聖痕 筒井康隆 新潮社

筒井康隆に出会ったのは中学生のときだったろうか。あれからウン十年・・・彼は全く枯れることもなく、ますます豊饒に過激に爆弾を投げてくる。何度も書いたけど、やっぱりこの一言を言わせてもらおう。筒井康隆は天才だ!!

彼は一時フロイトにえらく傾倒したらしいし、作品にも色濃くそれが現れ、欲望というのは彼の大きなテーマの一つでもあった。そして今度はそれを逆手にとって大逆転をかましたような作品で、度肝を抜かれてしまった。これは、ほんとに筒井康隆にしか書けない小説だ。主人公の貴夫は絶世の美貌を持って生まれてきたが故に、5歳のときに変質者に性器を切り取られるという恐ろしい目にあってしまう。うわわ、こんな酷いことがこの世にあってよいものか。メラメラと義憤にかられた冒頭で、思えばすっかり主人公の貴夫に私も魅入られてしまったらしい。しかもそこから、この小説はどんどん逆転ホームランを打ってくる。人は性に振り回される存在だが、彼にはその根源たる性欲がない。しかも、類まれな美しさを持ち、裕福な家に生まれ、知性にも優れた彼は、すべてのコンプレックスからも自由なのである。その人生の煌びやかで自由なこと。彼は美しい女性に囲まれて「食」を追求した人生を送っていく。米光一成氏が文春の書評で「現代版源氏物語絵巻」とおっしゃっていたが、ほんとに清々しいくらいのモテっぷり。しかし、私はこの小説は、喪失した場所から語られる物語という意味で、どちらかというと「平家物語」に近いんじゃないかと思う。

貴夫の恐ろしい体験には遠く及ばないが、実は私も先日、右手の人差し指をざっくりと切ってしまった。2針ほど縫っただけで済んだので大した怪我ではないのだが、それでも家事は出来ないし、顔を洗うのもやたらに不便だ。何をするのも普段の二倍以上の時間がかかる。そうして片手の自由を一時的にだが失って見えてくるのは、我が家のいびつさなのだ。主婦という名のもとに、何もかもをこの右手がしていることの不自然さ。いや、笑い話ではなく、これは誠に困ったことだ。この脆さを作っているのは、メンドクサイことはやりたくないという夫の我儘とメンドクサイから何もかもやってしまう私の片意地の張り方の両方で、誠にどうしようもない。どうしようもない、ということがまざまざと見える。この何かを失った所から見えてくるものというのは、良くも悪くも確かに真実なんだと思う。

この物語は、日本が高度経済成長からバブルに向かい、浮かれ騒ぎに狂乱した時代を経て、二年前の3.11の震災までを貴夫の生涯とともに描きだす。日本人が海外でブランドものや土地を買い漁ったり、土地の値段を釣り上げて気が狂ったようにお金を使ったりした時代。その真ん中にいて、ただ静かに「食」という美だけを求めて、その他の欲望から一切無関係な貴夫は、たった一人視点が違う。それは、彼が「失ったもの」であるからなのだ。貴夫という静かな「聖心地」の存在が映しだす過去は、筒井氏が縦横無尽に繰り出す古語混じりのSF擬古文(?)の文体と相まって、きらきらしくも華やかに、人間の欲望を浮かべて輝いて流れていく。まさに「 おごれる人も久しからず、 唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、 偏に風の前の塵に同じ」である。滅んでゆく平家を語るのは、光を失った琵琶法師。そして、現代の滅びは、欲望を失った貴夫の視点から語られ、資本主義というリビドーが終末期に達したことを暗示する。最後に金杉君という文芸評論家(彼は筒井氏自身を思わせる・・・)が終末論を語るのだが、いやもう、ここは全部引用したいほど、今という時代の不安の正鵠を射ていると思う。「この大震災がまさに終末への折り返し地点」であり、これから私たちはリビドーを捨てて「静かな滅び」に向かうべきなのだ、と力説するのである。

小説家は時代を映す。彼らは、目に見えないものを見、耳に聞こえない音を聞こうとする人たちだから。最近、昔に読んだ漱石の文明論が気になっていて、読み返そうと思っている。どこまでも拡大を続けようとして踊り続ける私たちの姿を、漱石は既に明治時代に予言していたんだなと、最近痛いほど思うのである。筒井康隆は、時代を何周も先に走ってきた人。その彼が提示してきた終末論が、やたらに身に沁む読書だった。偉い政治家の人たちは、きっと読まないだろうけどね・・・。

2013年5月刊行

新潮社