低地 ジュンパ・ラヒリ 小川高義訳 新潮クレストブックス

昔に比べて長編を読むのが体にこたえる。若い頃と体力が違うというのもあるが、そこに描かれるひとつひとつの人生が、年齢と共に深い実感を伴って心に食い込んでくるからだ。私の体の中の時間に、この『低地』の登場人物たちの記憶がどっと流れ込んで混じり合う。既視感のような、まだ見知らぬもう一人の自分と出会っていくような、小説と自分だけが作り出すたったひとつの世界を、浮遊する数日間だった。

これは、死者と生きていこうとする人間たちの闘いの物語だ。まるで双子のようにインドのカルカッタ郊外で育った兄弟と、その妻。弟のウダヤンは、若くして革命運動に身を投じ、警官に自宅の裏にある低地で射殺される。それは、身重の妻と両親の目の前でのことだった。妻のガウリの人生は、そのとき一度粉々に壊れてしまった。兄のスパシュは、彼女を妻として留学先のアメリカにつれてゆき、家族として暮らそうとするのだが、ガウリはどうしてもその暮らしに馴染むことができない。それはそうだろう。例えスパシュがどんなに優しくても、誠実な人であったとしても、彼はガウリが愛した人ではなかったのだから。一度粉々になった壺を何とかテープで貼り合わせてみても、そこには何も溜まらない。ガウリは、もう一度、今度は哲学を勉強することで自分を一から立て直してゆく。「ガウリは精神に救われていた。精神を支えにしてまっすぐ立った。精神が切り開いた道をたどっていった」のだ。しかし、それは妻であったり、母であったりすることとは全く相容れない孤独な作業なのだ。その苦しみが彼女を引き裂き、ガウリは、とうとう娘を棄てて家を出る。世間的には許されないことかもしれないが、それはガウリにとって抜き差しならない営みであったのだ。  一方、ウダヤンの死に向き合い続けたのは、スパシュも同じだ。彼にとって弟は、イデオロギーの上で反発しあったとしても、自分の分身のようなものだった。その彼の代わりに父親になろうとし、ガウリとその娘のベラを守ろうとし、ベラを心から愛した。愛情から生まれた結婚ではなくても、妻と子に精一杯誠実であろうとした。しかし、結婚生活はうまくゆかない。そう、うまくゆかないことは始めからわかっていたのだが、彼は失われた弟の人生が失われたままであることに耐えられなかったのだ。彼のとった方法は間違っていたのかもしれない。しかし、これもまた、抜き差しならない彼の、死と向き合う営みだった。そして、ガウリの娘であるベラもまた、母の失踪という喪失を常に胸の内に抱えていきてゆくのだが、不思議にその足跡は、革命に生きた実の父、ウダヤンと同じような軌道を描き出すのだ。アメリカという移民の国で、ウダヤンという一人の男の生と死を身の内に抱えた三人がたどる足跡を抑えた筆致で俯瞰していくこの物語は、過去と今をぎゅっと凝縮させたような質感に満ちていて、その人生の厚みに圧倒された。

私たちは、生きているものだけでこの社会を動かしている気になっているが、実は全くそうではない。ウダヤンを革命に突き動かしていったのは、インドの大地に踏みつけられるように殺されてゆく貧しい人々の死だった。また、ウダヤンの死は家族の運命と常に共にある。そして、ジュンパ・ラヒリはこの運命の影にある死を、もう一つ用意している。ネタバレというか、この物語を最後まで読んで得られるものを傷つけてしまうような気がするので詳しくは書かないが、それはウダヤンとガウリが正義を行おうとして夫婦で間違いを侵した結果としての死なのだ。私にはその死が、ウダヤンの死そのものよりもガウリの苦しみの最も深いところに突き刺さったまま、ガウリの心を凍らせてしまったことを感じた。だから、ガウリは母性のままに子どもを愛せないのではないか。ガウリは、被害者でもあり加害者でもあった。

「ぽつんと小さく浮いた疑惑の点、あの兄妹と座った窓辺から街路を見下ろし、もっと凶悪なことなのかもしれないと思った心の動きを、彼女は押し殺していた。」

見ないふりをした死を、ガウリは一生見つめ続けて生きてきた。ガウリは被害者であるとともに、加害者でもあった。しかし、生きることは常の二つの立場を抱えているものなのだと思う。その二つを見つめ続けたガウリの人生に、深くのめり込んで私はこの物語を読み終えた。彼女の強さも愚かさも、頑なな一途さも、まるで自分の一部であるかのようだった。

人はその体の内に、大切な「死」を抱えて生きてゆく。ウダヤンという一つの死を身の内に深く抱き続けた家族の物語は、まるで星の軌跡のように一つの宇宙を作っていく。私にはヒンドゥーの知識があまりないのだが、この物語を読んでいると、神々の列伝が語られてゆく形に近いのかもしれないと想像したりした。彼等は歴史に何の名前も残さないが、その人生は、その身に愛と罪と誇りを抱くかけがえのなさに輝いている。そのひとつひとつを、愛という腕で抱き取ってゆくラヒリの眼差しと筆力に脱帽の一冊だった。

わたしたちの島で アストリッド・リンドグレーン 尾崎義訳 岩波書店

本を読む楽しみの一つは、自分とは違ういろいろな価値観に出会えることだ。頭と心の風通しが良くなる。でも、もっと楽しいのは、まるで旧友と出会ったかのように、共感できる一冊に出会うこと。毛細血管に酸素がたっぷり供給されるように、隅々まで美しいと思える物語に出会えることは、かけがえのない幸せだ。岩波が少年文庫で復刊してくれたことが、とても嬉しい。
北欧の輝く夏。20人ほどが住むバルト海の小さな島、ウミガラス島に一組の家族が夏を過ごしにやってくる。詩人で子どもっぽいパパのメルケル、家族の母親代わりの長女マーリン、元気いっぱいの少年のユーハンとニクラス。そして、まだ幼い、大の動物好きのペッレ。この物語は、メルケルの個性豊かな子どもたちと、隣の家に住むチョルベンという女の子を中心に島の暮らしを描いた物語だ。まず舞台になる島の風景が素晴らしい。野バラと白サンザシが咲き誇る海岸と、そこに生えているかのような古いスニッケル荘。桟橋に朝日が昇り、夕陽が満ち、リンゴの大きな木があって・・・。こうして書いているだけでうっとりするような島は、まるで子どもの楽園だ。楽しい夏休みを描いた作品は、児童文学に数多くあるのだけれど、リンドグレーンの描く楽園は、精神性も備えた厚みを備えていて、大人も子どもも、彼女の世界に深く分け入っていくことが出来る。そこが、とても魅力なのだ。

まず、先ほど触れた素晴らしい島の自然に、子どもたちの日常が深く溶け込んでいること。
スニッケル荘の隣に住むテディとフレディという姉妹は、お母さんに「おまえたち、エラが生えてきてもいいの?」と言われるくらいの海の子で、ユーハンとクラウスと加えた四人は、冒険の夏を送っている。秘密の隠れ家、ボート遊び、釣り、イカダ作り。ギャングエイジの彼らは、神出鬼没なのであまり物語の中心にはいない。しかし、彼らがいつも黄金の夏を送っていることは、物語のそこかしこにきらめいていて、それこそ太陽のようにこの物語を照らしている。物語は、その妹のチョルベンと、メルケルの末っ子・ペッレを中心に中心に展開する。いつも大きなセントバーナードの「水夫さん」を従えて島中を歩くチョルベンは、生まれついての大物だ。「永遠に変わらない子どもの落ちつき、あたたかみ、かがやき」を持つチョルベンは、この島の王のように楽しく島中に君臨している。一方、ペッレは子どもの危うい感受性がいっぱいに詰まった子どもだ。ペッレは、いつも「どこかの人や、どこかのネコや、どこかの犬が」十分に幸せでないと心配しているような子で、すべてのことを不思議の連続だと思い、動物に限りない愛情を持っている。

この二人が動物をめぐる大騒動をいろいろと引き起こすのが読みどころなのだが、私が凄いなと思ったのはリンドグレーンが、この輝かしい物語の一番奥に、「死」というものをきちんと描いていることだ。まず、この家族には母親がいない。ペッレの出産のときに亡くなってしまった母のことを、この家族は誰も言葉にしない。それは、母の死が、この家族にとってまだ過去にはなっていないことを意味している。子どもたちにとって、そして、そそっかしくて夢見がちで、子どもたちよりも子どもっぽい父親のメルケルにとって、妻がどんな存在だったか。それは、語られないからこそ、この物語の奥から立ち上ってくる。彼らは実は、生々しい大きな不在を抱えてこの島にやってきたのだ。だからこそ、この島の美しさは彼らの心に染み渡り、幸せな記憶が刻まれた古い家は、彼らに安らぎを与える。ペッレの存在不安と思慮深さは、自分の命と引き替えに母がいなくなってしまったことと無関係ではないだろう。島は、ペッレにまた新しい命を与え、奪うことを繰り返す。彼は、その中で、幼いながらも真剣に考え抜いて、自分なりの最善を尽くそうとする。私はそこに、リンドグレーンの、幼い者への限りない愛情を感じるのだ。幼い心は、大人が思う以上に「死」について敏感だ。ペッレの感受性は、決して特別なものではなく、きっと全ての子どもたちの心の中に棲んでいる。リンドグレーンは、その奥深くに眠る不安と喜びに、魂と言い換えてもいいかもしれない深い場所に語りかける術を持っている。この物語は、実は、家族の再生の物語なのだ。だからこそ、母親代わりのマーリンは、この島で将来を共に生きる恋人を見つけることが出来るのだと思う。

私たちは自然の不条理と共に生きている。命は与えられ、美しく輝いて、必ず奪われる。まるで守護神のようにチョルベンの横にいる水夫さんだって、その危険から逃れることができない。(この水夫さんの危機は、本当にはらはらした)でも、私たちは人間だから、心を持っているから、奪われるものを奪われるままに失うことはないのだということ。生きることが、こんなにも光に満ちて輝いているということ、まさに「この世は生きるに値する」ということを、この物語は教えてくれる。夏の日に何度も何度も読み返すのに相応しい一冊だ。この作品を原作にした映画が、この夏に日本で公開されるらしい。絶対に見に行こう!

戦場のオレンジ エリザベス・レアード 石谷尚子訳 評論社

内線が激しくなったベイルートの町を、ひとりの少女が駆け抜けようとします。自分のいる場所から、闘いの激しい中心地を抜け、相手側に飛び込むという命をかけた旅。10歳の女の子が、町を分断するグリーンラインを命がけで超えて見たものは何なのか。少女が感じた「戦争」が、息詰まるような臨場感で迫ってくる作品です。

でも、主人公の少女アイーシャは、例えばナウシカのように特別に強い女の子でも何でもありません。彼女は、出稼ぎにいった父親が帰らぬうちに内戦の爆撃で母が死に、祖母と兄弟と、命からがら避難先で共同生活を送っています。弟の面倒も見ているけれど、10歳の女の子らしく、自分のことだけでいっぱいいっぱいな毎日。用事を言いつけられてふくれたりするアイーシャを、作者はとても身近な存在として描いています。中東、アラブ諸国に生きる人々に対して、私も含めて日本人は遠い距離感で感じていることが多いのではないでしょうか。イスラム、テロ、戦争―マスコミで伝えられるそんなイメージばかりが先行すると、そこに生きる人たちの顔が見えなくなってしまう。でも、そこには私たちと変わらぬ人間の暮らしがあり、家族が、子どもたちがいるのです。物語は、ひとりの人間の心に飛び込むことで、そんな先入観の壁を超えることができる。この物語も、そうです。あなたと、私と、どこも変わらぬ普通の少女が、なぜ危険地帯に行かねばならなかったのか。唯一自分たちの暮らしを支えてくれているおばあちゃんの具合が急に悪くなったのです。彼女に残された道は、たった一つ。戦闘地帯のグリーンラインを超えて、おばあちゃんの持病の薬を貰いにいくことだけなのです。

アイーシャを突き動かしているのは、「不安」です。戦争のさなか、もし母さんだけではなく、おばあちゃんまでもが死んで、自分たちだけ取り残されてしまったら。当たり前にいてくれると思う人がいなくなる、その恐怖は、アイーシャが身近な存在であるからこそ、余計に読み手の心に食い入ります。だからこそ、彼女が必死の思いで飛び込むグリーンラインの緊張感が、ダイレクトに伝わってくるのです。戦争という有無を言わさぬ暴力の気配が充満する中を走る恐ろしさ。でも、私が何より怖かったのは、そのグリーンラインを超えた一歩先の向こうには、またごく普通の人々の暮らしがあることでした。戦闘と日常が、こんなにも背中合わせだということ。これは、日本という島国から出たことのない私にとっては、やはり虚を突かれることなのです。内線は、一つの国を二分します。目指すお医者さんの家がわからなくて泣いているアイーシャを、ひとりの少年が助けてくれ、オレンジをくれる。その美味しさは、誰が食べても変わらないのに、なぜか人は敵と味方に分かれて殺し合う。戦争に大人の事情は、嫌と言うほどあるでしょう。青臭い物言いをするなと言われそうですが、この根本的な問いをまっすぐ投げかけられるのが、児童書の素晴らしいところだと、私は思っています。戦闘が始まった市場の中を、少年の店のオレンジが転がっていくシーンが忘れられません。殺戮の中で無防備な人間の命のようでもあり、踏みにじられる暖かい心の象徴のようでもあります。

アイーシャは子どもだから(いや、大人もそうかもしれないけれど)敵味方を単純に信じています。敵は悪い人で、味方はいい人。でも、「とってもいい兵隊さん」は、帰ってきたアイーシャに、敵の兵隊と同じ眼をして銃を突きつけます。そして、敵側にいるライラ先生は、アイーシャにおばあちゃんを助けるお薬をくれたし、アブー・バシールは、危険を冒して彼女を助けてくれた。アイーシャは敵も味方も超えた、何人かの善意で危険地帯を行って、帰ってくることができたのです。では、なぜ、その人間が殺し合うのか。その不条理が、アイーシャの眼差しの中から鮮やかに浮かび上がります。戦争がテーマですが、スリリングな展開にのめり込んでいるうちに、アイーシャの気持ちに、素直に寄り添っていくことが出来る。読後、子どもたちの心の中には、アイーシャが助かって良かったと思う気持ちと共に、たくさんのやり切れなさが残るでしょう。そのやり切れなさを、いつまでも覚えていて欲しい。「大人になっても、人をにくんじゃだめよ」というライラ先生の言葉を、アイーシャが敵側の少年から貰って食べた、オレンジの暖かい味と一緒に覚えていて欲しいと思います。そして、私のようにまっすぐな問いかけを忘れてしまいそうな大人は、せっせと児童書を読むことにしたいとおもいます。

2014年4月刊行
評論社

グーテンベルクのふしぎな機械 ジェイムズ・ランフォード 千葉茂樹訳 あすなろ書房

もし、私の人生に本が無かったら。想像することも出来ないほど真っ暗闇の人生だっただろうと思います。どういう遺伝子のいたずらなのか、物心ついてからずーっと活字中毒なんですよねえ。3つぐらいのときに、あいうえお磁石で文字を覚えたんです。「言葉」と「文字」が頭の中で結びついた瞬間、自分の中でぱちん、と音がして、もやもやしていたもどかしいものが、するん、とほどけていった。なーんて気持ちいい!と思った快感は忘れられません。それからずっと、私にとって文字は、活字は快楽なのです。その活字を発明してくれたグーテンベルクは、まさに恩人というか、心の御先祖さまというか、日々感謝を捧げても捧げ足りない人であることに間違いはありません。―前置きが長くなりましたが、この絵本は、グーテンベルクが発明した印刷技術を、手順を追って絵にしてある本なのです。紙と皮、真黒なインクと金や緋色やラピスラズリの青で飾られた美しいグーテンベルクの本が、どうやって作られたか。それは、グーテンベルクだけではなく、当時のすべての知恵と、気が遠くなるほど根気のいる作業の上に生まれたものだったのだと、この本を読んで思ったことでした。

頁の見開き左側に、「紙」「インク」「革」「金箔」などが項目ごとに語られ、一冊の本になっていくまでが順を追って解説されます。右側にはそれらの挿絵。唐草模様の装飾に、忠実に当時の風俗を再現した絵が見事です。凝りに凝った造りです。紙をすく人、革をなめす人、真黒になってインクを作る人、大きな木の機械を作る人―名前も残っていない、当時の職人や下働きの人たちが、ここにはとても丁寧に書きこまれています。ただ黙々と働いた、たくさんの人たちの努力があって、やっと一冊の本が出来る。そのことに対する尊敬と感謝がこの本から溢れています。

私にとって「読む」ことは、考えることと同義です。その訓練を長年紙の本で積み上げてきた結果として、私は読むことを紙の活字本から切り離すことが難しい。後書きで訳された千葉茂樹さんがおっしゃるように、印刷技術はここ数十年で恐ろしく進化を遂げて、グーテンベルクのような活字を使った印刷は無くなってしまいました。昔は―なんて話をすると、息子たちに過去の遺物を見るような眼をされるのですが(笑)―出版社ごとに活字が違って、本を開くとまず、どこの出版社かわかったものでした。活字と活字の間の微妙な空き具合や、紙の色の違い。組まれた活字から立ち上る気配のようなものを感じることも、読書の一部に組み込まれている世代です。ところが、「書く」ことになると、今度はパソコンに向かってキーボードを叩かないとダメなんですね、これが。原稿用紙に万年筆なんて、畏れ多くて何も書けない(笑)人間のこの順応性の高さと、一旦何かを自分の標準にしてしまったあとの融通のきかなさは、果てない世代格差を生むんですね、きっと。生まれたときから携帯端末が身近にあるような今の子どもたちは、情報ツールに対する意識も根本的に違うでしょう。印刷技術が発明されたことによって、母国語という概念が生まれ、中産階級が形成された。文学や哲学、科学技術を同時代の共有財産として分け合うことで、市民意識や民主主義が生まれていった。では、これから、私たちはこのインターネットの情報網を土台にして、何を生み出していくのだろう。ほんとに、これから何もかも変っていくのかもしれない。そうとも思います。

今、携帯端末に決して出来ないことは、この本に込められている「美」でしょう。装丁と印刷の美しさ。細部へのこまやかな心遣い。でも、それだっていつの日か、携帯端末が乗り越える時代が来るのかもしれません。でも、何があっても、どんな形態になろうとも、本がひとりひとりの心の扉を開くものであること、知る権利と自由を保障するものであること、国境も人種の違いも、性別も年齢も、時代も地理的な距離も、何もかもを超えて、ひとりの人間同士を繋ぐものであることは変わらないと思っています。数ある人間の中からたったひとりの人と友達になるように、本を愛する。その感謝と愛情を、この本と分け合えるのは、とても幸せな体験でした。グーテンベルクが発明してくれたのは、本によって魂の自由を得る幸せなのかもしれません。そのことを大切に、心から大切にしたいと思う一冊でした。

2013年4月発行

あすなろ書房

by ERI

 

おなやみジュース 15歳の寺子屋 令丈ヒロ子 講談社

この本、まず、タイトルがいいなあ!と思うのです。「おなやみジュース」。とても日常的な言葉で、核心をぎゅっと掴むこの言語感覚が、いつも凄いなあと思うのです。令丈さんは大阪の方で、日ごろコテコテの大阪弁の私としては、文章のリズムや言葉のニュアンスが、とても心に馴染む、というのもあるのですが、この本、15歳をとっくに過ぎた…過ぎたというのもはばかられるような年齢の私にも、まっすぐ伝わってくるものがありました。自分の不甲斐なさへの実感と、この年齢になってこそわかる「そう!その通り!」という共感がいっぱい(汗)この本、ぜひぜひ15歳の人たちに、いや、それ以外の年齢の人たちにも読んでほしいなあ~と思います。

自分の人生という小さな世界の中で起こる、悩み事。当事者以外には、そないに大したことやなくても、これがもう自分にしてみたらしんどくて、切なくてしゃあないこと。ほんとに、人生ってそんなことの繰り返しなんですよね。令丈さんは、そんな「コップの中の嵐」に揉まれた自分の経験を、「作家になりたい」と気付くまでのジタバタする気持ちを振り返りながら率直に語ってはります。自分の将来を考える時期になって、美大への受験で悩んだこと。悩んで悩んで、お父さんの言葉がきっかけで気付いたのは、「作家になりたい」という自分の本当の思い。その覚悟を受け入れるまでの葛藤。こう書いてしまうと簡単だけれど、自分という人生の「おなやみジュース」を飲み干すのは、とても勇気がいることです。誰のせいにもしない、自分をごまかさないでまっすぐ見つめること。私はこれが今でも非常に苦手で、やっぱりすぐに逃げたくなる。苦い「おなやみジュース」を飲まずにおこうとする弱さ、失敗したり傷ついたりしたくないという防衛本能に振り回される…令丈さん曰く「気に入らないおなやみジュースをそっと捨て、なかったことにする」ことが、たびたびです(汗)そんな私に追い打ちの言葉。「おなやみジュースが、グレードアップして再登場」そう!そうそう!これやん…もう、人生の真理を突いてますわ。その通りなんやわ、と何度もグレードアップに打ちのめされた経験があれもこれもと湧いてきます。私も、若い頃の自分に言うてやりたい。「おなやみジュースは、どんなにしんどくても飲んだほうがええよ」って。ほんまに楽しいことや、嬉しいことは、そんなおなやみジュースから生まれてくることも、知ってるから。

自分の思いを言葉にする、っていうのは客観的に捉える余裕を持つということやと思います。ぐるぐる回るコップの中の嵐に出会ったとき、「あ、これって令丈サンの言うてはったおなやみジュースかも」って思えたら、それだけでも安心できたり、少しだけ違うところからおなやみを見る目が出来るかもしれない。自分以外のだれかに相談してみよかな、と思えるかもしれない。だからこそ、この「おなやみジュース」というネーミングのセンスが素敵やと思います。悩みに悩んだあげくに、自分の命を断つ、なんていう取り返しのつかないことろまで自分を追い込んでしまう悲しいことにならないように。こんなふうに心に届く本がもっとあったらええなあと真剣に思います。ほんまに、たくさんの子どもに読んでほしいなあ。

2009年刊行
講談社