聖痕 筒井康隆 新潮社

筒井康隆に出会ったのは中学生のときだったろうか。あれからウン十年・・・彼は全く枯れることもなく、ますます豊饒に過激に爆弾を投げてくる。何度も書いたけど、やっぱりこの一言を言わせてもらおう。筒井康隆は天才だ!!

彼は一時フロイトにえらく傾倒したらしいし、作品にも色濃くそれが現れ、欲望というのは彼の大きなテーマの一つでもあった。そして今度はそれを逆手にとって大逆転をかましたような作品で、度肝を抜かれてしまった。これは、ほんとに筒井康隆にしか書けない小説だ。主人公の貴夫は絶世の美貌を持って生まれてきたが故に、5歳のときに変質者に性器を切り取られるという恐ろしい目にあってしまう。うわわ、こんな酷いことがこの世にあってよいものか。メラメラと義憤にかられた冒頭で、思えばすっかり主人公の貴夫に私も魅入られてしまったらしい。しかもそこから、この小説はどんどん逆転ホームランを打ってくる。人は性に振り回される存在だが、彼にはその根源たる性欲がない。しかも、類まれな美しさを持ち、裕福な家に生まれ、知性にも優れた彼は、すべてのコンプレックスからも自由なのである。その人生の煌びやかで自由なこと。彼は美しい女性に囲まれて「食」を追求した人生を送っていく。米光一成氏が文春の書評で「現代版源氏物語絵巻」とおっしゃっていたが、ほんとに清々しいくらいのモテっぷり。しかし、私はこの小説は、喪失した場所から語られる物語という意味で、どちらかというと「平家物語」に近いんじゃないかと思う。

貴夫の恐ろしい体験には遠く及ばないが、実は私も先日、右手の人差し指をざっくりと切ってしまった。2針ほど縫っただけで済んだので大した怪我ではないのだが、それでも家事は出来ないし、顔を洗うのもやたらに不便だ。何をするのも普段の二倍以上の時間がかかる。そうして片手の自由を一時的にだが失って見えてくるのは、我が家のいびつさなのだ。主婦という名のもとに、何もかもをこの右手がしていることの不自然さ。いや、笑い話ではなく、これは誠に困ったことだ。この脆さを作っているのは、メンドクサイことはやりたくないという夫の我儘とメンドクサイから何もかもやってしまう私の片意地の張り方の両方で、誠にどうしようもない。どうしようもない、ということがまざまざと見える。この何かを失った所から見えてくるものというのは、良くも悪くも確かに真実なんだと思う。

この物語は、日本が高度経済成長からバブルに向かい、浮かれ騒ぎに狂乱した時代を経て、二年前の3.11の震災までを貴夫の生涯とともに描きだす。日本人が海外でブランドものや土地を買い漁ったり、土地の値段を釣り上げて気が狂ったようにお金を使ったりした時代。その真ん中にいて、ただ静かに「食」という美だけを求めて、その他の欲望から一切無関係な貴夫は、たった一人視点が違う。それは、彼が「失ったもの」であるからなのだ。貴夫という静かな「聖心地」の存在が映しだす過去は、筒井氏が縦横無尽に繰り出す古語混じりのSF擬古文(?)の文体と相まって、きらきらしくも華やかに、人間の欲望を浮かべて輝いて流れていく。まさに「 おごれる人も久しからず、 唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、 偏に風の前の塵に同じ」である。滅んでゆく平家を語るのは、光を失った琵琶法師。そして、現代の滅びは、欲望を失った貴夫の視点から語られ、資本主義というリビドーが終末期に達したことを暗示する。最後に金杉君という文芸評論家(彼は筒井氏自身を思わせる・・・)が終末論を語るのだが、いやもう、ここは全部引用したいほど、今という時代の不安の正鵠を射ていると思う。「この大震災がまさに終末への折り返し地点」であり、これから私たちはリビドーを捨てて「静かな滅び」に向かうべきなのだ、と力説するのである。

小説家は時代を映す。彼らは、目に見えないものを見、耳に聞こえない音を聞こうとする人たちだから。最近、昔に読んだ漱石の文明論が気になっていて、読み返そうと思っている。どこまでも拡大を続けようとして踊り続ける私たちの姿を、漱石は既に明治時代に予言していたんだなと、最近痛いほど思うのである。筒井康隆は、時代を何周も先に走ってきた人。その彼が提示してきた終末論が、やたらに身に沁む読書だった。偉い政治家の人たちは、きっと読まないだろうけどね・・・。

2013年5月刊行

新潮社

 

泣き童子(なきわらし) 三島屋変調百物語 参之続 宮部みゆき 文藝春秋

宮部さんの物語は、読みだしたらやめられなくなります。昨日は夏休みに入って初めての週末。選挙も重なり図書館の人出も最高潮で、くたくたに疲れて。ところが、寝る前にちょっと、と思って読み始めたら、やめられない。とうとう深夜の丑三つ時まで読みふけってしまいました。

このシリーズも3巻目になりました。人の抱える暗闇と不思議を描くこの物語はますます深く、恐ろしく道なき道に分け入っていくようです。物語は、時代を映します。特に宮部さんのように人の心の闇を特に追い続ける人は、特に敏感に「今」の私たちの闇を感じとるでしょう。先日読んだ『ソロモンの偽証』も、その闇に真正面から向き合う物語で読み応えがありました。けれど、この三島屋のシリーズは時代物なだけに、その闇がすとん、と胸に落ちてくるように思います。江戸時代という、私たちの根っこに繋がる場所のあちこちに棲息している闇が見事に今と呼応する、その闇の色がより濃くなっていることに、私は肌が粟立つ想いがしました。そう思って、それぞれの短編が書かれた時期を見ると、2篇目の『くりから御殿』が書かれたのが、2011年7月。震災からあとに書かれた物語たちでした。ああ・・そうなのか、とこの物語たちに対する共感の想いが深くなりました。

『くりから御殿』は、幼い頃に鉄砲水で故郷を失い、みなし子になってしまった男の話。両親も、親族も、中の良かった友達や従妹たちもすべて失ってしまった長坊の寂しさ、辛さが身に沁みます。40年経っても、その辛さ、「置いてけぼり」になってしまった心の傷は癒えることはなくて、ずっと、ずっと心の奥底で血を流している。大人になっても、幼い長坊は、ずっと「くりから御殿」で失った人を探し続けていたんですよね。宮部さんの描く生き残ってしまったものの苦しみは切なく胸を打ちます。生き残ってしまった、という罪悪感。その苦しみは、朽木祥さんの『八月の光』にも大きなテーマとして掲げられていましたし、V・A・フランクルは、『夜と霧』で「最もよき人々は帰ってこなかった」と書きました。そして、今も何万人もの人たちがその苦しみを背負っているのです。その彼に、なんとか寄り添おうとする女房の姿に、宮部さんの切なる願いがこもっているようでした。

そして、非常に恐ろしかったのが「泣き童子」。漱石の『夢十夜』の第三夜、石地蔵のように重たい子をおぶって歩く男の話を連想させる物語です。全くしゃべらない三つの幼子が、特定の人を見ただけで身も背もないほど泣き叫ぶ。その子は、人の罪に感応するのです。人を殺めた自分の娘は、自分の罪を泣き叫ばれるのが怖くてその幼子を殺してしまった。そのことを知りながら、父も見て見ぬふりをした。しかし、長い月日が経ってその娘が産んだ子は、またもやしゃべらぬ子。見て見ぬふりをした罪は、もっと大きな厄災になって帰ってくる。私は、この物語が他人事だとは思えないのです。私も、過去にたくさんの見て見ぬふりしたことがある。そして、今もそうです。昨日参院選があって、自民党が圧勝しました。私は、彼らの原発推進が恐ろしくて仕方がないのです。今を快適に暮らすために、未来を生きる子どもたちに原発のゴミを置いていく傲慢さが怖い。故郷を失った人たちが何万人もいることを忘れたような顔をして、「美しい日本」などと何故言えるのだろう。私たちは大きな罪を犯しているんじゃなかろうか。そんな気がして仕方がない。未来の子どもたちに、その罪を糾弾されたとき、私たちはなんと答えればいいんだろう。「―じじい、おれがこわいか」という泣き童子の問いかけが、私には震えるように恐ろしい。でも、そんな風に思う人間は、マイノリティに過ぎないんだと痛感してしまう選挙でした。「死んで白い腹を見せ、ぷかぷか浮きながら腐ってゆく鯉の眼」を持つ老人のように、その罪が自分に帰ってくるならまだ良いけれど。未来の子どもたちに背負わせるのは間違っている。「小雪舞う日の怪談語り」の、橋の上から異界にいってしまった女性のように、母親なら自分の命よりも子の行く末を願うもの。その人としての道を選ばなくなった私たちは、いつか「まぐる笛」に出てくる化け物のように、己を喰い果てていく道を選んでいはしまいか。宮部さんの冴えに冴えた筆が描く恐怖が、まざまざと胸に突き刺さる選挙の夜でした。

分別ざかりの大人たち
ゆめ 思うな
われわれの手にあまることどもは
孫子の代がきりひらいてくれるだろうなどと

いま解決できなかったことは くりかえされる
より悪質に より深く 広く
これは厳たる法則のようだ (くりかえしのうた)

これは、ツイッターで流れていた、茨木のり子さんの詩の一節。江戸時代に培われた日本人としての財産を食いつぶすように私たちは生きている。私たちが次の世代に残すものは、ゆめゆめ厄災や負の遺産であってはならないのだと。冒頭の「魂取が池」は、「この世のあちこちにあるに違いない、だけどわたしたちには知りようのない、けっして近づいてはいけない場所」に自分の欲望や浅知恵で踏み込んでしっぺ返しをくらう話です。私たちは、自分も含めて大きな闇を抱える存在です。そのことを忘れてはならないんだと。宮部さんの物語を読むたびに思います。読んでいる間は面白くて面白くて夢中になるんですが。読後にその重みがずしっとくるのがさすがの出来栄え。九十九まで続ける予定らしいので、こちらも長生きしてずっと読みたいシリーズでした。

2013年6月刊行

文藝春秋

わたしは倒れて血を流す イェニー・ヤーゲルフェルト ヘレンハルメ美穂訳 岩波書店

とっても痛い物語です。冒頭の自分の親指の先を切り落としてしまうシーンのリアルさに、正直びっくりしました。実は私も自分の親指の先を、ほんのぽっちりですが切り落としたことがあって、その記憶も相まって頭がくらりと・・・。うーん、痛い!でも、本当に痛いのはその指先よりも、心なんですよね。脈打つ痛みは、強く肉体を意識させます。自分の体に血が巡っていることを強烈に感じさせるという意味で、痛みは自分が生きている証でもあります。特に女は痛みと共に生きているようなもの。その身体性と心が呼応して強く脈打つ、少女の感性が鋭く描かれています。鍵は存在不安。そして、「自分」は何なのか、という大きな問いかけもこの物語の底に流れているように思います。そして、母と娘の葛藤と繋がりも。だからこそ、エキセントリックな主人公・マヤの中に潜む弱さと強さに、心が共に揺れるのです。

主人公のマヤは、美術の授業で電動ノコギリを使っているときに、誤って自分の親指の先を少し切り落としてしまう。その出来ごとにショックを受けたマヤは、離れて暮らしている母に連絡するが、返事がない。その翌日、離婚後の取り決めに従って母を訪ねたマヤだが、母は駅に迎えに来ず、家にもいないのだ。途方にくれたまま、マヤは母のいない家で一人で過ごすはめになってしまう。この母の不在は、ショッキングな事件にショックを受けているマヤをますます不安にさせてしまう。大学の心理学の教授である母は、「ママ」と呼んで無防備に甘えられるような人ではなく、「なにからなにまで、分析して、計画して、話しあわなきゃならない」性格の持ち主。肉体的な接触が苦手で、子どもをあやす、ということも出来ない。非常に知的でありながら、目の前にいるマヤの気持ちを考えることができない人なのだ。心理学の教授のくせに、普通に人と会話することは苦手な母。でも、幼いマヤが限りなく投げかける「なぜ?」という問いかけに、すべて答えようとする母。マヤは、そんな母に愛憎半ばする複雑な気持ちを抱えている。

痛みを抱えて母の愛情が欲しかったときに突き付けられた母の不在に、マヤが抱えている存在不安が間欠泉のように噴出してマヤを翻弄します。ネタばれになるのではっきりとは書きませんが、マヤの母親は、ある心理的な症候群の持ち主なんですね。彼女のマヤに対するときのベクトルの違い、ボタンを掛け違えるようなすれ違いは、そこに原因がありそうです。ただ、この物語は、母と娘の葛藤を、それだけに帰納させるものではありません。マヤは、自分の前から姿を消してしまった母のヤナについて、とことん考え抜き、その行方を追います。この、まっすぐ母に相対することは、マナの心から血を流させますが、同時に母が「母」という役割をもつ前に、「ヤナ」という一人の人間であることを感じさせるのです。初めて知る母の苦しみ。コミュニケーションをとることが難しい母の孤独。不在であるからこそ初めて見える母の姿は、マヤを打ちのめしますが、子ども時代を経て新しい関係を母と築くための、産みの苦しみでもあるのだと思います。

母と娘というのは、切っても切れない絆で結ばれる厄介な存在です。このマヤのような愛情の欠落感や存在不安は、決して特別なことではなく、誰もが心に抱えている痛みではないでしょうか。マヤの娘としての痛みは、私にも覚えがあります。そして、同時に母でもある私は、マヤの母としての苦しみもやはり身に沁みます。そして、自分が症候群という類型の中にいることを知ったときの、自分がいなくなってしまうような苦しさもわかるような気がするのです。身内に心の病をもつものを抱える人なら、これは誰しもが思うことだと思うのですが―こうですよ、と言われる症状を医師にあれこれ説明されても、どれだけその関係の本を読んでも、何やらつるつるの壁を目の前にしているような気がしてしまうことがあります。上手く言葉にするのは難しいのですが。たった一つしかない心の発する声が届く前に消えてしまうような、目の前で扉を閉められるような疎外感があるんですよね。簡単に片づけられてしまうことへの、不安かもしれません。(反対に病名がつくことで安心する気持ちもあったりするのが、これまた複雑なんですが)マヤの母であるヤナが、自分のアイデンティティとして自覚していたことが、実は症候群のせいだったかもしれないと思ったときの存在不安も、私にはひしひしと伝わってきたのです。だからこそ、そんなお互いの中にある不安を、たった一人のよるべない人間同士として見つめ合う二人の姿に心が震えました。その上で結びあう、これまでとは違う母と娘の絆が生まれるラストも、良かった。

「あなたに助けてほしいと思っています。理解できるように助けてほしい。ひとりでは無理だから。」

このヤナの声を、マヤは確かに聞いたのです。そのことが、爽やかな風のように心を吹き抜けていきます。ここから、二人は「自分は何なのか」という問いかけ、つまり人生そのものに新しい一歩を踏み出すのです。この物語には、ほかにも色んな人間同士の繋がりが出てきます。親友であるエンゾ。恋人になるジャスティン・ケース。(このジャスティンは、偶然なんだと思うんですが、メグ・ローゾフの『ジャスト イン ケース 終わりのはじまりできみを想う』(理論社)の主人公を連想させます)  年上の姉ごのようなセーラ。彼らが、ハリネズミのようなマヤをそっと包む気配もいい感じ。まあ、これはブラックなケレン味たっぷりなこの物語の中での安定剤なのかもしれませんが(笑)スプラッタな出だしで投げ出さず、最後まで読んでほしい。これも、岩波のSTAMP BOOKS のシリーズ。こんな風に好き嫌いがはっきり別れるだろう作品を持ってくる岩波の気風の良さに脱帽です。

2013年5月刊行

岩波書店

 

ゲンタ! 風野潮 ほるぷ出版

嬉しい『ビート・キッズ』シリーズの新刊です。なんと、ビート・キッズのヴォーカルのゲンタが、小学生の見知らぬゲンタと入れ替わってしまう物語。キレのいいテンポで、読後感も爽快。しばし暑さを忘れて読みふけりました。

小学校5年生のゲンタは、林間学校で行ったキャンプ場で高いところから落ちて気を失う。同じころ、キャンプ場の近くの高原でライブをしていたビート・キッズのヴォーカル、ゲンタもステージからジャンプしてそのまま意識を失ってしまう。そして、気がついたときには、二人は入れ替わっていた!というお話です。

大阪弁バリバリで、いらん笑いを取りにいっては滑る25歳の子どものようなゲンタと、少々ひねくれていて、こまっしゃくれた小学生のゲンタ。その二人が入れ替わって、右往左往しながらもとに戻ろうと悪戦苦闘。そのゲンタをサポートする25歳と11歳のサトシ、というなんとも憎い構成になっています。表のゲンタと裏のゲンタ―というと、どっちが表やねん、ということになるんで紛らわしいんですが。この二人、性格は違うんですが、どことなく「今」の自分に行き詰まり感があるんです。25歳のゲンタは、自分の家庭の事情が原因で、ライバルだったバンドに差をつけられてしまったのが面白くない。一方、11歳のゲンタは、母親が離婚するといって家を出ていったのを止められなかった自分が悔しくて仕方ない。もやっとしていた二人の心が入れ替わって別の体に放り込まれたときに、その体で体感することが、ビンビンとハートをゆさぶっていくのがとっても新鮮で楽しいんです。まさに、心のビートが伝わってきます。そして、大阪弁の飛び交うノリの中に、たまらん胸キュンが不意に現れるのに、私のような大阪もんは、特にやられてしまいます。

ツボは、25歳のゲンタのダメダメっぷり(笑)自分の携帯の番号ぐらい覚えときいや、とか。なんで11歳のサトシに全部おまかせやねん、とか。ものすごツッコミました(笑)いやもう、ほんまに「あかんやん」なゲンタなんですが、こういうアホで憎めんキャラを書かせたら、風野さんはほんまに上手いです。でも、その25歳のゲンタの刻むビートと音楽が、11歳のゲンタと彼を「歌う喜び」で繋いでいくんです。11歳のハートのゲンタが、たくさんのオーディエンスの前で25歳の体で歌う。そして、25歳のハートのゲンタが、サトシだけしかいない道端で、11歳の体で歌う。その時に訪れる至福の、無垢な喜びの手触りがまっすぐ胸に落ちてきます。

「歌うことは、喜びなのだ。声を出すことは―言葉を、心を伝えることは、喜びだったんだ。それを相手に伝えることも大事だけど、自分に伝えることはもっと大事だったんだ。」

この生きる喜びが、ビートになって心に伝わってくる。音楽の喜びって、今、ここにいる喜びに直結するんですよね。それを物語で伝えてしまう風野さんの言葉たちが気持ちよくて、ここ数日いろんなことで凹んでいた心に風穴があきました。子どもも大人も、先を見て歩くことばかりです。役に立つ大人にならなきゃいかんとか。どんなスキルを身につけるかで将来が変わってくるとか。そして、いざこの年齢になってみると、先に待っていることって、そんなに好いとは思えないあれこればかり。おいおい、ってそれこそツッコミたくなってしまう。そう思うと、私たちは限りなく「今」を失っているのかもしれないのです。音楽は、そんな私たちを「今」に結びつける営み。その輝かしい瞬間が、この物語には煌めいています。

そして、もうひとつ嬉しかったのは、最後に出てくるライブ会場が、万博のもみじ川広場だったこと。うふふ。地元です。夏のもみじ川というと、FM802のライブかなあ、なんて思うのも楽しい。自分のよーく知ってる場所が出てくると臨場感たっぷりで萌えます。久々にライブ行きたいなあ~と、音楽好きの血が騒いだ一冊でした。

2013年6月刊行

ほるぷ出版

by ERI

 

 

家と庭と犬とねこ 石井桃子 河出書房新社

石井桃子さんの書かれる文章が好きです。時折、いろんなテーマで絵本を探したりすることがあるのですが、そんな時でもふと引き込まれるのは、石井さんのテキストのものが多い。文章が伸びやかで暖かく、しかも凛としているんですよね。『たのしい川べ』や『くまのプーさん』、ブルーナのうさこちゃんのシリーズ(あのうさこちゃんのおしゃまな物言いが大好きで、どれだけ子どもたちに読んできかせたことか!)。『おやすみなさいのほん』・・・石井さんの本に触れずに大人になるのが難しいほど、たくさんの子どもの本に関わってこられた石井さん。戦前、戦後を通して、まさに日本の児童文学の基礎を作ってこられた方の一人でしょう。偉大な、という言葉が相応しい方なのです。でも、この本に溢れているのは、地に足をつけてひたすら自分の足で歩いてこられた女性のひたむきさです。迷いも苦しみもありながら、誠実に力いっぱい生きてこられた石井さんの息吹が、このエッセイたちから感じられるようで、私はそこに心打たれてしまいました。

実は、この本は二度読みました。石井さんの膨大なお仕事量や、かつら文庫での活動は知っていたのですが、宮城で一時期農業をしてらしたことは知らなかった。このエッセイを読んで、少々意外に思った私は、買い込んでそのままになっていた「新潮(2013年1・2月号)」の『石井桃子と戦争』を一気に読みました。これは、尾崎真理子さんという方が、晩年の石井桃子さんご本人から聞いたことと資料を突き合わせて、戦前から戦時中、戦後すぐにかけての石井桃子さんのことを詳細に書かれたものです。これを読んで、石井さんがどれだけ日本の児童文学の中心におられたのかを知って、改めて圧倒されました。この論文は、何しろ戦争というものが大きく児童文学にのしかかっていた時代のことでもあり、これから単行本として詳しい資料が付随されて検証されていく性質のものだと思います。でも、犬養家との縁や、石井さんが関わった作家や学者さんたちの名前を見ただけでも、まさに歩く近代文学史そのもの。戦前から、今につながる児童文学の礎を築いてこられた方なんだと。戦前に東京にあったブルジョア階級の若者たちの集まりなどにも参加して、びっくりするほど多彩なお仕事と人間関係に、気おされて頭がくらくらする想いでした。

でも、この『家と庭と犬とねこ』の石井桃子さんは、真黒になって労働し、何年も自分の作ったお洋服を着て、旅に出ても残してきた猫のことがひたすら気になったりする、とても慎ましやかな方なんです。「新潮」には、私が疑問に思った、なぜ石井さんが宮城で農業を始められたのかということについての、野崎さんなりの推測が書かれていました。それは戦時中に石井さんが関わった子ども向けの戦争推進作品との関連から、石井さんの贖罪の気持ちがあっての行動だったのではないかという推論でした。私にはその真偽はわかりません。でも、とにかく、石井さんがどのような気持ちで戦争の間を過ごされ、終戦を迎えられたのかを想い、暗然たる気持ちになったことは確かです。そんなことを考えつつ、思いつつ、もう一度私はこの本に帰ってきて、一からこの本を読みなおしました。そして改めて思ったことは、石井桃子さんという方の心の波長に、私はとても惹かれるんだという、誠に単純な一点でした。どんなに偉い方でも、物語やエッセイを通じて心の友達になれる、その幸せったらありません。集団就職で出てきた若い人たちに何度も会いにいく石井さん。ひなまつりのお道具を大切に大切にしまっておく石井さん。縁があってやってきた傷を負った猫を、最初はこわごわながら、そのうち親友のように大切に介抱した石井さん。このエッセイにあふれる、ひとりの人間としての石井さんが、私はとても好きなんです。静かに自分を深く見つめながら生きてらっしゃる、いい意味での不器用さと一徹さに、心が寄り添います。

「・・・目のまえにたくさんあるものは、人間はだいじにしなくなりがちだ。そこで、このごろは、本もなるで消耗品のようなありさまになってしまった」

「人間には、まだわからない科学的な法則―たとえば、体質とか、気質とかで、ぴったり理解しあえる人間とか、物の考えかた、感じかたがあるような気がする。・・・この自分の波長を、ほかの人のなかに見出すことが、人生の幸福の一つなんではないかしらと、私はよく考える。」

「人生をゆっくり歩けば、ひとりや二人は、きっとこんなにわかりあえる友だちや作家にぶつかるのではないかと思う」

共感すること。出会う人や、本との一期一会を大切に思うこと。石井さんの言葉のひとつひとつに、ああ、その通りだとしみじみ思う。そして、そんな風に出会いを大切にするのは、石井さんがいつも「ひとりでいること」をとても大切にしてらしたことと深い関わりがあるように思います。誰にも流されずに、ただ自分で在り続けること。日本の児童文学の中心にいて、どんなに華やかなお仕事をされても。どんなにたくさんの人たちに囲まれても。時代や風潮に流されず、ずっと「石井桃子」であり続けた石井さんのスタンスが、たくさんの、いつまでも輝き続ける作品を生み出された根本にあるのではないか。もしかしたら、そこには戦争を体験されたことも関わりがあるのかもしれない―とも思ったりします。物語という、たったひとりの心に寄り添うものは、戦争という大義名分の塊とは対極にあります。時代という大きな流れの中にあっても、たったひとりの自分の足で立ち続けること。それだけが、雪崩を打って間違った方向に進んでいこうとする暴力を押しとどめることが出来る。例えば、子どもの頃からの友達であるプーさんや、うさこちゃんがいる国と、戦争をしたいと思う人はいないでしょう。「ひとりの力」を静かに育む物語の力を、石井さんは強く信じてらしたのではないか。このエッセイを読んで、改めてそう思ったことでした。次は、『幻の朱い実』を読もう。そう思っています。

2013年5月刊行

河出書房新社

 

発電所のねむるまち マイケル・モーバーゴ ピーター・ベイリー絵 杉田七重訳 あかね書房

何度も何度も繰り返し語られねばならないことがある。例えば、児童文学の大きなテーマの一つである戦争。ヒロシマ、ホロコースト、強制収容所・・・これまで、幾多の物語が様々な苦しみの中の「たったひとり」の物語を紡いできた。時々、「何度も使い古されたテーマで物語を書くのは、進歩がないのでは」などと言う人もいるが、それは誠に間抜けな楽観主義である。私たち人間は間違いを犯す動物なのである。間違えまいとして考えに考えた挙句、大きな落とし穴に落ちたりすることもある。間違える動物である私たちが出来ることと言えば、何度も何度も、間違えた記憶を反芻し、なぜ間違えたのか、これから間違えないためにはどうしたらよいのかを、真剣に考え続けることくらいしかないと思うのだ。そして、その記憶は、たったひとりの心に寄り添うものでなくてはならない。私たちは、他人の苦痛に鈍感だ。特に、顔の見えない人たちの苦痛は、無かったものとして葬り去ることが出来る。だからこそ、「ひとり」の、名前と顔を持つ人間の心を描き切ることでしか、私たちはその苦しみを共有できないのだと思う。だから、物語は、何度も何度も書かれねばならない。『八月の光』の後書きで、朽木祥さんが、おっしゃっていた言葉。「二十万の死があれば二十万の物語があり、残された人びとにはそれ以上の物語がある」のだから。

原発の問題もそうである。チェルノブイリに、3.11の震災でのフクシマと、短期間に私たちは大きな事故を繰り返した。あれからたった2年と少ししか経たないのに、もはやマスコミも政治家も、原発の問題を論点にしなくなっている。むしろ論点にすることがタブー視されるような空気までも漂っている。今議論を尽くさずして、いつ尽くすのだろうと思うのだけれど。前置きがとても長くなってしまったけれど、この『発電所がねむるまち』は、原発で失ってしまったものを描く物語だ。表紙に描かれているような、生きる喜びがいっぱいに漲っている美しい湿原が、死の土地に変わってしまう物語だ。

この表紙でロバに乗って走っている少年が、主人公のマイケル。物語は、大人になったマイケルが、生まれ育った海辺の町を訪ねるところから始まる。少年の頃、その町には大きな湿原があった。ひょんなことから、マイケルは、そこに鉄道客車を置いて暮らしているぺティグルーさんと友達になる。ペティグルーさんは夫が事故で死んでしまったあと、一人で湿原で暮らしている。ロバと三匹の犬と、ミツバチと畑仕事、そしてたくさんの本と暮らしているペティグルーさんの客車の、なんて居心地よさそうなこと。いつぞや、ドキュメンタリーでトーベ・ヤンソンが夏の間暮らしていた島の家を見たことがある。小さい、まさに小屋のような家なのだけれど、その小ささが魅力的だった。生きていくのにこれだけあれば十分、という取捨選択を間違いなく選び取る知性と果断さ、そしてユーモアが溢れているような家。さすが、ととても惹きつけられたのだが、このペティグルーさんの鉄道客車の家も、そこに匹敵するほど魅力的だ。もう、ぜひ、そこはこの本を見て頂きたいと思う。ペティグルーさんは、湿原の中で、賢い動物のように過不足なく生きている。その人となりが伝わってくる。

マイケルと彼の母は、ペティグルーさんと友達になり、そこでとても幸せな時間を過ごす。広大な湿原と走る動物たち。降るような星空。幸せな日々―。ところが、ある日、その湿原に原発計画が持ち上がる。初めは反対していた人たちも、段々原発賛成にまわりはじめ、とうとうペティグルーさんは湿原から追い出されてしまうのだ。そんな犠牲の上に作った原発だったのに―久しぶりに帰ってきたマイケルが見たものは、使い古されてただのコンクリートの塊になってしまった原発と、かっての輝きをすべて失ってしまった故郷の姿だった。

「だからお願いです。もういちど考えてください。機械は完璧ではありません。科学も完璧ではありません。まちがいは簡単に起きる。事故は起きるのです。」

私もそう思う。どんなに安全基準を徹底しようとも、間違いは簡単に起きる。だって、その機械を管理しているのは人間なのだもの。自分の手で客車を燃やし、うつむくペティグルーさんの姿に、フクシマの事故で故郷を失ってしまった何万人もの人たちの姿が重なる。よしんば事故が起こらなくても、原発は廃炉にするのにも非常な手間と時間がかかる。そして、その後、また更地にしてしまえるわけでもない。放射能の半減期は人間の寿命など吹き飛んでしまうくらいに長いのだから。例えばコンクリートの石棺で覆い、何百年どころか何千年、何万年もの時を待たねばならない。しかも、コンクリートは劣化する。チェルノブイリのように、何十年ごとにより大きな石棺を作り続けねば放射能は隙間から洩れる。しかも、使用済みの核燃料をどうするかという問題もある。すべてが棚上げなのである。そこまで考えると、果たして原発は安い電力を産む、などと脳天気なことを言ってよいのだろうかと思う。今だけのコストパフォーマンス(この言葉は大嫌いだけれども)と引き換えにするものは大きすぎないか。この物語を読んで、ますますそう思ってしまった。この物語は、本当に「今」読まれるべき物語だと痛切に思う。

2012年11月発行

あかね書房

by ERI