絲山秋子さんの読書会 in MARUZEN &ジュンク堂梅田店

『薄情』(新潮社)『小松とうさちゃん』(河出書房新社)の二冊の刊行記念読書会に参加してきた。大阪では珍しい、絲山さんご本人も交えての読書会。20人ほどが集まって、小さな会場はいっぱいだった。集まった方のスタンスも色々で、小さな切り抜きも全て集めています、というファンから今日初めて買ってみました、という人もいたりした。でも、それがまた面白かったのだ。ほんの一時だけれど、絲山さんに惹かれて集まった人たちの想いが小さな世界を作っていた。それぞれの不器用な言葉を真摯に受け止める絲山さんの包容力に包まれて、幸せな一時だった。  絲山さんの作品の豊かさ、短いものでも、そこに含まれているものの深さと広がりについて皆が語ると絲山さんが「それはきっと皆さん自身の豊かさなんです。私の作品は、その出力装置にしかすぎない」(言葉そのままではないので、ニュアンスだけ)とおっしゃった。でも、その出力装置の性能が半端じゃないから、皆これだけ語っちゃうんですよ!と申し上げたかったが、言いそびれてしまったのでここに書いておきます。

土地と人間の結びつきについて。住んでいる土地が、人を作るのではないかということ。これから書きたいと思ってらっしゃること。様々お伺いしたが、「面白いことに、言葉で書いてあることについての感想は人それぞれなんですが、言葉で書いていない部分については、共通点があるんです。」という言葉が印象的だった。作品という一つの山に、いろんな道から登ることが出来て、でも、同じ風景も心に感じることが出来る。これが文学の自由さでもあり、広がりでもあるんだなあと。帰宅して、『小松とうさちゃん』を読みましょう、と思いながら、ふと『海の仙人』が読みたくなって取り出したらはまってしまい、すっかり敦賀の海辺で時を過ごしてしまった。幸せだった。『薄情』と『小松とうさちゃん』のレビューは、また改めて。

「離陸」http://oishiihonbako.jp/wordpress/?s=%E9%9B%A2%E9%99%B8

「妻の超然」http://oisiihonbako.at.webry.info/201012/article_9.html

「末裔」http://oisiihonbako.at.webry.info/201104/article_4.html

「ばかもの」http://oisiihonbako.at.webry.info/200810/article_14.html

「北緯14度」http://oisiihonbako.at.webry.info/200901/article_14.html

まんげつの夜、どかんねこのあしがいっぽん 朽木祥 片岡まみこ絵 小学館

誰も遊びに来てくれないのが寂しくて、自分で作ったご馳走を食べ過ぎて太ってしまったネコが一匹。友達を探しに出かけたのに、なんと不幸なことに、土管にすっぽりはまって動けなくなってしまう。さあ、大変。皆でこの子を助けなきゃ!と「おおきなかぶ」状態になるのかと思いきや、そこはやっぱりネコですからね。皆、何だこりゃ、とフンフン匂ったりするだけで、どこかに行ってしまう。でも、その日はちょうど満月。ネコの集会が行われる夜だったのだ。土管のまわりを、ネコたちが歌って踊る。土管にはいったまんまのどかんねこはどうなるの?・・・という、可愛くて何だか不思議な味わいの絵本なのだ。

夜と満月の匂い。片岡まみこさんとコラボのネコの絵本ということで、私はもっとほんわかした感じを想像していた。もちろん、ネコたちはとってもとっても可愛くて、たまらなく魅力的だ。この絵を額に入れて、部屋のあちこちに飾っておきたい。ところが、その可愛いネコたちが朽木祥の研ぎ澄まされた言葉のマントをふわりと羽織ると、ネコのリアルをそのままに、不思議な夜の住人になるのである。

たん、たたん、たん! 「まんげつのよーる!」

宮沢賢治に「鹿踊りのはじまり」という短編がある。すすきの野原で、栃団子と忘れものの手ぬぐいを真ん中にして、鹿たちがぐるぐると歌って踊るのを、手ぬぐいの持ち主の目を通して、目撃する物語だ。鹿たちは、筋肉の盛り上がりや息づかいが感じられるほどに見事に鹿そのもので、だからこそ私たちは目の前で展開する鹿の会話の不思議に、息を詰めて魅入られる。私たちが見ているこの世界と、重なりながら隔たっている異世界。そのあわいで、鹿たちの命が喜びに歌う、くらくらする幻想とリアルの世界だ。この物語にも、そんな不思議な魅力がある。うちのネコたちも、満月の夜にするっと二本足でこの家を抜け出して、どこかの野原でこうして踊っていたりするんじゃないか。もしそうなら、どんなに嬉しいだろう。だって、まんげつの光を浴びて踊るネコたちは、それはそれは生き生きとネコである瞬間を楽しんでいるのだから。ネコは、どんなに幸せに暮らしていても、どこか「ひとり」であることを忘れない。自分の生も死も、ありのまま見事に引き受ける。そこに、私たち人間は、寂しみや、ひとりであることの誇りや、様々な人生の「滋味」のようなものを感じてしまう。この物語のネコたちも、何だか皆、それぞれにひとかたならぬネコ生を持ち寄っている気配がする。簡潔なテキストで、そこまで読み手に感じさせる深みが、朽木祥の言葉の魔法だ。心のなかの、なぜか知らないけれど、生まれたときからある寂しさに、じん、と染みこんでくる。

この満月の光は、『かはたれ』で八寸がネコになるために浴びていた光と同じなのだろうか。『かはたれ』は、夜明け前の薄明の時間のこと。ぼんやりとした、朝でも夜でもない幻の時間のことだ。母を失った少女の麻は、八寸というネコの形で現れた河童の魂に触れて、失いかけた心を取り戻す。この夜のネコたちも、異世界の住人だ。でも、きっと昼間は別の姿で暮らしているに違いない。そこらで昼寝をしていたり、おやつをねだっていたり。でも、こうして物語の中で、命の不思議のマントを羽織り、私たちに会いに来てくれる。それにもっともしかして、私も「まんげつの夜」は、こうして二本足のネコになって、この物語の中で踊っているのかもしれないじゃないか。物語という異世界に魂だけになって触れることで、私はやっと昼間人間の姿を保っているのかもしれない。

お日様が昇って朝のノネコは野原に取り残されてしまうが、もうノネコも、この絵本を最後まで読んだ私も、「ひとり」だけど一人ぼっちではない。「まんげつの夜」は、ノネコのご馳走を食べて、たん、たたん、とステップを踏みに、この絵本の頁をめくれば、よいのである。この表紙のノネコは、こちらをまっすぐに見つめて、物語の世界に誘ってくれている。ネコにこんな風に見つめられたら、私たちは魅入られるしかないのである。

2016年1月刊行

小学館

片手の郵便配達人 グードルン・パウゼヴァング 高田ゆみ子訳 みすず書房

戦争の本や資料を読み込んでいると、「国」という巨大な一つの生き物同士が戦争をしていたかのように錯覚してしまうことがある。実際にはガンダムのモビルスーツのようなものを着た「日本」なんて、どこにも在りはしない。殺したり、殺されたりするのは、自分の息子と変わらない若い男の子たち。爆撃に手や足をもがれ、暴力に蹂躙されていくのは、「おばちゃん」と声をかけてくれたりする、幼い頃から知っている桜色の頬をした娘たちなのだ。そのことを心に教えてくれるのは、いつもこの本のような、心に響く物語だ。

この本の舞台は、戦時下のドイツの一地方の村だ。主人公のヨハンは17歳。召集されて三週間で片手を吹き飛ばされ、故郷の村に帰り、やりたかった郵便配達人の仕事についている。ヨハンは、毎日20kmの山道を歩いて郵便を配達する。戦場に母達が送る小包。息子たちが送る手紙。これは、嬉しい便りだ。そして、戦死の黒い手紙を運ぶのもヨハンだ。彼が歩く道のりは、そのまま物語の地図となり、郵便が運ぶ生と死とともに、くっきりと在りし日の村が立ち上がる。パウゼヴァングの筆は見事な客観性に貫かれていて、この小さな世界に、人として生きる全てがあることを描き出していく。

70年前のドイツの人々の日常は、私たちと何ら変わらない。そこにはやはり愛情があり、裏切りや悲しみがあり、家族への慈しみがあり、恋する若者たちがいる。ヒトラーに対するスタンスも様々だ。特にヨハンの母は、助産師として自分が取り上げた若者たちを戦争に送り込むヒトラーを毛嫌いしている。その物言いは痛快だ。同じ国に住んでいても、人の心は同じ色ではない。パウゼヴァングは、村人たちの人生を次々に描いていく。銃弾で顔を吹き飛ばされた青年。五人の子どもを残して死んでいった夫の死を嘆く未亡人。疎開してきた夫婦。強制労働で連れてこられたポーランドやウクライナの人々。100人いれば、100通りの物語がそこにあり、それぞれの人生に、戦争が黒々と食い込んで傷跡を残している。

彼らは、今、ここに生きている私たちと、痛みや苦しみも、喜びも、何ら変わらない。だからこそ、何度も立ち止まって考えてしまう。なぜ、彼らがヒトラーに政権を与えてしまったのか。なぜ、ホロコーストへの道を歩くことになってしまったのか。近隣諸国やアジアに侵略し、沖縄を地上戦に巻き込み、本土を空襲や原爆で徹底的に破壊され、何十万もの若者たちを戦争に送り込んだ、かっての日本に住んでいた人たちも、きっと今の私たちと変わらぬ日常を生きていた。だとしたら、これからの私たちが、また同じ道のりを歩まない保証が、どこにあるだろう。「戦争が出来る国になる」などという威勢の良い言葉に乗せられた後の光景が、確実にこの物語の中にある。

ヨハンは、母と同じ助産師のイルメラと恋をする。夏の青空のような、命の息吹に満ちた輝かしい日々。本当なら、そこから新しい命の連鎖が繋がっていくはずだった。しかし、戦争の理不尽は、全てを押しつぶす。一旦終わったかのように見えた戦争が、逃れられぬ運命のようにヨハンを飲み込んでいくのだ。ラストの理不尽さに、私はしばし呆然とした。物語を通じて、まるで息子のように片手の郵便配達人のヨハンを愛してしまった自分がいて、この理不尽を受け入れるのが辛すぎた。しかしパウゼヴァングは、あえてこの理不尽を読み手に突きつけたのだろう。

ヨハンの片手は、ヨハンだけのものだった。他の誰の手も、その代わりにはなれなかった。その片手を奪ったのは、兵士を入れ替え可能なものとして使い捨てる軍隊であり、戦争だ。ヨハンの失われた片手は、「個」のかけがえのなさ、人間の尊厳そのものなのだ。彼は、残った片手で村人たちの郵便という愛を繋ぐ。恋人を抱きしめ、キスをする。ところが、詳しいことはネタバレになるから書かないが、ヨハンは再び、彼自身であることを剥奪されてしまう。この世界に、片手の郵便配達人は、ヨハンただひとりだった。でも、彼はそのただ一人のかけがえのなさも奪われる。これが、戦争だ。人間というものが複数ではなく単数でのみ存在するかのように、地上にひとりの人間しか存在しないように人間を組織することで、全体主義は成立すると、ハンナ・アーレントは言う。戦争は、もっとも精鋭的な全体主義そのものだ。私たちはモビルスーツを着たガンダムではない。吹き飛ばされた片手は永遠に戻ってこない。

あなたは、今、どこにいるのかと。この理不尽にたどりつく道筋は、あなたの心の中にあるのではないか。一見平穏な日常に、黒々と戦争へと続く道筋は刻まれていないか。ヨハンが片手を奪われることを許してしまったとき、収容所ではやはり個人としての尊厳を奪われたユダヤ人たちがモノのように殺されていった。どんなに綺麗事で飾っても、八紘一宇や美しい日本、などという言葉に乗せられてしまったが最後、日本は近隣諸国を蹂躙して自分たちも深い深い傷を負うことになる。戦争は一旦始まれば、巨神兵のように全てを焼き尽くしてしまう。そこから逃れられる人間など、誰一人としていない。私たちは二度と人間としての尊厳を、失ってはならない。ヨハンの片手が、それを教えてくれる。

「ヒトラーの独裁政治は誘惑的でした。自分が何をすべきか、自ら判断する必要はなかったからです」

これは、後書きでのパウゼヴァングの言葉だ。終戦時17歳だった彼女は、軍国少女だったという。一昨年亡くなった児童文学者の古田足日も、戦時中に受けた皇国教育が、嘘っぱちだと知ったとき、自分がどう生きていけばよいかわからなくなったという。その思いが彼を児童文学へと駆り立てていくのだが、パウゼヴァングのこの作品にも、同じ苦しみと願いが込められているように思う。ナチスが配ったユダヤ人を貶める本を読んだヨハンが母にその是非を尋ねたとき、彼女はこう言い放つ。「あんたの脳みそはなんのためにあるの?」ドイツは、戦後自分たちの過ちと向き合い、子どもたちにも戦争責任を教えてきた。しかし、日本は過ちの痛みをまっすぐ見つめることを怠り、歴史を自分たちの都合のいいいように書き換えようとさえしている。再び片手が失われないように。誰の命と尊厳も奪われたり、奪ったりすることのないように、最大限脳みそを使わなければならない時が、もう既に来ている。パウゼヴァングのこの本は、そのことを教えてくれる。

2015年12月刊行

みすず書房

 

 

あけましておめでとうございます

 

もはや6日、いや、日付が変わって7日になって、新年のご挨拶とは遅すぎますが。 最近、長い評論を書くので目一杯になっておりますが、更新したい気持ちはいつもあるのです。(って、新年から言い訳書いておりますが) いろんなものを読めば読むほど、あれこれ勉強すればするほど、文章が書きにくくなるということを痛感しております。しかし、痛感してばかりではいかんので(笑)今年は、なるべく更新を目標にしていきたい!と抱負を書いて自分の縛りにしておきます。

生き延びていく、という言葉が大げさではないほど、今、私たちは「異常な日常」に囲まれています。児童文学に関わるひとたちは、一番その異常さに敏感です。それは、子どもたちの未来を、いつも考えざるを得ないから。インディアンのイロクォイ族は「何事を決めるにも、自分たちの決断が七代先に影響を及ぼすことを考えなければならない」と何かを議論するときに常に誓い合っていたといいます。(管啓次郎「野生の哲学」より)その視点で見つめると、今、目の前に広がっている風景とは全く違うものが浮かび上がってきて、背筋が冷たくなっていくのです。何かしなければと、胸がぎゅっとする。だからこそ、言葉の力を信じて、今年も右往左往していきたいと思います。まずは、更新!ですね(笑)

繁内 理恵