おばあちゃんのにわ ジョーダン・スコット文 シドニー・スミス絵 原田勝訳 偕成社

昨年刊行された『ぼくは川のように話す』のコンビによる絵本。私はシドニー・スミスの絵がとても好きだ。『このまちのどこかに』(せなあいこ訳 評論社)の冬の都会の風景も忘れがたいし、『ぼくは川のように話す』の、川面のきらめく光にもとても心惹かれた。この『おばあちゃんのにわ』の表紙も、とてもいい。おばあちゃんとぼくのまわりを、うっすらと取り巻く光。まるで二人を祝福するかのようだ。シドニー・スミスの描く光には、時間と季節の表情がある。二人が朝食をとるシーンの朝の光。庭を歩く夕方の光。雨の日にガラス窓から射す淡い光。それが見事に心を映し、響いてくる。

作者であるジョーダン・スコットのおばあちゃんは、ポーランドからカナダに移民としてやってきた人だ。第二次世界大戦中は家族とともに、非常な苦労を味わったとのこと。第二次世界大戦は、ナチスドイツがポーランドに侵攻したとことを皮切りにはじまった。ユダヤ人に対する弾圧も、最も激しかった。有名なトレブリンカの収容所も、アウシュヴィッツの収容所もポーランドにある。ポーランドの総人口の五分の一が大戦中に亡くなっていて、大戦後はソ連の鉄のカーテンの向こうに組み込まれた。今、ロシアと戦争中のウクライナとは隣同士だ。『炎628』や『異端の鳥』という映画を見ると、当時の東欧がさらされていた暴力の恐ろしさの一端が垣間見える。垣間見えるだけで、本当のところはとてもわからない。いろんな当時の記録を何冊読んでもわからないことだらけだ。占領、飢餓、告発、逮捕、連行、病気。このおばあちゃんは、そんな苦難をかいくぐり、故郷から離れ、今は孫と一緒に、穏やかな光に包まれて歩いている。表紙のおばあちゃんの背中は、その幸せなひと時の重みを語っている。

元ニワトリ小屋だったというおばあちゃんの家が、とてもいい。朝の光に照らされて、猫がいて、いろんな果物や野菜がつるされたり、積まれたりしている。ビーツは、おばあちゃんの故郷の味だろうか。ぼくが食べ物をこぼすと、おばあちゃんはさっと拾い上げて、キスをしておわんに戻す。おばあちゃんの中にはたくさんの記憶が息づいているのだろう。言葉の壁があっても、いや、うまく言葉にできないことが、毎日の積み重ねのなかで「ぼく」に伝わっている。この穏やかさが、静かに満ちる安らぎが、実はとても尊く、得難いものであることが、繰り返して読むうちに伝わってきて、心がしんとする。過去と未来と今が、すべてこの一冊のなかで憩っているようだ。手元において、何度も開きたい絵本だ。

 

 

 

『戦争と児童文学』繁内理恵 みすず書房 2021年12月10日刊行のお知らせ

この評論集は、雑誌『みすず』二〇一八年四月号から二〇二〇年六月号にかけて十二回連載したもののうち、十篇を選んで加筆・修正を加えたものです。連載は隔月で、枚数も限られていたこともあり、刊行にあたり、随分書き直しました。お手にとって頂けると幸いです。

ここ数年、戦争に関する本を多く読みました。まだまだ勉強し足りない身ではありますが、それでも読めば読むほど、戦争が「今」と深く関係していることを知りました。児童文学が描いてきた戦争。そのなかで必死にもがく子どもたちの姿は過去のものではない。その思いが、この連載と改稿を続けられた原動力のひとつであったと思います。
そして戦争と文学という果てしなく巨大なテーマに打ちひしがれる私を支えてくれたのは、児童文学に込められている愛情と光です。戦争という絶望と狂気ののなかから、作者たちが掲げてくれた灯は、未来を照らしてくれる羅針盤です。そんな児童文学の奥深さと豊かさが、少しでも伝わる本になっていればよいのですが。収録された評論は次の十篇です。

・小さきものへのまなざし 小さきものからのまなざし――越えてゆく小さな記憶  朽木祥『彼岸花はきつねのかんざし』『八月の光 失われた声に耳をすませて』

・命に線を引かない、あたたかな混沌の場所――クラップヘクのヒューマニズムの懐に抱かれて  エルス・ペルフロム『第八森の子どもたち』

・空爆と暴力と少年たち――顔の見えない戦争のはじまり  ロバート・ウェストール『〝機関銃要塞〟の少年たち』

・普通の家庭にやってきた戦争――究極の共感のかたち、共苦compassionを生きた弟  ロバート・ウェストール『弟の戦争』

・基地の町に生きる少女たち――沈黙の圧力を解除する物語の力  岩瀬成子『ピース・ヴィレッジ』

・国家と民族のはざまで生きる人々――狂気のジャングルを生き延びる少年が見た星(ムトゥ)  シンシア・カドハタ『象使いティンの戦争』

・転がり落ちていくオレンジと希望――憎しみのなかを走り抜ける少女  エリザベス・レアード『戦場のオレンジ』

・核戦争を止めた火喰い男と少年の物語――愛と怒りの炎を受け継いで  デイヴィッド・アーモンド『火を喰う者たち』

・歴史の暗闇に眠る魂への旅――戦争責任と子ども  三木卓『ほろびた国の旅』
三木卓と満州

・忘却と無関心の黙示録――壮絶な最期が語るもの  グードルン・パウゼヴァング『片手の郵便配達人』

巻末に、取り上げた作家の作品、そして戦争を描いた児童文学のブックリストを載せています。ぜひ、そちらもお手に取っていただけますように。

セイギノミカタ 佐藤まどか作 イシヤマアズサ絵 フレーベル館

「正義」ってなんだろう。正しいことってなんだろう。アンパンマンも仮面ライダーも、悪人をやっつける正義の味方は大人気のはずなのに、なぜか日々の暮らしのなかで「正しいこと」を言うと嫌われる。「偽善者」「ええかっこしい」「いい子ちゃん」などと言われ、疎まれる。
例えば、この物語の主人公のキノは、すぐに顔が真っ赤になることを気にしている。それをクラスメイトのお調子者のタイガが目敏く見つけてからかいのネタにしてくる。キノは心のなかではムカつくけれど、はっきりと「やめろ」とは言えない。そんな空気を読まないことを言うと、余計にからかわれるだけだから。そんなとき、空気を全く読まない、セイギノミカタの周一が「やめろよ!」とやってくる。ところが、キノは助けてくれてありがとう、と思うどころか、そうやってしゃしゃり出てくる周一がウザくてたまらない。よけいなお世話なんだよ、ほっといてくれよ!と思ってしまうのだ。タイガの悪ふざけはますますエスカレートし、それに対する周一のリアクションも大きくなってキノはどうしていいのかわからなくなってしまう。前の席のひとみちゃんは、そんなクラスの雰囲気に流されず、いつもクールに本を読んでいる。
あるよね、こんなこと!と共感できるシチュエーションを自然に描くことができる筆力はさすが。その上で、キノと周一、そして飄々とマイペースで知的なひとみちゃん、という三人のキャラが活き活きとしているので、語り手としてのキノに感情移入しながら、いろんな角度からこのささやかで、でも、解決しにくい出来事を眺めることができる。私ならどうするかな。こんなにはっきり、自分の意見が言えるかな。どうして、いつも正しいことを言う周一を、みんなうっとうしく思うのかな―知らず知らずのうちに想像してしまうに違いない。ブレイクしたブレイディみかこさんの『ぼくはイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)の言葉を借りるならエンパシー、他人の靴を履いてみる体験ができる。
正しいことを正しい、というのは勇気のいることだ。そして、正しいことや正義、というのもまた考え出すと難しい。この物語のこの本のタイトルの「セイギノミカタ」は、正義の味方と、もう一つ「正義の見方」という意味も含んでいるように思う。大抵の戦争は正義を唱えることから始まるし自分にとっての正義が相手にとってもそうだとは限らない。そして社会の構造的な暴力のあり方を考えていくと、その根っこが自分のなかにも生えていることが、否応なく見えてしまう。私のなかに、タイガもキノも、ひとみちゃんも、周一も住んでいるけれど、一番やっかいなのはタイガの作った空気に便乗して流されていく、その他大勢でいたい自分だ。アニメや時代劇の正義のヒーローはわかりやすい小悪人をやっつけるから胸がすく。でも、自分との戦い方は教えてくれはしないのだ。最後にキノが見せた勇気が、この社会を変える一歩。この光をつぶさないようにしたいと心から思う。空気を読んで、強いものに流されてきた一人一人のあきらめが、今の私たちの社会のどうしようもなさを作り上げているように思うから。

 

バレエシューズ ノエル・ストレトフィールド 朽木祥訳 金子恵画 福音館書店

 三人姉妹がいる。ポーリィンとペトローヴァとポゥジ-という可愛い名前の三姉妹だ。彼女たちはロンドンの大きなお屋敷にコックやメイドたちと暮らしているが、実は三人ともみなしごだ。屋敷の主人である大叔父の化石収集家が、世界中のあちこちで出会った親と暮らせない赤ちゃんを、お屋敷に送ってよこしたのだ。だから彼女たちは誰一人、実の親と会ったこともない。お屋敷を管理しているシルヴィアと彼女の乳母のナナ、コックやメイドたちと暮らしている。大叔父さんはポゥジーを送ってよこしてからは全くの行方不明。彼女たちは残されたお金で細々と暮らしているので、生活は倹約一筋。食事だって、お芝居で体験する『青い鳥』のチルチルとミチルとあまり変わらないくらいだ。だから、一番の問題は、子どもたちの学費をどうするかなのだ。教育にはお金がかかる。三姉妹は家計を助けるために舞台芸術学校に入り、自分で人生を切り開いていこうとする。

この物語の面白いところは、登場人物たちの誰一人、血が繋がっていないというところだ。大人たちは血の繋がっていない三姉妹にこれでもか、と愛情を注ぐ。親代わりの真面目で人の良いシルヴィアも、厳しくて世話焼きで愛情深い乳母のナナも、下宿人としてやってきたシェイクスピアの専門家のジェイクス先生も、数学の専門家のスミス先生も、芸術学校の先生のセオさんも、自動車修理工場の経営者のシンプソン夫妻も。教養であったり、知識であったり、ちょっとした楽しみであったり、自分たちが持っている有形無形の豊かなものを、チームを組んで三姉妹に注ぐのに何のためらいもない。それは三姉妹がみなしごだからとか、かわいそうだから、というところから発生した行動ではないように思う。目の前に困っている子どもがいるのなら、何かしら出来る大人が迷い無く手を差し伸べるのが当たり前でしょう、という潔い割り切り。こういうのを、ノブレス・オブリージュというのかもしれない。風邪をひいたポーリィンに薫り高いジンジャーティーを入れながら、彼女たちが姉妹になったいきさつを聞いたジェイクス先生がさらりと言う。

「あなたのことが、ほんとにうらやましいわ。そんないきさつでフォシルを名乗ることになったり、思いもかけないめぐりあわせで姉妹ができたりなんて、胸がおどるようなことだわ」

個としての人間の誇り高さをお互いに持ち合う、そんな人生の過ごし方がこの物語の中にいい風を吹かせていて、その空気を思い切り深深とすいこむのがとても心地良い。百年前のロンドンが舞台の物語なのだが、少しも古くない。ストレトフィールド自身がプロとして関わってきた商業演劇の神髄が感じられるし、何より少女たちの日常のデティールが見事に描かれている。彼女たちがいつも苦労する、オーディションのドレスにまつわるあれこれ。細かい生地の値段まで、額を付き合わせて真剣に相談するのを読んで共感しない女の子はいないだろうと思う。クリスマスの楽しい一日。夢のような舞台の裏にある現実。出演料の計算まで、しっかり描かれていておもしろい。完訳の強みだ。隅々まで考え抜かれた訳文はどこまでも読みやすく、やはり惜しげも無く豊かなものがさらりと詰め込まれているのが伝わってくる。子どもは親の愛情だけで育つのではなくて、こんなふうに様々な大人たちの眼差しや優しい手に包まれることが理想なのだと思う。この本に託された祈りのような愛情もまた、その優しい手の一つなのだ。

姉妹たちはつましい暮らしのなかで、思い切り笑って、悩んで、自分たちで答えを探していく。美貌で長女の責任感にあふれたポーリィン。本当は自動車と本が大好きで、舞台が苦手なペトローヴァ。バレエの天才で、幼さと老練さが同居する不思議な個性のポゥジ-。彼女たちは失敗もたくさんするけれども、そのときの大人たちの見守り方も素敵なのだ。装丁も美しく、訳注も後書きも何度も読んで飽きない。長く手元において、繰り返しこの姉妹たちに会いたい。

2019年2月刊行 福音館書店

ネルソン・マンデラ カディール・ネルソン作・絵 さくまゆみこ訳 鈴木出版

先日紹介した『やくそく』と同じく、さくまゆみこさんが翻訳されています。アパルトヘイトという人種差別政策と闘い、南アフリカの大統領になったネルソン・マンデラ氏の大型伝記絵本です。この表紙のインパクトの強さといったら!留置場での長い年月を耐え抜き、世界中の人々の尊敬を集めた、素晴らしい「人間の顔」です。この顔を見つめていると、彼が持ち続けた人としての貴さが伝わってきます。

差別と闘う、というのはこれはもう並大抵のことではないです。今、『九月、東京の路上で』(加藤直樹著 ころから)という本を読んでいます。関東大震災のときに何千人もの朝鮮人の人たちが殺されてしまったときの記録なのですが、これを読むと差別心というのは人の心の中に巣くう弱さや恐怖心と分かちがたく結びついているということがわかります。だからこそ、それが発露されるときは暴力性も伴うし、有無を言わせない理不尽さで人の尊厳を踏みにじる。人を虐げるということは、加害者と被害者の心に、同時に恐怖という闇を育てるのです。しかし、さくまゆみこさんが後書きで述べられているように、マンデラ氏は、自分が受けた差別という恐怖に対して、恨みではなく融和で対峙していったのです。ノーベル平和賞をはじめとしたマンデラ氏への評価は、その越えがたいところを越えた彼の大きさへの敬意であり、越えがたさの中で悪戦苦闘を続ける泥沼の中に咲く一筋の希望であるのかもしれません。

この本には、南アフリカという国が置かれていた状況や、その中でマンデラ氏がどのように生き抜き、人々の希望となっていったのかが、簡潔にわかりやすく描かれています。そして何より、マンデラ氏が、英雄ではなく、一人の人間として誠実に生き抜いたことが書かれているのです。彼は誰にも成し遂げられなかったことをしたのではなく、自分の為すべきことを常に見据えて、苦しみに負けずに果たしきった。その身近さと非凡さが同時に伝わってくるのが素晴らしいと思うのです。関東大震災のときに吹き荒れたジェノサイドの嵐の中で、朝鮮人の人たちを守り切った人たちは、常日頃から、ごく普通に彼らと人間同士のつきあいをした人たちでした。人間を、たった一人の顔と名前のある存在として見るのではなく、「○○人」という顔の見えない記号でひとくくりにしてしまうことは、非常に危険なことなのです。私は、物語の力こそが、その危険を救うものであると思っています。物語は、常に「たった一人」の心に寄り添うものだから。すべての壁を乗り越えて心を繋ぐ力があると信じているのです。

南アフリカは日本から遠く、子どもたちにとってもあまり馴染みのない国かもしれません。しかし、アパルトヘイトにも繋がる、人種や民族への差別の問題は、間違いなく今の日本にも重くわだかまっています。だからこそ、ネルソン・マンデラ氏の、一人の人間としての生き方、この力強い顔を持つ「個」としての彼の存在がきちんと描かれている絵本を、たくさんの子どもたちに読んで貰いたい。そう思います。

2014年2月刊行

鈴木出版

 

やくそく ニコラ・デイビス文 ローラ・カーリン絵 さくまゆみこ訳 BL出版

スリやかっぱらいをして生きていた女の子が、ある日おばあさんからカバンをひったくろうとする。その中には、緑のどんぐりがたくさん入っていた。おばあさんの「おまえさんにやるよ。これを植えるってやくそくするんならね」という言葉どおり、女の子は次々にどんぐりを植えていく。すると、すさみきった街に緑が生まれ、人々の心が色づいて鳥たちが帰ってくるのだ。女の子は、どんどん違う街にどんぐりを植えていく・・・。

とてもシンプルなテキストなのだが、深みのある素晴らしい絵と溶け合って、読み手に新鮮な言葉として届くように考え抜かれている。どんぐりは、どんぐりなのかもしれないし、目に見えない大切なものの寓意ともとれる。女の子が初めてどんぐりの詰まったカバンを手に入れて眠った夜の枕辺の絵が素晴らしいのだ。色とりどりの小鳥たちが集まって、慈しむかのように孤独な女の子を見つめている。緑の葉っぱや、小鳥の声。小さな小さな命を慈しむことは、実は慈しまれることなのだとこの絵を見て思う。

うちにはけっこう大きな庭がある。まあ、大きいといってもたかが知れているのだが、長年暮らしているうちに、様々な草花が植わっている。しかし、ここ10年くらい、私はこの庭をほったらかしにしてきた。手入れをしなくちゃ、と思えば思うほど身体は動かず、月桂樹にはカイガラムシが付き、君子蘭は鉢から溢れそうになり、枯れるものは枯れて、生命力の強い花だけがやたらに咲き誇る、荒れ果てた野原のような場所になっていた。ところが、ふと出来心で買った、たった一株のパンジーが、この春とても美しく咲いてくれて、彼女と毎日話をするうちに、私は何となくまた庭に出る時間が多くなった。月桂樹を剪定して、君子蘭の絡んだ根を分けて植え替えもした。雑草を丁寧に抜いていると、それこそ10年以上前に撒いたカモミールの芽が出ていることに気がついた。手を入れて話しかけると、花や木は気持ち良さげに風に吹かれて、優しい顔を見せる。

「人の気持ちが変わることを、わたしはもう知っていたから」

自分のカバンを次の命に受け渡していくとき、女の子はこうつぶやく。壊れて失ったと思うものも、実は形を変えて自分の中に緑の芽のように生きているのかもしれない。こんな年齢でもそう思えるときが巡ってくるのだから、伸びようとする力に溢れている子どもたちなら尚更だ。小さな緑は、大きな樹となって、今度はたくさんの人の心を包んでいく。その力が、小さなひとりの人間にもちゃんと備わっていることが、素直に伝わってくる。何度でもやり直そうとしていいんだよ、何度でも手を繋ごうとしていいんだよ、と静かに語りかけるとても素敵な絵本だと思う。さくまゆみこさんは、こういう高学年から中学生向けの、力のある絵本をたくさん訳されていて、選書のセンスが素晴らしい。絵にとても力があるので、多人数を対象にした高学年の読み聞かせにも良いのでは。

2014年2月刊行

BL出版

マルセロ・イン・ザ・リアルワールド フランシスコ・X・ストーク 千葉茂樹訳 岩波書店

YAの物語に惹かれるようになったのは大人になってからです。息子たちが思春期を迎え、子育てにあれこれ深く悩み始めた頃から、一気にハマりました。若い頃は自分のことをリベラルな人間だと思っていたのに、親業をしているうちに、自分の感性よりも「こうあるべき」とか、「出遅れちゃ駄目」とかいう、他人からどう思われるかを物差しにした、カチコチの価値観に縛られるようになっていた。そのことに気付かせてくれたのは、YAの物語たちです。大人の入り口に差しかかって、自分の手で扉を開けねばならないときの慄きや、傷口の痛み。不安を抱えてみつめる空の美しさ。自分の心の中に眠る風景を呼び覚まし、目に見えない大切なことに気付かせてくれる―そんなYAの物語に、どれだけ助けてもらってきたことか。この物語も、とても瑞々しい物語です。主人公のマルセロが初めて「リアル」を見つめる眼差しと一緒に、また新しい目で自分とこの世界の関わりを見つめることが出来る。内に閉じた美しい世界に暮らしていたマルセロが、悩みながら発見する新しい「美」に心が震えます。

この物語の主人公であるマルセロは、内面的に豊かな生活を送っている青年なのです。その象徴ともいえるのが、心の中に鳴り響く音楽、IM(インナーミュージック)を持っていること。宗教について深い関心があり音楽のCDを何千枚も持っていて、自宅の庭のツリーハウスで寝起きしています。アスペルガーに近い障害を持っている彼は、他人の表情を読み取ることや、たくさんの人がいる知らない街を歩くこと、予定を決めずに行動することなどが苦手です。マルセロは、閉じた美しい世界にいます。しかし、彼の父親は、そんな彼に「普通」になって欲しい。競争社会の中で生き抜く術を身につけて欲しい。マルセロは、そんな父の提案に従って、夏休みに父親の経営する法律事務所にアルバイトに行くことになるのです。彼はそこで、生まれて初めての恋と、悩みを経験します。これは、初めてリアルな世界に触れたマルセロの心の記録なのです。

この物語はマルセロの視点で描かれています。初めて「リアル」に触れるマルセロの視線があぶり出す私たちの世界が、とても奇妙なんですよ。「こんなもんだよね」という暗黙のルールは、矛盾や無神経を思考停止の中に閉じ込めてしまう。マルセロはそのひとつ一つにひっかかるが故に、とことんまで考える。その筋道をたどるうち、私たちが日々の暮らしの中でどれほど心の中からふるい落としてしまっているものがあるのかを思い知らされます。例えば、私が冒頭で書いた彼の障害について。それは、「科学的なひびきのことばで定義したほうが、ほかの人たちもわかった気になれる」のだけれど、本当はそんな言葉ひとつで、説明しきれることでも、個々の状態に対応することも出来ない。本当は、その「出来ない」部分が大切なのに、私たちはわかった気になったところで大概のことを切り捨ててしまう。競争社会だから。ただ、ひたすら前に進んでいかねばならないから。でも、一番大切なことは、その切り捨てられてしまうことの中にあるのです。マルセロは、ゴミの中に捨てられていた少女の写真を拾います。それは、父親が扱っている企業の製品の不具合によって大けがをしてしまった女の子の写真です。企業側に立つ父が切り捨てようとしていた少女の顔が、マルセロはどうしても忘れられない。その事件を調べたマルセロは、重大な発見をします。しかし、そのことを公にすれば、父親を窮地に追い込むことになる。傷ついた少女と父親の間に立って、マルセロは悩みます。

マルセロが、そこからどんな風に自分の進むべき道を探したのか。どんな風に自分の心の声を聞いたのか。この物語の一番美しい場面は、その答えを探しながら、事務所で仲良くなったジャスミンとゆく彼女の田舎への旅です。ジャスミンは、マルセロの中にある豊かな感受性と純粋さに気付くことの出来る女性。瑞々しい自然の中で目覚めるリアルな女性への愛情が、なんと煌めいて描かれていることか。初恋なんですよねえ。マルセロは、IMよりも美しいものを見つけてしまうのです。そして、自分がどうするべきか、静かに自分の心の声を聞きます。湖の上で彼がその答えを見つける場面が、印象的です。マルセロは、自分の中の声を聞き、正しい道を見つける。そのゆるぎなさも心に沁みるのだけれど、私が素敵だと思ったのは、彼がその正しさを追求するのと同時に、人との出会いを通して、自分の醜さと弱さもまっすぐ見つめるところです。人は誰も心の中に美しいものと醜いものを持っている。マルセロは、醜い欲望を持たない聖者のように見えるけれども、聖者というのは欲望を持たないことではなくて、欲望を持つ自分を静かに見据えることのできる人なんじゃないか。読み進めるほどに大好きになっていくこの青年の面影を想像しながら、そんなことを考えてしまいました。

もちろんマルセロは聖者ではありません。だから、ジャスミンの過去を知って苦しみもします。庇護してくれていた父親からの自立と、初めて知った愛の苦しみは、マルセロを新しいリアルな人生へと導きます。そのリアルは、勝ち組になるとか、人よりいい人生を送るためのリアルではなくて、なりたい自分と共に生きていきたい人とが美しい音楽を奏でるために必要なリアルなのです。マルセロがひと夏の間にたどった旅は、未知の自分に出会う深い心の旅でした。この物語は、訳者の千葉茂樹さんもおっしゃるように、私たちが常に出会う普遍的な命題への問いかけに満ちています。そして、その問いかけに、真摯に向かい合うマルセロの姿が、とても美しいのです。人生の垢に凝り固まった大人の心も溶かしてくれる静かに深い湖のような物語でした。何度も読み返したくなること必至です。

この岩波のSTANP BOOKS、とても選書が素敵です。これまで読んだ3作品、「アリ・ブランディを探して」「ペーパータウン」、そしてこの「マルセロ・イン・ザ・リアルワールド」どれも読みごたえのある作品ばかり。岩波の底力を感じます。これからの刊行に、期待大。YAのこういう物語が、日本からももっと出て欲しいなあ・・・。

2013年3月刊行

岩波書店 STANP BOOKS

by ERI

天山の巫女ソニン 江南外伝 海竜の子 菅野雪虫 講談社

大好きなこのシリーズの外伝を読めるのはとっても嬉しい。しかも主人公は男前の花王子、クワンです。彼が華やかな見かけの中に抱えているものが深く掘り下げられていて、ファンにはとても嬉しい一冊です。「人の90%は目に見えない。 人間というものはもっと見えているつもりなのかもしれないけれど、 10%しか見えていないの。」この物語を読みながら、今月の19日に亡くなったカニグズバーグの「ムーンレディの記憶」の一節を思い出しました。

巨山の王女であるイェラの外伝を読んだ時にも思ったのですが、王子や王女に生まれるということは、大きな渦の中に生まれ落ちるようなものなんですよね。権力とか富とか、欲望とか思惑とか、ありとあらゆるものに翻弄される。クワンは、自分の出自も知らないまま、実力者の叔父に守られた少年時代を過ごします。しかし、故郷の湾が毒で汚染されてしまった事件をきっかけに、叔父も母も、故郷も失って、妹と二人きりで放り出されてしまうことになってしまうのです。あまり深くものごとを考えない性質だったクワンには、それが何故だか初めは全くわからない。しかし、慣れない宮廷で苦労し、王妃の命で危険な任務にかり出されているうちに、少しずつ霧が晴れるようにいろんなことが見えてくるのです。叔父が自分を湾の外に出さなかったこと。あまりにも不自然な事件の起こり方と、湾を封鎖するという後処理の厳しさ。その裏に何があるのか。でも、見えたところで、クワンには何も出来ないという現実が襲いかかります。あまりにも大きく複雑に絡み合う権力に、まだ若いクワンとセオは屈服せざるを得ないのです。この物語の中でクワンのたどる苦すぎる道のりは、読み手が生きている「今」を物語の光で照らしだしてくれる力があります。読みながら、私もいろんなことを考えました。

私たちは、王子でも王女でもないけれど、時代や生まれた国の事情に深く織り込まれている存在であることは同じです。その混沌とした営みの中に生きていくことは、いつの時代も簡単なことではありません。いきなり生まれ故郷が封鎖され、放り出されてしまう・・・そのクワンたちの姿は、そのまま明日私たちの身の上にふりかかることかもしれない。あの震災で起こった原発事故も、単なる不幸な事故ではなく―その裏には巨大企業の利権や、危機管理の甘さ、原発推進に励んできた国の政策や、もっとたどれば原爆投下のアメリカの思惑と、複雑な歴史と国の在り方の果てに起こったことです。でも、私も含めて、日本人は、深くその危険を考えることもしなかった。しかも、その危険が露呈してしまった今でも、この国の舵は、また原発推進に大きく切られようとしています。その裏に何があるのか。私たちは、見据えなければならない。クワンとセオが絶望の中から再び歩き出したように。

菅野さんの物語は、いつも自分の目で観察し、目に見えないものを見据えて自分の頭で考えていくことが一つのテーマとして流れています。私たちはちっぽけな存在でしかないけれど。何の権力も持たない、毎日を生活のために必死に働いて生きている、そんな人生だけれど。自分の目で見て、誰かの言うことを鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考えること。皆が一斉に「そうだ」ということが、ほんとうに正しいのかをしっかり見据えること。そんな「個」が声をあげていくことが、地味だけれども危険な一元化に流れていこうとするものを押しとどめる唯一の力であるような気がします。・・・何て偉そうなことを言いながら、職場の「?」なこともなかなか変えられなかったりする微力すぎる自分でもあったりするんですが。ほんと、うろうろしてるありんこみたいだなーと、しみじみ思う(汗)でも、どんなに絶望しても妹のリアンを守り通したクワンのように。果てしなく困難な道と知りながら、クワンを王にするべく歩き出したセオのように。自分の大切なものを守り、自分の頭で考えることを死ぬまでやめないでおきたいと思います。

これからの時代は、グローバル、などという国家をも超えた新しい理不尽が荒れ狂う時代になるような予感がします。その中で、物語が問いかけるもの、たった一つの命が語る心の声は、ますます大切になるんじゃないかと思うのです。菅野さんの物語が語りかける声をもっと聞きたい。また、ソニンのシリーズを一から読みたくなりました。昨日届いた本2冊も、まだ封を開けていないのに、どうしたらええのん・・・(知らんがな!)

2013年2月刊行

講談社

昔日の客 関口良雄 夏葉社

「佇まい」という言葉が好きだ。存在自体が醸し出す気配。そこに在る、ということが美しさにつながるような。多分それは、長い時間をかけて積み重ねてきたものが醸し出すもの、しかも何か一つのことに心をこめて生きてきた人のみが身につけるもの、という気がする。この本は、山王書房という古本屋さんを営んでいた関口良雄さんが、文人たちやお店の客人たちの想い出を綴ったもの。一度もおじゃましたことのない山王書房の古本の匂いのするような、とても心惹かれる佇まいの本なのだ。きっと、山王書房も、この本のように、ふと気が付いたらそこに何時間もいてしまうような、魅力ある古本屋さんだったに違いない。ああ、行きたかったなあ。私はビビリだから、きっとゆっくりお話などは出来なかっただろうけれども、関口さんが愛した本の数々を、じっくりと拝見したかった。本に対する愛情が、いっぱいに詰まったこの本を読んで、しみじみとそう思った。

「古本屋という職業は、一冊の本に込められた作家、詩人の魂を扱う仕事なんだって。ですから私が敬愛する作家の本達は、たとえ何年も売れなかろうが、棚にいつまでも置いておきたいと思うんですよ」

後書きの息子さんの言によると、関口さんはいつもこうおっしゃっていたとか。そんな風に関口さんに愛されて誰かのもとに旅立っていった本は、なんて幸せなんだろうと思う。きっとお店には、そんな関口さんの想いがいっぱいに詰まっていただろうから、お客さんもきっと本を愛していた人がほとんどだっただろう。そんな風に本を愛する人、というのは概してあまりお金儲けが得意でない。というか、本ばかり読んでいるので、お金儲けをする暇もない(笑)この本に出てくる昔日のお客さんたちも、そんな人ばっかりだ。書斎を作って、そこで本ばかり読んでいる植字工さん。部屋に本と美術書しかなかった井上さん。そんな方たちのお話を読んでいると、何だか私は安心してしまうのだ。本を愛して、本に淫して一生を過ごしていった人たちと、この本を通じてなんだか繋がっているような気がするのである。世の中からはあまり理解されないかもしれない、本好きたち。もう、この本に出てくる方たちも、関口さんも、とうに御存命ではないけれども、きっと彼らはあの世でも、本の話ばかりして笑っておられるような気がする。そう、「二人の尾崎先生」という項での、尾崎一雄氏宅での夜のエピソードのように。書庫で語り明かし、「あなたがたは、いつまで話しているんですか」と夫人に言われ、手料理を頂きながら、また本の話。本を買いに行ったことも忘れて、本を包むはずの風呂敷に蜜柑をいっぱい包んで帰る夜。これを、至福と言わずになんと言おうか。私も、あの世にいったら、ぜひ関口さんのお仲間に、本好き山脈の一端に加えて頂きたいと、思うのである。…それまでに、ちゃんと勉強しておかなきゃ。そう言えば、この本はやっぱり本好き山脈仲間のぱせりさんのブログで教えて貰ったのだ。私たちはネットのおかげで近くにはいなくても、こうして繋がっていられる。本好きは、本好きを呼ぶというのは昔から変わらない。その感謝も感じる一冊だった。

関口さんの敬愛された上林暁氏の本を、去年一冊買ったまままだ読めていなかったのを思い出した。昔日にならぬうちに、早く読まねば・・・。

2010年10月刊行
夏葉社

灰色の地平線のかなたに ルータ・セペティス 野沢佳織訳 岩波書店

梨木香歩さんの『エストニア紀行』に、ソ連が行った強制連行のことが書かれていたけれど、この本はそのエストニアと同じバルト三国の中の一つ、リトアニアの少女がソ連の収容所に強制連行されてしまう物語だ。読むのが辛い物語ではあるのだけれど、これは自分と関係ない国の過去の物語ではない。極限の状況の中で最後まで愛情を失わずにいいた家族がたどった道のりを考えるとき、この物語は、私たちのこれからを考える物語として「今」に繋がるのだと思う。

大学教授の父と美貌で優しい母、可愛い弟のいる15歳の少女リアは、家庭にも絵の才能に恵まれて何不足ない生活を送っていた。ところが、ある日いきなり踏み込んできたソ連の秘密警察に連行され、父親と引き離され、母と弟とともに気が遠くなるほど長く辛い貨物列車での旅の果てに強制収容所に送られてしまう。連行される直前に出産し、そのまま列車に乗せられてしまう若い母と赤ちゃんの話はとても辛い。そこで待ち構えていたのは、過酷な飢えと寒さと強制労働。このシベリアの収容所の悲惨さというのは、同じくシベリアに8年間収監されていた石原吉郎の手記にも詳しい。「そこは人間が永遠に欠落させられる、というよりは、人間が欠落そのものになって存在を強制される場所」(※)なのだ。特にリアたちがいた頃の、スターリンが死去する間際の収容所の内情というのは陰惨を極めたものだったらしい。リアたちの舐めた苦しみは、作者がシベリアからの生還者やその家族に丹念に話を聞いて書き起こしたもので、フランクルの『夜と霧』を思わせるほどに辛い。初めはとても喉を通らなかったドロドロのわけのわからぬ食べ物を、そのうち争って食べるようになる、知識階級の人たち。・・・私もきっと同じ状況なら必死で食べるようになるんだろう。でも、その度ごとに自分の中で大切にしている美しいものが死んでいくような気持ちになるに違いないと思う。それでもリアのように、彼女の母のエレーナのように誇り高く生きていられるのかと思うと、まったく自信がなくなってしまう。

そう、壊血病にかかってしまうほどの飢えの中でリアと弟のヨーナスが生き延びることが出来たのは、美しく賢い母のエレーナがいたから。彼女は愛の人で、どんなに苦しくとも少しの食べ物をみんなと分け合い、病に倒れた人を看病し、励まし続けた。しかし、鴨長明が『方丈記』の中で「思ひまさりて深きもの、必ず先だちて死しぬ」と言ったように、『夜と霧』でフランクルが「最もよき人々は帰ってこなかった」と述べたようにエレーナは子どもを二人残して死んでしまう。彼女のような精神の美しさは、虐げようとするものにとっては一番先に踏みにじるべきもので、そのためにはありとあらゆる努力が行われると言っても過言ではない。しかし、どんなに踏みつけにされ、汚されても、一番強く人々の中に生き続け、灯り続けるのもまたその美しさだと思う・・・これは綺麗ごとでなく、そう思うのだ。私はそうはなれないかもしれない。しかし、この世界にはエレーナのように美しい人はちゃんと存在する。(これはまた別のレビューに書くが、今日読んだ宮崎かづゑさんの『長い道』を読んでそれをまた確信した)そのかけがえのない美しさをこの物語の中で強く書ききったことを、私はとても大切だと思う。極限とも言える収容所生活のなかで、リナが紡ぐほのかな恋や、人々が祝うクリスマスの夜もまた、そんな美しさの一つだ。

また、リアは収容所の中の様子や苦しむ人々の姿を得意な絵で刻み続ける。命の危険と隣り合わせの行為を何度たしなめられても、それだけはやめることが出来ない。それは、家族も将来の夢もすべてを奪われたリナのたった一つの生きている証だったのだ。15歳というのは、一番お腹も空き、自意識もピリピリと過剰な時だ。誇り高く教育された少女らしい潔癖さと感受性は彼女を苦しめるけれど、それがまたリアを支えて生かしているのだとも思うのだ。そして、このリアが燃やし続ける「伝えたい」という思いと祖国への愛情は、苦しい時代を生き延びたリトアニアの人々の心のうちに燃え続けたものでもあるのだと思う。私はこの物語を読みながら、『エストニア紀行』で梨木さんが翻訳されていた、エストニアの国歌を思い出していた。リトアニアが独立を回復したのは1990年。私の感覚からいうと、ついこの間のことなのだ。この物語では、母のエレーナが死んだあとの物語は語られない。リアとヨーナスはリトアニアに13年後に帰還したらしいが、その後の物語も語られない。しかし、きっと「その後」の物語は今も続いているのだと思う。シベリアにいた石原吉郎は、帰国後にまた一段と辛い苦しみに陥った。辛酸を舐めて帰国した祖国は、彼にとって優しい場所ではなかったのだ。作者のあとがきによると、やはりシベリアからの帰還者には、帰国後も様々な困難が待ち構えていたらしい。このリアたちのような帰還者の言葉がこれからどのように掘り起こされるのかを考えたとき、次世代へのメッセージとしてこの物語が書かれたことは、出発点としてとても大切なことだ。そして、リアの一家が収容所に送られたのは、親戚の一家がドイツに脱出するのを手伝ったためだった。同じように生き延びた人たちは、自分たちの代わりに収容所に送られた人たちのことをどんな風に思いながら過ごしていたことだろう。そう考えると、「生き延びてしまった人たちの苦しみ」も、また今に続いているのではないだろうか。作者であるセペティスさんの父親は、リトアニアからドイツに脱出した人であったらしい。その家族の歴史を思うとき、この物語は、作者自身にとっても書かねばならない一冊であったことだろう。それだけの強さと内容をもった作品だ。この本を大切に訳された野沢佳織さんにも感謝をささげたいと思う。

(※)「望郷と海」石原吉郎 みすず書房

2012年1月刊行

岩波書店

 

 

 

大きな音が聞こえるか 坂木司 角川書店

毎日がつまらない。このままオトナになっても、退屈な人生しか待っていないような気がする。「なりたいタイプの大人がいない」のがここ数年来の悩みである主人公の泳。何かに向かって努力する気力もわかず、ただぼんやりしている夏休みが、「ポロロッカ」という目標にロックオンしたとたんに激変します。狭い場所で、言葉をこねくり回して何もかもわかった積りになっていた泳が、自分の身体を使って生きることを確かめていく旅。若い身体は、成功も失敗も、すべてを糧として吸収していきます。その「骨がぎしぎしいうくらい」の成長を、物語として言葉で読む面白さに酔いました。ポロロッカというのは、月の引力が引き起こすアマゾン河の大逆流です。3mもの高さの波が河口から内陸に向かって逆流する。海の波なら消えてしまうものが、一方方向にどこまでも続いていく。サーファーには応えられない波なのかもしれません。主人公の泳は、その波に乗りたいと思うのです。

かったるいけど特に反抗もせず、学校でも空気を読んで本音は言わず、自分の居場所を確保する。最初に展開する友達の二階堂との会話なんか、THE・男子高校生の日常という感じ。この「空気を読む」というのは、日本独自の文化ですよね。お互いぶつからずに物事を進行させるという面においては優れていますが、常に束縛と排除されるかもしれないという恐れをはらみます。皆でぬるま湯にいることをお互いに監視して、抜け駆けを許さない。でも、ポロロッカでサーフィンするという目標を定めてバイトを始めたところから、その「空気を読む」文化から、泳は抜け出していきます。引っ越しのバイトも、まるで外国のような中華料理店のバイトも、お互いの空気を読めるかどうかを判断基準にするような付き合い方では、到底勤まらない職場です。そして、アマゾンという場所に行く手続きを一人でするためには、誰かが空気を読んでくれるのを待っていても何も始まらない。ちゃんと正面から話をし、自分のやりたいことを説明する必要があるのです。このあたりから、学校にいる時の泳と、自分のやりたいことに向かう場所にいる泳に違いが出てくるんですよね。違う世界に触れることで、新しく生まれてくる自分の手触りが、学校の同級生の女の子たちのゆるふわぶりとバイト先のエリという苛烈な女子の対比や、クラスメイトとの諍いを通してうまく描かれています。若いっていうことは、次々と自分の殻を抜け出していけることなんですよね。うらやましいわ、ほんとに(笑)

その脱皮ぶりが、ブラジルに渡ってからすごいことになるんですよ。このあたりからぐんぐん波に乗っていくサーファーそのものの弾けっぷりで、読んでいて面白かったのなんの。いきなり日系人の可愛い女子と・・・という展開になったときは「おいおい、調子に乗りすぎやろ」と爆笑しましたが(笑)強烈な日差しの中での濃い経験は、くっきりと光と影をつくって泳に刻まれます。違う文化や価値観に触れること。大きな自然に身一つで相対してみること。どちらも少年を大人にします。泳は外国人のパーティの船に乗せてもらい、ポロロッカに乗ることになるのですが、何しろ外国人相手に空気をどうのこうのというのは全く無理です。自分の言いたいことをはっきり言わないと、かえってややこしいトラブルを生むことになります。そして、泳はアマゾンの自然から、自分を含めた人間が、最後の最後は、自分の身体ひとつで生まれて死んでいくだけのものであることを教わっていくんですよね。河に落ちる夕焼けの中でぼんやりと自分が死ぬときのことを想像する泳は、身体と心が釣り合って過不足ない幸せの中にいるんだと思います。ただ身体一つで波に乗ることだけを考えてわいわいと過ごす船の上の男たちの、なんて楽しそうなこと。その生き物としての根源的な喜びが爆発するポロロッカのサーフィンのシーンは圧巻で、理屈抜きに楽しかった。

俺なんて、俺の身体以下の存在なんだ。カラダ、えらい。
心なんていらない。オレ、いらない。

このサーフボードの上での泳の叫びは、完全に自らの身体性を取り戻した雄叫びのように聞こえました。旅から帰った泳は、両親が嘆くほど大人になって帰ってきます。でも、そこで子どもっぽいと泳が思っていた父親からかけられるラストシーンの言葉がいいんですよね。目の前にいるよく知っているはずの人間だって、「こんなもん」と思い込んですむ存在じゃない。この父と子の関係も、この物語の面白さの一つでもあります。

これから、泳はとってもモテる男子になるに違いない。いい男になるには、旅だね!と勢い込んで本を閉じたものの、家でぐだぐだしてる息子を見つめて遠い目になる今日この頃。うちの息子たちは、いつ旅に出るのかしら・・・。などという愚痴は置いといて(笑)坂木さんの、若者たちへのエールがきこえてきそうな力作でした。読み応えたっぷりの青春小説です。

 

2012年11月刊行

角川書店

楽しいスケート遠足 ヒルダ・ファン・ストックム ふなと よし子訳 福音館書店

オランダはスケートが国技のようなお国柄。もっとも、それを教えてくれたのは、『銀のスケート』や『ピートのスケートレース』などのオランダを舞台にした物語たちでした。寒い冬に国中の運河や水路が凍りつく。そこをスケートで走り抜けるのです。200kmを滑りきる「エルフステーデントホト」というレースも行われるという、スケート王国。その冬の楽しみを、趣のある挿絵と楽しい文章で綴った、これからの季節にぴったりのお話です。

待ちに待った氷の大王がやってきて、街中が雪と氷になった朝から物語は始まります。双子のエベルトとアフケは大喜びで学校へと飛び出します。すると先生が、皆を一日がかりの日帰りスケート遠足の企画を立ててくれたのです。大喜びの二人は、張り切って遠足の準備を始めます。

私たち日本人は、設備の整ったリンクでのスケートしか知りません。でも、エベルトとアフケの挑むスケート遠足は、自然の作った道を滑るのです。でこぼこもあれば、ひび割れやこぶもある。色んなものが落ちていたりもする。そんな上を、何十キロも滑って違う街に遠足する。9歳の二人には大きな冒険なのです。私たちの世代は冬場になると必ず耐寒遠足というものに連れて行かれましたが(笑)これがまさに「耐寒」そのものでした。あちこち凍りついた山道を歩き、頂上で吹雪に見舞われながらかちかちのお弁当を食べるという、ほぼ拷問のような一日…。昔のこととて、今のような保温の水筒もありません。ダウンジャケットもなかった。吹雪の中で身を寄せあいながら、冷たい冷たいお茶を飲んで鼻水を垂らすというなんとも冴えない遠足だった…昔って、ああいう軍事教練の名残りのような行事がたくさんあったなあ(遠い目)でも、でも。この二人の体験するスケート遠足は、1934年の出版という昔なんですが、楽しさが全く違います。

まず、自然の中を走るスポーツの喜びがあります。きらきら光る運河の上を、皆で揃って走っていく。表紙の絵に描かれているように、女の子たちは先生がポールで引っ張ってくれるのです。その女の子たちの衣装の可愛いこと!真っ白な雪に映えるその光景がいいですよねえ。そして、何と凍りついた運河の途中には、美味しい熱いココアや焼き立てのお菓子を売るお店まであって、そこでスケートを履いたまま休むことも出来るのです。老若男女が皆スケーターであるオランダならではの楽しみです。もう何十年もスケート靴はいてませんから、きっと滑れないでしょうけど、ちょっとやってみたくなるじゃありませんか!こういう、伝統に根ざした楽しみって、心が豊かになりますよね。まず、風景が美しい。それに比べて道頓堀川にプール作るとかいうアホなこと言うてる人たちがおりますが、もう、想像しただけでげんなりする光景です。誰が泳ぐねん、あんなとこで。もうちょっと美的なことを考えられへんのかいな。・・・おっと、脇道にそれてしまいました。反省、反省。

先生とエベルトたち一行の一日は、いろんなアクシデントに襲われます。何しろいたずら盛りの男の子たちに、若くて元気な男の先生という布陣ですから(笑)エベルトが氷の割れ目におっこちるやら、助けて貰った農家で美味しそうなあっつあつの雪パンケーキを御馳走になるやら。(この農家の豊かな包容力は『第八森の子どもたち』を思い出させます)たどり着いた街で、他の学校の子たちと雪合戦になるやら。極めつけは教会での男子行方不明事件という盛りだくさんの一日の中で、子どもたちの気持ちが、生き生きと動いていくのが暖かい筆致で描かれます。シモンという内気な少年が、この一日の中で別の顔を見せて、男の子たちの友情を勝ち取るというのが、この物語の芯の一つ。自分が行動することによって、仲間を作ることができたシモンの誇らしい気持ちが伝わってきます。このスケート遠足のありようや友情の描かれ方に、子どもという存在に対する信頼と自発性の尊重を感じるんですよね。お膳立てされたプログラムをこなすのではなく、自分の力で問題を乗り越えていくことを尊重する姿勢があります。もちろん、それは見守る大人のしっかりした眼差しがあってのこと。その眼差しをこの本に感じました。子どもたちは、一日の冒険を終えて家路につきます。くたくたの体でたどりついた家にある、笑顔と暖かいご飯。この帰宅のシーンがとても良いんです。幸せそのものだなあと思います。ベッドにもぐりこむ安らぎの中で、子どもたちの冒険は生きた喜びとなるんですよね。どこに行っても、冒険しても、「ただいま」と帰ってくる場所がある。本を閉じて、面白かったなあと帰ってこれる。この「帰ってくる」という安らぎも、また子どもの本の良さだと思います。この子どもたちのように、皆に生きる喜びを味わって欲しいなと心から思います。この本は、1935年のニューベリー賞を受賞しています。画家でもある作者の美しい挿絵も堪能できる、楽しい本。この本を発見して翻訳し、紹介されたふなとよし子さんの後書きが印象的でした。思いのこもった暖かい一冊でした。

2009年10月発行

福音館書店

by ERI

 

日本児童文学 2012 9・10月号 『ソルティー・ウォーター』と『明日美』

落ち葉今号の『日本児童文学』のテーマは「3.11と児童文学」である。震災から1年半ほど時間が経って、3.11が少しずつ文学という形に現れてきた。この号では、3.11以降の核の問題をテーマにして、芝田勝茂さんの『ソルティー・ウォーター』と、菅野雪虫さんの『明日美』という作品が掲載されている。どちらも、核とともに生きていかねばならない子どもたちの物語だ。
菅野さんの『明日美』は、南相馬に住む中学3年生の少女・明日美の日常を描いた物語だ。菅野さんの眼差しは、静かな文体で明日美の生活の一コマを切り出していく。切りだされた日常に断層写真のように積み重なっているフクシマの今は、静かな日々の中に、明らかな被災地以外の場所との温度差を孕んでいる。私が個人的に衝撃だったのは、明日美の家の「茶の間にはこたつとミカンと煎餅と線量計」が並んでいること。外出から帰ってきた明日美にその線量計は反応してピーピー音をたてる。明日美はその線量計に向かってふざけてみせるのだ。ここで私はいろんな意味で深くうなだれてしまった。
線量計が、こたつやみかん並んで茶の間にある。日常の中にあるから、その違和感にはっと胸を突かれる。明日美はそのことに慣れている。その、「慣れている」ということにも胸を突かれる。いつもの日常、自分の家の茶の間。穏やかに自分を包むはずの日常に潜む非日常から、明日美は毎日傷つけられている。でも、それに慣れていかなければ生きていけない。傷つけられることに慣れる・・・そんな悲しいことがあるだろうか。違和感は、明日美の心の中から消えることはないだろう。明日美は、あの日以降を、忘れられない風景の中で、失った痛みと共に生きているのだから。「みんな忘れない。あの日のことも、あの日からのことも、みんな、忘れるもんか。」慣れるのと忘れるのは違うのである。被災地の外にいる私たちの方は、その違和感に慣れていないが、その違和感を感じなくなっているのかもしれない。その温度差を思ったとき、私は明日美の孤独に深くうなだれてしまう。その孤独感は、まるでフクシマをホラーの地のように扱うネットの世界を見る明日美の眼差しに感じられる。傷つけられたものが疎外され、孤独を感じなければならない。この理不尽を、静かに私たちの目の前に置く菅野さんの物語は、無関心という見えない壁を超えて心を繋ごうとする物語の大切さを感じさせてくれた。
菅野さんがそっと描き出した温度差は、芝田さんの『ソルティー・ウォーター』で、熱く燃え上がって疾走する。この作品は、3.11以降の近未来を舞台にしたSF仕立てで、芝田さんならではの切れ味のある緊迫感が漂う。バクハツがまるでなかったかのように放射線を遮るという泥の中に埋められたカマの中で、ウランが再び煮えたぎろうとしている。病気を何度も繰り返す主人公のエツの体の中にある熱い塊が、そのウランを感知するのだ。彼は走る。今はもういない少女・ミヤの声に導かれて、ウランの釜の丘に走る―。無責任さや嘘、無関心や事なかれ主義、コストと経済効果という泥に原発を塗り込めようとしても、これから何万年も放射能は拡散しようとするエネルギーをもち続ける。エツが吸い込む空気に水にまき散らされている苦いものは、私たちにとって永遠とも思える時間を生きる。その何万年という時間の前に、すっかり骨抜きになってしまった「安心」という言葉は、はたして意味を持つのだろうか。私たちは忘れっぽい。嫌になるほど同じ過ちを繰り返す。

わたしのつもりでは、自分が書いているのは―ほとんどの小説家と同じで―人が過ちを犯すこと、そして、ほかの人であれ、本人であれ、誰かがその過ちを防いだり、正したりしようと努めて、けれどもその過程で、さらに過ちを犯さずにいられないことです。  ~アーシュラ・K・ル=グウィン「ファンタジーについて前提とされているいくつかのこと」※

だからこそ、私たちは、何度も何度も子どもたちに、自分たち大人のした過ちについて語り続けなければならないのだと思う。明日美の孤独と、真実を見据えようと走るエツの痛みを何度も何度も感じて、心に刻むことがこれから先の希望に繋がるのだと信じて。その3.11以降の長く大切な営みは、まだ始まったばかりだ。私は物語を刻めないから、こうして何度も自分が大切だと思った作品について語ろうと思う。そう思わせてくれた、今号の特集号だった。
※『いま、ファンタジーにできること』河出書房新社 2011年8月刊行に所収されています。

 

by ERI