わたしが外人だったころ 鶴見俊輔文 佐々木マキ絵 福音館書店


 鶴見俊輔氏が93歳で亡くなられた。文章と本でしか存じ上げないのに、あんなに凄い知性の方なのに、なぜかとても心の近くに存在を感じる方だった。朝日新聞の上野千鶴子氏の追悼の文章が心に沁みる。もっと氏の本を読まねばと、憲法九条がなし崩しにされようとしている今、焦るように思っていたところだった。私の勉強の仕方は、いつも遅すぎる。

 この本は、福音館書店が出している「たくさんのふしぎ」という月刊誌から生まれたもので、今年の五月に傑作集としてハードカバーで出版された。16歳だった鶴見少年がアメリカに渡り、ハーバード大学に入学する。しかし、日本とアメリカは戦争を始め、大学卒業間際だった俊輔青年は留置場に入れられてしまう。その後、「日本が戦争に負ける時、負ける国にいたい」と帰国するも、徴兵されて戦地へ。そこでカリエスを発症して帰国し、敗戦の日を迎えたのだ。この体験は、鶴見氏のその後の生き方の原点になっている。

「わたしは、アメリカにいた時、外人でした。戦争中の日本にもどると、日本人を外人と感じて毎日すごしました」

 大体の日本人は、自分が「日本人」であることに、何の疑いも持たない。しかし、鶴見青年は、戦争というものによって、自分のアイデンティティを根本から覆されてしまったのだ。そして、鶴見青年を乗せた日本の軍艦は、一隻残らず太平洋に沈んでいった。たくさんの人が死んでいった。では、「なぜ自分がここにいるのか」。自分の生き残った理由もわからない。その「たよりない気分」はずっと続く。常に思想家の鶴見氏の中には、この思い惑う、柔らかな心の青年が息づいている。鶴見氏は、ずっと問いかけ続けたのだ。自分は何者か。日本人であるとはどういうことか。日本がした戦争とは何か。近代とはなにか。国とはなにか。一生をかけて問い続け、行動し、自分の頭で、考え続けた人。その原点には、自分の肉体で感じた抽象化されない強い実感がある。その実感が、ここに、とてもわかりやすい言葉で、子どもたちに向けて綴られている。佐々木マキさんの挿絵も、氏の孤独や「国家」の不気味さを写し、不思議な美しさで一人の青年の内面を表現している。

 この不安や孤独に揺らいだ感覚をずっと忘れずにいたこと、魂の奥深くに刻んだことが、真のリベラルな思想を生んだのだと私は思う。だからこそ、これからを生きていく子どもたちにこの本を読んで欲しい。感じて欲しい。復刊されて良かったと心から思う。

淵の王 舞城王太郎 新潮社

「私は光の道を歩まねばならない」

 この物語の語り手は、主人公をすぐ傍で見つめ続ける目に見えないが、確固たる意志や人格を持つ者であり、主人公はその存在には気付いていないことになっている。しかし、この言葉は、その設定を唯一飛び越えて、主人公が語り手に宣言した言葉なのである。この小説のメタ構造を、さらに飛び越えた、メタ宣言なのだ。つまり、この言葉は小説世界を貫くまっすぐな芯であり、舞城の挑戦的な宣言が主人公の口から語られたものなのではないかと思う。その証拠に、この言葉は最後の「中村悟堂」でもう一度繰り返される。ところが、この唐突な宣言を聞いた目に見えぬ語り手は、アイタタ、と主人公のさおりちゃんを思い切り揶揄する。 「あははははははははは!」「是非歩んで欲しいよ!」「頑張ってさおりちゃん!」と。

 この揶揄は、軽い言葉のようでいて、実はとてつもなく重い。時間が止まって全てを吸い込むブラックホールのように重いのだ。平和や相互理解や、基本的人権の尊重なんて生ぬるいんだよ。結局世の中は強いもの、金持ってるものが勝ちなんだよ。その中で「光の道を歩まねばならない」なんて言ってたら、笑われるよー、いいの?そんなこと言ってたら、踏みつぶされちゃうよん、という、にやにやした虚無。舞城は、そのブラックホールに、言葉で錐を突き立てる。「中島さおり」「堀江果歩」「中村悟堂」という三人の主人公は、底知れない悪意の塊、にやにやとすり寄ってくる「淵の王」に、壮絶な闘いを挑むのだ。しごくまっとうに生きること。自分を、友達を大切にし、誠実に生きること。生きることを楽しむこと。しかし、その中で、彼らは傷つき、ぼろぼろにされ、あげくの果てには飲み込まれてしまうのだ。ただその事実だけを見ると、虚無派の言う「負け」なのかもしれない。しかし、彼らは、間違いなく光の道を歩いたのだ。

 私たちは、自分の生きているどの地点でも、自分の人生、自分の物語が意味しているものを完全に振り返ることができない。それがわかるのは、人生に終止符を打つとき、暗闇に飲み込まれるときなのだろう。この物語は、はじめに書いたように、単なる主人公と読者、という二元性にもう一つのファクターを放り込んでいる。普通なら黒子として身を潜めている語り手が、別個の人格として登場するメタ構造になっているのだ。従って、読み手の感情移入や視線も、その語り手と同調することになる。さおりちゃん、果歩、悟堂、の人生を見つめ、彼らの人生が光であることを知っているのは、語り手だけ。その語り手は、自分を見つめ続けるもう一人の私かもしれないし、さおりちゃんに果歩が、悟堂にさおりちゃんが、というふうに、これまた入れ子になった語り手がついているのかもしれない。(ややこしい!)しかし、とにかくこの物語は、生が死という暗闇に飲み込まれんとするときに読む黙示録なのかもしれない、と私は思うのだ。この物語を語っているのは、生と死の狭間の一点に立つもの。そこに立ち、「私は光の道を歩んだ」と思える人生とは何か、とこの物語を読みながら考えてしまった。もちろんミステリとしても、単なる怖い話としても、たまらなく面白い。でも、私にとってこの物語は、虚無や他者への無関心というブラックホールに舞城が渾身の力で切りつけた、光の一撃に思えて仕方ない。
 
 今、国会前で、日本中で、理不尽に押しつけられようとしている法案と闘うために、勇気を出して声を上げている若者たちがいる。この物語の主人公たちのまっとうさ、光の道をごく自然に歩もうとする姿が、私には彼らと重なって見える。若者たちを、愚者たちが用意している暗闇に差し出してはいけない。絶対にさせない。そう思う。

うばかわ姫 越水利江子 白泉社招き猫文庫


若さと美しさと、「姫様」と呼ばれる暮らししか知らなかった野朱という娘が、いきなり恐ろしい運命に翻弄されるところから、この物語は始まる。盗賊に追われ、逃げて逃げて、目の前はとうとう近江の湖。とっさに出会った老婆と袿を交換して身を隠した姫に、姥皮の呪いがかかってしまう。満月の夜、淵の水に身を沈めるとき以外は、老婆の姿で生きねばならなくなってしまうのだ。嘆く野朱に、姥は言い捨てる。「皮一枚に囚われて生きるものは、みな、獣さ」しかし、皮一枚で生きている動物たちは、皮に囚われない。囚われるのは、人間だけだ。この物語には、皮一枚に翻弄される人間の弱さや愚かさ、そして愛しさが瑞々しく溢れている。

 野朱は、若さと美貌を失って初めて、人の世の悲しみを知る。老いという苦しみ。自分の身一つで生き抜いていかねばならぬ苦しみ。しかし、その苦しみの中で野朱は、他人の内面に「心を寄せる」ことを知っていくのだ。
 妖かしの一員になった野朱には、この世のものではないものが見える。天下を取らんとして滅んでいったものたちは、壮麗な幻の城に未だ魂となって棲み続けている。その滅んでゆく人を慕い、命を燃やした、お濠という女の人生を夢の中で追体験することになるのだ。お濠は美しさとはほど遠い、男たちとともに戦う女だった。しかし、その人生は見事に自分を貫いた「美」に満ちていた。
 
 「人は、ひとであることそのものが宝よ」
 「生きると決めたならば、闇に沈むな。白き光を身にまとえ・・・・・・」

 命を激しく燃やした魂が野朱に語りかける言葉たちに導かれ、硬い殻の中に眠っていた野朱の生きる力が、瑞々しく咲き開く。現実と幻想が金襴の絵巻物のように交錯する物語世界。その中にまっすぐ茎を伸ばして咲く蓮の花のように、少女の恋が花開いていくのに魅入られてしまう。これだけ凝った時代背景の中で、ひとりの少女が体感していくものをリアルに肌で感じさせる筆力は、深い知識と人間洞察あってこそのものだろう。自分の中にある感性や力を、解放させること。それには、「他者の物語」との深い関わり合いが必要なのだ。

 物語の最後に舞う花吹雪に、作者の、「命」に対する深い愛情を感じた。後悔ばかりに囚われがちな自分の弱さに、この愛情がひときわ沁みた。生と死。愛と憎しみ。幸せと不幸せ。それはすべて、姥皮ひとつの裏返しなのかもしれないが、裏返った最後に残るものが、この物語にメッセージとして溢れているように思う。