劇団6年2組 吉野万理子 学研教育出版

懐かしや、クラス演劇。思い出すとけっこうやってましたねえ。外したときのリスクも高いんですが、その分ツボにはまったときの達成感は半端なかったことを覚えています。盛り上がれば盛り上がるほど凝り性になって、家からいろんなものを持ってきてあれこれ作ったり。私たちの頃は、放課後塾に行っている子なんて全くいなかったので、時間が使い放題だったというのもあるかも。そして、あの頃はドラマ全盛の時代です。百恵ちゃんの『赤い~』シリーズに本気で泣いていた時代ですから。漫画だって『ベルサイユのばら』に『ガラスの仮面』という、セリフを口にするだけでお芝居気分になれたものがいっぱいありました。どれだけ皆で真似っこしたことか。近所のバラの生垣のところで、オスカル役とアンドレ役を決めて、ラブシーンやったり(笑)そんな下地もあったせいか、とにかくやってみたかったんですよね、お芝居というやつを。この本を読んで、久しぶりにあの頃のときめきと楽しさを思い出しました。

お芝居の楽しさは、何にもない空っぽのところから、皆で架空の国を作り上げるところ。この物語もそうです。学校に公演に来たプロの演技に魅せられて、卒業のお別れ会でお芝居をやりたい!と思った立樹が、クラスの皆と自分たちだけのシンデレラのお芝居を作り出すところが描かれます。お芝居なんて、どうしたらできるのかわからない立樹たちは、プロの人に話を聞きにいったり、自分たちで台本を探したりします。でも、俄然面白くなるのは、台本通りにする必要はなくて、自分たちの自由にお話を作り上げていけばいい、と知ったところからです。誰もが知っているシンデレラのお話。でも、なぜ継母はシンデレラに意地悪したくなるのか。魔法使いはなぜシンデレラを舞踏会に送り込んだのか。「なんで?」と登場人物の気持ちになって考えていくことで、物語はどんどん膨らんで、自分たちだけのリアルな心が入っていく。そして、それが、見ている人に伝わっていく。「伝わる」ということは、とても嬉しいことなんですよね。その喜びが、とてもストレートに物語から溢れてきました。

「伝える」というのは、本当は生きていく基本なんですが、これがけっこう難しかったりします。立樹たちがこのお芝居から見つけた「人の気持ちを考えると、これまで見えなかったことが見えてくる」ということは、思いを伝えたり、伝わったりするために絶対必要なことなんだと思います。自分ではない誰かになりきってみる、という経験は、これまで知らなかった人の心に踏み込んでみることに繋がりますよね。この物語でも、立樹やクラスの子どもたちは、お芝居を通じてお互いの知らなかった部分に気づきます。自由な想像力は、現実を変える力ともなるのです。そのパワーを、さわやかに描きあげた楽しい物語でした。ト書きというあまり子どもたちが目にしない脚本形式を物語の中に交えてあるのですが、とても自然で新鮮な印象になっていて、これはとても苦労されたところではないかと思いました。脚本家でもある吉野さんの手練の賜物ですね。挿絵も『チームふたり』のコンビである宮尾和孝さんで、さすがのチームワークです。

2012年11月刊行

学研教育出版

 

 

大きな音が聞こえるか 坂木司 角川書店

毎日がつまらない。このままオトナになっても、退屈な人生しか待っていないような気がする。「なりたいタイプの大人がいない」のがここ数年来の悩みである主人公の泳。何かに向かって努力する気力もわかず、ただぼんやりしている夏休みが、「ポロロッカ」という目標にロックオンしたとたんに激変します。狭い場所で、言葉をこねくり回して何もかもわかった積りになっていた泳が、自分の身体を使って生きることを確かめていく旅。若い身体は、成功も失敗も、すべてを糧として吸収していきます。その「骨がぎしぎしいうくらい」の成長を、物語として言葉で読む面白さに酔いました。ポロロッカというのは、月の引力が引き起こすアマゾン河の大逆流です。3mもの高さの波が河口から内陸に向かって逆流する。海の波なら消えてしまうものが、一方方向にどこまでも続いていく。サーファーには応えられない波なのかもしれません。主人公の泳は、その波に乗りたいと思うのです。

かったるいけど特に反抗もせず、学校でも空気を読んで本音は言わず、自分の居場所を確保する。最初に展開する友達の二階堂との会話なんか、THE・男子高校生の日常という感じ。この「空気を読む」というのは、日本独自の文化ですよね。お互いぶつからずに物事を進行させるという面においては優れていますが、常に束縛と排除されるかもしれないという恐れをはらみます。皆でぬるま湯にいることをお互いに監視して、抜け駆けを許さない。でも、ポロロッカでサーフィンするという目標を定めてバイトを始めたところから、その「空気を読む」文化から、泳は抜け出していきます。引っ越しのバイトも、まるで外国のような中華料理店のバイトも、お互いの空気を読めるかどうかを判断基準にするような付き合い方では、到底勤まらない職場です。そして、アマゾンという場所に行く手続きを一人でするためには、誰かが空気を読んでくれるのを待っていても何も始まらない。ちゃんと正面から話をし、自分のやりたいことを説明する必要があるのです。このあたりから、学校にいる時の泳と、自分のやりたいことに向かう場所にいる泳に違いが出てくるんですよね。違う世界に触れることで、新しく生まれてくる自分の手触りが、学校の同級生の女の子たちのゆるふわぶりとバイト先のエリという苛烈な女子の対比や、クラスメイトとの諍いを通してうまく描かれています。若いっていうことは、次々と自分の殻を抜け出していけることなんですよね。うらやましいわ、ほんとに(笑)

その脱皮ぶりが、ブラジルに渡ってからすごいことになるんですよ。このあたりからぐんぐん波に乗っていくサーファーそのものの弾けっぷりで、読んでいて面白かったのなんの。いきなり日系人の可愛い女子と・・・という展開になったときは「おいおい、調子に乗りすぎやろ」と爆笑しましたが(笑)強烈な日差しの中での濃い経験は、くっきりと光と影をつくって泳に刻まれます。違う文化や価値観に触れること。大きな自然に身一つで相対してみること。どちらも少年を大人にします。泳は外国人のパーティの船に乗せてもらい、ポロロッカに乗ることになるのですが、何しろ外国人相手に空気をどうのこうのというのは全く無理です。自分の言いたいことをはっきり言わないと、かえってややこしいトラブルを生むことになります。そして、泳はアマゾンの自然から、自分を含めた人間が、最後の最後は、自分の身体ひとつで生まれて死んでいくだけのものであることを教わっていくんですよね。河に落ちる夕焼けの中でぼんやりと自分が死ぬときのことを想像する泳は、身体と心が釣り合って過不足ない幸せの中にいるんだと思います。ただ身体一つで波に乗ることだけを考えてわいわいと過ごす船の上の男たちの、なんて楽しそうなこと。その生き物としての根源的な喜びが爆発するポロロッカのサーフィンのシーンは圧巻で、理屈抜きに楽しかった。

俺なんて、俺の身体以下の存在なんだ。カラダ、えらい。
心なんていらない。オレ、いらない。

このサーフボードの上での泳の叫びは、完全に自らの身体性を取り戻した雄叫びのように聞こえました。旅から帰った泳は、両親が嘆くほど大人になって帰ってきます。でも、そこで子どもっぽいと泳が思っていた父親からかけられるラストシーンの言葉がいいんですよね。目の前にいるよく知っているはずの人間だって、「こんなもん」と思い込んですむ存在じゃない。この父と子の関係も、この物語の面白さの一つでもあります。

これから、泳はとってもモテる男子になるに違いない。いい男になるには、旅だね!と勢い込んで本を閉じたものの、家でぐだぐだしてる息子を見つめて遠い目になる今日この頃。うちの息子たちは、いつ旅に出るのかしら・・・。などという愚痴は置いといて(笑)坂木さんの、若者たちへのエールがきこえてきそうな力作でした。読み応えたっぷりの青春小説です。

 

2012年11月刊行

角川書店