[映画]ヒトラーの忘れもの LAND OF MINE マーチン・サントフリート監督

地雷という兵器には、人間の悪意がこってりと詰まっている。その悪意を、まだ幼顔の残る少年たちが一つ一つ掘り出していくのを見ていると、体中が緊張してこわばってくる。恐ろしい予感と一緒に、ドカン、という爆発音が心の奥まで突き刺さる。戦争での死を美しいなどという政治家は、絶対にこの映画を、憎しみに吹き飛ばされる少年たちを見るべきだと思う。

第二次世界大戦が終結したとき、デンマークの浜辺には150万発の地雷が埋められていた。その撤去に当たったのは、ドイツ軍の少年兵たち。手作業で一つ一つ地雷を掘り出す作業で半数近くが死亡するか重傷を負ったという。この映画は、美しい浜辺に埋められた地雷を撤去するために集められた少年たちと、彼らを監督する軍曹の物語だ。映画の冒頭は、その軍曹が自国に引き上げるドイツ兵をめちゃくちゃに殴り倒すシーンから始まる。「帰れ!ここは俺たちの国だ!さっさと出ていけ!早く!走れ!」とわめきたてる彼の顔は憎しみで真っ黒に凝り固まっている。しかし、目の前で、あどけない顔で地雷を掘り出し、手足を吹き飛ばされ、死んでいく少年たちを見ながら、少しずつ彼の顔が変わっていくのだ。一人一人と顔をあわせ、言葉を交わし、食料を調達し、面倒を見ているうちに、鬼の顔に少しずつ人間としての顔が混じってくる。手足を吹き飛ばされて「お母さん」と泣き叫ぶ少年は、「にっくきドイツ人」ではない、ただの傷ついたひとりの人間でしかないのだ。ひとりの人間の前に、ただ人間として向き合えば、そこにはどうしても通い合うものが生まれてくる。そのかけがえのなさを、この果てしない絶望の中に描いたことに、心打たれた。

つかの間、海で泳ぎ、ボール遊びに興じる彼らは、本当にどこにでもいるティーンエイジャーだ。その彼らが誰かの命を奪う少年兵として戦地に駆り出されてしまったこと。そして、誰かの命を奪うために埋めた地雷で吹き飛ばされていくこと。その残酷さが、美しい海の風景の中にくっきりと浮かび上がる。今日死ぬか、明日死ぬか、という日々の中でも、少年たちは小さな虫やネズミを捕まえて名前をつけ、愛情を傾けようとする。その切なさと、自分の犬を失って嘆き悲しむ軍曹の姿が、年齢も国の違いも超えて重なり合う。

最後に森の中に消えていく少年たちを見送る軍曹の眼差しに救いを感じたけれど、あの国境の森は、いろんなことを思い起こさせる。『サウルの息子』で、蜂起したユダヤ人たちが殺されていった森。クロード・ランズマンの『ショアー』に証言されている、恐ろしい殺戮が行われていた森。戦争は、憎しみはいつも弱いものを一番先に踏みつぶしていく。あの子たちは、無事に国境を、恐ろしい森を越えたのだろうか。人間と人間を引き裂く「国」とは何なのだろう。この映画の原題である「LAND OF MINE」と人が言うとき、少年たちと軍曹の間に生まれたような心は置き去りになってしまうのではないだろうかと思うのだ。そう考えたとき、『ヒトラーの忘れもの』というこの映画の邦題は、どうなんだろう。この厳しくも美しい映画のタイトルとして相応しいものなのかどうかと考えてしまう。焦点を曖昧にして、口当たりよくしておこうという日本的配慮は、この真摯な作品に対しても、観客にも失礼なことだ。少年を戦争に、殺戮に駆り出すことは、今も世界中で行われている。そして、地雷は今も子どもたちを吹き飛ばして殺している。ヒトラーだけの忘れ物ではない。すべての大人たちが忘れてはならないことなのだ。

 

[映画]アメリカン・スナイパー クリント・イーストウッド監督

この映画は、実在の人物をモデルに描かれたものだ。主人公のクリスは、愛するものを守りたいという、ハリウッド映画そのままの正義感から軍人になる道を選んだ男。強い番犬になれ、という父親の刷り込みからずっと、クリスの価値観は「強く正しいアメリカ」から揺らぐことはなかった。彼の頭の中には、絵に描いたような悪と闘うヒーローのような自分の姿があったに違いない。しかし、意気揚々とイラク戦争に出かけた彼を待ち受けていたのは、そんなわかりやすい敵ではなかった。彼が初めて殺したのは、爆弾を持っていた女性と、幼い少年だったのだ。ベトナム戦争もそうだったが、相手の懐に飛び込んでの戦争は、ゲリラ戦になる。女性も、老人も、子どもも、武器さえあれば簡単に「敵」になるのだ。もがけばもがくほど、深みに沈んでいくような血まみれの戦地から帰還してみれば、戦争などどこにも存在しないかのような本国の脳天気さが待っている。クリスが派遣された戦争には、倒すべきわかりやすい悪も存在しなければ、守るべきか弱きものも存在しない。その空しさの中で殺し合いをしていくうちに、クリスにとっての戦争は、仲間を殺していく相手方のスナイパーへの私怨へと変化していく。つまり、大義ではなく感情なのだ。自分の同期の男が殺されて復讐にいった戦闘で返り討ちにあう。その恨みが忘れられないクリスは、周りじゅう敵兵だらけ、四面楚歌の状態で命令に反してスナイパーへの一撃を放つが、そのせいで彼の部隊は総攻撃をくらう。クリスは、殺したいという自分の欲望を抑えることが出来なくなってしまったのだ。

開高健が、『歩く影たち』の中の一篇で、アメリカ軍の将校が、短い休暇のあとでそわそわと戦地に戻っていく姿を描いていた。彼が、人を殺したがっていたということに、別れてから気付いたときの衝撃が忘れがたい短編だったが、クリスも同じように精神を蝕まれていく。アメリカに帰国しても、過剰な暴力性を抑えられないのだ。映画は一見彼がPTSDから雄々しく立ち直ったかのように描かれている。(実際に、同じように心を蝕まれた帰還兵士たちを助ける軍事会社を立ち上げて活躍していたらしい。)しかし、私には最後まで彼が立ち直っているとは思えなかった。最後のシーンででクリスと妻が愛を確かめ合うシーンがあるのだが、なんと彼は妻に拳銃を突きつけて「服を脱げ」と言うのである。もちろん冗談交じりの口調ではあるが、幼い子どもたちがいる前で妻に拳銃を突きつける、という行為自体が完全におかしい。しかも、出かけるときに、その拳銃をひょい、と家の梁の上に置きっぱなしにするのだ。クリスが幼い頃に、銃を地面に放り出して父親に酷く怒られるシーンが映画の冒頭に伏線としてあるところをみると、この銃の扱いの粗雑さも、彼の異常さを浮かび上がらせるイーストウッドの仕掛けの一つなのではないかと思う。イーストウッドは、そういう小さな仕掛けをあちこちにしのばせている。イラク側のスナイパーの傍らには、クリスの妻と同じように赤ん坊を抱く彼の妻がいる。また、クリスたちが暴力で情報を引き出したイラク人の家族は、ネタを売ったことでイラク兵に殺されてしまう。ネガとポジをひっくり返すように、敵にも味方にも同じように守ろうとするものがあることを、そして弱いものが守られるどころか、まず踏みつけられていくことが、容赦ない戦闘シーンと共に刻み込まれていく。何とこの映画の撮影中に、モデルとなった人物が帰還兵に殺されてしまうという事件が起こり、エンドロールにはその実際の葬儀の様子が流される。映画で描かれている凄惨な戦争と、英雄として葬られる葬儀の美しさとのギャップは、酷くもの悲しかった。

イラク戦争で160人を射殺した人物を主人公にしたこの映画が、一体反戦なのか、それとも戦争賛美なのかという議論がアメリカでは巻き起こっているらしい。監督したクリント・イーストウッドは、それは見るものが考えることだと何も語らない。多分彼は、アメリカという国から見た戦争を、ごろん、と深くえぐり取って観るものの前に無骨に転がしてみせたのだ。反戦か否か、というわかりやすい箱に入れるのではなく、その狂気も大義も、大義に踊らされる個人の苦しみも、人が戦争に惹かれる快感も含めて、一人の男の姿に戦争を、ただ語らせた。「愛するものを守りたい」というわかりやすい大義を背負って戦争に行ったスナイパーが、現実の殺し合いの中で、どんどん私怨に心を縛られ、蝕まれていく。戦争という非日常に煽られていく感情の暴走を、間近に肌で感じさせられる二時間だった。

[映画]おやすみなさいを言いたくて エーリク・ポッペ監督 ノルウエー・アイルランド・スゥエーデン合作

何年ぶりだろう、インフルエンザにかかってしまった。くたくたなのだが、頭の芯にしこりのようなものがずっとあって眠れない。熱のせいと、ここ数日ずっと報道されているイスラム国による誘拐事件のことが頭から離れないせいだ。人質になっている本人とご家族の恐怖と孤独はいかばかりだろうか。湯川さんはもはや殺されてしまったのだろうか。赤ちゃんを産んだばかりという後藤健二さんの奥様がどんな思いで夜を過ごしてらっしゃるかを想像すると、とにかく一刻も早く救出して欲しいと心から思う。後藤さんは戦地の子どもたちを取材し、世界に発信していた人だ。日本ではこういう時にすぐ自己責任論を持ち出す人がいるが、私たちが戦地の実情や悲惨さを知り得るのは、彼のようなジャーナリストが報道してくれるからこそなのだ。どうかご無事で、と祈るように思う。

先日見たこの映画は、紛争地帯を取材する戦争カメラマンの女性が主人公だった。しかも、冒頭のシーンは中東での自爆テロへの潜入取材から始まるのだ。死を覚悟して生きながら葬儀もすませ、しなやかな若い体に爆弾を巻き付けて車に乗る女性。主人公のレベッカは、彼女に、彼女を見送る同士たちに、刻々とカメラを向けてシャッターを切る。静謐な死の気配の中で、そのシャッター音だけが響くのだ。これから死のうとする人にまっすぐレンズを向けシャッターを押す、ためらいなく押し切る。そのプロとしての覚悟と胆のくくり方を、ジュリエット・ビノッシュは見事に演じていた。その根底にあるのは、理不尽な暴力や死に対する強烈な怒りであり、使命感なのだが、この映画ではカメラマンの本能のようなものをもう一つ掘り下げて描いてある。その本能に抗えないほど骨の髄までカメラマンである女性を演じきったジュリエット・ビノッシュが素晴らしかった。   スーザン・ソンダクは『写真論』の中で「写真を撮るということは、他人の(あるいは物の)死の運命、はかなさや無常に参入するということである」と述べていた。写真を撮るということは、時を止めることだ。動いているものも、呼吸しているものも、本来なら移ろうものを固定化する。撮った瞬間、映像になって切り取られるものは、もはやこの世界には無いものなのだ。目の前に常に強烈に生と死が輝いていて、それを客観的に切り取れる人だけがカメラマンの目を持っているのだと私は思う。写真というものが、何とも言えずに生々しく、壺のような静物を撮ってさえ時にエロチックであるのは、そこに常に死があるからだ。レベッカは、自爆テロに向かう女性の乗る車から降り際に、危険だと知りながら群衆の中で彼女の写真を撮ってしまう。それが引き金になってその場所で爆発が起こり、その場にいた人たちをレベッカも含めて巻き込んでしまう。若い女性が自爆テロ犯になる残酷さを撮るためだけなら、もう十分なほどシャッターを切っていたにも関わらず、テロ犯の女性の面差しに魅入られるようにシャッターを押してしまう。その本能が死に結びついていく凄惨さ。そして、そのカメラマンが母であり、妻であるということが、よりその凄惨さを際立たせてしまうのだ。他人の不幸にカメラを向ける、その残酷さを、この映画はまっすぐ見つめようとする。

レベッカは夫から、常に危険と共に生きることに耐えられないと最後通告を受ける。彼女の家庭のあるアイルランドはそれはそれは穏やかに美しい場所だ。優しい夫と可愛い娘たちのために、レベッカは一旦カメラを捨てようとする。しかし、安全だからという触れ込みで長女を連れていったケニアでいきなり動乱に巻き込まれ、レベッカは長女を置いてカメラを構え、争いの中に突入してしまう。本能に抗えなかったのだ。群衆になぎ倒されても前を向いてシャッターを押し続けるジュリエット・ビノッシュは、まさにカメラマンそのものだった。結局家を追い出され、全てを捨てて、またレベッカは戦場に向かう。しかし、また冒頭と同じ自爆テロの潜入取材の場面となるラストでまた監督はもう一つどんでん返しを用意する。今度のテロ犯が自分の娘と同じ年頃の少女であることを知ったレベッカは、今度はシャッターを切ることが出来ないのだ。何度試みてもどうしても出来ないまま、レベッカが地面の上にカメラを持って崩れ落ちるところで、映画は終わる。

戦争や饑餓などの凄惨な苦しみを撮影することには、常に人道的な議論がある。人の中に残酷なものをみたいという欲望があることも、その議論をややこしくする。写真を撮ることは傍観者であることでもある。冒頭の静謐な沈黙の中に響くシャッター音は、その残酷さを静謐な中に響かせる。プロである彼女にとってテロ犯は「被写体」なのだ。しかし、最後にレベッカはテロ犯を自分の娘と重ねてしまった。その瞬間、テロ犯の少女は見知らぬ被写体ではなくなってしまった。名前と顔と体温を持つかけがえのない存在になってしまった。もはや彼女は傍観者ではない。少女に心を寄せたその瞬間レベッカは、目の前で奪われようとする命の理不尽さに、その重みに改めて押しつぶされてしまったのだ。一枚の写真。そこに映っている眼差しと向き合うことの苦しみを、この映画は観るものに投げかける。

テレビをつければそこにある後藤さんの写真に、こちらを見つめる眼差しに、私もただ打ちひしがれている。こんな世界の片隅でブログを書いているだけの私に、何が出来ようか。ただ、彼の苦しみを思うしかない。想像するしかない。見ているしかない。手を差し伸べようもない。写真を撮るものの残酷さを、その写真を見るものは常に共有しているのだ。でも、だからこそ、見ないふりをするのではなく、自らの残酷さも含めて、目をそらさず見つめようと思う。自分の家族も救えないちっぽけな私であるけれど、なぜ、こんな写真が撮られることになったのか、もつれた糸の端がどこにあるのか、考えようと思う。地面に崩れ落ちたレベッカは、きっとまた立ち上がって写真を撮ると思うのだ。彼女は、今度は傷ついた子どもたちにカメラを向けていくのではないか。彼女が打ちひしがれたのは娘への、命への愛情ゆえなのだから。中東の子どもたちの苦しみを取材しようとした後藤さんも、何度も何度も打ちひしがれた人ではなかったのだろうか。そんな気がする。

[映画 チョコレートドーナツ] トラヴィス・ファイン監督

とにかく、主演のアラン・カミングが素晴らしい!彼の演じるルディは、その日暮らしのゲイのダンサーです。ショービジネスの中で生きる色気と、散々傷ついてきた苦しみと、孤独に汚されずに息づいている純粋さが見事に一つの表情に見え隠れするのです。冒頭のドラァグクイーンとして踊る姿も魅力的だけれど、ドラマが展開していくにつれて、今度は内面から溢れてくる光が彼を美しく照らして、見ほれてしまいました。そして、折々に入る歌声が、またいい!あの歌声で、感動は確実に何割増しかになってますね。

ルディは、店に来た弁護士のポールと恋に落ちるのですが、奇しくもその日、麻薬常習者の母親に取り残された、ダウン症のマルコという少年と出会います。親の愛を知らずに育ってきたマルコを、優しいルディは手放せなくなってしまう。その気持ちを知ったポールは、自分の家で一緒に暮らそうと二人を誘って、ルディとポールは、マルコの両親となります。このとき、ルディがデモテープを作るために、二人の前で歌う“Come to me” が、素晴らしい。ハロウインやクリスマスでの三人の笑顔。海辺で寄り添うマルコとルディ。その光景があまりに美しくて、儚くて、きっとこの幸せがすぐに壊れてしまうだろうことが暗示されていて、とても切ない。この映画の舞台は1979年。車の中でルディとポールがいちゃいちゃしているだけで、警官に銃を突きつけられるシーンがあって驚いたのですが、この当時は同性愛が即犯罪であるという認識だったわけです。当然、彼らへの世間の風当たりは、恐ろしく厳しく、マルコは家庭局に連れ去られてしまい、ポールは自分の仕事を失ってしまうことになります。

ここからの、ルディとポールの闘いは壮絶です。いくら彼らが愛情深くマルコを育てていたことが証言されても、裁判で繰り返されるのは、ただ、彼らの性生活をほじくり返し、揶揄することばかり。差別と偏見の壁は、彼ら三人を打ち砕きます。ただ、一緒にいたいだけという彼らの愛情は、法律という網の目からこぼれ落ちてしまう。それは、世間の枠組みに当てはまらない愛情だから。自分には何の関係もないのに、あの手この手でルディ達を追い詰めるポールの上司の弁護士が出てくるのですが、ルディとポールが苦しむところを見ながらほくそ笑む彼の顔には、マイノリティへの被虐の快感がにじみ出ていました。一緒に映画を見た若い友人が、なぜあんな意地悪をするのかわからない、と言っていましたが。弱いものを踏みにじりたいという欲望、それも正義の名を騙って自分の支配力を確認したい人間は、たくさんいるんですよね。それは多分、私の心にも住んでいる。そう見るものに思わせるだけの深みが演技にありました。一歩間違えればセンチメンタリズムに流されかねないテーマに分厚さを与えているのは、この脇を固める俳優陣の素晴らしさだったのかもしれません。数シーンしか出てこないマルコの母親が、底知れない虚無に包まれていたのも胸に刺さりました。

ネタばれになるのでこれ以上ストーリーは書きませんが、ラストはハッピーエンドではありません。映画館中、すすり泣きの声でえらいことになっていたぐらいです。でも、心の中にとても暖かいものが残ります。ルディとポールは、楽な道を選ばなかった。どんなに傷つけられても、マルコを守ろうとした。自分が愛しているものへの気持ちを汚され、笑われることって、とても凹みます。でも、やっぱり自分が愛しているものは、自分が守っていかなくちゃいかんのだわ、と。例えその結果が敗北の形をとったとしても、それはいつか、光となって自分の中に帰ってくる。ルディが最後に歌った“I Shall Be Released ”は、ずっと私の胸の内で鳴り響く臆病な自分を励ますテーマソングになりそうです。

[映画]ドストエフスキーと愛に生きる ヴァデイム・イェンドレイコ監督

翻訳という仕事を、私はとても尊敬している。私は外国文学が大好きだが、それも翻訳して下さる方がおられるからこそ。(今月号の『考える人』も「海外児童文学ふたたび」と題した外国文学特集で、思わず買ってしまった。)信頼できる翻訳家の方の名前が表紙にあると、「これは読まねば!」と嬉しくなるのだ。この作家ならこの方、という名コンビも多々ある。アーサー・ランサムなら神宮輝男さん。今の朝ドラになっている村岡花子さんとモンゴメリ。ミルンと石井桃子さん。・・・もう、書いても書いても書き切れないほど名翻訳がたくさんある、これは非常に幸せなことだが、元を正せば、そもそも日本の近代文学は児童文学も含めて、翻訳を通じて始まったのだ。そう思うと、「翻訳」という仕事は幾世代にもわたって交流していく大きな橋をかけるお仕事に違いないと思う。

この『ドストエフスキーと愛に生きる』というドキュメンタリーは、スヴェトラーナ・ガイヤーというドイツ在住のロシア語翻訳家の暮らしを追ったものだ。84歳の彼女は、ドストエフスキーの翻訳に取り組んでいる。彼女曰く、「五頭の象」、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『白痴』『悪霊』『未成年』という、目眩がするほどの大作に、真摯に向き合う日々が描かれる。 翻訳家の作業を、こうして映像で見せて貰うということに、まず感動した。綿密な準備に、細かい読み合わせを人を替えて何度も行う、その労力といったら。翻訳をするということは、原文に忠実であることと、俯瞰した視線で言葉の向こうにあるものを捉える批評家としての作業を同時に進行させていくことなのだ。スヴェトラーナは作中で、文学で書かれたテキストを緻密に織られた生地にたとえているが、翻訳も、オリジナルへの忠実さを横糸に、ありとあらゆる教養と、人生を見つめる深い眼差しを縦糸に織り込んで出来上がるものなのだろうと思う。この映画は、その彼女の縦糸の部分に深く分け入っていく。暖かみのある手仕事の数々で飾られた家。リネンに丁寧にアイロンをかける、折り目正しい生活の美しさもさることながら、私が引きつけられたのは、彼女の過去への旅だった。

スヴェトラーナはウクライナ出身で、父親はスターリンの大粛正による拷問が原因で亡くなっている。その娘であるということは、一生反体制の人間として冷遇されて生きていくことなのだ。ちょうどそのとき、キエフはナチスドイツに占領される。語学に秀でていた彼女は、敵国であるドイツに協力し、ドイツ軍が引き上げていくときに共に出国して奨学金を得て安定した職を得ることになる。父親は15歳の彼女に、収容所での一部始終を語ったのだが、スヴェトラーナは全くその内容を覚えていないらしい。生きるために、幼かった彼女はその記憶を封印してしまったと言う。ドイツはどん底の彼女に手を差し伸べ、救ってくれた。しかし、同時にキエフのユダヤ人を殺害し、ヨーロッパ全土で何十万人という人たちを収容所に送り込んだのだ。彼女の友達もキエフの谷で虐殺されたという。15歳の彼女が、母と二人で懸命に生き抜いていくときに、何があったのか。何を見て、何を感じたのか。過去について、彼女は多くは語らない。しかし、65年間一度も帰らなかった故郷を「月よりも遠いところ」と言う彼女にとって、過去は年老いてますます重く胸に刻まれていたものではないかと思うのだ。それは時間が経ったから消えてしまうような生半可な記憶ではなかっただろうと思う。翻訳という自分の仕事に対する勤勉さについて問われたスヴェトラーナは、「負い目があるのよ」と答えていた。もちろん、それだけで語れてしまうほど簡単なことではないだろう。しかし、晩年になって、ドストエフスキーの新訳に全てを注ぎ込む彼女の記憶と思いを想像すると、粛然とするのだ。キエフの若い人たちに、「自分の心の声をよく聴くこと。もし、それがそのときの常識とかけ離れているとしても」(記憶だけで書いているので、原文そのままではありません。念のため。)と彼女は説いていた。それは、大きな波に飲み込まれようとするときに、自分の心にどんな羅針盤を持つかという意味ではないだろうか。その羅針盤を心に宿すための闘いが、彼女の残したいものなのかもしれない。だから、彼女は取り憑かれたように仕事をせずにはいられない。このドキュメントのさなかに、彼女は最愛の息子を失う。その悲しみも、過去の痛みも、愛情も、誇りも、全てを背負い、厳然と窓辺に座って言葉を選んでいく彼女の姿から、最後まで目が離せなかった。彼女の訳では、『罪と罰』は『罪と贖罪』というタイトルらしい。読んでみたいと心から思う。彼女は87歳で亡くなられたそうだが、きっと最後の最後まで仕事をされたことだろう。ドイツ語のドストエフスキーは一生読めないけれど、私も、「五頭の象」を、もう一度読み直してみたくなった。文学好き、特に外国文学好きな方にはおすすめの映画です。

 

[映画]ハンナ・アーレント マルガレーテ・フォン・トロッタ監督

特定秘密保護法案が強行採決された。なぜ、そんなに急いであの穴だらけの法案を通さなければならないのか。世論の反対を押し切っての強行採決に非常に不安を覚える。憲法改正の動きといい、中高年御用達の週刊誌が煽り立てている反中韓キャンペーンといい、ここ最近のきな臭さといったらどうだろう。昨年の自民党の圧勝から不安に思っていたのだが、一斉になだれを打って一つの方向になびいていくこの空気が恐ろしい。しかも、こんな風に考える自分はえらくマイノリティであるようなのだ。ずっとのしかかる重いものを抱えている中で、この映画の予告を見て、「これは見にいかねば」と思ったのだが、なんと梅田ガーデンシネマでは珍しい立ち見まで出る混雑ぶりに驚いた。岩波ホールでも連日満員だそうである。嬉しい驚きだった。もしかしたら、私のような不安を抱えている人間は、多数派とはいかぬまでもそこそこいるんじゃないか。どんな非難にも負けずに真実を主張したハンナの姿とともに、少し勇気づけられた午後だった。

ハンナ・アーレントはユダヤ人の高名な哲学家だ。戦時中はユダヤ人の青少年をパレスチナに移住させる仕事をしていた。フランスで国内収容所に収容され、何とか脱出したあとアメリカに亡命し、そこで『全体主義の起源』を書いて名声を獲得する。しかし、1960年にイスラエル軍が逮捕したアイヒマンの裁判を傍聴し、ニューヨーカー誌に連載した『イェルサレムのアイヒマン』が世論の猛反発にあう。何百万人ものユダヤ人を収容所に送り虐殺した稀代の極悪人として裁判にかけられたアイヒマンが、実は何も考えずに言われたまま任務を遂行しただけの凡庸な人間であったこと。そして、当時ナチスに協力したユダヤ人の指導者達がいたことを指摘したためであった。彼女はそのために長年の友人を失い、孤独の中に叩き込まれる。しかし、彼女は一歩も引くことがなかった。アイヒマンの凡庸さの中にこそ、思考停止という最大の悪が潜んでいると確信していたからだ。この映画は、アイヒマンが強制連行されるシーンから始まり、非難の嵐の中で孤独に戦うハンナの姿が描かれる。

思考停止と悪というテーマで思い出すのは、高村薫の『冷血』だ。ネットの掲示板で出会った男たちが、さしたる動機もなく歯科医の家族を惨殺する。徹底的な警察の検証をもってしても、そこには犯行に繋がる「なぜ」は見つからない。彼らは言う。「考えていたら、やってません」と。何とアイヒマンと似ていることか。彼らは思考停止の虚無の中に自分を放り込み、ただ身を任せただけなのだ。この映画ではアイヒマンは役者が演じておらず、実際の裁判での映像が使われている。話し方といい、その情けない風貌といい、「ああ、知ってるわ、こんな人・・・」と思うようなただのオジサンなんである。「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない、人間であることを拒絶したものなのです」 これは映画の中でハンナが学生に講義する一節だが、実際のアイヒマンの映像はその主張を見事に裏付けていた。

この思考停止が、当時のドイツの官僚たちだけではなく、ドイツに対抗するべき連合国側にもはびこっていたことは、エリ・ヴィーゼルが『死者の歌』の中で述べている。ナチス政権はユダヤ人における虐殺を一気に行ったわけではなく、段階を踏んで小出しにし、諸外国の反応を伺っていた。しかし、そのどの段階においてもさしたる反応は見られず、ナチス側はこれを「了承」と見なしていった。『サラの鍵』(タチアナ・ド ロネ)で当時ナチスに反目していたはずのフランスでもユダヤ人の強制収容が行われていたことが世界に知られるようになったが、つまるところユダヤ人たちは「傍観者の無関心」(『死者の歌』)の中で四面楚歌の状態だったのだ。この思考停止は、まさに何百万人という大虐殺を引き起こしたが、その中枢にいた人物がまさに平々凡々たる一市民であったことは、今、私たちが肝に銘じるべきことだと思う。中国を占領していた時代の日本人将校の回想を読んだことがあるが、彼らはアイヒマンと同じことを言っていた。曰く、自分たちは命令されてやっていただけなんだと。ただ真面目に任務を遂行しただけなんだと。「真面目」という美徳が、戦争において発揮されてしまうとそれは無制限のやりたい放題になってしまうのだ。思考停止という『冷血』は、特別な人の中にのみ存在するのではない。それは、人間という存在が常に抱える、誰もが孕んでいる最大の悪に繋がるものなのだ。

そう考えたとき、まるでザルのように政権に無制限な秘密保持の権限を与える法案を強行採決してしまう安倍政権は非常に危険な存在であると思わざるを得ない。政権を握る側が一方的に秘密を指定でき、それを国民が知ろうとするだけでも懲罰の対象になるという法律が、恣意的に運用されない保障など、どこにもない。彼を「支持する」と答える大多数の人々の支持理由は、アベノミクスという、株価の上昇と円安という経済的なものだと思われる。要は金だ。私には、彼らが「あんたらは株価だけ見ときなはれ。そのほかのことは、わしらが上手いことやっといたるさかい」と国民の耳と口をふさぎにかかっているとしか思えない。彼らがこの強行採決の影で何を考えているのか、もっと目を懲らしてしっかり見ていないと大変なことになるのではないだろうか。人間は誰一人として全知全能な存在ではない。だからこそ、細心の注意を払って、悪が生まれる可能性をつぶしておかねばならないのだ。ハンナはこの映画のラストで疲れ切って自宅の窓から町を見下ろす。パンフに早乙女愛氏も書いておられるが、そこには摩天楼の夜が広がっているのだ。夜の都会の風景は、今、どこの国もさして変わらない。ハンナを包む夜の孤独は、今、私たちの周りにも広がっている。この映画はそのままでいいのか、と見る者に強く語りかけているようだった。ハンナは「思考」とは「自分自身との静かな対話」だと言う。その行為に「書物を読む」という行為は深く関わっていると私は思う。子どもたちにどうやってその行為を手渡すのか。そのことについても、また深く考えさせられる映画だった。

[映画]もうひとりの息子 ロレーヌ・レヴィ監督

ある日いきなり、自分の子どもが「あなたの実子ではない」と告げられたら。 是枝監督もこの赤ちゃんの取り違えをテーマにして映画を撮っていましたが、この「もうひとりの息子」の設定はもっと過酷です。何しろ、赤ん坊は片方はイスラエル、片方はパレスチナという反目しあう国の間で取り違えられてしまったのだから。この映画は、思いもよらない状況に放り込まれてしまった二組の親子を描いた物語です。

イスラエルとヨルダン川西岸地区のパレスチナというと、かってのベルリンの壁よりも超えがたい壁が幾重にも重なっているように思います。現実として、そこには鉄条網が張り巡らされた分離壁がそびえ立っていて、映画の中で何度もクローズアップされて映し出されます。恥ずかしながら、私自身初めてこの映画でその分離壁を見たのですが、まるで「国」や「宗教」という大きな枠組みの超えがたさの象徴のように延々と、全く向こう側が見えないほどに高くそびえ立っているのに圧倒されました。しかし、この映画は、その何とも如何しがたい壁を超えようとする物語なのです。

この映画は、二組の親子がいきなり我が子の出生の秘密を告げられるところから始まるのです、その受け止め方が母親と父親では全く違うのが印象的です。同じ部屋に集められ、初めてお互いの顔合わせをしたとき、父親同士はまるで縄張りで出会った犬のように牙を剥きあうのだけれど、母親はただ見つめ合っただけで、お互いの胸にある辛さと苦しみを認め合うのです。ひたすら抱いて、ご飯を食べさせて、病気のときは胸もつぶれんばかりに心配して看病して。たとえ宗教がなんであろうと、どんな言語を話そうと、その母としての営みや赤ん坊を一人前にするときの苦労や喜びのあり方は同じなんですよね。お互いの瞳の中に苦しみを認めあったとき、苦しみがその愛情から生まれているものだということが理屈ではなく伝わってしまう。その共感が、同じように自分の胸にも伝わってくるのがわかりました。

2011年にノーベル平和賞を貰ったリーマ・ボウイーさんの自伝を読んだとき、男たちがいつまで経っても出来なかった停戦を、女たちが短期間に実現させてしまったことが書かれていたのを思い出します。イスラエル人として生きてきたヨセフは、ユダヤ教のラビにユダヤ人としての自分を否定されてしまう。そして、パレスチナ人として生きてきたヤシンは、分身のように仲が良かった兄に、いきなり敵視されてしまう。お互いのアイデンティティが揺らぐ日々の中で、ただひたすら手を差し伸べる母親がいるということが、二人の息子を支えていくんですね。そして、若者の心にお互いに対する共感と、一歩を踏み出そうとする勇気が芽生えます。

国家とか宗教とか。絶対に超え難いと思うものを、ただ一人の人間として向き合ったもの同士だけが超えていく。基本はここだな、と。人間は時代や国家との関わりから絶対的に逃げられない存在です。でも、物語は「個」を徹底的に描ききることでその縛りを唯一超えられるのではないのか。そこに、おとぎ話ではない希望が見いだせないか。脚本だけに3年かけ、国籍を超えて様々な国のスタッフとキャストをそろえてこの映画を撮影した監督の心にある願いが、非常に胸を打つ映画でした。

【映画】ひろしま 石内都・遺されたものたち Things Left Behind

ガーデンシネマで公開中の映画『ひろしま 石内都・遺されたものたち Things Left Behind』を見に行ってきました。これは石内都さんという写真家がカナダのバンクーバーで開いたヒロシマの被爆をテーマにした個展のドキュメンタリーです。8月16日までの限定上映なので、見損ねないようにと思っていました。見れて良かった・・・。

とても静かな静かな映画でした。石内さんが撮影されたのは、広島の平和記念資料館に保存されている被爆者たちの遺品です。どれもささやかな生活の中で大切に使われていたものたちです。ジョーゼットのワンピース。花柄の可愛いブラウス。可愛いボタンのついた子どものお洋服。ハートのついた指輪。どれもとてもおしゃれで可愛いものばかりなのです。学芸員さんがおっしゃるには、戦時中だから表だって美しいものを身につけるわけにはいかなかったけれど、皆もんぺの下に、思いのこもった洋服や下着を身につけていたらしいとのこと。私は思わず、朽木祥さんの『八月の光』の中に出てくる人たちを思い出していました。『雛の顔』の美しいものが大好きだった真知子さん。着物の仕立てものをしていた母と娘。小菊模様の鼻緒の下駄を履いていた娘さん。皆、美しいものや可愛いものが大好きで、ひっそりとでも身につけて心を慰めていた、生きて笑っていた人たち。石内さんの写真からは、それらの遺品たちがつく吐息やつぶやきと一緒に、彼女たちの生活が浮かんでくるようでした。

展示されていたカナダの人類学博物館は、トーテムポールのために作られたような施設で、まるで荘厳な神殿のようなのです。ファーストネーションズ(先住民族)たちの魂がそこに刻まれています。その会場に展示された石内さんの写真は、古から生き続ける魂たちと響き合うようにほのかな輝きを帯びてとても美しいのです。私にはその美しさがとても印象的でした。爆風にちぎれ、体液の染みがつき、焼け焦げているお洋服は、その中に息づいていた温かい体の記憶を持ち続けているようなのです。柔らかいジョーゼットの肌触りを楽しんでいた21歳の娘さんの白い肌が透けて見えるような錯覚さえ覚えます。きっと輝くような裸身だったでしょう。美しいものを愛して、どんな状況にあっても、皆生きることを楽しんでいた。その記憶が、石内さんの眼差しに結晶し、その美を通じて「今」の私たちと結びついて繋がっていくのを感じました。見知らぬどこかの誰かではなく。彼女たちは68年前の私であり、今生きている少年少女たちであり、もしかして未来に生きている幼子たちなのだということが、その美しさをともに胸に刻まれます。

映画の中で石内さんが語られていましたが・・・。ヒロシマから、私たち日本人の大多数は何も学んでいないように思われます。そのことがフクシマに繋がり、今なお大勢の人たちが苦しんでいる。先日BSのドキュメンタリーで見たのですが、イラク戦争で使われた劣化ウラン弾で、ファルージャではたくさんの奇形の子どもたちが生まれているそうです。劣化ウラン弾というのは、核廃棄物から出来ていて、核分裂はしないけれども放射能を出し続けます。半減期は45億年。45億年・・・。気の遠くなるほどの時間、ずっとその土地を汚染し続けるのです。これは、まさに核兵器そのものなのだと、非常にショックを受けました。広島で核兵器が使われてから68年経ちましたが、その記憶は世界的には全く共有されていないのです。そして、そのツケは、イラクの子どもたちや、これから先に生きる子どもたちに回ってきます。50近くになって、やっとこんなことに気付いた自分も自分だと思うのですが・・・だからこそ、広島は、何度も何度も語られなければならないのです。記憶を深く分かち合うこと。その努力を惜しまない営みに、深く共感する映画でした。

印象的なことをもう一つ。映画の中で、一人の韓国の青年が、美しい着物を見て「日韓併合を思い出す」と語っていました。そう、私たち日本人は、侵略の歴史も持っているのです。被害者であると同時に、加害者でもある。その視点が描かれているのも、大切なことだと思ったのです。私たちは社会的なシステムの中で生きている。その軋轢の中で戦争が起こり、恐ろしい暴力が生まれる。どうも、私たちはそんな風に出来ている生き物らしい。暴力の種は、美しいものを愛してささやかに生きている人間の胸の中にやはり同じように潜んでいるのです。民族の違いや、肌の色や、宗教の違いなど関係ない。いろんな戦争やホロコーストや、公害の資料を読みこむうちに、私はそう思うようになりました。もちろん、私の胸の中にも同じものがある。だからこそ―痛みの記憶は、生身の体と心が受けた「ひとり」に即して語られることが大切だと思うのです。イデオロギーや大義名分の前に立ちはだかるのは、根源的な痛みを共有していくことしかないのではないのか。常に自分の心を見つめて静かに「ひとり」の物語を呼び起こしていくこと。このところ、ずっと考えていることに光をあててくれるような映画でもありました。長々書いているうちに、日付が変わって今日は8月6日です。また暑い一日になりそうです。先日訪れた広島を思い出しながら、過ごそうと思います。

 

【映画】 ビル・カニンガム&ニューヨーク

タイムズの人気ファッションコラムニスト、などという肩書きを聞くと、そりゃもうキメキメでエキセントリックなファッション通で、という人物像を想像するのだけれど。このドキュメンタリーの主人公であるビル・カニンガムは、まるで生真面目な郵便局員、といった感じの品の良いおじいちゃんなのだった。ああ、この人はとても誠実で信用できる人なんだろうなあと、その顔を見ているだけでわかってしまう。彼のトレードマークは清掃員が着る青い上っ張り。そのスタイルで、彼はニューヨークの街を自転車で疾走して、ストリート・スナップを撮る。この映画は、彼の日常を、淡々と追いかけたものなのだけれど、そのピシッと筋の通った生き方のダンディズムに魅せられてしまった。私はダンディズムを持つ男性に弱いのである。「あまちゃん」のアキちゃんのように、キラキラの瞳で(?)「かっけ~~!」と心の中で連発してしまった。

彼は有名人には興味はないし、自分の衣食住にも興味がない。恋人も作らなかったし、家族もいない。そんな暇がないほど彼は自分の仕事に没頭し、ひたすら街に出て写真を撮る。まるで求道者のような生活なのだけれど、画面に映る彼はいつもひたすら楽しそうなんである。もう、ほんとに楽しすぎて、ほかのことをする暇が無かったんだろうなあと思う。だから、お金とも無縁。「金をもらわなければ口出しされない」というのも彼の哲学。どんな派手なパーティに出ても、水の一杯だって飲まない。「美を追い求める者は、必ず美を見出す」。これは、彼がフランスの国家功労賞を貰ったときの言葉だ。かっけ~!!彼は、果てしないファッションという海の中から、煌めく真珠を見出すアーティストなんだろうと思う。「美しさ」は、誰かが発見して初めて「美」になる。そして、ファッションの美しさというのは、それを着る人がいて表現されるもの。彼は、無料で着飾った有名人には興味はないらしい。自分の生活の中で、何を選んで何を捨てるか。自分の生き方を決めることは、「何が美しいか」を自分で決める選択だと思う。彼は、その美意識のアンテナがピリピリと立っている人のファッションに惹かれているようだ。思うに、そのアンテナが立っている人というのは、選んで選んで・・つまり、たくさんのものを同じく捨てている人なんじゃないかしらん。その孤独やストイックさ、「誰かとおなじ格好が出来ない」不器用さも含めて、きっと彼はファッションを、ファッションを纏う人々を愛しているのだと思う。だから彼は決して女性たちをけなさない。かって働いていた雑誌が、彼の写真を使って、街の女性たちの着こなしを揶揄するような記事を作ったとき、彼は激怒して即座にやめてしまった。そして、写真に映った女性たちを心配していたらしい。そんなところも、素敵だ。信仰について聞かれたときや、パーティからパーティに移動する夜の風景の背中に、「独り」が滲むんだけれど、幾つになっても凛と背筋を伸ばして一人でいるその潔さも、またカッコよかった。ラストの、同僚たちがしくんだバースデイのサプライズパーティに思わずうるうるしてしまった。ビルの生き方から、たくさんの喜びを貰える、そんな映画だった。

ニューヨークの街を歩く、胸がすくような個性的なファッションの人たちは、ほんとにカッコよかった。この映画を見たあと、梅田の街を歩きながら「ビルなら誰を撮るかなあ」と思いつつ人間ウオッチングしてしまった(笑)若い女性たちは、ほんとにおしゃれで可愛いけど、皆良く似てる。強烈な大阪のおばさまたちのほうが、ビルのお眼鏡に叶うかも。今週のNYタイムズのビルの頁を見ると、レースがいっぱい!この夏は大好きなレースの服を買おうっと。息子に「また、ひらひらやん」と言われてもかまへんわあ。

by ERI

[映画】ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの

この映画を楽しみにしていたのに、背中痛に阻まれて、なかなか電車にも乗れず・・・でも、今日は絶対!と勢いこんで出かけたものの、寒いわ、梅田のホームで失礼な男にむこうずねを蹴られるわ、グランフロントのビル風が物凄いわ、地下道が臭いわ(文句多すぎ)で少々へこみながらガーデンシネマにたどり着いたのです。でもでも。この映画を見て、季節外れの寒気に凍えた気持ちがすっかり持ち直して暖かくなりました。

この映画は、ハーバート・ヴォーゲルとドロシー・ヴォーゲルという夫婦のアートコレクターのドキュメンタリーです。ハーバートは郵便局員、ドロシーは図書館司書。特にお金持ちでもない二人は、大の美術好きで、お給料で買える現代アートを40年間1DKのアパートに集め続けました。その数およそ4000点。彼らはコレクションをワシントンのナショナル・ギャラリーに寄贈することにします。でも、ナショナルギャラリーだけでは、彼らのコレクションを展示しきれない。そこで、50×50プロジェクト、全米の美術館に50作品ずつコレクションを寄贈するというプロジェクトが始まったのです。この映画は、その様子と、各美術館を巡るハーブとドロシーの姿を追ったドキュメンタリーです。

このお二人が、とってもキュートなんですよ。彼らがアートを集めたのは、お金のためじゃありません。ただ「好きだから」。1DKのアパートは、もう壮観と言っていいほどアート、アート、アート・・・その間に猫と水槽。それだけしかない。ある美術館は、その部屋を再現してコレクションを展示していました。わかるなあ。作品と資料と猫に埋もれたその部屋は、二人で築いたど迫力の芸術作品そのものです。「コレクションの根底にあるのは、アートに全力を注ぐという行為」(by リチャード・タトル)であり、芸術に捧げた愛の証なんですもんね。僭越ながら・・・その徹底したアート馬鹿っぷりといい、猫好きといい、(アートと文芸というジャンルは違えども)芸術にとり憑かれた(笑)人生を送った先輩として、その生き方に心から共感してしまいました。

彼らのコレクション魂。よーくわかります。私も、読み切れないほど家に本があっても、とにかく本を買ってしまう。好きな本を手に入れるのは、多次元の宇宙を手に入れるようなものです。そこから広がる新しい世界を自分の本だなに並べる楽しさ。別に誰に褒めてもらわなくても、それが何にも利益を産まなくてもよいのです。コレクションし、その作品に対する愛情を語っていたいのです。私だって、なんでこんなレビューを日々書いているのかと言われれば、ほんとに、ただ「好き」だから。本や映画を愛していて、その話をしていたいからなのです。私が書いたレビューは、ここに越してくる前の「おいしい本箱Diary」に2000本ほど(多分。ちゃんと数えたことがない・爆)、まだこちらは100本に満たないので、彼らの数にはまだまだ及びませんが、多分その根底にある気持ちは一緒なんやろなあと思うのです。ハーブはたくさんの芸術家と親交があり、常に芸術の話ばかりしていたらしい。顔を合わせれば95%アートの話。はい、その通り(笑)。私も、本を愛しているお仲間さんにお会いすると、ひたすら本の話で終わります。そこも一緒。

芸術というものは、発信する人と、受け取る人と、二種類の人間があって成り立ちます。彼らは徹底的に受け取ることで、アートを支え、作家たちを応援してきた。彼らに愛され、評価されることで支えられたアーティストたちが、この映画には何人も登場していました。二人が買い続けてきたのは、既に評価の定まっている、たとえばサザビーズでオークションにかけられるような作家の作品ではなく、現在進行形で「今」を歩いている作家たちだった。二人は、彼らと現代アートの最先端を作っていったんですよね。それは、ハーブとドロシーが、お金や名声ではなく、芸術を生み出し、発信する作家たちの魂に最大の愛と敬意をささげていた証です。普通の暮らしをしていた二人が、こつこつと、ひたすらにその愛情を積み上げていった結果として、非凡な一大コレクションを成し遂げた、というところに、たまらないカタルシスを感じます。私も、こつこつと、書き続けよう。お二人のような偉業は無理だろうけれど、私もハーブとドロシーがアートを愛するように本を愛してるから。猫好きも同じだし(笑)―と、行きに凹んだ気持ちがすっかり膨らんで帰ってきました。寄付を募って資金を集め、苦労してこの映画を作られたのは、日本の佐々木芽生さんという監督さんです。それも、とても嬉しくて誇らしかった。どうせなら、こんな人生を送りたい。ほんとに素敵な映画でした。アート好きな方、必見です。

映画 『故郷よ Land of oblivion』 ミハル・ボガニム監督 

先週の木曜日に、この映画を見てきました。チェルノブイリの原発事故によって故郷を失った人たちの物語です。舞台は、チェルノブイリからわずか3kmの町・プリピャチ。冒頭には、事故寸前ののどかな町の様子が描かれます。きらめく川の流れが幸せな恋人たちを運び、緑豊かな自然の中で人々が笑う。父と息子がリンゴの木を植え、牛がゆっくりと歩いていく・・・光が溢れて穏やかで、見ているだけで涙がこぼれそうなほど綺麗な、町というよりは村の風景です。ボートに乗っているカップルの女性は、この物語の主人公の一人、アーニャ。彼女の結婚式を明日に控えた春の夜に、原発は事故を起こしてしまうのです。アーニャを、『薬指の標本』で見たことのある、オルガ・キュリレンコが演じているのですが、監督は当初彼女が美人すぎるのでこの映画での起用をためらっていたらしいのです。でも、この冒頭の、ボッティチェリが描く春の女神そのもののような彼女の輝きは、あの風景にとても似合っていました。明日結婚しようとしていた彼女の中に満ち溢れていたのは、これから生まれてくるだろう子どもも含めての、未来へのエネルギーであり、豊穣の予感だったのです。そして、その輝きが美しければ美しいほど、失われたものの大きさと取り返しのつかなさが色濃く胸に落ちます。この映画にどうしても出たかったというキュリレンコの思いが伝わってくる演技でした。

映画は淡々と事故当日の人々を追っていきます。まったく情報がなく、何が起こったのか誰も知らずにいる人たちの上を、放射能を含んだ雨が何度も何度も通り過ぎていきます。結婚式の真っ白なケーキを黒い雨が汚し、子どもたちはその雨の中で遊んでいるんです。映画の中の人々に向かって「逃げて」と思わず心の中で叫んでしまう。二度と帰れないと知らないまま強制避難させられてしまう人たち。耕してきた土地も牛も奪われてしまった農家のお年寄りの顔。いきなり愛する人を失って茫然とするアーニャ。3.11と結びついていく光景です。この映画が撮影されたのは、3.11の前なんですが、見事に符号にようにすべてが重なっていくのが、怖いようでした。こんなに同じことが起きていたのに、私たちは何も学ばなかった。対岸の火事だと思っていた。そのことを痛感しました。前半の、事故当時の混乱の様子を見ながら、思わず全身に力が入り、こわばってしまう。その臨場感は半端ないものでした。

10年後、アーニャはプリピャチの町で、「チェルノブイリ・ツアー」のガイドとして働き続けます。この映画は、初めて立入制限区域で撮影された映画で、誰もいなくなってしまった町の風景が延々と続きます。後半は、アーニャと、リンゴの木を川岸に植えた少年・ヴァレリーとその父親である技師のアレクセイの10年後が描かれます。3人が3人とも、故郷と大切な人を失った喪失感の中で暮らしている。アレクセイは、事故のあと精神を病んだまま、ずっとプリピャチ行きの列車を探して放浪します。もう、プリピャチという名前の駅はこの世には存在しないのに・・・。彼の息子のヴァレリーは、いなくなった父の痕跡を求めてプリピャチに潜入します。でも、そこには何も残ってはいなかった。アーニャは恋人が出来ても、どうしても新しい生活に踏み出すことが出来ない。その彼らの物語も胸に染みましたが、何より説得力があったのは、プリピャチの空っぽの風景でした。暮らしも笑い声も失われたその風景は、今、日本のあの場所にも広がっている、そう思わずにはいられない。チェルノブイリの事故の際に、アーニャの夫のように事故処理などのために亡くなってしまった方は4千人にも及びます。しかも、石棺はすぐに老朽化し始めて常に補強しなくてはいけない。その作業は、これから数千年も続くのです。そして、立入制限区域は、私たちには永遠と思える時間が経っても人が住めるようにはならない。永遠に空っぽのままである風景が、ずっと乾いた涙を流し続けているように見えました。町も風景も生き物なのだと。その命を奪ってしまうことの残酷さを町自身が物語る、そんな映画でした。

 

 

 

 

 

 

映画 100万回生きたねこ

私は、否定的なことをネットに乗せるのは好きじゃない。せっかく語るのなら、好きなもの、自分が感動したことについて書きたいと思うから。でもなあ・・・今日は辛口です。何故かというと、佐野さんファンとして、とても残念だから。佐野さんという稀有な存在をドキュメンタリーにするのに、あれでは残念すぎて仕方ないと思うのです。

『100万回生きたねこ』を今日kikoさんと見てきた。大好きな佐野さんのドキュメンタリーということで、期待は大きかった。佐野さんはとても大きな人で、ありのままで、何もかもを丸ごと見つめる人。時々、自分が嘘っぽくて空っぽになってると思うと、私は佐野さんの本を読む。すると、内臓がちゃんと自分の中に帰ってきてくれる気がするのである。佐野さんの体はいなくなってしまったけれど、佐野さんとはいつも本を通してしか繋がっていなかったせいもあって、私にとっては永遠の存在だ。でもでも、その最後の日々に、映像を通して触れることができるかもしれないと思うと、私はこの映画がとても楽しみだった。

しかし映画の内容は、期待していたものとは全く違った。まず残念だったのは、佐野さんと、ほかの登場人物たちが、全く有機的な繋がりを持たなかったという点だ。ほんの一瞬佐野さんの肉声が流れただけで、そのあとは延々と「それぞれの生きづらさと向き合う読者たち」が絵本を読み、自らの生きづらさを語る映像が続くのだが、私には、彼女だちの生きづらさと佐野さんの絵本や生き方がどう関わりを持つのか、さっぱりわからなかった。それもそのはず・・・映画に参加した女性たちは、この監督さんの前作の映画を見に来た方たちなのである。佐野さんとも、「100万回生きたねこ」とも、なんの関わりもない。だから、単に自分語りに終わってしまうのである。しかも、その苦しみの描き方というか、映像の演出が、これでもかこれでもかと過剰すぎて、かえって彼女たちの真実が卑小化されてしまってこちらにまっすぐ伝わってこない。「人の苦しみってこんなもんでしょ」という監督さんの思い込みの中に、佐野さんも読者の人たちもすべてを押し込んでしまったようなそんな印象だった。これでは、佐野さんに対しても読者の方たちに対しても失礼ではないのかしらと思う。

 

そして、何よりも残念だったのは、佐野さんという大きな存在に対して、全く切り込んでいないこと。佐野さんという天衣無縫な人を前にしてどうしていいのかわからない、というのはわかる。簡単な物差しでは測れない人だし。だからこそ、佐野さんを自分の理解できる場所に無理やりあてはめるのではなく、「わからない」ということをまっすぐ見つめてぶつかっていくべきだったと思う。簡単な理屈なんかに人間を押し込めては、大きなものが抜け落ちる。映画では、お顔を撮影するのは佐野さん自身が拒否されたということで、肉声だけが流れた。その声の、なんと魅力的なこと。一度も聞いたことがないにも関わらず、「ああ、佐野さんだ!」とすとん、と胸に落ちてくるほど説得力がある。もっと聞かせてよ!と私は歯ぎしりしそうだった。「私ね、もうすぐ死ぬのよ」なんて、あの声で言える人は、そうそういない。佐野さんへのインタビューは、撮影時間にして20時間もあるらしい。もったいない。心底もったいない。それをしっかり編集して、佐野さんのアトリエや自宅の風景とともに見せてくれるだけで十分だったんじゃないか。佐野さんは、佐野さんだ。いつ、どこにいても、死の間際にいても、大きな樹がただそこにあるように100%佐野さんで、私はそんな佐野さんにずっと触れていたかった。猫のように、すりすりしたかった。佐野さんのインタビューだけで、もう一つDVDを作ってくれはらへんかな。アトリエにあった、原画や未公開の絵を、もっと見たかったな。何の小細工もいらない。ただ、そこにいる佐野さんを感じたかった。先日見た『天のしずく』は、監督さんがまったく表に出ずに辰巳さんという「人」を丁寧に見つめ、そこから始まる広がりを見事にとらえていた。ドキュメンタリーは、そうあって欲しい。

残念のあまり、筆が進んでしまいました(汗)でも、監督さんが佐野さんに会いにいかなければ、佐野さんの肉声を聞ける機会はなかったんですよね。うん。そこは、素直に感謝です。もったいないけどね。ほんまに、もったいないけどね・・・(何回いうねん!)

 

映画:『最初の人間』ジャンニ・アメリオ監督

あけましておめでとうございます。皆様、良いお正月をお過ごしでしょうか。私、なんと元旦からパソコンが壊れるというアクシデントに見舞われました。何をやっても立ちあがらない。とうとうリカバリまでしましたが、やっぱり立ち上がらない。仕方なく、本日修理入院となりました。正月休みということもあって、いつ治るかわからないとのこと。がっくりです。従って、しばらくは家族のiPadを使わせてもらうことにしたのですが、これがまあ、慣れないので非常に使いにくい。文章もそこはかとなく電報みたいでぎこちない。読みにくい箇所などございましたら、どうか教えてくださいませ。お願いします。

今日、パソコンを修理に持っていくついでに、息子と映画を見てきました。ジャンニ・アメリオ監督の『最初の人間』です。カミュの自伝的な遺作を映画化した作品で、静かな語り口の中にたくさんの問いかけのある映画でした。祖国アルジェリアに帰郷する有名な作家のコルムリ。独立運動に揺れる祖国のために投げかける彼の言葉は、その時は一部の人にしか届かなかった。映画の中で、恩師に彼が、自分の政治的な立ち位置の苦しみを伝えるシーンがあります。その時、恩師は彼に「小説を」書きなさいという。小説の中にこそ真実がある」と。

この映画の舞台となっているのが50年ほど前。民族や領土をめぐる問題はネットの普及も手伝って、より複雑になっているようにも思います。また、政治的に威勢のいい言葉が、年末には日本でもたくさん飛び交いました。その一方で、静かに核廃絶を訴えて座り込みを続ける方たちがいるのも事実です。今、多数の人に支持されるのは、威勢のいい言葉なのかもしれない。でも、カミュが自らの軸足を非暴力に置き続けたこと。その根底にある母への愛情や、祖国への思いが掘り下げられたこの作品を見て、最後に人の心に残っていくのは、やはりここに、非暴力に軸足を置く人間の言葉なのだと思いました。小説、物語というものはマイノリティな存在だと思います。世界の流れを変えたり、主流になることは決してないのかもしれません。でもカミュのような小説家の物語が流れる時の中で生き残っていてくれることは、とても大切なことであり、もしかしたらぎりぎりの所で私たちが踏みとどまれる最後の力になり得るのでは・・・そんなことを思った年頭でした。

少年時代のコルムリを演じた少年が、聡明な繊細さと芯の強さを見せてとても凛々しかった。彼の魅力もあって、回想の少年時代の映像がとても詩情に溢れていて素敵でした。そして主人公のコムルリのジャック・ガンブランが個人的にとても好みでした。手の表情が良かったなあ。静かに座っているだけでコムルリの、カミュの背負うものの重みを感じさせるんですよ。パソコンが壊れてしまったのは残念ですが、お正月からいい映画を見て、今年もこつこつやっていこうとおもえたのはとても良かったと思います。今年もどうかよろしくお願いいたします。

 

 

【映画】天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”

私は毎日料理をする。1年が365日あれば、360日ぐらいは欠かさず家族5人のためにご飯を作る。私ぐらいの年齢になれば、まわりの友人たちはそろそろご飯作りから解放されている人も多い。子どもたちは家に帰ってこなくなり、夫も仕事仕事で帰りが遅い。「たった一人の夕食だと何を作るのも面倒で、買ってすませてしまうんよ」などと聞くと、正直うらやましく思ったりもする。でも、この映画を見て、辰巳芳子さんが作る「天のしずく」である命のスープに込められた愛情に、自分の適当さや、「こんなもんで大丈夫」という奢りの心を思い知らされてしまったのである。「食」は人間の一番根源的な愛情の姿であること。そして、この国の食べ物を守る、「食」を守ることが、私たちの次の世代のために絶対に必要なことであることを、心込めて教えてもらった。凛と立つ辰巳さんが、その手から生み出す料理は、まさに慈愛そのものなのだ。

辰巳さんの「食」は、家族と生きてこられた歴史。戦中戦後と苦しい時代を、心込めた料理で支えたお母様との毎日が、辰巳さんの中にそのまま生きている。そして、病気で倒れたお父様のために作られたのが、命のスープ。それを作る辰巳さんの手の動きの美しいこと。そう、全てが美しいのだ。辰巳さんの使う食材を生みだす農家の人たちの面差し。広がる土の風景。田んぼに実る黄金色の稲穂。何て日本の風景は美しいのかと涙が出そうになる。その美しさを全て集めて、辰巳さんの端正な手が命のしずくを生みだす。そのスープを飲む人の、顔がとても印象的だった。保育園の子どもたちは満ち足りて寝てしまう。病んでいる人が「おいしい」と顔を緩める。私は、人に「美しい」と思わせるような料理を作ることが出来ているだろうか。辰巳さんのお母様は人生の最後に「ああ、美し。一点一画のくるいもない」と思わせる献立を並べて辰巳さんに食べさせた。何となく食べられるから、くらいのものを毎日作って「めんどくさい」とはよく言えたものだなと、自分のぼんやり加減にため息が出た。

この映画の中で、心に残った手がもう一つある。それは、長島愛生園で人生を過ごしてこられた宮崎かづゑさんの手だ。若い頃の病でその手は指がない。でも、かづゑさんはその手で愛する親友のために、辰巳さんのスープを作って届けておられたのである。辰巳さんはそのスープを飲んで「やさしい味ね」とため息をついた。私はそのシーンを見ながら、父の臨終のときのことを思い出していた。父が倒れたとき、あともう少ししか命がないとわかったとき。私はなぜ、病室で右往左往しか出来なかったのだろう。なぜ、父の好きだったお味噌汁を作って飲ませなかったのだろう。そう思って涙が止まらなくなってしまった。私は、そんな風に人に愛情を与える生き方をしてこなかったんだなあと心がひりひりした。そのかづゑさんが言う。「人間は生きているべきですね」「ここまで生きてこなくちゃわからなかった、ということがあるんです」とおっしゃっていた。そう・・本当に、年齢を重ねなければわからないことがある。それも、丁寧に生きていなければわからないことが。

今、日本人の価値観は揺らいでいる。大きな波にのまれそうになって消えてしまいそうなものがたくさんある。富とは何か。豊かに生きるということは何か。この美しい日本に生まれて、こんなに豊かな食の慈しみを受けられること。この恵みを決して無くしてはいけないし、それを無くしてしまったら、心の未来は無いのだということ。土は絶対に汚してはいけない。土は、命そのものだから。その基本を見据えたら、自ずと私たちの方向は定まるように思う。私達は日本人だから、この日本で、顔の見える人たちの作るものを慈しんで食べて生きるべきなのだ。それは、ほんとうに当たり前のこと。そして、大切なこと。でも、その大切なことは、今切り捨てられようとしている。ここで声を上げなければならないという辰巳さんとスタッフさんたちの切なる想いが、まっすぐ伝わる映画だった。このところ、漠然と心にあって形にならなかったことが、すーっと心の中で繋がったような気がする。心から見て良かったと思う。

この映画は、今公開中です。パンフレットにはレシピもついてます。一人でも多くの人がこの映画を見てくれますように・・・。

by ERI

父と息子のフイルム・クラブ デヴィッド・ギルモア 高見浩訳 新潮社

 16歳で学校に通うことが出来なくなってしまった息子に、父親は二つ条件を出して学校からリタイアすることを認める。一つは麻薬に手を出さないこと。もう一つは、父親と一緒に週に3本映画を見ること。この本は、そこからの3年間の日々を綴ったノンフィクションです。

親にとって、子どもが学校に行かなくなるというのは、結構こたえることです。いろんな不安が押し寄せる。子ども自身の将来がどうなってしまうんだろうという不安。どんどん社会から取り残されてしまうような不安。これまでの自分の子育てを反芻してはその原因を探して堂々巡りに陥ったり、右往左往の連続です。私の場合、これからリタイアするよ、と明確に引き際を決めることさえも難しかった。無理かも・・・と思いながら、車で大幅に遅刻した息子を無理やり送っていったり。毎日毎日学校に「今日も休みます」と連絡することに疲れ果ててしまったり。ひたすらじたばたし、かえって息子にストレスを与えてしまったようにも思います。まず、不登校という事実を受け入れるまでに親も疲れ果ててしまう。そこからまた歩き出すには、私は時間が必要でした。しばらく呆然としていた、というのが正直なところです。この本の著者のデヴィッドも、だいぶ右往左往されたようなのです。でも、とうとうその事実を受け入れざるを得なくなったとき、彼は息子と「映画を一緒に見る」という取り決めを交わします。そこでこの提案が出来、ちゃんとそのプログラムが実行されたこと。それが、私にはまず驚きでした。うちの場合、鬱や胃腸障害を抱え込んでしまったので、そのときの体調に全てが左右されてしまう面が大きかったこともありますが、ほんとにいろんなことを途中で放り出してしまった。流されるままになし崩しにしてしまった。その後悔があります。だから、こんな風に学校に行くか行かないのかをきっちりと判断させ、なおかつ親子でひとつのことを続けていくことが出来たら、もっと早く精神的な支柱を取り戻せたかのかな、と読みながら思うことしきりでした。

まず、映画を親子で見続けるということが出来たのは、映画という媒体の力が大きいし、父親自身が、映画のことを知りつくしている人だから出来たことでもあるでしょう。自信を持って息子に語れることが父親にある。そのことについて、話が出来る。この『話が出来る』というは、子どもがずっと家にいる状態では、かえって難しかったりします。距離の取り方が難しいのです。ただでさえ、思春期の子どもと親が話をするのは難しい。いろんないざこざでお互い傷つけあったあとでは、なおさら難しい。部屋にとじこもりがちになる子どもに何を話しかけていいのかわからなくなるんですよね。だから、こうしてずっと息子と話が出来るきっかけを映画という媒体を通して作り続けたことが素晴らしいと思うのです。ずっと息子に対して自分を開いた状態にし続けた父親の愛情と努力を尊敬してしまう。父親であるデヴィッドは、説教したり上から目線の言葉を決して投げかけません。息子の感性と考え方を尊重し、彼の若さゆえの行動も、ガールフレンドとのあれこれも、自分の問題として受け入れて誠実に答えていくのです。自分の性的なことに関しても父親に話すジェシーのまっすぐさにも驚きましたが、そこにはお互いに対する強い信頼があるんですよね。私はここまで息子を信頼できていたのかな・・・いや、今も出来ているんだろうか。そんなことを思ってしまいました。

ジェシーは、19歳で学業に復活し大学生になります。ジェシーとデヴィッドは、二人三脚でこの時期を乗り切ったのです。もちろん、この親子と同じことをしようと思っても、はいそうですか、と出来ることではありません。でも、この親子のたどった道から、いろんなことを教えてもらうことは出来そうです。そして、優れた映画案内として読むことも出来ます。私自身が好きでよく見た映画もいっぱい紹介されていましたが、デイヴィッドが語る映画のみどころを読むと、もういっぺん見たくてうずうずしましたもん。もちろん見ていない映画は、メモメモしました(笑)老後は映画をいっぱい見よう・・・って、死ぬまでに読み切れないほどの本のリストを抱えて、まだそんなことを言う自分の欲深さが恐ろしい(笑)

私の子育ては後悔の連続で、ほんとに、ただひたすら流されてしまったことが多すぎた。流されなくては、今度は自分が生きていくことに踏みとどまれなかったのかもしれないし、今もどんどん流されてしまっていることには変わりないのですが・・。その時々の分かれ目でどうすれば良かったのか、それをいまだに考えます。この本は今、苦しみの中にいる人の助けにはならないかもしれないけれど(不登校には、千差万別の事情がありますから)、同じ苦しみを体験した親として分け合える何かがあると思います。その『何か』を与えてくれるものは、これだけ専門書や関係書が出回っているにも関わらず存外少ないのです。読めば読むほど苦しみの中に堕ちてしまうことの方が多いんですよね。自分の家庭のことを書くのは、後書きでご自身がおっしゃるように大変なことだったと思います。でも、そこを押してこの本を出版されたことに、著者の同じ苦しみの中にいる人たちへの想いを感じる・・そんな一冊でした。

by ERI