桜ほうさら 宮部みゆき PHP

GWだというのに、このところ寒かったですね。花冷えの頃のようなお天気で、私のような寒がりには辛い。今日は暑いくらいでしたけど、また明日は冷えるとか。北海道は雪。気分は春というか初夏なのに・・・という落差がこたえるんですよね。この、「そうあるべき」という気持ちと、現実との落差というのは、概して精神状態に悪い。そして、家庭というのは、この落差だらけの場所なのかもしれません。

主人公の笙之介は、故郷を離れて江戸で暮らしているのですが、その理由は賄賂の疑いがかかった父が、自宅で切腹して果てたことにありました。もちろん家は断絶です。しかし、笙之介の父親は真面目一方な畑を耕すのが楽しみという人柄で、どうやら誰かの陰謀で罪をきせられてしまった疑いが強い。身に覚えのない父を追い詰めたのは、彼の手跡にしか思えない手紙でした。二男である笙之介は父の汚名を濯ぐ手がかりを求めて江戸に出てきたのです。人の手跡を、本人でさえわからぬほどに真似ることのできる人間を求めて、富勘長屋という貧乏所帯ばかりが集まる長屋で暮らす笙之介は、次々にいろんな事件と関わり、たくさんの人と出会います。長屋の気のいい住人たちとの友情や、桜の精のような女性・和香との出会い。狭い故郷の藩の中では見えなかったものが、江戸という人のるつぼの中で様々な人間の暮らしに向き合っているうちに段々見えてくるのが読みどころです。

家庭というのは、密室性の濃いものです。それだけに、離れてみて、もしくは時間が経ってやっと見えてくるものがあったりします。笙之介の母は、思い通りにならない自分の人生の帳尻を、自分に似た長男で合わせようとした。それが、一家の破滅の始まりだったんですが・・・。こういう理不尽なめぐり合わせにがんじがらめになってしまう人たちのドラマを書かせたら、宮部さんの右に出る人はそういないでしょう。笙之介の母だって悪人ではありません。本人は正しいことをしている積りなのです。この、正しいことをしている積りの人、というのがこの世で一番始末に負えません。自分の行動の裏に、何があるのかを考えてみることはしないので、軌道修正出来ないんですよね。子は親の影を生きる、といいます。母に可愛がられた兄は、母が溜めこんだ毒と一緒に、今度は金と権力が欲しい邪心と出会って破滅への道を進んでいくのです。

家族というのはなかなか厄介なものです。親子だから、兄弟だから、気持ちが通じたり、愛し合って生きていきたいと誰しもが思う。でも、そんなに簡単にはいかないんですよね、これが。この間も、佐野洋子さんの「シズコさん」を読み返していたのですが、母を愛せないという自責の念をずっと抱えていた佐野さんの苦しみが、娘として、母親として胸に沁みました。「親を愛せず、親から愛されないとしても、それだけで人として大切なものを失っているわけではない、家族だけが世界の全てではない」(著者インタビューより)ということを、宮部さんはこの物語で書きたかった、とおっしゃってますが、そのことを自分の心の真ん中まで得心させるには、なかなか大変なものがあります。この本の分厚さは、その心の旅の長さなのかもしれません。笙之介が、結果的に自分の名前も過去とも決別することになった最後の試練は、読むのは辛くなるほどキツいです。でも、笙之介には自分の居場所とも言える、自分で手に入れた人との繋がりがあった。その暖かさが、桜の花びらのように笙之介に降り注ぐラストが素敵でした。家族だから愛し合って当たり前、という「当たり前」を捨ててみたら、案外そこから新しい関係が始まるのかもしれない。現実を変えることは難しくても、心に届く物語の力がもたらすカタルシスによって、現実を新しく見つめなおす。最後の笙之介と和香の笑顔を思い描きながら、その可能性を思った一冊でした。

2013年3月刊行

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