わたしちゃん 石井睦美作 平澤明子絵 小峰書店

幼い頃にたった一度だけ遊んだことがある子。でも、なぜか覚えているのは自分だけで、大人になってから他の誰に聞いても「そんな子いたっけ」と言われたりする。記憶の彼方にある光景は時間が経つほどぼんやりと儚げで、でも楽しかった気持ちだけ鮮やかで。そんな不思議な時間を、石井さんはほんわりと物語にしてみせた。

「わたし」は、パパの転勤で見知らぬ町に引っ越ししてきたところ。おじいちゃんおばあちゃんがいて、大好きな海があった町から引っ越してきて、心細くて寂しいわたし。ママも片付けに忙しくて、ひとりぼっち。「どこにいきたい?」ともう一人のわたしに問いかけて、外に遊びにいったら、素敵な庭のある家から「こんにちは」と声がする。誘われるままに、美しい庭でおままごと。まるでずっと友達だったような時間を過ごして最後に名前を聞いたら、「わたしちゃん」と教えてくれた。でも、次の日にまた遊びにいったら、彼女はいなかったのだ。

「わたしちゃん」と過ごした時間は、もしかしたら夢だったのかもしれないし、もうひとりの「わたし」だったのかもしれない。でも、多分そんな謎解きはどうでもいいんだろうと思う。引っ越しして、まだ新しい場所には馴染んでいない時間。体はここにあるのに、心だけどこかに忘れてきたようなふわふわした心もとない、つかの間の揺らぎが風船になって浮かんでいるような物語だ。幼い頃に「もうひとりのわたし」が、もっとくっきり自分の中にあったことを思い出す。私は一人遊びが多い子だったから余計にそう思うのかもしれないが、何かにつけ自分に語りかけてくる「わたし」がいることを、いつもとても意識していた。そして、今は出来ないのだが、少し左右の目の焦点をずらすだけで、すっと自分の体から意識を浮かせることが出来て(いや、わからないですよね。自分でも書いていてわけがわからない(笑))何か自分に都合の悪いことが起きると、よくそうやって逃避していた。離脱しているときの自分は、そこに体のある自分とは少しずれた存在で、半分「あちら側」にずれこんでいる強い感覚があった。その「あちら側」とはどこかと言われると上手く言葉にできないのだが。そういう感覚は自分だけかと思っていたが、大人になってあれこれ読んでいるうちに、似たことを書いている人をまま見つけることがある。言葉にすると特別なことに聞こえるが、多分幼い頃の未分化な、もしくは統合されていなかったりする心のありようの一つだったのだろう。あの頃リアルに私の中にあった「もう一人の私」は、大人になる道筋のどこかで姿を変えてしまったが、あの「あちら側」にずれ込む感覚は、本を読んでいるときの自分に近しいものがあるように思う。日常からふわりと抜け出す魔法の時間。その手触りを、石井さんの言葉たちに誘われて堪能した。

きっと誰でも、こんな「もうひとりのわたし」に出会う時間は子ども時代の中にそっと潜んでいるのではないだろうか。だから、大人が不思議だと思うこの物語も、子どもが読むと「うん、そうそう!」とすっと心に馴染むのかもしれないと思ったりするのだ。もはや自分の子どももうっそりした大人になってしまったので、そこを聞いてみることができないのが、誠に残念だ。

2014年7月刊行

いっしょにアんべ! 高森美由紀作 ミロコマチコ絵 フレーベル館

人々の暮らしと共に歩いてきた言葉が持つ力というものは誠に大きいなと思う。タイトルは東北の方言で「いっしょに行こう!」という意味だ。しかし、「アんべ!」という言葉には、もっと深い温もりや、お互いの荷物を持ち合うような共生の気持ちが含まれているように思う。まあ、お互いあんまり器用には生きられないけれど、一緒にいこか(大阪弁で解説して申し訳ない)という気持ち。この物語には、縁があって寄り添う男の子のストレートな思いが溢れている。踏まれても折られても、何とか伸びようとする若芽のような子どもの力が、朝日のように輝く素敵な物語だ。

主人公は、柿の木から落ちて足を骨折してから、クラスメイトたちと距離が出来てしまい、ひとりの日々を過ごしている5年生の男の子ノボル。そして、彼の家に里子としてやってくる、3.11の震災で親を亡くした有田といういがぐり頭の少年だ。この二人の距離感がとても面白い。有田はマイペースで、いつも首からカメラをさげ、目に付くものを片端から撮りまくっている。何かにつけその調子で、長年ひとりっきりで人との距離感に敏感になっているノボルにぐいぐい近寄ってくる。ノボルも最初は引き気味なのだが、有田のどこかひょうきんで憎めない性格に少しずつ惹かれていく。震災は有田の心に深い傷を残している。水が怖くて一人で風呂に入れないし、首から提げているカメラは、独りぼっちになってしまった避難所で被災した夫婦がくれたもので、片時も手離すことが出来ない。学校に行っても昔自分が飼っていた犬に似ている近所の犬を、追いかけ回してしまう。

この有田という少年が持っている悲しみと痛みが、ノボルの目を通して読み手に強い実感をもって伝わってくる。彼がなぜ、目に映るすべてのものをカメラに撮りたがるのか。それは、彼が常に「末期の目」でこの世の中を見ているからに違いない。彼はあの日に生と死の境目に立ち、家族も友達も目の前で亡くしてしまった。それまでの日常を無くしてしまった彼には、窓に映る水滴一つもかけがえのない「今」の瞬間なのだ。少しの揺れにも恐怖が蘇り、愛犬のチョコを、流されていく父や母を助けられなかった苦しみはいつも胸にある。大人はそんな彼を傷つけまいと、少し遠巻きにして彼を見ているのだが、ノボルはそんな有田に振り回されながらも、子ども同士のまっすぐさで、彼にぶつかっていく。ケンカもする。文句も言う。でも、ずっと一人で過ごしてきたノボルは、いきなりひとりっきりになってしまった有田の心の痛み、苦しみを理屈ではなく感じる心根を持っているのだ。有田にどんな声をかければいいのかと聞いたときに、ノボルの父ちゃんが言う。「ただ、そういうことがケイタくんの身に起きた、ということを知っていればいい、心にもないなぐさめやとってつけたようなはげましはするな。・・・ただ事実を覚えておきなさい」という。その言葉のとおりに、ただ一緒にいようとするノボル。そして、有田もノボルの過ごしてきた日々の寂しさに気がつく。そんな二人に巻き起こるいろんな事件が、小さなつむじ風のように心に風穴を開けていく。それがとても心地よく胸に沁みた。

物語の最後、犬のダイゴロウを連れた二人が新雪の上を走り回って朝日に叫ぶ姿が忘れられない。声が枯れるまで父母と愛犬の名前を呼び続ける有田の声を、じっと聴くノボル。

「有田の深い傷と、痛みをオレもいっしょになって浴び続けた」

ここから、また生きることが始まるのだ。ひとりではなく、一緒に。「いっしょにアんべ!」という言葉の美しさに込められた作者の思い。たくさんの人に読んで欲しい一冊だ。

2014年2月刊行

ちいさなちいさな めにみえない びせいぶつのせかい ニコラ・デイビス文 エミリー・サットン絵 越智典子訳 出川洋介監修 ゴブリン書房

子どもの特権は(もちろん大人でも大切なことだけれど)びっくりすることだと思う。 おっ、と思うくらいの小さなびっくり。世界の見え方が変わってしまうほど、大きな声で走り回って「知ってた?ねえねえ、知ってた?」と言ってあるきたいほど、大きなびっくり。それが次の「知りたい」に移っていったり、自分を思いもよらない方向に突き動かしたりするんじゃないかと思うのだ。この絵本は「びせいぶつ」つまり、微生物についての絵本だが、一応の知識がある大人でも思わず「うわあ」と声を出してしまう驚きと楽しさに満ちている。絵がとてもいい。スプーン一杯の土に、インドの人口と同じくらいの10億もの微生物がいること。10億・・・という数字は具体的に想像するのが難しいけれど、こうしてうまく視覚化されると、すんなり驚くことができる。一つの微生物があっという間に増殖して見開きの頁いっぱいになるところは、インフルエンザにやられたばかりの体には少々こたえるくらいだ(笑)

微生物は、私たちの目には見えないけれど、地球の生き物にとって大きな役割を果たしている。それが、美しくセンスの良い絵で、誰にでもわかるように描かれていて、なぜかしら、ふーっとため息をつきたくなる。この世界を支えている生き物たちの絶妙な役割分担について。どうして、こんなに多種多様なものが存在するんだろうという素朴な驚き。微生物の形の面白さや不思議さ。何もかもがやっぱり不思議で、何度も読んで、ふーっとため息。大きい、小さい、ということは非常に相対的なこと何だわ、と改めて思う。くじらは大きくて微生物は小さい。うん、確かにそうではあるけれど、それはあくまで「人間」を尺度にしているからそう思うだけのこと。微生物から見れば、猫も人間もくじらも、多分分解したり寄生するべき有機物、というだけのことなのだろうと思う。別の生き物の視点に立つだけで、これまでとは全く違う世界が見えてくる。その面白さを発見する喜びがこめられている科学絵本が私は好きだ。子どもと読んで一緒にびっくりするのが楽しい一冊。

2014年8月刊行

トオリヌケキンシ 加納朋子 文藝春秋

加納さんの物語は、いつもほろりと心に沁みる。人々が何気なく通り過ぎていく道の一つ裏に隠れている、迷路や路地の暗がり。小さな謎の顔をして蹲っている悲しみが、木漏れ日のように優しく透明感のある文章で語られることで、背中にささやかな羽をつけて飛び立っていくような、そんな優しさがある。皆身軽にすいすいと通り抜けていく扉が、なぜか自分にだけは閉まっていたり。皆には見えているものが、自分にだけ見えなかったり。反対に誰にも見えないものが、自分にだけ見えてしまったり。とにかくこの世界はハンディを持つものに厳しく、理不尽だ。この本には、理不尽の壁に「トオリヌケキンシ」されてしまった若者たちの物語が収められている。

自分を押し込めている理不尽の正体は何か。それがわからないことが、人と違う苦しみを抱えているものにとっては一番辛いことなのだ。どの扉を開ければいいのか。いや、もしかしたら自分を通してくれる扉などはないのではないか。悶々とするうちに、どんどん自分に対する疑いや、恐怖ばかりが膨れあがる。「フー・アー・ユー?」には、相貌失認の男の子が、ネットからたまたま自分と同じ症状を見つけるシーンがあるが、まさにこれは幸運な例だと思う。心に抱く恐怖や違和感は、特に子どものうちは他人に上手く説明できないことが多いし、周りの人間が気づけるとも限らない。私自身も、次男が生まれつき抱えていたしんどさに、彼が成人するまで気づかなかった。いやもう、それを知ったときは非常に驚いた。彼に「気付かずにいて本当に申し訳なかった」と謝ったら「いや、これを診断できるのは日本でも数人しかおらんらしいから」と反対に慰められてしまったが、やはり私は今でも彼にすまないことをしたと心から思う。ハンディを背負わせていたこともそうだが、何より気付かずにいた、ということは今でも自分が許せない。

だから、この物語に描かれている場面緘黙や相貌失認、醜形恐怖という、傍目からわかりにくい心のしんどさや病気の苦しみについて、この物語を手にとる若い人たちが知るきっかけになれば何よりだと思うのだ。もちろん、加納さんはミステリの名手であるし、ここに収められている短編はどれも切れ味が良くて面白さは折り紙つきだ。だからこそ、物語の面白さと共に、これまで知らなかった視点で自分を眺めてみたり、人の苦しみに思い当たったりする心ばえが、ごく自然に流れこんでくるのではないか。加納さんはご自分も大変な病気をされて、そのことを体験記に書かれた。最後の「この出口の無い、閉ざされた部屋で」という短編には、その経験がのたうっているようだった。「かくも世界とは、不合理で不平等に満ちている」なぜ自分だけが、と壁に頭を打ち付けて苦しむときは、誰にだってやってくる。「トオリヌケキンシ」の扉を開きたい。人の弱さ、悲しみを愛しく思い、精一杯さりげなく差し伸べられる手の温かさ。それが素直に伝わってくる物語だった。

2014年10月刊行