むこう岸 安田夏菜 講談社

 印象的な表紙だ。渋谷のスクランブル交差点のような場所を、制服を来た少年が陸橋から見下ろしている。中三の和真は、有名中学に猛勉強の末に入学したものの、落ちこぼれて公立の中学に転校した。頭の中は惨めな敗北感でいっぱいだ。そして、もう一人、見下される場所に閉じ込められ、水槽の中の金魚のように窒息しかかっている少女の樹希がいる。父が借金を残して死に、パニック障害を抱える母親は働くこともできない。生活保護を受けながら、母親のかわりに家事をして妹の面倒を見ている。この物語は、スクランブル交差点をすれ違う人たちのように、この社会のなかでほとんどお互いの姿を見ることのなかった二人が出会い、見つめ合うところから何が始まるのかを描いた物語だ。 

「けどさー。生まれた家によって、できることって決まっちゃうんだよねー。愚痴じゃないよ、それがほんとだもん。」

 

樹希には夢がある。しかし、生活保護を受けている家庭では、大学進学は許されない。高校を卒業すれば、働くことが義務づけられている。結局、この生活からは抜け出せないのかという憤りと理不尽。「働かずに金もらえるんだ」とさげすまれることに、樹希は疲れ果てている。まるで、閉じ込められた水槽の金魚のように、窒息しかかっている。

ふとしたことでアベルというナイジェリア人の父を持つ少年の勉強を見ることを樹希に頼まれた和真は、「居場所」というカフェでアベルと勉強をはじめる。それまで「貧しい世界」に住んでいる人たちのことを怖いと思い、嫌悪感を抱いていた和真は、樹希とアベルと知り合ううちに、二人の居場所の無さが、自分の孤独と響き合うのを感じ、安らぎを覚えるようになる。そして、樹希の夢と、それが叶えられない理不尽を知って、生活保護のことを調べはじめる。

生まれる場所や環境、性別、親の有無。生まれる場所を私たちは選べない。選べないからこそ、私たちの人生は社会や歴史の構造的な問題と密に繋がっているのだが、生まれた場所しか知らない子どもたちからは、その仕組みは見えない。見えないままに、あなたたちはそこにいるしかないんですよ、という理不尽を、あたかも自分で選んだ道のように思い込まされることになったりする。その不条理にぶち当たり、もがく二人の姿が、いちいち胸に響いてくる。ひたすら人に勝つことを親に求められる和真と、とにかく貧乏人は大人しく小さくなっていろと言われる樹希の苦しみは、そのまま、大人社会の生きづらさと理不尽に繋がっているからだ。

しかし、二人はただ黙って負けてはいない。同じ空気を吸っていても違う場所にいた二つの視線。それが交差し、ぶつかる場所で火花が散って、化学反応のようにお互いの心に燃えていくものを、安田は骨太に描き出す。面白いのは、その希望の火が「知る」という養分を吸って燃えさかっていくところだ。自分たちの権利とは何か。生きていく尊厳とは何か。とっつきにくい法律のなかにその問いかけがあり、叶えられていない理想があり、対応しきれていない現実があるということが、実感をもって迫ってくる。そして「知る」ということが行動に繋がる。そこが、とてもいい。この世界は変えられる。その気概が読み手の胸を叩いてくる。

和真が最後に見つけた、自分が「知りたい」「学びたい」となぜ思うのかという問いに対する答えを、何度も読んで私は心に刻んだ。子どもたちだけではなく、ぜひ大人にも読んでもらいたい。感じてもらいたい。そして、心に火を燃やしてほしい。この世界を変える火を。

2018年12月刊行

あしたも、さんかく 毎日が落語日和 安田夏菜作 宮尾和孝絵 講談社

落語っていい。大阪の人間なので、上方落語は心と身体にすうっと馴染むし、江戸前の落語も言葉のキレが好きで最近は三代目志ん朝の古典をよく聞いている。落語の一番いいところは、あんまり偉い人が出てこないところだ。みーんな、どこか足りない。怠け者だったり、ちょっとおバカだったり、お人好しで騙されてばかりだったり、だらしなかったり。概して上方落語の方が、主人公の「あかんやっちゃ」感は強いように思う。(枝雀の「貧乏神」に出てくる男は、貧乏神に愛想つかされるくらいの怠けモンだ)でも、彼等は絶対に一人ではなくて、いつも町内の誰かが助けに来たり、「どんならん(どうしようもない)やっちゃな」と言われながら面倒を見てもらったり、大家さんに説教されたりしている。まあ、人間生きてたら色々あるやんか、あかんとこはお互いさんやから、助け合っていっとこか、という人の世の底を生きている人間の笑いが好きなのだ。

この物語の主人公の圭介も、クラスメイトに「あかんやっちゃ」と言われてがっくり落ち込んでいる。大阪弁で言う「イチビリ」、お調子もんの騒ぎたがりの圭介だが、それが徒と成って「ありがた迷惑」「空気を読め」と言われてしまうのだ。自信を無くして意気消沈してしまった彼の前に、行方不明になっていたおじいちゃんが現れる。圭介のじいちゃんは、典型的な一発狙うタイプで家族に長らく迷惑をかけ、息子ともケンカばかりしている。そして年いってから落語家に入門するが芽が出ず、酒に逃げて挙げ句の果てに師匠に破門され、孫の貯金を使い込んで家出してしまうという、「どんならん」ぶりなんである。そのじいちゃんが、人知れず落語の修行を積んで、一発逆転を狙って落語コンクールに出るという。信用できない圭介の前で、じいちゃんは見事な「さくらんぼ」という落語を披露するのだ。

このじいちゃんの人となりというか、どんならんけど、あんまり憎めへん感じ、アホやでほんまに、という可愛げを、安田さんはほんまに上手いこと書いてはると思う。この「さくらんぼ」というのは、頭におおきな桜の木が生えて人がそこでどんちゃん騒ぎをする、うるそうてかなわんと抜いたらそこに池が出来て・・・というもの凄いシュールなネタで、よっぽど勢いがないと人を笑いに引き込めない。じいちゃんは、そのネタで人を引きつけられるほど修練を積んだのだ。その必死さ、ひたむきさに圭介はじいちゃんを応援したくなる。どっちかいうたらイチビリ同士、という共感もありつつ、圭介はクラスの中で浮いてしまった自分とじいちゃんが重なってみえる。もっぺん、家族にええとこ見せたいじいちゃんを応援する圭介を、友達が手伝ってくれる。圭介は自分も友達連中も皆もそれぞれにしんどさやアカンタレなところを抱えていることを知るのだ。

「みんなそれぞれ弱っちくて。 陰でこっそり落ち込んだりして。 けど、そやから、さっきみたいに、みんなで思い切り笑えたらええな。」

そう、これが「情(じょう)」というもんやなあとしみじみ思う。失敗したら、あかん。いっぺん落ちこぼれたら、そこで終わり。空気読んでおとなしくしとかな、頭打たれる。滅多なこと言うたら袋だたきやで、という空気が今、えらい強いような気がする。息詰まる。正直、今、子どもに生まれてたらしんどいやろな、としみじみ思うのだ。「笑う」というのは、自分も相手も一度突き放して眺める余裕がないと生まれない。頭を冷やして「お互いアホやなあ」と思い合うこと。全部丸やなくていい。あしたもさんかくで、うまいこと転がれなくて、角っこが削れたり上手いこといかんかもしれんけど、一緒に笑うとこから始めようや、というこの物語の暖かみが胸に沁みた。いつだったか、図書館のカウンターで落語をたくさん借りていた高校生が、横にいた友達に「落語はええで。落語は世界を救うで」と力説していたことがある。すんでのところで「そや!おばちゃんもそう思うわ」と言いそうになったが、まさにこの物語を読んでそう思う。笑いのない世の中になったら終わりやがな。サザンの年越しライブで桑田さんがしたパフォーマンスに右翼が抗議をして、とうとう謝罪騒動になったらしい。反日、とか国賊、などという言葉がまかり通る世の中になってきた。笑いや風刺を許さない流れの果てに何があるのか考えると、ぞっとする。毎日が落語日和な世の中のほうが、なんぼええかわからへん。誠に真剣に、心からそう思う。

2014年5月刊行

四月になれば彼女は 海街Diary6 吉田秋生 小学館

夏にこのシリーズの新刊を読むのがとても楽しみです。6巻の表紙も青空。でも、変化の予感に少し切ない夏の空です。

すずちゃんたちも中三になって、進学問題が目の前に迫ってきています。サッカー強豪校から特待生のオファーがきた彼女の揺れる気持ちと、そんな彼女を見守る風太の複雑な気持ち。「四月になれば彼女は」は、サイモン&ガーファンクルの懐かしい曲のタイトルです。久々にあの美しい歌声をYou Tubeで探して聞いてみたのですが、恋が季節が変わるように移ろっていく、という歌詞なんですね。「四月になれば 多分 何もかも変わる」という風太のセリフのように、きっと一年後にはいろんなことが変わっている。15歳という変化の季節のまっただ中にいることはお互いよくわかっていて、多分心の奥底で自分がどうすればいいかもよくわかってる。だからこそ「今」がかけがえなくて切ないんですね。思い切りジャンプする前の一時。鎌倉の海辺を、相合い傘で歩く二人のシーンがとてもいい。風太はすずちゃんが遠くに行ってしまうのが、やっぱり怖いんですよね。15歳でお互い何の約束も出来ないこともわかってる。でもなー。「理由とか別に聞かねえけど でも おまえが話聞いてほしいって時は いくらでも聞いちゃるから」って、こんなことを言ってくれる男子は、そんなにいないと思うわ。(私が出会ってないだけか?)もし、二人が変わってしまっても、きっとこの瞬間はすずちゃんの心の居場所の一つになると思うのです。

居場所といえば、すずといとこの直ちゃんが、鎌倉の山奥に工房を構えている女性を訪ねる「地図にない場所」というお話は、特に良かったですね。女性が作った作品の美しさに感応してやってきた直ちゃんは、彼女の心の扉を開く秘密の鍵を持っていた。美しさに共感するということは、同じ心を分け合うということなんですよね。地図にない場所は、自分の心の居場所でもあります。すずちゃんや風太の住む鎌倉は、現実の鎌倉にはない、読者だけがいける地図のない場所でもあります。何と、来年実写で映画化だとか。見たくもあり、怖くもあり(笑)今NHKでやっている村岡花子さんを主人公にした朝ドラは、あまりに酷い内容なので見るのをやめてしまったし。好きな世界を映像化されるというのは、微妙なことですねえ。どうなることやら。

わたしは倒れて血を流す イェニー・ヤーゲルフェルト ヘレンハルメ美穂訳 岩波書店

とっても痛い物語です。冒頭の自分の親指の先を切り落としてしまうシーンのリアルさに、正直びっくりしました。実は私も自分の親指の先を、ほんのぽっちりですが切り落としたことがあって、その記憶も相まって頭がくらりと・・・。うーん、痛い!でも、本当に痛いのはその指先よりも、心なんですよね。脈打つ痛みは、強く肉体を意識させます。自分の体に血が巡っていることを強烈に感じさせるという意味で、痛みは自分が生きている証でもあります。特に女は痛みと共に生きているようなもの。その身体性と心が呼応して強く脈打つ、少女の感性が鋭く描かれています。鍵は存在不安。そして、「自分」は何なのか、という大きな問いかけもこの物語の底に流れているように思います。そして、母と娘の葛藤と繋がりも。だからこそ、エキセントリックな主人公・マヤの中に潜む弱さと強さに、心が共に揺れるのです。

主人公のマヤは、美術の授業で電動ノコギリを使っているときに、誤って自分の親指の先を少し切り落としてしまう。その出来ごとにショックを受けたマヤは、離れて暮らしている母に連絡するが、返事がない。その翌日、離婚後の取り決めに従って母を訪ねたマヤだが、母は駅に迎えに来ず、家にもいないのだ。途方にくれたまま、マヤは母のいない家で一人で過ごすはめになってしまう。この母の不在は、ショッキングな事件にショックを受けているマヤをますます不安にさせてしまう。大学の心理学の教授である母は、「ママ」と呼んで無防備に甘えられるような人ではなく、「なにからなにまで、分析して、計画して、話しあわなきゃならない」性格の持ち主。肉体的な接触が苦手で、子どもをあやす、ということも出来ない。非常に知的でありながら、目の前にいるマヤの気持ちを考えることができない人なのだ。心理学の教授のくせに、普通に人と会話することは苦手な母。でも、幼いマヤが限りなく投げかける「なぜ?」という問いかけに、すべて答えようとする母。マヤは、そんな母に愛憎半ばする複雑な気持ちを抱えている。

痛みを抱えて母の愛情が欲しかったときに突き付けられた母の不在に、マヤが抱えている存在不安が間欠泉のように噴出してマヤを翻弄します。ネタばれになるのではっきりとは書きませんが、マヤの母親は、ある心理的な症候群の持ち主なんですね。彼女のマヤに対するときのベクトルの違い、ボタンを掛け違えるようなすれ違いは、そこに原因がありそうです。ただ、この物語は、母と娘の葛藤を、それだけに帰納させるものではありません。マヤは、自分の前から姿を消してしまった母のヤナについて、とことん考え抜き、その行方を追います。この、まっすぐ母に相対することは、マナの心から血を流させますが、同時に母が「母」という役割をもつ前に、「ヤナ」という一人の人間であることを感じさせるのです。初めて知る母の苦しみ。コミュニケーションをとることが難しい母の孤独。不在であるからこそ初めて見える母の姿は、マヤを打ちのめしますが、子ども時代を経て新しい関係を母と築くための、産みの苦しみでもあるのだと思います。

母と娘というのは、切っても切れない絆で結ばれる厄介な存在です。このマヤのような愛情の欠落感や存在不安は、決して特別なことではなく、誰もが心に抱えている痛みではないでしょうか。マヤの娘としての痛みは、私にも覚えがあります。そして、同時に母でもある私は、マヤの母としての苦しみもやはり身に沁みます。そして、自分が症候群という類型の中にいることを知ったときの、自分がいなくなってしまうような苦しさもわかるような気がするのです。身内に心の病をもつものを抱える人なら、これは誰しもが思うことだと思うのですが―こうですよ、と言われる症状を医師にあれこれ説明されても、どれだけその関係の本を読んでも、何やらつるつるの壁を目の前にしているような気がしてしまうことがあります。上手く言葉にするのは難しいのですが。たった一つしかない心の発する声が届く前に消えてしまうような、目の前で扉を閉められるような疎外感があるんですよね。簡単に片づけられてしまうことへの、不安かもしれません。(反対に病名がつくことで安心する気持ちもあったりするのが、これまた複雑なんですが)マヤの母であるヤナが、自分のアイデンティティとして自覚していたことが、実は症候群のせいだったかもしれないと思ったときの存在不安も、私にはひしひしと伝わってきたのです。だからこそ、そんなお互いの中にある不安を、たった一人のよるべない人間同士として見つめ合う二人の姿に心が震えました。その上で結びあう、これまでとは違う母と娘の絆が生まれるラストも、良かった。

「あなたに助けてほしいと思っています。理解できるように助けてほしい。ひとりでは無理だから。」

このヤナの声を、マヤは確かに聞いたのです。そのことが、爽やかな風のように心を吹き抜けていきます。ここから、二人は「自分は何なのか」という問いかけ、つまり人生そのものに新しい一歩を踏み出すのです。この物語には、ほかにも色んな人間同士の繋がりが出てきます。親友であるエンゾ。恋人になるジャスティン・ケース。(このジャスティンは、偶然なんだと思うんですが、メグ・ローゾフの『ジャスト イン ケース 終わりのはじまりできみを想う』(理論社)の主人公を連想させます)  年上の姉ごのようなセーラ。彼らが、ハリネズミのようなマヤをそっと包む気配もいい感じ。まあ、これはブラックなケレン味たっぷりなこの物語の中での安定剤なのかもしれませんが(笑)スプラッタな出だしで投げ出さず、最後まで読んでほしい。これも、岩波のSTAMP BOOKS のシリーズ。こんな風に好き嫌いがはっきり別れるだろう作品を持ってくる岩波の気風の良さに脱帽です。

2013年5月刊行

岩波書店

 

本のなかの旅 湯川豊 文藝春秋

旅に憧れ続けている割には、実際に行けることが少ない。2匹の猫をはじめ、諸々の事情が手ぐすね引いて待ち構えているややこしい主婦の身では、今のところ二泊ぐらいがせいぜい。この間も、親友とあれこれ旅の計画を練りながら、お互いを縛るものの多さにうんざりしたところだ。外国なんぞ夢のまた夢。だから、自分では行けない旅の本をたくさん買ってしまう。作家は旅好きな人が多いので、あれこれと読むのが楽しみなのだけれど、この本は「好き」という範疇を超えて、とり憑かれたように旅をする文筆家たちのお話だ。彼らの「旅」は人生そのものと抜き差しならないほど結びついていて、否応なくその人となりを語ってしまう。この本は18人の文筆家について語っていて、その客観的ながら熱い語りを読んでいるうちに、なぜ人は旅に出るのか、という根源的な命題があぶり出しのように浮かび上がってくるのがとても魅力的だった。私にとって、本を読むことは幼い頃から慣れ親しんだ「旅」であり、どこまで行っても終わらない旅なのだけれど、どうしても本物の旅に出てしまう彼らの心性と、どこか重なるような気がしてしまう。

この本で取り上げられているのは、宮本常一や柳田國男といった民族学者、開高健や金子光晴、ヘミングウェイ、ル・クレジオといった作家、チャトウィンやイザベラ・バードといった旅行家、と多岐にわたっているのだけれども、文学好きの私にとって一番惹かれるのは、やはり作家たちの旅。特に開高健と金子光晴、中島敦は若い頃耽溺して読んだ作家たちだけに、熱心に読んでしまった。若い頃の私はとにかく濫読で、その分読書も肌理が荒かったように思う。今日も昔に買った筑摩書房のトーベ・ヤンソンコレクションを引っ張り出して眺めていたのだけれど、当時と今では、読んだ印象が全然違う。一番大切なキモのところを読み飛ばしてたやん、とびっくりしたところだ。だから、こうしてもう一度丁寧な解読を通じて大好きな作家に出会うのは、懐かしく慕わしいと同時に、新しい気付きに胸を突かれてしまう。開高健の熱を孕んだ豊穣の旅に私は深く魅せられていたけれど、その芯にあった彼の孤独と寂しさを、どれだけ知っていただろうと思う。同じく、なぜか若い頃やたらに好きだった金子光晴の『女たちのエレジー』にも言及があって、一気にいろんな詩が蘇ってきたけれども、やっぱり18や19の私が、彼の哀歓の何かをわかっていたとは思えない。思えないけれど、私は湯川氏の言う、彼らの真ん中にある果てしない空虚や寂寥の気配に引き寄せられていたような気はする。ただ、あの頃は、それをカッコいいと思っていたような。冷や汗ものだなあ。でも、こうして纏めて頂いて思うのだが、小説家の旅は、どこまで行っても自分をめぐる旅という気がする。主体は旅ではなくて、その旅を味わう自分にあって、私は色濃い彼らの世界にいるのが好きだった。百閒先生など、その最もたる存在かもしれない。『阿房列車』はどこを旅しても濃い百閒ワールドで、あれを読んでいると、ぐるぐると百閒先生の手の中を巡っているような気になってしまう。湯川氏が、その文章を「世界が解体し、何かが無意味になる」と述べているのには、ものすごく納得してしまった。

自分の懐かしい本ばかりに触れてしまったけれど、こういう教養がたっぷり詰まった本を読む楽しみは、自分の知らない本を教えてもらえることだ。湯川氏の物凄い読書量と、教養にひたすら圧倒されるけれど、この本からは、旅を愛した人たちに対する、やっぱり深い愛情と尊敬が伝わってくる。だから、とにかく全部読みたくなってしまう。宮本常一の『忘れられた日本人』や、ル・クレジオのエッセイ、明治の初めに東北の奥地を旅したイザベラ・バードやアーネスト・サトウ、思わずまたチェックして読みたい本リストに書き足してしまった。(積んどく本がたっぷり増えてるのに、一体いつ読むねん!)去年買ったチャトウィンの旅行記も早く読まねば。本というのは、一冊読むとそこからまた道が繋がっていて、どこまでも終わらない旅になるのである。まだ見ぬ場所。私の知らない世界。それが、こんなにあるというのは幸せで、茫然として、果てしなくて・・・その旅の途中で間違いなく力尽きてしまうのがわかっていてやめられないのも、やっぱり旅だ。本の旅と、この足で歩く旅と、ふつふつと自分の中に渦巻く欲望を新たにかき立てられる一冊だった。

2012年11月

文藝春秋

 

 

オレたちの明日に向かって 八束澄子 ポプラ社

「出会う」というのは偶然なものだけれど、出会うべくして出会った、と思えることが時々あります。偶然だけど必然だったよね、という出会い。そんな出会いは、人を変える力があるものです。この物語の主人公・勇気も、ジョブ・トレーニングでの出会いをきっかけにして、これまで見えなかったものが少しだけ見えるようになります。若い身体と心が大きくなるときを、伸びやかな筆遣いで描いた素敵な作品でした。

主人公の勇気は、勉強にはいまいち身が入らないし、部活に出れば顧問に怒鳴られっぱなしという中学二年生。ある日、保育園に勤める姉が、交通事故を起こしてしまうのだが、どうやら相手の中学生は、親に強要されて当たり屋をしているらしい。一歩間違えれば大変な事態になるところを助けてくれたのは、保険代理店の今井さんだった。それがきっかけで、勇気はジョブ・トレーニング(職業体験)で今井さんのところに行くことを選ぶ。そこで出会ったのは、保険という大きなお金が絡む世界の、大人の姿だった・・・。

保険というのは、大金が絡むだけに、今井さんの言うように「人間の負の側面を刺激する」んですよね。お金というのは、生きていくことと直結しているだけに、非常に生臭い一面を持っています。勇気は今井さんのところに通っている二日間のうちに、人のいろんな面に触れます。その冷たさや暖かさが、勇気の若い心にまっすぐ沁みこんでいくのを読みながら、ああ、これが「知る」ということなんだなあと思ったんですよ。何でも知っているふりをする人っていますよね。「そんなこと、ニュースでもいつもやってるよね」とか、「ああ、どこかで読んだことあるよ」というくらいで、「知っている積り」になっている、そんな人の「知っている」は、「忘れてた」と同じくらいの重みしかない。「知る」というのは、心に刻むこと、自分の内的な体験として血肉化することです。介護する奥さんの頭をなでるおじいさんの無骨な手や、稲刈りのお礼にとおばあさんが作ってくれたちらし寿司の味や、今井さんが話してくれた交通事故のあとの何ともやるせない光景。そして、姉の車に当たり屋として突っ込んできた男の子の家庭の事情。それまで無関係だと思っていたことが、姉の事故や、今井さんとの関わりを通じて、顔が見える人の出来事として勇気の胸に刻まれる・・・それが、彼を変えていくのです。

この週末、広島に行っておりました。(その話は、またゆっくり書きますが)。平和記念公園の中に、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館があります。そこには、原爆で命を落とされた方の名簿と写真が収められており、常にそのお顔を見ることができるようになっているのです。映し出される一人ひとりの顔を見つめながら、私は、何万人という死者の一人ではない、たった一つの存在であったそれぞれの方の命の重みを感じました。誰も、「どこにでもいるような一人」ではなく、ほかの誰でもない、たった一人の存在であること。その認識を持つことが、かけがえのない命をもって生きる人間同士が生きていく基本なんですよね。そこを失ってしまったとき、私たちは大きな間違いを犯すことになります。そして、他者をかけがえのない存在として認識することは、自分の大切さにも気付くこと。関わりを持った人に誠実に対応する今井さんの仕事ぶりを見て、勇気は「この社会のどこかに自分の居場所と仕事がある」と、ぼんやりとでも思えるようになる。それもまた、他者に顔の見える存在としての自分を思い描けた上のことだと思います。何やら不安だらけの、漠然とした未来に押しつぶされそうになる若い子たちに、この感触を伝えたいという作者の思いが伝わるような気がしました。

勇気の家庭のあけすけな明るさや、勇気が友達のきぼちんと、犬のマロンの三人(笑)ではしゃぐおバカっぷりが楽しくて、保険という重いテーマをテンポ良く読ませる役割を果たしています。雪合戦のシーンなんかは笑いながら、なぜか涙が出てしまいました。若い子の笑顔に泣けるなんて、年やね・・と思ったりしましたが(笑)挿絵や、今井さんの業務日誌がはさんである工夫も面白くて素敵なんですが、少しもったいないと思うのが、タイトルです。もう少しひねってあったほうが、若者の食い付きが良かったんじゃないかしらん。ラノベ世代にはストレートすぎないかしら・・などと、余計な心配をしたりしました。凝りに凝ったラノベのタイトルを常に見ているものの老婆心かな。とにかく、たくさんの若い人が手にとってくれたらいいなと思います。

2012年10月

ポプラ社

劇団6年2組 吉野万理子 学研教育出版

懐かしや、クラス演劇。思い出すとけっこうやってましたねえ。外したときのリスクも高いんですが、その分ツボにはまったときの達成感は半端なかったことを覚えています。盛り上がれば盛り上がるほど凝り性になって、家からいろんなものを持ってきてあれこれ作ったり。私たちの頃は、放課後塾に行っている子なんて全くいなかったので、時間が使い放題だったというのもあるかも。そして、あの頃はドラマ全盛の時代です。百恵ちゃんの『赤い~』シリーズに本気で泣いていた時代ですから。漫画だって『ベルサイユのばら』に『ガラスの仮面』という、セリフを口にするだけでお芝居気分になれたものがいっぱいありました。どれだけ皆で真似っこしたことか。近所のバラの生垣のところで、オスカル役とアンドレ役を決めて、ラブシーンやったり(笑)そんな下地もあったせいか、とにかくやってみたかったんですよね、お芝居というやつを。この本を読んで、久しぶりにあの頃のときめきと楽しさを思い出しました。

お芝居の楽しさは、何にもない空っぽのところから、皆で架空の国を作り上げるところ。この物語もそうです。学校に公演に来たプロの演技に魅せられて、卒業のお別れ会でお芝居をやりたい!と思った立樹が、クラスの皆と自分たちだけのシンデレラのお芝居を作り出すところが描かれます。お芝居なんて、どうしたらできるのかわからない立樹たちは、プロの人に話を聞きにいったり、自分たちで台本を探したりします。でも、俄然面白くなるのは、台本通りにする必要はなくて、自分たちの自由にお話を作り上げていけばいい、と知ったところからです。誰もが知っているシンデレラのお話。でも、なぜ継母はシンデレラに意地悪したくなるのか。魔法使いはなぜシンデレラを舞踏会に送り込んだのか。「なんで?」と登場人物の気持ちになって考えていくことで、物語はどんどん膨らんで、自分たちだけのリアルな心が入っていく。そして、それが、見ている人に伝わっていく。「伝わる」ということは、とても嬉しいことなんですよね。その喜びが、とてもストレートに物語から溢れてきました。

「伝える」というのは、本当は生きていく基本なんですが、これがけっこう難しかったりします。立樹たちがこのお芝居から見つけた「人の気持ちを考えると、これまで見えなかったことが見えてくる」ということは、思いを伝えたり、伝わったりするために絶対必要なことなんだと思います。自分ではない誰かになりきってみる、という経験は、これまで知らなかった人の心に踏み込んでみることに繋がりますよね。この物語でも、立樹やクラスの子どもたちは、お芝居を通じてお互いの知らなかった部分に気づきます。自由な想像力は、現実を変える力ともなるのです。そのパワーを、さわやかに描きあげた楽しい物語でした。ト書きというあまり子どもたちが目にしない脚本形式を物語の中に交えてあるのですが、とても自然で新鮮な印象になっていて、これはとても苦労されたところではないかと思いました。脚本家でもある吉野さんの手練の賜物ですね。挿絵も『チームふたり』のコンビである宮尾和孝さんで、さすがのチームワークです。

2012年11月刊行

学研教育出版

 

 

海街Diary 5 群青 吉田秋生 小学館フラワーコミックス

毎日ブログを訪問している、「くるねこ大和」のくるさんが、今日は落ち込んでました。胡てつんの入院がこたえているらしい。くるさんもかあ・・猫好き人間にとって、自分の不注意や至らなさで猫に何かある、というのはとても辛いです。(胡てつんの入院は、くるさんのせいじゃないです。念の為。)私の落ち込みは、ガスコンロの工事に来てもらったときに、私の不注意でぴいを脱走させてしまったこと。業者さんの出入りに気をつけているつもりで、一瞬の隙を突かれてしまった。幸い、30分ほどですぐに帰ってきたけれど、その間生きた心地がしませんでした。長らく外に出していなくて、最近はあまり出せ出せと言わなくなっていたこともあって、油断してたんですよね。ちゃんと帰ってきたからいいものの、またお薬を飲んでいるこの時期に、行方不明にしていたらと思うだけで、背筋が冷える思いがしました。しかも、業者さんにも心配させて、申し訳なかったし・・・。相手はもの言わぬ子だから、こっちが良かれと思ってしていることが食い違ったり、通じなかったりすることもままあります。もっとも、これは人間同士でも同じなのかもしれないですけどね。これからは、もっと気をつけなくちゃいけません。肝に銘じました。

がっくりきて、なんだかちゃんと活字も追えず。この間買ったこの本に、ずいぶん癒されました。この作品の中の時間の流れ方が、とても心地よいのです。鎌倉の街での四人姉妹の生活は、穏やかながらもいろんな波が打ち寄せます。すずの亡くなった祖母からの連絡。幸ねえの、病気疑惑。馴染みの食堂のおばさんの死。みんな、人は、それぞれが生きてきた時間や、背負っているものを携えて、これから歩く道に悩んだり苦しんだりする。その中で言葉にできない思いがたくさん生まれて流れていくんです。この物語は、その言葉にできない思いがちゃんと伝わってくる。彼女たちの思いに触れて、自分が言葉にできなかったあの日の思いが、蘇る。うまく伝えられなくて苦しかったこと。言葉にできなくて、傷ついたまましまいこんでしまったこと。それを、彼女たちとわかちあって、そっと同じ風景の中に、群青の空に解き放てる。この幸せは、なんとも言えません。

空気が薄いほど、空は青さを増すらしいです。そこに立つ人にしか見えない色、景色があって・・・それぞれが違う色の空の下にいるのかもしれないけれど、空はいつも見上げればそこにある。そのことが、とても胸に沁みる。そんな巻でした。うーん・・・やっぱり、「吉田秋生−夜明け− (フラワーコミックスマスターピーシーズ)」は買うべきか。これまで全巻揃えているファンとしては、やっぱり見逃せないかなあ・・・。

2012年12月刊行

小学館

by ERI

100%ガールズ 1st season 吉野万理子 講談社YA!EATERTAINMENT

「けいおん!」とか、「じょしらく」とか、タイトルが平仮名でキャラもきっちり萌えタイプ別に設定され、これでもか!というくらい可愛い女の子たちが出てくるという、ガールズもののアニメが人気です。うちにも二次元の女子しか愛せないヲタ男子がいるので(笑)私も一通りは見てます。(別に一緒に見なくてもいいんですけどね)そこに出てくるガールズたちは、見事に男子の妄想そのままの可愛さ。ま、現実にはおらんよね、という設定です。(まあ、あり得ない美少年BLものに萌え萌えだったりする女子と妄想度では同じ・爆)この作品も、ガールズたちの物語ですが、男子というよりは、女子が読んで楽しい学園もの。舞台は100%ガールズ、つまり女子校です。
主人公の真純は、宝塚命の母に男役になることを期待されて育った女の子。同級生に制服のスカート姿を見せたくないという理由だけで、遠くの横浜にある女子高に進学することにしたのです。初めて通う学校のしきたりや気風、初めて出逢うクラスメイト、先輩たち。新しい環境の中で、どんどん新しい目を開いて変わっていく女の子の気持ちが、鮮やかにテンポ良く描かれて、ほんとにあっという間に読んでしまいました。主人公の真純が良い子なんですよ。彼女は大切なことに自分で気づける子なんですよね。この「自分で気づく」って大事やな、と思うのです。
彼女は、男の子っぽくすることがカッコいいことだと、思っていたわけです。でも、先輩の人に対する優しい接し方や、自分が怖気づいて逃げたことに対して同級生が誠心誠意頑張る姿を見て、人のカッコよさというものが外見だけにあるわけじゃないと気づきます。
「カッコいいというのは、男とか女とか年齢とか関係ないんだ。きっと生き方の問題なんだ。」
何だか、胸のあたりがスカっとします。ほんと、そうだよね~、と真純と女子会したくなるわけですが(誰が女子やねん)誰に強要されたわけでもなく、こうして自分で獲得した価値観というのは、一生の宝物だよね、と思うんです。例えば、真純は、妹に「女子校ってネチネチしてるって、決まってるんだって」と聞いて、びくびくしていたのです。こういうもっともらしい伝聞情報って、ほんと山のようにあって、それこそネットを開けるだけでも洪水のように溢れてなだれ込んでくるし、口コミでも恐ろしい早さで伝わっていく。でも、そういう伝聞情報を頭に詰め込めば詰め込むほど、身動きがとれなくなったりします。だから、そういう伝聞情報を頭に詰め込むことを「仕入れる」というのかも。ただストックして次に流すだけで、自分の血肉にはならないんですよね。「知る」ということは、本当は人を解放するものであり、既成概念に風穴を開けること、心の自由を獲得すること。自分の人生を決めていく大切な羅針盤です。自分の心と体で、いろんなことを「知って」いく真純の毎日がフレッシュで、元少女(誰が少女やねん)の価値観にも酸素を入れてくれる感じです。この本はシリーズになるのかな。宝塚受験をめぐって、母と娘の攻防も生まれそうな予感。揉め揉めになるんかなあ、楽しみやなあ。(楽しみなんかい!)
2012年7月刊行 講談社

by ERI

かっこうの親 もずの子ども 椰月美智子 実業之日本社

維新の会が国政に進出するとか。よもやそんなことは無いと思いますが、こんな団体が政権とったら大変なことになりますよ。相続税100%とか言ってますけど、そうされて困るのはお金持ちではなく、(お金持ちはさっさと外国へ逃げるでしょう)生活に追われ、汲汲と生きている私たちです。要はお金は親に貰わず自分で稼げ、ということなんでしょうが、人生というものは、100人いれば100通りの事情があります。例えば障害を持っているとか、病気で働けないとか、幼い子どもがいるとか、そんな人は自分の住む家さえ取り上げられたら、どうしたらいいんでしょう。極端な個人能力主義は、弱者の切り捨てに繋がります。その昔、ヒットラーが障害を持つ子どもたちを弾圧したことを想い出してしまう。他人より優位に立つことだけを目指して努力する社会って、考えただけでもため息が出るほどしんどい。発達障害は親の責任だ、などと言い出す人たちのもとで子育てしなければならなくなるとしたら・・・と思うとぞっとします。大体、徴兵制とか言いだしてる時点で怖ろしすぎなんですが、なぜかテレビではそのあたりのことが伏せられてます。どうして?私は大阪の人間ですが、橋下さんにたくさん票を入れて彼を当選させたことは、大阪人の大失敗だと思います。彼は弱者の味方なんかでは、決してないですから。・・・前置きが長くなってしまいました(汗)
いつの時代にも、子育てというのは光と闇が息苦しいまでに同居しているものだと思うのですが、現代の医学の進歩は、これまでなかった苦しみも生みだします。この物語の主人公・統子の抱えている苦しみも、一昔前なら考えられなかったこと。統子は息子の智康をAID(非配偶者間人工授精)で生み、それが原因で離婚、子どもを一人で育てているのです。とことん話し合い、お互い納得した上で選んだ道だったのに、見知らぬ人の精子で妻が妊娠したということを、夫婦として乗り越えられなかった。愛しい我が子の出生に関することだけに、その傷は統子の胸をえぐります。
この物語は、AIDという秘密を抱えて苦しむ統子とともに、今の時代の子育ての問題を見つめていきます。統子親子以外にもたくさんの親子が描かれていて、それが逐一「ああ・・いるいる、こんな人」と思うリアルさなんですよ。我が子を守ろうと抱きかかえた背中で、お互い傷つけあったりしてしまう母親という生き物の愚かしさと健気さに、思わず鼻がツンとしてしまう。仕事との両立。一人前にしなくてはという重圧。小さな子を連れて歩くときの、まわりからの冷たい視線。親同士のいさかい。くたくたになる体。時折訪れる、天にも昇るような子育ての至福の瞬間も含めて、この物語に描かれている逐一は、この身体にも心にも強く記憶としてきざまれていることばかりで、ひたすら共感の嵐です。その喜びと苦しみに翻弄される統子の気持ちに寄り添いながら、AIDという縦糸を見つめているうちに見えてくるのは、「命」というものに対して母親が持っている、根源的な「畏れ」です。畏敬とは少し違う。自分のお腹を使って子を生んだ母は、命がどんなに脆く儚いものかを、背骨に刻む実感として持っているのではないかと思うのです。

 

自分は一体いつから、こんなに弱くなってしまったのだろう。子どもを持った瞬間から、世の中は怖いものだらけになってしまった。・・・(中略)今の自分は、生まれたての子猫よりも臆病だ。絶対に失いたくないものを手に入れた瞬間から、自分はすっかり怖気づいてしまった。涙もろくなり頑なになり、融通がきかなくなって利己的になってしまった。守るべきものがあるというのは、とても窮屈で心もとないことなんだ・・・

 

子育ての喜びも苦しみも、怖ろしいほど命の実感と直結しています。統子も、智康と出かけた美しい海辺の至福の瞬間に、自分が死ぬ時のことを想像します。魂だけになったとき、この風景に出逢いたいと思うのです。子どもを、命を生むということは、同時に死も生むことなんです。これが恐ろしくないはずがない。その根源的な畏れに正面から向き合わされてしまうケースもこの物語には描かれます。辛いです・・・でも、これも命を抱えていれば誰にでも起こりうること。だから、母は必死です。愚かでも、盲目でも、もがきながら我が子を抱きしめようとする。このタイトルにある「かっこうの親、もずの子ども」というのは、託卵というかっこうの習性とAIDとの問題を重ねてあると思うのですが、子どもというのは、ある意味すべて、どこかからやったきた、託されたものなんじゃないかとも思うのです。妊娠、出産、子育て、すべてがこんなに自分の想い通りにならないことも珍しいじゃありませんか(笑)私たちはみんな、かっこうに卵を託されて盲目的に子育てする、愚かなもずにしか過ぎない。だから、思い通りにならない同士、もう少し風穴あけて子育てできたら、命という奇跡をもっと愛しく思えるんじゃないか。そんな椰月さんの想いを感じる一冊でした。正直、私にはAIDという子どもの生み方に対する疑問がありました。その疑問はなくなってしまったわけではないのですが、この世界にたった一人の存在を生みだすという奇跡は、どんな事情の中にあっても等価なのだとしみじみ思ったのです。子育て中のお母さん、そしてお父さんにぜひ読んで欲しい一冊です。
2012年8月刊行

実業之日本社

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