ルゥルゥおはなしして たかどのほうこ作・絵 岩波書店

本当にもう、隅から隅まで可愛い、高楼さんの世界がいっぱい詰まった本なのだ。小さな女の子のルゥルゥが、自分の部屋で可愛がっているぬいぐるみを主人公にしてお話をする。ぬいぐるみたちはそれが嬉しくて、いつも彼女がちりん、と鈴の音をたてて部屋に入ってくるのを心待ちにしている。このルゥルゥの部屋がこれまた可愛いこと、可愛いこと!この本自体、表紙から見返しの小花模様、目次も表題紙もすべてとても凝っていて、本の扉を開いて可愛いお話の部屋に入っていくような気持ちになれる。子どもたちは、この本の扉を開いてルゥルゥのお部屋のぬいぐるみたちの隣にそーっと座り、綺麗なカーテンのかかった窓から素敵なお庭を眺めてルゥルゥのお話を聞けるのだ。私が少女の頃に思い描いた幸せというのはこんな姿形をしていたんじゃないのかしらと思うほど、この本にはいっぱいに喜びが詰まっている。お話を聞く喜び、自分でお話を作る喜び。お話の中に入っていく喜び、そっと本を閉じて物語の世界からそっと帰ってくる喜び。ルゥルゥのお話は子どもらしく行ったり来たりするし、途中で思いつきが挟まったりするのだけれど、それがまた友達とのおしゃべりみたいで楽しい。盛大なツッコミ覚悟で書いてしまうが、私の中に眠っている(何年眠ってるかは秘密)女の子がこの物語の中で満足のため息をつくのが聞こえるのである。   『時計坂の家』『11月の扉』『緑の模様画』。私の大好きな高楼作品の少女達は現実と幻想の世界とのあわいにいて、二つの世界をかろやかに行き来する。彼女たちにとって「おはなし」は特別なものであり無くてはならないものだ。きっと高楼さんご自身もそんな少女だったのだろう。高楼さんも訳した『小公女』のセーラも、自在にお話を語る少女だった。『11月の扉』では主人公の爽子が物語の中で『ドードー鳥の物語』というおはなしを書く。ぬいぐるみと11月荘の住人を重ねて描くそのおはなしは、劇中劇のように物語の中での現実とリンクして爽子の内面を光と影を色濃くして語っていくのだが、このお話のルゥルゥは、爽子よりもっと幼いので、まだ物語に影は生まれていない。ルゥルゥの語るペパーミントの海の色のようにきらきらと透明でどこまでも幸せなのだ。こんなに曇りのないきらきらの幸せが言葉で紡げることに驚いてしまう。岡田淳さんといい、高楼さんといい、絵が書ける方の文章は独特のきらめきがある。ルゥルゥの部屋から見えるペパーミントグリーンの海の色は、『ルチアさん』(フレーベル館、2003)が持っていた水色の玉と同じような色なのだろうか。『ルチアさん』が私は大好きなのだが、あの物語の中の女の子も、確かルゥルゥという名前だった。何でもこじつけたがるのは、本読みの悪い癖かもしれないが、『ルチアさん』のルゥルゥが抱いていた遙かなものへの憧れは、この『ルゥルゥおはなしして』のルゥルゥにも溢れているように思う。

2015年2月刊行

トランプおじさんと家出してきたコブタ たかどのほうこ にしむらあつこ画 偕成社

音読、というのが結構好きです。声に出して読むと、黙読では味わえない言葉のリズムの面白さも味わえるし、とっても簡単に俳優気分も味わえます。その昔、とても長い間私は子どもたちに本の読み聞かせをしましたが、それは多分子どものためと言いながら、半分以上自分の楽しみだったんですよね。今はそれが出来なくてとても残念。特に、この本のように言葉が生き生きと脈打っているような物語に出会うと、「声に出して読みたい病」が再発して、困りました。子どもたちと、あれこれ突っ込んだりして笑いながら、読みたかったなあ。

まず、登場人物の名前が面白い。動物の言葉がわかるトランプおじさんは、ほとんどいつも本を読んていて、イルカーネポポラーネという白いずんどうの、ソファでいっつもごろごろしてる犬と暮らしています。この「イルカーネポポラーネ」っていうのを、「いるか~ね ぽぽら~ね」ってまず引き延ばして読みたいじゃありませんか。まったり暮らしている二人のところに、トゥモロウというブタが転がり込んできます。トゥモロウは、モンドリ・ドリーさんというおばあさんと一緒に暮らしていたのですが、家族だった動物たちが次々といなくなったのがおばあさんのせいだと思い込んで家出してきたのです。そこで、トランプおじさんとイルカーネポポラーネは、いなくなったカモとワニとテンと小鳥がどうなったのか、調査することになったのです。

このトゥモロウというブタさんの微妙な人(?)となりといい、トランプおじさん&イルカーネポポラーネの、のんびりした探偵っぷりといい、だあれも偉い人や「ああしましょう、こうしましょう」という人が出てこないのが最高に楽しいんですよね。たかどのさんの軽快な言葉のリズムに乗って、つるつる物語の中を滑っていく楽しみ。ところどころに「ふくみがあったのです」「じくじたる思いがしたのでしょう」なんて、大人の言い回しが出てきて、うまくジャンプする場所を作ってあるのもいい。こういう言葉を知って、自分の頭に書きこむ楽しみって、読書の喜びの一つですよね。このあたりの言葉遣いの呼吸が、さすがです。

猫のシマモヨウにそそのかされて生まれたトゥモロウのモンドリ・ドリーさんへの疑いは、実は妄想なのです。でも、調査しているうちにトランプさんたちもその妄想にどんどん巻き込まれていっちゃうんですよね。そのあたりにハラハラしながら、でも、読み手には彼らの妄想が、妄想であることがちゃんと伝わるように書いてあります。だから、子どもたちは、トゥモロウの妄想に皆が巻き込まれる物語を安心しながら楽しめるし、その一部始終を客観的に眺めることにもなっているんですよね。言葉というのは魔力があって、表に見えているものだけを使って、どんな風にも物語を作ることが出来る。それって、ほんとは怖いことなんですよね。例えば・・・ですが。皇太子妃の雅子さんに対する報道なんかを見ていると、マスコミの姑根性を凄く感じてしまうんですよ。ご病気が長くて自分のことを語る機会がないだけに、どんどん勝手に物語が作られてしまっている気がします。心の病を抱えた家族に対して、これは暴力に近いよなあと溜息が出る。そして、こんな風に誰かを追い詰めることを、自分もしてしまうかもしれないと怖くもなる。だから、トゥモロウが作った物語が、ドリーさんの実際の姿からどんどんかけ離れていくのを読みながら、「おーい、帰ってこいよ~!」と子どもたちが思ってくれたら嬉しいな、とこの物語を読んでいて思いました。「これはね、じぶんのよわいこころにつかまっちゃったってことだとおもうんです」という最後のトゥモロウの言葉に、つるつるっと楽しく読みながら、ぽーんと飛びこんで、「ああ、よかった~」って思える。たかどのさんの物語の中に張り廻らされた何気ない仕掛けに、「うんうん」といっぱいニコニコしながら頁を閉じました。子どもと一緒に読むと、ほんとに楽しいだろう一冊です。にしむらあつこさんの絵も、とっても可愛い。エプロンの似合うトゥモロウが最高です。

2013年4月

偕成社

 

 

十一月の扉 高楼方子 千葉史子絵 講談社青い鳥文庫

十一月のうちに、この本のレビューを書きたかったのだけれど、気が付いたら12月に突入してしまった(汗)秋が深くなって風が冷たくなると、この物語が読みたくなります。年末に向けてあれこれしなきゃ、と想いながらぼんやりしたりして、あっという間にすぎてしまう11月。でも、この物語の中で爽子と過ごす11月は、感受性の塊のような14歳の心が紡ぐきらびやかなタペストリーです。高楼さんの筆は、彼女の心のひだを一つ一つ色鮮やかに描き出します。憧れ。ほのかな恋。背伸び。少女の感性は憧れとおなじくらい失望も経験します。恋心は、ため息と苦しみを。家族と離れた日々は、同性である母への複雑な想いも具現化したりします。物語の中に迷い込んだような十一月荘の日々は、様々な色で爽子を照らし、その心を染め上げるのです。少女の心の光も影も見つめながら、この作品世界は瑞々しい「美を感じる喜び」に満ちています。だから、爽子と一緒にこの物語の空気を胸いっぱいに吸い込みたくなるのです。

中学生の爽子は、ある日偶然に素敵な家を見つけます。それは「十一月荘」と名付けられた下宿ができるらしい洋館。急に父の転勤が決まった爽子は、3学期までの二ヶ月間、そこから学校に通うことを思いつきます。思いがけずその願いがかなった爽子は、十一月荘で、女性ばかりの個性的な住人たちと過ごすことになるのです。

まず、この物語は、とても重層的な構成になっています。まず、舞台となる十一月荘が、少女小説のエッセンスがぎゅっと詰まったような場所なのです。爽子の部屋は、赤毛のアンの部屋のよう。女ばかりの家は、若草物語を連想させますし、爽子と、幼いるみちゃんの関係は「小公女」のセーラとロッティを思わせます。この十一月荘に足しげくやってくる、おしゃべり好きの鹿島夫人は、赤毛のアンのレイチェル夫人…という風に、大好きな少女もののあれこれが、あちこちに散りばめられているようでうっとりしてしまう。この物語には、先行作品として人々の心に生き続ける永遠の少女たちのエッセンスが香りのように漂っています。そして、この物語には、爽子の書くもう一つの小説が描かれます。ドードー鳥の細密画の表紙の美しいノートに爽子が書きつづる「ドードー森」の物語。動物たちのファンタジーは、この物語の中でも触れられる「たのしい川べ」のような雰囲気なのですが、登場人物たちは、十一月荘の住人や、そこを訪れる人々なのです。物語の中で、もう一つの物語が語られる。それは、爽子という少女から生まれる新しい場所でもあります。家庭という檻の中から抜け出して、新しい扉を開いた爽子が、そこで出会う人たちから、これまでとは違う世界を教えてもらう。そして、そこから爽子の新しい扉が開く。それは、アンやジョーを愛する少女たちがたどってきた道のりでもあり、爽子という少女だけが開くことのできる、たった一つしかない世界でもあります。受け継がれるものと、そこから新しく生まれるもの。過去と今が出逢い、きらめくように溶けあってかけがえのない世界を作る幸せな一瞬が、ここにあります。そんな幸せが音楽の喜びとなって降り注ぐラストシーンに爽子がつぶやく言葉が、私は好きなのです。「だいじょうぶ。きっときっと、未来も素敵だ。」

物語は、心を繋ぎます。爽子の書くドードー森の物語が、るみちゃんと、そして耿介との心を繋ぐように。遥かなものに憧れ続けた少女の頃の私と爽子を繋ぎ、アンやセーラやジョーが大好きだった女の子たちの心も繋ぎます。そして、これからを生きる子どもたちの心にも、暖かい光を投げかけてくれるに違いないと思うのです。

「きょう一日(ひとひ)また金の風
大きい風には銀の鈴
きょう一日また金の風 … 」(中原中也 早春の風)

この詩は春の風の詩ですが、私はこの物語を読むと、この詩を思い出すのです。私の心が通り過ぎてしまった青春の風。でも、無くしてしまったわけじゃない。この物語に私の風も託して、今の子どもたちの心が、新しい扉を開いてくれることを願っています。「十一月には扉を開け。」りんりんと、爽やかな鈴の音がするような言葉に、物語の力が宿ります。この本は2011年に講談社の青い鳥文庫から新しい装丁で刊行されています。元々の単行本も好きなのですが、この青い鳥文庫には、高楼さんのお姉さんの千葉史子さんの挿絵がたくさん入っています。これがまた、可愛くて素敵なんですよね。こうして文庫になることで、またたくさんの子どもたちに読まれるといいなと心から思います。

2011年6月刊行
講談社青い鳥文庫

by ERI

小公女 フランシス・ホジソン・バーネット 高楼方子訳 福音館書店

昨日、「私の一冊」は何か、ということを考えていて、またこの本について語りたくなってしまいました。先日行った東京の教文館・ナルニア国で、この福音館の復刻シリーズが店頭に置かれていて、それがなんと高楼方子さんのサイン本!正直ちょっと悔しかった。だって、私はこの本が出版されたときに、すぐにネットで購入してしまっていたんです。実はそのときkikoさんがそのサイン本を購入しました。サイン見せて貰って、写メ撮りかけて思いとどまりました。だって、余計に切ないもん(笑)もう一冊買おうかと悶々とする今日この頃・・・。

以前のレビューにも書いたし、昨日の記事にも書いたのですが、私はこの本を幼い頃から何度も何度も読んできました。私が幼い頃に読んでいたのは、抄訳のものです。挿絵も、今から思うと妙ちきりんなフランス人形のようなセーラだった。でも、とにかく好きだったのです。その本を、私が特別に好きな高楼方子さんが翻訳される!これが興奮せずにいられようか、ということで、すぐに入手した私は、届いた完訳本の表紙のセーラを見て、打ち抜かれたのでした。それは、私が長らく心に思い描いていたセーラ・クルーそのものだったからです。エセル・フランクリン・ベッツの描くセーラは、飾り気のない黒いドレスを着て、強い眼差しで一点を見つめています。アニメのセーラのほんわか美少女ぶりとは全く違う、激しい内面をのぞかせるその眼。組んだ両手からは、繊細さと思索的な性格が感じられます。親しみやすいというよりは、簡単に声をかけるのをためらうような、凛とした佇まいの少女です。見る人が見れば、彼女が並々ならぬ魂を秘めていることがわかるはず。この表紙は、高楼さんのリクエストによるものだとか。さすが!と、私は心が震えました。そして、私はこのセーラを見て、高楼さんの訳によるこの本を読んで、なぜ自分がこの物語が好きなのか、やっとわかったのです。(遅っ!)

この物語の中で、セーラは劇的に境遇が変わります。特別寄宿生として、何不自由なく全てを与えられ、褒めたたえられる11歳までのセーラ。そして、父親の死によって全てを失い、下働きとして食事もろくに与えられずこき使われる2年間。でも、その浮き沈みの中で、セーラは常に変わらず、見事に自分を貫きます。その誇り高さと気概に私は惹かれていたのです。そして、その彼女を支えていたのは、高楼さんも後書きでおっしゃっていますが、「想像力」です。セーラは幼い頃から想像力と共に生きていた、アメリア先生に言わせれば「変わった子」です。セーラは本が、物語が大好きです。物語に入りこむ、ということはその時間他の人生を生きること。つまり、セーラは物語を通じて自分を相対化することを知っているのです。

「人に起こるいろんなことって、偶然なのよ」
「私があなたじゃなくて、あなたが私じゃないっていうのは、偶然のできごとみたいなものなのよ」

この世界にはありとあらゆる境遇があり、生き方があり、貧富の差があり、能力の差があり、千差万別の人生がある。ありとあらゆる時間と空間を超える本の旅は、常に見知らぬ「あなた」と「私」との回路を開くことなのです。セーラは、幼い頃からその回路を開いて生きていた。そして、その回路を通じて自由に想像力を羽ばたかせることを知っているのです。物語というフィクションの中に自分を投入することで、自分の幸福も悲劇も相対化し、そこに埋没しないこと。そして、物語の力を、自分の生きる力に変えること。そこから生まれる名シーンは、皆さんご存じのことだと思います。自分の棲む屋根裏部屋を、バスチーユの囚人の部屋になぞらえてベッキーと暗号を交わすシーン。せっかく拾った小銭で甘パンを買って、それをほとんど乞食の女の子に与えてしまう。たったひとつ残ったパンを、一口食べたらお腹がいっぱいになる魔法のパンだと想像してやりすごす。中でも私の好きなのは、ロッティに自分の屋根裏部屋のロマンを語ってきかせるシーンです。みずぼらしい屋根裏部屋が、セーラの言葉の魔法でロマンチックな短編小説の趣を帯びてしまう。こういう細部の彩りがこの物語の魅力です。ロッティが去り、セーラは自分の部屋を見回して思います。「・・・・寂しいところだわ・・・・・」「ときどき、世界でいちばん寂しいところのような気がする・・・・」でも、この、魔法の溶けた寂しいセーラとロンドンの空を眺めるのは、私にとってとても大きな慰めでした。それは、現実の私が生きている世界で見上げた空とセーラの見上げた空が、どこかで・・・そう、物語という世界を通じて繋がっていると思っていたからです。

想像力と、そこから生まれる物語の力。セーラが学園で大きな影響力を持ったのは、その能力によるところが大きいのです。アーメンガードが、ベッキーが、ロッティーがセーラから離れられないのは、その魔法のような魅力です。でも、その魅力を最初から最後まで理解できない人間が、たった一人います。それが、ミンチン先生です。彼女とセーラが出会った時、セーラがまだ見ぬ人形のエミリーのことを想像で語って聞かせたところから、もうセーラのことが大嫌いになるんですよね。それが見事に伝わってくるのが、バーネットの筆力ですが。そこから、この二人は敵対することに運命が決まってしまう。ミンチン先生はとことん現実派です。目に見えるものしか信用しない。この物語は、想像力と現実派の闘いとも言えるのかもしれません。セーラのミンチン先生に対する辛辣な物言いは、想像力派であるバーネットが常日頃抱いていた想いに近いものなのかもしれないな、などと想像したりします。その闘いに最後はお金という現実で決着がついてしまうところが、少々残念なところでもあり、一番ドキドキさせるところでもあるのですが、そのラストを引き寄せたのは、後書きで高楼さんもおっしゃっている「現実を変えていくセーラの想像力」なのでしょう。

先日参加した講演会でデイヴィッド・アーモンド氏が「物語は崩壊に向かう力を押し戻すもの」とおっしゃっていました。私も、その力を信じています。想像力の翼を、大きく広げる物語の力。その原点を、私はセーラの中に幼心の中にも見出していたのではないかと、思うのです。いや、カッコよく言いすぎやな。私は、想像力たくましい子どもでしたが、どちらかというと発想が貧乏くさいというか(笑)自分が悲劇の主人公みたいに死んでしまうところを想像して、自分をいじめた子が泣いてるところを想像してうっとりしたりとか・・・貧乏育ちでしたから、100万円拾ったら何を買うかを、新聞広告を見ながら計算してみたりとか(あーあ・・・)よくそんなことを考えていたのを思い出します。そんな私にセーラは憧れでした。だって、自分が女王さまだと想像する女の子なんて、本当に私の想像力では思いもつかないことだったのですから。彼女は、精神の香気がどこから生まれるのかを私に考えるきっかけをくれたのです。今読み返すと、物語としてはあちこちに矛盾もあります。でも、そのセーラの誇り高い精神は、いつの時代にも変わらぬ光を投げかけてくれるのだと思います。その精神の輝きをくっきりと浮かび上がらせたこの新訳は、かけがえのない物語の財産だと思います。きっと、何度も何度も読み返すだろうなあ・・。そして、また不意に思いだしてこうして語ると思います。文章長いね・・・。

2011年9月刊行
福音館書店

by ERI

ルチアさん 高楼方子 フレーベル館

「飛ぶ教室」の2008年春号に12歳の自分に、今プレゼントするならどんな本にするか、という特集があって自分なら何にするか、つらつらと考えていました。上橋さんの「守り人」のシリーズなんかもいいし梨木さんの「西の魔女が死んだ」も読ませたい。朽木さんの「たそかれ」の河童くんにも会わせてやりたかったもんだとか、色々悩んでたんですが、やっぱり一冊あげろと言われたら、たかどのさんの「時計坂の家」かな、と思い至りました。12歳であった私が感じていた、この世界に対するおののき・・不安。遠く果てしないものへの憧れ。そんなものが、目一杯詰まったこの本は、きっとあの頃の私にとって、かけがえのない一冊になっただろうと思うからです。高楼さんの本を、少女の頃に読んでいたかったなあ。今読むよりも、切実に心に食い込んでいたと思うんですよ。この「ルチアさん」も、やっぱり少女の頃の自分に読ませたい本。「どこか遠くのきらきらしたところ」という、書き表すのが非常に難しい、でも、人の心にある普遍的な想いが、見事にここに流れています。高楼さんは、凄いなあ・・素敵だなあ、と読み返すたびに思わずにはいられません。

「たそがれ屋敷」に、美しいお母様と暮らす、スゥと、ルゥルゥという二人の少女がいました。ある日、この屋敷に、新しいお手伝いさん、ルチアさんがやってきます。この一見変哲もないルチアさんは、二人にとって不思議な人でした。なぜか、二人の目にはルチアさんが、水色に光って見えるのです。まるで、船乗りのお父様が、異国から持ち帰った水色の玉のように・・。その謎を突き止めたいと思った二人は、ルチアさんの家まで彼女を尾行します。そこで出あったのは、ボビーという、ルチアさんの娘。ボビーには、ルチアさんは光ってなんか見えません。でも、ある日、ボビーとスゥ、ルゥルゥの3人は、夜中で一人、水色に光る不思議な実を漬け込んだ飲み物を飲むルチアさんを見るのでした・・・。

ルチアさんは、一見、どうってことのない、普通のおばさん。でも、なぜか、いつも満ち足りていて、くるくると楽しそうに働いていて。傍にいる人たちは、なぜか彼女に対して素直になってしまう。そして、なぜかスゥとルゥルゥには、ルチアさんが、きらきらと輝いて見える。その秘密を見届けようと、二人が夜の街を歩くシーンが、印象的なんです。自分たちの憧れを見届けたくて歩く夜の街は、未知の世界。なにやら心の底を歩くような薄闇の間からみた、ルチアさんの秘密のなんてキラキラして美しいこと・・。それは、闇の対比として描かれることで一層の輝きを見せて、読み手を魅了します。この、光と影を描く見事さは、高楼さんの独壇場で、読んでいると心がほうっと溜息をついて、憧れが放つあえかな光に満たされていくようです。スゥとルゥルゥ、そして、ボビーの3人の少女は、確かにその光景を見た。でも、その秘密の本当のところは、謎のままです。なぜ、水色の実は、光を放つのか。なぜ、その光は、ルチアさんを光らせているのか。その光は、なぜスゥとルゥルゥ以外には見えないのか・・。ボビーによって、その実は、ルチアさんの叔父さんが彼女に残したものということはわかるのですが、やはり、その実の持つ不思議さの答えは出ません。その謎を抱えながら、3人は大人になるのです。

水色の玉の事を忘れ、「ここ」で現実と向かい合って生きたスゥ。屋敷がなくなった後、心に、水色の玉への憧れを抱えたまま、旅に出たままのルゥルゥ。そして、ずっと、謎の水色の玉を持って、それについて考えていたままだったボビー。誰が一番幸せだったのか、などという簡単なことではなく、それぞれの生き方を選んだ人生の中で、変わらず輝いていたもの。それが、「どこか遠くのきらきらしたところ」への想い・・憧れであることが、しみじみと胸に迫ってきます。尽きせぬ憧れを胸に抱くことは、ある意味残酷なことで、その人の人生を奪ってしまう。ルゥルゥと、その父親が、人生を旅に捧げてしまったように。でも、現実の中で、ひたすら生きてきたスゥも、やはりどこか満たされない思いを抱えて生きています。

・・・そうよ、わたしたち、思っていたのよ。どこか遠いところに、
これとそっくりの、きらきら輝く、水色の国がきっとあるって。
いつかそこに行ってみたいって。わたし、本当にそう思ってたのよ。

ボビーに返してもらった水色の玉とともに、スゥのところに帰ってきた、「どこか遠くの
きらきらしたところ」への憧れは、彼女の心を満たします。この「どこか遠くのきらきらしたところ」への憧れは・・きっと、人が心の中に一度は持ったことがあるものだと思います。でも、私たちはそれを忘れてしまう。そんなものでは、食べていけないから。
・・・でも、その憧れをいつまでも忘れずに持ち続け、自分だけの結晶にしようとすることが、創作というもの、文学であり、アートであるように思います。私にとって、ルチアさんが飲んでいた水色のキラキラしたものは、例えば、この高楼さんのような作品であり、大好きな人の歌声だったりするのかもしれません。

闇の中を歩く子どものように見知らぬ場所に旅に出る・・そのおののき。はるかなもの・・形にならない、目には見えない憧れというものの輝き。高楼さんの見せてくれる世界は、いつも果てしなくて吸い込まれそうになります。12歳の時に、この本を読んでいたら・・ちょっと違う人生を歩いていたかしら。ボビーのように、目に見えないものについてずっと想いをめぐらす力を持っていたら、物語を書く人にもなれたかもしれないなあ、などど思ったり(笑)この3人の少女たちは、皆高楼さんの分身なのでしょうが、ボビーが一番高楼さん自身なのかな・・と。これは私の勘ですが。児童書ですが、「ここ」に疲れた大人の方にも、ぜひ読んで頂きたい一冊です。

by ERI