ねこもおでかけ 朽木祥作 高橋和枝絵 講談社

 家の近くを飛び交う鳥たちを見ながら、数メートル、時に数千メートルの高度まで飛べる鳥たちには、私たちと全く違う世界が見えているのだろうといつも思う。
 うちの猫たちも、少し開けた窓から外の空気を嗅ぐとき、この町内に住んでいるもの、通り過ぎていくものの気配を、アンテナをびんびん立てて感じている顔をしている。
当たり前だけれども、猫は人間とは違う種族なので、同じ空間にいても、私たちには見えない異世界への扉を持っている。それでいて、寂しがり屋だったり、甘えん坊だったり、やきもちを焼いたり、いたずらして隠れてみたり、一緒に暮らしていると、感情や心のありようが、驚くほど人間と変わらない。
この物語には、そんな猫の魅力がいっぱいに詰まっている。三匹の猫と暮らす私の心のツボにすっぽりはまってくる素敵な物語だ。

主人公の小学生の信ちゃんが愛犬のダンと公園で散歩していると、一匹の茶トラの子猫がダンの足元に走り込んできた。思わずかぶっていた野球帽に入れて連れて帰った、かぼちゃプリンのような色のトラノスケは、大きなダンもタジタジの元気な子。

余談だが、朽木さんの物語に登場する、優しくて食いしん坊のダンが、ほんとに好きだ。彼は、犬種族の信頼と愛情を体現するような存在だなあといつも思う。信ちゃんと、心配性のお父さん、動物大好きのお母さんに可愛がられて、トラノスケは家族の一員になっていく。大きくなった彼は、「ねこのごようじ」のためにお出かけするようになる。トラノスケがどこに行くのか気になる信ちゃんは、こっそりあとをついていき、「ねこのごようじ」の秘密をさぐってみるのだった。
うちにも、トラノスケとそっくりの茶トラくん(現在16歳)がいて、その昔、わが家の周りが田んぼだらけの頃はお外で遊んだりしていたのだ。でも、あっという間に田んぼが埋め立てられ、車の通りも多くなって、心配性の私は、信ちゃんのお父さんのように、彼が帰ってくるまで胃に穴があくほど心配で心配でいてもたってもいられず、ここ十年以上、室内飼いを貫いている。でも、今も思い出す。遊び疲れて、満ち足りて眠っていた寝息。お外に出るとき、意気揚々と弾んでいた足取り。カエルを咥えて帰ってきて大騒ぎしたこと。そして、トラノスケの親友のコタロウと同じように、仲良しのハチワレがいて、いつも一緒に遊んでいたこと。一日遊んで帰ってきたうちの子から、なんともいえないお日様の匂いがしていたこと。あれは、平和の幸せな匂いだ。

遊んで、可愛がられて、おなか一杯食べて、コテンと寝こけて。この物語には、そんな、猫と子どもの幸せがいっぱいに詰まっている。猫と人間、犬と猫、犬と人間。お互い持ってる時間軸も種族も違うけれど、お互いの聞こえない声に耳をすませて、愉快に、共に生きることが出来る。出来るんだよ、という声が聞こえて、ここ最近の、恐ろしい出来事に冷え切った心と指先をふんわり温めてくれる。この物語のトラノスケと信ちゃんは、光村図書の三年生の国語教科書に掲載された「もうすぐ雨に」にも登場するふたり。朽木さんの物語は、先行作品の世界と重なりながら、波紋のように広がり、深まっていくのが、読んでいてとても嬉しく、楽しい。物語と友だちになることは、自分の座る椅子がそこに出来る、ということだ。高橋和枝さんの可愛い絵は、トラノスケと信ちゃんがいる、暖かい陽だまりの居場所に読み手を連れていってくれる。特に、裏表紙のトラノスケのお尻がお気に入り。猫がお尻を見せてくれるのは、友情の証。こっちにおいで、と誘ってくれている。子どもの持つ、小さきものへの優しい眼差しが、トラノスケの心の声となって響いてくる、子どもと共に大人にも読んでほしい作品だ。

 

 

かげふみ 朽木祥作 網中いづる絵 光村図書

 

「ヒロシマ」「原爆」をライフワークにしておられる朽木祥さんの最新作。

妹が水ぼうそうにかかったせいで、一人で広島にある母の実家で夏休みを過ごすことになった拓海は、近くの児童館の図書室で、白いブラウスに黒のスカート、三つ編みの透き通るような色白の女の子「澄ちゃん」に出会う。しかし、心惹かれたその子とは、雨の日しか出会えない。少しずつ話をするようになった拓海は、女の子が「影の話」を探していること、石けりやらかげふみをして遊ぶことが好きなのに「長いことあそんでない」ことを知る…。

澄ちゃんは「影」をずっと探している。『八月の光 失われた声に耳をすませて』(小学館、2017)の連作短編にも、「影」はいろんな形で、失われた命や声を呼び戻す手がかりとして登場していた。あの日さく裂した「空に現れた二つ目の太陽」は、たくさんの人を、石段や壁に、影だけ残して焼き尽くした。その影たちは長い年月の間に薄れ、人々の記憶からも消え去ろうとしている。この物語は、その影たちを、体温と顔のある、ひとりの人間として立ち上がらせ、温かい血を通わせる。儚げな澄ちゃんに、拓海はほのかな思いを抱く。一人で、慣れないところにやってきた拓海と、一人でずっと影を探してきた澄ちゃんは、どこかで心が共鳴したのかもしれない。近くにいると、日向の温かい匂いのする少女。いつも図書室にいる謎めいた澄ちゃんと、本好きな拓海は本を通じていろんな話をする。

この物語は、朽木さん自身の作品も含めて、たくさんの文学作品が登場する。『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス)のタイムスリップという、ファンタジー要素も重ねあわされ、この物語自体が、時間と空間を旅する小さな船のようだ。

よそからやってきた拓海と、すぐに仲良くしてくれた広島の友人たちと、拓海は川で古いボタンや「石けり」を拾う。それは、あの日に逝ってしまった子どもたちが残したもの。広島もまた、あの日の記憶を幾重にも隠し持つ船のようだ。いっしんに遊ぶ子どもたちのなかに混ぜてもらって、自分の「石けり」を拾ってもらった子も、きっと嬉しいだろう。ここにいるよ、という小さい声が聞こえるようだ。ふっと、見知った顔のなかに、いつもと違う、澄ちゃんのような子が遊んでいるかもしれない。そんな優しい空間が、この物語には広がっている。原爆の話はこわい。恐ろしい。子どもだけではなく、大人でもそう思ってしまいがちだ。

「うまいこと言えんのじゃけど、あの日いきなりおらんようになった人らのことをね、遺族らは、こわいとは思うとらんのよ。ただただ慕わしいっていうか……」

「『こわい』という言葉と『かわいそう』という言葉は、なんだか似てる」という拓海の言葉にはっとさせられる。自分とは違うものを私たちは畏れるが、それは異質なものを排除したい、という気持ちの現れ、無意識に作る心の壁なのだ。物語は、その壁を越えてゆくもの。本という、時間と空間を超えたタイムカプセルと共に長い年月を過ごした澄ちゃんは、拓海の心に刻まれて、これからを生きる子どもたちの希望に、未来を照らす光になっていく。何度も読んで切なくて美しい二人の物語に浸りたい。「この本は、あなたの前の扉です。/扉をあけて、「澄ちゃん」に出会ってくださいね。/わたしたちひとりひとりの「命」について、考えを深めるきっかけになりますように。」というあまんきみこさんの帯文もまた、心に沁みる。

共に掲載されている「たずねびと」は、小学五年生の国語教科書に載っている短編。「さがしています」という『原爆供養塔納骨名簿』のポスターに、「楠木アヤ」という自分と同じ名前を見つけたことが縁で、広島を尋ねた少女の物語だ。このふたつの物語を合わせて読むことで、私たちはかけがえない「記憶」への旅をすることができる。朽木さんが後書きで書いておられるように、ウクライナ侵攻により、子どもたちにも戦争は遠くのことではなくなっている。核もまた、力の顕示や政治の道具として使われることが多くなってきた。それがいかなる惨禍をもたらすのか。改めて心に刻むべきだと思う。

パンに書かれた言葉 朽木祥 小学館

元首相が聴衆の目前で銃弾に倒れるというショッキングな事件があった。犯人はカルト宗教信者の家庭に生まれた二世で、その宗教と繋がりのある元首相を狙ったとのこと。同じ宗教ではないが、私も幼い頃から新興宗教にのめり込む母に悩まされてきた。金銭的にも精神的にも、カルト宗教二世は大きなダメージを受ける。いまだに子どもの頃に叩きこまれた価値観が自分のなかに根深く存在することに気づいてうんざりする。人生の基盤をカルトに左右されてしまう子どもの辛さに溜息がでる。だからといって、その恨みを直接的な暴力に結びつけてしまうのは許されることではないのは重々承知しながら、もし彼に自分の苦しみや状況を語る、自分の言葉があったなら、もし自分で綴れないとしても、自分の痛みと響き合い、問題を可視化してくれる言葉や物語に出会っていたら、と思ってしまうのだ。

 周りがすべて一つの価値観に染まっているなかで自分の言葉を持つことは非常に難しい。抑圧は沈黙を強いるから。しかし、人間が理不尽な力に押しつぶされそうになるとき、人の心を支え、自分のいる場所を客観的に見ることで怒りや絶望を別のエネルギーに変えてくれるのは、「言葉」なのだと私は思う。例えば、隠れ家の日々を批判精神と真摯に思考する言葉で日記に綴ったアンネ・フランクのように。

 この『パンに書かれた言葉』という物語は、イタリア人の母と日本人の父を持つ少女、光・S・エレオノーラ(通称エリー)が、東日本大震災をきっかけに、第二次世界大戦下のイタリアでファシズムに抗おうとしたレジスタンス、そしてヒロシマの記憶を旅する物語だ。彼女のミドルネームは最後まで伏せられている。そこに大切な秘密が隠されているから。

物語は東日本大震災の日々から始まる。余震と停電が繰り返されるなか、「毎日のようにテレビに映し出される光景をいやというほど観て、心が痛いのか痛くないのかわからなくなって、しびれたみたいな感じ」になるエリー。戦争に銃による襲撃と、次々と目の前で繰り広げられる恐怖に、同じようなしんどさを抱えている子どもたちは多いのではないだろうか。エリーは両親のすすめで母の故郷であるイタリアのフリウリの村にあるノンナ(祖母)の家にしばらく滞在することになる。そこで、エリーは、ノンナから、ナチスに連れていかれ消息不明になった当時十三歳だった親友のサラと、レジスタンス活動に身を投じたために十七歳で処刑されてしまったノンナの兄、パオロの話を聞くことになる。パオロは、処刑前に一冊のノートと、自分の血である言葉を書き記したパンを残していった。ノンナはずっとそれを大切にしてきたのだ。

世界中に報道されるほどの大震災があった日本からやってきたエリーに、ノンナがナチス支配下の記憶をしっかり話して聞かせるのがとても印象的だ。ノンナはエリーに、素晴らしい家庭料理を作ってくれる。(これがもう、たまらなく美味しそうで涎が出る)その一方で、人間の罪の暗い淵をのぞき込むような過去の記憶を語り、しっかりエリーに伝えようとする。ヨーロッパにおける戦争の記憶の継承のあり方は、特に加害の過去に蓋をしがちな日本とは全く違う。ガス室に送り込まれた人たち、レジスタンス活動で殺されていった人たちの声を、顔と名前を取り戻し、決して忘れない記憶としてすべての子どもたちが継承していくことが大前提なのだ。エリーは、サラとパオロの話をノンナから聞くうちに、これまで、心のどこかで自分と無関係だと思っていたアウシュヴィッツの光景が、まるで今目の前で起こっていることのように思えてくる。どこかの見知らぬ人ではなく、顔と名前のある存在として人間を取り戻す、というのはこういう営みなのだ。

イタリアから帰ってきたエリーは、今度が自分から広島に行き、祖父母が体験した原爆の話を聞き、広島平和記念資料館で、やはり十三歳で被爆し、死んでいった祖父の妹、真美子の写真に出会う。なぜ、真美子は体中を焼かれて死ななければならなかったのか。戦後もピカドンに焼かれた人たちは、差別と後遺症に苦しみ続けた。エリーの祖父母のヒロシマの記憶は、フクシマへ繋がっていく。

チェルノブイリ原発にロシア軍が侵攻し、世界中が震え上がったのは、つい数か月前のことだ。恐ろしかったのは、ロシア軍が、チェルノブイリでも特に放射線量の高いことで有名な森に野営し、兵士たちが被曝したことだ。チェルノブイリの記憶が、全く彼らには共有されていなかった。決して忘れてはならない記憶が、継承されていなかったのだ。ヒロシマもフクシマも、チェルノブイリも、ショア―(ホロコースト)も、決して過去のものではない。現在進行形の、いつわが身にふりかかるかもしれぬ未来でもある。その未来を生むのは、忘却と無関心なのだ。

パオロが処刑前に、自分の血でパンに書き残した言葉が何かは、読んで確かめてほしい。いつまでも、まるでゾンビのように戦争と暴力を繰り返すのを、「人間ってこんなもの」「弱いものがやられるのは仕方ない」などとうそぶいてやり過ごすのは、もういい加減やめにしよう。言葉の力を信じて、素敵なミドルネームを持つエリーとともに何度も記憶をめぐる旅に出よう。美味しいものもたくさん出てくる、愛しい人たちと出会う旅に。大切な人々から聞いたそれぞれの記憶が少女の心のなかで輻輳し、お互いを照らし、響き合いながら、少女の視界を開いていく。共に旅する私たちの心の扉も。だからなのだろうか、辛く悲しい記憶への旅なのに、読後感は優しい光に満ちている。

一冊の本は大切な記憶への扉だ。ただ、羅列的に知識を得るだけなら、ネットでも出来る。しかし、他者の経験や心の動きを通じて歴史の奥行きを体験し、心に刻むことができるのは、厚みを供えた本への旅が必要なのだ。戦争と暴力の恐怖が世界中を駆け巡っている今、この本が刊行された意味はとても大きい。暴力に、同じ暴力で立ち向かおうとする負の連鎖を断ち切るのは、痛みや苦しみへの真の理解と共感を促す言葉の力であることを信じてやまない。

 

 

さくら村は大さわぎ 朽木祥作 大社玲子絵 小学館 

久しぶりの朽木さんの新作。春らんまんのさくら色の表紙に心が躍る。

表紙を開くと「風色湾」という文字。朽木ワールドファンにはなじみ深い場所だ。
ああ、久しぶり、と嬉しい物語の空気を深呼吸する。

 

風色湾の「さくら村」では、子どもが生まれたら、庭にさくらの木を一本植える約束がある。だから、春には村中がさくら色。トウモロコシ農家のハナちゃんこと「わたし」を語り手に、村の子どもたちと大人たち、そして動物たちが繰り広げる、ささやかで、それでいてわくわくする毎日。海と森と湿地がある、自然豊かな村には、季節の移り変わりと共に心躍ることがたくさん起こる。それを心待ちにするのは、なんて素敵なことなんだろう。何より、この村は、風通しが良くてとても居心地がよさそうだ。ずっとこの土地に住んでいる人も、新しく引っ越してきたパン屋さんの一家も、カワセミじいちゃんも、いたずら者の双子も。海からの風に吹かれて、助け合って気持ちよさそうに暮らしている。とても包容力のある共同体なのだ。
 

村には時々事件も起こる。トウモロコシ畑にニワトリと、お腹をすかせたドロボウがやってきたりもする。このもじゃもじゃさんというドロボウの行く末がとても気になったのだけれど、この村の包容力は、行き場のない人をちゃんと受け止めて、温かい。最後まで読んだとき、それがどんなに嬉しかったか。心に染みたか。きっとこの村は、子どもたちの、とっても素敵な心のふるさとになるだろうなと、確信した。

毎週楽しみに聞いている高橋源一郎さんのラジオ「飛ぶ教室」の2月5日の回で、高知の沢田マンションが紹介されていた。夫婦二人で作り上げた沢田マンションは、実に自由な造りの融通無碍な場所で、ご夫婦は、困っている人がいれば、保証人だ、入居審査だということは何も言わずに、目を見て大丈夫だと思えれば部屋を貸すという方針だったらしい。従って、沢田マンションは、様々な事情を抱えた人たちの駆け込み寺のようになっていたという。高橋源一郎さんの、こういう場所を「アジール」というのだという言葉が、胸に響いた。困っている人を、ごく自然に懐に入れてしまえるような場所。思えば、文学もひとつの「アジール」だ。ここに帰って来れば、心がほっとやすらいで、人を信じる気持ちになれる。生きる喜びを感じることができる。そんな場所がどんなに大切なことか。

 
この「さくら村」は、リンドグレーンの「やかまし村」のように、子どもたちに愛されるシリーズになるんじゃないか。だって、まだまだ語られないさくらの木の秘密がたくさんありそうなんだもの。最後にもまた、新しい秘密が増えているし。ぜひ、そうなって欲しいと、ファンは強く願っている。もっとこの村の物語が知りたい、読みたい。

2021年2月刊行 小学館

 

 

 

月白青船山 朽木祥 岩波書店

この物語のプロローグをもう何度読み返したことだろう。追っ手の気配を感じながら闇の中で笛に隠された瑠璃を塚に埋める若者。若者を導くような、妖しく光る白猫。この幻想的かつ、若者の血と汗の匂いまで感じるほどの緊迫した空気に肌が総毛立つような気さえする。ここから、引きずり込まれるままに物語にのめり込んでいく気持ちよさは唯一無二だ。物語は一旦夢から醒めたように現代へと移り、兵吾と主税という古風な名前を持つ兄弟が登場する。ある事情で夏休みの間東京を離れ、父の生まれた古い家に滞在することになった二人は、近所に住む靜音という少女と犬のダンと共に、不思議な場所と現実を行き来する一夏を過ごすことになる。

鎌倉には、八〇〇年近く前からの落ち武者の道である切り通しがそのまま残っているという。三人と一匹は、その切り通しから、時が止まったまま流れない村に迷い込む。その村の桜はつぼみのまま咲くこともなく、人々は闇に食い尽くされそうになりながら恐れと不安の日々を繰り返している。三人と一匹は、村人に失われた瑠璃を取り戻してほしいと頼まれるのだ。現代に帰ってきた彼らは、「星月谷」「大姫」「瑠璃」という言葉を道標に、鎌倉に秘められた悲しい伝説に迫っていく。歴史という地層が積み重なっている鎌倉という土地の魅力、小さな手がかりから謎を解き明かしていく探偵の謎解きのような面白さ。吾妻鏡をベースにした古典世界に触れる典雅な趣。あちこちにちりばめられている、次の本への扉。開けても開けてもきりが無い玉手箱のような作品世界の深みにため息が出る。これだけの複雑な構成をするりと読ませる手腕はさすがとしか言いようがないが、何より心打たれるのは、子どもたちが歴史や時間の壁を越えて、悲しみや痛みに閉じ込められた過去の魂を解放していくところだ。

この物語には幾つかの時代の深い悲しみが、夜空を貫く天の川のように流れている。いや、流れているならば良かったのだ。理不尽にもぎ取られ、踏みにじられたまま置き去りにされた悲しみ。その過ちを解放するのは、「不思議なできごとを苦もなく信じられる」子どもの力だ。その力は物語の力そのものでもあるし、大人の心に秘められた子どもの心を取り戻すことでもある。時間が止まった村の人々の願いを叶えたいという子どもたちの行動が、現在を生きる大人の心もまた動かしていく。ミッションを果たした子どもたちが見た鮮やかな風景は、その力の具現化したものなのかもしれない。「歴史とは過去と現在の対話である」とE・H・カーは述べている。まるで自分と関係なさそうな歴史の出来事が、実は現在と地続きの場所で繋がっていることを子どもたちは実感する。鎌倉という歴史と深く結びついた土地で、過去との対話を通して開いた心の扉は、未来を開く扉でもあるはずだ。物語への旅は、すぐに現実を変えるものではない。しかし、この旅で子どもたちと読み手の心には、先の見えない未来へ進むときの方向感覚のようなものが宿るのではないだろうか。いつか、この物語を手に鎌倉を旅してみたい。靜音や兵吾や主税とともに、輝く星空を眺めてみたい。

2019年5月 岩波書店

バレエシューズ ノエル・ストレトフィールド 朽木祥訳 金子恵画 福音館書店

 三人姉妹がいる。ポーリィンとペトローヴァとポゥジ-という可愛い名前の三姉妹だ。彼女たちはロンドンの大きなお屋敷にコックやメイドたちと暮らしているが、実は三人ともみなしごだ。屋敷の主人である大叔父の化石収集家が、世界中のあちこちで出会った親と暮らせない赤ちゃんを、お屋敷に送ってよこしたのだ。だから彼女たちは誰一人、実の親と会ったこともない。お屋敷を管理しているシルヴィアと彼女の乳母のナナ、コックやメイドたちと暮らしている。大叔父さんはポゥジーを送ってよこしてからは全くの行方不明。彼女たちは残されたお金で細々と暮らしているので、生活は倹約一筋。食事だって、お芝居で体験する『青い鳥』のチルチルとミチルとあまり変わらないくらいだ。だから、一番の問題は、子どもたちの学費をどうするかなのだ。教育にはお金がかかる。三姉妹は家計を助けるために舞台芸術学校に入り、自分で人生を切り開いていこうとする。

この物語の面白いところは、登場人物たちの誰一人、血が繋がっていないというところだ。大人たちは血の繋がっていない三姉妹にこれでもか、と愛情を注ぐ。親代わりの真面目で人の良いシルヴィアも、厳しくて世話焼きで愛情深い乳母のナナも、下宿人としてやってきたシェイクスピアの専門家のジェイクス先生も、数学の専門家のスミス先生も、芸術学校の先生のセオさんも、自動車修理工場の経営者のシンプソン夫妻も。教養であったり、知識であったり、ちょっとした楽しみであったり、自分たちが持っている有形無形の豊かなものを、チームを組んで三姉妹に注ぐのに何のためらいもない。それは三姉妹がみなしごだからとか、かわいそうだから、というところから発生した行動ではないように思う。目の前に困っている子どもがいるのなら、何かしら出来る大人が迷い無く手を差し伸べるのが当たり前でしょう、という潔い割り切り。こういうのを、ノブレス・オブリージュというのかもしれない。風邪をひいたポーリィンに薫り高いジンジャーティーを入れながら、彼女たちが姉妹になったいきさつを聞いたジェイクス先生がさらりと言う。

「あなたのことが、ほんとにうらやましいわ。そんないきさつでフォシルを名乗ることになったり、思いもかけないめぐりあわせで姉妹ができたりなんて、胸がおどるようなことだわ」

個としての人間の誇り高さをお互いに持ち合う、そんな人生の過ごし方がこの物語の中にいい風を吹かせていて、その空気を思い切り深深とすいこむのがとても心地良い。百年前のロンドンが舞台の物語なのだが、少しも古くない。ストレトフィールド自身がプロとして関わってきた商業演劇の神髄が感じられるし、何より少女たちの日常のデティールが見事に描かれている。彼女たちがいつも苦労する、オーディションのドレスにまつわるあれこれ。細かい生地の値段まで、額を付き合わせて真剣に相談するのを読んで共感しない女の子はいないだろうと思う。クリスマスの楽しい一日。夢のような舞台の裏にある現実。出演料の計算まで、しっかり描かれていておもしろい。完訳の強みだ。隅々まで考え抜かれた訳文はどこまでも読みやすく、やはり惜しげも無く豊かなものがさらりと詰め込まれているのが伝わってくる。子どもは親の愛情だけで育つのではなくて、こんなふうに様々な大人たちの眼差しや優しい手に包まれることが理想なのだと思う。この本に託された祈りのような愛情もまた、その優しい手の一つなのだ。

姉妹たちはつましい暮らしのなかで、思い切り笑って、悩んで、自分たちで答えを探していく。美貌で長女の責任感にあふれたポーリィン。本当は自動車と本が大好きで、舞台が苦手なペトローヴァ。バレエの天才で、幼さと老練さが同居する不思議な個性のポゥジ-。彼女たちは失敗もたくさんするけれども、そのときの大人たちの見守り方も素敵なのだ。装丁も美しく、訳注も後書きも何度も読んで飽きない。長く手元において、繰り返しこの姉妹たちに会いたい。

2019年2月刊行 福音館書店

八月の光 失われた声に耳をすませて 朽木祥 小学館 


偕成社版に収録されていた「雛の顔」「石の記憶」「水の緘黙」、文庫版に収録された「銀杏のお重」「三つ目の橋」、そしてこの美しい本に新たに収録された「八重ねえちゃん」と書き下ろしの「カンナ―あなたへの手紙」。密やかな声を心に響かせる短篇が7篇積み重なって、こんなに美しい装丁で再刊されたことがとても嬉しい。君野可代子さんの装画と挿絵が素晴らしい。表題紙の上には桜の花びらの薄紙。それぞれの短篇のタイトルにも、手向けの花のような、心のこもったイラストがついている。七つの物語は、あの日から少しずつ違う時間軸で描かれている。原爆という途方もない暴力になぎ倒された、小さな人間たちの物語に、とても相応しい装丁だ。

「いとけないもんから・・・・・・こまいもんから、痛い目におうて(あって)しまうよねえ」

これは、老犬のトキを権力に殺された日の「八重ねえちゃん」の言葉だ。戦争末期に、軍服用の毛皮にしたり、軍用犬として使うという名目でたくさんの犬たちが殺された。年老いて、もはやしっぽもすすけてしまった老犬まで殺されてしまうと思っていなかった綾は「なんで連れていかれたん、なんで、なんで」と泣き叫ぶ。しかし、その問いにきちんと答えられる大人はいないのだ。ただ、お人好しで、皆に軽く扱われていた八重ねえちゃんだけが、「いけんよねえ、こうようなことは、ほんまにいけんようねえ」と一緒に泣いてくれた。この少女たちの、小さなものを踏みつけにするものたちへの怒りと、人の痛みに共感する力が、もっと、もっと、人間には、今の私たちには必要なのだ。

この7篇の物語を、私は何度読み返したことだろう。まるで自分の記憶のようになっている、と思うほどなのだが、やはり読み返すたびに違うものが見えてくる。例えば、「水の緘黙」。この短篇は、7篇の中で、一つだけ「ウーティス―ダレデモナイ」という『オデュッセイア』のキュプクロスに寄せられた頌が物語の前に付けられている。この物語の中に出てくる人たちは、「僕」「K修道士」という風に、固有名詞を持たない。「僕」は、あの日からさすらい続けている。

「水の緘黙」の自分の名前を忘れてしまった「僕」は、ついてくる影たちから逃げるように彷徨うが、夜には川のほとりに寝に帰る。そこは、原爆スラムと呼ばれた川沿いの町だったのだろうか。だとすれば、そこで、ただ彷徨う「僕」を助けていたのは、やはり被爆して、そこにバラックを建てて住んでいた人たちだったのだろうか。原爆スラムは、「ヒロシマの恥部」と言われ続け、その後強制撤去されて平和公園の一部になった。そう思うと、「僕」は、忘れられていく町の記憶とも重なるようにも思える。そこで、懸命に生きていた人たちの姿とも重なるように思う。記憶は、歴史の出来事として記録されるときには単純化されてしまう。物語だけが、人間の心と体の厚みをもって、語り継がれていくのだ。

私は、この物語は、生き残ってしまった者と、あの日に声も上げずに死んでいった人たちとの、魂の対話の物語だと思っている。生き残った人たちにも、ずっと苦しみはつきまとった。「三つ目の橋」の娘の同級生たちは、あの日奉仕作業でピカにあい、誰一人助からなかった。彼女は腹痛で休んでいたのだ。本当に偶然にすぎなかった生と死を分けた理由は、ずっと娘を苦しめる。被爆による差別。親を亡くした生活の困窮。「僕」は、復興していく町が見かけを変えていっても、ずっと変わらず苦しみを抱えている生き残ってしまった人たちの心そのもののように、行き場もなくさまよい、数え切れないほどの人たちが死んでいった水辺にうずくまっている。

しかし、「水の緘黙」の扉絵に添えられている百合の花のように、この苦しみは、人間が人間の心を持っているがゆえの、切ない希望なのだと思う。この7篇の物語の主人公たちの苦しみに触れると、その尊い痛みから、ひそやかで香り高い、小さな花が生まれるように思うのだ。作者が、渾身の思いを込めて咲かせたこの花が、この表紙のようにたくさんの人たちの心に咲いて、世界中に広がっていくことを、私は心から願っている。それこそが、照りつける八月の光を、絶望の闇から希望の光へと変える力になるのだから。書き下ろしの「カンナ あなたへの手紙」は、70年以上経った日本から、世界に向けて警鐘を鳴らす物語だ。今月の7日、ニューヨークの国連本部で、核兵器禁止条約が採択されたが、世界で唯一の被爆国である日本は、その条約に署名しなかった。「八重ねえちゃん」の少女のように、「どうして、どうして」と問い続ける決意も込めて、この物語を、また何度も読み返そうと思う。何度も、何度も。

 

海に向かう足あと 朽木祥 角川書店

この物語は、近未来ディストピア小説だ。朽木さんは、この物語を、未来への強い危機感をもって書いたという。折しも、アメリカの大統領が交代し、彼が次々と放つ手前勝手な政策は、世界中を混乱に陥れている。この不安の中で読むこの物語の、なんとタイムリーで美しく切なく恐ろしいことか。

主人公は、エオリアン・ハープ(風の竪琴)号という美しいレース用のヨットを共有している6人のクルーたちだ。オールドソルト(年期の入ったヨット乗りのこと)の相原さん、照明デザイナーの寡黙でいい男のキャプテン村雲。家族思いの公務員三好。物理学者で政府の研究機関に勤める諸橋。可愛い泉ちゃんという妹のいる若い研人と、バイトで生活費を稼ぐ他はすべてをヨットに捧げるヨットニートの洋平。彼らはチームでレースに出る。そのために、生きていると言っても過言でもないほどの海にとりつかれた男たちだ。
彼らは、新しい船を手に入れて、シンプルで最上の滞在型ホテルのある三日月島を起点にしたレースに出る計画を立てる。前半では、その楽しい未来に向かっての、光溢れる充実した日々が鮮やかに紡がれる。しかし、読み進むうちに、彼らを取り巻く世界の空気が徐々に影を増していくのが伝わってくる。そして念願のレース当日、なぜか応援に来るはずの家族も現れず、電話も繋がらない。ネットとかろうじて繋がった電話からの断片的な情報から伝わってくる現実に、ヨット乗りのユートピアのような島で、彼らは恐ろしいまでの絶望に見舞われてしまうのだ。

作者は、クルーたちの家族や恋人、ペットや仕事との関係を前半で細やかに描いている。そのディテールの楽しいこと。特に海とヨットの情景のすばらしさは、朽木ファンなら『風の靴』でお馴染みで、嬉しいことに、やっぱり彼らのホームは『風の靴』の舞台でもある風色湾だ。つまり、この湾のどこかには、海生のおじいちゃんの別荘があり、アイオロス号が係留されているんだと思うと、一気に想像は膨らんでいく。この作品は成人向けなので、主人公たちの世界も広い。特に寡黙なキャプテン村雲と、どこか儚げな輝喜の恋は印象的だ。残る5人の個性も鮮やかで、彼らが楽しげに船を走らせる、そのあれこれを読んでいるだけで、自分も海の空気を吸っている気持ちになれる。そう、かけがえのない日常の美しさが溢れているのだ。

6人が協力しないと走らないヨットのように、私たちは目に見えない糸を、共に生きる人や動物、土地や仕事、大切にしている場所に編み目のように張り巡らせて生きている。その奥行きと肌触りを、作者は6人のクルーたちを中心に、これまでの作品世界も重ねて緻密に描きあげ、奥深い作品世界を作り出す。だからこそ、彼らを襲う絶望が、彼らが失ってしまったものの重みが、自分の痛みのようにずっしりと伝わってくる。私は初めて読んだとき、ラストシーンの切なさに涙が止まらなかった。

「だけど、俺たちにとっては、いきなりなんかじゃない。俺もお前も、お前らも、ぼんやりとでもわかってただろう。こんな日が来るかもしれないって」

最年長の相原さんのこの言葉は、きっと、今誰しもが持っている不安そのものだ。だからこそ、今、世界を不安が覆い始めた今、読んで欲しい。この物語は、一つの絶望の形だ。しかし、これは生きる喜びと輝きをふんだんに詰め込んだ絶望、たくさんの人がこの絶望を噛みしめて別の足あとを作って欲しいと願う希望でもある。

 

風の靴 朽木祥 講談社文庫

暑い。とにかく暑すぎるので、爽やかな風が欲しくてこの本を読み出したら止まらなくなった。海風に乗って、心がどこまでも駆けていくような気がする。

出来のよすぎる兄と同じ私立中学の受験に失敗した夏。中一の海生は、もやもやした気持ちを連れて、親友の田明と愛犬のウィスカーを連れて家出を決行する。江ノ島のヨットハーバーから、風色湾のおじいちゃんのクルーザー、アイオロス号まで。A級ディンギーのウィンドウシーカー号を、自分たちだけで駆っていこうとする冒険の旅なのだ。海生にヨットの操縦を教えてくれたかっこいいおじいちゃんは、受験のあとで急死してしまった。抱えきれない思いがふくれあがった少年は、海に向う。

ヨットを子どもたちだけで乗り回す。もちろん私にはそんな経験はないのだが、海生たちがウィンドウシーカーで海にこぎ出していく瞬間、胸が疼くような本物の喜びがある。海やヨットを知り尽くしている作者の知識が深く、海の輝きと風を切るヨットの音まで伝わってくることが一つ。そして、読み返して改めて感嘆するのは、この物語が内包している世界観の深さと広がりだ。

この物語は、海生という少年の他に、もう一人主人公がいる。それは、ウィンドウシーカーとアイオロスの持ち主で、今、目の前にはいない海生のおじいちゃんだ。海風に洗われたような、かっこいいおじいちゃんだが、彼の人生も、決して平坦ではなかったようなのだ。彼と、海生の父である息子の間にあっただろう葛藤や、失ってしまった愛するものへの悲しみの物語が、どうやらこの物語の背後にはあるらしい。目の前にいないからこそ、読者は残された船や本や、海生の思い出から彼の生き方を想像し、思いを馳せる。凜と生き抜いたおじいちゃんの人生は、海生という少年の心と体の中に、しっかりと根を張って息づいている。だからこそ、おじいちゃんが海生に残した言葉が、羅針盤のように、しっかり胸に届くのだ。その言葉は、ぜひ物語の中で読んで欲しい。そのとき、この物語のタイトルが、星の輝きのように胸に落ちてくるはずだから。風はいろんな方向から吹いてくる。しかし、その風をどう掴み取るか、どう生きるかは自分で決めることなのだ。こう言ってしまうのは簡単だが、それはとても難しい。でも、難しいからこそ、船出していく喜びもあるんだということが、この物語の中で夏の海のように煌めく。海の風が心を後押しする。

夏休みの子どもたちと船、というとアーサー・ランサムを連想するのだが、ランサム・サーガの第一巻『ツバメ号とアマゾン号』の解説で、訳者の神宮輝男が、物語に寄せて、こう書いている。

「このよろこびは、レクリエーションというようなものではなく、人間がもっとも人間らしくなったときに感じる深いよろこびだとわたしは思います。」

この言葉を、私はこの『風の靴』にも捧げたい。神宮輝男氏というと、私たち児童文学に関わる人間には神のような存在なのだが、その神が『風の靴』にも見事な解説を寄せている。それも、ぜひ読んで欲しい。文庫で再刊になって、ますます手にとりやすくなった。夏休みに、親子で読むと、絶対楽しい一冊。

2016年刊行
講談社

八重ねえちゃん 朽木祥 日本児童文学 2016年7・8月号

 
戦時中に、たくさんの犬や猫たちが、殺されていったことをご存じだろうか。食糧事情が悪くなる中で、ペットを飼うことが敵対視されるようになり、軍服用の毛皮にしたり、軍用犬にしたりするためという名目で犬や猫が供出させられたのだ。役立つどころか、ただ無残に殺されてしまっただけの子たちもたくさんいたという。この物語の主人公・綾子の飼っていた老犬のトキも、役所の人に連れていかれてしまった。日向ぼっこと綾子を迎えに出てくるのが精一杯のおじいさん犬だったのに。何の罪もない動物たちを、人間を信頼しきって暮らしていた犬や猫を、なぜむごたらしく殺さねばならないのか。泣きながら「なんで連れていかれたん。なんで、なんで」と聞く綾子の問いに、大人たちは黙ってしまうか、苦々しい顔をするだけ。母には「お国のため」だから「仕方が無い」と、叱られてしまう。ただ一人、年の近い叔母の八重姉ちゃんだけが、綾子の問いに何とか答えようと一生懸命言葉を探し、「こうようなことは、いけんよねえ」と、怒りに震える綾子と共に泣いてくれたのだ。

賢い大人たちは、綾子の「なんで」という問いかけに「聞こえないふりや見ないふり」をした。心のどこかでおかしいと思っていても、その気持ちと向き合えば、「非国民」であることに繋がってしまうからだ。それは、すなわち危ない目にあうことでもあり、大きな壁にたった一人でぶつかりにいくようなことでもあった。だから、皆、自分の家の犬や猫が殺されていくのを、見て見ぬふりをした。私だって、戦争中に生きていれば、同じことをしただろう。しかし、老犬のトキが連れていかれてから半年後、広島には原爆が落とされ、昭和20年だけで14万人が死んでいったのだ。「聞こえないふりや見ないふり」をした大人たちだけではなく、たくさんの、本当にたくさんの若者や子どもたちが死んでいった。爆心地近くでは建物疎開などの勤労奉仕作業のために、女学校や中学校の学生たちが多数集められていた。彼らの大多数は、即死し、遺体も残らぬほど焼けてしまったのだ。綾子と一緒に泣いてくれた八重姉ちゃんも、帰ってこなかった。朽木は、この短い短編で、史実を踏まえ、歴史を見据えた問題提起を、小さい子どもの眼差しを通して見事に描き出している。子どもたちは動物への愛情を通して、戦争の残酷さを心で知ることが出来る。また、この物語を読んだ大人は、「どうして」という綾子の問いかけのくさびを、胸に打ち込まれるはずだ。

「いとけないもんから・・・・・・こまいもんから、痛いめにおうて(あって)しまうよねえ・・・・・・」

戦争で一番先に踏みにじられるのは、子どもや弱い立場にいるものたちだ。八重姉ちゃんは、良く言えばおっとり、要領が悪い愚直な人だった。でも、彼女だけが綾子の、連れていかれたトキの痛みと苦しみに共感し、「こうようなことはいけんよねえ」と言う力を持っていたのだ。人が生きていくには、賢く社会の中で立ち回るのも必要なことだ。しかし、それだけでは、人は大切なものを見失ってしまう。
 アウシュヴィッツ収容所にいた経験を、評論や小説で語り続けたプリーモ・レーヴィは、当時の大多数のドイツ人が、「意図的な無知と恐怖が、ラーゲル(収容所)のおぞましい残虐さを証言したかもしれない多くの「市民」の口をつぐませることになった」と述べている。(『溺れるものと救われるもの』)私たちは収容所、というとアウシュヴィッツやビルケナウ、ダッハウ、くらいしか思いつかないが、当時のドイツ領には、地図が真っ黒になるほど収容所があった。そこに物品を納入したり、労働力をただで使って利益を得ていた一般企業も多く存在した。囚人服、ガス室の装置、多くの薬品、建築資材。何しろ500万人以上のユダヤ人たちが収容され、殺されていったのだ。その維持に「普通の人々」が関わらないはずがない。でも、彼らは「目と耳と口を閉じて」語らなかった。そして、皆が自分の足元に開いている暗闇を見ようとしなかったのだ。賢く生きるということは、「意図的な無知」に繋がりやすいのだ。
 これは他人事ではない。日本にも、あまり知られていないが、ナチスドイツのように中国大陸から人々を強制連行してこき使った収容所がたくさんあった。今年の課題図書である『生きる 劉連仁の物語』(森越智子 童心社)はその問題を扱っている。日本は、その戦争の反省に立って、平和憲法を守ってきたはずだ。しかし、その足元が揺らいでいる。参院選で自民党が圧勝し、その大勢が判明した途端に、憲法改正という言葉が大量に、それまで沈黙していたメディアから流れた。本来なら権力の監視役としての機能を果たさねばならないメディアは、もうその役割を放棄して、「賢く」目と耳と口を閉じていこうとしている。その姿勢は、私たち日本人の心性をそのまま反映しているのだと思う。『帰ってきたヒトラー』という映画を先日見に行ったのだが、その中でヒトラーは「普通の人々が私を選んだのだ」と言っていた。大きな暗闇が、今、「賢く」生きていると思っている私たちの足元に開いてはいまいか。

この物語の最後、18歳になった主人公の綾子は、原爆のあの日を思い出しながら、「どうして、あんな恐ろしいことが起きたのだろう」と激しく読み手に語りかける。その声が、いつまでも胸の中でこだまする。愚直な子どもの「どうして」を大人が手放してしまったあと、犠牲になるのはこれからを生きる子どもたちなのだ。この物語には、「今」に繋がる大切な問いかけがたくさん詰まっている。たくさんの人に読んで欲しい。

まんげつの夜、どかんねこのあしがいっぽん 朽木祥 片岡まみこ絵 小学館

誰も遊びに来てくれないのが寂しくて、自分で作ったご馳走を食べ過ぎて太ってしまったネコが一匹。友達を探しに出かけたのに、なんと不幸なことに、土管にすっぽりはまって動けなくなってしまう。さあ、大変。皆でこの子を助けなきゃ!と「おおきなかぶ」状態になるのかと思いきや、そこはやっぱりネコですからね。皆、何だこりゃ、とフンフン匂ったりするだけで、どこかに行ってしまう。でも、その日はちょうど満月。ネコの集会が行われる夜だったのだ。土管のまわりを、ネコたちが歌って踊る。土管にはいったまんまのどかんねこはどうなるの?・・・という、可愛くて何だか不思議な味わいの絵本なのだ。

夜と満月の匂い。片岡まみこさんとコラボのネコの絵本ということで、私はもっとほんわかした感じを想像していた。もちろん、ネコたちはとってもとっても可愛くて、たまらなく魅力的だ。この絵を額に入れて、部屋のあちこちに飾っておきたい。ところが、その可愛いネコたちが朽木祥の研ぎ澄まされた言葉のマントをふわりと羽織ると、ネコのリアルをそのままに、不思議な夜の住人になるのである。

たん、たたん、たん! 「まんげつのよーる!」

宮沢賢治に「鹿踊りのはじまり」という短編がある。すすきの野原で、栃団子と忘れものの手ぬぐいを真ん中にして、鹿たちがぐるぐると歌って踊るのを、手ぬぐいの持ち主の目を通して、目撃する物語だ。鹿たちは、筋肉の盛り上がりや息づかいが感じられるほどに見事に鹿そのもので、だからこそ私たちは目の前で展開する鹿の会話の不思議に、息を詰めて魅入られる。私たちが見ているこの世界と、重なりながら隔たっている異世界。そのあわいで、鹿たちの命が喜びに歌う、くらくらする幻想とリアルの世界だ。この物語にも、そんな不思議な魅力がある。うちのネコたちも、満月の夜にするっと二本足でこの家を抜け出して、どこかの野原でこうして踊っていたりするんじゃないか。もしそうなら、どんなに嬉しいだろう。だって、まんげつの光を浴びて踊るネコたちは、それはそれは生き生きとネコである瞬間を楽しんでいるのだから。ネコは、どんなに幸せに暮らしていても、どこか「ひとり」であることを忘れない。自分の生も死も、ありのまま見事に引き受ける。そこに、私たち人間は、寂しみや、ひとりであることの誇りや、様々な人生の「滋味」のようなものを感じてしまう。この物語のネコたちも、何だか皆、それぞれにひとかたならぬネコ生を持ち寄っている気配がする。簡潔なテキストで、そこまで読み手に感じさせる深みが、朽木祥の言葉の魔法だ。心のなかの、なぜか知らないけれど、生まれたときからある寂しさに、じん、と染みこんでくる。

この満月の光は、『かはたれ』で八寸がネコになるために浴びていた光と同じなのだろうか。『かはたれ』は、夜明け前の薄明の時間のこと。ぼんやりとした、朝でも夜でもない幻の時間のことだ。母を失った少女の麻は、八寸というネコの形で現れた河童の魂に触れて、失いかけた心を取り戻す。この夜のネコたちも、異世界の住人だ。でも、きっと昼間は別の姿で暮らしているに違いない。そこらで昼寝をしていたり、おやつをねだっていたり。でも、こうして物語の中で、命の不思議のマントを羽織り、私たちに会いに来てくれる。それにもっともしかして、私も「まんげつの夜」は、こうして二本足のネコになって、この物語の中で踊っているのかもしれないじゃないか。物語という異世界に魂だけになって触れることで、私はやっと昼間人間の姿を保っているのかもしれない。

お日様が昇って朝のノネコは野原に取り残されてしまうが、もうノネコも、この絵本を最後まで読んだ私も、「ひとり」だけど一人ぼっちではない。「まんげつの夜」は、ノネコのご馳走を食べて、たん、たたん、とステップを踏みに、この絵本の頁をめくれば、よいのである。この表紙のノネコは、こちらをまっすぐに見つめて、物語の世界に誘ってくれている。ネコにこんな風に見つめられたら、私たちは魅入られるしかないのである。

2016年1月刊行

小学館

『八月の光・あとかた』 朽木祥 小学館文庫 

2012年に刊行された『八月の光』は、ヒロシマをライフワークにしている朽木祥の渾身の一作だ。「雛の記憶」「石の記憶」「水の緘黙」という連作短編は、静かな筆致であの日を描きだす。失われた声を、体温のあるかけがえない記憶としてよみがえらせ、「個」から普遍へと繋ぐ見事な構成の三部作だ。(レビューはこちら)この文庫版では、そこに「あとかた」として二篇が書きくわえられている。原爆の残した苦しみの「あとかた」。そして、「あとかた」もなく消え去っていこうとする人々の心が、鮮やかに浮かび上がる。
「銀杏のお重」と「三つ目の橋」は、どちらも若い女性たちが主人公だ。人生で一番美しく、命の喜びに輝いている季節の女たちから、原爆は家族を奪い、若さを奪い、喜びを奪った。

「銀杏のお重」の清子は、「冬の終わりに咲きはじめる水仙のような」人だったのに、見初められて嫁いだ男性は三日で戦地に行った。たった三日だけの結婚なんて、なんと残酷なことだろう。そのまま夫は帰ってこず、清子は実家に帰されてしまう。しかも、母や叔母が持たせてくれた、家宝のように大切にしていた銀杏のお重も取り上げられてしまうのだ。幾重にも重なる戦争がもたらす不幸。それでも生きてさえいれば、面変わりして人も変わってしまったような清子にも心穏やかな日がやってきたかもしれない。しかし、原爆は清子からその時間も奪っていった。桃色の頬に白魚の指をした若い命があとかたもなく消えてしまったことを、朽木は「銀杏のお重」という、ハレの日に使われる家族の象徴のような道具に重ねて描き出した。

この物語で印象的なのは、清子の嫁入り支度の様子が細やかに描き出されていることだ。賑やかに集まって、たとえ戦時中でも少しでも美しいものを持たせ、いい着物を着せて嫁に出そうと苦心する母や叔母たち。その支度をうっとりと見る妹たち。女たちの心尽くしに彩られた清子の嫁入り姿が切ない。先日、友人の娘さんが結婚した。幼い頃から知っている可愛い娘さんの花嫁姿にきゃあきゃあ盛り上がっている今現在の私たちと、物語の中の花嫁と叔母たちの姿がちょうど重なってしまう。子を産み、毎日ご飯を作り、命を慈しんで暮らしてきた女達の営みがそのお重には詰まっていたはずなのだ。あの日の朝、たくさんの女たちが朝の支度や後片付けに追われていたことだろう。そして、声もなく叩き潰されてしまったのだ。彼女たちは、間違いなくあの日を生きていた私たちなのだ。一つのお重からヒロシマを描く、この視点に心打たれる。

もうひとつの「三つ目の橋」は、生き残ってなお苦しまねばならない「私」の物語だ。遺体も戻らず行方不明になった父を探し回って死んでいった母。残された幼い妹と懸命に生きる「私」。奉仕作業を休んで級友たちの中で一人生き残った罪悪感に苦しめられながら、妹の世話をして必死で生きている。そんな彼女にも恋人ができるが、相手の両親に結婚を断られ、恋人からは「あんたのことは容易うにはわからん」と突き放されてしまう。被曝は、体だけではなく、心にも深い傷を残す。叩きつけられ、踏みつぶされ、それでも生き延びて、やっと前を向いて歩きだそうとしても、また心を折られ、彼女はあの日に数え切れない遺体が浮かんだ橋の上から川面を見つめるのだ。しかし、そばに小さな妹の命が息づいていることが、「私」を生に連れ戻す。そのとき、絶望の淵にいる「私」の心に、月光が差し込むシーンを、ぜひ読んで頂きたい。背負いきれぬものを背負い、あの日の記憶を抱いて、それでも生きていこうとする彼女の心に染み渡っていくこの光は、希望とも絶望ともつかぬ、深い思いだ。くっきりとした言葉で語れぬものが、冬の凍てつく匂いとともに心の中になだれ込んでくる。被曝という泥沼のような絶望に心折られてなお、幼子への愛情を糧に生き抜こうとする「私」の胸にあるこの言葉にならぬ思いは、大きな嘘やプロパガンダを打ち砕く静かな力に満ちている。

悲しみの影に、そっと息づく微かな光。慈愛の微笑みの影に宿る果てしない悲しみ。朽木祥の筆は生きて、揺れ動く「私」の心を繊細に描き出して胸にしみ入るほど美しい。原爆という悲惨を描いて美しいということをおかしいという人もいるが、私はそれは違うと思う。セバスチャン・サルガドという写真家がいる。今、彼のドキュメンタリーが映画で公開されているが、彼の写真は、内乱や饑餓の地獄を撮影しても、身震いするほど美しい。監督のヴェンダースが彼の写真が「美しすぎる」という批判に対して、被写体への「尊厳」という言葉で反論している。ヒロシマは、後にも先にも人類が経験したことのない地獄だ。その苦しみの中にいた人たち、そこから果敢にも生き延びてこられた人たちの、命の尊厳への朽木の深い眼差しが、物語に「美」となって構築されているのではないか。だからこそ、その「美」は、読者の胸に共感となって染みこんでいくのではないだろうか。「美」は、私たちの心が持つ、国も民族も言葉も超える、大いなる共感の力なのだ。この物語の「私」も、やはりあの日に橋の上からひたすら水面を眺めた、もうひとりの「私」。この二つの物語は、帯にあるように、決して過去の亡霊などではない。未来の私たちであるかもしれないのだ。

原発は再稼働され、安保法案はなし崩しに可決されようとしている。今こそ、この物語の中に溢れている声にならない声に耳を傾けなければならない。心からそう思う。

2015年8月刊行

うばかわ姫 越水利江子 白泉社招き猫文庫


若さと美しさと、「姫様」と呼ばれる暮らししか知らなかった野朱という娘が、いきなり恐ろしい運命に翻弄されるところから、この物語は始まる。盗賊に追われ、逃げて逃げて、目の前はとうとう近江の湖。とっさに出会った老婆と袿を交換して身を隠した姫に、姥皮の呪いがかかってしまう。満月の夜、淵の水に身を沈めるとき以外は、老婆の姿で生きねばならなくなってしまうのだ。嘆く野朱に、姥は言い捨てる。「皮一枚に囚われて生きるものは、みな、獣さ」しかし、皮一枚で生きている動物たちは、皮に囚われない。囚われるのは、人間だけだ。この物語には、皮一枚に翻弄される人間の弱さや愚かさ、そして愛しさが瑞々しく溢れている。

 野朱は、若さと美貌を失って初めて、人の世の悲しみを知る。老いという苦しみ。自分の身一つで生き抜いていかねばならぬ苦しみ。しかし、その苦しみの中で野朱は、他人の内面に「心を寄せる」ことを知っていくのだ。
 妖かしの一員になった野朱には、この世のものではないものが見える。天下を取らんとして滅んでいったものたちは、壮麗な幻の城に未だ魂となって棲み続けている。その滅んでゆく人を慕い、命を燃やした、お濠という女の人生を夢の中で追体験することになるのだ。お濠は美しさとはほど遠い、男たちとともに戦う女だった。しかし、その人生は見事に自分を貫いた「美」に満ちていた。
 
 「人は、ひとであることそのものが宝よ」
 「生きると決めたならば、闇に沈むな。白き光を身にまとえ・・・・・・」

 命を激しく燃やした魂が野朱に語りかける言葉たちに導かれ、硬い殻の中に眠っていた野朱の生きる力が、瑞々しく咲き開く。現実と幻想が金襴の絵巻物のように交錯する物語世界。その中にまっすぐ茎を伸ばして咲く蓮の花のように、少女の恋が花開いていくのに魅入られてしまう。これだけ凝った時代背景の中で、ひとりの少女が体感していくものをリアルに肌で感じさせる筆力は、深い知識と人間洞察あってこそのものだろう。自分の中にある感性や力を、解放させること。それには、「他者の物語」との深い関わり合いが必要なのだ。

 物語の最後に舞う花吹雪に、作者の、「命」に対する深い愛情を感じた。後悔ばかりに囚われがちな自分の弱さに、この愛情がひときわ沁みた。生と死。愛と憎しみ。幸せと不幸せ。それはすべて、姥皮ひとつの裏返しなのかもしれないが、裏返った最後に残るものが、この物語にメッセージとして溢れているように思う。

星のこども 川島えつこ作 はたこうしろう絵 ポプラ社

昨日思い立ってブログのタイトルを少し変えてみた。何のブログか明確にするためにと、少しでも検索ワードに引っかかるとよいな、という計算からだが(笑)好きな作品を、好きだ!と書くというスタンスは変わらない。この作品も、表紙を見ただけで「好きかも」と思った予感が当たって、とても素敵な本だった。

まず、文章がとても心地良い。この物語は、ゆいという少女が思春期の入り口に立って迎える、小さなターニングポイントを描いたものだ。急に背が伸びて、今まで気にしなかった異性も、少し気になったりする。自分でももてあますほどの大きな波がやってくる前の、体の中がざわめくような季節が、一年の自然の移り変わりと共に描かれる。ゆいと一緒に、柔らかな命の気配にふんわりと包み込まれるような心持ちになった。

 そう、この物語に満ちているのは、様々な命の気配だ。まず、仲良しの姉であるまいの妊娠。「おねえちゃん」が迎える様々な変化に、まいは戸惑う。妊娠しているときというのは、自分であって自分ではない、「あたしの体は今、ちびちびちゃんが操縦しているようなもんだよ」という時間なのだ。植物たちが一斉に芽吹くような命のたくましさへの畏怖のような気持ちを、ゆいはお腹が大きくなっていく姉とともに体験する。そのたくましい命は、目覚め始めたゆいの心と体にも芽吹いているものなのだ。
 もう一つは、ゆるやかな時の流れの中に溶け込んでいる、耳を澄ませないと聞こえない遙かな命の気配だ。学校にあるゆいのお気に入りの月野池には、河童の主がいるという。ゆいには、幼い頃にここで出会った不思議な少年との大切な思い出があった。千年を生きる木々や森たちのように、自分とは違う時の流れの中にいる存在を感じ取る力が、ゆいにはある。目には見えないものを見る感受性は、やはり河童と出会う『かはたれ』(朽木祥、福音館書店)の麻のように、美を感じる心、何者にも侵されない心の羅針盤を持つことに繋がっていく。だから、ゆいの奏でるピアノの音には、人の心を揺さぶる力があるのだと思う。

 今生きているということと、自分が遙かな時の流れの中にいるということは、同じことなのだ。刹那と永遠をこの身にいだく、命の不思議への畏怖と敬意が、ゆいという少女の日常から素直に伝わってくるこの物語は、木々が緑に染まっていく今の季節にぴったりだと思う。

2014年11月刊行

トオリヌケキンシ 加納朋子 文藝春秋

加納さんの物語は、いつもほろりと心に沁みる。人々が何気なく通り過ぎていく道の一つ裏に隠れている、迷路や路地の暗がり。小さな謎の顔をして蹲っている悲しみが、木漏れ日のように優しく透明感のある文章で語られることで、背中にささやかな羽をつけて飛び立っていくような、そんな優しさがある。皆身軽にすいすいと通り抜けていく扉が、なぜか自分にだけは閉まっていたり。皆には見えているものが、自分にだけ見えなかったり。反対に誰にも見えないものが、自分にだけ見えてしまったり。とにかくこの世界はハンディを持つものに厳しく、理不尽だ。この本には、理不尽の壁に「トオリヌケキンシ」されてしまった若者たちの物語が収められている。

自分を押し込めている理不尽の正体は何か。それがわからないことが、人と違う苦しみを抱えているものにとっては一番辛いことなのだ。どの扉を開ければいいのか。いや、もしかしたら自分を通してくれる扉などはないのではないか。悶々とするうちに、どんどん自分に対する疑いや、恐怖ばかりが膨れあがる。「フー・アー・ユー?」には、相貌失認の男の子が、ネットからたまたま自分と同じ症状を見つけるシーンがあるが、まさにこれは幸運な例だと思う。心に抱く恐怖や違和感は、特に子どものうちは他人に上手く説明できないことが多いし、周りの人間が気づけるとも限らない。私自身も、次男が生まれつき抱えていたしんどさに、彼が成人するまで気づかなかった。いやもう、それを知ったときは非常に驚いた。彼に「気付かずにいて本当に申し訳なかった」と謝ったら「いや、これを診断できるのは日本でも数人しかおらんらしいから」と反対に慰められてしまったが、やはり私は今でも彼にすまないことをしたと心から思う。ハンディを背負わせていたこともそうだが、何より気付かずにいた、ということは今でも自分が許せない。

だから、この物語に描かれている場面緘黙や相貌失認、醜形恐怖という、傍目からわかりにくい心のしんどさや病気の苦しみについて、この物語を手にとる若い人たちが知るきっかけになれば何よりだと思うのだ。もちろん、加納さんはミステリの名手であるし、ここに収められている短編はどれも切れ味が良くて面白さは折り紙つきだ。だからこそ、物語の面白さと共に、これまで知らなかった視点で自分を眺めてみたり、人の苦しみに思い当たったりする心ばえが、ごく自然に流れこんでくるのではないか。加納さんはご自分も大変な病気をされて、そのことを体験記に書かれた。最後の「この出口の無い、閉ざされた部屋で」という短編には、その経験がのたうっているようだった。「かくも世界とは、不合理で不平等に満ちている」なぜ自分だけが、と壁に頭を打ち付けて苦しむときは、誰にだってやってくる。「トオリヌケキンシ」の扉を開きたい。人の弱さ、悲しみを愛しく思い、精一杯さりげなく差し伸べられる手の温かさ。それが素直に伝わってくる物語だった。

2014年10月刊行