大塚忍 写真展 dialogue  ギャラリー南製作所 

 

 

 

 

 

 

 

4/14~4/30(日)12時~18時 (月・木休廊):大塚忍写真展「dialogue」

「水」をテーマに写真を撮り続けてきた大塚が、3年の間取り続けた55000枚から、366枚を選んだ写真展。366枚は日付順に並んでいる。すべての写真は、大塚(敬称略)が庭においた、何の変哲もない30センチほどの水桶のなかを撮影したものだ。水は基本注ぎ足すだけで入れ替えず、そこに落ち葉が入り、鳥がやってきて水を飲み、昆虫たちが生まれたり、死んだりする。

ひとつのテーマを真摯に追いかける人なのだ。水は生き物を生み、育てもするが無残に殺したりもする。その二面性が気になった、と大塚は言っていたが、ここに写っているのは、二面性を超えた混沌であり、宇宙であり、らせんでもあった。二日間かけて何度もはじめから最後まで、最後からはじめまで、そして一枚一枚を見ながら、私は「時間」というものが押し寄せ、また引いて、波のように繰り返したりするのを感じた。366枚が並んだギャラリーには、直線ではない時間が流れていて、そこに身を置くのはとても心地よく、それでいて海の底に引き込まれるような、不思議な感覚を覚えた。23日に行われた写真家六田知弘さんとのギャラリートークに参加したが、この写真たちを「存在と非存在のあわいにあるもの」と評されていてなるほど、と思った。

目に入らぬままに見過ごしてしまうもの。私たちが意識できないところで、ひそかに営まれているものにじっと目を凝らし、撮り続ける。すると、水面に映るもの、波紋、腐っていくもの、死んで堆積していくもの、ダニやごみと言われるものからどこか聖性が漂い出してしまう。永遠の匂い、ともいうべき何かが。

写真展は明日の日曜日までですが、5月2日&5月5日に延長展示があるということ。蒲田のどこか懐かしい住宅街の一角にある、温かみを感じるギャラリーです。ぜひ足を運んでみてください。

2222gmf ギャラリー南製作所: 大塚 忍写真展「diarogue」延長展示が決まりました!

 

大塚 忍×六田知弘ギャラリートーク

二つ、三ついいわすれたこと ジョイス・キャロル・オーツ 神戸万知訳 岩波書店

先日見た『ドストエフスキーと愛に生きる』の翻訳者スヴェトラーナ・ガイヤーが、アイロンをかけた美しいレース編みを撫でながら、一つ編み目が違っても作品にはならないの・・・とつぶやいていたけれど。ジョイス・キャロル・オーツのテキストの精緻さも複雑なレース編みさながらだ。繊細な美しい編み目を紡ぎながら、女の子たちの息が詰まるような閉塞と不安を浮かび上がらせていく。

この物語に描かれるのは、アメリカという階級社会のヒエラルキーの上位の子どもたちが通うハイスクール。その中でもカースト上位のグループの女の子たちが、この物語の主人公だ。ナンバースクールへの進学を決めたメリッサは、すらりとした恵まれた容姿と頭の良さで誰もがうらやむ少女だが、常に不安につきまとわれて一人になるとこっそり自傷行為を繰り返している。一方、ナディアは、ぽっちゃりした可愛い女の子だが、「尻軽」と言われるようになってしまい、苦しむ。そして、自分に優しくしてくれた担任教師に自宅にあった高価な絵画をプレゼントしてしまい、大きなトラブルを引き起こしてしまうのだ。一見恵まれた場所で生きているように見える彼女たちは、いつも笑顔の下に傷を隠している。そんな彼女たちの自己評価の低さの鍵を握るのは、父親だ。仕事が出来て、いわゆる成功者である父親たちは、娘に「成功者であること」と「女らしく可愛くあること」という二重の縛りをかける。ところが、縛りをかけた父親は、自分や母親を捨てて、あっさりと若い女に愛情を移していくのだ。可愛い女でなければ愛されない。しかし、可愛い女でいることは、常に女性的な価値を失う危うさを孕む。セクシーで人気者でなくてはならないが、危うい均衡から転げ落ちると、イタい女になるか、「尻軽」と言われて軽蔑の対象になってしまう。(小保方さんの痛々しさにも、一脈通じるところがありますね・・・)メリッサもナディアも、切ないほど父親の愛情を求めているが、報われない。オーツの筆は緊迫感に満ちて、鋭いメスのように男性社会の中での彼女たちの痛みををくっきりとえぐり出す。その緊張感は半端ないのだが、オーツの面白いところは、この物語にもう一人、既にいなくなった少女が絡んでくることだ。

ティンクという燃えるような赤毛のその少女は、元有名な子役で、優等生揃いの高校の中で特異な存在だった。メリッサにとっても、ナディアにとっても、ティンクは特別の存在だった。小柄でやせっぽちなティンク。性的な関心からは遠い場所にいるくせに、頭が切れるから、男子にも一目置かれて、有名人であるという勲章もある。しかし、女の子たちは知っていたのだ。ティンクが非常に脆い一面を抱えていたことを。傷ついた魂を抱えながら、誇り高く、自分に正直に生きようとしていたことを。この物語の時間軸の中には、既に生身の彼女はいない。彼女は吸い込まれるように、自分の痛みの中に消えてしまった。しかし、強烈な存在感で友人たちの近くに居続ける。メリッサもナディアも、ティンクの痛みが他人事ではないことを知っている。多分、ティンクは「もう一人の私」なのだ。メリッサもナディアも、自分の胸の内にいるティンクと語り合うことで、悩み傷つきながらも、ほのかな光を見いだしていく。そして、そっと手を繋ぎ合うのだ。

裕福な私学に通う女子高生の悩みなんて、「恵まれてるのに何が不満なんだ」と世間的には一蹴されてしまうかもしれない。(この圧力感も、この物語の中に渦巻いている)でも、彼女たちの苦しみや痛みは、私たちが生きている社会の、あまり意識化されない根深い場所から生まれてくるものだと思うのだ。だから、日本の女子高生が読んでも、「彼女は私だ」と強く思うだろうし、もはやとっくに少女でなくなった私が読んでも、やはり同じ痛みが自分の中で疼く。オーツは誠に容赦ない人だ。痛みをえぐる筆の鋭さもさることながら、彼女たちが内に秘めているしなやかさと強さの予感まで描き出すことが出来る。「彼女は私だ」と思うことは、強さへの出発点だと思うのだ。出来ることなら、男子にも、この痛みを読んで欲しいと切に思う。

2014年1月刊行

岩波書店

 

ペーパータウン ジョン・グリーン 金原瑞人訳 岩波書店スタンプブックズ

岩波が出す新しいYAシリーズの一冊です。装丁がとてもいい。ペーパーバックのような、軽くてすっきりしたデザインに、表紙のこっちを向いている女の子がとても印象的です。そう、中身も印象的な場面がとてもたくさんある物語なのです。冒頭の幼い主人公のQと隣に住む幼馴染のマーゴが公園で死体を発見するシーン。誰もいない夜中に、高層ビルの窓から二人が見るジェイソンパークの光景。マーゴがいたかもしれない廃屋の破れた天井から、覗いている夜空。テンポのいい物語の割れ目から、時おり瞬くようにこぼれてくる繊細さがとても魅力的です。

Qは日本で言うような草食系男子。両親の愛情に包まれて育った真面目な男の子です。一方、隣に住むマーゴは学校中の伝説を一手に引き受けるような、クールで魅力的な女の子。卒業を間近に控えたある夜、マーゴはQを一夜限りの冒険に引っ張り出します。ムカツくやつにスカッとするようないたずらを仕掛け、シーワールドや高層ビルに不法侵入する、無敵の夜。でも、その夜を最後にマーゴは学校から、隣の家から姿を消してしまうのです。そこから、Qのマーゴを探す日々が始まります。Qだけに残された、マーゴからの暗号を読み解き、マーゴが身を潜めていた廃屋で夜を過ごす。プロム(卒業パーティー)という一大イベントに浮かれる同級生たちの中で、一人マーゴのことばかりを考えて過ごすQの日々。しかし、マーゴはどこに行ってしまったのか、まったく見当がつかない・・・。

奔放な女子に翻弄される気弱な男子、というのは日本のラノベでも典型的なお決まりパターンです。ツンデレは男子の永遠の憧れ。Qも、密かにそれを期待していた気配です。何しろ、マーゴは最後の夜の冒険に、自分を選んでくれたのだから。傷ついていなくなったマーゴを探し出し、彼女が涙を流しながら「ありがとう」と抱きついていて、ハッピーエンド、なんて、甘い夢。でも、マーゴの足跡を探しているうちに、Qはマーゴが自分の思い描いていた彼女とは違う女の子だと気が付いていくのです。マーゴがいた場所は、孤独と荒廃の気配ばかりが漂って、どうしてもQに「死」を連想させる。Qはいなくなったマーゴと向き合い、彼女が残していったホイットマンの詩を読み解こうとします。

このQくんが、本当に必死にマーゴを探すんです。こんなに他人と、生身の、自分以外の誰かと真剣に向き合い、理解しようとしたことが、私には無かったかもしれない。難解でわかりにくい詩に分け入るように。マーゴという少女の心になんとかにじり寄っていこうとするQの心の旅は、すなわち自分自身への旅でもあるんですね。学校でマーゴが見せていた顔とは違う孤独や悲しみを見つけることで、Qは、未知の自分をも発見していきます。カウンセラーである両親が、わかりやすく読み解いてくれる自分とは違う自分が心の中に眠っていること。簡単に嘘をつける自分がいること。卒業式をサボる、なんていうことが出来る自分だっている。自分の青春時代を思い返すと、若いころって、世間の何もかもを簡単に「こうだ」と決めつけることが多かった。「そんなもんだよね」と割り切ることが大人になることと誤解していた節があります。でも、ステレオタイプに「こんなやつ」と自分や他人を区分けすることは、自分の心に負荷はかからないけれど、その分大切なことを見失いがちなんです。だから、こんな風に、目に見えない人の心のうちを想像し、心重ねてみること。そして、そこから帰ってくる自分だけの意味を読み解いていく経験は、人と理解しあって生きようとする人生への、出発点でもあるわけです。

だれかの身になって想像するのも、世界をほかのなにかに置き換えるのも、わかりあう唯一の方法なんだ。

でも、その想像がそのまま相手への理解につながるとは限りません。Qが心の中で見つけた、と思っていたマーゴは、苦労の挙句にやっと見つけた実物のマーゴに、あっと言う間に否定されてしまいます。でも、それでいいのです。誰かの心を完全に理解することなんてできない。自分の心だって、簡単に探りきれるものではないのです。だからこそ、想像したり、理解しようとしたりする、お互いに伸ばしあう手だけが、信頼を繋ぐものになる。自分を知ろうとする旅も、一生続いていくのです。・・・って、わかったようなことを言ってますが、私も若い頃から、おんなじことばっかり繰り返してるような気がしてなりません(汗)ああ、また、やっちゃったよ、と思うんですけど、また同じパターンにはまったりして・・。つい最近も、自分が長年強く思いこんで、人にも吹聴していたことが「そうじゃない」とわかって、びっくりしたところです。しばらく、穴があったら入りたい状態になってました。だから、この物語の最後のQくんの心情が身に沁みる(笑)この岩波のシリーズは刊行されたら必ず読んでみようと思います。

 

2013年1月刊行

岩波書店

 

 

 

魔道師の月 乾石智子 東京創元社

私たちは「今」を俯瞰することはできない。いや、俯瞰しようとはしない、と言うべきかも。例えば私が今パソコンのキーを叩いている、この光景も、本当はありとあらゆる過去の積み重ねの上にあるものなんですよね。無造作に積んでいる本の一冊一冊、テーブルの下に敷いてあるラグから電話、壁にかかっている時計ひとつにしたって、発明と工夫と、それを使い続けてきた人たちの歴史があり、精神と物語がある。いわば、この瞬間、私たちが命を刻んでいる「今」は、同時に膨大な時間と空間の広がりを孕んだ宇宙の物語そのものなのだ。―なんてことを書くと、「大げさやな~」「この人、大風呂敷広げてはるわ」という字面になってしまうのだけれど、この物語を読むと、この私のやたらにハイテンションな物言いを幻視化させてくれる言葉の魔法に、目をみはることになるはずです。これは、文学だけが叶える魔法。奔流のように展開していくこのイメージを映像でもゲームでも具現化するのは無理かと思います。

『夜の写本師』に続く乾石さんの2作目のファンタジー。舞台は一作目より前の時代に始まりますが、物語は歌とタペストリーに導かれ、過去に、別の生命体へと旅して複雑な展開を見せます。主人公になるのは、キアルスとレイサンダーという二人の魔道師。レイサンダーは次期皇帝のガザウスに可愛がられていたが、ある日ガザウスに献上された「暗樹」という漆黒の円筒に、恐ろしい邪悪さを感じて逃げ出してしまう。一方、キアルスは、前作でアンジストに殺されてしまった少女を救えなかったことにヤケを起こして、大切な「タージの歌謡集」を燃やしてしまう。しかし、その歌謡集こそが、「暗樹」という根源的な悪意の塊に対抗するものなのだった・・・。

この「暗樹」という存在が、この物語の芯です。太古の闇、人が必ず持つ暗黒。邪悪を導き、破滅を喜ぶもの。この「暗樹」の姿が、非常に気味悪い。うっすらと目をあけるところなんか、背筋がぞくりとします。このイメージの具現化力が、乾石さんはとても高いんですよね。初めて読む物語なのに、こういう邪悪さの姿をいつか見たことがあるような気さえしてきます。キアルスは、失われた歌を求めてティバドールという別の男の人生を夢の中で生きる。そして、レイサンダーは、『クロニクル千古の闇』の生き霊わたりのように、人以外の生き物の命をわたり歩いて、闇を遠ざける力を探し続ける。しかし、どうやら、その暗樹を滅ぼすことは出来ないらしい。出来るのは、自らの命と引き換えに共に闇に沈むことのみ。この二人がどうなるのか、最後まで物語は息もつかせません。物語の密度が濃いんですよねえ。矢継ぎ早に繰り出される展開に翻弄されながら、物語は冒頭で述べたように過去と今を結んで大きな命や時の循環の中に、激しく光る一点を結びます。このあたりのダイナミックな展開は、ぜひ読んで頂きたいところ。まさに物語のうちに千夜を過ごす喜びを感じることが出来ます。

ここから少々ネタばれ。

人の中に潜む暗闇は、滅ぼすことは出来ない。また、暗闇を嘆くだけでは何も出来ない。たとえ心に暗闇を持とうとも、「善意と愛と美をめでる心」を持ち続けていれば、暗闇に喰われてしまうことはない。長い長い闘いを経たあとにもたらされる、この物語のメッセージは、とても共感できるものでした。物語の中で、キアルスが可愛がっていたエブンという少年が、書きかけの歌謡集を火から守って死んでしまうのです。私がこの物語で一番心に残ったのは、彼の死と、エブンを抱きしめて嘆くキアルスの悲しみでした。邪悪さは、大きな暴力で人の運命にのしかかるけれど、私たちがそれに対抗する力は、いつもとても小さい。歌謡集を守って焼け死んでしまった小さな背中のように。でも、その小さな積み重ねこそが、私たちを光に導くものだと、強く思うのです。最後に笑いあうキアルスとレイサンダーの姿に、小さな人間同士が結ぶ信頼を見ました。「世界はやっていける、人生は生きるに値する、ひとは信頼できる」。先日読んだ岡田淳さんの言葉を思い出しました。世界中のあちこちにどんなに恐ろしいものが巣くっていても、物語は自ずから光を求めて言葉を紡ぐ。私はいつもそこに生きる力を貰っているように思います。

・・・これは全くの余談ですが。恐ろしいと言えば、最近流行ってる「地獄」の絵本って、どうなんでしょうねえ。あれをしつけに使っているところも多いそうですが、私は好きじゃありません。私は、幼い頃に、この地獄極楽図というやつを、散々見せられ、講釈を聞かされました。幼い頃、私は(今じゃ考えられない、と言われますが)非常に怖がりで、蚊や蟻さえも怖い、同級生も宇宙人に見えるほど怖い。ジャングルジムに足をかけることも出来ない子でした。その怖がりが、あの血みどろの絵を見せられて、「死」について延々と聞かされる、恐怖といったら・・・。存在不安や離人体験のようなことも、今思い起こすとあったりして、けっこう辛い記憶です。私ほど極端でなくても、多かれ少なかれ、子どもというのは、この世界に対する不安を持っているのではないかと思うのです。絵本を読む時間というのは、やはり、親子の愛情を確かめ合う時間であってほしい。子どもの不安を抱きしめて、「大丈夫だよ」と伝えるものであって欲しい、そう思うんですよね。暗闇を見つめることは大切なことです。でも、その暗闇を功利的に扱うことと、きちんと向き合うこととを一緒にしてはいけない。そう思います。余談が長くなりましたが・・・。ファンタジーの力を強く感じる一冊でした。乾石さんの3作目を読むのが楽しみです。

2012年4月刊行

東京創元社