らぬ人たちが、声を揃えて「二人とも殺せ!」と叫ぶのだ。

シヴォーン・ダウドが、この物語を神話のような舞台設定にしたのは、この苦しみと無関心が、人間がずっと抱えている普遍的なものであることを伝えたかったからなのではないか。私たちは、ダーラとバーン、メブ、どの立場にも運命のいたずらでなり得る。しかし、知らず知らずのうちに、海に沈む子どもを無感動に眺めていることが多くはないか。こんな犠牲が間違っている、と声にあげることを怖れて見て見ぬふりをしているのではないか。子どもたちを縛る呪いは、他でもない人間が作り上げたもの。それを断ち切ったのは、双子と母の勇気だったが、本当はこんなことをさせてはいけないんだ、という強い気持ちが物語の底から伝わってくる。シヴォーン・ダウドは、『ボグ・チャイルド』でカーネギー賞を受賞した、将来を嘱望される作家だったが、47歳でこの世を去った。貧困地域や少年院など、本を読む環境にない子どもたちへの読書活動にも関わっていた方だったらしい。私は翻訳されたものを全部読んでいるが、どれも忘れがたい作品ばかり。彼女の未発表作品を、こうして美しい本にして出版して貰えて、本当に嬉しい。

パム・スマイの挿絵と装丁が素晴らしく、物語を一羽の鴎になって目撃するような、神秘的な気持ちにさせられる。手元に置いて、何度も何度も読み返したい。運命のいたずらに巻き込まれた痛みに震えるときも、この世界で一番美しいものに触れたいときも。そして、今、自分がこの物語のどこに立っているのかを確かめたいときも。呪いの連鎖を断ち切って、新しい土地に降り立った若い二人の背中が眩しい。これからを生きる、若い人たちに読んで欲しい本だ。

2016年4月刊行
小学館

エベレストファイル シェルパたちの山 マット・ディキンソン 原田勝訳 小学館


うちの図書館で高校生むけの冊子を作るというので、急いで読了。山岳小説も色々読んだが、シェルパを主人公にした小説は珍しいのではないか。エベレストという特別な山の魅力と、主人公のシェルパの少年・カミのピュアさが呼応しあって、厳しく美しい物語になっている。

物語は、ボランティアでネパールにやってきたイギリス人の少年を道案内役に進行する。急病にかかった彼を看護してくれた美しい少女・シュリーヤの頼みで、彼女の恋人であるカミを探しにいく。そこまでがまず大変なのだが、エベレストにも、カミという少年にも、簡単には会えないということなのだろう。「ぼく」が見たものは、首から下の機能を失ってベッドに横たわるカミの姿だった。物語は、そのカミの口から語られる。アメリカの有名人ブレナンを隊長とした登山隊に、シェルパとして参加したカミが、何を見、何を経験したのか。作者はカミの人生にも深く踏み込んで、彼がひとりの人間として、どんな希望や決意を持ってこの登山に臨んでいるのかを描き出していく。古くからの慣習が根強く残る土地で、カミが生まれながらの婚約者ではなくシュリーヤとの恋を成就させるには、お金が必要だった。この登山は、カミにとって将来を切り開くための大きなチャンスだった。カミのシェルパという仕事への誇りとシュリーヤへのまっすぐな愛情が、この物語の大きな魅力だ。

  しかし、高額なお金が動くエベレスト登頂は、まっすぐな情熱以外の様々な思惑や事情を孕んでいる。隊長のブレナンは、将来の大統領候補とも言われる人物で、それだけに注目度も高い。ブレナンにとっても、どうしても成功させなければならない登頂なのだ。しかし、エベレストは気高く来るものを拒む。様々な困難を乗り越えて、たった二人で頂上を目の前にしたカミとブレナンがした選択は、その気高さに相応しいものだったのか否か。

エベレスト登頂の経験がある作者は、様々な思惑を持って集まってくる人間達の事情を、リアルに描き出している。やはりそこにはお金が動いていて、名誉や名声が欲しい人間の欲望も渦巻いているのだ。しかし、エベレストはそんな人間たちを、丸裸にしていく場所だ。たったひとり、「個」として偉大な存在に向き合ったときに、どう生きるのか。自分以外、誰も知らない嘘を、人はつき通すことが出来るのか。負けるとわかっている道を進む勇気とは何か。人の、真の強さとは何か。様々な問いを投げかけて、何も言わずそびえ立つ山の存在感に痺れ、魅入られる一冊だ。

片手の郵便配達人 グードルン・パウゼヴァング 高田ゆみ子訳 みすず書房

戦争の本や資料を読み込んでいると、「国」という巨大な一つの生き物同士が戦争をしていたかのように錯覚してしまうことがある。実際にはガンダムのモビルスーツのようなものを着た「日本」なんて、どこにも在りはしない。殺したり、殺されたりするのは、自分の息子と変わらない若い男の子たち。爆撃に手や足をもがれ、暴力に蹂躙されていくのは、「おばちゃん」と声をかけてくれたりする、幼い頃から知っている桜色の頬をした娘たちなのだ。そのことを心に教えてくれるのは、いつもこの本のような、心に響く物語だ。

この本の舞台は、戦時下のドイツの一地方の村だ。主人公のヨハンは17歳。召集されて三週間で片手を吹き飛ばされ、故郷の村に帰り、やりたかった郵便配達人の仕事についている。ヨハンは、毎日20kmの山道を歩いて郵便を配達する。戦場に母達が送る小包。息子たちが送る手紙。これは、嬉しい便りだ。そして、戦死の黒い手紙を運ぶのもヨハンだ。彼が歩く道のりは、そのまま物語の地図となり、郵便が運ぶ生と死とともに、くっきりと在りし日の村が立ち上がる。パウゼヴァングの筆は見事な客観性に貫かれていて、この小さな世界に、人として生きる全てがあることを描き出していく。

70年前のドイツの人々の日常は、私たちと何ら変わらない。そこにはやはり愛情があり、裏切りや悲しみがあり、家族への慈しみがあり、恋する若者たちがいる。ヒトラーに対するスタンスも様々だ。特にヨハンの母は、助産師として自分が取り上げた若者たちを戦争に送り込むヒトラーを毛嫌いしている。その物言いは痛快だ。同じ国に住んでいても、人の心は同じ色ではない。パウゼヴァングは、村人たちの人生を次々に描いていく。銃弾で顔を吹き飛ばされた青年。五人の子どもを残して死んでいった夫の死を嘆く未亡人。疎開してきた夫婦。強制労働で連れてこられたポーランドやウクライナの人々。100人いれば、100通りの物語がそこにあり、それぞれの人生に、戦争が黒々と食い込んで傷跡を残している。

彼らは、今、ここに生きている私たちと、痛みや苦しみも、喜びも、何ら変わらない。だからこそ、何度も立ち止まって考えてしまう。なぜ、彼らがヒトラーに政権を与えてしまったのか。なぜ、ホロコーストへの道を歩くことになってしまったのか。近隣諸国やアジアに侵略し、沖縄を地上戦に巻き込み、本土を空襲や原爆で徹底的に破壊され、何十万もの若者たちを戦争に送り込んだ、かっての日本に住んでいた人たちも、きっと今の私たちと変わらぬ日常を生きていた。だとしたら、これからの私たちが、また同じ道のりを歩まない保証が、どこにあるだろう。「戦争が出来る国になる」などという威勢の良い言葉に乗せられた後の光景が、確実にこの物語の中にある。

ヨハンは、母と同じ助産師のイルメラと恋をする。夏の青空のような、命の息吹に満ちた輝かしい日々。本当なら、そこから新しい命の連鎖が繋がっていくはずだった。しかし、戦争の理不尽は、全てを押しつぶす。一旦終わったかのように見えた戦争が、逃れられぬ運命のようにヨハンを飲み込んでいくのだ。ラストの理不尽さに、私はしばし呆然とした。物語を通じて、まるで息子のように片手の郵便配達人のヨハンを愛してしまった自分がいて、この理不尽を受け入れるのが辛すぎた。しかしパウゼヴァングは、あえてこの理不尽を読み手に突きつけたのだろう。

ヨハンの片手は、ヨハンだけのものだった。他の誰の手も、その代わりにはなれなかった。その片手を奪ったのは、兵士を入れ替え可能なものとして使い捨てる軍隊であり、戦争だ。ヨハンの失われた片手は、「個」のかけがえのなさ、人間の尊厳そのものなのだ。彼は、残った片手で村人たちの郵便という愛を繋ぐ。恋人を抱きしめ、キスをする。ところが、詳しいことはネタバレになるから書かないが、ヨハンは再び、彼自身であることを剥奪されてしまう。この世界に、片手の郵便配達人は、ヨハンただひとりだった。でも、彼はそのただ一人のかけがえのなさも奪われる。これが、戦争だ。人間というものが複数ではなく単数でのみ存在するかのように、地上にひとりの人間しか存在しないように人間を組織することで、全体主義は成立すると、ハンナ・アーレントは言う。戦争は、もっとも精鋭的な全体主義そのものだ。私たちはモビルスーツを着たガンダムではない。吹き飛ばされた片手は永遠に戻ってこない。

あなたは、今、どこにいるのかと。この理不尽にたどりつく道筋は、あなたの心の中にあるのではないか。一見平穏な日常に、黒々と戦争へと続く道筋は刻まれていないか。ヨハンが片手を奪われることを許してしまったとき、収容所ではやはり個人としての尊厳を奪われたユダヤ人たちがモノのように殺されていった。どんなに綺麗事で飾っても、八紘一宇や美しい日本、などという言葉に乗せられてしまったが最後、日本は近隣諸国を蹂躙して自分たちも深い深い傷を負うことになる。戦争は一旦始まれば、巨神兵のように全てを焼き尽くしてしまう。そこから逃れられる人間など、誰一人としていない。私たちは二度と人間としての尊厳を、失ってはならない。ヨハンの片手が、それを教えてくれる。

「ヒトラーの独裁政治は誘惑的でした。自分が何をすべきか、自ら判断する必要はなかったからです」

これは、後書きでのパウゼヴァングの言葉だ。終戦時17歳だった彼女は、軍国少女だったという。一昨年亡くなった児童文学者の古田足日も、戦時中に受けた皇国教育が、嘘っぱちだと知ったとき、自分がどう生きていけばよいかわからなくなったという。その思いが彼を児童文学へと駆り立てていくのだが、パウゼヴァングのこの作品にも、同じ苦しみと願いが込められているように思う。ナチスが配ったユダヤ人を貶める本を読んだヨハンが母にその是非を尋ねたとき、彼女はこう言い放つ。「あんたの脳みそはなんのためにあるの?」ドイツは、戦後自分たちの過ちと向き合い、子どもたちにも戦争責任を教えてきた。しかし、日本は過ちの痛みをまっすぐ見つめることを怠り、歴史を自分たちの都合のいいいように書き換えようとさえしている。再び片手が失われないように。誰の命と尊厳も奪われたり、奪ったりすることのないように、最大限脳みそを使わなければならない時が、もう既に来ている。パウゼヴァングのこの本は、そのことを教えてくれる。

2015年12月刊行

みすず書房

 

 

淵の王 舞城王太郎 新潮社

「私は光の道を歩まねばならない」

 この物語の語り手は、主人公をすぐ傍で見つめ続ける目に見えないが、確固たる意志や人格を持つ者であり、主人公はその存在には気付いていないことになっている。しかし、この言葉は、その設定を唯一飛び越えて、主人公が語り手に宣言した言葉なのである。この小説のメタ構造を、さらに飛び越えた、メタ宣言なのだ。つまり、この言葉は小説世界を貫くまっすぐな芯であり、舞城の挑戦的な宣言が主人公の口から語られたものなのではないかと思う。その証拠に、この言葉は最後の「中村悟堂」でもう一度繰り返される。ところが、この唐突な宣言を聞いた目に見えぬ語り手は、アイタタ、と主人公のさおりちゃんを思い切り揶揄する。 「あははははははははは!」「是非歩んで欲しいよ!」「頑張ってさおりちゃん!」と。

 この揶揄は、軽い言葉のようでいて、実はとてつもなく重い。時間が止まって全てを吸い込むブラックホールのように重いのだ。平和や相互理解や、基本的人権の尊重なんて生ぬるいんだよ。結局世の中は強いもの、金持ってるものが勝ちなんだよ。その中で「光の道を歩まねばならない」なんて言ってたら、笑われるよー、いいの?そんなこと言ってたら、踏みつぶされちゃうよん、という、にやにやした虚無。舞城は、そのブラックホールに、言葉で錐を突き立てる。「中島さおり」「堀江果歩」「中村悟堂」という三人の主人公は、底知れない悪意の塊、にやにやとすり寄ってくる「淵の王」に、壮絶な闘いを挑むのだ。しごくまっとうに生きること。自分を、友達を大切にし、誠実に生きること。生きることを楽しむこと。しかし、その中で、彼らは傷つき、ぼろぼろにされ、あげくの果てには飲み込まれてしまうのだ。ただその事実だけを見ると、虚無派の言う「負け」なのかもしれない。しかし、彼らは、間違いなく光の道を歩いたのだ。

 私たちは、自分の生きているどの地点でも、自分の人生、自分の物語が意味しているものを完全に振り返ることができない。それがわかるのは、人生に終止符を打つとき、暗闇に飲み込まれるときなのだろう。この物語は、はじめに書いたように、単なる主人公と読者、という二元性にもう一つのファクターを放り込んでいる。普通なら黒子として身を潜めている語り手が、別個の人格として登場するメタ構造になっているのだ。従って、読み手の感情移入や視線も、その語り手と同調することになる。さおりちゃん、果歩、悟堂、の人生を見つめ、彼らの人生が光であることを知っているのは、語り手だけ。その語り手は、自分を見つめ続けるもう一人の私かもしれないし、さおりちゃんに果歩が、悟堂にさおりちゃんが、というふうに、これまた入れ子になった語り手がついているのかもしれない。(ややこしい!)しかし、とにかくこの物語は、生が死という暗闇に飲み込まれんとするときに読む黙示録なのかもしれない、と私は思うのだ。この物語を語っているのは、生と死の狭間の一点に立つもの。そこに立ち、「私は光の道を歩んだ」と思える人生とは何か、とこの物語を読みながら考えてしまった。もちろんミステリとしても、単なる怖い話としても、たまらなく面白い。でも、私にとってこの物語は、虚無や他者への無関心というブラックホールに舞城が渾身の力で切りつけた、光の一撃に思えて仕方ない。
 
 今、国会前で、日本中で、理不尽に押しつけられようとしている法案と闘うために、勇気を出して声を上げている若者たちがいる。この物語の主人公たちのまっとうさ、光の道をごく自然に歩もうとする姿が、私には彼らと重なって見える。若者たちを、愚者たちが用意している暗闇に差し出してはいけない。絶対にさせない。そう思う。