気仙川 畠山直哉 河出書房新社

3・11から、あと数ヶ月で2年。あの日を忘れまいとする声は、世間的には少しづつ少数派になっていくような気がします。原発推進を唱える自民党が選挙で大勝ちしましたし。でも、3・11がアートや小説として登場し、語られていくのはこれからだと思うのです。あの日に自分が感じたこと、体験したことを発信するには、内的な作業がそれだけ必要だと思うのです。この写真集も、昨年の9月に刊行されたもの。ここに収録された作品を見、震災時に故郷の陸前高田に向かった畠山さんの文章を読んで、繰り返し語られねばならない「あの日」について、また考えることができました。

私は、この写真集のきっかけになった2011年の東京都写真美術館での写真展『畠山直哉展 Natural Stories ナチュラル・ストーリーズ』を見ています。これぞ畠山さんというスケール感の大きな作品たちとは区切られた一角で、この故郷を撮影した作品たちは静かに震災を、在りし日の美しさを語っていました。そして、その写真たちが飾られた一角を、大きな満月の写真が照らしていました。それを見たとき、上手く言えないのですが、ただもう、あるがままに悲しかったのです。震災をめぐるもろもろの動きに対するもやもやした怒りや、自分自身に対する苛立ちや、そんなものとは無関係に、失われた命と風景に対するただひたすらな悲しみがまっすぐ伝わってきて、ぽろぽろと泣けたのを覚えています。

 写真は「あの日」を伝えるものとして、震災後からたくさん目にしました。写真や動画というのは衝撃的な力があります。あの日ー流されていく車や家に「逃げて」と叫ばずにはいられなかった、でも絶対的にその声は届かないという無力感と絶望に日本中の人が苛まれました。映像には有無を言わせぬ圧倒的な説得力があるのです。でも、だからこそ、写真にはコマーシャリズムをはじめとする様々な計算もつきまとう。報道の傍若無人さもあいまって、その頃の私には、映像の毒が回っていたのかもしれません。そんな時に見た畠山さんの写真は、私の中の混乱を解きほぐし、写真本来の力を以て「あの日」を伝えてくれたのです。あれから一年経って再び出会ったこの写真たちを見て、やはり記憶が薄れかけていた私は、畠山さんが何の気なしに撮影していたという在りし日の陸前高田の美しさに改めて衝撃を受けました。何とも色鮮やかなかっての故郷と、灰色に破壊された震災後の風景との落差に改めて愕然としたのです。
畠山さんは日本を代表する写真家の一人です。彼の写真は見るものに真実とは何かを考えさせる力があると思います。この震災前の故郷を撮影した作品は、誰に見せるつもりもなく撮影されたらしいのですが、まるで動き出すかのように鮮やかに美しい。それ故に、一瞬にしてこの風景を失ったあの日を刻みつけているのです。失われたが故に永遠のものとなってしまった写真たち。震災後の気仙川沿いの写真は、有無を言わせぬ圧倒的な力が過ぎ去ったあとの灰色の風景です。これらの写真と共に、言葉としてあの日のことが語られているのは、この写真集がアートではなく、記録としての位置づけであるが故なのでしょう。その生々しい記憶を読むと、畠山さんが、まだあの日のこの場所に、ずっと佇んだままであることが伝わってきます。震災を遠い記憶にしようとしている今の空気と、未だあの日に佇む人たちとの落差。それが、震災前と震災後の風景との落差に重なって見えます。もうすぐ阪神大震災がおこった1月17日もやってきます。今だからこそ、たくさんの人に手にとって欲しい本だと思います。
2012年9月刊行
河出書房新社