かぜがつよいひ 昼田弥子作 シゲリカツヒコ絵 くもん出版

大迫力。これは、子どもと一緒に読むと、ほんとに楽しいと思う。

風がびゅうびゅう吹く日に、家でお留守番しているお姉ちゃんと弟が、しりとりを始める。すると、窓の外を、しりとりの言葉で言ったものたちが、どんどん飛んでいく。おうむ、むしめがね、ねこ、こま・・・まじょ!!窓の外に飛び交うものは、どんどんシュールさを増していく。しりとり、っていうものは段々、脱線していくのを楽しむもの。そして、脱線していくとともに、窓の外も物凄いことになっていく。突き抜ける。気持ちいい!

どこまでいくの?というくらい、宇宙の果てまで飛躍したあとの、回収の仕方というか、日常への回復の仕方も面白い。

ナンセンス、というのは滅茶苦茶をやったからと言って手に入るものではない。「しりとり」という言葉の縛りが圧力を生み、絵の力で突き抜けていくのが、楽しくてわくわくする。個人的に「ずるいいるか」と「ろっぴきのまぐろ」がたまらなく好きだ。読み聞かせにもとての良いのではと思う一冊。

 

リジーと雲 テリー・ファン&エリック・ファン作 増子久美訳 化学同人

淡い黄色とセピア色を基調にした配色がとても美しい絵本。

リジーは、公園の「雲うり」から、小さな雲を買ってもらって「ミロ」と名付けます。リジーは、ミロを大切にお世話します。どこに行くにも一緒です。でも、ミロはだんだん大きくなって、リジーの手にはおえなくなってしまいます。大きくなりすぎた雲は、お部屋に閉じ込めていてはいけないのです。悲しいけれどお別れしなくてはなりません。

子どものときに持っていたもの。名前をつけて慈しんでいたもの。大人になっていくどこかで、別れのときがやってきたりするのだけれども、それは消えてしまうわけではなくて。いつもミロのように、眼差しのどこかに宿っているし、なぜか年をとればとるほど、色鮮やかによみがえってくるように思う。だから、この本自体が、懐かしい記憶のように思えて、何度も頁をめくって細かいところを眺める。カーテンの揺らめきも、雨上がりの空気の匂いも、子どものときのあこがれも、細部まで心のこもった絵のなかにやさしく閉じ込められているようで、うれしくなる。この季節に何度もめくりたい。

日・中・韓平和絵本 へいわって、どんなこと? 浜田桂子 童心社

今こそ確認したい「へいわ」(平和)の原則

 

お昼時に寄った焼き立てパンの店で、支払いの列に並ぶお父さんと小さな男の子。多分家族の分もなのだろう、パンを溢れんばかりにトレイに載せて「たくさん買っちゃったねえ」「ちょっと買いすぎちゃったねえ」と話していた。温かいパンを抱えた二人を迎える家族の声も想像して、幸せな気持ちになる。同時に、男の子の笑顔にウクライナの避難シェルターで「死にたくない」と泣いていた男の子の泣き顔がかぶり、心が曇る。

 

浜田桂子さんの『へいわって、どんなこと?』というこの絵本を、『戦争と児童文学』の原稿を書いている間、何度も開いて読み返した。戦争の記録を読めば読むほど、この絵本に描かれている「へいわ」(平和)の原則が、まさに原則として的を射ていると思ったからだ。この絵本は平和という抽象的な言葉が具体的にどういうものなのかを、子どもの目線で描いている。注目すべきなのは、その言葉が、すべて「せんそうを しない」「ばくだんなんか おとさない」とすべて決意表明としてはっきり言い切る形になっていることだ。

 

この絵本は「アジアの絵本作家と連帯し、一緒に平和の絵本を作る」というプロジェクトの中から生まれている。各国の絵本作家が集まる南京でのディスカッションの場に持っていくこの絵本の試作では、浜田さんは「ばくだんが ふってこないこと」と受け身の表現として描いていた。しかし、「日本の被害者意識を表している」という意見が出て、話し合いを繰り返すなかで、浜田さんは被害者意識に偏っていた自分の平和認識を見つめなおす。そして「被害認識も戦争の実相を知る上で大事だけれども、本当に戦争を拒否するためには、加害意識を持つことが必要だ」と思うようになったという。(「好書好日」https://book.asahi.com/article/13568012 より)

 これはとても大切な認識だと思う。なぜなら、戦争はまず正義の名のもとに始められるのが常道であり、国民の被害者意識に訴えることから始められるからだ。今回のプーチンによる侵略も、「我々は平和的な解決を目指してきたが、これ以上我々の主権に対する脅威を許すわけにはいかない。ドンバスで行われている残虐行為から人々を救うための派兵」という大義名分が掲げられている。ナチスドイツも、戦争を始めたときの日本も、全く同じ理屈で他国を蹂躙していった。どんな大義名分を唱えられても、どんなに被害者意識を喚起させられようとも、殺し合いである戦争は絶対にしない、武力に対して「No」と言い切ることが、この巧妙なプロパガンダに飲み込まれない意識を育てる。そう思う。テレビで日本の防衛大臣が、チャンスとばかり軍備増強を口にし、首相経験者の国会議員(自称プーチンの友達らしいが)が、あろうことか核兵器の配備まで言い出す始末だが、その発想はプーチンが陥った過ちと同じ道をたどるものでしかない。軍備増強や核配備はますます国同士の緊張を高め、攻撃される糸口になってしまうだろう。誇大妄想にとりつかれた為政者が、防衛と称していたずらに巨大化した軍事力を手にしたとき何が起こるかを、私たちは今目にしている。愚かにも同じ轍を踏めば、次世代の子どもたちに恐ろしい苦しみをもたらしてしまうはずだ。

『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争』の著者スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチは、「血の時代、武器の時代、暴力の時代は去ったのです。そして私たちは、命というもののとらえ方を、今までとは違うものに切り替えるべきなのです。」(文藝2021年冬号・インタビュー(「抵抗するために『聞く』、アレクシェーヴィチの今」)と述べている。彼女はウクライナの隣国ベラルーシで弾圧を受け、国外滞在中だ。暴力で他者をねじ伏せようとするやり方は、もはや過去の遺物として葬り去らねばならない。NHKが放映したイギリス制作の「プーチン政権と闘う女性たち」というドキュメンタリーを見た。ただ選挙戦に立候補したいだけの女性たちを逮捕・監禁するなどというのは、血なまぐさいソ連・スターリン時代の再来でしかない。ロシア国内でも、プーチンのやり方に抵抗しようとして闘い、傷ついている人たちはたくさんいる。「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる」ことを許さない体制など、ロシアの人々も、もういらないはずだ。

この絵本に書かれている「へいわ」(平和)の原則を、世界中が共有できるようになればと心から思う。「現実はそんなに甘いもんじゃないよ」「お人よしは潰されるだけ」と冷笑されても、「お花畑」と笑われても、何度も何度も言いたい。この原則を、何度も声に出して確認したい。かがり火のように世界の片隅から掲げたい。

 

「へいわって ぼくが うまれて よかったって いうこと。」

「へいわって きみが うまれて よかったって いうこと。」

 

子どもたちが、この言葉を笑顔で言える世界を作ることこそが、政治の目的であり、大人たちの責任であるということを。

 

茶色の朝 フランク・パブロフ・物語 ヴィンセント・ギャロ・絵 高橋哲也・メッセージ 藤本一勇・訳 大月書店

この物語は、ファシズムが音も無く静かに自分の日常の中に入り込んでくる恐怖を描いたもの。猫が増えすぎるという「問題を解決」するために、「茶色以外の猫をとりのぞく制度にする法律」を「仕方がない」と承諾したことが始まりになって、どんどん取り締まりは広がっていきます。茶色の犬以外の禁止へ。過去に茶色以外の犬猫を飼っていた人たちへの弾圧へ。いつの間にか、茶色以外のものは全て許されない朝を迎える恐怖です。以前読んだ記憶があるので、すっかりレビューを書いたつもりになっていたのに、検索してみたら無いんです。つまり、前回読んだときには、この恐ろしさが身にしみていなかったのでしょう。私も、この恐怖を見過ごしてきた一人です。

教育勅語を復活させ、教育の現場に銃剣で人を殺す方法を持ち込む。それがいつの間にか、閣議決定や、党議拘束で縛られた国会で決まっていく。権力は常に子どもを支配しようとします。子どもを洗脳すると、優秀な兵隊になっていくのは、戦前の日本の教育やヒトラーユーゲントの政策、今も世界中で増え続けている少年兵を見れば、明らかなこと。

もう何年も前から、ひっそりと教科書は政権寄りに改訂され続けているし、「個」より国や全体に奉仕することを目標にした道徳教育も、本格的に実施されます。いつの間にか、私たちの生活は茶色に染まっているのです。過酷な労働。格差の拡大。原発の再稼働。沖縄の基地問題。銃剣で人を殺す以外にも、戦争はそこここに、転がっている。何が出来るのだろう。何が。焦りながら、策を持たない私に、後書きの高橋哲也さんのメッセージが染みます。何が出来るのかを、私は誰かに教えて貰わずに、自分で考えなければならないのです。この違和感や疑問、恐怖を決して手放さないことを軸にして。

いろいろな形はそのまま残っている。家族や会社や、学校や、音楽や、映画や、そんなものは変わっていないのに、いつの間にか精神はそっくり入れ替わっている。でも、形はそのまま残っているから、誰も変わってしまったことに気づかない―これは、丸山眞男の評論で紹介されている、ヒトラーが台頭していった時代について語ったドイツの言語学者の証言です。同じことを繰り返してはならない。何十年かあとの子どもたちに、なぜ、あの時に止めておいてくれなかったのか、と言われないためにも。

 

 

片手の郵便配達人 グードルン・パウゼヴァング 高田ゆみ子訳 みすず書房

戦争の本や資料を読み込んでいると、「国」という巨大な一つの生き物同士が戦争をしていたかのように錯覚してしまうことがある。実際にはガンダムのモビルスーツのようなものを着た「日本」なんて、どこにも在りはしない。殺したり、殺されたりするのは、自分の息子と変わらない若い男の子たち。爆撃に手や足をもがれ、暴力に蹂躙されていくのは、「おばちゃん」と声をかけてくれたりする、幼い頃から知っている桜色の頬をした娘たちなのだ。そのことを心に教えてくれるのは、いつもこの本のような、心に響く物語だ。

この本の舞台は、戦時下のドイツの一地方の村だ。主人公のヨハンは17歳。召集されて三週間で片手を吹き飛ばされ、故郷の村に帰り、やりたかった郵便配達人の仕事についている。ヨハンは、毎日20kmの山道を歩いて郵便を配達する。戦場に母達が送る小包。息子たちが送る手紙。これは、嬉しい便りだ。そして、戦死の黒い手紙を運ぶのもヨハンだ。彼が歩く道のりは、そのまま物語の地図となり、郵便が運ぶ生と死とともに、くっきりと在りし日の村が立ち上がる。パウゼヴァングの筆は見事な客観性に貫かれていて、この小さな世界に、人として生きる全てがあることを描き出していく。

70年前のドイツの人々の日常は、私たちと何ら変わらない。そこにはやはり愛情があり、裏切りや悲しみがあり、家族への慈しみがあり、恋する若者たちがいる。ヒトラーに対するスタンスも様々だ。特にヨハンの母は、助産師として自分が取り上げた若者たちを戦争に送り込むヒトラーを毛嫌いしている。その物言いは痛快だ。同じ国に住んでいても、人の心は同じ色ではない。パウゼヴァングは、村人たちの人生を次々に描いていく。銃弾で顔を吹き飛ばされた青年。五人の子どもを残して死んでいった夫の死を嘆く未亡人。疎開してきた夫婦。強制労働で連れてこられたポーランドやウクライナの人々。100人いれば、100通りの物語がそこにあり、それぞれの人生に、戦争が黒々と食い込んで傷跡を残している。

彼らは、今、ここに生きている私たちと、痛みや苦しみも、喜びも、何ら変わらない。だからこそ、何度も立ち止まって考えてしまう。なぜ、彼らがヒトラーに政権を与えてしまったのか。なぜ、ホロコーストへの道を歩くことになってしまったのか。近隣諸国やアジアに侵略し、沖縄を地上戦に巻き込み、本土を空襲や原爆で徹底的に破壊され、何十万もの若者たちを戦争に送り込んだ、かっての日本に住んでいた人たちも、きっと今の私たちと変わらぬ日常を生きていた。だとしたら、これからの私たちが、また同じ道のりを歩まない保証が、どこにあるだろう。「戦争が出来る国になる」などという威勢の良い言葉に乗せられた後の光景が、確実にこの物語の中にある。

ヨハンは、母と同じ助産師のイルメラと恋をする。夏の青空のような、命の息吹に満ちた輝かしい日々。本当なら、そこから新しい命の連鎖が繋がっていくはずだった。しかし、戦争の理不尽は、全てを押しつぶす。一旦終わったかのように見えた戦争が、逃れられぬ運命のようにヨハンを飲み込んでいくのだ。ラストの理不尽さに、私はしばし呆然とした。物語を通じて、まるで息子のように片手の郵便配達人のヨハンを愛してしまった自分がいて、この理不尽を受け入れるのが辛すぎた。しかしパウゼヴァングは、あえてこの理不尽を読み手に突きつけたのだろう。

ヨハンの片手は、ヨハンだけのものだった。他の誰の手も、その代わりにはなれなかった。その片手を奪ったのは、兵士を入れ替え可能なものとして使い捨てる軍隊であり、戦争だ。ヨハンの失われた片手は、「個」のかけがえのなさ、人間の尊厳そのものなのだ。彼は、残った片手で村人たちの郵便という愛を繋ぐ。恋人を抱きしめ、キスをする。ところが、詳しいことはネタバレになるから書かないが、ヨハンは再び、彼自身であることを剥奪されてしまう。この世界に、片手の郵便配達人は、ヨハンただひとりだった。でも、彼はそのただ一人のかけがえのなさも奪われる。これが、戦争だ。人間というものが複数ではなく単数でのみ存在するかのように、地上にひとりの人間しか存在しないように人間を組織することで、全体主義は成立すると、ハンナ・アーレントは言う。戦争は、もっとも精鋭的な全体主義そのものだ。私たちはモビルスーツを着たガンダムではない。吹き飛ばされた片手は永遠に戻ってこない。

あなたは、今、どこにいるのかと。この理不尽にたどりつく道筋は、あなたの心の中にあるのではないか。一見平穏な日常に、黒々と戦争へと続く道筋は刻まれていないか。ヨハンが片手を奪われることを許してしまったとき、収容所ではやはり個人としての尊厳を奪われたユダヤ人たちがモノのように殺されていった。どんなに綺麗事で飾っても、八紘一宇や美しい日本、などという言葉に乗せられてしまったが最後、日本は近隣諸国を蹂躙して自分たちも深い深い傷を負うことになる。戦争は一旦始まれば、巨神兵のように全てを焼き尽くしてしまう。そこから逃れられる人間など、誰一人としていない。私たちは二度と人間としての尊厳を、失ってはならない。ヨハンの片手が、それを教えてくれる。

「ヒトラーの独裁政治は誘惑的でした。自分が何をすべきか、自ら判断する必要はなかったからです」

これは、後書きでのパウゼヴァングの言葉だ。終戦時17歳だった彼女は、軍国少女だったという。一昨年亡くなった児童文学者の古田足日も、戦時中に受けた皇国教育が、嘘っぱちだと知ったとき、自分がどう生きていけばよいかわからなくなったという。その思いが彼を児童文学へと駆り立てていくのだが、パウゼヴァングのこの作品にも、同じ苦しみと願いが込められているように思う。ナチスが配ったユダヤ人を貶める本を読んだヨハンが母にその是非を尋ねたとき、彼女はこう言い放つ。「あんたの脳みそはなんのためにあるの?」ドイツは、戦後自分たちの過ちと向き合い、子どもたちにも戦争責任を教えてきた。しかし、日本は過ちの痛みをまっすぐ見つめることを怠り、歴史を自分たちの都合のいいいように書き換えようとさえしている。再び片手が失われないように。誰の命と尊厳も奪われたり、奪ったりすることのないように、最大限脳みそを使わなければならない時が、もう既に来ている。パウゼヴァングのこの本は、そのことを教えてくれる。

2015年12月刊行

みすず書房

 

 

図書館のトリセツ 福本友美子 江口絵理 絵スギヤマカナヨ 講談社

子ども向けに、図書館をどう使うか、どう図書館と仲良くなるかを書いた本なのだけれど、これがとってもわかりやすくて、伝えるべきことをしっかり踏まえている内容になっています。図書館で働いてる私でさえもなるほど~、と思うくらいです。大人の方が読んでも、きっと目からウロコのところがあるはず。

この本には、図書館で出来ることがたくさん書いてあります。本を読む、借りる、本で調べる。もちろんそれが基本なのですが、私が一番いいな、と思ったのは「図書館では、なにかをしなければいけない、ということは1つもないのです。こんな自由な場所は、ほかにそうそうありません」という言葉。そう、その通りなんですよねえ。本はたくさんあるけれど、別に読まなくたってかまわない。反対に、どれだけ読んでもかまわない。誰にもなんにも強制されません。この本にも書かれていますが、様々なジャンルの本を、なるべく偏りのないように収集する。この本が読みたいとリクエストされれば、その希望を叶えるべくあちこちに問い合わせて提供します。そう、図書館は「自由」が基本なのです。そのために、図書館は資料収集の自由と、提供の自由を宣言しているんです。(「図書館の自由に関する宣言」を、リンクしておきます。私は時々、この宣言を読むことにしています。何かこうね、ぎゅっと身が引き締まる思いがします。 )その自由を、最大限に活用して貰いたいなあと思うんですよ。なぜなら、この自由は活用して、使い倒すことで、もっと活性化して広がっていくと思うから。

だいたいの図書館は地方自治体が運営している「市民の図書館」なのですが、こんな風に公共図書館が出来るまでには、先人たちの努力と闘いがあったのです。それこそ女性や子どもに貸し出しをするようになったのも、そんなに昔のことではありません。はじめから当然のようにあるものではないからこそ、どんどん使って、実績を作って、この社会になくてはならぬものとして根付いて欲しいのです。日本では、そこがまだまだだと思うんですよねえ。「これだけネットがあるんだから、何も本でなくても」という声もあるでしょうが、やはり一冊の本が持つ情報量の多さと確かさは、ネットで検索して見る頁とは格段に違います。客観性も違います。この本にも「なぜ本でさがすかというと、たいていの本は専門家が書いていますし、出版される前に何人もの人が、正しいかどうかを確認しているからです」とあるように、ネットで個人的に書いているものと、出版されるものとはその責任の取り方が根本的に違います。ネットは匿名が基本ですもんね。

そして、図書館のいいところは、同じテーマの本が何種類も揃っていること。調べたことを鵜呑みにしないで、別の角度からも見ることができる。この本には、そこもちゃんと書いてあります。「1冊見て終わりではなく、2冊以上の本を使って確認しよう」その通り。活字で書かれているからと言ってそれを鵜呑みにしない、というのも大切なことです。いろいろ調べて同じテーマで違うことが書いてあったら、それは自分で考えてみる余地があるビッグチャンスですもんね!それだけで自由研究ができちゃう。卒論もできちゃうかもしれない。「なぜだろう」と思って自分で調べて、自分の頭で考えて「これだ!」という解答を手に入れることって、ほんとに楽しい。解答を得られなくても、これまたずっと考え続けるという楽しみが生まれます。また、答えは一つでなくてもいいかもしれない。答えは無いのかもしれない。でも、なぜだろうと思って考えることが、人間に与えられた一番の楽しみであると私は思います。そして、もちろん、何にも考えないために図書館に来るのも、いいですよねえ。いろんなことに疲れて、家や学校から離れたいとき。一人でいるのも寂しいけれど、誰とも話したくないとき。人間関係に疲れて、生きていくのがめんどくさいよな、と思うとき。図書館にきて、ぼーっとして、綺麗な写真集や、美しい絵画を眺めたり。漫画を読んでみたり。居眠りしたりするだけでも、ほっと出来るかもしれない。誰に気を遣う必要もないのが、また、図書館のいいところです。安心してひとりになれる。そして、本ほどひとりになった人間の味方をしてくれるものはありません。

「学校は何年かたつと卒業しなければなりませんが、図書館に卒業はありません。何歳になっても行けます。もし図書館があなたのお気に入りの場所になったら、一生ずっと遣い続けることができますよ」

いいこと言うなあ。私もきっと一生図書館には通い続けるでしょうねえ。他にもいっぱいしびれる名言がたくさんあって、この本付箋だらけになってしまいました。「私は図書館のことよく知ってるから」と思う方にもおすすめです。そうそう~~!と嬉しくなって、明日図書館に行きたくなること、請け合いです。

2013年10月刊行

講談社

図書館に児童室ができた日 アン・キャロル・ムーアのものがたり ジャン・ピンポロー文・デビー・アトウェル絵 張替惠子訳 徳間書店

今では、児童サービスは図書館の基本中の基本です。でも、図書館に児童サービスが出来たのは、公共図書館という概念が成立し、「子ども」が教育を受ける権利を有するものであると認識されてからのことであり、それは近代史で言えばつい最近のことなのです。誰もが性別や年齢に関係なく、平等に教育を受け、知識を得て自分の意見を持つことができる。それは民主主義の基本であり、図書館はそのために必要不可欠な、国民の「知る権利」を保障するためのもの。でも、その権利は長い間に渡っての、先人たちの地道な努力の上に成り立っているもの。初めて司書の勉強をして図書館の成立史に触れたとき、非常に感動したのを覚えています。この絵本は、世界で初めて、図書館に児童室を作ったアン・キャロル・ムーアの物語です。

アンが子どもの頃は、図書館で子どもが本を借りる、ということさえ出来ませんでした。特に女の子が勉強をする、ということも許されなかった時代です。その中で、アンは自分の力で道を切り開き、他の先駆者たちと協力して、公共図書館における児童サービスの基礎を築いた人なのです。アン・キャロル・ムーアはとても活動的で世話好きのきさくな女性だったようです。日本の児童文学にとても大きな役割を果たされた石井桃子さんが、アメリカに留学したときにアン・キャロル・ムーアに出会ったときのことを「児童文学の旅」(岩波書店1981年刊)に書いてらっしゃいます。(余談ですが、この本は石井さんがサトクリフやファージョンのもとを訪問したときの話も収録されていて、非常におもしろい。外国児童文学がお好きな人はぜひご一読を)アンは日本からきた石井さんをとても大切にして、あちこちに紹介し、自分でもニューヨーク中を案内してまわったとのこと。その頃、アンはアメリカ図書館界の大御所でしたが、いたずらっ子のように瞳をきらきらさせて、石井さんを血の繋がった姪っ子のように可愛がったのでした。その石井さんは、帰国後「かつら文庫」(現在の東京子ども図書館)という私設の文庫を開きました。石井さんがどれだけ日本の子どもたちのために力を尽くされたかは私などが書かなくても非常に有名なことですが、その精神の真ん中に、アメリカでアン・キャロル・ムーアのような女性たちと出会ったことがあったのではないかと思います。この絵本では、アンの人生がわかりやすく描かれていますが、子どもたちにとって「図書館の児童室」というものがはじめからあったものではない、ということを、ぜひこの本を通じて知って欲しいなと思います。

思えば、私自身、子どもの頃に図書館で本を借りたことはほとんどありませんでした。市で唯一の図書館は、子どもの足では行くのが難しい山の上にあり、ある日同学年の子が自転車で勢いよく山を下った際に事故を起こして命を落としてしまったこともありました。苦労して行ったところで、そこにはあまり魅力的な子どもの本も無かったんですよね。だから、今私が働いているような図書館の児童室があったら、幼い頃の私はどんなに嬉しかっただろうかと思います。でも―これは日々の実感なのですが、子どもたちがふらっと自分のために図書館にやってくることは減っているように思うのです。教育熱心な両親に連れられてやってくる子どもたちはいるんですが。これは、これからの児童サービスをどうしていくのかという自分たちの課題なのですが、その一つのヒントが、この本にあると思ったんですよ。こつこつと子どもたちに本の紹介をしたり、児童室での楽しい催しを企画すること。常に書架を魅力的にしておくこと。司書が常に児童室にいて、子どもたちと関わり、彼らと話をすること。基本中の基本ですが、やはりそこなんだよな、と思います。どれだけ情熱を持って子どもと本に関わっていくか、どれだけ魅力的なライブラリアンになれるか、というところなんですよね。

児童室があって、子どもたちが自由に自分の好きな本を借りることができる。それは当たり前のことではありません。日本だって戦後になって、たくさんの努力の上にやっと実現したことです。世界に目を向けてみれば、女の子が学習する権利を唱えて殺されかけたマララさんや、児童労働の悲惨さを訴えて殺されてしまったイクバルのように、宗教や貧困などの理由で子どもたちの権利は簡単に左右されてしまうのです。それが日本の子どもたちと関係のないことだとは、私には思えません、図書館の根幹には平和があり、思想と良心の自由があり、それは憲法と同じく「不断の努力」によってしか維持されない。そのことを、大人も―特に図書館で働く人間は肝に命じなければならないし、子どもたちにもよく知って欲しいと思うのです。この本は、ライブラリアンにとって、大切な一冊だと思います。訳された張替惠子さんの後書きも必読です。

2013年8月刊行
徳間書店

白い人びと ほか短編とエッセー フランシス・バーネット 中村妙子訳 みすず書房

表題になっている『白い人びと』は、8年前に、文芸社から『白い人たち』として翻訳出版されているのを読んだことがある。そのときにも、非常に幻想の気配が強い作品だと面白く読んでいたのだが、今回再び読んで、ますます魅了されてしまった。この8年の間に、私もますます〈あちら〉よりになっているのかもしれない。

この物語の魅力は、スコットランドの茫々たる荒野にある。人間の主人公はイゾベルなのだが、彼女の役割は、人里離れた荒野と一体化し、その魅力をあまねく味わいつくすことにあるような気さえする。その年頃の少女の一般的な楽しみとはかけ離れた、荒野から生まれた精霊のような少女なのだ。イゾベルは、人里離れた厳めしい城に住んでいる。彼女が生まれたときに両親は死んでしまった。それからずっと親族の大人二人と住んでいるのだが、彼女の住んでいるそこは、まことに浮世離れしたところなのである。霧がヒースやエニシダの間に満ち、様々に形を変える荒野に囲まれた城。そして、幼くとも一族の長であるイゾベルには、専用の笛吹きがいたりする。バーネットの荒野の描写は冴えに冴えて、まさにこの世のものならぬ気配を湛えている。ここではない、どこか。あちらとこちらの狭間にあって、もやもやと二つが混じり合う場所。例えば、マイケル・ケンナの写真集や、内田百閒の『冥途』とかにもつながる〈あちら〉だ。ただ、面白いのは、イゾベルがあまりにも自然に、その〈あちら〉側にいることなのだ。さっきイゾベルが生まれたときに両親が死んでしまったと書いたが、正しくはイゾベルは仮死状態になった母親から生まれてくるのだ。彼女は、誕生のときから深く「死」に結びついた存在なのである。

イゾベルは、幼いある日、荒野で白い人たちに出会う。それは、まさに闘いの場から帰ってきたばかりの人々で、その中にいた幼い「小さな褐色のエルスペス」とイゾベルは友達になり、一緒に遊んだりするのである。しかし、その小さな友人が見えるのは、実はイゾベルだけなのだ。しかし、彼女にとっては、あまりに自然に彼らがそこにいるものだから、イゾベルは彼らがこの世のものならぬ人たちだとは気付かない。あらゆる場所で、イゾベルのすぐ近くに佇む白い人たちに、彼女は全く畏れを抱くことがない。人里離れた場所で、荒野と書庫を相手に暮らしているイゾベル。生身の人間よりも「白い人」に近しい彼女が、荒野と書物に非常に高い親和性をもっているということが、私にはとてもしっくりくる。

彼女は白い霧の向こうに耳を澄ます感受性を持つ人であり、古い書物に埋没することを喜びとする人。それは、根をたどれば同じことなのだと思うのだ。自然の声を聞くことと、書物の中の人間の営みに心を浸すことは、同じ波長の中にある。土地には、土地の声がある。優れた感性を持つ人たちは、その土地の声を聞く。例えば先日買った梨木香歩さんの『鳥と雲と薬草袋』などを読んでいると、ひとつの場所から、一つの地名から、梨木さんがどれほどの声を聞き取っているのかに、心がしんとする。いつまでもその頁にいたくなる。だから、全く読み進まないのだけれど。いしいしんじさんの本を読んでいても同じことを思う。いしいさんにとってどこに暮らすかは、彼の精神と深く結びつくテーマなのだ。そして、例外なく梨木さんもいしいさんも、〈あちら〉と〈こちら〉を超える、書物の人でもあるのだ。一族の族長であるイゾベルの血の中には、そこでずっと暮らし、一族の歴史を積み上げてきた時間が理屈ではなく堆積している。そして、書物に心を浸すということも、今、目の前にいない人たちの声を聞く営みだ。例えば、私が『小公女』の主人公、セーラ・クルーに対して抱く想いは、見知らぬどこかの誰かに対するものではない。セーラは、どこにいるよりも彼女のそばにいることが安らぎだった幼い頃からの私の親友なのだ。イゾベルにとっての「小さい褐色のエルスペス」への想いは、私にとってのセーラのようなものなのだろう。実際に、長じて後、イゾベルは書物の中に「小さい褐色のエルスペス」を見つけることになる。

そう思うと、この物語の中の「白い人」も、私たちが想像する幽霊とは、どこか違う存在のようなのだ。彼らはごく当たり前に生者のそばに佇んでいる。そして、ひたすらな愛情を寄り添う人や、自分の音楽に捧げているのだ。荒野を笛吹きのファーガスが意気揚々とやってくるシーンなどは、まさに喜びに溢れている。つまり、彼らは夢のような儚さを湛えてはいるけれども、「死」の昏さに囚われたものではなく、どこか憧れに繋がるような仄かな光を湛えた存在なのだ。その憧れは、後半、ヘクターとミセス・マクネアンという美しい親子と出会うことによって、ますます深まっていくことになる。このバーネットが生み出した物語世界では、自然も、過去に生きていた人たちも、「今」を生きるイゾベルも、すべてが等価に、存在している。私はそこに魅了されてしまうのだ。死も、生も、土地も、自然も、すべての則を超えてこの物語の中でひそやかな美しい会話を交わしている。その声をバーネットの言葉を通して聞くのは、〈あちら〉の気配がする物語に惹かれがちである私にとっては至福の時間であった。

実は、この作品の献辞は、十五歳で夭折してしまった息子のライオネルに捧げられている。この作品の後半、死は恍惚感を伴うほどの甘美さで、荒野の美しさと重ねられていく。それは、もしかしたら、生き残ってしまったバーネットが、その時強烈に息子が囚われた「死」に惹かれていたからかもしれない。実際読んでいても、あまりにも死が近しく甘美に語られるので、面喰ってしまうところもある。でも、だからこそ、この物語はバーネットにとって書かねばならないものだったのかもしれない。柳田邦夫さんがご子息を亡くされたとき、「書く」ということが一番自分の救いになったとおっしゃっていた。想像にすぎないが、やはり「書く人」であったバーネットもそうだったのかもしれないとも思う。この本には、『秘密の花園』のコマドリを思わせるエッセイ、「わたしのコマドリくん」や、バーネットが幼い息子たちに話して聞かせたような、「気位の高い麦粒の話」、庭に対する愛情を書いたエッセイの「庭にて」も収められている。エッセイは、大好きな『秘密の花園』に繋がるモチーフについて書いたもので、とても興味深かった。バーネットが愛したものたちが、この本にはいっぱい詰まっている。バーネットの作品に深い思い入れがある私にとっては、まことに堪えられない一冊だった。

余談だけれど、この八月に、友人と夏の旅行に行く予定を立てている。そこで、満月の夜に湿原を歩くという体験をしてみようと思っているのだ。イゾベルが月夜の荒野で体験した幽体離脱のような体験が出来るかも―というのは、無理だけれど。この物語を読みながら、ワクワクしてしまった。私にも、遥かな自然の声が聞こえますように。

2013年4月発行

by ERI

 

そして、ぼくの旅はつづく サイモン・フレンチ 野の水生訳 福音館書店

音楽も本も、旅と深く結びついていると思う。本は頁を開くだけで、私たちをどこにでも連れていってくれるし、音楽なら言葉の壁すらない。辛いときや苦しい時、何百年も昔に作られた曲が心の真ん中に届いて痛みを和らげてくれることがある。その曲は、どんなにたくさんの人たちの心を、時間を旅してきたことか。そして、私の手元にある物語も、出版に関わった多くの人の手をわたって旅をしてきてくれる。そう思うと、出会いというのはやはり一つの奇跡です。この物語の主人公・アリも旅の途中です。母さんとしてきたたくさんの旅。そして故郷から離れてくらす異国の風景の中で、彼が奏でるバイオリンの音が胸に響きます。

アリは幼い頃に事故で父を亡くしてからドイツの祖父(オーパ)の農場で暮らしていました。バイオリンの手ほどきもしてくれたオーパはアリの精神的な支柱です。でも、アリは、11歳の今、オーパと離れて暮らしています。アリが8歳のとき、一緒に出かけたオーストラリアへの旅で、母が運命の人と出会ってしまったから。そのままオーストラリアに母と移住して3年、アリは思春期の入り口に立ち始めています。まるで友だちのような関係だった母との間にも、少しずつ違う感情が混じり始める頃です。親子として生まれる、ということは抜き差しならない偶然です。人生で一番深い関係なのに、自分で結ぶわけじゃない。誰を親に生まれてくるか。どんな性格の子を持つか。それは、全く選べないのです。だから、いつも幸せなわけじゃないし、理不尽に耐えなければいけないときもある。この物語は、その偶然が奏でる様々な音楽に彩られています。

アリはボヘミアン気質の母、イロナに幼い頃から振り回されっぱなし。まだ6歳のアリを連れてイロナは何カ月もの旅に出たりします。詐欺師に出会ったりしながら続ける、バックパッカーの旅は、幼い子には過酷です。でも、その旅は、生まれながらにアーティストであるアリの感受性を鍛えることにもなるのです。そして、はっきりとは書かれないのですが、このイロナの放浪は、若くして夫を亡くしてしまった彼女の中から生まれてくる、言葉にならない衝動でもあるのでしょう。悲しみ。孤独。寂しさ。怒り。どんな言葉をつけてもどこかが抜け落ちてしまうような感情が、イロナを旅に向かわせたはずです。そして、アリもそれを感じとっていた。遅れた列車を待って凍りつきそうな駅で上着にくるまった二人の姿がそれを感じさせます。でも、その過酷な旅は、アリの音楽の才能にとってはかけがえのない御馳走なんですよね。孤独と感受性は裏返しです。心の葛藤なしに、優れた芸術は産まれません。母と二人、行きずりの人に出会いながらアリは心にたくさんの風景を刻みます。その旅の途中で、アリはバイオリンを弾きます。その音楽を、じっと耳を澄ませて追いたくなるんですよ。もちろん聞こえないんですが、彼の音の中にきらめくような詩情が溢れているのがわかるのです。そして、そのバイオリンは、今度はイロナの新しい人生の扉を開きます。

イロナは、オーストラリアへの旅で、アリのバイオリンがきっかけで再び人生を共にする人を見つけます。そのせいで、アリは、今度はオーパと離れて住むことになるのです。アリは、音楽家ならではの早熟さと聡明さを持ち合わせています。それ故に、とっても「いい子」してしまうんですよね。自分をぐっと抑えてしまう。新しい場所に、見知らぬ言葉、新しい父親。その場所でバイオリンを人前で弾くことを自ら封じてしまうのは、自分を封印してしまうことに近いのでしょう。そして、最愛の祖父であるオーパを亡くしてしまったとき、アリはあまりに大きな喪失感から、心を閉ざしてしまいます。その彼が、どんな風に、自分の心の声であるバイオリンを取り戻していくのか。この物語は、そこが読みどころです。アリを解き放つ鍵は、やはり音楽にあります。父親とのたった一つの記憶をよみがえらせてくれた一枚のCD。オーパと過ごしたドイツでのレッスンの想い出。新しい父親であるジェイミーと鳴らす、母へのプレゼント曲。リー先生が導く新しい音楽の扉。音楽の喜びが、少しずつアリの悲しみを美しさで満たして、新しい力に変えていきます。そのシーンの素敵なことったら。耳には聞こえないけれど、アリは自分に降り注がれる愛情を、音楽と共に感じ、歩き出すのです。親も含めて、偶然の人との出会いは、悲しみももたらすし、かけがえのない喜びも生み出す。でも、その中から何を感じてどう生きるのかは、自分にゆだねられるのです。親に左右されてしまう子ども時代から、人生を自分の手で選び取る時代へと、アリが成長していく姿が音楽と共に描かれるのがとても魅力的です。

アリは、音楽と生きる喜びが直結している、希有な才能の持ち主です。でも、彼が抱く孤独や寂しさ、そしてたくさんの人と出会う喜びは、誰もが感じる普遍的なこと。そして、アリを取り巻く人たちが、とてもユニークで生き生きしているのも、この物語を豊かなものにしています。子どもも大人も、自分の人生に、出会った人に一生懸命向き合って生きている。その陰影や凹凸も含めて、しっかり描き込まれているのが魅力です。アリが奏でるバイオリンの音に、身も心もゆだねたくなる。そんな一冊です。

2012年1月刊行

福音館書店

 

ヘリオット先生と動物たちの8つの物語 ジェイムズ・ヘリオット 井上由見子訳 集英社

私は動物に弱い。パソコンもiPhoneも犬猫ブログのブックマークだらけだし。自分のレビューを書くよりも、よそのお宅の猫さまを見て、「かわいー」「かわいー」とうっとりしている時間のほうが多い。(あかんやん・・・)うちにも猫が2匹いて、何だかんだとかまったり撫でまくったり、お腹に顔を埋めてモフったりしているうちに、一日が過ぎていく。夜になると一緒に寝ようと猫が呼びにくるので、甘えたの猫を抱きこんで、干したてのお布団で眠る。もういくらでも眠れる(笑)。動物と暮らして何が一番嬉しいか。それは、彼らが幸せそうにしているのを見るということに尽きると思う。あったかい毛布の上でのびのびになって寝ていたり、おもちゃに目をらんらんさせてじゃれついたり、美味しそうにご飯を食べていたりするのを見ると、「これでいいのだ」というバカボンのパパ的な全世界肯定感が溢れてきて、もっと甘やかしたくなる。

この本に収録されている8つのお話も、「これでいいのだ」という幸せが溢れている。ヘリオット先生は、イギリスのヨークシャー地方の動物のお医者さんだ。農家が多いこの地方で、ヘリオット先生はいつもあちこちに往診に飛び回っている。そこで出会ったいろんな動物たちとのお話が、この本にはいっぱい詰まっている。ここに描かれているのは、動物と人との信頼と愛情だ。たとえば冷たい北風の中で死にかけていた子猫。ヘリオット先生に拾われて、農家のあったかいオーブンの中で息を吹き返して、豚さんのおっぱいでつやつやのお猫さまに育ったり。自分の身なりなど一度も構わず過ごしてきた農家のおやっさんが、長年働いてくれた馬を、見事に飾り立ててペットコンテストに連れていったり。このお話に出てくる人たちは、みんな自分と関わりのある命を大切にする。そして動物というのは、大切にされると必ずその愛情に応えようとする。人間同士だと時に愛情は難しく絡み合ったり、ねじれたり、すれ違ったりするものだが、動物はいつもまっすぐ愛情を受け止めて、つやつやの毛並みで返してくれる。そこには確かな心の繋がりがある。ほんとに、この世の中難しい事やどうしようもない事がいっぱいなのだけれど、動物が寄せてくれる愛情のこもった眼を見ていると、これが生きていることの基本だよなあと素直に思える。その肯定感がこの物語8篇のすべてに溢れていて、とても幸せな気持ちにさせてもらった。

ヘリオット先生は、長年実際に獣医として働いておられた方。それだけに物語には体験に裏打ちされた厚みがある。たくさんの本が既に翻訳されているらしい。この本は、若い読者のために書きおろされた一冊。小学校高学年くらいなら余裕で読めると思う。こういう愛情から生まれる信頼感、それも積み重ねられた体験に裏打ちされた信頼感というのは、元気が出てとても素敵だと思う。表紙も挿絵もとても可愛くて、中の活字もセンスがいい。この表紙に呼ばれて読んでみたら、やっぱり当たりだった。ヘリオット先生、もっと読んでみようっと。

2012年11月刊行

集英社

 

インヘリタンス 果てなき旅 ドラゴンライダーbook4 クリストファー・パオリーニ 静山社

前作の『ブリジンガー』から3年あまり。待っていた完結編が刊行されました。上下巻の力作です。ただ人がたくさん死ぬ戦闘ファンタジーは苦手なんですが、この物語は単なる善悪の二元論に止まらず、争いという出来事の中にある人間の複雑さや心情をしっかり描き出しています。手に汗握る展開といい、キャラクターの魅力といい、この分厚さを一気に読ませて圧巻です。

そう、この物語の読みどころは、戦争という特殊な状況の中での、主人公たちの内面の葛藤や弱さが克明に描かれるところだと思います。ドラゴンライダーとして、ガルバトリックスという最強の敵と対峙しなければならない重圧に苦しむエラゴン。寄せ集めの軍隊をまとめて指揮をとるナスアダは強い女性ですが、今回は敵に誘拐され拷問を受けるという苦難に陥ります。そして、魔力も特別な能力も持たずに、自らの知恵と力だけで妻子を守り抜こうと苦闘するローラン。命をかけたぎりぎりの場所でまっすぐ自分の弱さを見つめた時に、もう尽きたと思った場所から新しい力が溢れてくる。そこに大きなドラマがありました。

でもねえ、ほんとにたくさん人が死ぬんですよ。息子たちがやっている「三国無双」を連想するくらい。ちょっとうんざりしかけました。でも、読んでいるうちに、そのあたりの矛盾も、作者は意識して書いてるんじゃないかと思ったんです。敵はばったばったとなぎ倒して死に対する感覚も麻痺するぐらいなのに、自分の身内の死に対しては深い喪失感に苦しむ。戦争の中で、エラゴンの身内に赤ん坊が生まれます。口に障がいを持って生まれたその子を、エラゴンは時間と力を使って必死に治すんです。何百人という人を殺したその手で。でも、本当はなぎ倒される名も無い兵士(実は名も無い兵士なんていないのですが)一人一人に家族があり、大切な人生がある。そこを感覚的に切り捨てる無自覚の怖さと、無自覚に気付いたときの苦しみ。その矛盾と葛藤の中に人は生きている。

それを象徴するのが、エラゴンとガルバトリックスとの最後の戦いと戦後処理の描かれ方です。ネタバレになってしまうので、あまり詳しいことは書きませんが、最後の戦いでは、相手を力でねじ伏せるのではなく、「理解」を求めるところから活路が見いだされる。この迫力溢れるシーンは圧巻でしたが、その戦いで勝利を収め(そこは予定調和だから書いていいよね)英雄になったエラゴンの身の処し方に、ああ、そうなのか、と私はこの物語のテーマが腑に落ちるような気がしたんです。ここも書いてしまうとこれから読む人が面白くないんで、明言は避けますが。エラゴンは、ガルバトリックスが犯した過ちを二度と繰り返さぬために、栄光とは無縁の、厳しい生き方を選ぶのです。そこには、ル=グウインの言うヒロイックファンタジーの本質ー「人が過ちを犯すこと。そして、ほかの人であれ、本人であれ、誰かがその過ちを防いだり、正したりしようと努めて、けれどもその過程で、さらに過ちを犯さずにはいられないこと」を描き出そうとする営みがありました。これを読んだ子どもたちは、ハラハラドキドキしながら、自分自身と語り合い、矛盾も含めた人間という存在に思いを馳せることになると思います。この壮大なファンタジーを締め括りに相応しい爽かなラストも良かった。何はともあれ、最後までこの分厚さにめげずに読み終われてほんとに良かった(笑)

2012年11月刊行 静山社

 

※表紙の画像を入れたいのですがiPadでどうしたらそれができるのかわからない。ああ。。。普通のパソコン欲しい(笑)

シフト ジェニファー・ブラッドベリ 小梨直訳 福音館書店

18歳。子どもから大人へ、シフトチェンジの季節です。働くにしても進学するにしても、親の羽の下から飛び出して、自分の生き方を探すとき。この本は、少年が青年になる、ギュンとギアが入れ替わる瞬間をとらえた物語。疾走感にあふれた魅力がありました。

18歳のクリスは、高校を卒業し、大学に入るまでの2カ月で、親友のウィンと自転車で大陸を横断するという冒険旅行に出かける。ところがその親友は、旅の終わりに、自分を置き去りにしていなくなってしまったのだ。実力者であるウィンの父親は、クリスが居所を知っているはずと圧力をかけてくる。物語は、大学の新生活と、そんなウィンをめぐるごたごたに振り回されるクリスの戸惑いから始まります。

幼いころからの親友だったウィン。何もかも知りつくしているはずだった。でも、本当にそうだったのか。クリスは、ウィンとの旅を思い返しながら、見知らぬ人のように遠くなってしまった彼の心を手繰り寄せようとします。この物語は、夏の旅から帰ってきたあとの、もう一つの心の旅なのです。旅の濃密な時間の中に隠されていた、わずかなサインを、クリスは思い出します。男子ならではの、ライバル心と親しみが交錯する距離感が、ジェットコースターのように展開する旅の面白さ。腕立て伏せや、パンク修理のタイムトライアルに始まって、水のかけあいから、派手な喧嘩やら・・・その子どものじゃれあいのような楽しさと、風景や人と出会いの、なんときらめいていること。でも、その中にこれまでとは違う空気が、冷やりとする水のように流れていたことが、クリスの「今」と交互に書かれていく構成の中で浮かび上がってくるのがスリリングで、物語から目が離せなくなりました。

ウィンは、この旅がクリスとの別れであると心に決めていたのです。高圧的な父に反発して、ずっと自分を出すことなく生きてきたウィン。でも、親友はそんな自分とは裏腹に、勉強もボーイスカウトも、親との関係もしっかり自分のものにして、進学も自分の力で決めた。それに引き換え、自分のこれまでの人生は、やたらに人を支配しようとする父親にたてつくためだけに費やされている。そんな自分からシフトするための、崖を飛び降りるような決断の旅だったのです。これまでずっとくっついて暮らしてきたウィンとクリスの激しいぶつかりあいは、今までの自分との闘いでもあるのです。自転車で大陸を横断するという、無謀に近いような旅。でも、その旅は、ウィンの背中を確実に押したのです。「追いつくよ、いつか」というウィンの言葉は、ここからが自分のスタートだというしるしなんですよね。

いまは-おれたちふたりとも変わって、みんなが考えるより、すごいんだってことがわかって-お互いそれを知ったいまは、もうもどれないよな、もとの場所には。

親子という関係は、ほんとに難しいものだと思います。捨てようと思って簡単に捨てられるものではないんですよね。父親の支配という引力から抜け出すために、ウィンが走った距離を思うと、ため息が出そうです。子は親を捨てていい、私はそう思っています。(反対は絶対だめですけどね)また、いつか拾わなければならないときがやってくるから。若いとき、自分が自分らしく生きる道を探すためには、一度精神的に親を捨てる必要があると思うのです。この二人の旅は、これまでの自分との闘いであると同時に、いわば親捨ての闘いの旅だと思うのですよ。執拗に追いすがってくるウィンの父親の手を、なんとか振り切るクリスの闘いも、ある意味親という引力を振り切る闘いなのでしょう。歩きだそうとする若者に対するエールを、この物語から感じました。

今あちこちで展開されている教育論を聞いていると、若い人たちをなんとか自分の思い通りにしたいという欲望が先に立っているように思えてなりません。そう、このウィンの父親が繰り出す教育論のように。その欲望から逃げ出して、地に足のついた生活をしていこうとするウィンのような若者は、これから増えてくるんじゃないか。そんな風にも思います。もしかしたら、それがこれからの希望かもしれない。選挙のあとの、おじさんたちの高揚の中で読んだこの本は、何やら象徴的でした。YAを対象とした物語としては、少し読み手の想像力に頼る部分が大きいかもしれません。でも、これが第一作という筆者の熱い思いをふつふつと感じる、面白い一冊でした。装丁もとてもしゃれていて、カッコいい。男子向けの貴重なYA小説です。

2012年9月刊行
福音館書店

by ERI

祈りよ力となれ リーマ・ボウイー自伝 東方雅美訳 英治出版

「希望を持つこと以上の苦しみがあるだろうか」
この言葉の重さが、同じ女として深く心に響いた。私たち女は、何があっても日常を保とうとする。だって、子どもにはご飯を食べさせなければならないもの。洗濯をし、少しでも清潔であろうと心を配る。時には、もう何をする気力もないと思っても、日常を放棄することは、たった一日だって出来ない。それが、「生きる」ということだから。心折れてしまう毎日の中で、少しだけ光が見えたとき、「今度こそは」と希望を抱く。でも、その希望が打ち砕かれたとき、見えたと思った光は、刃となって心を貫くのだ。この本は、内戦によって、何度も何度もとことん希望を打ち砕かれた女性が、自ら立ちあがり、希望を現実にした事実を綴った本である。アフリカの内戦について、いろんな本は読むのだが、この本ほど他人事ではないと思ったことはない。女として。子どもを産んだ母として。理不尽な暴力に痛みを感じる人間として、心に深く刺さる本だった。

リーマ・ボウイーさんは、昨年(2011年)のノーベル平和賞を受賞した方だ。リベリアという内戦が続く国で、初めて女性たちが団結して立ちあがり、男たちが成し遂げられなかった停戦を実現させた。その活動の中心となった方である。この本で語られるのは、彼女の半生。リーマさんは、希望溢れる18歳の大学生だった。本当に、日本にも普通にいる、将来のあれこれを普通に思い描く大学生だったのだ。そんな彼女が内戦に翻弄され、夫にDVのような扱いを受けながら4人の子どもを産み、その後シングルマザーとなって働きながら、現在のような平和活動に従事するまでの過程が、率直に語られている。権力・利益・富・有利なポジション。それが、古今東西変わらぬ戦争のモチベーションだ。しかし、その争いで殺され、とことん傷つけられるのは、子どもと女性である。以前『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』(イシメール・ベア 河出書房新社)という本を読んだことがある。リベリアの隣・シエラレオネで、少年兵として過ごした日々のことを綴った本だ。精神を麻痺させるために使われる麻薬と薬。少年たちは、幼い手に銃を握らされて殺戮に駆り出される。悪夢にさいなまれながら、人であることを売り渡さねばならなかった悲惨さは忘れられない。そしてこの本に書かれているのは、女性として経験した内戦の苦しみだ。このような女性の苦しみは、なかなか報道されないし、表に現れない。それは日本でも同じだと思うが、例えば性的な暴力を受けた苦しみは、声高に語ることさえできない性質のものだ。家族にさえ話せない。

―女はスポンジだ―と、私は思う。すべてを自分のなかに吸収する―別れた家族のトラウマも、愛する人の死も、子供や夫の話を聞き、社会や信念の体系が破壊されるのを見て、その痛みまでも吸収する。女は強くなければならず、愚痴を言うことや経験を誰かに話すことさえ、弱さを示すことだからと全部を抱え込んでしまう。

どうやら、戦争における殺戮の欲望は、性的な暴力と深く結びついているように思う。戦争の惨禍をとことん見つめたゴヤが「我が子を喰らうサトゥルヌス」で描き出したように。リーマさんも、レイプの被害こそないが、その例外ではない苦しみを舐めている。戦争の精神的な混乱の中で結婚した夫に、DVを受け、蔑まれながら4人の子を産んだ。その苦しみから立ちあがろうとし、女性のためのトラウマヒーリングの活動に参加しはじめたところから、彼女の闘いは始まった。女性たちが、自分たちの経験した恐怖や苦しみを打ち明け合い、共有すること。そこから、女性達の輪は広がり始めたのだ。そこには、権力や富や、支配欲などは何も関係ない。ただ、自分たちが女であること。奪われ続けることにうんざりしていること。「平和が欲しい」ということ。その祈りが繋ぐ絆だった。もちろん、うんざりするほどのややこしい諍いや、もめ事があったことも書かれている。しかし、「平和が欲しい」という女性たちの座り込み、非暴力の訴えは、男たちが為し得なかった停戦を実現したのだ。

このリーマさんたちの闘いは、女として全く他人事ではない。日本でも選挙が始まって、何やら鼻息荒く威勢のいいことを言う男たちの声が聞こえる。穿ちすぎなのかもしれないけれど、私はその興奮ぶりに、何やら欲望の気配を感じてしまうのだ。私たちが共有すべきなのは、この本に書かれているような苦しみと、平和への祈り。どんなにカッコよく聞こえる議論も、そこを踏まえたものでなければいけないと心から思うのだ。だから女は甘っちょろいんだよ、などという言葉を、この本を読んだ上で吐ける人は、誰もいないはずだ。女性もそうだけれど、男性にもぜひ読んでもらいたい一冊である。

ちなみに、『闇のダイヤモンド』(キャロライン・B・クーニー 武富博子訳 評論社ミステリーBOX)という本には、このリベリアから難民としてアメリカに避難してくる一家の話が描かれている。リベリアの元大統領が、ナオミ・キャンベルに大きなダイヤの原石を贈った話は有名だが、『闇のダイヤモンド』も、ダイヤという欲望の塊が重要な役割を果たしている。この本を読んで、あのリベリアからやってきた親子の苦しみが、余計に胸に迫る。

2012年9月刊行
英冶出版

by ERI

かかしのトーマス オトフリート・プロイスラー ヘルベルト・ホルツィング絵 吉田孝夫訳 さ・え・ら書房

最近、かかしが立っている風景をあまり見なくなりました。鳥対策も、最近はCDを並べてつるしたものとか、おっきな目の模様のバルーンみたいなもの(正式名称はなんていうんだろう)だったりで、手間のかかるかかしは、あまり立てないのかもしれません。あの、田んぼの中にぽつねんと立っているかかしって、何だか切ない。「自分があのかかしだったら・・」と想像してしまう。人の形をしているせいでしょうか。寂しくないかなー、とか。誰にも「御苦労さん」とも言ってもらわずに、それでもじーっと畑や田んぼの見張りをしているのが、切なかったり。個人的には、面白キャラクターかかしより、そういう「いつから立ってるんだろう・・・」と思わせるようなかかしが好みです。(って、かかしの好みなんて生まれて初めて考えたんですけどね)

この物語のかかし、トリビックリ・トーマスくんは、そんな正統派(?!)のかかし。キャベツ畑の真ん中で、帽子にマフラー、着古した上着を着て畑を見張ることになるのです。彼はとっても生真面目で誠実。生まれながらに自分の役割をよくわかっています。存在が先か、意識が先か、なんてことを連想させるほど哲学的で考え深いトーマスくんの眼にうつるのは、自分の影に空に雲。キャベツを食べにやってくるウサギたち…振り返ることも出来ない、身動きできないトーマスくんは、限られた視界の中でいろんなことを感じ、考えます。その目にうつる風景は、人間の眼とは少し違います。だって、彼はかかしなんだから。人間なら、一日自分の影を見つめて、大きさが変わっていくのを「不思議だね」と思うなんてことは、普通はありません。自分の体を叩く雨から逃れることもせずに打たれ、そのまま虹を見上げる、なんてこともありません。蜘蛛が自分の目の前で巣を作るのをじーっと見ていることもないのです。トーマスの見ている風景は、私たちが見ているそれと、同じで違う。定点カメラの長回しの風景を時折テレビで見ると、一輪の花が咲いて枯れるまでが人の一生のようにダイナミックで驚くことがあります。あの視点に近いのかも。影が生まれ、消えていく。雲がやってきて飛び去っていく。それをじーっと見つめる彼は、目の前のすべてを「見届ける」のです。そりゃもう、哲学的にもなりますよね。皆、自分の眼の前を通り過ぎ、生と死をくり返していくのだから。トーマスくんの眼の前にやってきては去っていくものが、また、なんと美しく描かれていることか。トーマスくんがこの世で過ごしたのは、人間の尺度で言えばほんの短い間なんですが、心を込めて全てを見届ける彼にとっては無限にも感じられるほどのものだったのかもしれません。そのせいで、彼は「旅に出たい」と思うようになったのかもしれないな、と思うのは、「月日は百代の過客にして・・・」なんて連想してしまう日本人だからかもしれません。

その彼の願いは、唐突に叶えられます。その消え方には、訳された吉田さんも書いておられますが、びっくりしました。でも、プロイスラーがトーマスくんにこの旅立ちを与えたのが、何だかわかる気もするのです。大地に生まれてそこで生きて旅立っていく、それはとても自然なことだから。この物語の背景は、農場です。種まきから収穫まで、人は一生懸命働いて、大地が野菜を育てて実らせます。トーマスもその営みの一つなんですよね。太陽が昇って沈んで、一年を繰り返して…大きなサイクルの中で、トーマスは自分の命をまっとうしたのです。一生懸命働いて、誰にも振り返られることなく、ぽつねんと自然を見つめた彼に自分の気持ちを重ねてしまう物語でした。読んだあと、彼の孤独が沁みて、その分彼の眼に映ったものが綺麗すぎて、何やら人恋しくなってしまうような物語でもありました。子どもたちは、この物語を読んでどう思うのかな。大人が読むようにトーマスくんに人生を感じる、なんてことは無いかもしれないけれど、人以外のモノに心を重ねてみる、ということを何となくでも感じてくれたらいいなと思います。それが、大切な、目に見えないものを感じる第一歩だと思うから。

プロイスラーは、『クラバート』や『大どろぼうホッツェンプロッツ』が有名ですが、私は『クラバート』という物語が、とても好きなんですよ。あの本の表紙を見ただけで、くらっと異世界に迷い込みます。この本の挿絵も『クラバート』と同じヘルベルト・ホルツイング。彼の描くトーマスの表情の、なんて素敵なこと!わらで出来ているのに、ちゃんと表情がある。この挿絵を見るだけでも価値があります。しみじみと滋味溢れる一冊です。

2012年9月刊行
さ・え。ら書房

by ERI

女性のいない世界 性比不均衡がもたらす恐怖のシナリオ マーラ・ステンドール 講談社

妊娠・出産というのは、非常にプライベートで個人的なことであると同時に、いろんな慣習的な圧力が加わってくるものなのである。「跡継ぎを生む」という発想は、その最もたるもの。でも、そのために胎児を中絶する、という発想は私自身は聞いたことがなかった。でも驚いたことに、アジア諸国、特に中国とインドでは男子を望むための中絶が多く、非常に男女の比率が不均衡になっているという。この本は、世界における性比の不均衡の歴史と、現在における問題点、これから起きてくるだろう悲劇について論じた本だ。物知らずの私には、驚く話ばかりだった。そして、はたと気がついた。以前読んだ『私は売られてきた』(パトリシア・マコーミック 代田亜香子訳 作品社)という本で知ったインドにおける少女買春の根っこが、この男女比の不均衡にあったことを。この本によると、この男女比の差は、もとをたどると植民地支配というものと結びついているという。構造的な支配構造が、一人の少女の人生を徹底的に痛めつけるということを、繋がった点と線が教えてくれた。なんともやるせない、でも他人事ではない問題なのだ。だって、私も子を生んだ母なのだから。

子どもを生むということは、とても個人的なことであり、一生に何度もない大切な機会だ。だから、子どもを生む時の選択―例えば産むか否か、もしくは中絶などの決断も、あくまでも判断材料は自分とパートナーの都合を判断材料にすると思う。その自分の決断と社会との有機的な繋がりまでは、おそらくあまり考えが及ばないと思うのだ。だって、お腹を痛めて生んで育てるのは自分自身なのだから。その決断がいかに社会に影響を及ぼすか、などということを考えて子どもを生む人はいないと思う。どんなに少子高齢化が問題、なんて言われても、「じゃ、私が」なんてことにはならない。絶対。ところがだ。あくまで個人的だと思っているその決断が、実は社会的な圧力に左右されているものだったら・・・そう思うと、背筋がひやりとする。この本によると、産児制限は、インドにおけるイギリスの政策から始まったものなのである。つまるところ経済の論理が優先された結果なのだ。日本も実はその例に漏れない。第二次大戦後に、アメリカの支配下にあった時、人口調整のモデルケースに選ばれたのが日本だった。その手段は人工中絶だ。その結果、戦後のベビーブームは団塊の世代だけに留まった。そのモデルケースが韓国に、そして中国に応用される。国をあげての産児制限、つまり人工中絶の推進が行われたのだ。そして、伝統的に「跡取り」という慣習があることから、中絶は女児が多くなる。超音波で性別が判明するようになったことが女児の中絶を加速させた。妊娠中絶はお金になることから、医師たちもそれを黙認していったのだ。その結果、中国では男女の比率が100対120にまで拡大しているという。この数字には、正直びっくりしてしまった。個人の選択のはずが、実は社会的な圧力に左右されてしまう。まず、その怖さを思う。「男子が欲しい」というのは、女性自身の選択というよりは、「跡取りを」という期待にこたえようとするものだろう。そして、個人的なよりよいお産の選択が、今度は社会的な問題となるというのも、当たり前だけれども事実なのだ。

男女比の差は、様々な問題を生みだす。結婚難もそうだし、社会全体が暴力的な傾向を帯びることもある。中絶が日常的に行われることも衝撃だったが、この本を読んでいて一番恐ろしいと思ったのは、ゆがんだ男女比が、女性を危険に陥れることだ。誘拐や売春の強要。少女の頃に売り買いされること。外国人花嫁や一妻多夫。(一妻多夫というのは、例えば一人の女性を兄弟で妻にすることだったりする。げげっ・・・と私なぞは思うが、実際あることらしい)初めに書いた『私は売られてきた』の主人公の少女は、何の知識も与えられぬまま、ネパールから3000ドルたらずのお金と引き換えに売春宿に売られてしまうのだ。あの本を読んだときは、なぜネパールから?というところがわからなかったのだが、この本を読んで疑問氷解だった。インドでは女児が少ないからなのだ。だから、他の国からだまし討ちのようにして連れてきて売春させる。負の連鎖が、少女の人生や尊厳を踏みにじる。負の連鎖は、世界のグローバル化によって多数の国に影響を与えるのだ。人は、すぐに構造的な支配行動の奴隷になる。その引き金をひくのは、いつもむき出しの欲望だ。そのしわ寄せは弱者に集中する。しかし、性と出産というデリケートな問題は、一旦負の方向に転がり出すとなかなか歯止めがきかないように思う。どうすれば良いのかという積極的な提言は、残念ながらこの本にはない。しかし、この問題が、実は他人事ではなくて、私たちひとりひとりの意識の持ち方にあるのだということを、知っておく必要があるように思う。アメリカでも日本でも、今は女の子が欲しいという親が多い。でも、それはもしかして自分たちの「女の子ってこういうもの」という思い込みや、都合のよさが判断基準になってはいないか。この本の問いかけを読んで、そうかもしれないと考え込んでしまった。そういう私も、可愛いお洋服を着せたいから女の子が欲しかったくちなのだもの。

日本でも、新しい出生前診断が始まることで、色々と議論が広がっている。これから、もっともっと新しい技術が開発・応用されていくだろう。そのときに、「自分にとって最善と思われることはなんでもやる」という親の都合がすべてに優先されるべきなのか否か。難しい問題だと思う。誰にだって、一生の問題だものなあ。自分の最善を追求したくなる気持ちはわかる。しかし、だ。一応子育てを一通りしてきた身から言うと、子どもというのは、全く自分の思い通りにはならない存在である。産む前に思っていた親の思惑などは、まずもって粉々に粉砕される。子どもは親が想うよりも強烈に自分を持っていて、どこからか運命のようにやってきて、大きくなったらどこかに行ってしまうものだと思うのだ。こんなことを言うと語弊があると思うのだけれども、猫を拾うのと子どもを生むのは、似たところがあるなと思ったりしてる今日この頃なのだ。全くの偶然で我が家にやってくる猫たちは、それぞれ強烈に個性を持っている。でも、どんな猫も、縁があって一緒に暮らしているうちにかけがえない愛する家族になる。日本語はその点、やはり素晴らしい。「子どもは授かりもの」と言いますもんね。子どもをこれから産む人と、産んで育てた経験のある人とでは、この言葉の腑に落ち方に落差があると思う。そこのところを、大人が、私たちの年齢の女が発言していくことは、本当はもっと大切なことなのかもしれないと、改めて考えてしまった一冊だった。

2012年6月刊行
講談社

by ERI