本のなかの旅 湯川豊 文藝春秋

旅に憧れ続けている割には、実際に行けることが少ない。2匹の猫をはじめ、諸々の事情が手ぐすね引いて待ち構えているややこしい主婦の身では、今のところ二泊ぐらいがせいぜい。この間も、親友とあれこれ旅の計画を練りながら、お互いを縛るものの多さにうんざりしたところだ。外国なんぞ夢のまた夢。だから、自分では行けない旅の本をたくさん買ってしまう。作家は旅好きな人が多いので、あれこれと読むのが楽しみなのだけれど、この本は「好き」という範疇を超えて、とり憑かれたように旅をする文筆家たちのお話だ。彼らの「旅」は人生そのものと抜き差しならないほど結びついていて、否応なくその人となりを語ってしまう。この本は18人の文筆家について語っていて、その客観的ながら熱い語りを読んでいるうちに、なぜ人は旅に出るのか、という根源的な命題があぶり出しのように浮かび上がってくるのがとても魅力的だった。私にとって、本を読むことは幼い頃から慣れ親しんだ「旅」であり、どこまで行っても終わらない旅なのだけれど、どうしても本物の旅に出てしまう彼らの心性と、どこか重なるような気がしてしまう。

この本で取り上げられているのは、宮本常一や柳田國男といった民族学者、開高健や金子光晴、ヘミングウェイ、ル・クレジオといった作家、チャトウィンやイザベラ・バードといった旅行家、と多岐にわたっているのだけれども、文学好きの私にとって一番惹かれるのは、やはり作家たちの旅。特に開高健と金子光晴、中島敦は若い頃耽溺して読んだ作家たちだけに、熱心に読んでしまった。若い頃の私はとにかく濫読で、その分読書も肌理が荒かったように思う。今日も昔に買った筑摩書房のトーベ・ヤンソンコレクションを引っ張り出して眺めていたのだけれど、当時と今では、読んだ印象が全然違う。一番大切なキモのところを読み飛ばしてたやん、とびっくりしたところだ。だから、こうしてもう一度丁寧な解読を通じて大好きな作家に出会うのは、懐かしく慕わしいと同時に、新しい気付きに胸を突かれてしまう。開高健の熱を孕んだ豊穣の旅に私は深く魅せられていたけれど、その芯にあった彼の孤独と寂しさを、どれだけ知っていただろうと思う。同じく、なぜか若い頃やたらに好きだった金子光晴の『女たちのエレジー』にも言及があって、一気にいろんな詩が蘇ってきたけれども、やっぱり18や19の私が、彼の哀歓の何かをわかっていたとは思えない。思えないけれど、私は湯川氏の言う、彼らの真ん中にある果てしない空虚や寂寥の気配に引き寄せられていたような気はする。ただ、あの頃は、それをカッコいいと思っていたような。冷や汗ものだなあ。でも、こうして纏めて頂いて思うのだが、小説家の旅は、どこまで行っても自分をめぐる旅という気がする。主体は旅ではなくて、その旅を味わう自分にあって、私は色濃い彼らの世界にいるのが好きだった。百閒先生など、その最もたる存在かもしれない。『阿房列車』はどこを旅しても濃い百閒ワールドで、あれを読んでいると、ぐるぐると百閒先生の手の中を巡っているような気になってしまう。湯川氏が、その文章を「世界が解体し、何かが無意味になる」と述べているのには、ものすごく納得してしまった。

自分の懐かしい本ばかりに触れてしまったけれど、こういう教養がたっぷり詰まった本を読む楽しみは、自分の知らない本を教えてもらえることだ。湯川氏の物凄い読書量と、教養にひたすら圧倒されるけれど、この本からは、旅を愛した人たちに対する、やっぱり深い愛情と尊敬が伝わってくる。だから、とにかく全部読みたくなってしまう。宮本常一の『忘れられた日本人』や、ル・クレジオのエッセイ、明治の初めに東北の奥地を旅したイザベラ・バードやアーネスト・サトウ、思わずまたチェックして読みたい本リストに書き足してしまった。(積んどく本がたっぷり増えてるのに、一体いつ読むねん!)去年買ったチャトウィンの旅行記も早く読まねば。本というのは、一冊読むとそこからまた道が繋がっていて、どこまでも終わらない旅になるのである。まだ見ぬ場所。私の知らない世界。それが、こんなにあるというのは幸せで、茫然として、果てしなくて・・・その旅の途中で間違いなく力尽きてしまうのがわかっていてやめられないのも、やっぱり旅だ。本の旅と、この足で歩く旅と、ふつふつと自分の中に渦巻く欲望を新たにかき立てられる一冊だった。

2012年11月

文藝春秋