槍ヶ岳山頂 川端誠 BL出版

槍ヶ岳。もう、名前からしてかっこいい。先日書いた『八月の六日間』の主人公のように、「槍を責めます」と、言ってみたい。この表紙でスナップショット風にこちらを向いている少年の顔も、とても誇らしげだ。この絵本は正方形に近く、かなり大型。見開きでたっぷり山のダイナミックさが楽しめる。10歳の少年がお父さんと槍ヶ岳縦走に挑む、濃い二泊三日が描かれているのだが、どーんとした山の存在感と迫力がとても素晴らしい。何しろ槍ヶ岳だから、10歳の少年にはなかなかキツい行程なのだが、キツいからこそ身体いっぱいで山を感じる少年と一緒に、心の中の余計なものがすうっとそぎ落とされる。深呼吸したくなる。見開きには、山荘の記念スタンプが旅の行程と一緒に押されていて、それも心憎いのだ。

山では、とにかく愚直に歩くしかない。この絵本の中でも、雨の中を「もうだめだ」と何度も思いながら登り続ける場面があるが、この愚直にやるしかない、というシチュエーションは、結構楽しいものなんだと思う。しんどいけど、楽しい。しんどいから、楽しい。山頂に立って自分の歩いてきた道をたどる少年の胸の内に溢れているものを、宝物のように愛しく思った。夏休みにこんな旅の出来る父と息子が、うらやましくて仕方ない。山と、自分の後ろをずっと歩いてくれるお父さんに見守られている少年は、とても幸せだと思う。風景も清々しくて、今この季節に読むのにぴったりだ。恐ろしいほどの酷暑を一瞬忘れさせてくれる一冊。

八月の六日間 北村薫 角川書店

北村薫さんの小説を読んだのは久しぶりです。でも、久しぶりに読んでも「ああ、これこれ!」という独特の「間」は健在で嬉しくなります。文章をたどりながら、ふっと考え込んだり、風景を眺めたり。揺り動かされた心を、水面を見つめるようにそっと眺めてみたり。読み手の呼吸に合わせてくる、名人芸とも言うべき「間」なんですよね。しかも、その計算されつくしている「間」が、この本のテーマである山登りの行程のように、ごく自然に、もう初めからそこにあるように描かれていて、読み手を物語の最後まで連れていってくれます。

主人公は40歳くらいのベテラン編集者である女性で、仕事の責任や毎日のルーチンや、上手くいかなかった恋愛が人生にぎっちり詰まった毎日を送っています。この物語は、時折そんな日常から抜け出して山に行く、彼女の独白というか、意識の流れが書かれています。楽しい山歩きは五回。それが、こんな例えは失礼かもしれないんですが、小学生の作文風に書かれています。前日の荷造り、おやつに何を入れたか(これが楽しい!私もじゃがりこ好き)、何時に起きてどこから出発して、どこを歩いて、何を食べて…と、延々と全てを網羅。これを凡人が書くと、ただの素人のブログ風になってしまうんでしょうが、北村薫さんが書くと名人芸になる不思議さったらありません。まず、あふれんばかりの文学の蘊蓄が楽しい。何しろ主人公は編集さんなので無類の本好きという設定です。山歩きにも、絶対お守りのように文庫本を持っていく活字中毒で(お仲間だわ)、そこも楽しい。あ、これかー、これ持っていくのか。やられたなーと思ったり。私なら何を持っていくかを、自分の本棚見ながら考えたり。山歩きと言っても、命をかけた過酷な山歩きではなく、かといって私が行くような日帰りハイキングでもなく、頑張れば手が届いて、穂高や槍ヶ岳の風景を満喫できるという絶妙な山歩きなんです。ほんと、「行きたい!」って思いましたもん。彼女は山に一人で出かけます。それは、多分自分自身を確かめるため。

こんな大きな風景の中に、ただ一人の人間であるわたし。それが、頼りなくもまた愛しい。 思い通りの道を行けないことがあっても、ああ、今がいい。わたしであることがいい。

私たちは「人間」だから、人と人の間で微妙な距離を測りながら生きている。時に自分の輪郭がぼやけてしまうことだってあるし、ぶつかってしまうこともある。でも、山にいるときの自分は果てしなく小さくて、ただひたすら山という美しい場所に抱かれて、徹底的に一人になれる。身体の隅から隅まで感覚も研ぎ澄まされて、輪郭もくっきりするでしょう。うん、ここまでならほんとに「ああ、素敵ね~」という感じなんですが、でも、北村さんは、この小説のあちこちに小さなクレバスを潜ませています。歩きながら、思い出す若い頃のトラウマや、山のあちこちでふと会う人から覗くもの。幼い頃から抱える根源的な恐怖などが、美しい風景の中から突然現れる。個人的には、彼女の元上司の先崎さんのセリフが胸に沁みました。この一節を読めただけでも、この本を読んでよかった。(引用はしません~。(笑))どこまで奥があるのかわからない割れ目を持ちながら、人は生きている。というか、生きていかざるを得ない。おお、同士よ、という思いが、読んでいる間に胸に沁みる一冊でした。

下界にいるときの身分序列も全く関係なく、袖振り合うものは助け合うというルールが存在する山に、たくさんの人が惹かれるのもわかるわー、としみじみ思った読書でした。去年の夏は、友人と長野の夏を満喫できたのだが、今年はどうも諸事情あって難しそうです。ああ、でも、山に行きたいなあ。

リゴーニ・ステルンの動物記 ―北イタリアの森から― マリオ・リゴーニ・ステルン 志村啓子訳 福音館書店

今月の初め、kikoさんと六甲山にハイキングに行った。六甲は無数にハイキングコースがあって、私たちが行ったような初心者向けのコースは、人の手が入って整備されている。それでも山の中は別世界で、何より鳥の声がたくさん聞こえる。一カ所、家の周りではほとんどいなくなったウグイスが集まっている場所があった。深い谷の木々をじっと見ていると、あちこちに留まっているウグイスの姿が段々浮かび上がってくる。不思議に思いながらそこを離れたのだが、しばらく行ったところでバードウオッチングをしている方に会い、ウグイスの巣穴がある場所を教えて頂いた。どうやら、山ではその頃が鳥たちの子育ての季節らしかった。あれから時々あのウグイスの雛はもう巣立ちをしただろうかと考える。人と出会ってもすぐに友達にはなれないが、動物だと一瞬姿を見ただけでも、なぜだか心に残るのが不思議だ。この本にも忘れられない動物たちがたくさん登場する。

この本は以前に読んだことがあって、その時にもレビューを書いているのだが、今現在、版元では絶版になってしまったらしい。表紙を見て貰うだけで伝わると思うのだが、この本はとても美しい。表紙のノロジカに見つめられて扉を開くと、長靴のようなイタリアの地図。もう一枚開くと、二羽の愛らしいクロウタドリが出迎えてくれる。そこはもう、北イタリアの森の入り口なのだ。あちこちに散りばめられた挿絵も、活字の大きさや配置も、志村さんの訳されたリゴーニ・ステルンの文章にしっくりと溶け合っていて、見事な一冊だ。本というのは、特に翻訳されるものは、その一冊に関わる何人もの方の美意識が一点に凝縮されるものだろうと思う。作り手の「想い」が込められている本から伝わってくる風を感じるのは、とても幸せなことだ。特にこの本の巻頭に載せられている、リゴーニ・ステルンの「日本の若い読者への手紙」は、若い人たちに、ぜひ読んでほしいと思う。

「いつもこの世に平和と安らぎがあるとはかぎらない。それは日々守り、獲得していってはじめて可能だということを、これらの挿話は、わたしたちに気づかせてくれるでしょう。」

彼は兵隊として第二次世界大戦に従軍し、強制収容所にいたこともある。この本の中に出てくるように、彼の故郷も大きな傷跡を残した。その彼が、子どもたちや若い人たちに、なぜこの物語を読んで欲しいと思ったのか。この物語たちに登場する人たちは、「たいへんな労苦をはらって、平和の中での暮らしを再開」した人たちだ。現在の日本と中韓との関係を考えても、どんな時代に生きていても、私たちは戦争とは無関係ではいられない。また、戦争でなくても、いきなり厄災に巻き込まれることもあるし、理不尽な状況に陥ってしまうことだって多々ある。穴の中に落っこちてしまった人間には、「平和と安らぎ」は青空のように、あるのはわかっても手に入らない切ないものなのだ。「アルバとフランコ」の中で、男たちが冬のさなかに家にこもって、木の細工物を心満ち足りて作るシーンがある。苦しみの果てに取り戻した日常の中に漂う木の香りが、どんなに胸に優しく満ち足りたか。そして、故郷の山に生きる動物たちが、それぞれの人生に深く縫い止められながら、誇らしく自分の生をまっとうしていく姿に、どんなに愛情を感じているのか。多くは語られなくても、この物語たちには、喪失を体験した人の「平和と安らぎ」に対する深い思いが溢れている。「日本の読者へ 遠く、遠く離れたところに暮らす親愛なる友よ」とリゴーニ・ステルンが書いているように、ここには国や人種という壁を超える生き方が示されているのだと思う。動物たちは国境を持たない。ただ、故郷を持つのだ。リゴーニ・ステルンの描く故郷に愛情を抱くことの出来る若き読者は、心の中で彼と同郷になる。まだ見ぬ故郷を持つことができる、とも言える。その積み重ねが、もしかしたら―本当にわずかな望みであっても、次の世代の若者たちが、自分たちを超える繋がりを手にしてくれるかもしれないというかすかな、でも必死の希望をもって、彼は言葉を紡いだのではないかと思うのだ。

今読んでいる本の後書きで、管啓次郎さんが、こう述べている。「昨日に別れて、少しでもよい明日を作り出すために。きみは渡り鳥として飛ぶか。それとも小さな橋を作るのか。いずれにせよ、合い言葉は「渡り」となるだろう」(※)本屋さんではもう購入できないかもしれないけれど、図書館には所蔵しているところが多いと思う。まだ見ぬ北アルプスの静寂に住むノロジカや、クロライチョウや、ノウサギたち。言葉を持たぬ彼らの生き方に心を繋いでいく幸せを、どうか味わってみて欲しい。

※ミグラード 朗読劇『銀河鉄道の夜』 勁草書房

クラスメイツ 前期・後期 森絵都 偕成社

久々の森絵都さんのYA作品です。何と12年ぶりとか。そんなに経ってたのかと、びっくりしました。森さんのYA作品が大好きです。最近はすっかり成人の小説に移られて、もうYA作品はお書きにならないのかと、すっかり拗ねていました(笑)大人の小説もいいんですけど、こうしてYA作品を読むと、森さんにしか書けない世界がやっぱりあるんですよねえ。読みながら、やっぱり好きだなあと嬉しくなりました。

この物語は、1年A組24人全員を主人公にした短編が24篇という企画で、この試みは目新しくはないものの、森さんが書くと新しい風が吹き抜けます。学校というのは、同じ年齢の人間が一つの場所に集まる特殊な空間。その中で、全員のドラマを追うと、面白い反面、息が詰まるようなしんどさが生まれてしまったりします。(これは、私自身があまり学校という場所が得意ではなかったせいもあるのかもしれませんが。)でも、森さんの物語には、どんな物語にもその子だけの風が吹いていて、心地良い。『10代をひとくくりにする、ということの対極に森さんの作品がある』と、あさのあつこさんが以前言っておられましたが、まことに至言だと思います。一人の人間が、様々な距離から見た24の視線から浮かび上がってくる。自分でこうだと思う自分、他人から見た自分。その違いも含めて、24人を描いてますます「個」が際立つという、なんともニクイ構成になっているのです。一人一人の存在感が粒立っているからこそ、一人の人間が持つ多様性がプリズムのように輝いてお互いを照らし出す。そこがいい。この1年A組、とても居心地がよさそうなんですよね。読んでいて、自分の座る椅子も、このクラスの中にあるような気になってきます。その秘密は、担任の藤田先生にあると見ました。押しつけず、いい距離感で常に生徒を見守るしなやかな強さがあります。この「見守る」というのは、実は一番エネルギーのいることだと思うのです。ありとあらゆる機会を捕まえて、水泳部に生徒を勧誘する癖のある藤田先生には、その強さと同時に、人としての可愛げがあって、とても魅力的です。厚みを持つ「人」を書けるのが、森さんの魅力だとつくづく思います。

クラスカースト、LINE、いじめ、グローバル人材の育成・・・今の中学生たちは、マスコミからの情報や、流行のキーワードでとかく読み解こうとされがちです。(いや、これは中学生だけではないのかもしれませんけど)私の頭も、つい、そんな言葉に毒されそうになってしまう。でも、森さんの物語には、そんな薄っぺらさが吹き飛んでいく身体性があります。例えば、自分の子どもが、小学生であろうと、中学生であろうと、赤ん坊であろうと変わらない、たった一人の体温のある存在であるように。ひとり一人が確かに胸に刻まれていく実感がある。最近テレビをつけると流れてくる、首相と呼ばれる人が語る、薄っぺらで大きな物語は、ひたすらうそ寒く恐ろしいです。あれに負けない厚みのある、同時代に生きる「個」の物語を、私たち大人は子どもたちに語らねばならないと切実に思うのですが・・・。そんなことを、この楽しい物語を読みながらずっと考えていました。森さんには、やっぱりYAの世界に帰ってきて頂きたい。自分で物語を語れない私は、やはりそう願ってしまうのです。

2014年5月刊行
偕成社