かえでの葉っぱ D・ムラースコーヴァー 関沢明子訳 出久根育絵 理論社

とても美しい絵本です。この何とも美しい絵本に、もっと他に素敵な表現はないかといろいろ考えたんですが、美しいものは美しいんだから、仕方ない。(開き直ってますね)金色で、片方のふちがピンクの大きなかえでの葉っぱが、ふわりと自分の樹から旅立ち、さまざまな場所に自分のその身を置く話です。ムラースコーヴァーさんのとてもシンプルなテキストと、出久根育さんの詩情に満ち溢れた絵が溶け合って、一頁一頁がとてもドラマチック。ツバメと葉っぱが一緒に空を飛んでいる頁なんて、一緒に風を感じてドキドキします。こんな風に空を飛ぶなんて、絶対に私たちは体験できない。でもね、不思議なんですけど、私はどこかにこの記憶を持っているようなんです。少年と山の上で出会うことも。虫を乗せて川を下るのも。無数の星たちを見上げて夜の空を飛んでいくのも。雪の下で、じっと春を待つのも。この絵本の舞台のチェコなんて全く知らないのに、葉っぱの出会う風景が、心がぎゅっとするほど懐かしい。散々旅をして、いっぱい命と出会って、そのあと懐かしい人に火の近くで再会して燃え尽きる。そんなことが、いつか自分にもあったと思うんです。

生まれて、死んで。輝いたり燃え尽きたり、風に吹かれて舞い上がったり、どこかに落ちてそのまま朽ち果てたり・・・きっと、私たちはそんな風に命を繋いで繰り返してきた。その流れが、自分にも、葉っぱにも、少年にも、ムラースコーヴァーさんにも、出久根さんにも、そして私にも流れている。言葉にならない原風景のような記憶が溢れるような、静かだけれどもドラマチックな時間がここにあります。ただただ、その時間に身を浸す寂しさに近いような幸せを感じました。手元に置いて、いつも眺めたい一冊。この絵を原画で見たいものです。どこかで原画展をしてくださらないかしらん・・・。

 

2012年11月刊行

理論社

 

映画 100万回生きたねこ

私は、否定的なことをネットに乗せるのは好きじゃない。せっかく語るのなら、好きなもの、自分が感動したことについて書きたいと思うから。でもなあ・・・今日は辛口です。何故かというと、佐野さんファンとして、とても残念だから。佐野さんという稀有な存在をドキュメンタリーにするのに、あれでは残念すぎて仕方ないと思うのです。

『100万回生きたねこ』を今日kikoさんと見てきた。大好きな佐野さんのドキュメンタリーということで、期待は大きかった。佐野さんはとても大きな人で、ありのままで、何もかもを丸ごと見つめる人。時々、自分が嘘っぽくて空っぽになってると思うと、私は佐野さんの本を読む。すると、内臓がちゃんと自分の中に帰ってきてくれる気がするのである。佐野さんの体はいなくなってしまったけれど、佐野さんとはいつも本を通してしか繋がっていなかったせいもあって、私にとっては永遠の存在だ。でもでも、その最後の日々に、映像を通して触れることができるかもしれないと思うと、私はこの映画がとても楽しみだった。

しかし映画の内容は、期待していたものとは全く違った。まず残念だったのは、佐野さんと、ほかの登場人物たちが、全く有機的な繋がりを持たなかったという点だ。ほんの一瞬佐野さんの肉声が流れただけで、そのあとは延々と「それぞれの生きづらさと向き合う読者たち」が絵本を読み、自らの生きづらさを語る映像が続くのだが、私には、彼女だちの生きづらさと佐野さんの絵本や生き方がどう関わりを持つのか、さっぱりわからなかった。それもそのはず・・・映画に参加した女性たちは、この監督さんの前作の映画を見に来た方たちなのである。佐野さんとも、「100万回生きたねこ」とも、なんの関わりもない。だから、単に自分語りに終わってしまうのである。しかも、その苦しみの描き方というか、映像の演出が、これでもかこれでもかと過剰すぎて、かえって彼女たちの真実が卑小化されてしまってこちらにまっすぐ伝わってこない。「人の苦しみってこんなもんでしょ」という監督さんの思い込みの中に、佐野さんも読者の人たちもすべてを押し込んでしまったようなそんな印象だった。これでは、佐野さんに対しても読者の方たちに対しても失礼ではないのかしらと思う。

 

そして、何よりも残念だったのは、佐野さんという大きな存在に対して、全く切り込んでいないこと。佐野さんという天衣無縫な人を前にしてどうしていいのかわからない、というのはわかる。簡単な物差しでは測れない人だし。だからこそ、佐野さんを自分の理解できる場所に無理やりあてはめるのではなく、「わからない」ということをまっすぐ見つめてぶつかっていくべきだったと思う。簡単な理屈なんかに人間を押し込めては、大きなものが抜け落ちる。映画では、お顔を撮影するのは佐野さん自身が拒否されたということで、肉声だけが流れた。その声の、なんと魅力的なこと。一度も聞いたことがないにも関わらず、「ああ、佐野さんだ!」とすとん、と胸に落ちてくるほど説得力がある。もっと聞かせてよ!と私は歯ぎしりしそうだった。「私ね、もうすぐ死ぬのよ」なんて、あの声で言える人は、そうそういない。佐野さんへのインタビューは、撮影時間にして20時間もあるらしい。もったいない。心底もったいない。それをしっかり編集して、佐野さんのアトリエや自宅の風景とともに見せてくれるだけで十分だったんじゃないか。佐野さんは、佐野さんだ。いつ、どこにいても、死の間際にいても、大きな樹がただそこにあるように100%佐野さんで、私はそんな佐野さんにずっと触れていたかった。猫のように、すりすりしたかった。佐野さんのインタビューだけで、もう一つDVDを作ってくれはらへんかな。アトリエにあった、原画や未公開の絵を、もっと見たかったな。何の小細工もいらない。ただ、そこにいる佐野さんを感じたかった。先日見た『天のしずく』は、監督さんがまったく表に出ずに辰巳さんという「人」を丁寧に見つめ、そこから始まる広がりを見事にとらえていた。ドキュメンタリーは、そうあって欲しい。

残念のあまり、筆が進んでしまいました(汗)でも、監督さんが佐野さんに会いにいかなければ、佐野さんの肉声を聞ける機会はなかったんですよね。うん。そこは、素直に感謝です。もったいないけどね。ほんまに、もったいないけどね・・・(何回いうねん!)