夏に、ネコをさがして 西田俊也作 徳間書店

細やかな、心の隅々まで満たされるような物語だった。大好きだった祖母のナツばあが、急に亡くなってしまった。あまりに突然の別れの日から、ずっと怖い夢の中にいるような気持ちの佳斗と両親は、ナツばあが住んでいた古い家に、引っ越すことにする。ナツばあは、テンちゃんというネコを飼っていたのだが、佳斗たちが越してきてすぐに、いなくなってしまう。ちょうど夏休みの佳斗は、姿を見せないテンちゃんを探して、町中を探して歩く。

私も猫を探して歩いたことがあるのでよくわかるのだが、どこにでも入れる、小さい体の猫の目線で町を見ると、見慣れたと思っていた町が摩訶不思議なダンジョンに思えてくる。ビラを作ってあちこちに貼らせてもらったり、見知らぬ人にも声をかけて手渡ししたりすると、「見かけたら知らせますね」と、思いがけない優しさや心遣いに出会ったりもする。佳斗もテンちゃんを探して歩くうちに、いろんな人と出会う。ナツばあの知り合いや、思い出にもたくさん出会うことになる。

この物語に登場するひとたちは、みんな心のうちに大切な別れや喪失を抱えている。ネコさがしを手伝ってくれる蘭も大好きな猫のメ―を亡くしている。そして、蘭のおばあちゃんは、戦争のときに、供出させられてしまった猫のことを、ずっと忘れられないでいる。それは確かに痛みだが、愛する人や生き物を失った痛みや悲しみは、人が人であることそのものだと、この物語を読みながら思えてくる。佳斗は、いなくなってしまったテンちゃんに導かれるように町を歩き、心のなかのナツばあに出会い続ける。そこにはもういなくても、愛したものたちの話を一緒にすることで、心のなかにひとつ、あかりがともる。物語とは、そんなあかりを、たくさん胸にともすことかもしれない。死者とともに生きることで、人は幾重にも重なる豊かな時間を生きるのだ、きっと。佳斗が、探していたテンちゃんと再会できたのか、それは物語を読んでいただきたい。親子で、ゆっくり読みたい一冊。

 

いのちあふれる海へ 海洋学者シルビア・アール クレア A・ニヴォラ おびかゆうこ訳 福音館書店

タイトルの通り、それはそれは色鮮やかな海の生き物たちが溢れる本です。有名な海洋学者であるシルビア・アールの伝記絵本なのですが、絵が本当に素晴らしくて、いつまでも見ていたくなります。シルビア・アールは、12歳のときに移り住んだフロリダの海の生き物に魅せられ、海洋学者になりました。この本は、シルビアが海で出会ってきた生き物の姿に焦点をあてて描き出しています。生きていることは、こんなに美しいんだと感じさせる絵です。だからこそ、シルビア・アールの海に対する愛情が溢れるように伝わってくるのです。海の大切さ、そこに生きる命の美しさを目で体感することで、読み手がその愛情を共に感じることが出来る。どんな理屈よりも、心に訴える本の作り方だと思います。

いやもう、何度も言いますが、絵の力が半端ないのです。クジラが縦横無尽に泳ぎ回る絵だけでも、いつまでも見ていられそうなほど見事なんですよ。クジラというと、大きく悠々と泳ぎまわるイメージしかなかったんですが。こんな風にお茶目に泳ぎまわる生き物だったんですね。そして、海底に輝く星のような命のきらめき。エンゼル・フイッシュと一緒に泳ぐシルビアの眼差しの優しいこと。この本には、たくさんの美しいものがいっぱいに詰まっています。それだけに、後書きで作者のクレアさんが書いておられる海に対する環境破壊のあれこれが胸に刺さります。私たちの命は、多様性を基本にしたありとあらゆる存在に支えられているはず。しかし、どうも私たち人間は、競争や成長と称して、その多様性を潰していくほうに走っているような気がしてなりません。「地球の青い心臓」は、次世代の子どもたちのもの。原発の問題も含めて、未来にツケを残さないのが良識ある大人の取る態度だと思うのですが・・・。子どもにも、そしてたくさんの大人の人たちにも読んで欲しい本だと思います。

2013年4月刊行

福音館書店

緑の精にまた会う日 リンダ・ニューベリー 野の水生訳 徳間書店

今日はクリスマス。眼に見えないものに思いを馳せる日です。私は特別な宗教をもたない人間です。でも、クリスマスという日に、世界中でたくさんの祈りが捧げられることは、とても大切なことだと思います。愛する人の幸せを願って。生きていることへの感謝をこめて。不条理に生きる私たちは、祈らずにはいられない。この本は、眼に見えない大切なものと再会を果たす物語。厳しい冬のあとで春が芽吹くような希望の物語です。

ロンドンに住む少女のルーシーは、大好きなおじいちゃんがいます。おじいちゃんは田舎の農園で、それはそれは見事な野菜を作る「緑の手」を持っている人なのです。そして、おじいちゃんの農園には、緑の精のロブが住んでいます。お気に入りの場所にいて庭仕事を手伝ってくれるロブ。彼の存在を信じ、その気配を感じるのは、おじいちゃんとルーシーだけ。ところが、大好きなおじいちゃんは、突然帰らぬ人となります。農園は売り払われ、つぶされてしまう。ルーシーは、ロブに手紙を書きます。どうか、私のところへ、ロンドンへ来てくださいと。その願いにこたえるかのように、歩きだしたロブ。彼の、ロンドンまでの旅が始まります。

ロブというのは、どういう存在なのかをルーシーに伝えるおじいちゃんの言葉がいいんです。

いいかい、ロブは雨と風からできている、ひざしと、そしてひょうからも。それに、光と闇からも、…(中略)…過ぎ去った時間、訪れる時間からも、ロブはできているんだよ。考えてみりゃあ、わたしらだっておんなじだ。みーんな、おんなじなんだよな

命の船を、ともに浮かべようとする、意志のようなもの。どんなときにも歩き続けてきた、そして歩き続けていこうとする、古い古い記憶のようなもの…ロブはそんな存在なのかと思います。でも、この物語で大切なのは、ロブが何者であるかを解き明かすことではありません。ただ、感じること。彼がいるおじいちゃんの農園が、どんなに満ち足りて美しいか。ルーシーが、農園から森に入ってしまう夜のシーンが、とても印象的です。闇に抱かれて感じる、ぴりぴりするような精神の覚醒は、体の中に眠る動物であったころの自然への記憶そのもののようです。そして、その楽園を失ったルーシーとロブの悲しみ。ロブの旅は困難を極めます。道の途中でロブが出会ったのは彼がまったく見えない人、利用しようとする人、見えても化け物扱いして追いだす人。あちこちでサンドバッグ状態になってしまうロブの旅…その苦しさを読んでいると、酸素が足りなくなった金魚のような心地がします。その中でも、ロブが見えているのに、一緒にいる友達に馬鹿にされて、見えないことにしてしまった女の子のことが、心に刺さりました。本当に大切なこと、自分の心が感じる声を無視してしまうことは、あとになるほど心を荒らします。私にも、何度も何度もそんなことがあったから…わかるのです。だから、ここを子どもたちに読んで欲しい、そう心から思いました。一番大切なことは、心の声に、見えないところに潜んでいるのです。私たちは、いろんな大人の事情で、その声を無視しようとする。その結果がどうなるのか、何度歴史の中で経験しても同じことを繰り返す。でも、声なき声は、ちゃんと胸の中に潜んでいるのです。どんなにひどい目にあっても、やっぱり人と共に命を育てようとするロブのように。この物語は、ほんとはどこにでもいる、誰も知っているはずの、でも、人がすぐに忘れてしまう存在の痛みと希望を描き出そうとしています。

わたしは道を歩むだけ。どこへ行くかは、たどりつくまで、わからない。

そう。わからないけれど…ルーシーと、ロブの再会の旅のように、子どもたちが何度も大切な存在とめぐりあって、秘密を共有してくれたらいいなと心から思います。

「おークリスマスツリー おークリスマスツリー みどりのきよ とわに
よろこびのよるに ほしひとつひかり みどりごうまれん
おークリスマスツリー おー クリスマスツリー」

大好きな、マーガレット・ワイズ・ブラウンの『ちいさなもみのき』の一節です。
子どもたちに、祝福がたくさん舞い降りますように。
Merry X’mas!!

2012年3月刊行

 

エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦 梨木香歩 新潮社

梨木さんが実際にエストニアを旅したのが、2008年。『考える人』での連載などを経て、一冊の本として上梓されたのが、今年の9月末だ。実に4年の間、梨木さんは「内的な旅」(『考える人 2012年秋号』)を続けてらしたのだ。この本で日程を追う限り、それは短い9日間の旅なのである。しかし、そこから始まる梨木さんの精神の旅は、ご自分が根源的に抱える孤独のありかをめぐる遥かな旅だった。そして、その魂の旅は、私の心のアンテナをびりびりと震わせた。読み進めるごとに私がこの本に貼ったメモつきの付箋が、アンテナが震えた痕。梨木さんという渡りの心性を持つ方から発信された示唆は、「個」を超えた力となって私達にある方向を教えてくれるような気がする。

エストニアはバルト三国のなかの一つであり、他の国に入れ替わり立ち替わり支配され続けた歴史を持つ国だ。その複雑さがかえって開発を遠ざけたことと、森羅万象に神が宿る信仰を持ち続けた古い記憶から、自然が手つかずの状態で保たれている。日本では絶滅してしまったコウノトリが、人間とともに暮らしている土地柄なのだ。エストニアで、梨木さんは度々郷愁という言葉を使う。そう・・・何だか私も、読みながら自分の幼い頃に夏を過ごした田舎のことを思い出したりした。深い深い、迷い込んだら二度と出てこられないような山を歩いた記憶。そこを父と歩いて滝まで行った遠い日・・・こんなこと、覚えていたんだと思うような映像が浮かんだりした。父の田舎は、たった一度梨木さんが映像として見た、コウノトリが日本で暮らしていた場所の近くである。夕方には、赤とんぼで空が真っ赤になった。子どもだった私の体をとんぼの大群が包んで通り過ぎていったときの風圧は、生々しい記憶だ。梨木さん一行をげんなりさせた蛭じいさんは、その昔私をまむしの瓶詰で脅かした田舎のおっちゃんにそっくりだし(このくだりには大爆笑してしまった)。それに、養蜂家のおじいさんの語る、不思議な力を持つ女性の話は、『西の魔女』とそっくりだし。自分の記憶や梨木さんの著作の記憶とこのエストニアという国は、なんと重なることだろう。でも、そこは日本ではない。日本が失ってしまったものが色濃く漂う土地で、その昔近所にいたような人たちと出逢いながら、梨木さんの思索は、失われたもの、この世界からどんどん消え去っていく人間以外の生き物へと視点が移り変わっていく。森と、鳥と、動物をこよなく愛する梨木さんは、非常な痛みを持ちながらこの世界を見つめている。その痛みは、自分が人間であることへの罪悪感に近いと思う。

こんな罪悪感を感じる必要などない、という人もいるだろう。私たちは経済という大きな網に組み込まれているのだから仕方ないじゃないか。自分だって便利な生活の恩恵に預ってるんでしょ?そんな罪悪感は偽善でしょ、とか。にやにや笑いで「あんたも共犯だから」と共に汚れることを押しつけられたとき、私たちは口をつぐんでしまいがちだ。しかし、この世界の羅針盤は、他人の、もしくはこの世界に生きるものたちの痛みを自分のことのように感じる人、つまりは罪悪感を原罪のように抱える人たちによって指し示されるように思う。少なくとも、私にとってはそうだ。日本ではカワウソもコウノトリも、オオカミもトキもいなくなってしまった。チェルノブイリの事故のせいで人が強制的にいなくなった土地は、今、絶滅しかけている動物たちの聖地になっているらしい。そういうことを、常に繊細なアンテナで感じ続け、考え続ける梨木さんの心の旅は、今自分がいる場所を考えるきっかけに満ちていると思う。やたらに扇情的に流れてくる情報や、憎しみをあおるような愛国主義が垂れ流される中で、渡っていくコウノトリの視点を持つこと。支配され続けた歴史の中で、憎しみに流されなかった人たちのこと。忘れないために、何度も私はこの本を読むだろう。そのたびに、またこうして考えたことを書いていくと思う。梨木さんが書くことによって発信されたことを、私は受け止めて、受け止めようとしてこんなに拙いものを書く。正直それが何の役にたつんだろうと時々思ったりすることもあるのだけれど・・・梨木さんが抱える「病理のように」と自分でおっしゃる遥かな想いのようなものが自分にもあるなと思う。例え蟻さんのような歩みでも、私が世界の片隅でこんなものを書いているのは、ささやかなフィードバックを通じて「個」を超えようとする願いなのかもしれない。

・・・と、私のようなちっぽけなブロガーにも大風呂敷を広げさせるような、とにかくいろんな要素がぎゅっと詰まった本だった。ただ、梨木さんの見事な風景描写を読むだけでも楽しいし、不思議な幽霊(?)まで引き寄せてしまう、旅の磁力に吸い込まれてもいい。このエストニアと、フィンランドは絶対に行ってみたい。いや、行くぞ、と言葉に出して言霊を引き寄せよう。行くぞ!!

※2012年秋号の「考える人」に、この本に関連したロングインタビューが掲載されています。

2012年9月刊行

by ERI

 

 

 

雪と珊瑚と 梨木香歩 角川書店

「滋養」という言葉があります。ちょっと古めかしい匂いがしますが、「栄養」というのとは、ニュアンスが違う。しみじみと心と体にしみ込んで、命を永らえさせるもの。弱っていたところを修復してくれるもの。そんな意味合いの言葉かと思うのですが、この物語を読んでいる間、この言葉が何度も頭に浮かびました。
主人公は、雪という赤ん坊を抱えて一人生きていこうとする、シングル・マザーの珊瑚。彼女自身もシングルマザーの母を持つのだが、ネグレクトでほぼ放置されて生きてきた。頼る人もない孤独な身の上で乳飲み子を抱え、途方にくれている彼女の目に、「赤ちゃん、お預かりします」の張り紙が映った。思わず飛び込んだ珊瑚は、そこでくららさんという年配の女性に出逢う。くららさんは、『西の魔女』のおばあちゃんのように、傷ついて行き場のない珊瑚と雪を受け入れる。その出逢いから、珊瑚の人生が広がり始める―・・・。
『西の魔女が死んだ』は、「魔女修行」というおばあちゃんの教えが、ラストでまいに見事なカタルシスを与える、エブリデイ・マジックの物語でした。この物語では、その魔法は、「食」に込められています。この、くららさんの作るご飯が、それはそれは美味しそうなんです。元は修道院にいたというくららさんだから、派手な料理は一切なくて、お大根を煮たお汁で作ったスープとか、小松菜と水菜の炒めたのとか、お野菜をメインにした、しみじみした料理。それが、珊瑚の心を満たし、雪の身体を作っていくのが、読んでいてまっすぐ伝わってきます。珊瑚は、ネグレクトの中で育っているので、これまでの人生の中で、全面的に誰かに心を許した経験がない。苦しい経験をしてきたからこそのプライドもある。でも、このくららさんという人は、長年信仰に生きてきた懐の深さがあって、そんな珊瑚の生き難さを、ふわりと受け止めて放さない。『西の魔女が死んだ』の、まいとおばあちゃんの関係もそうでしたが、保護者と被保護者(この言葉は適切ではないかもしれないけれど、どうも他に思いつかなかった)の関係でありながら、お互いの尊厳を損なわず、向き合える―そんな難しい在り方を、梨木さんは見事な呼吸で描きます。支え合うけれども、べたべたはしない。この凛とした空気感は、読んでいてとても心地いい。その中で、珊瑚は、手さぐりで自分の生き方を探していきます。
子どもを産む、育てる、というのはそれまでの生き方や価値観が、がらりと変わる時なんですよね。
「どんなときでも、自分さえしっかり頑張れば大抵のことは何とかなる。現に何とかなった、自分の力でやってきた、という自負と確信のようなものが珊瑚にはいつもあったのだ。」
ずっと気を張って生きてきた珊瑚の人生に、見事に欠けていたもの。それが、「食」です。家に帰っても食べるものがない。飢えまで経験するような苛酷さの中で、いつも疎外感に付きまとわれてきた珊瑚が、初めて人の手から暖かい「食」を手渡される。それがきっかけとなって、珊瑚は人に「食」を提供する仕事をしたいと思うようになる。唐突に思われる、この珊瑚の方向転換は、「母」になったことのあるものなら、理屈ではなくわかることだと思います。母になるということは、たった一人の子の母になると同時に、この世界に生まれている命を強く意識するようになること。たくさんの人に守られていないと生きていけない赤ん坊を持つことで、これまで見えていなかったことが見えるようになる。満たされなかった「食」への想いが、命への慈しみとなって珊瑚の中で膨れ上がっていく過程が、「カフェを開く」という実際的な道のりの中で実直に描かれていくのが、とても興味深くて、まるで自分がカフェを開く準備をしているような気持ちで読みました。そして、この珊瑚が開いたカフェの、なんと居心地のよさそうなこと!!木々の中に埋もれるように建っている民家を利用したカフェ。静かで、ゆったりした時間が流れているここに、私も美味しいコーヒーと食事をしにいきたいと切実に想ってしまった。近くに、こんな場所があればどんなにいいかしらと思う。
・・・と、こうして書いていると、いいことづくめのサクセスストーリーの物語のようですけど、梨木さんなので、そうはいきません。ネグレクト。子を愛せない母、そして愛していても、我が子を信頼できない母。父親の不在。宗教。祈り。食の安全に対する不安。アレルギー。簡単には答えの出ない問いを、梨木さんは丁寧に静かに投げかけます。しかも、梨木さんは、ラスト近くで、この珊瑚の生き方そのものをガツンと否定するような爆弾まで用意するんです。絶対に、ただの「いい話」では終わらないんですよね。真面目に、真摯に向き合えば向き合うほど、葛藤も苦しみも大きい。そこから決して目をそらさない厳しさが、慈しみと同居する。そこが大きな魅力です。そして、その葛藤があるからこそ、ラストの雪の言葉が、胸に迫ります。この無垢な言葉に込められた命の輝きに、ほろほろと心がほどけていくようでした。

梨木さんは実は危うい方なのかもしれないと思います。もちろん小説を書いたり、芸術に人生を捧げようとする人たちは多かれ少なかれ、危うさを抱えているものだと思うけれど。梨木さんは、世間のイメージとは裏腹に、実は非常に激しいものを抱えてらっしゃる方なのではないかと思うんですよ。梨木さんが、鋭敏なアンテナでこの世界から受け取ってらっしゃることは、きっと言葉に出来ることの何万倍もある。その感覚と思考の奔流に押し流されて、どこか遥かな場所に行ってしまわれるのではないかと思う・・・そういう意味での危うさを感じる時があります。深い教養と知性の間に、その危うさが顔をのぞかせるのが、また梨木さんの魅力ではあるけれど、時として置き去りにされてしまうような気持ちにさせられてしまうこともあったりします。『沼地のある森を抜けて』から、『ピスタチオ』まで、私はしばしばそんな想いに囚われていました。でも、この本は、そんなトロい私を置き去りにせず、様々なことを語りかけてくれた。大好きな『西の魔女が死んだ』の、続編のような雰囲気もあって、そこも嬉しかった。発売と同時に買って、何度も何度も読み返してしまいました。きっと、これからも何度も読み返すことになると思います。まだ新刊なので、ネタばれになるようなことは書けないので・・もう少し時間が経ってから、またもう一度詳しくレビューを書いてみたい作品でした。(ほんまに書けよ!)

2012年4月刊行 角川書店

 

by ERI