カメラにうつらなかった真実 3人の写真家が見た日系人収容所  エリザベス・パートリッジ文 ローレン・タマキ絵 松波佐知子訳 徳間書店

第二次大戦中、アメリカ西海岸に住むすべての日本人と日系アメリカ人が強制収容所に収容され、「敵対外国人」として暮らさなければならなかったことを、当時収容所の写真を撮影した3人の写真家たちの写真を中心に、「日系人たちになにが起こったのか」を伝えた本。

ある属性を有している人々を、「強制収容」するということが、どういうことなのかを、この本は非常に的確に、詳しく教えてくれる。収容所に向かう日系人の一家が、小さな子どもまで荷札のようなものを付けられ、こちらを見つめている。荷札は識別タグで、そこには番号が書かれている。人間を番号で管理しようとする、ナチスの強制収容所と同じやり方だ。強制収容の告示のなかの「ペットの同行は一切認めない」という一文にも凍り付いた。小さな家族の一員を置いていかねばならないということ。それは子どもたちにどんな苦しみと悲しみを残したのだろう。想像すると胸が痛くなる。

挿絵も印象的だが、やはり三人の写真家たちの手によって撮影された写真たちが、違う角度から日系人たちの表情を切り取っていて、興味深い。同じ日系人の宮武東洋が同胞として撮影した写真たちは、写す側と移される側の距離感がほとんどなくて、表情が豊かだ。それに対して3人目の写真家、アンセル・アダムズの撮影した日系人たちは、皆笑顔、笑顔だ。「忠誠を誓うこと、善良な市民であること、真面目で働き者であること」をアピールする必要があったからだ。この笑顔は、収容所から解放されたあとも、「モデル・マイノリティ」として、日系人の人々を縛ったという。この「モデル・マイノリティ(マイノリティの手本)」という言葉は、「マイノリティ(少数派)でありながら、社会的に平均よりも成功しているグループ」を指す言葉で、アメリカにいるアジア系の人に対して、よく使われるそうだ。アジア系だからといって、皆が皆働き者で、従順なわけはないのだが、そうあらねばならないという呪縛がずっとアジア系の人たちにはかかっている。つまり、「白人の眼鏡にかなう者」としてふるまうことを求められているということで、これもまた差別の現れであるということ。なるほどと深く納得した。そして、「忠誠を誓うこと、善良な市民であること、真面目で働き者であること」という三つの価値観は、アメリカ社会のみならず、今の日本の社会の中でも、同調圧力として存在するのではないかと思う。では、私たちは誰の眼鏡にかなうために、そうふるまっているのだろう?

そして、この強制収容という極悪非道なことが、同じく第二次大戦中に日本国内においても行われていたということを、忘れてはいけないと思う。中国や朝鮮の人々を強制連行して労働させていたところがたくさんあったのだ。アメリカ政府は、日系人の強制収容に対して公的な謝罪の文書に署名し、賠償金を支払った。しかし日本は、きちんと過去に向き合うことすら出来ていない。そして、今、私たちが生きている日本のなかにも、外国人を強制収容している場所があり、人権を踏みにじる行為が行われている。そのことも合わせて考えてみる助けにもなる本だと思う。数日前に我が国でも可決した、障害を持つ人や、認知症の人などが使うことが難しいことを無視して、マイナンバーカードを国民皆保険と結びつける強引な法案のこと。人権や生存権を踏みにじる行為があからさまに行われているにもかかわらず、それを無視して、改悪とも言われる入管法を、成立させようとしていること。これもまた、数の力による暴力なのではないかと思う。この本に書かれていることは過去のことではなく、すべて「今」と繋がっていることなのだ。

かげふみ 朽木祥作 網中いづる絵 光村図書

 

「ヒロシマ」「原爆」をライフワークにしておられる朽木祥さんの最新作。

妹が水ぼうそうにかかったせいで、一人で広島にある母の実家で夏休みを過ごすことになった拓海は、近くの児童館の図書室で、白いブラウスに黒のスカート、三つ編みの透き通るような色白の女の子「澄ちゃん」に出会う。しかし、心惹かれたその子とは、雨の日しか出会えない。少しずつ話をするようになった拓海は、女の子が「影の話」を探していること、石けりやらかげふみをして遊ぶことが好きなのに「長いことあそんでない」ことを知る…。

澄ちゃんは「影」をずっと探している。『八月の光 失われた声に耳をすませて』(小学館、2017)の連作短編にも、「影」はいろんな形で、失われた命や声を呼び戻す手がかりとして登場していた。あの日さく裂した「空に現れた二つ目の太陽」は、たくさんの人を、石段や壁に、影だけ残して焼き尽くした。その影たちは長い年月の間に薄れ、人々の記憶からも消え去ろうとしている。この物語は、その影たちを、体温と顔のある、ひとりの人間として立ち上がらせ、温かい血を通わせる。儚げな澄ちゃんに、拓海はほのかな思いを抱く。一人で、慣れないところにやってきた拓海と、一人でずっと影を探してきた澄ちゃんは、どこかで心が共鳴したのかもしれない。近くにいると、日向の温かい匂いのする少女。いつも図書室にいる謎めいた澄ちゃんと、本好きな拓海は本を通じていろんな話をする。

この物語は、朽木さん自身の作品も含めて、たくさんの文学作品が登場する。『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス)のタイムスリップという、ファンタジー要素も重ねあわされ、この物語自体が、時間と空間を旅する小さな船のようだ。

よそからやってきた拓海と、すぐに仲良くしてくれた広島の友人たちと、拓海は川で古いボタンや「石けり」を拾う。それは、あの日に逝ってしまった子どもたちが残したもの。広島もまた、あの日の記憶を幾重にも隠し持つ船のようだ。いっしんに遊ぶ子どもたちのなかに混ぜてもらって、自分の「石けり」を拾ってもらった子も、きっと嬉しいだろう。ここにいるよ、という小さい声が聞こえるようだ。ふっと、見知った顔のなかに、いつもと違う、澄ちゃんのような子が遊んでいるかもしれない。そんな優しい空間が、この物語には広がっている。原爆の話はこわい。恐ろしい。子どもだけではなく、大人でもそう思ってしまいがちだ。

「うまいこと言えんのじゃけど、あの日いきなりおらんようになった人らのことをね、遺族らは、こわいとは思うとらんのよ。ただただ慕わしいっていうか……」

「『こわい』という言葉と『かわいそう』という言葉は、なんだか似てる」という拓海の言葉にはっとさせられる。自分とは違うものを私たちは畏れるが、それは異質なものを排除したい、という気持ちの現れ、無意識に作る心の壁なのだ。物語は、その壁を越えてゆくもの。本という、時間と空間を超えたタイムカプセルと共に長い年月を過ごした澄ちゃんは、拓海の心に刻まれて、これからを生きる子どもたちの希望に、未来を照らす光になっていく。何度も読んで切なくて美しい二人の物語に浸りたい。「この本は、あなたの前の扉です。/扉をあけて、「澄ちゃん」に出会ってくださいね。/わたしたちひとりひとりの「命」について、考えを深めるきっかけになりますように。」というあまんきみこさんの帯文もまた、心に沁みる。

共に掲載されている「たずねびと」は、小学五年生の国語教科書に載っている短編。「さがしています」という『原爆供養塔納骨名簿』のポスターに、「楠木アヤ」という自分と同じ名前を見つけたことが縁で、広島を尋ねた少女の物語だ。このふたつの物語を合わせて読むことで、私たちはかけがえない「記憶」への旅をすることができる。朽木さんが後書きで書いておられるように、ウクライナ侵攻により、子どもたちにも戦争は遠くのことではなくなっている。核もまた、力の顕示や政治の道具として使われることが多くなってきた。それがいかなる惨禍をもたらすのか。改めて心に刻むべきだと思う。