低地 ジュンパ・ラヒリ 小川高義訳 新潮クレストブックス

昔に比べて長編を読むのが体にこたえる。若い頃と体力が違うというのもあるが、そこに描かれるひとつひとつの人生が、年齢と共に深い実感を伴って心に食い込んでくるからだ。私の体の中の時間に、この『低地』の登場人物たちの記憶がどっと流れ込んで混じり合う。既視感のような、まだ見知らぬもう一人の自分と出会っていくような、小説と自分だけが作り出すたったひとつの世界を、浮遊する数日間だった。

これは、死者と生きていこうとする人間たちの闘いの物語だ。まるで双子のようにインドのカルカッタ郊外で育った兄弟と、その妻。弟のウダヤンは、若くして革命運動に身を投じ、警官に自宅の裏にある低地で射殺される。それは、身重の妻と両親の目の前でのことだった。妻のガウリの人生は、そのとき一度粉々に壊れてしまった。兄のスパシュは、彼女を妻として留学先のアメリカにつれてゆき、家族として暮らそうとするのだが、ガウリはどうしてもその暮らしに馴染むことができない。それはそうだろう。例えスパシュがどんなに優しくても、誠実な人であったとしても、彼はガウリが愛した人ではなかったのだから。一度粉々になった壺を何とかテープで貼り合わせてみても、そこには何も溜まらない。ガウリは、もう一度、今度は哲学を勉強することで自分を一から立て直してゆく。「ガウリは精神に救われていた。精神を支えにしてまっすぐ立った。精神が切り開いた道をたどっていった」のだ。しかし、それは妻であったり、母であったりすることとは全く相容れない孤独な作業なのだ。その苦しみが彼女を引き裂き、ガウリは、とうとう娘を棄てて家を出る。世間的には許されないことかもしれないが、それはガウリにとって抜き差しならない営みであったのだ。  一方、ウダヤンの死に向き合い続けたのは、スパシュも同じだ。彼にとって弟は、イデオロギーの上で反発しあったとしても、自分の分身のようなものだった。その彼の代わりに父親になろうとし、ガウリとその娘のベラを守ろうとし、ベラを心から愛した。愛情から生まれた結婚ではなくても、妻と子に精一杯誠実であろうとした。しかし、結婚生活はうまくゆかない。そう、うまくゆかないことは始めからわかっていたのだが、彼は失われた弟の人生が失われたままであることに耐えられなかったのだ。彼のとった方法は間違っていたのかもしれない。しかし、これもまた、抜き差しならない彼の、死と向き合う営みだった。そして、ガウリの娘であるベラもまた、母の失踪という喪失を常に胸の内に抱えていきてゆくのだが、不思議にその足跡は、革命に生きた実の父、ウダヤンと同じような軌道を描き出すのだ。アメリカという移民の国で、ウダヤンという一人の男の生と死を身の内に抱えた三人がたどる足跡を抑えた筆致で俯瞰していくこの物語は、過去と今をぎゅっと凝縮させたような質感に満ちていて、その人生の厚みに圧倒された。

私たちは、生きているものだけでこの社会を動かしている気になっているが、実は全くそうではない。ウダヤンを革命に突き動かしていったのは、インドの大地に踏みつけられるように殺されてゆく貧しい人々の死だった。また、ウダヤンの死は家族の運命と常に共にある。そして、ジュンパ・ラヒリはこの運命の影にある死を、もう一つ用意している。ネタバレというか、この物語を最後まで読んで得られるものを傷つけてしまうような気がするので詳しくは書かないが、それはウダヤンとガウリが正義を行おうとして夫婦で間違いを侵した結果としての死なのだ。私にはその死が、ウダヤンの死そのものよりもガウリの苦しみの最も深いところに突き刺さったまま、ガウリの心を凍らせてしまったことを感じた。だから、ガウリは母性のままに子どもを愛せないのではないか。ガウリは、被害者でもあり加害者でもあった。

「ぽつんと小さく浮いた疑惑の点、あの兄妹と座った窓辺から街路を見下ろし、もっと凶悪なことなのかもしれないと思った心の動きを、彼女は押し殺していた。」

見ないふりをした死を、ガウリは一生見つめ続けて生きてきた。ガウリは被害者であるとともに、加害者でもあった。しかし、生きることは常の二つの立場を抱えているものなのだと思う。その二つを見つめ続けたガウリの人生に、深くのめり込んで私はこの物語を読み終えた。彼女の強さも愚かさも、頑なな一途さも、まるで自分の一部であるかのようだった。

人はその体の内に、大切な「死」を抱えて生きてゆく。ウダヤンという一つの死を身の内に深く抱き続けた家族の物語は、まるで星の軌跡のように一つの宇宙を作っていく。私にはヒンドゥーの知識があまりないのだが、この物語を読んでいると、神々の列伝が語られてゆく形に近いのかもしれないと想像したりした。彼等は歴史に何の名前も残さないが、その人生は、その身に愛と罪と誇りを抱くかけがえのなさに輝いている。そのひとつひとつを、愛という腕で抱き取ってゆくラヒリの眼差しと筆力に脱帽の一冊だった。

八月の六日間 北村薫 角川書店

北村薫さんの小説を読んだのは久しぶりです。でも、久しぶりに読んでも「ああ、これこれ!」という独特の「間」は健在で嬉しくなります。文章をたどりながら、ふっと考え込んだり、風景を眺めたり。揺り動かされた心を、水面を見つめるようにそっと眺めてみたり。読み手の呼吸に合わせてくる、名人芸とも言うべき「間」なんですよね。しかも、その計算されつくしている「間」が、この本のテーマである山登りの行程のように、ごく自然に、もう初めからそこにあるように描かれていて、読み手を物語の最後まで連れていってくれます。

主人公は40歳くらいのベテラン編集者である女性で、仕事の責任や毎日のルーチンや、上手くいかなかった恋愛が人生にぎっちり詰まった毎日を送っています。この物語は、時折そんな日常から抜け出して山に行く、彼女の独白というか、意識の流れが書かれています。楽しい山歩きは五回。それが、こんな例えは失礼かもしれないんですが、小学生の作文風に書かれています。前日の荷造り、おやつに何を入れたか(これが楽しい!私もじゃがりこ好き)、何時に起きてどこから出発して、どこを歩いて、何を食べて…と、延々と全てを網羅。これを凡人が書くと、ただの素人のブログ風になってしまうんでしょうが、北村薫さんが書くと名人芸になる不思議さったらありません。まず、あふれんばかりの文学の蘊蓄が楽しい。何しろ主人公は編集さんなので無類の本好きという設定です。山歩きにも、絶対お守りのように文庫本を持っていく活字中毒で(お仲間だわ)、そこも楽しい。あ、これかー、これ持っていくのか。やられたなーと思ったり。私なら何を持っていくかを、自分の本棚見ながら考えたり。山歩きと言っても、命をかけた過酷な山歩きではなく、かといって私が行くような日帰りハイキングでもなく、頑張れば手が届いて、穂高や槍ヶ岳の風景を満喫できるという絶妙な山歩きなんです。ほんと、「行きたい!」って思いましたもん。彼女は山に一人で出かけます。それは、多分自分自身を確かめるため。

こんな大きな風景の中に、ただ一人の人間であるわたし。それが、頼りなくもまた愛しい。 思い通りの道を行けないことがあっても、ああ、今がいい。わたしであることがいい。

私たちは「人間」だから、人と人の間で微妙な距離を測りながら生きている。時に自分の輪郭がぼやけてしまうことだってあるし、ぶつかってしまうこともある。でも、山にいるときの自分は果てしなく小さくて、ただひたすら山という美しい場所に抱かれて、徹底的に一人になれる。身体の隅から隅まで感覚も研ぎ澄まされて、輪郭もくっきりするでしょう。うん、ここまでならほんとに「ああ、素敵ね~」という感じなんですが、でも、北村さんは、この小説のあちこちに小さなクレバスを潜ませています。歩きながら、思い出す若い頃のトラウマや、山のあちこちでふと会う人から覗くもの。幼い頃から抱える根源的な恐怖などが、美しい風景の中から突然現れる。個人的には、彼女の元上司の先崎さんのセリフが胸に沁みました。この一節を読めただけでも、この本を読んでよかった。(引用はしません~。(笑))どこまで奥があるのかわからない割れ目を持ちながら、人は生きている。というか、生きていかざるを得ない。おお、同士よ、という思いが、読んでいる間に胸に沁みる一冊でした。

下界にいるときの身分序列も全く関係なく、袖振り合うものは助け合うというルールが存在する山に、たくさんの人が惹かれるのもわかるわー、としみじみ思った読書でした。去年の夏は、友人と長野の夏を満喫できたのだが、今年はどうも諸事情あって難しそうです。ああ、でも、山に行きたいなあ。

アトミック・ボックス 池澤夏樹 毎日新聞社

凜とした物語だった。大きなものに流されずに自分の足で立ち、自分の頭で考えること。こうして書くのは簡単だが、いざ人生でこれを貫こうとすると、様々な困難がつきまとう。しかし、この物語の主人公はやり切ったのだ。国家権力に追われるという恐ろしい状況の中で、一歩も引かずに父親の後悔を受け止め、もみ消されぬように命をかけて守り切ったのだ。痛快とも言える彼女の鮮やかな軌跡が、この国の中に重く立ちこめている闇を切り裂いていく。そんな景色さえ見えるような、池澤さんの鮮やかな一冊だ。

社会学者である美汐の父は、島の漁師だった。死の間際、彼は美汐にあるものを託す。それは、父が昔関わっていた国産原爆の開発プロジェクト「あさぼらけ」の資料だった。父は、自らも被爆者でありながら、原爆の開発に関わってしまったことを深く後悔し、その機密を娘に託す。それを公表するのか、しないのか。考えるよりも先に美汐に公安の手が伸びてくる。捕まれば、あさぼらけは闇に葬られる。そこから美汐の逃亡が始まるのだ。この逃亡劇が手に汗握るエンタメとして成功しているのも読み応えがあるのだが、私は美汐の逃亡を手助けする、あちこちの島に点在する老人達がとても印象的だった。彼らの、日本にいながらにして、「国」のシステムの外側にいるような生き方が、水俣で漁師として生きてこられた緒方直人さんと、ふとだぶる。

「「国」とは何だったのか。私たちは何を「国」といってきたのか。「国に責任がある」といいながら、実はそこにあったのは、「国」という主体が見えない、主体の存在しない「システム社会」ではなかったのか」 (『チッソは私であった』緒方直人葦書房)

緒方さんは、システム社会の一員ではなく、魂を持った「一人の「個」に帰りたい」ということが、ただ一つの望みだという。美汐も、逃亡を決めた瞬間から、指名手配され、家族とも職場ともアクセスできず、社会のシステムから全く切り離された「個」としてこの「あさぼらけ」という存在に対峙することになる。一方、美汐を追い、過去を握りつぶそうとする力は、国の威信や大義のためと称しながら、美汐という一人の人間の尊厳を傷つけ、危険に陥れることをためらわない。その残酷さが、美汐の薄氷を踏むような逃亡劇の中で浮かび上がって身に染みる。自分がこの立場に立ったら・・・美汐ほど体力も知力もない私はひとたまりもなく捕まってしまう。簡単に踏みにじられてしまうよなあとしみじみ思う。最後に展開される美汐と、あさぼらけプロジェクトの中心にいた人物との対話は、まさに国に「愛」という名をつけて声高に語られる数の論理と、良心を「個」に引き受けて生きようとする者との論戦で、読み応えがあった。美汐のように、戦えなくても。それが自分一人では動かしようのない、大きすぎる問題に見えても。その問題を、システム社会の論理ではなく、「個」の良心にひきうけて考え尽くしてみなければ、大切なことは見えてこない。その原点を、美汐という若い女性に託した池澤さんの願いが伝わるような一冊だった。「中年の、男性の、大企業に所属する人たち」「経済成長ばかりを大事にする今の日本の社会構造」(本文より)だけで全てを押し切ろうとする態度には、もううんざりだ。もういい加減に変わろうよ、と私も心から思う。核という私たちの手には負えないものが、一人歩きしてしまったら。その恐怖を、日本人は何度も味わったのではなかったか。この物語に描かれるあさぼらけの顛末は、その怖さも含めて、読み手に様々なことを問いかける。エンタメで愛国心をやたらに売りにする作品がベストセラーになったりするのに対抗して(かどうかはわからないけれど)池澤さんがこういう作品を書いてくれたのが、とても嬉しい。

2014年2月刊行

毎日新聞社

 

光の井戸 伊津野雄二作品集 芸術新聞社 

あけましておめでとうございます。

2014年の年明けです。どうか穏やかな一年になりますようにと、ほんとうに祈るように思います。今日は地元の氏神さまに初詣に行ってきました。小さなお堂に手を合わせていると、この地に住んで一度も大きな天災に遭ったこともなく、ご近所の方達もいい方ばかりという幸運に恵まれているということに、遅ればせながら気がつきました。25年も住んで今頃気がつくんかいな、という感じですが(汗)こういう小さなことにしっかり心の碇を下ろしておくことが、今とても大切な気がします。

心の碇というと、最近ずっと手元に置いて見ている本があります。伊津野雄二さんの作品集『伊津野雄二作品集 光の井戸』です。手垢でこの美しい本を汚してしまいたくないんですが、つい手が伸びて、頁をめくってしまう。この作品たちから溢れてくる耳に聞こえない音楽に心を澄ませていると、心がしんと落ち着いてくるのです。静かな表情を浮かべて、ゆったりと姿を現す女神のような作品たちに見惚れます。伊津野さんは、美しい彫刻を作ろうとして、これらの作品をお造りになっているのではないと思うんです。海が少しずつ石を刻んでいくように。風が砂に模様を描くように。星がゆっくり軌跡をたどるように。生まれて死んで、命を重ねて紡いでいく時が生み出すかたちに近いもの。日々命の理(ことわり)に耳を澄ますものだけが生み出せる、かたちを超えたかたち。「うた」という、少女の頭部がまるく口を開けて歌っている作品があります。彼女(と言っていいのかどうか)の声は聞こえないんですが、きっとその歌は太古の昔から鳴り響いているに違いないと思う。崇高なんですが、人をひれ伏させる気高さではなく、木や土の暖かさに満ちた慈愛を湛えています。「光の井戸」という言葉が指し示すように、伊津野さんの作品に溢れている光は、天上から射してくるのではなく、私たちの足下にある大地から生まれているように思います。そのせいでしょうか。穏やかに微笑む女性の面影は、どこか懐かしく慕わしい。伊津野さんの作品を見ていると、魂の奥底が共鳴して震えます。その分、時にいろんな負の感情や打算や、大きな流れに押し流されがちになる私の上っ面がよく見えるのです。「美」ということについて、最近特にいろいろ考えているのですが、人間がなぜ「美」を探し続けるのか、それはやはり「美」が太古の昔から私たちを支えるものであり、唯一私たちに残されている可能性そのものだからではないかと思うのです。伊津野さんの作品には、その可能性が溢れています。

かく言う私は見事に俗人で、年賀状の印刷のことで夫と小競り合いはするは、耳が悪いのになかなか補聴器をつけない母に「危ないやんかいさ」と小言をいうは、仕事に行けば、何度も言ったことを間違える同僚に「ええ加減にしてえや」と腹立つは、「明日は特売日やから、牛乳買うのは今日はやめとこ」と10円20円をケチる、そりゃもう、吹けば飛ぶようにちっさな器の人間です。でも、伊津野先生(とうとう先生、と言ってしまった)の作品を見ていると、このちっぽけな私の奥底に、伊津野先生が命を削って形にしておられるものと響き合い、水脈を同じにするものがあることを感じられるのです。それを知覚し、心の碇として自分の芯に鎮ませておくこと。例えば、マイケル・サンデル教授が授業で受講者たちに突きつけるような、正義の名をつけた残酷な二者択一を迫られたときに、この永遠を感じさせる美しさを思い浮かべることができたら。私は少なくともその正義の胡散臭さを感じることは出来るだろうと思うんですよ。

「差異のみがめだつ現代ですが伏流として在る共通のゆたかな水脈に繋がるために、自らの足元を深く掘り下げることが望まれているのではないかと考えています」

これは、伊津野先生自身の後書きの文章の一節です。ちっぽけな自分という目に見える現実に流されないように。「足元を深く掘り下げる」営みとして、今年も本を読み、じっくりと考える一年にしたいと思っています。

皆様にとって実り多い一年になりますように。今年もよろしくお願いいたします。

猫のよびごえ 町田康 講談社

年末である。師走なんである。非常に寒がりなので、あまり大掃除とかはやりたくない。しかし、いろいろと用事が鬱陶しいほど溜まっているし、読まなければならない本も山積みなんである。書かなきゃいけないこともたくさんある。先日見た骨太の映画『ローザ・ルクセンブルク』の話なども書きたい。なのに、手元に町田さんの本があると、もういけないんである。つい、開く。読み出したら、町田さんの語り口に引き込まれてしまい、結局最後まで一気読み。もう、とことんまで猫神さまに取り憑かれている町田さんに合掌してしまった。そして、やっぱり色々考えてしまった。

この本には、ここ3年ほどのエッセイが収録されているのだが、その間に町田さん、猫を4匹ほど拾ったり、預かったりしておられるのだ。しかも、何と犬まで増殖している。町田家には既に9匹の猫がいたわけで、もう何がなんやらめっちゃくちゃなんである。これだけ猫がいると、それでなくても猫同士のバランスを保つのが大変なのに、そこに新参者が入ってくると、何しろ猫は環境が変わることが一番嫌いなんで、揉めに揉める。そこで町田さんは、あっちの猫に気を遣い、こっちの猫におべんちゃらを遣い、今度はそっちの猫をなだめすかして、必死に奮闘する。でも、猫たちは町田さんを独占できぬ嫉妬に身悶えして、マーキングはするは、ハンガーストライキはするは、とことん町田さんを振り回す。もう、そのあたりの「しゃあないな、もう」という涙目いっぱいのドタバタがなんとも可笑しく、切ないんである。そして、あったかいんである。

町田さんは、猫を飼うということがどういうことか知り尽くしているので、いつも新しい猫に出会うと一応躊躇する。「猫を保護すると自分の時間をとられるし、はっきりいって医療費も餌代など、銭もけっこうかかる」。本音をいえば、もうこれ以上は避けたい。でも、そのとき町田さんに内なる声がささやくのである。「おまえって悪魔?」見捨てたりなんかしたら「地獄の業火に焼かれますよ」と。町田さんは、含羞の人なのでこういう言い方になるんだが、別に信心深いわけじゃないと思う。町田さんは、忘れる、ということが出来ない人なのだ。身を切る「後悔」という業火の恐ろしさを知っている。

町田さんはたくさん、身寄りの無い猫を飼ってきた。いくつもの命も見送ってきた。自分のところにやってきて、たとえ少しでも一緒に暮らした命は、もう、犬とか猫とかいう種族の分類なんてくそ食らえに関係なく、家族なんである。この本にも、町田さんが代弁している猫さんたちの心のつぶやきがたくさん書かれているけれど、彼らにも人と変わらぬ心があり、プライドがあり、愛情や悲しみがある。小説という、心と常に向き合う作業が習い性となっている町田さんには、彼らの声がほんとに台詞になって聞こえているに違いない。困った境遇の猫を目の前にすると、その子がこれからどんな末路をたどるか、その溢れんばかりの想像力で一番悲惨な状況を思い描いてしまうんだろう。町田さんは、失った猫さんのことを語れない。2年経ってやっと「二〇〇八年三月十五日の深夜、トラが死んだ」と書く町田さんの辛さが、切なかった。町田さんにとって、その記憶はずっと色あせず、変わらぬ手触りで心の中に存在し続けているのだろう。饒舌な町田さんが語れないくらいに。猫や犬を救う活動をしている方達というのは、自分たちのところにやってきた子たちの幸せを考えながら、いつも自分が救えなかった命に心を痛めているようなところがある。その痛みを忘れられないから、手を差し伸べずにはいられない。痛みの記憶を持ち続けることについて、あれこれと考えてしまった。

最近「空気を読む」ということについて、あれこれ考えている。今更遅いよ、と言われそうだが、まあ、それでも考えざるを得ない。だって、最近の「空気を読んで忘れなさい」圧力って、凄いじゃないですか。秘密保護法案ていうのは、「あんたたち、怖かったら何にも言わないで空気読んで自己規制しときなさいよ」っていう脅しみたいなもんですよね。しかも、原発を発電のベースにするよ、なんて宣言しちゃうし。この、全く何も解決できていない状況は、どうするんだか全く説明がないままなのに。戦争だって、震災だって、原発の事故だって、とにかく無かったことにしておきたい人たち(いや、戦争はこれからやろうとしてるのかも)の圧力をひしひしと感じてしまう。でも、そういう人たちは絶対に困っている人、弱い立場にいる人には手を差し伸べない。痛みや苦しみは、効率やお金儲けには邪魔なものだから。町田さんにとって、猫さんと自分は同じ並列にある。(いや、猫さんの方が上にいるのかもだけど)だから、彼らの痛みを見て見ぬふりが出来ない。弱さや痛みを分け合う、というのはまっすぐお互いに向き合う関係の中からしか生まれないのだろう。いつまでも仮説住宅に暮らしている人たちや、事故原発の中で放射能を浴びながら作業している人たちや、自分たちが可決しようとする法案に反対するひとたちのことを見下して差別化する眼差ししか持たぬ人たちは、切り捨てることのみ考えてるんだよなあ。傲慢な彼らの顔を思い浮かべるだけで、げんなりしてしまう。反対に、「やだなあ」なんて思いながらも、絶対に命を投げ出さす、こけつ転びつ、カッコ悪く猫さんたちと生きている町田さんは、何てかっこいいんだろう。町田さんは、猫は空気を読むことに長けているという。でも、猫たちは決して相手に自分の考えを押しつけたりはしない。「私たちはそんな風にして生きている。今日もまだ生きている。今日もまた、生きていく」ラストの一行の「私たち」という言葉が胸に沁みる。

2013年11月刊行

講談社

 

 

聖痕 筒井康隆 新潮社

筒井康隆に出会ったのは中学生のときだったろうか。あれからウン十年・・・彼は全く枯れることもなく、ますます豊饒に過激に爆弾を投げてくる。何度も書いたけど、やっぱりこの一言を言わせてもらおう。筒井康隆は天才だ!!

彼は一時フロイトにえらく傾倒したらしいし、作品にも色濃くそれが現れ、欲望というのは彼の大きなテーマの一つでもあった。そして今度はそれを逆手にとって大逆転をかましたような作品で、度肝を抜かれてしまった。これは、ほんとに筒井康隆にしか書けない小説だ。主人公の貴夫は絶世の美貌を持って生まれてきたが故に、5歳のときに変質者に性器を切り取られるという恐ろしい目にあってしまう。うわわ、こんな酷いことがこの世にあってよいものか。メラメラと義憤にかられた冒頭で、思えばすっかり主人公の貴夫に私も魅入られてしまったらしい。しかもそこから、この小説はどんどん逆転ホームランを打ってくる。人は性に振り回される存在だが、彼にはその根源たる性欲がない。しかも、類まれな美しさを持ち、裕福な家に生まれ、知性にも優れた彼は、すべてのコンプレックスからも自由なのである。その人生の煌びやかで自由なこと。彼は美しい女性に囲まれて「食」を追求した人生を送っていく。米光一成氏が文春の書評で「現代版源氏物語絵巻」とおっしゃっていたが、ほんとに清々しいくらいのモテっぷり。しかし、私はこの小説は、喪失した場所から語られる物語という意味で、どちらかというと「平家物語」に近いんじゃないかと思う。

貴夫の恐ろしい体験には遠く及ばないが、実は私も先日、右手の人差し指をざっくりと切ってしまった。2針ほど縫っただけで済んだので大した怪我ではないのだが、それでも家事は出来ないし、顔を洗うのもやたらに不便だ。何をするのも普段の二倍以上の時間がかかる。そうして片手の自由を一時的にだが失って見えてくるのは、我が家のいびつさなのだ。主婦という名のもとに、何もかもをこの右手がしていることの不自然さ。いや、笑い話ではなく、これは誠に困ったことだ。この脆さを作っているのは、メンドクサイことはやりたくないという夫の我儘とメンドクサイから何もかもやってしまう私の片意地の張り方の両方で、誠にどうしようもない。どうしようもない、ということがまざまざと見える。この何かを失った所から見えてくるものというのは、良くも悪くも確かに真実なんだと思う。

この物語は、日本が高度経済成長からバブルに向かい、浮かれ騒ぎに狂乱した時代を経て、二年前の3.11の震災までを貴夫の生涯とともに描きだす。日本人が海外でブランドものや土地を買い漁ったり、土地の値段を釣り上げて気が狂ったようにお金を使ったりした時代。その真ん中にいて、ただ静かに「食」という美だけを求めて、その他の欲望から一切無関係な貴夫は、たった一人視点が違う。それは、彼が「失ったもの」であるからなのだ。貴夫という静かな「聖心地」の存在が映しだす過去は、筒井氏が縦横無尽に繰り出す古語混じりのSF擬古文(?)の文体と相まって、きらきらしくも華やかに、人間の欲望を浮かべて輝いて流れていく。まさに「 おごれる人も久しからず、 唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、 偏に風の前の塵に同じ」である。滅んでゆく平家を語るのは、光を失った琵琶法師。そして、現代の滅びは、欲望を失った貴夫の視点から語られ、資本主義というリビドーが終末期に達したことを暗示する。最後に金杉君という文芸評論家(彼は筒井氏自身を思わせる・・・)が終末論を語るのだが、いやもう、ここは全部引用したいほど、今という時代の不安の正鵠を射ていると思う。「この大震災がまさに終末への折り返し地点」であり、これから私たちはリビドーを捨てて「静かな滅び」に向かうべきなのだ、と力説するのである。

小説家は時代を映す。彼らは、目に見えないものを見、耳に聞こえない音を聞こうとする人たちだから。最近、昔に読んだ漱石の文明論が気になっていて、読み返そうと思っている。どこまでも拡大を続けようとして踊り続ける私たちの姿を、漱石は既に明治時代に予言していたんだなと、最近痛いほど思うのである。筒井康隆は、時代を何周も先に走ってきた人。その彼が提示してきた終末論が、やたらに身に沁む読書だった。偉い政治家の人たちは、きっと読まないだろうけどね・・・。

2013年5月刊行

新潮社

 

泣き童子(なきわらし) 三島屋変調百物語 参之続 宮部みゆき 文藝春秋

宮部さんの物語は、読みだしたらやめられなくなります。昨日は夏休みに入って初めての週末。選挙も重なり図書館の人出も最高潮で、くたくたに疲れて。ところが、寝る前にちょっと、と思って読み始めたら、やめられない。とうとう深夜の丑三つ時まで読みふけってしまいました。

このシリーズも3巻目になりました。人の抱える暗闇と不思議を描くこの物語はますます深く、恐ろしく道なき道に分け入っていくようです。物語は、時代を映します。特に宮部さんのように人の心の闇を特に追い続ける人は、特に敏感に「今」の私たちの闇を感じとるでしょう。先日読んだ『ソロモンの偽証』も、その闇に真正面から向き合う物語で読み応えがありました。けれど、この三島屋のシリーズは時代物なだけに、その闇がすとん、と胸に落ちてくるように思います。江戸時代という、私たちの根っこに繋がる場所のあちこちに棲息している闇が見事に今と呼応する、その闇の色がより濃くなっていることに、私は肌が粟立つ想いがしました。そう思って、それぞれの短編が書かれた時期を見ると、2篇目の『くりから御殿』が書かれたのが、2011年7月。震災からあとに書かれた物語たちでした。ああ・・そうなのか、とこの物語たちに対する共感の想いが深くなりました。

『くりから御殿』は、幼い頃に鉄砲水で故郷を失い、みなし子になってしまった男の話。両親も、親族も、中の良かった友達や従妹たちもすべて失ってしまった長坊の寂しさ、辛さが身に沁みます。40年経っても、その辛さ、「置いてけぼり」になってしまった心の傷は癒えることはなくて、ずっと、ずっと心の奥底で血を流している。大人になっても、幼い長坊は、ずっと「くりから御殿」で失った人を探し続けていたんですよね。宮部さんの描く生き残ってしまったものの苦しみは切なく胸を打ちます。生き残ってしまった、という罪悪感。その苦しみは、朽木祥さんの『八月の光』にも大きなテーマとして掲げられていましたし、V・A・フランクルは、『夜と霧』で「最もよき人々は帰ってこなかった」と書きました。そして、今も何万人もの人たちがその苦しみを背負っているのです。その彼に、なんとか寄り添おうとする女房の姿に、宮部さんの切なる願いがこもっているようでした。

そして、非常に恐ろしかったのが「泣き童子」。漱石の『夢十夜』の第三夜、石地蔵のように重たい子をおぶって歩く男の話を連想させる物語です。全くしゃべらない三つの幼子が、特定の人を見ただけで身も背もないほど泣き叫ぶ。その子は、人の罪に感応するのです。人を殺めた自分の娘は、自分の罪を泣き叫ばれるのが怖くてその幼子を殺してしまった。そのことを知りながら、父も見て見ぬふりをした。しかし、長い月日が経ってその娘が産んだ子は、またもやしゃべらぬ子。見て見ぬふりをした罪は、もっと大きな厄災になって帰ってくる。私は、この物語が他人事だとは思えないのです。私も、過去にたくさんの見て見ぬふりしたことがある。そして、今もそうです。昨日参院選があって、自民党が圧勝しました。私は、彼らの原発推進が恐ろしくて仕方がないのです。今を快適に暮らすために、未来を生きる子どもたちに原発のゴミを置いていく傲慢さが怖い。故郷を失った人たちが何万人もいることを忘れたような顔をして、「美しい日本」などと何故言えるのだろう。私たちは大きな罪を犯しているんじゃなかろうか。そんな気がして仕方がない。未来の子どもたちに、その罪を糾弾されたとき、私たちはなんと答えればいいんだろう。「―じじい、おれがこわいか」という泣き童子の問いかけが、私には震えるように恐ろしい。でも、そんな風に思う人間は、マイノリティに過ぎないんだと痛感してしまう選挙でした。「死んで白い腹を見せ、ぷかぷか浮きながら腐ってゆく鯉の眼」を持つ老人のように、その罪が自分に帰ってくるならまだ良いけれど。未来の子どもたちに背負わせるのは間違っている。「小雪舞う日の怪談語り」の、橋の上から異界にいってしまった女性のように、母親なら自分の命よりも子の行く末を願うもの。その人としての道を選ばなくなった私たちは、いつか「まぐる笛」に出てくる化け物のように、己を喰い果てていく道を選んでいはしまいか。宮部さんの冴えに冴えた筆が描く恐怖が、まざまざと胸に突き刺さる選挙の夜でした。

分別ざかりの大人たち
ゆめ 思うな
われわれの手にあまることどもは
孫子の代がきりひらいてくれるだろうなどと

いま解決できなかったことは くりかえされる
より悪質に より深く 広く
これは厳たる法則のようだ (くりかえしのうた)

これは、ツイッターで流れていた、茨木のり子さんの詩の一節。江戸時代に培われた日本人としての財産を食いつぶすように私たちは生きている。私たちが次の世代に残すものは、ゆめゆめ厄災や負の遺産であってはならないのだと。冒頭の「魂取が池」は、「この世のあちこちにあるに違いない、だけどわたしたちには知りようのない、けっして近づいてはいけない場所」に自分の欲望や浅知恵で踏み込んでしっぺ返しをくらう話です。私たちは、自分も含めて大きな闇を抱える存在です。そのことを忘れてはならないんだと。宮部さんの物語を読むたびに思います。読んでいる間は面白くて面白くて夢中になるんですが。読後にその重みがずしっとくるのがさすがの出来栄え。九十九まで続ける予定らしいので、こちらも長生きしてずっと読みたいシリーズでした。

2013年6月刊行

文藝春秋

家と庭と犬とねこ 石井桃子 河出書房新社

石井桃子さんの書かれる文章が好きです。時折、いろんなテーマで絵本を探したりすることがあるのですが、そんな時でもふと引き込まれるのは、石井さんのテキストのものが多い。文章が伸びやかで暖かく、しかも凛としているんですよね。『たのしい川べ』や『くまのプーさん』、ブルーナのうさこちゃんのシリーズ(あのうさこちゃんのおしゃまな物言いが大好きで、どれだけ子どもたちに読んできかせたことか!)。『おやすみなさいのほん』・・・石井さんの本に触れずに大人になるのが難しいほど、たくさんの子どもの本に関わってこられた石井さん。戦前、戦後を通して、まさに日本の児童文学の基礎を作ってこられた方の一人でしょう。偉大な、という言葉が相応しい方なのです。でも、この本に溢れているのは、地に足をつけてひたすら自分の足で歩いてこられた女性のひたむきさです。迷いも苦しみもありながら、誠実に力いっぱい生きてこられた石井さんの息吹が、このエッセイたちから感じられるようで、私はそこに心打たれてしまいました。

実は、この本は二度読みました。石井さんの膨大なお仕事量や、かつら文庫での活動は知っていたのですが、宮城で一時期農業をしてらしたことは知らなかった。このエッセイを読んで、少々意外に思った私は、買い込んでそのままになっていた「新潮(2013年1・2月号)」の『石井桃子と戦争』を一気に読みました。これは、尾崎真理子さんという方が、晩年の石井桃子さんご本人から聞いたことと資料を突き合わせて、戦前から戦時中、戦後すぐにかけての石井桃子さんのことを詳細に書かれたものです。これを読んで、石井さんがどれだけ日本の児童文学の中心におられたのかを知って、改めて圧倒されました。この論文は、何しろ戦争というものが大きく児童文学にのしかかっていた時代のことでもあり、これから単行本として詳しい資料が付随されて検証されていく性質のものだと思います。でも、犬養家との縁や、石井さんが関わった作家や学者さんたちの名前を見ただけでも、まさに歩く近代文学史そのもの。戦前から、今につながる児童文学の礎を築いてこられた方なんだと。戦前に東京にあったブルジョア階級の若者たちの集まりなどにも参加して、びっくりするほど多彩なお仕事と人間関係に、気おされて頭がくらくらする想いでした。

でも、この『家と庭と犬とねこ』の石井桃子さんは、真黒になって労働し、何年も自分の作ったお洋服を着て、旅に出ても残してきた猫のことがひたすら気になったりする、とても慎ましやかな方なんです。「新潮」には、私が疑問に思った、なぜ石井さんが宮城で農業を始められたのかということについての、野崎さんなりの推測が書かれていました。それは戦時中に石井さんが関わった子ども向けの戦争推進作品との関連から、石井さんの贖罪の気持ちがあっての行動だったのではないかという推論でした。私にはその真偽はわかりません。でも、とにかく、石井さんがどのような気持ちで戦争の間を過ごされ、終戦を迎えられたのかを想い、暗然たる気持ちになったことは確かです。そんなことを考えつつ、思いつつ、もう一度私はこの本に帰ってきて、一からこの本を読みなおしました。そして改めて思ったことは、石井桃子さんという方の心の波長に、私はとても惹かれるんだという、誠に単純な一点でした。どんなに偉い方でも、物語やエッセイを通じて心の友達になれる、その幸せったらありません。集団就職で出てきた若い人たちに何度も会いにいく石井さん。ひなまつりのお道具を大切に大切にしまっておく石井さん。縁があってやってきた傷を負った猫を、最初はこわごわながら、そのうち親友のように大切に介抱した石井さん。このエッセイにあふれる、ひとりの人間としての石井さんが、私はとても好きなんです。静かに自分を深く見つめながら生きてらっしゃる、いい意味での不器用さと一徹さに、心が寄り添います。

「・・・目のまえにたくさんあるものは、人間はだいじにしなくなりがちだ。そこで、このごろは、本もなるで消耗品のようなありさまになってしまった」

「人間には、まだわからない科学的な法則―たとえば、体質とか、気質とかで、ぴったり理解しあえる人間とか、物の考えかた、感じかたがあるような気がする。・・・この自分の波長を、ほかの人のなかに見出すことが、人生の幸福の一つなんではないかしらと、私はよく考える。」

「人生をゆっくり歩けば、ひとりや二人は、きっとこんなにわかりあえる友だちや作家にぶつかるのではないかと思う」

共感すること。出会う人や、本との一期一会を大切に思うこと。石井さんの言葉のひとつひとつに、ああ、その通りだとしみじみ思う。そして、そんな風に出会いを大切にするのは、石井さんがいつも「ひとりでいること」をとても大切にしてらしたことと深い関わりがあるように思います。誰にも流されずに、ただ自分で在り続けること。日本の児童文学の中心にいて、どんなに華やかなお仕事をされても。どんなにたくさんの人たちに囲まれても。時代や風潮に流されず、ずっと「石井桃子」であり続けた石井さんのスタンスが、たくさんの、いつまでも輝き続ける作品を生み出された根本にあるのではないか。もしかしたら、そこには戦争を体験されたことも関わりがあるのかもしれない―とも思ったりします。物語という、たったひとりの心に寄り添うものは、戦争という大義名分の塊とは対極にあります。時代という大きな流れの中にあっても、たったひとりの自分の足で立ち続けること。それだけが、雪崩を打って間違った方向に進んでいこうとする暴力を押しとどめることが出来る。例えば、子どもの頃からの友達であるプーさんや、うさこちゃんがいる国と、戦争をしたいと思う人はいないでしょう。「ひとりの力」を静かに育む物語の力を、石井さんは強く信じてらしたのではないか。このエッセイを読んで、改めてそう思ったことでした。次は、『幻の朱い実』を読もう。そう思っています。

2013年5月刊行

河出書房新社

 

白い人びと ほか短編とエッセー フランシス・バーネット 中村妙子訳 みすず書房

表題になっている『白い人びと』は、8年前に、文芸社から『白い人たち』として翻訳出版されているのを読んだことがある。そのときにも、非常に幻想の気配が強い作品だと面白く読んでいたのだが、今回再び読んで、ますます魅了されてしまった。この8年の間に、私もますます〈あちら〉よりになっているのかもしれない。

この物語の魅力は、スコットランドの茫々たる荒野にある。人間の主人公はイゾベルなのだが、彼女の役割は、人里離れた荒野と一体化し、その魅力をあまねく味わいつくすことにあるような気さえする。その年頃の少女の一般的な楽しみとはかけ離れた、荒野から生まれた精霊のような少女なのだ。イゾベルは、人里離れた厳めしい城に住んでいる。彼女が生まれたときに両親は死んでしまった。それからずっと親族の大人二人と住んでいるのだが、彼女の住んでいるそこは、まことに浮世離れしたところなのである。霧がヒースやエニシダの間に満ち、様々に形を変える荒野に囲まれた城。そして、幼くとも一族の長であるイゾベルには、専用の笛吹きがいたりする。バーネットの荒野の描写は冴えに冴えて、まさにこの世のものならぬ気配を湛えている。ここではない、どこか。あちらとこちらの狭間にあって、もやもやと二つが混じり合う場所。例えば、マイケル・ケンナの写真集や、内田百閒の『冥途』とかにもつながる〈あちら〉だ。ただ、面白いのは、イゾベルがあまりにも自然に、その〈あちら〉側にいることなのだ。さっきイゾベルが生まれたときに両親が死んでしまったと書いたが、正しくはイゾベルは仮死状態になった母親から生まれてくるのだ。彼女は、誕生のときから深く「死」に結びついた存在なのである。

イゾベルは、幼いある日、荒野で白い人たちに出会う。それは、まさに闘いの場から帰ってきたばかりの人々で、その中にいた幼い「小さな褐色のエルスペス」とイゾベルは友達になり、一緒に遊んだりするのである。しかし、その小さな友人が見えるのは、実はイゾベルだけなのだ。しかし、彼女にとっては、あまりに自然に彼らがそこにいるものだから、イゾベルは彼らがこの世のものならぬ人たちだとは気付かない。あらゆる場所で、イゾベルのすぐ近くに佇む白い人たちに、彼女は全く畏れを抱くことがない。人里離れた場所で、荒野と書庫を相手に暮らしているイゾベル。生身の人間よりも「白い人」に近しい彼女が、荒野と書物に非常に高い親和性をもっているということが、私にはとてもしっくりくる。

彼女は白い霧の向こうに耳を澄ます感受性を持つ人であり、古い書物に埋没することを喜びとする人。それは、根をたどれば同じことなのだと思うのだ。自然の声を聞くことと、書物の中の人間の営みに心を浸すことは、同じ波長の中にある。土地には、土地の声がある。優れた感性を持つ人たちは、その土地の声を聞く。例えば先日買った梨木香歩さんの『鳥と雲と薬草袋』などを読んでいると、ひとつの場所から、一つの地名から、梨木さんがどれほどの声を聞き取っているのかに、心がしんとする。いつまでもその頁にいたくなる。だから、全く読み進まないのだけれど。いしいしんじさんの本を読んでいても同じことを思う。いしいさんにとってどこに暮らすかは、彼の精神と深く結びつくテーマなのだ。そして、例外なく梨木さんもいしいさんも、〈あちら〉と〈こちら〉を超える、書物の人でもあるのだ。一族の族長であるイゾベルの血の中には、そこでずっと暮らし、一族の歴史を積み上げてきた時間が理屈ではなく堆積している。そして、書物に心を浸すということも、今、目の前にいない人たちの声を聞く営みだ。例えば、私が『小公女』の主人公、セーラ・クルーに対して抱く想いは、見知らぬどこかの誰かに対するものではない。セーラは、どこにいるよりも彼女のそばにいることが安らぎだった幼い頃からの私の親友なのだ。イゾベルにとっての「小さい褐色のエルスペス」への想いは、私にとってのセーラのようなものなのだろう。実際に、長じて後、イゾベルは書物の中に「小さい褐色のエルスペス」を見つけることになる。

そう思うと、この物語の中の「白い人」も、私たちが想像する幽霊とは、どこか違う存在のようなのだ。彼らはごく当たり前に生者のそばに佇んでいる。そして、ひたすらな愛情を寄り添う人や、自分の音楽に捧げているのだ。荒野を笛吹きのファーガスが意気揚々とやってくるシーンなどは、まさに喜びに溢れている。つまり、彼らは夢のような儚さを湛えてはいるけれども、「死」の昏さに囚われたものではなく、どこか憧れに繋がるような仄かな光を湛えた存在なのだ。その憧れは、後半、ヘクターとミセス・マクネアンという美しい親子と出会うことによって、ますます深まっていくことになる。このバーネットが生み出した物語世界では、自然も、過去に生きていた人たちも、「今」を生きるイゾベルも、すべてが等価に、存在している。私はそこに魅了されてしまうのだ。死も、生も、土地も、自然も、すべての則を超えてこの物語の中でひそやかな美しい会話を交わしている。その声をバーネットの言葉を通して聞くのは、〈あちら〉の気配がする物語に惹かれがちである私にとっては至福の時間であった。

実は、この作品の献辞は、十五歳で夭折してしまった息子のライオネルに捧げられている。この作品の後半、死は恍惚感を伴うほどの甘美さで、荒野の美しさと重ねられていく。それは、もしかしたら、生き残ってしまったバーネットが、その時強烈に息子が囚われた「死」に惹かれていたからかもしれない。実際読んでいても、あまりにも死が近しく甘美に語られるので、面喰ってしまうところもある。でも、だからこそ、この物語はバーネットにとって書かねばならないものだったのかもしれない。柳田邦夫さんがご子息を亡くされたとき、「書く」ということが一番自分の救いになったとおっしゃっていた。想像にすぎないが、やはり「書く人」であったバーネットもそうだったのかもしれないとも思う。この本には、『秘密の花園』のコマドリを思わせるエッセイ、「わたしのコマドリくん」や、バーネットが幼い息子たちに話して聞かせたような、「気位の高い麦粒の話」、庭に対する愛情を書いたエッセイの「庭にて」も収められている。エッセイは、大好きな『秘密の花園』に繋がるモチーフについて書いたもので、とても興味深かった。バーネットが愛したものたちが、この本にはいっぱい詰まっている。バーネットの作品に深い思い入れがある私にとっては、まことに堪えられない一冊だった。

余談だけれど、この八月に、友人と夏の旅行に行く予定を立てている。そこで、満月の夜に湿原を歩くという体験をしてみようと思っているのだ。イゾベルが月夜の荒野で体験した幽体離脱のような体験が出来るかも―というのは、無理だけれど。この物語を読みながら、ワクワクしてしまった。私にも、遥かな自然の声が聞こえますように。

2013年4月発行

by ERI

 

朗読劇『銀河鉄道の夜』 大阪大丸心斎橋劇場 感想

大阪の大丸心斎橋劇場に、朗読劇『銀河鉄道の夜』を見に行ってきました。見た、というよりは体感した、という方がいいかもしれない。映像と詩、朗読と音楽から成る、とても不思議な空間でした。テキストから磁場が生まれるんですよ。それがとっても刺激的で、まだ頭の中でイメージがぐるぐる駆け巡っています。出演は、古川日出男氏、柴田元幸氏、管啓次郎氏、という、御三方。そこにミュージシャンとして小島ケイタニーラブ氏。この組み合わせだけでも、文学オタクとしては興奮してしまいました。

この朗読劇の芯にあるのは、3.11の大震災です。まだあれから2年と少ししか経ってないんですよね・・・。でも、もう皆いろんなことを忘れかけてる。核を扱う実験現場でさえも、危機意識が薄れて弛緩してることに、びっくりします。株価が上昇したら、もうそれだけでええわ的なこの浮かれ具合に、どうも私は馴染めない。そんなに簡単に忘れてええのん?と言う声は、ますます大きくなる経済プロパガンダに消えてしまいそうです。それが怖いし、不安な気持ちがいつでもあるんです。大阪に住む私でさえそうなのだから、実際に被災された方々は、どんな想いをされていることだろうと思う。どんどん取り残されてしまうような気持ちをされているのではと、いろんなニュースを見るたびに思うのです。だから、今日のように、文学の第一線におられる方々が掲げる、あの日を照らし続けようとする灯りに、心がほっとしました。痛みと悲しみを共に、それぞれの風景の中に共有していこうとすること。管氏の自作の詩に佇んでいた少女の瞳に映っていた光と波の記憶。柴田氏が朗読された小説の、誰もが忘れてしまった妹の記憶。強烈に胸に焼き付いています。古川日出男氏の脚本による『銀河鉄道の夜』も、とても熱かった。宮沢賢治が走らせた銀河鉄道に、『今』が繋がって―遠い果てまで一緒に行って帰ってきたような気がしました。出演者の方々の祈りと強い想いが、確かな磁場を作って共鳴していました。それを生で体験できて、とても幸せな夜でした。

古川日出男さんが、あんなに熱い方だったとは。しかも、はにかんだ笑顔がとってもキュートで、魅力的だった。柴田元幸さんが想像していたよりとても若々しくて少年のようなのにも驚いた。朗読されていた小説があまりに印象深かったのでお尋ねしたら、さらさらと原典を書いてくださった。この手帖は家宝じゃ(笑)管氏の声が、まるで声優さんのように深くて魅力的なのにも驚いてしまった。少しだけれど、お話も出来て、文学オタクにはこたえられない夜でした。また、関西で公演してくださらないかなあ。絶対行きます。

by ERI

 

本のなかの旅 湯川豊 文藝春秋

旅に憧れ続けている割には、実際に行けることが少ない。2匹の猫をはじめ、諸々の事情が手ぐすね引いて待ち構えているややこしい主婦の身では、今のところ二泊ぐらいがせいぜい。この間も、親友とあれこれ旅の計画を練りながら、お互いを縛るものの多さにうんざりしたところだ。外国なんぞ夢のまた夢。だから、自分では行けない旅の本をたくさん買ってしまう。作家は旅好きな人が多いので、あれこれと読むのが楽しみなのだけれど、この本は「好き」という範疇を超えて、とり憑かれたように旅をする文筆家たちのお話だ。彼らの「旅」は人生そのものと抜き差しならないほど結びついていて、否応なくその人となりを語ってしまう。この本は18人の文筆家について語っていて、その客観的ながら熱い語りを読んでいるうちに、なぜ人は旅に出るのか、という根源的な命題があぶり出しのように浮かび上がってくるのがとても魅力的だった。私にとって、本を読むことは幼い頃から慣れ親しんだ「旅」であり、どこまで行っても終わらない旅なのだけれど、どうしても本物の旅に出てしまう彼らの心性と、どこか重なるような気がしてしまう。

この本で取り上げられているのは、宮本常一や柳田國男といった民族学者、開高健や金子光晴、ヘミングウェイ、ル・クレジオといった作家、チャトウィンやイザベラ・バードといった旅行家、と多岐にわたっているのだけれども、文学好きの私にとって一番惹かれるのは、やはり作家たちの旅。特に開高健と金子光晴、中島敦は若い頃耽溺して読んだ作家たちだけに、熱心に読んでしまった。若い頃の私はとにかく濫読で、その分読書も肌理が荒かったように思う。今日も昔に買った筑摩書房のトーベ・ヤンソンコレクションを引っ張り出して眺めていたのだけれど、当時と今では、読んだ印象が全然違う。一番大切なキモのところを読み飛ばしてたやん、とびっくりしたところだ。だから、こうしてもう一度丁寧な解読を通じて大好きな作家に出会うのは、懐かしく慕わしいと同時に、新しい気付きに胸を突かれてしまう。開高健の熱を孕んだ豊穣の旅に私は深く魅せられていたけれど、その芯にあった彼の孤独と寂しさを、どれだけ知っていただろうと思う。同じく、なぜか若い頃やたらに好きだった金子光晴の『女たちのエレジー』にも言及があって、一気にいろんな詩が蘇ってきたけれども、やっぱり18や19の私が、彼の哀歓の何かをわかっていたとは思えない。思えないけれど、私は湯川氏の言う、彼らの真ん中にある果てしない空虚や寂寥の気配に引き寄せられていたような気はする。ただ、あの頃は、それをカッコいいと思っていたような。冷や汗ものだなあ。でも、こうして纏めて頂いて思うのだが、小説家の旅は、どこまで行っても自分をめぐる旅という気がする。主体は旅ではなくて、その旅を味わう自分にあって、私は色濃い彼らの世界にいるのが好きだった。百閒先生など、その最もたる存在かもしれない。『阿房列車』はどこを旅しても濃い百閒ワールドで、あれを読んでいると、ぐるぐると百閒先生の手の中を巡っているような気になってしまう。湯川氏が、その文章を「世界が解体し、何かが無意味になる」と述べているのには、ものすごく納得してしまった。

自分の懐かしい本ばかりに触れてしまったけれど、こういう教養がたっぷり詰まった本を読む楽しみは、自分の知らない本を教えてもらえることだ。湯川氏の物凄い読書量と、教養にひたすら圧倒されるけれど、この本からは、旅を愛した人たちに対する、やっぱり深い愛情と尊敬が伝わってくる。だから、とにかく全部読みたくなってしまう。宮本常一の『忘れられた日本人』や、ル・クレジオのエッセイ、明治の初めに東北の奥地を旅したイザベラ・バードやアーネスト・サトウ、思わずまたチェックして読みたい本リストに書き足してしまった。(積んどく本がたっぷり増えてるのに、一体いつ読むねん!)去年買ったチャトウィンの旅行記も早く読まねば。本というのは、一冊読むとそこからまた道が繋がっていて、どこまでも終わらない旅になるのである。まだ見ぬ場所。私の知らない世界。それが、こんなにあるというのは幸せで、茫然として、果てしなくて・・・その旅の途中で間違いなく力尽きてしまうのがわかっていてやめられないのも、やっぱり旅だ。本の旅と、この足で歩く旅と、ふつふつと自分の中に渦巻く欲望を新たにかき立てられる一冊だった。

2012年11月

文藝春秋

 

 

桜ほうさら 宮部みゆき PHP

GWだというのに、このところ寒かったですね。花冷えの頃のようなお天気で、私のような寒がりには辛い。今日は暑いくらいでしたけど、また明日は冷えるとか。北海道は雪。気分は春というか初夏なのに・・・という落差がこたえるんですよね。この、「そうあるべき」という気持ちと、現実との落差というのは、概して精神状態に悪い。そして、家庭というのは、この落差だらけの場所なのかもしれません。

主人公の笙之介は、故郷を離れて江戸で暮らしているのですが、その理由は賄賂の疑いがかかった父が、自宅で切腹して果てたことにありました。もちろん家は断絶です。しかし、笙之介の父親は真面目一方な畑を耕すのが楽しみという人柄で、どうやら誰かの陰謀で罪をきせられてしまった疑いが強い。身に覚えのない父を追い詰めたのは、彼の手跡にしか思えない手紙でした。二男である笙之介は父の汚名を濯ぐ手がかりを求めて江戸に出てきたのです。人の手跡を、本人でさえわからぬほどに真似ることのできる人間を求めて、富勘長屋という貧乏所帯ばかりが集まる長屋で暮らす笙之介は、次々にいろんな事件と関わり、たくさんの人と出会います。長屋の気のいい住人たちとの友情や、桜の精のような女性・和香との出会い。狭い故郷の藩の中では見えなかったものが、江戸という人のるつぼの中で様々な人間の暮らしに向き合っているうちに段々見えてくるのが読みどころです。

家庭というのは、密室性の濃いものです。それだけに、離れてみて、もしくは時間が経ってやっと見えてくるものがあったりします。笙之介の母は、思い通りにならない自分の人生の帳尻を、自分に似た長男で合わせようとした。それが、一家の破滅の始まりだったんですが・・・。こういう理不尽なめぐり合わせにがんじがらめになってしまう人たちのドラマを書かせたら、宮部さんの右に出る人はそういないでしょう。笙之介の母だって悪人ではありません。本人は正しいことをしている積りなのです。この、正しいことをしている積りの人、というのがこの世で一番始末に負えません。自分の行動の裏に、何があるのかを考えてみることはしないので、軌道修正出来ないんですよね。子は親の影を生きる、といいます。母に可愛がられた兄は、母が溜めこんだ毒と一緒に、今度は金と権力が欲しい邪心と出会って破滅への道を進んでいくのです。

家族というのはなかなか厄介なものです。親子だから、兄弟だから、気持ちが通じたり、愛し合って生きていきたいと誰しもが思う。でも、そんなに簡単にはいかないんですよね、これが。この間も、佐野洋子さんの「シズコさん」を読み返していたのですが、母を愛せないという自責の念をずっと抱えていた佐野さんの苦しみが、娘として、母親として胸に沁みました。「親を愛せず、親から愛されないとしても、それだけで人として大切なものを失っているわけではない、家族だけが世界の全てではない」(著者インタビューより)ということを、宮部さんはこの物語で書きたかった、とおっしゃってますが、そのことを自分の心の真ん中まで得心させるには、なかなか大変なものがあります。この本の分厚さは、その心の旅の長さなのかもしれません。笙之介が、結果的に自分の名前も過去とも決別することになった最後の試練は、読むのは辛くなるほどキツいです。でも、笙之介には自分の居場所とも言える、自分で手に入れた人との繋がりがあった。その暖かさが、桜の花びらのように笙之介に降り注ぐラストが素敵でした。家族だから愛し合って当たり前、という「当たり前」を捨ててみたら、案外そこから新しい関係が始まるのかもしれない。現実を変えることは難しくても、心に届く物語の力がもたらすカタルシスによって、現実を新しく見つめなおす。最後の笙之介と和香の笑顔を思い描きながら、その可能性を思った一冊でした。

2013年3月刊行

PHP

 

とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢 ジョイス・キャロル・オーツ傑作選 河出書房新社

ジョイス・キャロル・オーツの傑作選です。以前読んだ『フリーキー・グリーン・アイ』もそうでしたが、オーツは「恐怖」がにじり寄ってくるのを書くのが上手いです。にじり寄ってくるというか、自分がにじり寄っていってしまうというか。ぽっかり空いている穴を覗き込みたくなる恐怖。恐怖って、ずるずると紐を手繰ると人間の個々の枠を超えて繋がる共同領域(勝手に言葉作ってますが)に赤ちゃんのへその緒のように繋がってるような気がする。オーツは、その恐怖の源泉のありかをよーく知ってるんでしょうね。自分たちのまわりに普通に転がっているアイテムを使って、その共同領域から無限の闇を引き出してみせます。だから、初めて読む短編なのに、知らないのに、デジャブ感があって、余計に怖い。しばらく現実に戻ってこれない怖さという、読書の幸せを感じました。怖いお話は、こうでなくちゃね。

オーツの筆は、グロテスクで独特な美しさを湛えています。例えば、七つの短編の中で一番長い作品、「とうもろこしの少女 ある愛の物語」。とうもろこしのヒゲのような、輝く金髪の少女が誘拐され、監禁されてしまうのですが、犯人は、なんと同じ学校の同級生の少女たち。そのことを知っているのは、彼女たちと、読者だけです。警察も母親も、学校の先生も、そのことにだーれも気づかない。気づかないままに進行する、監禁された密室での儀式めいた行為が、おぞましい。おぞましいんですが、昔、この少女たちの年頃に、オカルトめいたことを皆でしていたことをふっと思い出してしまいました。こっくりさんとか。放課後の教室でのタロット占いとか。のめりこみすぎて、集団ヒステリーのような状態になってしまったりとか。ラップ現象みたいなことが起こって、パニック起こして走り回ったりね。催眠術ごっこして、戻ってこれない子を皆で必死で介抱したり・・・。いやいや、おバカさんなこと、いっぱいやりました。だから、読んでいて、妙に疼くものがあるんですよ。知ってる。私、この怖さをどこかで知ってる、って。第二次性徴の前のほの暗い部分やコンプレックス、首謀者の女の子の深い絶望と過去の渦巻く古い屋敷の地下で展開される儀式の中心で輝く少女の髪の輝きに、くらくらします。

地上では少女の母親をめぐって、これまた私たちがよく知っている恐怖が展開していきます。マスコミと警察によって、シングルマザーである母親は、徹底的に秘密を暴かれ、好奇の目にさらされ、消費されていく。そして、偽の犯人に仕立てあげられた男のプライバシーも、徹底的に破壊されます。少女がいなくなったとわかった時、母親が警察に電話するのをためらうシーン、「九一一に電話すれば、人生捨てたも同然 九一一に電話すればあなたは乞食同然 九一一に電話すれは あなたは丸裸」・・・この恐怖を私たちはイヤというほど知ってる。自分が当事者でなければ、他人のプライバシーほど面白いことはない。無関係な人間への、そんな無自覚な残酷さを改めて掘り起こすオーツの筆にしびれます。地下と地上の狂気は、眠らされている少女を生贄にして展開し、爆発します。ラストの穏やかささえ、何かを孕んでいるように思わせるオーツの筆力が悪魔のように魅力的な一篇です。

ほかの短編も、それぞれ読み応えがあります。昔に別れたっきりの義理の娘(これが、また気味悪い娘なんですよ)に、墓地に連れていかれる「ベールシェバ」。「化石の兄弟」と「タマゴテングダケ」は双子をテーマにした話ですが、これもまた血の繋がりというものの、何ともいえない厄介さと憎しみと愛情が渦巻いてくらくらします。私が一番心惹かれたのは、「私の名を知るものはいない」という、妹が出来たばかりの少女・ジェシカの内面を描いた作品。帝王切開で出来た赤ちゃんに、両親や親戚の視線も愛情も集中してしまい、孤独にさいなまれるジェシカ。ぴりぴりした少女のアンテナが、何も言わなくてもすべてを見通しているようなネコの瞳と感応していくんです。もやのように立ち込める少女の悲しみに気付くものは、ネコと読者だけ。オーツの筆があまりにも美しくそのもやの立ち込める風景を描き出すものだから、ラストで赤ちゃんの息を吸い取ろうとするネコに自分が憑依しているような錯覚さえ覚えます。少女の内面を、こんなに繊細に描き起こしてしまうオーツに痺れました。以前読んだオーツの『アグリー・ガール』は、自分のことを醜いと思っている少女の内面を、細やかに描きだした佳品でしたが、こういうYA世代をテーマにしたオーツの作品を、もっと読みたいと改めて思います。

恐怖って何なんでしょうねえ。この本を読みながら、ずっとそのことを考えていました。恐怖というのは「知っている」ことが前提になりますよね。動物たちの恐怖のバリエーションは、人間よりはよほど少ないでしょう。想像力が深ければ深いほど、知覚できる喜びが大きいほど、その裏にある恐怖は大きく膨れあがっていく。数年前に、うちのぴっちゃん(ネコです。私はネコ馬鹿です)が行方不明になったときの恐怖は、私には筆舌に尽くしがたいものでしたが、それは、ぴっちゃんが私にはかけがえのない存在だからなんですよね。失うものがなければ、きっと恐怖は存在しない。この物語を読んだあとで、ネコたちのあったかい体を撫で撫でして「おかあさん怖かったわ~」と報告するのは、一種の快感でしたが、恐怖は快感とも深く繋がっているとも思います。恐怖って、もしかしたら生きるパワーの一つなのかもしれないですよね。とにかくオーツのこのパワーに、ある意味充電された感のある、がっつり読み応えある短編集でした。栩木玲子さんの翻訳と、あと書きのオーツについての文章も素晴らしいです。それによると、オーツはとても多作らしいです。もっと翻訳されないかなあ。

2013年2月発行

 

なめらかで熱くて甘苦しくて 川上弘美 新潮社

性をテーマにした短編の連作です。タイトルが、ちょっと怖いもんですから、ちょっと身構えました。女の性(さが)を自分のカラダで確かめました系のめくるめく愛欲の世界・・・なんていうのは、もはや読むのがめんどくさいんですよ。でも、川上さんだから、そんなことあるはずもなく。久しぶりにずっしりと読み応えのある川上さんの濃密な言葉の世界でした。

「aqua」「terra」「aer」「ignis」「mundus」という五つの短編が並んでいます。少女時代から時系列に並べられている形なんですが、川上さんなので、そんなに簡単に読み解けるしろものではありません。(うふふ・・・しろもの。「aer」に出てくるこの言葉が頭を離れない)実験的に表現形式も温度も視点も変えて紡がれる小説たちが、この一冊の中でぐるぐると生と死を繰り返しているようなのです。ことに面白くなってくるのが、「aer」から後の3編。ここに「しろもの」が出てくるんですよ。しろもの、とは、赤ん坊のことです。あの妊娠・出産期という、自分が自分でなくなってしまう時間の中に流れていた濃密なもの。そう、自分も「どうぶつ」だったなあ、と。そして、あの頃にさんざん翻弄されていた赤ん坊を「しろもの」と言ってしまう川上さんの言語感覚に、強烈なカタルシスを感じてしまう。だって、あの頃私は「どうぶつ」だったのだから、自分が体の奥底に抱えていた充足と恐怖をこんな風に言葉にすることは出来なかったもの。言葉にならないことを言語化するという営みは、私たちを普遍に連れていきます。一人の少女から生まれた「性」は、たった一人で死んでいく女のつぶやきも、しろものを産んでしまって右往左往する母親の戸惑いも、女とは全く違う男という生き物との果てしない距離も、すべてを連れて旅し、どこか知らない混沌に帰っていくのです。川上さんの言葉は、「言葉」という抽象でありながら、肉体を伴って、そのまま滅びていく手ごたえがある。それがとても不思議で、魅了されます。

伊勢物語と浄瑠璃の道行をかけあわせたような「igunis」が特に面白かった。道行、というよりはお遍路さんの歩く道のイメージに近いかな。苦行のような、諦めのような(笑)もしかしたら、今の私が、この短編のどんぴしゃな年齢なのかもしれないんですが。ラストの「mundus」は、詩と散文の間を揺れ動くような、密度の濃い一篇。何度読み返しても、夥しく語られる「それ」の正体が頭の中で伸びたり縮んだり、膨れ上がったりして眩暈がします。「それ」はどこからかやってきて、どこかに去っていく私たちに刻印されている夥しい記憶なのかも。段々「それ」が何か、何て考えることもやめて、川上さんの紡ぐ言葉の川に身をゆだねて流されるままに流されました。その川は「なめらかで熱くて甘苦しくて」、どうやらたどりつくのは彼岸らしいとわかっても、そのまま流されたくなります。うん。ずーっとこうして「性」に流されてきたなあと。最後の最後でまたしても川上さんにやられた、と思う、そんな一冊でした。

2013年2月刊行

新潮社

 

 

双頭の船 池澤夏樹 新潮社

昨日、関西では久々に震度6の地震がありました。私の住んでいるところでは、震度4くらい。阪神淡路大震災以来の久々の長い揺れでした。時間帯が同じくらいだったのも手伝って、あの記憶が一気によみがえりました。何年経っても、恐怖の記憶というのは体と心の奥底に潜んでいて無くなりはしないのだと、しみじみ実感し・・・東北の方々が延々と続く余震の中で、どんな気持ちで毎日を送ってらしたのかを改めて思いました。

この物語は、3.11をテーマにした連作です。あれから2年と少し経ちました。3.11については夥しい数のドキュメントや資料があります。ツイッターやブログというネット発信を含めると、それはそれは膨大な量になるはず。でも、3.11が物語として語られるのは、これから何だと思うのです。なぜ物語として語られなければならないのか。それは、物語が記録では見えないものを語るものだから。私たちが失ったもの。あの日からずっと心の中に鳴り響く声。闇から吹き上げる風、苦しみの中から見上げた空の色・・・それらをもう一度手繰り寄せて、失ったものを失ったままにしないために、心に深く刻んでいく営みが、「物語として語る」という行為です。そして、池澤さんのこの物語は、その出発点のような役割を果たすものなのかもしれないと思うのです。

この「双頭の船」は寓意的な手法を使って描かれています。物語を経るごとに大きく膨れ上がっていく船。200人のボランティアが舞台の上の書き割りのようにどっと移動し、甲板の上には瞬く間に240戸の仮設住宅が立ち並ぶ。そこには生きている人と、あの日にいなくなってしまった死者たちが同時に存在し、オオカミたちが命のオーラを放ちながら徘徊し、傷ついた犬や猫たちがつかの間の休息ののちに、あの世に旅立っていく。私は物語をたどりながら、なぜ池澤さんが、この物語の舞台を「双頭の船」にしたのか考えていました。この船のイメージは、間違いなくノアの箱舟でしょう。大昔に押し寄せた洪水の記憶が、人々の集まりの中で、もしくは子どもたちに語る枕辺で何度も何度も繰り返されて一つの共通の記憶となっていく。神話には、民族の心を同じ記憶に重ね、共有していくという無意識の意志が働いているはず。それは物語というものの在り方の原点だと思います。

「小説にもまた同じような機能がそなわっている。心の痛みや悲しみは個人的な、孤立したものではあるけれども、同時にまたもっと深いところで誰かと担いあえるものであり、共通の広い風景の中にそっと組み込んでいけるものなのだ」 (※)

これは、村上春樹氏の言葉ですが。物語は、たった一つの心に寄り添うもの。この世でたった一つだけの命に向き合おうとするものです。たとえば、去年レビューを書いた朽木祥さんの「八月の光」のように。「八月の光」はヒロシマの原爆をテーマにした物語です。それは、忘れ去られようとする「個」を徹底的に描くことで普遍へと繋げようとする、真摯な営みでした。鮮烈な記憶が時を超えて立ち上がります。それに対してこの「双頭の船」は、寓意的な手法を使って描かれています。登場人物たちも、どこかひょっこりひょうたん島の登場人物のように、実在の人物というよりは、キャラクターのような感じです。これは―私が勝手に思うことなんですが。3.11の東日本大震災を語る営みは、まだ始まったばかりです。「個」にリアルに向き合う物語を、今東北の方々が読むのは、きっと辛すぎる。だからこそ、ノアの箱舟という心になじみ深い神話を重ねることで、池澤さんは何とか道を開き、3.11を物語として語る回路をここから開こうとされたのではないか。この物語は、神話という原始的な物語の力を借りて、「個」に向かおうとした、営みなのではないか。そう思うのです。圧倒的な力になぎ倒されたたくさんの心たち、この世界から旅立ってしまった命に、何とかして寄り添おうとする営み。残されたものの痛みを共に感じ、分け合っていこうとする切なる願い。

平らになった地面はまるで神話の舞台のように見えたけれど、そこではまだどんな神話も生まれていない。この空っぽの場所の至るところに草の種みたいな神話の種が埋まっているのが見える気がした。(本分より)

何とかして希望の種を、あの空っぽになってしまった海辺に播こうとする、作家としての真摯な挑戦を、私はこの物語から感じました。だから、この「双頭の船」は、過去と未来を繋ぐもの、何度も何度もなぎ倒されながらもここまで歩いてきた過去と、これからを生きていこうとする未来を行き来しながら希望を運ぼうとする、私たち人間の営みという大きな流れを旅する船なのだと思うのです。神話と土の匂い。心の奥深いところから様々なシンボルが立ち上がり、トーテムポールのように各々の物語を語る。その声の語り部になってしまったような池澤さんの筆が冴える一冊でした。

※「おおきなかぶ、むずかしいアボガド 村上ラヂオ2」 村上春樹 大橋歩画 マガジンハウス