昔日の客 関口良雄 夏葉社

「佇まい」という言葉が好きだ。存在自体が醸し出す気配。そこに在る、ということが美しさにつながるような。多分それは、長い時間をかけて積み重ねてきたものが醸し出すもの、しかも何か一つのことに心をこめて生きてきた人のみが身につけるもの、という気がする。この本は、山王書房という古本屋さんを営んでいた関口良雄さんが、文人たちやお店の客人たちの想い出を綴ったもの。一度もおじゃましたことのない山王書房の古本の匂いのするような、とても心惹かれる佇まいの本なのだ。きっと、山王書房も、この本のように、ふと気が付いたらそこに何時間もいてしまうような、魅力ある古本屋さんだったに違いない。ああ、行きたかったなあ。私はビビリだから、きっとゆっくりお話などは出来なかっただろうけれども、関口さんが愛した本の数々を、じっくりと拝見したかった。本に対する愛情が、いっぱいに詰まったこの本を読んで、しみじみとそう思った。

「古本屋という職業は、一冊の本に込められた作家、詩人の魂を扱う仕事なんだって。ですから私が敬愛する作家の本達は、たとえ何年も売れなかろうが、棚にいつまでも置いておきたいと思うんですよ」

後書きの息子さんの言によると、関口さんはいつもこうおっしゃっていたとか。そんな風に関口さんに愛されて誰かのもとに旅立っていった本は、なんて幸せなんだろうと思う。きっとお店には、そんな関口さんの想いがいっぱいに詰まっていただろうから、お客さんもきっと本を愛していた人がほとんどだっただろう。そんな風に本を愛する人、というのは概してあまりお金儲けが得意でない。というか、本ばかり読んでいるので、お金儲けをする暇もない(笑)この本に出てくる昔日のお客さんたちも、そんな人ばっかりだ。書斎を作って、そこで本ばかり読んでいる植字工さん。部屋に本と美術書しかなかった井上さん。そんな方たちのお話を読んでいると、何だか私は安心してしまうのだ。本を愛して、本に淫して一生を過ごしていった人たちと、この本を通じてなんだか繋がっているような気がするのである。世の中からはあまり理解されないかもしれない、本好きたち。もう、この本に出てくる方たちも、関口さんも、とうに御存命ではないけれども、きっと彼らはあの世でも、本の話ばかりして笑っておられるような気がする。そう、「二人の尾崎先生」という項での、尾崎一雄氏宅での夜のエピソードのように。書庫で語り明かし、「あなたがたは、いつまで話しているんですか」と夫人に言われ、手料理を頂きながら、また本の話。本を買いに行ったことも忘れて、本を包むはずの風呂敷に蜜柑をいっぱい包んで帰る夜。これを、至福と言わずになんと言おうか。私も、あの世にいったら、ぜひ関口さんのお仲間に、本好き山脈の一端に加えて頂きたいと、思うのである。…それまでに、ちゃんと勉強しておかなきゃ。そう言えば、この本はやっぱり本好き山脈仲間のぱせりさんのブログで教えて貰ったのだ。私たちはネットのおかげで近くにはいなくても、こうして繋がっていられる。本好きは、本好きを呼ぶというのは昔から変わらない。その感謝も感じる一冊だった。

関口さんの敬愛された上林暁氏の本を、去年一冊買ったまままだ読めていなかったのを思い出した。昔日にならぬうちに、早く読まねば・・・。

2010年10月刊行
夏葉社

キミトピア 舞城王太郎 新潮社

舞城氏の言葉は、日常に切り込んでくる鋭く、扇情的な凶器のようだと思う。「言葉」というものは不完全で曖昧な道具で、私たちの生活や意識と密接に結びついている。個人個人の言語感覚のずれもある。その「個」に結びついた言語をいったん日常から引きはがし、厳密に再構築した上でもう一度「日常」という風景の中に放り込む。すると、言葉は新たな熱を帯びて「個」の中に切り込んでゆき、私たちが言葉にすることを諦めて葬り去ろうとしていた感情や奇妙なズレや暗闇を掘り起こしていく。文学というものは、多かれ少なかれ、この営みを繰り返すものだけれど、舞城氏ほど、言葉の可能性と限界を同時に感じさせてくれる人はあまりいないんじゃないか、と思ってしまうのだ。

『キミトピア』と名づけられたこの短編集は、誰でも一度は巻き込まれてしまうような、人間同士のトラブルやズレを克明に描き出す。登場人物、特に語り手は、とにかく論理的に言葉を駆使して思考し、問題の本質をえぐりだそうとする。たとえば冒頭の「やさしナリン」。夫と義妹の「他人のかわいそうに弱い」という性格が巻き起こす、お金とコンプレックスの混じった身内のゴタゴタ…もう、他人に説明するのもめんどくさいこういうゴタゴタって、誰でも一度や二度は巻き込まれたことがあるはず。ものすごく精神力を消耗するんだよなあ、こういうのって。言葉を尽くしても尽くしても、なぜか見事に核心がすれ違っていくあの隔靴掻痒というか、気持ち悪さが、こんなに見事に再現されるのが信じられないくらいなのだ。主人公の櫛子は、夫に、義妹に、ありとあらゆる言葉を駆使して彼らの「やさしナリン」の理不尽さをわからせようとする。この櫛子の言葉は、「そう!それが言いたかったの!」と、自分の過去のゴタゴタに使いたかったセリフ満載の明晰さなんですよ。このあたりの言葉の縦横無尽さは、「真夜中のブラブラ蜂」の網子の言葉たちなんかも読んでてうっとりするくらいです(笑)「好きなことやっていいよ」と言いながら、絶対にそう思ってない夫や息子の無意識の領海に、ビシビシと切り込んでいく網子の言葉たちに、すっかり惚れました。(個人的な感情が入ってるな・爆)

しかし、しかし。櫛子にしても網子にしても、言葉を交わせば交わすほど、相手との距離が離れていくんですよね。言葉たちが、見事な理論と世界観を構築していけばいくほど言葉が照らす光は、同時にくっきりと距離と、お互いの間に横たわる暗闇を暴きだすことになる。…言葉の可能性と限界とは、人間同士が分かり合おうとする可能性と限界のことだよな、とつくづく思う。キミと僕、あなたと私がいてわかり合おうとすることは、どこにもないユートピアを願うことなのかもしれない。でもでも。その言葉の限界を、人と人との果てしない距離を、舞城氏はありとあらゆる仕掛けを駆使して突き抜けようとするんですよね。流動的で、ヒステリックな「今」をガリガリと齧りながら走る、その乱舞っぷりを、私は頼もしいと思うし、エロくて素敵だとも思うし、とことんいてまえ!とも思うのである。文体の疾走感を読む楽しみだけでも、相当ポイント高いです。…なんで、舞城氏は、芥川賞を取れないんだろう。不思議だなあ。

2013年1月刊行
新潮社

図工準備室の窓から 窓をあければ子どもたちがいた 岡田淳 偕成社

昨日、この本を神戸からの帰りの電車の中で、待ち切れずに読んでしまったんです。いやー、失敗でした。もうね、面白すぎて、楽しくて、うふうふと声が漏れてしまうのです。あまりにツボにはまって、爆笑したくなるのを必死でこらえ、でも読むのをやめられなくて目を白黒してる私は、相当ヘンな人だったと思われます(笑)トンビのトンちゃんのくだりや、川を飛び越えられんで落っこちたお話、トイレのよこに図工準備室があるのをええことに、肝試しにきた子どもたちを脅かしてるところ・・・「さんばんめーのーはーなこさーん」「は~~~い」・・・もう、帰宅後再読して、転がりまわるくらい笑いました。「先生、何してんねんな!」ってツッコミながら。

そう、この本を読んでいる間、私はすっかり岡田先生に図工を教えてもらってる小学生みたいな気分でした。私、小学生のときは図工が大好きだったんです。でも、段々人と自分の作品を比べるようになって、あんまり好きじゃなくなってしまった。ほんまに勿体なかったなあ・・と、この本を読んで思ってしまった。岡田さんは、ずっと小学校で図工を教えてらして、その想い出がこの本にはぎっしり詰まっています。それがもう、楽しいのなんの。岡田先生は、図工準備室をうす暗くして、大きな枝やら不思議なオブジェ、雑然といろんなものを詰め込んで、ワンダーランドみたいにしてしまう。しかも、「先生のゆるしなく、じゅんびしつにはいったら、おしりペンペンです」などと書いた紙を張る。思わず裏返すと「うらがえしたひとはもういっぱつおしりペンです」と書いてあって「つぎのやつをひっかけるから、もとのむきにもどしておくこと」なんて、書いてある。ひゃ~!もう、こんな図工準備室に、行かずにおられようか、ってなもんです。そして、岡田先生の授業の楽しそうなこと!あー、これやりたかった!(今でもやってみたい)と思うことばっかり。それだけやなくて、岡田先生はいろんなことを子どもたちに働きかけます。演劇部をつくったり、お昼休みの放送のDJをして、そこで自作の短編を朗読してしまう。その短編は、今、自分が通ってる小学校が舞台なんです。ああ!なんて幸せなこどもたち。だって、その物語は、「今」の自分たちと一緒にあるワンダーランド、現在進行形の物語なんですよ。それは、不思議と一緒に生きること。子どもたちは、どんなにドキドキして放送を聞いたやろう。これこそ、エブリディマジックの魔法です。

岡田先生が図工の授業で目指してはったのは三つ。

わくわくどきどきしながら、
①絵をかくことが好きになること
②ぼくはやったぞ、と思えること
③あの子やるなあ、と思えること

ああ・・これに尽きるなあ。なんかもう、これがすべてやなって。そう思います。生きる喜びが、ここにはぎゅっと詰まっています。「図工は、いつの日か豊かな人生を送れるために、ではなく、今を豊かに生きる実学であったのだ」(本分より)私たち大人は、子どもたちに「先々のために勉強しなさい」と言う。でも、その「先」って、どこにあるんやろう。高校受験のため。大学受験のため。就職のため。スキルアップのため・・いつまで行っても「先」ばかり見なければならない人生って、しんどくない?って、思うんですよ。子どもたちの気分を支配している行き詰まり感って、そこにあるんじゃないのか。そう思います。岡田先生のような発想の先生が教育現場にいはって、子どもたちに「先生、はよ図工しよ」と言われる授業をしはることは、どんなに大切なことか。

昨日「しあわせなふくろう」さんで、この本にサインをして頂きました。その時に岡田淳さんがイラストも一緒に書いて下さったんです。私が『夜の小学校で』の最後の物語、『図書室』がとても好きだと言うのを聞きながら書いてくださったのは、人が軽く腰に手をあてて佇むシルエット。私は単純に「うわあ、素敵だ」と喜んで「ありがとうございます」と脳天気に抱きしめて帰りました。そして、この本をずーっと読んでいって。その『図書室』の話が出てきました。そこに書いてあった「本」に対する思を書いた一節に、私は撃ち抜かれてしまったんです。「世界はやっていける、人生は生きるに値する、ひとは信頼できるという感覚を、ドリトル先生の台所は育ててくれたのではないか」そう!これやん!って。私が幼いころに物語からもらったもののこれやった。そして、これからを生きる子どもたちに必要なんは、やっぱりこれやんな、って。もう、まっすぐ胸の真ん中に落ちました。岡田さんの作品の根底にあるのもこれで、だから、私はいっつも岡田さんの物語に勇気と優しさをもらうんやな、って。そう思って頁をめくったら・・・その言葉の裏に、私がサインしてもらった人のシルエットの絵が出てきたんです。うわあ!とびっくりしました。岡田先生にやられてしまった。もしかして・・私の一言を聞いて、岡田先生はこの絵を書いてくれはったんかも!そう思ったら、ドキドキして、嬉しくて、何だか泣けてしまった…。岡田先生のマジックに、笑って泣いて、感動して。すごく大切な宝物を頂きました。

この本には、阪神淡路大震災の話も出てきます。神戸に生きる人たちは、みんなこの記憶を抱えています。岡田先生も、きっときっと大変な思いをされたに違いない。でも、岡田先生は、悲しい話、つらい話ではなく、「それ以外の話をしよう」と心に決めたらしいのです。kikoさんもそうなんですが、神戸の人にはこういうところがあるなあと思います。優しいんです。悲しみも辛さも、お互いの中にあることを受け止めながら、「生きてるうちは、笑っとこや」て労わりあうような。美しいもの、美味しいものが大好きで、今を一生懸命生きてる。そんな強さと優しさ。『願いのかなうまがり角』(偕成社)に出てきた、震災でつぶれてしまったまがり角の話を思い出しました。大きな悲しみを知っている人ほど、人に優しい。身内に教育関係が多い私は、学校という場所の大変さについてもよく聞きます。それはそれは、いろんなことがあったに違いない。でも、こんなふうに学校生活の想い出を書き、愛情の溢れる本にされた岡田先生の想いに、たくさん幸せを頂いて、大切なことを教えて頂きました。岡田先生、素敵なサインとイラストを、本当にありがとうございました。大切にします。

2012年9月刊行
偕成社

 

岡田淳さんの「夜の小学校で」原画展と“ひつじ書房”

春らしい穏やかなお天気のもと、神戸まで足を伸ばして岡田淳さんの作品展に行ってきました。JRの摂津本山駅前の画廊「しあわせなふくろう」さんで、『夜の小学校で』の原画展が行われていたのです。

原画はとても素敵でした。やっぱり印刷されたものよりも色がとても鮮やかに美しく、絵から優しさや温かさが溢れてくるようでした。ほかにも素敵な絵がいっぱい出品されていて、そちらは販売されてもいたのですが、何とほとんどが売約済み。わかるなあ・・・だって、岡田さんの絵って、見ていると、何だか胸にぽっと明るいものが宿るようなのです。落ち込んだ時や、心がすさんでやさぐれた時に、あたたかい光を投げかけてくれるような。「しあわせなふくろう」さんの中には、そんな岡田さんのパワーが満ち溢れていました。小さな画廊は、もういっぱいの人。今日は岡田さんご自身も来られていて、本にサインもして頂けるということで、小学生たちがたくさん来てました。皆、手に手に岡田さんの本を持って、とっても嬉しそう。岡田さんは一人ひとりとお話しながら、ゆっくりサインとイラストを描いてあげておられました。もう、子どもたちも岡田さんも幸せそうで、いつまでも見ていたい光景でした。一人の女の子なんか、岡田さんの大ファンで、ノートに書いた自分の物語も岡田さんに読んでもらおうと持ってきてて。一生懸命な顔して岡田さんが読むのを見てました。一生の思い出になるよなあ、もしかして、将来作家さんになって、この日のことをエッセイに書いたりして・・・なんて思うのも幸せでした。もちろん私もkikoさんもサインして貰いました。私がサインしてもらったのは『図工準備室の窓から』です。

その「しあわせなふくろう」さんの数軒横に、児童書の専門店「ひつじ書房」さんがあります。ここは、kikoさんの馴染みの本屋さん。児童書の専門店として有名です。以前からkikoさんに聞いて、ぜひ行ってみたかったので、今日は心おきなく埋没(笑)kikoさんと私をこんな本屋さんにほりこんだら、もう、何時間でもいます(笑)岡田淳さんを偕成社に紹介して、作家さんになるきっかけを作られたのは、ここの店主さんです。児童書に深い造詣と理解をお持ちの方なのです。もちろん品ぞろえも充実。大好きな本、気になる本がいっぱい。選書がとても素敵なんですよね。端から端まで欲しくなる。絵本から専門書まで、何を聞いてもいろんなお話をしてくださるので、嬉しくなってあれこれとおしゃべりしているうちに、数時間も経ってしまったという・・・。本を、児童書を、とても愛してらっしゃる。その愛情がたっぷり詰まった本屋さんでした。アイザック・B・シンガーの『ショーシャ』(吉夏社)と、マーガレット・ワイズ・ブラウン&バーバラ・クーニーという大好きなコンビの絵本『どこへいってた?』(童話館)を購入。ここは、また通ってしまうと思います。

たっぷり本を見たあとで、kikoさんのお友達の雑貨屋さんでカレー皿を衝動買いし、「tea room mahisa」で、美味しいスイーツとミルクシナモンティーを満喫し、帰りの電車の中で岡田さんの『図工準備室の窓から』を読んで、電車内で爆笑したくなるのを必死でこらえつつ帰宅するという、至福の一日でした。楽しかった~!

※「しあわせなふくろう」での原画展は、3月26日(火曜日)まで。最終日の26日は、1時頃から岡田さんご自身が来店されます。店内で本の販売あり。お近くの方は、ぜひ!

 

 

 

 

おなやみジュース 15歳の寺子屋 令丈ヒロ子 講談社

この本、まず、タイトルがいいなあ!と思うのです。「おなやみジュース」。とても日常的な言葉で、核心をぎゅっと掴むこの言語感覚が、いつも凄いなあと思うのです。令丈さんは大阪の方で、日ごろコテコテの大阪弁の私としては、文章のリズムや言葉のニュアンスが、とても心に馴染む、というのもあるのですが、この本、15歳をとっくに過ぎた…過ぎたというのもはばかられるような年齢の私にも、まっすぐ伝わってくるものがありました。自分の不甲斐なさへの実感と、この年齢になってこそわかる「そう!その通り!」という共感がいっぱい(汗)この本、ぜひぜひ15歳の人たちに、いや、それ以外の年齢の人たちにも読んでほしいなあ~と思います。

自分の人生という小さな世界の中で起こる、悩み事。当事者以外には、そないに大したことやなくても、これがもう自分にしてみたらしんどくて、切なくてしゃあないこと。ほんとに、人生ってそんなことの繰り返しなんですよね。令丈さんは、そんな「コップの中の嵐」に揉まれた自分の経験を、「作家になりたい」と気付くまでのジタバタする気持ちを振り返りながら率直に語ってはります。自分の将来を考える時期になって、美大への受験で悩んだこと。悩んで悩んで、お父さんの言葉がきっかけで気付いたのは、「作家になりたい」という自分の本当の思い。その覚悟を受け入れるまでの葛藤。こう書いてしまうと簡単だけれど、自分という人生の「おなやみジュース」を飲み干すのは、とても勇気がいることです。誰のせいにもしない、自分をごまかさないでまっすぐ見つめること。私はこれが今でも非常に苦手で、やっぱりすぐに逃げたくなる。苦い「おなやみジュース」を飲まずにおこうとする弱さ、失敗したり傷ついたりしたくないという防衛本能に振り回される…令丈さん曰く「気に入らないおなやみジュースをそっと捨て、なかったことにする」ことが、たびたびです(汗)そんな私に追い打ちの言葉。「おなやみジュースが、グレードアップして再登場」そう!そうそう!これやん…もう、人生の真理を突いてますわ。その通りなんやわ、と何度もグレードアップに打ちのめされた経験があれもこれもと湧いてきます。私も、若い頃の自分に言うてやりたい。「おなやみジュースは、どんなにしんどくても飲んだほうがええよ」って。ほんまに楽しいことや、嬉しいことは、そんなおなやみジュースから生まれてくることも、知ってるから。

自分の思いを言葉にする、っていうのは客観的に捉える余裕を持つということやと思います。ぐるぐる回るコップの中の嵐に出会ったとき、「あ、これって令丈サンの言うてはったおなやみジュースかも」って思えたら、それだけでも安心できたり、少しだけ違うところからおなやみを見る目が出来るかもしれない。自分以外のだれかに相談してみよかな、と思えるかもしれない。だからこそ、この「おなやみジュース」というネーミングのセンスが素敵やと思います。悩みに悩んだあげくに、自分の命を断つ、なんていう取り返しのつかないことろまで自分を追い込んでしまう悲しいことにならないように。こんなふうに心に届く本がもっとあったらええなあと真剣に思います。ほんまに、たくさんの子どもに読んでほしいなあ。

2009年刊行
講談社

霧の王 ズザンネ・ゲルドム 遠山明子 東京創元社

設定がとても面白いファンタジーなのですが、その設定ゆえに、主人公たちの心の中まで霧の中になってしまい、最後まで共感がもたらす心の震えを感じることが出来なかったのが残念です。

物語は、大きなお屋敷の下働きの少女サリーが、図書室で本を閉じるシーンから始まります。お屋敷はクモの巣のような廊下と、幾つあるのかわからない部屋と、東西南北にそびえる大きな塔、地下の迷路まである壮大なもの。サリーはそこから出たことがありません。いきなり夜の晩さん会にかり出されたサリーは、そこで客の何人かが死んでいく恐ろしい光景を見ます。どうやら、このお屋敷は普通の世界にあるのではないらしい。館の中の人は何度死んでも生き返り、図書室の仲良しの司書は梟だし、庭園にいる猫は、サリーに語りかけてくる。どうやらこのお屋敷は、邪悪な霧の王を閉じ込めるための時の止まった空間らしい。そして、サリーは、この世界のゆがみを正す唯一の存在らしい・・・ということが、読み進めるうちに段々とわかってきます。

凝った装丁と、各章の初めに施されている繊細な挿絵。贅沢な調度や料理のあれこれを読む楽しさ。美しい庭や果樹園の描写なども素晴らしくて、印象的なシーンがたくさんあります。RPGのゲームのように、大きな図書室をホームに、壮麗なお屋敷や地下迷路のダンジョンを探検したくなる。どこまで行っても霧の中、というあやかしの世界をさまよう面白さがあります。狼の頭に手を触れてワープしたりする面白い仕掛けもあって、そこがとても魅力的なのですが・・・その霧が、いつまで経っても晴れない。主人公のサリーは、霧の王をこの屋敷に幽閉した猫の女王・サラのもうひとつの姿らしいのです。しかし、サリーはそのサラの記憶を今は失っていて、なぜ自分が霧の王に立ち向かわねばならないのかがわからない。サリーの人格や個性が、設定に引きずられるままに最後まではっきりしません。そして、頭に霧がかかったサリーを導く役のわき役たちも、やはり、いまひとつキャラクターがはっきりせず、皆で右往左往したまま最後まで行ってしまうんですね。だから、ストーリーの中で誰かに感情移入することがしにくいのです。皆、ぼんやりと輪郭がかすんだまま・・・それが設定の在り方ではあるのですが、やはり物語というのは、主人公と一緒に心の旅をするものであると思うのです。そこが弱いというのが非常にもったいない気がしました。そして、これは私の理解力の故かもしれないのですが、この霧の奥にあるはずの、登場人物たちの真の姿が織り上げる物語の在りようも、しっかりと伝わってこない。だから、最後に霧が晴れたときのカタルシスが、あまり無いんですよねえ。右往左往した割には、あっけなく最後の闘い(?)が終わってしまう・・・というか、実質的にサリーはなんにもしてないというのも、感情移入しにくい理由の一つかもしれません。

何やら文句ばかりつけたような文章になってしまいましたが(汗)文章や設定の魅力と、筋運びとのアンバランスさが何やら歯がゆくて、ついあれこれ書いてしまいました。ファンタジーって、難しいもんですねえ。うーん・・・。でも、この作者は最近矢継ぎ早に作品を発表しているらしいので、翻訳されたらぜひ読んでみたいと思っています。いろんな要素がぱん、とツボにはまったら、傑作が生まれるんじゃないか。そう思わせる作者でもあるのです。いろんな意味で気になる一冊でした。

2012年12月刊行

東京創元社

 

あい 永遠に在り 高田郁 角川春樹事務所

高田さんには、「みをつくし料理帖」という時代小説の人気シリーズがあります。図書館でもたくさん予約が入りますし、夫が大ファンで、私も作品は全部読んでおります。高田さんの物語のヒロインは、いつも過酷な運命に翻弄されます。でも、激しく押し寄せる川の流れの中で、逆らわず、流されず、へこたれず、健気に生き抜くのです。この本の主人公・あいも、そういう女性です。関寛斉という幕末から明治にかけて活躍した医師の妻であり、実在の人。夫とともに時代の変わり目の激動の中に生き、12人の子を産み、6人の子を亡くし・・・古希を過ぎ、すべてを捨てて北海道に入植した夫についていって、そこで人生を終えた人です。

この夫婦の在り方をあえて一言でいうとしたら、「私心がない」ということだと思うんです。関寛斉とあいは、「八千石の蕪かじり」と言われる、貧しい農村の出身です。その地域から血の滲むような思いで学問を収め、医学を志した寛斉は人の何倍もの使命感を持って生きた人。栄達を嫌い、貧しいものからは医療費を取らず、種痘を実施し、晩年になって隠居するどころか、若者でも耐えられないほどの開拓事業にその身を投じていく人なんです。そういう人は、多分に人に、世間に理解されにくい。その夫の孤独を包み、幼い頃からの機織りで家計も支え、子どもを育てたあい。同じ女として溜息が出るほど凄いなと思います。若い頃の自分なら、こんな物語を読んだとき、「こんなに出来た人なんて、いるわけないやん」と思ってしまったような気がします。でも、この年齢になると、自分の狭い枠の中だけで人を判断することの無責任さだけはわかるようになるんですよね。自分の産んだ子のうち、6人を亡くすというのは、どれだけ辛いことだったことか。何度も財産すべてを無くす目にあうのは、家庭を持つ身として、どれだけ不安だったことか。それでもしゃんと立って歩いていけたのは、私心なく「人の本分」を果たしたいと願う夫に、自分の夢も託したからではなかったのかと思います。人は、辛いことがあったとき、自分のために頑張る気力も生まれてこないときでも、人のためなら頑張れたりする。高田さんが書きたかったのは、あいが苦しみや悲しみにぶつかったときに、どう行動し、生き抜いていったのか。彼女を支えたのは何だったのか、ということなのだと思うのです。「人たるものの本分は、眼前にあらずして、永遠に在り」。これは、寛斉を支援した豪商の濱口悟陵の言葉です。この言葉に支えられて生きた夫婦の、不器用な、でも私心のない生き方の尊さを思いました。

3・11から2年が経って・・・いろんな特集を見たり、いろんな人の書いたものを読んだりしましたが、本当に何一つ変わっていない。復興などほど遠い現状の中で、被災地とそれ以外の場所での温度差が大きくなっているようにも思います。アベノミクス、という言葉がやたらに飛び交う毎日ですが、経済というものは本当にこんなにヒステリックなものなんでしょうか。実質的な何かが変わったように見えないのに、なぜ政権が変わっただけでこんなに空気が違ってしまうのか。その動向の在り方というものが、私にはわけがわかりません。くるくる変わる猫の目のように、また空気が変われば簡単に転がり落ちるような気がしてならない。そして、この浮ついた流れが、弱いものや大切なことを置き去りにして忘れようとしているような気がしてならないのです。あいが見つめようとした永遠の中に在るものとはなにか。あいの眼差しに、今の私たちの目線を重ねてみる・・それが、この本の読み方の一つかもしれないとも思いました。

2013年1月刊行

角川春樹事務所

 

狛犬の佐助 迷子の巻 伊藤遊 岡本順絵 ポプラ社

表紙の狛犬さんの顔がとても良いんです。お人よしのワンコのような、今にも何か話しかけてくれそうな、この狛犬さん。ワンコ好きの私としては見逃せません(笑)思わず読んでみたら、体中にあったかいパワーが溢れてくるような、そんなお話でした。

街中にある古い神社を守る2頭の狛犬さんには、石工の佐助と、親方の魂がそれぞれこもっています。この2頭、きっちり神社を守護しているというよりは、いつもしゃべくりまくって過ごしている、ゆるーい狛犬です。いつも弟子の佐助が親方に怒られてるんですが、めっちゃ仲良しなんやね、ということが伝わってくる、とってもいい漫才コンビです。そして、佐助は「心持ちも狛犬らしくなってきたし」なんていいながら、いろんなことが気になってしまう、やっぱりお人よし。最近はいつも神社にくる耕平という少年が気になって仕方がないのです。耕平は飼っていた大切な犬のモモがいなくなって落ち込む毎日。佐助は、ある日、そのモモの行方の手がかりを聞いて、なんとか耕平にそのことを伝えたいと必死になってしまうのです。佐助は狛犬です。石の身動きできない体では、何も出来ない。親方に「あきらめろ」と諭される佐助ですが、どうしても彼は諦められない。その思いが、佐助を石の体から解き放ってしまうのです。

神社というのは、たくさんの人が自分の願いを伝えにくるところです。中には切ない願いもあることでしょう。これまで、願いをする立場からしか、狛犬さんや神社の神様を見たことはなかったけれど、この必死の佐助の奮闘ぶりを読んで、もしかしたら神様もしんどいのかもしれへんな、と思ったり。何かしてあげたい、思いを叶えてあげたいと思っても、してあげられへんことのほうが多いやないですか。いろんなことが見えたり、俯瞰できたりすれば、尚更その思いは強いのかもしれないですよね。家族や友達や、恋人が苦しみや悲しみを抱えているのを知っていて、何も出来ない、というのはとても辛いことです。でも、だからこそ、その「何かしてあげたい」「喜ばせてあげたい」という気持ちというのは、とても尊い、強いパワーでもあると思うのです。佐助のパワーも思わず爆発してしまうのですが、獅子奮迅のおせっかいは、見当はずれの結果に終わってしまいます。これもねえ、何だかじーんとよくわかるんですよね。私もお節介な性質で、ついあれこれ世話を焼きたがるほうなんです。でも、それがいつもいい結果につながるとは限らない。佐助のように見当はずれになることも多いし、やめときゃ良かった、と後悔することもあります。だから、この佐助の気持ちがよーくわかる。佐助は狛犬としてはおバカさんかもしれないけれど、そのおバカさんなところが、よくわかるというか、何とも愛しいんです。

佐助は生きている間も、とても不器用な人でした。でも、だからこそ、親方の期待に応えたいと一生懸命で必死でこの狛犬を彫ったのです。その誰かの思いに応えたいという純粋さが狛犬さんに宿り、息づいている。見かけはあんまりカッコよくなくても、お節介がうまく実を結ばなくても、その「思い」は、とても大切な宝物なんですね。今日読んでいた『それでも人生にイエスと言う』(※)の中で、フランクルが次のようなことを述べていました。「私たちは、生きる意味を問うてはならない」と。私たちは、人生に問われている存在、つまり人生は我々に何を期待しているか、を考えていくことが大切なんだと。そういう生き方は不器用に見えるし、要領よく生きていったり、得することとは縁遠かったりするのかもしれないけれど、どこかで誰かを笑顔に出来る唯一のパワーを生み出すものでもあると思うのです。その不器用な温かさが、溢れてくるような物語でした。狛犬さんの挿絵は、岡本順さん。伊藤さんといいコンビですねえ。見返しのどんぐりも可愛くて、心のこもった一冊でした。

2013年2月刊行

ポプラ社

(※)「それでも人生にイエスと言う」V・E・フランクル 春秋社

 

 

狼の群れと暮らした男 ショーン・エリス ペニー・ジューノ 築地書館

「私たち(人間)は、たかが欲張りの サルにしかすぎない」と述べていたのは、一匹のオオカミと10年間暮らした哲学者、マーク・ローランズ(※)だ。曰く、人間はサル的動物であると。サルは、人生にとって 一番大切なものを、自分に対する利益ではかる。目に見えるもの。 物質、利益、コスト・・つまり、対費用効果だ。 その為に、陰謀を図り、共謀し、相手を欺き、利益をあげることで 文明を築いてきた。確かに優れた 芸術、文化、科学、真実は存在するが、その偉大さを生む知性の核心には 邪悪さと狡猾が潜んでいる。 しかし、オオカミにはそのような邪悪さは一切ない。彼らは計算をしない。 嘘をつけない。相手を欺かない。恐ろしいほどの運動能力があるが、その能力をちゃんと抑制してみせる・・・。この本を読んだとき、私は非常にその論に共感し、親オオカミ派になってしまったのだが、この本を読んでオオカミという生き物の見事さにますます惚れてしまった。しかし、どれだけ惚れても、私にはこのショーン・エリスのようにオオカミの群れに単身のりこんで暮らすことは出来ない。彼は「ウルフ・マン」とも呼ばれるオオカミにとり憑かれた男なのである。

幼い頃から英国の自然の中に育ち、人間よりもキツネにのめりこんでしまう少年だったショーンは、軍隊生活を経たのち、アメリカに渡ってネイティブ・アメリカンの管理するオオカミの生息地区に入り、野生のオオカミと暮らすという経験をする。この本には彼の半生がそのまま綴られているのだけれど、圧巻はやはりその2年間の記録だ。ショーンは寝袋一つ持たずに森の中に入っていく。そしてオオカミの取ってきた獲物を共に食べ、一緒に眠り、子育てまでつぶさに見る。いやもう、ほんとに人間超えてます。you tubeで検索して動画を見たのだけれど、そりゃもう人間離れしてます。どうも、ショーンは人間が苦手なんですね。彼は人間の世界にいるよりは、オオカミの世界にいるほうがしっくりくる。ショーン曰く。

「人間はオオカミに冷酷な殺人鬼の汚名を着せたが、本当の強さの源は武器を持ちながらそれを使わないことにある。人間があのような殺人能力を手にしたら、どれだけの人がそれを使わないだけの抑制力をもっただろうか」

オオカミは非常に家族を大切にする。彼らは自分の命を持続し、子どもを育てるための狩りはするが、必要以上の殺戮は決して行わない。しかし、ショーンも言うように、人間は少しずつ彼らの世界を切り取っていき、オオカミが長い間培ってきた世界のバランスを壊してしまう。その結果人間とオオカミの不幸な遭遇が起こってしまうのだ。こういう動物の世界のことを書いた本を読むたびに、もしかしたら人間はこの地球に一番不要な生き物なんじゃないかと思ってしまう。とにかく必要以上のものを欲しがってむやみに増殖して生態系を壊していくなんて、まるでガン細胞みたいだ。私も便利な生活を手放すことも出来ない、それこそ欲張りのサルの一員なのだから、偉そうなことを言う資格は一切ない。しかし、せめて動物たちの世界のバランスを壊すことだけはしたくないし、正しい知識を持たずに思いこみやイメージで安易な失敗をしたくないと思う。人間にとってはちょっとした間違いでも、動物にはそれが命取りになるのだから。ショーンが命を張って教えてくれたオオカミの生き方は、非常にまっとうで理にかなっている。最近とみにサル的な人間のあれこれがしんどいと思ってしまう中、この本はとても楽しい一冊だった。

私もショーン同様、一番心安らいで落ち着くのは、猫たちと一緒にいる時だ。彼らは言葉を持たない分、何の嘘も裏表もなく、今生きていることの喜びを全身で教えてくれる。この「今」を生き切ることは、やたらに先の繁栄ばかりを夢みて今をおろそかにする人間が学ばなければいけないことのような気がする。

2012年9月刊行
築地書館

(※)『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』(マーク・ローランズ著 今泉みね子訳 白水社)

祖母の手帖 ミレーナ・アグス 中嶋浩郎訳 新潮クレストブックス

最後にどんでん返しがある本というのは、レビューが書きにくい。そこがキモなのに、ネタばれになってしまうと思うと、やっぱり伏せとかなきゃ、と思いますもんね。この本もそうで、最後の2頁ほどに、「えっ!」と思わせる仕掛けがあります。仕掛け・・・と言っていいのかどうか。もしかしたらそれは、私たちが誰しも心に秘めている自分だけの物語のあり方そのものなのかもしれないなとも思います。

娘の頃から、まだ見ぬ恋に憧れ続けていた「祖母」は、親の勧めで祖父と結婚するが、夫を愛せないままだった。1950年の秋、結石の治療で湯治に出かけた祖母は、そこで運命の恋人である帰還兵と出会う。つかの間の激しい恋に身を焦がしたあと帰郷した祖母は、初めての男の子を出産する。家庭は何不自由なく営まれていくが、祖母はいつまでも帰還兵のことが忘れられない。何度も繰り返し祖母に帰還兵のことを聞いていた「私」は、祖母の死後に一冊の手帖を発見する・・・。この物語の語り手は、孫娘の「私」です。

全編を通じて、心と体の皮膚感覚に訴えてくる物語です。ストレートに言うと、とってもイタくて痛いのです。まだ見ぬステキな愛を待つ祖母の期待っぷりはイタタだし、その祖母を打ちすえる曾祖母の鞭はじんじんと肌に応えるます。結婚してからの針を踏むようなセックスレスの日々も、それが一転して娼婦のような性生活を受け入れるくだりも、とっても痛い。彼女がいつも体の中に持っている石は、蝶の幼虫が、まだ見ぬ美しい羽を思って作り出す繭のようなものかもしれない。叶えられない夢、この世界のどこかに、自分の運命の人がいるのではないかと思う、人に聞かれたら顔から火が出るほどハズカシイ願望の塊。でも、その痛みの中には、いつもひっそりと、快楽の甘やかさが潜んでいる。女という性が運命のように持っている痛みと快楽いうものを、こんなに傷ましく典雅に書き記した物語は珍しいかもしれないと思います。

そう、女って常に痛い。生理痛に頭痛、腰痛なんてのは女の常だし。思春期になると膨らみだした胸がやたらに痛むし、子どもを産むのはもちろん、閉経だって痛い。性に必ず痛みがついて回るのです。だから、この祖母の痛みは他人事ではなく、そのまま自分の体と繋がるもの。その女が、痛みを抱えながら、なおかつ「愛」という口はばったいものに繋がれてしまうイタタな部分を持っているというのは、何故なんでしょう。―心と体の奥底に持つ柔らかに密やかな、目の前に取り出せばあまりに剥き出しすぎて踏みにじらずにはいられないような、悲しみにも似たもの。そこに従ってしまうと、社会的な「死」が待っている。思えば、ボヴァリー夫人も、アンナ・カレーニナも、そんな痛みと快楽にに振り回された女たちでした。彼女たちは、みんな愛を手にいれるのと引き換えに破滅して死んでいったのです。この物語にも、たった一度の運命の愛を手に入れたあとを、ずっと不遇のままに生きた女性が描かれています。それはこの物語の語り手である「私」のもう一人の祖母。彼女は富裕階級の出身ですが、若い頃のたった一度の恋で勘当され、一生を働きづめに働いてたった一人で子どもを育てて死んでいくのです。でも、「祖母」は、たった一度の激しい恋をしたのに、ひと世代前の彼女たちのように破滅もしなければ、結婚生活を失いもしなかった。それは何故か・・という答えが、最後の最後に用意されているのです。

えっ、そうだったの・・・と確かにびっくりするのですが、そうか、やったね!とにんまりほくそ笑むというか。フィクション、つまり物語というものを自分の中に取り込み、生み出していく力を女が得たことの、これは可能性の物語でもあると、私は最後まで読んで思ったのです。だから、これは祖母の次の世代、「私」が受け継ぐべき物語であるんだな、と。感情を押し殺して生きることが美徳とされた世代に生きた祖母が思い描いた全き愛情の姿は、実は心の自由を手に入れることだったのかもしれない。もし彼女が今の時代に生きていたら、世の女性たちの心震わせる恋愛小説の書き手になっていたかもしれないですよね。じゃあ、あなたはどんな愛を思い描くの?と、祖母は残した手帖から孫娘に問いかけます。愛情というものは、ある意味独りよがりで滑稽なものでもあります。でも、後書きの作者の言葉にもあるように、その滑稽さも誰からも理解されない部分も、物語にすれば私たちは共感をもって迎え入れることが出来る。そして、孤独と悲しみにも居場所を与えることが出来るのです。祖母の痛みを受け継いだ「私」は、一人ひとりの読者なんですね、きっと。

「生まれてからずっと、月の国の人間のようだと言われてっきて、ようやく同じ国の人に出会えたような気がしたし、彼こそ今まで求めつづけていた、人生で一番大切なものだったように思えた」

私も、こんな風に思ったことがあります。恋愛したとき・・・と言いたいですが(笑)うん、まあ、そう思ったことも無きにしもあらずですけど、現実の恋は大概後で苦い思いを突き付けられるもんです(笑)そのもっと昔、居場所がないと思っていた頃に出会った物語の主人公たちと分け合った思いは、ずっと大切なものであり続けています。この物語も、ふとした時に思い出す、忘れられない一冊になりそうです。

2012年11月刊行

新潮クレストブックス