おむすびころりんはっけよい! 森くま堂作 ひろかわさえこ絵 偕成社

 絵本の世界は今、ボーダーレス化が進んでいて、刊行される新刊も大人を意識して書かれたものが多いように思う。絵本という表現形式はそれだけ大きな可能性を秘めているということなのだから、それはそれで歓迎されるべきことなのだ。しかし職業柄、図書館で子どもたちに紹介する目線で絵本を見てしまいがちな私には、時にこの傾向が寂しく思われることがある。昨日もこの「おいしい本箱」の相棒のkikoさんと大阪のジュンクで新刊チェックをしていたのだが、この絵本の楽しい存在感が、私にはひときわぴかぴかと光って見えた。

さんかくとまんまるのおむすびの国というのが、もう視覚的に楽しい。ふたつの国は仲が悪い。とはいえ、同じおむすびで、同じ畑で「からあげ」や「めんたいこ」の具を育てている(これもまた、おもしろい)のだから、違うのはただ形だけなのだ。似て非なるものは最も仲が悪いという。まんまるの国のおむすびたちが、なぜか大阪弁であるところをみると、東京と大阪、くらいの違いにすぎないのだが、得てして関係がこじれがちなのが常。ふたつのおむすびの国はとうとういくさをすることになる。

私がとっても素敵だと思うのはここからだ。「いくさ」がわからぬおむすびの殿様同士で、お相撲をとることになるのである。家来や一般人のおむすびを戦わせて、後ろでふんぞりかえったりしないのである。殿様が自分で身体を張って、いざ、尋常に勝負!毎日毎日自分でも呆れるほど戦争の記録を読み続けているが、こんなにいい争いごとの解決方法は見たことがない。兵器もなにも使わずに、まわし一つで健気に相撲をとる殿様ふたりが可愛くて、しかももの凄い熱戦なのである。ふたりとも応援したくなるではないか。そして熱戦のあとは・・・これはもうこの作品を読んで確かめていただきたい。爆笑して、ほっとして、おいしいおむすびを頬張ったときのように笑顔になれる。

ここに描かれているのは「人間」への信頼だ。おむすびのように、中身はおんなじなのに、ほんの少しの肌色や、うまれた場所や、その他もろもろ、そんなんどっちでもかまへんのと違いますか、ということで対立しあう人間の業のようなものは確かに存在する。それが人間やねん、弱い方が滅びていくのは当たり前や、そやから強う、誰にも負けへんようにしとくもんや、そうやろ、という声は、いろんな形で迫ってくる。子どもたちも、日々その価値観に追い回される。しかし、私たちの喜びは、この絵本の最後のページ、色も形も味も違うおむすびたちが、思いのままに楽しんでいる、この風景そのものにある。ここを目指してきた力が、様々な時代を生き抜いてきた人間には必ず備わっている。そう思わせてくれる。

何よりいいのは、こういう深読みさせてくれるテーマをはらみつつ、あくまで楽しいユーモアと、おにぎり一つ一つが活き活きしている絵の素晴らしさで「面白い!」ということを堪能させてくれるところであることも申し添えておきたい。コロナでしんどい今、子どもと一緒に大笑いして、何度も楽しめる一冊。

セイギノミカタ 佐藤まどか作 イシヤマアズサ絵 フレーベル館

「正義」ってなんだろう。正しいことってなんだろう。アンパンマンも仮面ライダーも、悪人をやっつける正義の味方は大人気のはずなのに、なぜか日々の暮らしのなかで「正しいこと」を言うと嫌われる。「偽善者」「ええかっこしい」「いい子ちゃん」などと言われ、疎まれる。
例えば、この物語の主人公のキノは、すぐに顔が真っ赤になることを気にしている。それをクラスメイトのお調子者のタイガが目敏く見つけてからかいのネタにしてくる。キノは心のなかではムカつくけれど、はっきりと「やめろ」とは言えない。そんな空気を読まないことを言うと、余計にからかわれるだけだから。そんなとき、空気を全く読まない、セイギノミカタの周一が「やめろよ!」とやってくる。ところが、キノは助けてくれてありがとう、と思うどころか、そうやってしゃしゃり出てくる周一がウザくてたまらない。よけいなお世話なんだよ、ほっといてくれよ!と思ってしまうのだ。タイガの悪ふざけはますますエスカレートし、それに対する周一のリアクションも大きくなってキノはどうしていいのかわからなくなってしまう。前の席のひとみちゃんは、そんなクラスの雰囲気に流されず、いつもクールに本を読んでいる。
あるよね、こんなこと!と共感できるシチュエーションを自然に描くことができる筆力はさすが。その上で、キノと周一、そして飄々とマイペースで知的なひとみちゃん、という三人のキャラが活き活きとしているので、語り手としてのキノに感情移入しながら、いろんな角度からこのささやかで、でも、解決しにくい出来事を眺めることができる。私ならどうするかな。こんなにはっきり、自分の意見が言えるかな。どうして、いつも正しいことを言う周一を、みんなうっとうしく思うのかな―知らず知らずのうちに想像してしまうに違いない。ブレイクしたブレイディみかこさんの『ぼくはイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)の言葉を借りるならエンパシー、他人の靴を履いてみる体験ができる。
正しいことを正しい、というのは勇気のいることだ。そして、正しいことや正義、というのもまた考え出すと難しい。この物語のこの本のタイトルの「セイギノミカタ」は、正義の味方と、もう一つ「正義の見方」という意味も含んでいるように思う。大抵の戦争は正義を唱えることから始まるし自分にとっての正義が相手にとってもそうだとは限らない。そして社会の構造的な暴力のあり方を考えていくと、その根っこが自分のなかにも生えていることが、否応なく見えてしまう。私のなかに、タイガもキノも、ひとみちゃんも、周一も住んでいるけれど、一番やっかいなのはタイガの作った空気に便乗して流されていく、その他大勢でいたい自分だ。アニメや時代劇の正義のヒーローはわかりやすい小悪人をやっつけるから胸がすく。でも、自分との戦い方は教えてくれはしないのだ。最後にキノが見せた勇気が、この社会を変える一歩。この光をつぶさないようにしたいと心から思う。空気を読んで、強いものに流されてきた一人一人のあきらめが、今の私たちの社会のどうしようもなさを作り上げているように思うから。