海に向かう足あと 朽木祥 角川書店

この物語は、近未来ディストピア小説だ。朽木さんは、この物語を、未来への強い危機感をもって書いたという。折しも、アメリカの大統領が交代し、彼が次々と放つ手前勝手な政策は、世界中を混乱に陥れている。この不安の中で読むこの物語の、なんとタイムリーで美しく切なく恐ろしいことか。

主人公は、エオリアン・ハープ(風の竪琴)号という美しいレース用のヨットを共有している6人のクルーたちだ。オールドソルト(年期の入ったヨット乗りのこと)の相原さん、照明デザイナーの寡黙でいい男のキャプテン村雲。家族思いの公務員三好。物理学者で政府の研究機関に勤める諸橋。可愛い泉ちゃんという妹のいる若い研人と、バイトで生活費を稼ぐ他はすべてをヨットに捧げるヨットニートの洋平。彼らはチームでレースに出る。そのために、生きていると言っても過言でもないほどの海にとりつかれた男たちだ。
彼らは、新しい船を手に入れて、シンプルで最上の滞在型ホテルのある三日月島を起点にしたレースに出る計画を立てる。前半では、その楽しい未来に向かっての、光溢れる充実した日々が鮮やかに紡がれる。しかし、読み進むうちに、彼らを取り巻く世界の空気が徐々に影を増していくのが伝わってくる。そして念願のレース当日、なぜか応援に来るはずの家族も現れず、電話も繋がらない。ネットとかろうじて繋がった電話からの断片的な情報から伝わってくる現実に、ヨット乗りのユートピアのような島で、彼らは恐ろしいまでの絶望に見舞われてしまうのだ。

作者は、クルーたちの家族や恋人、ペットや仕事との関係を前半で細やかに描いている。そのディテールの楽しいこと。特に海とヨットの情景のすばらしさは、朽木ファンなら『風の靴』でお馴染みで、嬉しいことに、やっぱり彼らのホームは『風の靴』の舞台でもある風色湾だ。つまり、この湾のどこかには、海生のおじいちゃんの別荘があり、アイオロス号が係留されているんだと思うと、一気に想像は膨らんでいく。この作品は成人向けなので、主人公たちの世界も広い。特に寡黙なキャプテン村雲と、どこか儚げな輝喜の恋は印象的だ。残る5人の個性も鮮やかで、彼らが楽しげに船を走らせる、そのあれこれを読んでいるだけで、自分も海の空気を吸っている気持ちになれる。そう、かけがえのない日常の美しさが溢れているのだ。

6人が協力しないと走らないヨットのように、私たちは目に見えない糸を、共に生きる人や動物、土地や仕事、大切にしている場所に編み目のように張り巡らせて生きている。その奥行きと肌触りを、作者は6人のクルーたちを中心に、これまでの作品世界も重ねて緻密に描きあげ、奥深い作品世界を作り出す。だからこそ、彼らを襲う絶望が、彼らが失ってしまったものの重みが、自分の痛みのようにずっしりと伝わってくる。私は初めて読んだとき、ラストシーンの切なさに涙が止まらなかった。

「だけど、俺たちにとっては、いきなりなんかじゃない。俺もお前も、お前らも、ぼんやりとでもわかってただろう。こんな日が来るかもしれないって」

最年長の相原さんのこの言葉は、きっと、今誰しもが持っている不安そのものだ。だからこそ、今、世界を不安が覆い始めた今、読んで欲しい。この物語は、一つの絶望の形だ。しかし、これは生きる喜びと輝きをふんだんに詰め込んだ絶望、たくさんの人がこの絶望を噛みしめて別の足あとを作って欲しいと願う希望でもある。

 

車夫2 いとうみく 小峰書店

浅草を舞台に、人力車を引いている「吉瀬走」という少年を軸にした連作短編の二作目。「力車屋」の男たちや、そこにやってくる客の視点で一話が描かれる。走は両親の蒸発、という事情があって一人で力車屋にやってきた。他の男たちも、何かありそうなんだが、一作目ではあまりわからずにいた。この「わからない」というのもミステリアスでいいのだが、この二作目では少しずつ彼らの事情がわかっていくのに、ときめいてしまう。いきなり間合いをつめるのではなくて、この連作のように、人とも小説ともゆっくり知り合うのが好きだ。そして、二作目まできて、前作にぼんやりと感じていたことが、ますますくっきりしてきた。それは、この物語が、去るものと去られるものが複雑に交差する物語だということだ。

それを象徴するのが、冒頭の「つなぐもの」だ。この物語は、走という少年が母に置き去りにされてしまうところから始まる。いつも、そこにあると思っていた日常。部活をして、ご飯が用意されていて、進学すると思っていた場所から遠く離れてしまった彼が見つけた居場所が、力車屋だ。しかし、この「つなぐもの」は、走に置き去りにされてしまった部活の仲間の少年遠間直也の視点から描かれている物語だ。走は、自分が去ったことが、これほど仲間たちの心に影を落としていることには気づいていないのだろう。この人間の立体感を短編連作という形で見せてくれるのが、この物語の面白いところだ。人は、案外自分が人にどんな波紋を投げかけているのか、知らぬまま生きている。

「ストーカーはお断りします」「幸せのかっぱ」「願いごと」「やっかいな人」「ハッピーバースディ」と、その他に五つの短編が収められていて、走や力車屋の人たちのところに様々な人たちがやってくる。走たちも彼らも、大切な人や、当たり前にそこにあると思っていた場所を失ったり、無くしかけている人たちだ。しかし、つかの間、走たちの車に乗り、いつもと違う場所から自分を眺めて、笑顔を一つ抱えて帰っていく。その笑顔がまた、走たちの心を動かしていく。そのダイナムズムをとらえる作者の目は鋭くて優しい。人はそれぞれの人生を、それぞれの速度で駆け抜けていく。親子や夫婦でも、全く同じ歩調で歩く、などということはできないし、いつも何かを置き去りにしたり、失ったり、ぐるぐる堂々巡りしたりしながら生きている。この力車屋に集まっている面々の顔ぶれも、心のありようも、数年後には変わってしまっているのだろう。この物語の底に流れている切なさは、かけがえのない「今」が鮮やかに刻印されているせいではないだろうか。

最後の「ハッピーバースディ」で、走は自分を捨てた母から自分の意思で旅立っていく。縁も人との関係も、失ったものも、またそこから初めて自分で掴んでいけばいい。このシンプルな願いにたどり着くまでの走の心の軌跡が、人力車の轍のように鮮やかに胸に残って切なく、後悔だらけの人の生が愛しくなる。「やっかいな人」で、1の冒頭に出てきたミュールの女の子が出てきてしまったから、「車夫」はもうこれで終わりなんだろうか。「3」が読みたいなと、もう思っているのだけれど。

あと、これは余談だが、前作からずっと高校生という年齢の子たちのセーフティネットについて気になっている。走の場合は事業に失敗した父親がまず蒸発し、生活に行き詰まった母親も走を置いていなくなった。私学に通う走は学費も払えなくなり、家賃も生活費もなく一気に行き場を無くして途方に暮れてしまう。走は、先輩の前平くんが力車屋に連れてきてくれたから良かったものの、いろんな理由で親を頼れなくなる高校生は、きっととても多いのではないかと思うのだ。人と人との繋がりが薄くなり、自己責任という冷たい言葉が大きな顔をしている今、相談したり、頼ったりできる大人が身近にいる子は少ないだろう。そして、見た目は大人に近い高校生の子たちを食い物にしようとする闇は、あちこちにぽっかりと口を開けているはず。彼らの困難を捨て置いて、いいはずがない。いとうさんのこの作品はそういう社会に対する一つの問いかけでもあると思う。

風の靴 朽木祥 講談社文庫

暑い。とにかく暑すぎるので、爽やかな風が欲しくてこの本を読み出したら止まらなくなった。海風に乗って、心がどこまでも駆けていくような気がする。

出来のよすぎる兄と同じ私立中学の受験に失敗した夏。中一の海生は、もやもやした気持ちを連れて、親友の田明と愛犬のウィスカーを連れて家出を決行する。江ノ島のヨットハーバーから、風色湾のおじいちゃんのクルーザー、アイオロス号まで。A級ディンギーのウィンドウシーカー号を、自分たちだけで駆っていこうとする冒険の旅なのだ。海生にヨットの操縦を教えてくれたかっこいいおじいちゃんは、受験のあとで急死してしまった。抱えきれない思いがふくれあがった少年は、海に向う。

ヨットを子どもたちだけで乗り回す。もちろん私にはそんな経験はないのだが、海生たちがウィンドウシーカーで海にこぎ出していく瞬間、胸が疼くような本物の喜びがある。海やヨットを知り尽くしている作者の知識が深く、海の輝きと風を切るヨットの音まで伝わってくることが一つ。そして、読み返して改めて感嘆するのは、この物語が内包している世界観の深さと広がりだ。

この物語は、海生という少年の他に、もう一人主人公がいる。それは、ウィンドウシーカーとアイオロスの持ち主で、今、目の前にはいない海生のおじいちゃんだ。海風に洗われたような、かっこいいおじいちゃんだが、彼の人生も、決して平坦ではなかったようなのだ。彼と、海生の父である息子の間にあっただろう葛藤や、失ってしまった愛するものへの悲しみの物語が、どうやらこの物語の背後にはあるらしい。目の前にいないからこそ、読者は残された船や本や、海生の思い出から彼の生き方を想像し、思いを馳せる。凜と生き抜いたおじいちゃんの人生は、海生という少年の心と体の中に、しっかりと根を張って息づいている。だからこそ、おじいちゃんが海生に残した言葉が、羅針盤のように、しっかり胸に届くのだ。その言葉は、ぜひ物語の中で読んで欲しい。そのとき、この物語のタイトルが、星の輝きのように胸に落ちてくるはずだから。風はいろんな方向から吹いてくる。しかし、その風をどう掴み取るか、どう生きるかは自分で決めることなのだ。こう言ってしまうのは簡単だが、それはとても難しい。でも、難しいからこそ、船出していく喜びもあるんだということが、この物語の中で夏の海のように煌めく。海の風が心を後押しする。

夏休みの子どもたちと船、というとアーサー・ランサムを連想するのだが、ランサム・サーガの第一巻『ツバメ号とアマゾン号』の解説で、訳者の神宮輝男が、物語に寄せて、こう書いている。

「このよろこびは、レクリエーションというようなものではなく、人間がもっとも人間らしくなったときに感じる深いよろこびだとわたしは思います。」

この言葉を、私はこの『風の靴』にも捧げたい。神宮輝男氏というと、私たち児童文学に関わる人間には神のような存在なのだが、その神が『風の靴』にも見事な解説を寄せている。それも、ぜひ読んで欲しい。文庫で再刊になって、ますます手にとりやすくなった。夏休みに、親子で読むと、絶対楽しい一冊。

2016年刊行
講談社

小やぎのかんむり 市川朔久子 講談社

夏休みになった。ツイッターでも誰かが言っていたが、家庭にあんまりいたくない子どもたちにとっては、しんどい季節だ。家庭というのは密室みたいなもので、子どもが生き辛さを感じていても、それを自分で自覚したり、意識化するのは難しかったりする。抑圧されていればいるほど家庭の中は風通しが悪くなる。この物語の主人公の少女、夏芽も、DV気質の父親がいる家庭での生き辛さを抱え、摂食障害に苦しんでいる。そこから一歩抜け出して、風通しのいい場所に出た彼女が見た夏の風景が、この物語には広がっている。

DVって、男性的な価値観と深く繋がっているんだなあとしみじみ思う。女性を自分の支配下におきたいという欲望。夏芽を殴ったり、わざと貶めたりする父親が、清楚な制服の私学の女子校に夏芽を通わせたがること。その制服を着た夏芽に、電車の中で痴漢が群がってくること。それはほの暗い欲望の水脈で繋がっている。アイドル、という名の女の子たちに、プロデューサー顔したオジサンたちが制服を着せて性的な歌を歌わせるのも、水脈は同じなんだろう。でも、その欲望は社会的に許されているのに、当の女の子たちが被害を訴えても、「おまえたちがしっかりしていないからだろう」「服装がだらしないせいだろう」と言われるのがオチだったりする。人を支配するには、尊厳をとことん奪うのが近道だから。抑圧されて膨れあがる憎しみは、夏芽自身を傷つける。でも、風が吹き抜ける山寺にきて、やはり家族の暴力に苦しむ小さな雷太を守ろうとしたとき、夏芽は、自分の尊厳こそ一番大切なものだと気付き、教えられるのだ。その夏芽をそっと見守る美鈴や穂村さん、とぼけた味の住職の存在感が、とてもいい。

子どもが、この表紙の小やぎのように頼りない足で歩き出したとき、頭の上に載せてあげなければいけないのは、「あなたは、かけがえのない、唯一無二の大切な存在である」という、当たり前で、でも、一番大切なかんむりなのだ。そのかんむりは、人間なら誰しもが持っている。ところが、それが「ある」ときちんと声に出し、言葉にし、お互い大切にすることは、この物語のように、一筋縄ではいかないことが多い。しかし、そのかんむりは、あなたの頭の上にある。例えどんな卑怯な手段で奪われても、何度も自分の手で掴むことが出来る。そして、誰かに優しく載せてあげることも出来る。出来るんだよ、という作者の声が、「ベヘヘヘエエ」というやぎの声と一緒に聞こえてくる。

市川さんは、今年度の日本児童文学者協会新人賞を『ABC!曙第二中学校放送部』(講談社)で受賞されている。柔らかさと強さを併せ持つ言葉が、いつも新鮮で素敵だ。次作も楽しみで仕方ない。

2016年4月刊行 講談社

八重ねえちゃん 朽木祥 日本児童文学 2016年7・8月号

 
戦時中に、たくさんの犬や猫たちが、殺されていったことをご存じだろうか。食糧事情が悪くなる中で、ペットを飼うことが敵対視されるようになり、軍服用の毛皮にしたり、軍用犬にしたりするためという名目で犬や猫が供出させられたのだ。役立つどころか、ただ無残に殺されてしまっただけの子たちもたくさんいたという。この物語の主人公・綾子の飼っていた老犬のトキも、役所の人に連れていかれてしまった。日向ぼっこと綾子を迎えに出てくるのが精一杯のおじいさん犬だったのに。何の罪もない動物たちを、人間を信頼しきって暮らしていた犬や猫を、なぜむごたらしく殺さねばならないのか。泣きながら「なんで連れていかれたん。なんで、なんで」と聞く綾子の問いに、大人たちは黙ってしまうか、苦々しい顔をするだけ。母には「お国のため」だから「仕方が無い」と、叱られてしまう。ただ一人、年の近い叔母の八重姉ちゃんだけが、綾子の問いに何とか答えようと一生懸命言葉を探し、「こうようなことは、いけんよねえ」と、怒りに震える綾子と共に泣いてくれたのだ。

賢い大人たちは、綾子の「なんで」という問いかけに「聞こえないふりや見ないふり」をした。心のどこかでおかしいと思っていても、その気持ちと向き合えば、「非国民」であることに繋がってしまうからだ。それは、すなわち危ない目にあうことでもあり、大きな壁にたった一人でぶつかりにいくようなことでもあった。だから、皆、自分の家の犬や猫が殺されていくのを、見て見ぬふりをした。私だって、戦争中に生きていれば、同じことをしただろう。しかし、老犬のトキが連れていかれてから半年後、広島には原爆が落とされ、昭和20年だけで14万人が死んでいったのだ。「聞こえないふりや見ないふり」をした大人たちだけではなく、たくさんの、本当にたくさんの若者や子どもたちが死んでいった。爆心地近くでは建物疎開などの勤労奉仕作業のために、女学校や中学校の学生たちが多数集められていた。彼らの大多数は、即死し、遺体も残らぬほど焼けてしまったのだ。綾子と一緒に泣いてくれた八重姉ちゃんも、帰ってこなかった。朽木は、この短い短編で、史実を踏まえ、歴史を見据えた問題提起を、小さい子どもの眼差しを通して見事に描き出している。子どもたちは動物への愛情を通して、戦争の残酷さを心で知ることが出来る。また、この物語を読んだ大人は、「どうして」という綾子の問いかけのくさびを、胸に打ち込まれるはずだ。

「いとけないもんから・・・・・・こまいもんから、痛いめにおうて(あって)しまうよねえ・・・・・・」

戦争で一番先に踏みにじられるのは、子どもや弱い立場にいるものたちだ。八重姉ちゃんは、良く言えばおっとり、要領が悪い愚直な人だった。でも、彼女だけが綾子の、連れていかれたトキの痛みと苦しみに共感し、「こうようなことはいけんよねえ」と言う力を持っていたのだ。人が生きていくには、賢く社会の中で立ち回るのも必要なことだ。しかし、それだけでは、人は大切なものを見失ってしまう。
 アウシュヴィッツ収容所にいた経験を、評論や小説で語り続けたプリーモ・レーヴィは、当時の大多数のドイツ人が、「意図的な無知と恐怖が、ラーゲル(収容所)のおぞましい残虐さを証言したかもしれない多くの「市民」の口をつぐませることになった」と述べている。(『溺れるものと救われるもの』)私たちは収容所、というとアウシュヴィッツやビルケナウ、ダッハウ、くらいしか思いつかないが、当時のドイツ領には、地図が真っ黒になるほど収容所があった。そこに物品を納入したり、労働力をただで使って利益を得ていた一般企業も多く存在した。囚人服、ガス室の装置、多くの薬品、建築資材。何しろ500万人以上のユダヤ人たちが収容され、殺されていったのだ。その維持に「普通の人々」が関わらないはずがない。でも、彼らは「目と耳と口を閉じて」語らなかった。そして、皆が自分の足元に開いている暗闇を見ようとしなかったのだ。賢く生きるということは、「意図的な無知」に繋がりやすいのだ。
 これは他人事ではない。日本にも、あまり知られていないが、ナチスドイツのように中国大陸から人々を強制連行してこき使った収容所がたくさんあった。今年の課題図書である『生きる 劉連仁の物語』(森越智子 童心社)はその問題を扱っている。日本は、その戦争の反省に立って、平和憲法を守ってきたはずだ。しかし、その足元が揺らいでいる。参院選で自民党が圧勝し、その大勢が判明した途端に、憲法改正という言葉が大量に、それまで沈黙していたメディアから流れた。本来なら権力の監視役としての機能を果たさねばならないメディアは、もうその役割を放棄して、「賢く」目と耳と口を閉じていこうとしている。その姿勢は、私たち日本人の心性をそのまま反映しているのだと思う。『帰ってきたヒトラー』という映画を先日見に行ったのだが、その中でヒトラーは「普通の人々が私を選んだのだ」と言っていた。大きな暗闇が、今、「賢く」生きていると思っている私たちの足元に開いてはいまいか。

この物語の最後、18歳になった主人公の綾子は、原爆のあの日を思い出しながら、「どうして、あんな恐ろしいことが起きたのだろう」と激しく読み手に語りかける。その声が、いつまでも胸の中でこだまする。愚直な子どもの「どうして」を大人が手放してしまったあと、犠牲になるのはこれからを生きる子どもたちなのだ。この物語には、「今」に繋がる大切な問いかけがたくさん詰まっている。たくさんの人に読んで欲しい。

一三番目の子 シヴォーン・ダウド パム・スマイ絵 池田真紀子訳 小学館


一人の女が産んだ一三番目の子を、その子の十三番目の誕生日に、生け贄に捧げよ。そうすれば、一三年間の繁栄が約束される。約束が守られないとき、村は暗黒の神ドントによって滅ぼされるであろう。その呪いにより、主人公のダーラは、明日一三歳の誕生日を迎え、足に石をくくりつけ、海に沈められるのだ。ダーラはそのためだけに、家族からも離されて育てられてきた。

この残酷な一日を、作者は様々な眼から描いていく。ダーラの、死を目の前にした夜。恐怖に震える彼女の前に、一度も会ったことのなかった双子の兄・バーンが現れる。村では、一三番目の子を誰も産みたがらない。二人の母・メブも、自分が双子を妊娠していることに気付かなかったのだ。十二番目に生まれたのが男の子のバーンで、十三番目が女の子のダーラ。しかし、この最後の夜に、二人はクロウタドリの案内で、「運命の裏側」を覗くことになる。どちらが十三番目の子どもだったのかを知ってしまうのだ。真実を隠してきた母の悲痛な叫びと、それを笑う産婆の会話を聞いた二人が、それぞれお互いを助けるために死を決意する。その姿に、母のメブは「どうかこの一度だけ、正しい道をお示しください!」と神に叫ぶ。

生け贄になるダーラ、双子の片割れのバーン、母のメブ、家族はそれぞれの苦しみにあえいでいる。なぜ殺されるのが自分なのかという苦しみ。また、なぜ自分ではないのかという苦しみ。二人の子のどちらかを選ばねばならなかった母の苦しみ。そのどれもが、抑制された音楽的な文章からずっしりと伝わってくる。彼らの苦しみは、愛情と贖罪ゆえの、人としての苦しみだ。この苦しみも恐ろしいが、この物語の中で一番恐ろしいのは、この家族の傷みを全くの他人事として見放している、その他大勢の村人たちだ。これまでそうだったから、という思考停止。一人の命を捧げることで、大多数の人間が幸せになるなら、それが正しいという考え方。皆にあわせておかないと、矛先が自分に向かってきちゃ困るんだよね、という気持ち。その名前を名乗らぬ人たちが、声を揃えて「二人とも殺せ!」と叫ぶのだ。

シヴォーン・ダウドが、この物語を神話のような舞台設定にしたのは、この苦しみと無関心が、人間がずっと抱えている普遍的なものであることを伝えたかったからなのではないか。私たちは、ダーラとバーン、メブ、どの立場にも運命のいたずらでなり得る。しかし、知らず知らずのうちに、海に沈む子どもを無感動に眺めていることが多くはないか。こんな犠牲が間違っている、と声にあげることを怖れて見て見ぬふりをしているのではないか。子どもたちを縛る呪いは、他でもない人間が作り上げたもの。それを断ち切ったのは、双子と母の勇気だったが、本当はこんなことをさせてはいけないんだ、という強い気持ちが物語の底から伝わってくる。シヴォーン・ダウドは、『ボグ・チャイルド』でカーネギー賞を受賞した、将来を嘱望される作家だったが、47歳でこの世を去った。貧困地域や少年院など、本を読む環境にない子どもたちへの読書活動にも関わっていた方だったらしい。私は翻訳されたものを全部読んでいるが、どれも忘れがたい作品ばかり。彼女の未発表作品を、こうして美しい本にして出版して貰えて、本当に嬉しい。

パム・スマイの挿絵と装丁が素晴らしく、物語を一羽の鴎になって目撃するような、神秘的な気持ちにさせられる。手元に置いて、何度も何度も読み返したい。運命のいたずらに巻き込まれた痛みに震えるときも、この世界で一番美しいものに触れたいときも。そして、今、自分がこの物語のどこに立っているのかを確かめたいときも。呪いの連鎖を断ち切って、新しい土地に降り立った若い二人の背中が眩しい。これからを生きる、若い人たちに読んで欲しい本だ。

2016年4月刊行
小学館

エベレストファイル シェルパたちの山 マット・ディキンソン 原田勝訳 小学館


うちの図書館で高校生むけの冊子を作るというので、急いで読了。山岳小説も色々読んだが、シェルパを主人公にした小説は珍しいのではないか。エベレストという特別な山の魅力と、主人公のシェルパの少年・カミのピュアさが呼応しあって、厳しく美しい物語になっている。

物語は、ボランティアでネパールにやってきたイギリス人の少年を道案内役に進行する。急病にかかった彼を看護してくれた美しい少女・シュリーヤの頼みで、彼女の恋人であるカミを探しにいく。そこまでがまず大変なのだが、エベレストにも、カミという少年にも、簡単には会えないということなのだろう。「ぼく」が見たものは、首から下の機能を失ってベッドに横たわるカミの姿だった。物語は、そのカミの口から語られる。アメリカの有名人ブレナンを隊長とした登山隊に、シェルパとして参加したカミが、何を見、何を経験したのか。作者はカミの人生にも深く踏み込んで、彼がひとりの人間として、どんな希望や決意を持ってこの登山に臨んでいるのかを描き出していく。古くからの慣習が根強く残る土地で、カミが生まれながらの婚約者ではなくシュリーヤとの恋を成就させるには、お金が必要だった。この登山は、カミにとって将来を切り開くための大きなチャンスだった。カミのシェルパという仕事への誇りとシュリーヤへのまっすぐな愛情が、この物語の大きな魅力だ。

  しかし、高額なお金が動くエベレスト登頂は、まっすぐな情熱以外の様々な思惑や事情を孕んでいる。隊長のブレナンは、将来の大統領候補とも言われる人物で、それだけに注目度も高い。ブレナンにとっても、どうしても成功させなければならない登頂なのだ。しかし、エベレストは気高く来るものを拒む。様々な困難を乗り越えて、たった二人で頂上を目の前にしたカミとブレナンがした選択は、その気高さに相応しいものだったのか否か。

エベレスト登頂の経験がある作者は、様々な思惑を持って集まってくる人間達の事情を、リアルに描き出している。やはりそこにはお金が動いていて、名誉や名声が欲しい人間の欲望も渦巻いているのだ。しかし、エベレストはそんな人間たちを、丸裸にしていく場所だ。たったひとり、「個」として偉大な存在に向き合ったときに、どう生きるのか。自分以外、誰も知らない嘘を、人はつき通すことが出来るのか。負けるとわかっている道を進む勇気とは何か。人の、真の強さとは何か。様々な問いを投げかけて、何も言わずそびえ立つ山の存在感に痺れ、魅入られる一冊だ。

片手の郵便配達人 グードルン・パウゼヴァング 高田ゆみ子訳 みすず書房

戦争の本や資料を読み込んでいると、「国」という巨大な一つの生き物同士が戦争をしていたかのように錯覚してしまうことがある。実際にはガンダムのモビルスーツのようなものを着た「日本」なんて、どこにも在りはしない。殺したり、殺されたりするのは、自分の息子と変わらない若い男の子たち。爆撃に手や足をもがれ、暴力に蹂躙されていくのは、「おばちゃん」と声をかけてくれたりする、幼い頃から知っている桜色の頬をした娘たちなのだ。そのことを心に教えてくれるのは、いつもこの本のような、心に響く物語だ。

この本の舞台は、戦時下のドイツの一地方の村だ。主人公のヨハンは17歳。召集されて三週間で片手を吹き飛ばされ、故郷の村に帰り、やりたかった郵便配達人の仕事についている。ヨハンは、毎日20kmの山道を歩いて郵便を配達する。戦場に母達が送る小包。息子たちが送る手紙。これは、嬉しい便りだ。そして、戦死の黒い手紙を運ぶのもヨハンだ。彼が歩く道のりは、そのまま物語の地図となり、郵便が運ぶ生と死とともに、くっきりと在りし日の村が立ち上がる。パウゼヴァングの筆は見事な客観性に貫かれていて、この小さな世界に、人として生きる全てがあることを描き出していく。

70年前のドイツの人々の日常は、私たちと何ら変わらない。そこにはやはり愛情があり、裏切りや悲しみがあり、家族への慈しみがあり、恋する若者たちがいる。ヒトラーに対するスタンスも様々だ。特にヨハンの母は、助産師として自分が取り上げた若者たちを戦争に送り込むヒトラーを毛嫌いしている。その物言いは痛快だ。同じ国に住んでいても、人の心は同じ色ではない。パウゼヴァングは、村人たちの人生を次々に描いていく。銃弾で顔を吹き飛ばされた青年。五人の子どもを残して死んでいった夫の死を嘆く未亡人。疎開してきた夫婦。強制労働で連れてこられたポーランドやウクライナの人々。100人いれば、100通りの物語がそこにあり、それぞれの人生に、戦争が黒々と食い込んで傷跡を残している。

彼らは、今、ここに生きている私たちと、痛みや苦しみも、喜びも、何ら変わらない。だからこそ、何度も立ち止まって考えてしまう。なぜ、彼らがヒトラーに政権を与えてしまったのか。なぜ、ホロコーストへの道を歩くことになってしまったのか。近隣諸国やアジアに侵略し、沖縄を地上戦に巻き込み、本土を空襲や原爆で徹底的に破壊され、何十万もの若者たちを戦争に送り込んだ、かっての日本に住んでいた人たちも、きっと今の私たちと変わらぬ日常を生きていた。だとしたら、これからの私たちが、また同じ道のりを歩まない保証が、どこにあるだろう。「戦争が出来る国になる」などという威勢の良い言葉に乗せられた後の光景が、確実にこの物語の中にある。

ヨハンは、母と同じ助産師のイルメラと恋をする。夏の青空のような、命の息吹に満ちた輝かしい日々。本当なら、そこから新しい命の連鎖が繋がっていくはずだった。しかし、戦争の理不尽は、全てを押しつぶす。一旦終わったかのように見えた戦争が、逃れられぬ運命のようにヨハンを飲み込んでいくのだ。ラストの理不尽さに、私はしばし呆然とした。物語を通じて、まるで息子のように片手の郵便配達人のヨハンを愛してしまった自分がいて、この理不尽を受け入れるのが辛すぎた。しかしパウゼヴァングは、あえてこの理不尽を読み手に突きつけたのだろう。

ヨハンの片手は、ヨハンだけのものだった。他の誰の手も、その代わりにはなれなかった。その片手を奪ったのは、兵士を入れ替え可能なものとして使い捨てる軍隊であり、戦争だ。ヨハンの失われた片手は、「個」のかけがえのなさ、人間の尊厳そのものなのだ。彼は、残った片手で村人たちの郵便という愛を繋ぐ。恋人を抱きしめ、キスをする。ところが、詳しいことはネタバレになるから書かないが、ヨハンは再び、彼自身であることを剥奪されてしまう。この世界に、片手の郵便配達人は、ヨハンただひとりだった。でも、彼はそのただ一人のかけがえのなさも奪われる。これが、戦争だ。人間というものが複数ではなく単数でのみ存在するかのように、地上にひとりの人間しか存在しないように人間を組織することで、全体主義は成立すると、ハンナ・アーレントは言う。戦争は、もっとも精鋭的な全体主義そのものだ。私たちはモビルスーツを着たガンダムではない。吹き飛ばされた片手は永遠に戻ってこない。

あなたは、今、どこにいるのかと。この理不尽にたどりつく道筋は、あなたの心の中にあるのではないか。一見平穏な日常に、黒々と戦争へと続く道筋は刻まれていないか。ヨハンが片手を奪われることを許してしまったとき、収容所ではやはり個人としての尊厳を奪われたユダヤ人たちがモノのように殺されていった。どんなに綺麗事で飾っても、八紘一宇や美しい日本、などという言葉に乗せられてしまったが最後、日本は近隣諸国を蹂躙して自分たちも深い深い傷を負うことになる。戦争は一旦始まれば、巨神兵のように全てを焼き尽くしてしまう。そこから逃れられる人間など、誰一人としていない。私たちは二度と人間としての尊厳を、失ってはならない。ヨハンの片手が、それを教えてくれる。

「ヒトラーの独裁政治は誘惑的でした。自分が何をすべきか、自ら判断する必要はなかったからです」

これは、後書きでのパウゼヴァングの言葉だ。終戦時17歳だった彼女は、軍国少女だったという。一昨年亡くなった児童文学者の古田足日も、戦時中に受けた皇国教育が、嘘っぱちだと知ったとき、自分がどう生きていけばよいかわからなくなったという。その思いが彼を児童文学へと駆り立てていくのだが、パウゼヴァングのこの作品にも、同じ苦しみと願いが込められているように思う。ナチスが配ったユダヤ人を貶める本を読んだヨハンが母にその是非を尋ねたとき、彼女はこう言い放つ。「あんたの脳みそはなんのためにあるの?」ドイツは、戦後自分たちの過ちと向き合い、子どもたちにも戦争責任を教えてきた。しかし、日本は過ちの痛みをまっすぐ見つめることを怠り、歴史を自分たちの都合のいいいように書き換えようとさえしている。再び片手が失われないように。誰の命と尊厳も奪われたり、奪ったりすることのないように、最大限脳みそを使わなければならない時が、もう既に来ている。パウゼヴァングのこの本は、そのことを教えてくれる。

2015年12月刊行

みすず書房

 

 

淵の王 舞城王太郎 新潮社

「私は光の道を歩まねばならない」

 この物語の語り手は、主人公をすぐ傍で見つめ続ける目に見えないが、確固たる意志や人格を持つ者であり、主人公はその存在には気付いていないことになっている。しかし、この言葉は、その設定を唯一飛び越えて、主人公が語り手に宣言した言葉なのである。この小説のメタ構造を、さらに飛び越えた、メタ宣言なのだ。つまり、この言葉は小説世界を貫くまっすぐな芯であり、舞城の挑戦的な宣言が主人公の口から語られたものなのではないかと思う。その証拠に、この言葉は最後の「中村悟堂」でもう一度繰り返される。ところが、この唐突な宣言を聞いた目に見えぬ語り手は、アイタタ、と主人公のさおりちゃんを思い切り揶揄する。 「あははははははははは!」「是非歩んで欲しいよ!」「頑張ってさおりちゃん!」と。

 この揶揄は、軽い言葉のようでいて、実はとてつもなく重い。時間が止まって全てを吸い込むブラックホールのように重いのだ。平和や相互理解や、基本的人権の尊重なんて生ぬるいんだよ。結局世の中は強いもの、金持ってるものが勝ちなんだよ。その中で「光の道を歩まねばならない」なんて言ってたら、笑われるよー、いいの?そんなこと言ってたら、踏みつぶされちゃうよん、という、にやにやした虚無。舞城は、そのブラックホールに、言葉で錐を突き立てる。「中島さおり」「堀江果歩」「中村悟堂」という三人の主人公は、底知れない悪意の塊、にやにやとすり寄ってくる「淵の王」に、壮絶な闘いを挑むのだ。しごくまっとうに生きること。自分を、友達を大切にし、誠実に生きること。生きることを楽しむこと。しかし、その中で、彼らは傷つき、ぼろぼろにされ、あげくの果てには飲み込まれてしまうのだ。ただその事実だけを見ると、虚無派の言う「負け」なのかもしれない。しかし、彼らは、間違いなく光の道を歩いたのだ。

 私たちは、自分の生きているどの地点でも、自分の人生、自分の物語が意味しているものを完全に振り返ることができない。それがわかるのは、人生に終止符を打つとき、暗闇に飲み込まれるときなのだろう。この物語は、はじめに書いたように、単なる主人公と読者、という二元性にもう一つのファクターを放り込んでいる。普通なら黒子として身を潜めている語り手が、別個の人格として登場するメタ構造になっているのだ。従って、読み手の感情移入や視線も、その語り手と同調することになる。さおりちゃん、果歩、悟堂、の人生を見つめ、彼らの人生が光であることを知っているのは、語り手だけ。その語り手は、自分を見つめ続けるもう一人の私かもしれないし、さおりちゃんに果歩が、悟堂にさおりちゃんが、というふうに、これまた入れ子になった語り手がついているのかもしれない。(ややこしい!)しかし、とにかくこの物語は、生が死という暗闇に飲み込まれんとするときに読む黙示録なのかもしれない、と私は思うのだ。この物語を語っているのは、生と死の狭間の一点に立つもの。そこに立ち、「私は光の道を歩んだ」と思える人生とは何か、とこの物語を読みながら考えてしまった。もちろんミステリとしても、単なる怖い話としても、たまらなく面白い。でも、私にとってこの物語は、虚無や他者への無関心というブラックホールに舞城が渾身の力で切りつけた、光の一撃に思えて仕方ない。
 
 今、国会前で、日本中で、理不尽に押しつけられようとしている法案と闘うために、勇気を出して声を上げている若者たちがいる。この物語の主人公たちのまっとうさ、光の道をごく自然に歩もうとする姿が、私には彼らと重なって見える。若者たちを、愚者たちが用意している暗闇に差し出してはいけない。絶対にさせない。そう思う。

うばかわ姫 越水利江子 白泉社招き猫文庫


若さと美しさと、「姫様」と呼ばれる暮らししか知らなかった野朱という娘が、いきなり恐ろしい運命に翻弄されるところから、この物語は始まる。盗賊に追われ、逃げて逃げて、目の前はとうとう近江の湖。とっさに出会った老婆と袿を交換して身を隠した姫に、姥皮の呪いがかかってしまう。満月の夜、淵の水に身を沈めるとき以外は、老婆の姿で生きねばならなくなってしまうのだ。嘆く野朱に、姥は言い捨てる。「皮一枚に囚われて生きるものは、みな、獣さ」しかし、皮一枚で生きている動物たちは、皮に囚われない。囚われるのは、人間だけだ。この物語には、皮一枚に翻弄される人間の弱さや愚かさ、そして愛しさが瑞々しく溢れている。

 野朱は、若さと美貌を失って初めて、人の世の悲しみを知る。老いという苦しみ。自分の身一つで生き抜いていかねばならぬ苦しみ。しかし、その苦しみの中で野朱は、他人の内面に「心を寄せる」ことを知っていくのだ。
 妖かしの一員になった野朱には、この世のものではないものが見える。天下を取らんとして滅んでいったものたちは、壮麗な幻の城に未だ魂となって棲み続けている。その滅んでゆく人を慕い、命を燃やした、お濠という女の人生を夢の中で追体験することになるのだ。お濠は美しさとはほど遠い、男たちとともに戦う女だった。しかし、その人生は見事に自分を貫いた「美」に満ちていた。
 
 「人は、ひとであることそのものが宝よ」
 「生きると決めたならば、闇に沈むな。白き光を身にまとえ・・・・・・」

 命を激しく燃やした魂が野朱に語りかける言葉たちに導かれ、硬い殻の中に眠っていた野朱の生きる力が、瑞々しく咲き開く。現実と幻想が金襴の絵巻物のように交錯する物語世界。その中にまっすぐ茎を伸ばして咲く蓮の花のように、少女の恋が花開いていくのに魅入られてしまう。これだけ凝った時代背景の中で、ひとりの少女が体感していくものをリアルに肌で感じさせる筆力は、深い知識と人間洞察あってこそのものだろう。自分の中にある感性や力を、解放させること。それには、「他者の物語」との深い関わり合いが必要なのだ。

 物語の最後に舞う花吹雪に、作者の、「命」に対する深い愛情を感じた。後悔ばかりに囚われがちな自分の弱さに、この愛情がひときわ沁みた。生と死。愛と憎しみ。幸せと不幸せ。それはすべて、姥皮ひとつの裏返しなのかもしれないが、裏返った最後に残るものが、この物語にメッセージとして溢れているように思う。

トオリヌケキンシ 加納朋子 文藝春秋

加納さんの物語は、いつもほろりと心に沁みる。人々が何気なく通り過ぎていく道の一つ裏に隠れている、迷路や路地の暗がり。小さな謎の顔をして蹲っている悲しみが、木漏れ日のように優しく透明感のある文章で語られることで、背中にささやかな羽をつけて飛び立っていくような、そんな優しさがある。皆身軽にすいすいと通り抜けていく扉が、なぜか自分にだけは閉まっていたり。皆には見えているものが、自分にだけ見えなかったり。反対に誰にも見えないものが、自分にだけ見えてしまったり。とにかくこの世界はハンディを持つものに厳しく、理不尽だ。この本には、理不尽の壁に「トオリヌケキンシ」されてしまった若者たちの物語が収められている。

自分を押し込めている理不尽の正体は何か。それがわからないことが、人と違う苦しみを抱えているものにとっては一番辛いことなのだ。どの扉を開ければいいのか。いや、もしかしたら自分を通してくれる扉などはないのではないか。悶々とするうちに、どんどん自分に対する疑いや、恐怖ばかりが膨れあがる。「フー・アー・ユー?」には、相貌失認の男の子が、ネットからたまたま自分と同じ症状を見つけるシーンがあるが、まさにこれは幸運な例だと思う。心に抱く恐怖や違和感は、特に子どものうちは他人に上手く説明できないことが多いし、周りの人間が気づけるとも限らない。私自身も、次男が生まれつき抱えていたしんどさに、彼が成人するまで気づかなかった。いやもう、それを知ったときは非常に驚いた。彼に「気付かずにいて本当に申し訳なかった」と謝ったら「いや、これを診断できるのは日本でも数人しかおらんらしいから」と反対に慰められてしまったが、やはり私は今でも彼にすまないことをしたと心から思う。ハンディを背負わせていたこともそうだが、何より気付かずにいた、ということは今でも自分が許せない。

だから、この物語に描かれている場面緘黙や相貌失認、醜形恐怖という、傍目からわかりにくい心のしんどさや病気の苦しみについて、この物語を手にとる若い人たちが知るきっかけになれば何よりだと思うのだ。もちろん、加納さんはミステリの名手であるし、ここに収められている短編はどれも切れ味が良くて面白さは折り紙つきだ。だからこそ、物語の面白さと共に、これまで知らなかった視点で自分を眺めてみたり、人の苦しみに思い当たったりする心ばえが、ごく自然に流れこんでくるのではないか。加納さんはご自分も大変な病気をされて、そのことを体験記に書かれた。最後の「この出口の無い、閉ざされた部屋で」という短編には、その経験がのたうっているようだった。「かくも世界とは、不合理で不平等に満ちている」なぜ自分だけが、と壁に頭を打ち付けて苦しむときは、誰にだってやってくる。「トオリヌケキンシ」の扉を開きたい。人の弱さ、悲しみを愛しく思い、精一杯さりげなく差し伸べられる手の温かさ。それが素直に伝わってくる物語だった。

2014年10月刊行

ヒロシマを伝えるということ 朽木祥さんの作品に寄せて

原爆忌に朽木祥さんの『彼岸花はきつねのかんざし』(学研、2008年刊)『八月の光』(偕成社、2012年刊)『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』(講談社、2013年刊)を読み返していました。

(以前書いたレビューはこちら)→『彼岸花はきつねのかんざし』『八月の光』『光のうつしえ

原爆をテーマにした作品はたくさんありますが、朽木さんのようにヒロシマをライフワークにして創作されている方は少ないです。今、原爆や戦争のことを若者に伝えることは、なかなか難しいものがあります。NHKの番組で放送されたことですが、長崎では原爆の語り部の方に「死にぞこない」と中学生が暴言を浴びせたとか。戦争は、今の若者たちの暮らしから遠すぎて、「ふーん、そんなことあったんだ」くらいの感情しか動かないのではないかと思います。いや、実を言うと、私自身もそうでした。それどころか、社会的なことに問題意識を持つこと自体、何やらタブー感さえ持っていました。

日本の社会は、同調意識が強いんです。当たらずさわらず、「皆と一緒」にしておくのが、一番都合がいい。空気を読むことに長けていた私も、若さゆえの頑なさと保身で、そんな価値観にすっかり縛られていたように思います。でも、子どもを生んで、子育てにもみくちゃにされ、すっかり裸になった心に、幼い頃に触れた児童文学が再び色鮮やかに染みこんできた。戦争や核のことを深く考えるようになったのも、実を言うと朽木さんの作品に触れたことがきっかけです。だから、今の若者たちだって、例え教えられたその時にはピンとこなくても、ふとしたことがきっかけで、もう一度自分から知りたくなる時というのは、必ずやってくると思うのです。心の中に、そのきっかけを作っておくためにも、子どものうちに素晴らしい作品に出会っていて欲しい。今、核は世界的に大きな、避けて通れない、しかも自分たちに必ず降りかかってくる問題です。福島の原発事故では、全ての炉がメルトダウンし、3号機ではほぼ100%の燃料が溶け落ちているとのこと。廃炉までの行程を考えると気が遠くなります。これほどの規模の大事故があったにも関わらず、政府は原発を手放そうとはしません。それは、何故なのか。そこに住む人々の命を犠牲にして、一体何を守ろうとしているのか。秘密保護法案を可決させ、憲法を恣意的に解釈することを自分たち閣僚だけで決め、近隣諸国との対決姿勢をあらわにする今の政治のあり方に、私は強い不安を覚えています。広島と長崎から始まった核の時代は、そのままフクシマに繋がっています。「今」しか見えない眼では、それを見通すことは難しい。連作短編の『八月の光』は、卓越した文章力で「あの日」をくっきりと立ち上がらせ、これからの未来をどう生きるのかを問いかける意欲作です。そして『光のうつしえ』は、記憶を未来に繋いでいくことが語られます。

「加害者になるな。犠牲者になるな。そしてなによりも傍観者になるな」

『光のうつしえ』の中で、婚約者を原爆でなくしてしまった先生が、子どもたちに送った手紙の中の一節です。この言葉の中で一番大切なのは「傍観者になるな」ということ。戦争は常に一人の人間を加害者にも犠牲者にもするのです。それは、今、パレスチナで続く戦闘を見てもわかるように、国家に軸を置いた二元論という単純な腑分けでは語りきれるものではありません。『八月の光』の『水の緘黙』の主人公の青年は、「あの日」から深い深い罪悪感にさいなまれて彷徨い続けます。それは、目の前で燃える少女を助けられなかったから。生き残った人たちは、皆、多かれ少なかれ、自らも傷つきながら「生き残ってしまった」という苦しみに苛まれるのです。ハンナ・アーレントが指摘したように、ホロコーストが行われていたとき、ユダヤ人の指導者たちの中にもナチスに協力した人がいた。もしくは、『夜と霧』でフランクルが語ったように、看守の中にも何とかしてユダヤ人に親切にしようと努めた人もいたのです。私たちは否応なく時代の中で生きている。その中で何を選んでいくのか、どのように生きるのかを自らに常に問いかけなければならないのです。『象使いティンの戦争』(シンシア・カドハタ)では、アメリカ兵をトラッキング(敵の足跡をたどること)して案内した村人の親切が虐殺に繋がり、村人たちは戦争へと踏み出していきます。気がつかないうちに、村人たちは戦争への一線を越えていたのです。そうならないように、一人の人間として考え抜くこと。それが、「傍観者になるな」という言葉の中には含まれているのではないかと思うのです。個々の思考停止の果てに戦争があるのだとすれば、常に私たちの中に戦争の可能性は眠っているのです。『光のうつしえ』は、過去を踏まえた上で、国や民族の枠を超えて、一人の人間としてどう生きるかという真摯な問いかけを投げかける作品だと思うのです。

広島は、長崎は、世界で唯一直接的な核攻撃を受けた場所です。そこで何があったのか。それは、徹底的に語られ、検証され、人類への責任として世界中に発信するべきことです。世界中に核は溢れていて、フクシマの事故もチェルノブイリの事故も人為的なミスから起こっていることを考えれば、人間のすることに絶対はあり得ない。唯一の被爆地に生まれた朽木さんは、被曝を風化させないという責任を、人類に対して、これからを生きる世代に対して背負い続けて、物語を書いていこうとされているのではと思います。その物語の力を、どうかこの夏休みに、子どもたちと一緒に感じて頂きたいと心から思います。

 

四月になれば彼女は 海街Diary6 吉田秋生 小学館

夏にこのシリーズの新刊を読むのがとても楽しみです。6巻の表紙も青空。でも、変化の予感に少し切ない夏の空です。

すずちゃんたちも中三になって、進学問題が目の前に迫ってきています。サッカー強豪校から特待生のオファーがきた彼女の揺れる気持ちと、そんな彼女を見守る風太の複雑な気持ち。「四月になれば彼女は」は、サイモン&ガーファンクルの懐かしい曲のタイトルです。久々にあの美しい歌声をYou Tubeで探して聞いてみたのですが、恋が季節が変わるように移ろっていく、という歌詞なんですね。「四月になれば 多分 何もかも変わる」という風太のセリフのように、きっと一年後にはいろんなことが変わっている。15歳という変化の季節のまっただ中にいることはお互いよくわかっていて、多分心の奥底で自分がどうすればいいかもよくわかってる。だからこそ「今」がかけがえなくて切ないんですね。思い切りジャンプする前の一時。鎌倉の海辺を、相合い傘で歩く二人のシーンがとてもいい。風太はすずちゃんが遠くに行ってしまうのが、やっぱり怖いんですよね。15歳でお互い何の約束も出来ないこともわかってる。でもなー。「理由とか別に聞かねえけど でも おまえが話聞いてほしいって時は いくらでも聞いちゃるから」って、こんなことを言ってくれる男子は、そんなにいないと思うわ。(私が出会ってないだけか?)もし、二人が変わってしまっても、きっとこの瞬間はすずちゃんの心の居場所の一つになると思うのです。

居場所といえば、すずといとこの直ちゃんが、鎌倉の山奥に工房を構えている女性を訪ねる「地図にない場所」というお話は、特に良かったですね。女性が作った作品の美しさに感応してやってきた直ちゃんは、彼女の心の扉を開く秘密の鍵を持っていた。美しさに共感するということは、同じ心を分け合うということなんですよね。地図にない場所は、自分の心の居場所でもあります。すずちゃんや風太の住む鎌倉は、現実の鎌倉にはない、読者だけがいける地図のない場所でもあります。何と、来年実写で映画化だとか。見たくもあり、怖くもあり(笑)今NHKでやっている村岡花子さんを主人公にした朝ドラは、あまりに酷い内容なので見るのをやめてしまったし。好きな世界を映像化されるというのは、微妙なことですねえ。どうなることやら。

リゴーニ・ステルンの動物記 ―北イタリアの森から― マリオ・リゴーニ・ステルン 志村啓子訳 福音館書店

今月の初め、kikoさんと六甲山にハイキングに行った。六甲は無数にハイキングコースがあって、私たちが行ったような初心者向けのコースは、人の手が入って整備されている。それでも山の中は別世界で、何より鳥の声がたくさん聞こえる。一カ所、家の周りではほとんどいなくなったウグイスが集まっている場所があった。深い谷の木々をじっと見ていると、あちこちに留まっているウグイスの姿が段々浮かび上がってくる。不思議に思いながらそこを離れたのだが、しばらく行ったところでバードウオッチングをしている方に会い、ウグイスの巣穴がある場所を教えて頂いた。どうやら、山ではその頃が鳥たちの子育ての季節らしかった。あれから時々あのウグイスの雛はもう巣立ちをしただろうかと考える。人と出会ってもすぐに友達にはなれないが、動物だと一瞬姿を見ただけでも、なぜだか心に残るのが不思議だ。この本にも忘れられない動物たちがたくさん登場する。

この本は以前に読んだことがあって、その時にもレビューを書いているのだが、今現在、版元では絶版になってしまったらしい。表紙を見て貰うだけで伝わると思うのだが、この本はとても美しい。表紙のノロジカに見つめられて扉を開くと、長靴のようなイタリアの地図。もう一枚開くと、二羽の愛らしいクロウタドリが出迎えてくれる。そこはもう、北イタリアの森の入り口なのだ。あちこちに散りばめられた挿絵も、活字の大きさや配置も、志村さんの訳されたリゴーニ・ステルンの文章にしっくりと溶け合っていて、見事な一冊だ。本というのは、特に翻訳されるものは、その一冊に関わる何人もの方の美意識が一点に凝縮されるものだろうと思う。作り手の「想い」が込められている本から伝わってくる風を感じるのは、とても幸せなことだ。特にこの本の巻頭に載せられている、リゴーニ・ステルンの「日本の若い読者への手紙」は、若い人たちに、ぜひ読んでほしいと思う。

「いつもこの世に平和と安らぎがあるとはかぎらない。それは日々守り、獲得していってはじめて可能だということを、これらの挿話は、わたしたちに気づかせてくれるでしょう。」

彼は兵隊として第二次世界大戦に従軍し、強制収容所にいたこともある。この本の中に出てくるように、彼の故郷も大きな傷跡を残した。その彼が、子どもたちや若い人たちに、なぜこの物語を読んで欲しいと思ったのか。この物語たちに登場する人たちは、「たいへんな労苦をはらって、平和の中での暮らしを再開」した人たちだ。現在の日本と中韓との関係を考えても、どんな時代に生きていても、私たちは戦争とは無関係ではいられない。また、戦争でなくても、いきなり厄災に巻き込まれることもあるし、理不尽な状況に陥ってしまうことだって多々ある。穴の中に落っこちてしまった人間には、「平和と安らぎ」は青空のように、あるのはわかっても手に入らない切ないものなのだ。「アルバとフランコ」の中で、男たちが冬のさなかに家にこもって、木の細工物を心満ち足りて作るシーンがある。苦しみの果てに取り戻した日常の中に漂う木の香りが、どんなに胸に優しく満ち足りたか。そして、故郷の山に生きる動物たちが、それぞれの人生に深く縫い止められながら、誇らしく自分の生をまっとうしていく姿に、どんなに愛情を感じているのか。多くは語られなくても、この物語たちには、喪失を体験した人の「平和と安らぎ」に対する深い思いが溢れている。「日本の読者へ 遠く、遠く離れたところに暮らす親愛なる友よ」とリゴーニ・ステルンが書いているように、ここには国や人種という壁を超える生き方が示されているのだと思う。動物たちは国境を持たない。ただ、故郷を持つのだ。リゴーニ・ステルンの描く故郷に愛情を抱くことの出来る若き読者は、心の中で彼と同郷になる。まだ見ぬ故郷を持つことができる、とも言える。その積み重ねが、もしかしたら―本当にわずかな望みであっても、次の世代の若者たちが、自分たちを超える繋がりを手にしてくれるかもしれないというかすかな、でも必死の希望をもって、彼は言葉を紡いだのではないかと思うのだ。

今読んでいる本の後書きで、管啓次郎さんが、こう述べている。「昨日に別れて、少しでもよい明日を作り出すために。きみは渡り鳥として飛ぶか。それとも小さな橋を作るのか。いずれにせよ、合い言葉は「渡り」となるだろう」(※)本屋さんではもう購入できないかもしれないけれど、図書館には所蔵しているところが多いと思う。まだ見ぬ北アルプスの静寂に住むノロジカや、クロライチョウや、ノウサギたち。言葉を持たぬ彼らの生き方に心を繋いでいく幸せを、どうか味わってみて欲しい。

※ミグラード 朗読劇『銀河鉄道の夜』 勁草書房

クラスメイツ 前期・後期 森絵都 偕成社

久々の森絵都さんのYA作品です。何と12年ぶりとか。そんなに経ってたのかと、びっくりしました。森さんのYA作品が大好きです。最近はすっかり成人の小説に移られて、もうYA作品はお書きにならないのかと、すっかり拗ねていました(笑)大人の小説もいいんですけど、こうしてYA作品を読むと、森さんにしか書けない世界がやっぱりあるんですよねえ。読みながら、やっぱり好きだなあと嬉しくなりました。

この物語は、1年A組24人全員を主人公にした短編が24篇という企画で、この試みは目新しくはないものの、森さんが書くと新しい風が吹き抜けます。学校というのは、同じ年齢の人間が一つの場所に集まる特殊な空間。その中で、全員のドラマを追うと、面白い反面、息が詰まるようなしんどさが生まれてしまったりします。(これは、私自身があまり学校という場所が得意ではなかったせいもあるのかもしれませんが。)でも、森さんの物語には、どんな物語にもその子だけの風が吹いていて、心地良い。『10代をひとくくりにする、ということの対極に森さんの作品がある』と、あさのあつこさんが以前言っておられましたが、まことに至言だと思います。一人の人間が、様々な距離から見た24の視線から浮かび上がってくる。自分でこうだと思う自分、他人から見た自分。その違いも含めて、24人を描いてますます「個」が際立つという、なんともニクイ構成になっているのです。一人一人の存在感が粒立っているからこそ、一人の人間が持つ多様性がプリズムのように輝いてお互いを照らし出す。そこがいい。この1年A組、とても居心地がよさそうなんですよね。読んでいて、自分の座る椅子も、このクラスの中にあるような気になってきます。その秘密は、担任の藤田先生にあると見ました。押しつけず、いい距離感で常に生徒を見守るしなやかな強さがあります。この「見守る」というのは、実は一番エネルギーのいることだと思うのです。ありとあらゆる機会を捕まえて、水泳部に生徒を勧誘する癖のある藤田先生には、その強さと同時に、人としての可愛げがあって、とても魅力的です。厚みを持つ「人」を書けるのが、森さんの魅力だとつくづく思います。

クラスカースト、LINE、いじめ、グローバル人材の育成・・・今の中学生たちは、マスコミからの情報や、流行のキーワードでとかく読み解こうとされがちです。(いや、これは中学生だけではないのかもしれませんけど)私の頭も、つい、そんな言葉に毒されそうになってしまう。でも、森さんの物語には、そんな薄っぺらさが吹き飛んでいく身体性があります。例えば、自分の子どもが、小学生であろうと、中学生であろうと、赤ん坊であろうと変わらない、たった一人の体温のある存在であるように。ひとり一人が確かに胸に刻まれていく実感がある。最近テレビをつけると流れてくる、首相と呼ばれる人が語る、薄っぺらで大きな物語は、ひたすらうそ寒く恐ろしいです。あれに負けない厚みのある、同時代に生きる「個」の物語を、私たち大人は子どもたちに語らねばならないと切実に思うのですが・・・。そんなことを、この楽しい物語を読みながらずっと考えていました。森さんには、やっぱりYAの世界に帰ってきて頂きたい。自分で物語を語れない私は、やはりそう願ってしまうのです。

2014年5月刊行
偕成社