狛犬の佐助 迷子の巻 伊藤遊 岡本順絵 ポプラ社

表紙の狛犬さんの顔がとても良いんです。お人よしのワンコのような、今にも何か話しかけてくれそうな、この狛犬さん。ワンコ好きの私としては見逃せません(笑)思わず読んでみたら、体中にあったかいパワーが溢れてくるような、そんなお話でした。

街中にある古い神社を守る2頭の狛犬さんには、石工の佐助と、親方の魂がそれぞれこもっています。この2頭、きっちり神社を守護しているというよりは、いつもしゃべくりまくって過ごしている、ゆるーい狛犬です。いつも弟子の佐助が親方に怒られてるんですが、めっちゃ仲良しなんやね、ということが伝わってくる、とってもいい漫才コンビです。そして、佐助は「心持ちも狛犬らしくなってきたし」なんていいながら、いろんなことが気になってしまう、やっぱりお人よし。最近はいつも神社にくる耕平という少年が気になって仕方がないのです。耕平は飼っていた大切な犬のモモがいなくなって落ち込む毎日。佐助は、ある日、そのモモの行方の手がかりを聞いて、なんとか耕平にそのことを伝えたいと必死になってしまうのです。佐助は狛犬です。石の身動きできない体では、何も出来ない。親方に「あきらめろ」と諭される佐助ですが、どうしても彼は諦められない。その思いが、佐助を石の体から解き放ってしまうのです。

神社というのは、たくさんの人が自分の願いを伝えにくるところです。中には切ない願いもあることでしょう。これまで、願いをする立場からしか、狛犬さんや神社の神様を見たことはなかったけれど、この必死の佐助の奮闘ぶりを読んで、もしかしたら神様もしんどいのかもしれへんな、と思ったり。何かしてあげたい、思いを叶えてあげたいと思っても、してあげられへんことのほうが多いやないですか。いろんなことが見えたり、俯瞰できたりすれば、尚更その思いは強いのかもしれないですよね。家族や友達や、恋人が苦しみや悲しみを抱えているのを知っていて、何も出来ない、というのはとても辛いことです。でも、だからこそ、その「何かしてあげたい」「喜ばせてあげたい」という気持ちというのは、とても尊い、強いパワーでもあると思うのです。佐助のパワーも思わず爆発してしまうのですが、獅子奮迅のおせっかいは、見当はずれの結果に終わってしまいます。これもねえ、何だかじーんとよくわかるんですよね。私もお節介な性質で、ついあれこれ世話を焼きたがるほうなんです。でも、それがいつもいい結果につながるとは限らない。佐助のように見当はずれになることも多いし、やめときゃ良かった、と後悔することもあります。だから、この佐助の気持ちがよーくわかる。佐助は狛犬としてはおバカさんかもしれないけれど、そのおバカさんなところが、よくわかるというか、何とも愛しいんです。

佐助は生きている間も、とても不器用な人でした。でも、だからこそ、親方の期待に応えたいと一生懸命で必死でこの狛犬を彫ったのです。その誰かの思いに応えたいという純粋さが狛犬さんに宿り、息づいている。見かけはあんまりカッコよくなくても、お節介がうまく実を結ばなくても、その「思い」は、とても大切な宝物なんですね。今日読んでいた『それでも人生にイエスと言う』(※)の中で、フランクルが次のようなことを述べていました。「私たちは、生きる意味を問うてはならない」と。私たちは、人生に問われている存在、つまり人生は我々に何を期待しているか、を考えていくことが大切なんだと。そういう生き方は不器用に見えるし、要領よく生きていったり、得することとは縁遠かったりするのかもしれないけれど、どこかで誰かを笑顔に出来る唯一のパワーを生み出すものでもあると思うのです。その不器用な温かさが、溢れてくるような物語でした。狛犬さんの挿絵は、岡本順さん。伊藤さんといいコンビですねえ。見返しのどんぐりも可愛くて、心のこもった一冊でした。

2013年2月刊行

ポプラ社

(※)「それでも人生にイエスと言う」V・E・フランクル 春秋社

 

 

狼の群れと暮らした男 ショーン・エリス ペニー・ジューノ 築地書館

「私たち(人間)は、たかが欲張りの サルにしかすぎない」と述べていたのは、一匹のオオカミと10年間暮らした哲学者、マーク・ローランズ(※)だ。曰く、人間はサル的動物であると。サルは、人生にとって 一番大切なものを、自分に対する利益ではかる。目に見えるもの。 物質、利益、コスト・・つまり、対費用効果だ。 その為に、陰謀を図り、共謀し、相手を欺き、利益をあげることで 文明を築いてきた。確かに優れた 芸術、文化、科学、真実は存在するが、その偉大さを生む知性の核心には 邪悪さと狡猾が潜んでいる。 しかし、オオカミにはそのような邪悪さは一切ない。彼らは計算をしない。 嘘をつけない。相手を欺かない。恐ろしいほどの運動能力があるが、その能力をちゃんと抑制してみせる・・・。この本を読んだとき、私は非常にその論に共感し、親オオカミ派になってしまったのだが、この本を読んでオオカミという生き物の見事さにますます惚れてしまった。しかし、どれだけ惚れても、私にはこのショーン・エリスのようにオオカミの群れに単身のりこんで暮らすことは出来ない。彼は「ウルフ・マン」とも呼ばれるオオカミにとり憑かれた男なのである。

幼い頃から英国の自然の中に育ち、人間よりもキツネにのめりこんでしまう少年だったショーンは、軍隊生活を経たのち、アメリカに渡ってネイティブ・アメリカンの管理するオオカミの生息地区に入り、野生のオオカミと暮らすという経験をする。この本には彼の半生がそのまま綴られているのだけれど、圧巻はやはりその2年間の記録だ。ショーンは寝袋一つ持たずに森の中に入っていく。そしてオオカミの取ってきた獲物を共に食べ、一緒に眠り、子育てまでつぶさに見る。いやもう、ほんとに人間超えてます。you tubeで検索して動画を見たのだけれど、そりゃもう人間離れしてます。どうも、ショーンは人間が苦手なんですね。彼は人間の世界にいるよりは、オオカミの世界にいるほうがしっくりくる。ショーン曰く。

「人間はオオカミに冷酷な殺人鬼の汚名を着せたが、本当の強さの源は武器を持ちながらそれを使わないことにある。人間があのような殺人能力を手にしたら、どれだけの人がそれを使わないだけの抑制力をもっただろうか」

オオカミは非常に家族を大切にする。彼らは自分の命を持続し、子どもを育てるための狩りはするが、必要以上の殺戮は決して行わない。しかし、ショーンも言うように、人間は少しずつ彼らの世界を切り取っていき、オオカミが長い間培ってきた世界のバランスを壊してしまう。その結果人間とオオカミの不幸な遭遇が起こってしまうのだ。こういう動物の世界のことを書いた本を読むたびに、もしかしたら人間はこの地球に一番不要な生き物なんじゃないかと思ってしまう。とにかく必要以上のものを欲しがってむやみに増殖して生態系を壊していくなんて、まるでガン細胞みたいだ。私も便利な生活を手放すことも出来ない、それこそ欲張りのサルの一員なのだから、偉そうなことを言う資格は一切ない。しかし、せめて動物たちの世界のバランスを壊すことだけはしたくないし、正しい知識を持たずに思いこみやイメージで安易な失敗をしたくないと思う。人間にとってはちょっとした間違いでも、動物にはそれが命取りになるのだから。ショーンが命を張って教えてくれたオオカミの生き方は、非常にまっとうで理にかなっている。最近とみにサル的な人間のあれこれがしんどいと思ってしまう中、この本はとても楽しい一冊だった。

私もショーン同様、一番心安らいで落ち着くのは、猫たちと一緒にいる時だ。彼らは言葉を持たない分、何の嘘も裏表もなく、今生きていることの喜びを全身で教えてくれる。この「今」を生き切ることは、やたらに先の繁栄ばかりを夢みて今をおろそかにする人間が学ばなければいけないことのような気がする。

2012年9月刊行
築地書館

(※)『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』(マーク・ローランズ著 今泉みね子訳 白水社)

祖母の手帖 ミレーナ・アグス 中嶋浩郎訳 新潮クレストブックス

最後にどんでん返しがある本というのは、レビューが書きにくい。そこがキモなのに、ネタばれになってしまうと思うと、やっぱり伏せとかなきゃ、と思いますもんね。この本もそうで、最後の2頁ほどに、「えっ!」と思わせる仕掛けがあります。仕掛け・・・と言っていいのかどうか。もしかしたらそれは、私たちが誰しも心に秘めている自分だけの物語のあり方そのものなのかもしれないなとも思います。

娘の頃から、まだ見ぬ恋に憧れ続けていた「祖母」は、親の勧めで祖父と結婚するが、夫を愛せないままだった。1950年の秋、結石の治療で湯治に出かけた祖母は、そこで運命の恋人である帰還兵と出会う。つかの間の激しい恋に身を焦がしたあと帰郷した祖母は、初めての男の子を出産する。家庭は何不自由なく営まれていくが、祖母はいつまでも帰還兵のことが忘れられない。何度も繰り返し祖母に帰還兵のことを聞いていた「私」は、祖母の死後に一冊の手帖を発見する・・・。この物語の語り手は、孫娘の「私」です。

全編を通じて、心と体の皮膚感覚に訴えてくる物語です。ストレートに言うと、とってもイタくて痛いのです。まだ見ぬステキな愛を待つ祖母の期待っぷりはイタタだし、その祖母を打ちすえる曾祖母の鞭はじんじんと肌に応えるます。結婚してからの針を踏むようなセックスレスの日々も、それが一転して娼婦のような性生活を受け入れるくだりも、とっても痛い。彼女がいつも体の中に持っている石は、蝶の幼虫が、まだ見ぬ美しい羽を思って作り出す繭のようなものかもしれない。叶えられない夢、この世界のどこかに、自分の運命の人がいるのではないかと思う、人に聞かれたら顔から火が出るほどハズカシイ願望の塊。でも、その痛みの中には、いつもひっそりと、快楽の甘やかさが潜んでいる。女という性が運命のように持っている痛みと快楽いうものを、こんなに傷ましく典雅に書き記した物語は珍しいかもしれないと思います。

そう、女って常に痛い。生理痛に頭痛、腰痛なんてのは女の常だし。思春期になると膨らみだした胸がやたらに痛むし、子どもを産むのはもちろん、閉経だって痛い。性に必ず痛みがついて回るのです。だから、この祖母の痛みは他人事ではなく、そのまま自分の体と繋がるもの。その女が、痛みを抱えながら、なおかつ「愛」という口はばったいものに繋がれてしまうイタタな部分を持っているというのは、何故なんでしょう。―心と体の奥底に持つ柔らかに密やかな、目の前に取り出せばあまりに剥き出しすぎて踏みにじらずにはいられないような、悲しみにも似たもの。そこに従ってしまうと、社会的な「死」が待っている。思えば、ボヴァリー夫人も、アンナ・カレーニナも、そんな痛みと快楽にに振り回された女たちでした。彼女たちは、みんな愛を手にいれるのと引き換えに破滅して死んでいったのです。この物語にも、たった一度の運命の愛を手に入れたあとを、ずっと不遇のままに生きた女性が描かれています。それはこの物語の語り手である「私」のもう一人の祖母。彼女は富裕階級の出身ですが、若い頃のたった一度の恋で勘当され、一生を働きづめに働いてたった一人で子どもを育てて死んでいくのです。でも、「祖母」は、たった一度の激しい恋をしたのに、ひと世代前の彼女たちのように破滅もしなければ、結婚生活を失いもしなかった。それは何故か・・という答えが、最後の最後に用意されているのです。

えっ、そうだったの・・・と確かにびっくりするのですが、そうか、やったね!とにんまりほくそ笑むというか。フィクション、つまり物語というものを自分の中に取り込み、生み出していく力を女が得たことの、これは可能性の物語でもあると、私は最後まで読んで思ったのです。だから、これは祖母の次の世代、「私」が受け継ぐべき物語であるんだな、と。感情を押し殺して生きることが美徳とされた世代に生きた祖母が思い描いた全き愛情の姿は、実は心の自由を手に入れることだったのかもしれない。もし彼女が今の時代に生きていたら、世の女性たちの心震わせる恋愛小説の書き手になっていたかもしれないですよね。じゃあ、あなたはどんな愛を思い描くの?と、祖母は残した手帖から孫娘に問いかけます。愛情というものは、ある意味独りよがりで滑稽なものでもあります。でも、後書きの作者の言葉にもあるように、その滑稽さも誰からも理解されない部分も、物語にすれば私たちは共感をもって迎え入れることが出来る。そして、孤独と悲しみにも居場所を与えることが出来るのです。祖母の痛みを受け継いだ「私」は、一人ひとりの読者なんですね、きっと。

「生まれてからずっと、月の国の人間のようだと言われてっきて、ようやく同じ国の人に出会えたような気がしたし、彼こそ今まで求めつづけていた、人生で一番大切なものだったように思えた」

私も、こんな風に思ったことがあります。恋愛したとき・・・と言いたいですが(笑)うん、まあ、そう思ったことも無きにしもあらずですけど、現実の恋は大概後で苦い思いを突き付けられるもんです(笑)そのもっと昔、居場所がないと思っていた頃に出会った物語の主人公たちと分け合った思いは、ずっと大切なものであり続けています。この物語も、ふとした時に思い出す、忘れられない一冊になりそうです。

2012年11月刊行

新潮クレストブックス

夜の写本師 乾石智子 東京創元社

ファンタジーの面白い作品に出合うと、ほんとに嬉しい。子どもの頃のように、ご飯を食べるのもうっとうしくなるぐらい熱中するのが読書の一番の醍醐味です。本の中の世界に飛んでいって、はまり込みすぎて、帰られへんねんけど!みたいな(笑)その中でもファンタジーって、一番遠くに飛んでいけるジャンルです。特にハイ・ファンタジーと呼ばれる、世界観から細かい設定まですべて作り上げるファンタジーは、はまるとほんとに異次元に飛んでいける快感があります。偉大なトールキンの『指輪物語』はもちろんのこと、ル=グウィンの『ゲド戦記』やルイスの『ナルニア国物語』のシリーズなんかが一番の有名どころですが、どうもこのファンタジーという分野においては、特に欧米のものは最近粗製乱造の気配があって、げんなりしてしまうことが多々あるんですよね。・・・そう、CGで作ればファンタジーでしょ、みたいな認識のハリウッド映画みたいな作品が多すぎる。(おお、偉そうな発言・・・)少々行き詰まり感があるんですよね。キリスト教史観の縛りって、結構強いものがあるのかもとも思いますが。

その点、上橋菜穂子さんの『守り人』のシリーズや、小野不由美さんの『十二国記』のシリーズなどは、民俗学的な視点を得た、新しいファンタジーの可能性を切り開いておられると思うのです。(そう言えば、ル=グウィンも民俗学者の両親をお持ちですよね)菅野雪虫さんの『天山の巫女ソニン』や、濱野京子さんも、意欲的な作品を次々と刊行なさっています。日本のファンタジーは、いいぞ!というのがこのところの実感なのです・・・って、なんでこんなに前置きが長くなるんだろう(汗)で、要は、この『夜の写本師』は、いいぞ!ということが言いたいわけです。

右手に月石、左手に黒曜石、口のなかに真珠と、三つの品を持って生れてきた少年・カリュドウ。女魔道師であるエイリャに育てられた彼は、才能の豊かな少年だった。しかし、ある日、エイリャと幼馴染の少女フィンは、当代随一の大魔道師・アンジストに惨殺されてしまう。その光景を目の当たりにしたカリュドウは、全身を憤怒の炎に焼かれ、復讐を誓う・・・。

ガンディール呪法、ウィダチスの魔法、ギデスディンの魔法、と細かく体系づけられた魔法の数々を横糸に、アンジストと彼に殺された3人の魔女の運命が紡がれ、カリュドウの運命と繋がっていく。カリュドウの物語の間に過去の魔女たちの物語が挟まって、とても複雑な構成になっているにも関わらず、読み手を混乱させずに物語に引き込んでいく力があります。魔術に対して、「写本」という行為、言葉が持つ力を根幹にした営みを配したことも面白い。本というものに年がら年中取り憑かれている本読みにとって、これほど実感できる力は無いと思われます。

そして、これはファンタジーのみならず全ての文学に言えることなのかもしれませんが、人間の暗黒面、呪いや恨みや憎しみというものを見据えて掘り下げていく意思があることもこのファンタジーに深みを与えています。これは、何百年も続く恨みと復讐の螺旋が、膨大な命を飲み込んでいく物語です。でも、長い長い戦いの原点は、ある一人の男の愛の欠落から始まるのです。一人の男の負のエネルギーがどれだけの人を巻き込んで翻弄していくのか・・・その大きさをこの本は物語ります。先日もグアムで恐ろしい事件がありました。たった一人の男が自分の満たされない思いで振り回した刃物が、他人の大切な命を奪ったとき、どれだけの悲しみと苦しみを生み出すことか。しかも、それは、他人事ではなく、いつ、だれの身に起こるかしれないことです。明日、私の身にも降りかかるかもしれない。また、誰かを深く傷つけてしまうかもしれない。人は常にそういう存在なのです。私たちは間違いを犯す。間違いを犯すまいとして、また新たな過ちに陥ったりもする。この本からは、その人間を見据えて描き切る覚悟というか、強い意志を感じるのです。魔術という人智を超えた理不尽な力に、「写本」という徹底的に磨き上げた美意識の手仕事で対抗していく。そこに、人が限界の中で、必死にそこを超えてゆかんとする可能性を感じるのが、心惹かれるところです。そして、この復讐の結末が、またいいんですよ。ネタばれになるから書きませんが、一言だけ。・・・『愛』なんですね。いやあ、照れます・・・って、あんたが照れてどうするって感じですが、そう、『愛』なんです。そこが、またいい。優れたファンタジーは人生を語ります。私たちが忘れてしまった生き物としての根源的な力や暗黒の暗闇、それを凌駕する命の輝き、つまり魂の記憶を呼び覚ますような力があると思うのです。苦しみに満ちた復讐の物語ですが、最後の最後に呼び覚まされた記憶に、全てが浄化されていくようなカタルシスを感じました。

解説の井辻朱美さんもおっしゃるように、この物語にはゲド戦記は言わずもがなですが、『蟲師』や『百鬼夜行抄』、『夏目友人帳』といった日本の大好きな漫画の影響もそこはかとなく感じられて、漫画フリークとしても心ざわめく楽しさがありますね。漫画は、この国にだけ繁栄している独特の豊穣な文化だと思います。これから、その文化を土台にした新しい文学が生まれるかも・・・なんて思うのも楽しい。このシリーズにはあと2冊、『魔導師の月』と『太陽の石』があるんですよね。楽しみです。

2011年4月刊行

東京創元社

 

 

 

 

ふしぎな八つのおとぎばなし ジョーン・エイキン クエンティン・ブレイク絵 こだまともこ訳 冨山房

「奇妙な味」の短編集です。ナンセンス、怪奇幻想、SF、神話・・・そのすべてをひっくるめての「おとぎばなし」。鮮やかなイメージを生み出す言葉の喚起力が半端なくて、読みだしたら止まらない。ブラックなスパイスも効いていて、とても好みです。特に好きなのは、『怒り山』と『冬の夜にさまよう』。心の奥底のぽっかりと空いた穴から、闇の匂いが吹き上げてくるような短編です。怖いのに、凝視する目が離せない・・・「魅入られる」というのは、こういうことなんでしょうね。暗い森の奥でたき火をしながら、誰かの昔話を聞いているような、そんな気持ちになってしまう物語たちです。

『怒り山』の頂上にある村に、八本足の馬に乗って片目の男がやってくる。彼は家々の石に指先で輪を書きつけた後に、村の井戸の横で骨接ぎを始めます。彼は村人に聞きます。「わたしの父は、死の床で、むすこになんといいのこしたのかね?」誰もその問いに答えぬまま、すべての治療を終えた男は、村人たちに引きずられて崖の上から突き落とされる。すると家々の石に書きつけられた輪が、ぎらぎらと真っ赤に輝きだし、そこで物語はおわります。どうやら、この男は、村であった『九つの火の戦い』と深い関係がありそうなのです。何かを全員で隠している様子もある。その何かとは、たぶん自分たちも直視するのが怖いほどの非人道的なことのような気配も漂います。開けてはいけない記憶の箱を封じ込めるかのように、村人たちは自分を治療してくれた男を崖から突き落とします。昔、何があったのか。そのあと、村がどうなったのか・・描かれなかったものが闇の中で膨れ上がるような見事なラストです。

最近、戦争関係などの本や資料を少しずつ読んでいます。目に見えていることの裏側にあるものの大きさと果てしなさに愕然とするのですが、同時に国家というもののあまりの人間臭さに虚を突かれたような気持ちになることが多い。どうやら、私たちは、自分で思っているほど理性的でも公平でもない。そして、自分たちがしてしまったことを直視するのはもっと怖い。この物語の村人たちのことも、私には他人事とは思えないのです。この物語を読んだ子どもたちは、もしかしたら、ただ怖いだけの感想しかその時には持てないかもしれない。でも、エイキンの刻む真っ赤に燃える輪は、その理不尽さと一緒に子どもたちの心に刻まれると思います。そして、人生のどこかで人間の残虐さに触れてしまったとき、その輪が語りかけることがあるのではないか。そんな気がします。

『冬の夜にさまよう』は、とても幻想的な物語です。気難しい粉ひきのバーナードは、木の彫刻を作ることに取り憑かれた男。とうとう、村のシンボルであるオークの木まで勝手に切り倒してしまいます。ところが、そのせいで、彼は朝一番に手に触れたものがことごとく木になってしまうという呪われた体になってしまう。一人娘アリスを木にしないために、納屋に寝かせていたのだけれど、アリスは夜な夜な森の中をさまよい、眠りながら歩く大きなくまと夜を過ごす・・・。

真っ赤な服を着て森をさまようアリスの姿と、ゆらゆらと眠りながら歩く大きなくまのシルエットが月明かりに重なります。物語の始まりから、アリスには月に魅入られたような不吉な影が射しています。彼女が木になってしまうことが運命のように彼女に縫いとめられているのを感じざるを得ないのです。その空気感の見事さ。ブレイクの挿絵と相まって、悪い夢のように美しく、引き込まれます。人間の男には一切目をくれなかったアリスが、なぜ森をさまようくまに心惹かれていったのか。なぜくまは、夜な夜なふらふらと歩いていたのか。単なる因果応報のお話ではない、人間のどうしようもない根っこのようなものとへその緒で繋がっているような、古い記憶を呼び覚ますような不思議なお話なのです。得体が知れなくて美しい。エイキンという人の懐の深さをしみじみと感じました。

ちょっと怖いお話ばかり取り上げましたが、幸せなお話も、宇宙をまたにかけるスケールの大きなホラ話も、ロマンチックなお話もあって、どれも楽しい。そして、どれも冒頭に述べたように、どこか奇妙な味を漂わせて、とてもセンスが良いのです。物語の力が横溢している、充実の短編集。子どもも大人も一緒に楽しめる一冊だと思います。

2012年12月刊行

冨山房刊

 

 

ことり 小川洋子 朝日新聞出版局

年末は、なんだかバタバタして忙しい。そんなに特別はことはしないでおこうと思うのに、一日が飛ぶように過ぎていきます。そんな中で、この本を読む間だけは、時間の流れ方が違います。いつもの窓から見る風景なのに、穏やかな日の光が美しすぎて、なんだか怖いような思いにとらわれることがあります。日常の中に潜む、不意に永遠と繋がる神聖な瞬間。小川さんの物語は、私がごくたまに遭遇する特別な回路を、開きっぱなしにしてくれます。さらさらと音がするほどの、質量をもった光が降り注ぐ特別な空間に私をいざなってくれるのです。その光には、深い死の匂いがします。何十億年という孤独な暗闇にはさまれて、僥倖のように瞬く命のきらめき。その儚さと確固たる美しさを、光溢れる鳥かごに閉じ込めて、ただ、存在させる。五感のすべてを使って味わう福音のような時間が、頁をめくれば、そこにある。やっぱり、これは奇跡というべきものなんだと思うのです。

小川さんの著書に『言葉の誕生を科学する』という本があります。この『ことり』で謝辞を捧げられている岡ノ谷先生と、「言葉」についての考察を重ねた本なんですが、その中で言葉の起源として挙げられているのが、鳥のさえずりです。歌うことができるのは、鳥とくじらと人間だけ。求愛のために奏でる音楽が、「言葉」に繋がっていくのではないかという仮説が小川さんの心に種を撒いて、この『ことり』という物語に育っていったような気がします。この物語の主人公の「小父さん」は、ポーポー語という自分だけの言葉しか話さない兄さんと共に暮らしています。ある日、人間の言葉を捨てて、自分だけの言葉を話し始めた兄さん。その言葉を共有することができるのは、小父さんと小鳥だけ。その時から、世界はふたりだけの孤独と輝きに満ち溢れます。そう、言葉は常に私たちと共にあり、自分と世界を繋げてくれるもの。そして、同時に私たちと世界を切り離すものでもあります。この世界を言葉ですくい取ろうとしても、どうしても言い表せないものが残る。言葉にすることで、わかったような気になってしまう。そして、言葉は誰かを傷つける最大の武器になる。同じ言葉を使っていても、どうしても分かりあえないこともある・・・というか、そのことの方が多かったりする。その時の徒労感というか、孤独と疲労は、何よりも私たちの心を蝕みます。世間と同じ言葉を持つ小父さんが、心無い人たちの噂話で白眼視されてしまうように。ささやかな、本当にささやかな司書の女の子との思い出さえも、始末書という紙切れで汚されてしまうように。それに引き換え、お兄さんは、自分の中に、誰の手あかもついていない無垢な言葉を持っていた。その奇跡は誰にも顧みられず、称賛もされず、お兄さんだけのものとして朽ち果てていく。でも、そのお兄さんと、小父さんとことりたちの過ごす小さな世界が、なんとかけがえのない美しさに満ちていることか。そこには、言葉と自分との乖離は無いのです。言葉を通じて、たくさんの人と繋がっているかのように思っている私たちは、本当にそうだと言えるのか。お兄さんの言葉は、ことりのさえずりのように、自分自身から生まれてくるものだった。そんな、自分自身と不可分な言葉は、ほんとうは誰とも分け合えないものなのかもしれないのです。そこを分かち合う人がいたお兄さんは、世界の誰よりも孤独に見えるけれども、本当は誰よりも幸せな人だったのかもしれない。お兄さんだけの耳に聞こえていた鳥の歌が、少しだけれど私の耳にも聞こえるような・・・果てしない暗闇に挟まれた一瞬の光の中に存在することの小さな幸せを味わいつくす喜びが、静かに胸に満ち溢れる。そんな物語でした。

ただ、存在すること。そして、歌を歌うことができること。それだけで奇跡なんだけれども、私たちはすぐにそのことを忘れてしまう。言葉は、誰かに愛情を伝えるために生まれたのに、そのことも私たちは忘れてしまう。この物語は、小父さんの亡骸から始まります。小さなことりの死のように、誰からも顧みられない小父さんの死。たいていの私たちは、そんな生を命を生きている。でも、その小さな命が響き合って奏でる音楽は、こんなにも美しい。最後にメジロが奏でた小父さんへの求愛のさえずりが、いつまでも胸に残ります。この間の選挙や、毎日報道されるあれこれを見ていると・・・なんだかとても恐ろしいのです。なんて自分がマイノリティであることかとしみじみ思って、無力感に押し流されそうになってしまう。でも、そんな中で小川さんの小説を読んでいると、自分の足元がどこにあるのかがわかるような気がします。小川さんが生み出す、小さくて悲しくて、孤独で、でもかけがえのない喜びに満ちた世界がともす灯りが、ひとつずつ誰かの胸に増えていく。そのことを願って・・・ささやかな、このブログの2012年のレビュー書き納めといたします。また、もう一本日記はあげたいと思っているのですが。どうなることやら(笑)

皆様、良いお年をお迎えくださいませ。

by ERI

 

ミラノの太陽、シチリアの月 内田洋子 小学館

ここのところ、ずっとパソコンの不調に悩まされていました。ちゃんと立ち上がらないし、すぐに固まってしまう。あれこれやってみても埒が明かないので、とうとうリカバリしました。しかも、リカバリディスクを紛失してしまったので、F10連打からのリカバリという原始的(?!)な方法で。おかげで何とか動くようになったんですが、設定のやり直しやWindowsの膨大な更新やらで、時間と手間が半端なくかかりました。慣れないことをするというのは、ほんと大変です。その作業をしながら、この本を読んでいたのですが、こんなパソコンひとつでも右往左往してしまう私にとって、さらっと異国で家を買ったり、パーティを開いたりしてしまう内田さんは、それこそ遠い月を眺めるような遥かな憧れの存在です。

このエッセイは、『ジーノの家』に続くエッセイの第二弾。緻密な香り高い文章はますます冴え、10編のお話は、まるで巨匠が撮った映画のように鮮やかにイタリアの風景と人間を浮かび上がらせます。私は体質的にお酒があまり飲めないのですが、上質のワインを味わう楽しみというのはこういうものかしらと思わせられる、贅沢な文章です。異国人ならではの眼差しと、深くその国を理解する知力と教養。心に刻んだものを、ゆっくりと熟成させる時間。それが結びついた稀有な文章だと思うのです。イタリアという国で、凛と背筋を伸ばして仕事をし、人との出会いを大切にして生きてこられた内田さんの豊かさが、文章から溢れてくる。「六階の足音」という章に、谷崎の『陰影礼賛』の話が出てくるのですが、イタリアという歴史のある国ならではの陰影の濃さに心が震えます。50年間秘めた恋をやっと叶えた喜びもつかの間、病に倒れてしまう女性弁護士。狷介な夫との長年の確執の象徴のような古い屋敷を守り通す女性の孤独。読み書きを学ばないままに生きてきた老練な一匹狼のような船乗り。小さな駅舎でつましく暮らしながら、確かな幸せを築いた一家・・・人生という思い通りにならない旅を続けながら、彼らがなんと自分らしく背筋を伸ばしていることか。彼らの目に映るイタリアの空と海の色が、見たこともないのに心に映ります。たとえどんな場所にいても、イタリアのいい女は高いヒールの靴をはいて美しく装い、まっすぐ風を受ける。内田さんもそうでらっしゃるのかなと勝手に想像します。

そんな孤独と誇りが香るイタリアもとても美味しいけれど、へたれな私は、滅多にない幸せな風景に惹かれます。この10編の中で特に好きなのは「鉄道員オズワルド」と「祝宴は田舎で」そして最後の「シチリアの月と花嫁」。「鉄道員オズワルド」の海の上に建っているかのような駅舎の家は、想像するだけで光溢れて「幸福」という捉えがたいものが幻のように浮かんでいるみたいです。「祝宴は田舎で」は、とにかく美味しい料理がこれでもかと押し寄せる贅沢な時間。そして、「シチリアの月と花嫁」は、映画の『ゴッドファーザー』を連想するような、痺れる一篇です。誰もが濃い血縁に結ばれた土地で、息を潜めるように日々を暮らす人たちの、ハレの一日です。この上なく清楚な美しい月の化身のような花嫁。その母の着る燃え上がるようなオレンジのドレス。ボルサリーノ帽にダークスーツの男たち。夜の中に浮かび上がる舞踏会・・招待の言葉は「あなたの来年の九月二十五日の予定は、私がお預かりしますが、よろしいか」。そのセリフを見事に形にして見せるイタリア男の実力に、くらっとしました。ずっとケばかりでハレのない私の人生(笑)一生縁のない特別な経験を共有させてもらえるなんて、なんて読書って美味しいんでしょう。この世のどこかに、そんな時間が、空間がある。そう思うだけで、とても豊かな気持ちになれる、素敵な一冊です。

2012年11月刊行
小学館

by ERI

デイヴィッド・アーモンド講演会 「想像から生まれる力」 

今日(11月3日)大阪府立中央図書館で、来日されているデイヴィッド・アーモンド氏の講演会「想像から生まれる力―国際アンデルセン賞作家、デイヴィッド・アーモンド自身を語る」という講演会がありました。こんな機会は一生に一度かもしれないと、張り切って行ってきました。

初めて拝見したアーモンドさんは、とても気さくなあったかいオーラを放っておられる方でした。会場に気軽な感じで入ってこられて、とても熱心にいろんなお話をしてくださって・・・何だか、ますますファンになってしまいました。アーモンドさんは日本が大好きで、岩手にも行ってらしたとか。宮沢賢治の詩が好きで、とてもインスピレーションを感じられるそうです。賢治が方言を使って物語を書いているところに共感してらっしゃるようで・・講演の中でも、故郷の風景や子どもの頃のお話をいろいろしてくださいましたが、彼の言葉のひとつひとつが、そのまま作品世界を連想させるものでした。空が、土が、spiritが呼び掛けてくる・・という言葉が印象的でした。

作品が好きで読みこんでいる作家さんのお話を聞くと、当たり前かもしれませんが、共感できるところがとても多いです。「ありふれた(ordinary )」という言葉をよく私たちは使うけれども、この世界にありふれたものなど、何もないということ。存在の奇跡ということにからめて、ウイリアム・ブレイクの「THE TIGER」という詩を朗読しておられましたが、ブレイクの詩は、イギリスでもアーモンドさんの著書に影響されて読む人が多いとか。昨日レビューを書いた『ミナの物語』の主人公ミナは、(登場人物は誰でもそうだけれども)自分の一部だと。そして、「私が作品を書くのを助けてくれる部分」だともおっしゃっていました。ミナの世界に対する無垢な驚きの眼は、そのままアーモンドさんの心の眼なんですよね。・・・うん、納得。

ご自分の作品がどんな風に生まれるかという話も、創作ノートを公開してまで説明してくださって、とても興味深いものでした。子どもたちにも、同じように創作について説明されるそう。それは、本は遠いものに見えるが、皆さんにも近づきやすいものだということを伝えたいからとか。「あなたも出来ます」ということを伝えたいのだとおっしゃっていました。いやいや、それは難しいよ、と思いながら、そんなアーモンドさんの姿勢が素敵です。いろんな作品のお話もしてくださったのですが、その中でも印象的だったのを一つだけ。

『肩胛骨は翼のなごり』のスケリグ。「あの不可思議な存在を思いつかれたきっかけは何だったのですか」という質問(実はこれ、私でした)に、シュン、と降りてきたんだと。(シュン、という擬音とジェスチャー付きでした)一冊本を書き上げてポストに投函し、頭の中は空っぽで、やれやれ、ちょっと休憩しようと思って10mほど歩いたところで、いきなりあの物語を思い付いた。机に向かって書き始めたら、スケリグが、いきなり頭の中にやってきたらしいんです。「どこから来たのかわからないけど」とおっしゃってました。びっくりされたらしい(笑)あの物語は、書いている間、自分でもどうなるのかわからなかったと。あの作品をよく「巧みだ」と評されることが多いけれど、「その通りだよね」と笑ってらっしゃいました。『肩甲骨は翼のなごり』は、どうもとてもお気に入りのようです。5歳の頃に、氏の肩胛骨をお母様がさわって、「これはあなたが天使だったときの名残りよ」と言ってくれたと。そのことは忘れられないとおっしゃってました。あの物語には、そんな想い出も込められていたらしいのです。だからこそ、より特別な作品なのかもしれません。

既にイギリスでは出版されている著書を幾つか見せてくださったのですが、どれも涎が垂れるほど読みたいものばかり・・・どうか、日本でも出版されますように。これから書きたいものも、山のようにおありになるとか。嬉しいなあ。

「物語は楽観主義と希望から生まれる」「物語は崩壊に向かう力を押し戻すもの」「人間は物語を語るもの。人は人である以上、物語を語り続ける」

この言葉に、アーモンドさんの物語に対する信頼と愛情、物語を生みだすものとしての気概を強く感じました。参加できて幸せでした。アーモンドさん、ありがとうございました。そして、この機会を作って頂いた関係者の方々に、心からお礼を申し上げたいと思います。本にサインまでして頂きました~!幸せ・・・。

by ERI

 

ミナの物語 デイヴィッド・アーモンド 山田順子訳 東京創元社

大好きな『肩胛骨は翼のなごり』のミナの物語・・・もう、この惹句を読んだとたん、アマゾンでぽちっとしてしまったこの本。ひとつひとつの言葉が、優しい雨のように、木漏れ日のように心に降り落ちて、沁み込んでいくのです。生まれおちて初めて空や海を見る幼子のように新鮮な眼で全てを見つめ、言葉を紡いでいくミナ。私はミナと一緒に、この世界の不思議を見つめます。何て豊穣なミナの世界!原題は『My NAME IS MINA』。ミナが自分のノートに綴った心の記録が、この本です。

ミナは、常に考えています。ミナのお母さん曰く「自分の意見や見解を持っている子」なんです。いつも驚きを持って自分と世界を見つめている彼女にとって、毎日は冒険。思考は果てしなく展開し、心はフクロウのように翼を広げてどこまでも飛んでいこうとする。その自由さといったら!この本は、ミナのノートそのものという設定で、そこがとても楽しいのです。ぴょんぴょん跳ねるウサギのように、楽しく跳ねまわる彼女の視線。美しいもの、素敵な言葉を見つけると、一直線に走り寄って言葉にせずにはいられない。

「この刺激的で、すばらしくて、不可思議で、美しくて、息を呑むような、驚きに満ちた、ゴージャスで、いとおしい、あたしたちの世界をみつめよう!」

ミナの心を書き写すアーモンドの筆は、冴えに冴えます。月の夜。地下の坑道。お気に入りの木の上。埃だらけの隣の家(そう、マイケルが越してくるあの家です)まで、ミナにとってはこの世の不思議を内包する、存在の輝きに満ちた特別なもの。その心の軌跡を、少女の瑞々しい瞳が見つめるままに書きとっていきます。この本は、ミナの心の自由そのもの。その眼差しに心を重ねるのは、心躍る体験でした。しびれた足のように堅くなっている心に血が巡る感覚・・・ル・クレジオの『地上の見知らぬ少年』のように、この世界をはじめて眼にする新鮮な喜びに、心が躍りました。ミナと一緒にこの世界を愛せる気持ちになれるんです。まだ少女であるミナの世界は、物理的に言うとほんの狭い場所なんですが、彼女の心の旅はどこまでも広がっていく・・そう、本の世界と同じです。

でも、そんな彼女は、学校という場所では異端者です。ミナにとって学校は鳥籠。彼女の羽を縛る恐るべき場所。「標準学力テスト」とミナが折り合うはずもありません。「標準」という言葉で、たった一つの価値観で、子どもを評価しようとすることに、ミナはことごとく反発します。「上手くやる」「人に合わせる」ということが全く出来ない。心に自由の翼を持つ彼女は、現実世界では落伍者なのです。ミナは、学校にいかずに、家で母の教育を受けています。今は、それでいい。でも、いつまでもそのままではいられないことも、わかっているのです。自分の心の王国では女王であるミナも、いやいや行ったフリースクールでは、おびえ、戸惑うちっぽけな女の子。

「“成長する”ことは、すばらしくて胸がどきどきするけれど、同時に、決して簡単なことではないのだろう。こんちくしょうにむずかしいことなのだろう」

自分だけの心の世界から、誰かと共有する世界へ。しなやかな心は、別の魂と出逢いたくてうずうずする。でも、繊細すぎる感性は、傷つくことを恐れ、伸ばした手を引っ込めようとする。そんなミナの葛藤が、アーモンドならではの細心さで書き綴られます。差し出そうとする手をそっと抱き寄せるようなアーモンドの優しさは、少女や少年と呼ばれる年代を生きる子たちの心に必ず届くと思います。

この本は、マイケルと新しい物語を始める、その日までの物語。彼女が、その手で新しい扉を開く、その瞬間までを綴ります。新しい扉を開いたミナは、マイケルと、スケリグと出逢い、「不可思議な存在」がもたらす奇跡を分け合います。そう。人と出逢い、勇気を出して心を繋ぐことで、世界は広がっていく。傷つきやすい魂の苦しみを見つめながら、生きる喜びを心いっぱいで抱きしめようとするアーモンドの詩情に、心深く打たれる一冊でした。この本を読んで、再び『肩胛骨は翼のなごり』を読むと、感動がひとしお。そして、またこのミナの物語を読み・・という、循環に陥ってしまう、きっと折に触れて読み返す大切な本になりそうです。山田順子さんの繊細な訳に感謝です。

明日(もう今日になってしまったけれど)は、大阪の中央図書館で、この作品の著者デイヴィッド・アーモンドの講演会があるのです。もちろん行きます!また、お伝えできることがあったら報告しますね。

2012年10月刊行

by ERI

夜の小学校で 岡田淳 偕成社

夜の小学校には、昼間とは違う時間が流れています。この物語は、夜の小学校の中から生まれたちょっと不思議な短編集。頁をめくるたびに、新しい扉が開きます。そこから吹いてくる風は、心に幸せなざわめきを残していくのです。御自身の手による素敵な挿絵と一緒に、大好きな岡田ワールドに浸りました。

主人公の「僕」は、桜若葉小学校というところで、夜警の仕事をすることになります。にぎやかな子ども達の声が溢れている昼間とは、違う顔をしている夜の校舎や校庭。そこには、不思議なお客様がやってくるのです。ほんとに夜の小学校で、こんなあれこれに出逢ったら・・・きっと、ちょっと怖い。でも、その隠し味のような怖さが、物語の醍醐味です。岡田さんの物語には、『二分間の冒険』『選ばなかった冒険』『ふしぎの時間割』など、学校を舞台にしたファンタジーがたくさんあります。『二分間の冒険』『選ばなかった冒険』は息子たちも大好きで、何度も何度も読みました。小学校を舞台にしたファンタジーは、岡田さんの魅力溢れる独壇場なのです。子どもたちにとっては、人生の半分を過ごす場所が学校です。いつもの見慣れた風景である学校。でも、ふと忘れ物を取りに帰った夕方の教室や、いつもは来ない日曜日のがらんとした校庭、気分が悪くなって行った保健室のベッドに寝転がって見上げた空の青さに、ふっと違う時間の流れや空気を感じてしまう・・・それは、生まれて初めて感じる異世界への、つまり物語への扉。一瞬で見失いそうになるその扉を、岡田さんは絶妙なタイミングで開けてみせます。長年小学校に勤務されて、学校の隅々まで知りつくしておられる、ということもあるかもしれません。そして、その長年過ごしておられた場所を見つめる瑞々しい眼差しと感性が、素晴らしいと思うのです。

この物語の「僕」は、若い頃の岡田さんご自身が投影されているようにも思うし、これから物語を書こうとする人、これから未来を切り開いていこうとする人への、優しい励ましも投影されているように思います。アライグマに「いろいろなしごとをしたことが力になるんですね」と言われて、「―そうだったんだ」と気がつく僕。日常の中に潜む不思議を発見する。それは、見慣れた風景を一変させる物語の力を得ることに繋がっていくのでしょう。『図書室』という短編では、本たちが静かに扉を用意して、開けてくれるのを待っています。学校という場所は、子どもたちにとっていつも幸せなところではありません。自分の小学生の頃を思い返してみても、まことに生き抜くのが大変だったとしみじみと思うのです。同年齢の子たちが何十人もひとつの部屋に揃う、あの人間関係を思い出しただけでも、もう無理と思ってしまう(笑)大人になった今なら、笑い話ですみます。でも、学校という逃れられない密室で自分の居場所がゆらぐ、あの不安は、真剣に辛いものでした。でも、本という扉を開ければ、私はいつも自分だけの時間を過ごすことが出来た。そこには、果てしない自由がありました。今、子どもをめぐる環境は、のんびりしていた私たちの頃とは比べ物にならないほど様々な難しさに満ちています。だからこそ、本当はもっと物語の力は必要なのだと思うのですが・・・児童文学というジャンルにおける物語の紡ぎ手は、少なくなってきているようにも思います。児童文学では食べられない。出版部数も限られていて、大人の文学に比べると、あまり注目されなかったりします。でも!でも、です。子どものときに、胸がわくわくするような物語に出逢わなければ、大人の本を読む人口だって、減ってしまうと思うんですよ。岡田さんも、密かにそんな危機感をお持ちなのかもしれないな・・・この本を読みながら、そんなことを思いました。

主人公の「僕」は、大好きな『ドリトル先生航海記』の扉を開けて、幸せな気持ちになります。

「本はいつだってああして待っているんだ」

子どもの心を受け止め、、時間と空間を超えて新しい場所に連れていってくれる・・・そして、懐かしい友達のように、いつも変わらずそこにいてくれる、本。本は一生の友達になってくれます。心から本を愛する岡田さんの気持ちが、溢れてくるような一冊でした。

by ERI

2012年10月

偕成社

さがしています アーサー・ビナード 写真・岡倉禎志 童心社

ここに映されている「もの」たちは、かっては人の体温に寄り添っていたものたちだ。お弁当箱。鼻眼鏡。手袋。日記。帽子・・・。本来なら、人生の時の中で、ゆっくりと持ち主に寄り添い、役立ち、共に朽ちていくはずだった「もの」たち。でも、彼らが寄り添っていた人たちは、あの広島の暑い夏の日に一瞬で消えてしまった。だから、彼らの時間は止まったままなのだ。彼らは原爆資料館にいて、小さな椅子が彼だけのイーダを待っていたように、ずっと持ち主を待っている。彼らはもの言わぬけれど、確実に持ち主だった人と繋がっているのだと思う。その証拠に、これらの写真を見ていると、彼らが生き帰って、役目を果たしている情景がむくむくと浮かんでくるのだ。「もの」が語るものを、こんなに鮮やかに浮かび上がらせた関係者の方々の心が深く感じられる一冊である。

巻末には、ひとつひとつの「もの」たちの由来が、持ち主の名前とともに語られている。これらの道具を使っていた個人を紹介することは、そのたったひとりの不在を強く意識させる。でも、ひとつだけ、その名前がない写真がある。銀行の階段についた、黒い影である。朽木さんは『八月の光』の中で、この影が、この世界でたったひとりの名前のある存在であることを浮かび上がらせていた。そのことについては、また後で述べようと思うけれど、ここには、永遠の不在が焼き付けられているのだと思う。ここに座っていた人が誰だったのかは、ほぼ特定されているそうだけれど、生前手元に置かれていた道具たちが「生」を繋がっていたのに比べて、この影は「死」にだけ結びついている。そのせいか、とても孤独で悲しい。

「死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名前を呼ばれなければならないのだ」と、シベリアの収容所で捕虜として暮らした石原吉郎は言う。人は尊厳を踏みにじられるとき、必ずその名前をはく奪される。その昔、初めてこの影のことを知ったとき、私が感じたのは原爆の威力の恐ろしさだけだった。でも、今、私はこの写真から、名前を持たない死、ジェノサイドの恐ろしさをひしひしと感じてしまう。そして、それは表紙の鍵が語るように、どちらが加害者だとか、被害者だとかという理屈を超えて私たちが考えなければならないことなのだろうと思う。

表紙の鍵は、10名の米軍兵士が収容されていた独房の鍵だ。原爆で、その収容されていた兵士も死んでしまった。異国の地で、独房に入れられたまま被爆した彼らは、どんな思いで死を迎えただろう。死の前には、国同士の事情など関係ない。国と国との関係は、まるで人同士のそれのように語られる。しかし、私たちが「あの国って・・・」と語るとき、そこから大切なものがこぼれおちてはいないだろうか。国同士の感情や国益が踏みつけにする現場に、生身のむき出しの体で実際に身を置く恐怖を、この鍵は語っているのではないかと思う。この表紙の鍵は、大切な命を閉じ込めた鍵。でも、だからこそ、大切なことを教えてくれる鍵なのではないかと思うのだ。「ヒロシマ」は世界共通の大切な遺産だと思う。世界が一瞬で繋がるグローバルな時代に、もっともっと語られねばならないことだと思う。

この絵本の話題から外れるのだけれど・・・この名前を持たない死について、考えていることがあるので自分の覚書も兼ねて書いておきたい。夏ぐらいから、ずっとしつこく石原吉郎の『望郷の海』『海を流れる河』、フランクルの『夜と霧』を読んでいる。そこで報告される収容所における徹底的な抑圧は、まず名前を奪われるところから始まる。そこには、個人としての生も死もない。そこから始まる悲惨を読みながら、私は朽木さんの『八月の光』に収録されていた『水の緘黙』の登場人物たちが名前を持たないことについてずっと考えていた。夏に書いたレビューでは、私はそこを「たったひとつのかけがえのない記憶であると同時に、大きな普遍性を持ちながら立ちあがっていくようなのだ」と書いた。でも、どうやら、この物語の登場人物たちが名前を持たないのは、それだけではなく、もっと深い意味があるのではないかと今は思っている。主人公の青年は、あの日に一人の少女を見捨てたという苦しみから、自分の名前も想い出せなくなってしまう。生きながら、名前のない存在になってしまうのだ。それは、この社会からも切り離された存在になってしまうということ。深い孤独の闇にたった一人残されてしまうことなのだ。この『八月の光』の中で生き残った人たちは、それぞれにあの日の記憶に苦しんでいる。それは、あの日の自分が人であって人でないように思えるから。人が人でなくなるとき、死者も生者もその名前を奪われてしまうのだ。

ここまで書いて、以前読んで心のどこかにひっかかったままの『乙女の密告』(赤染晶子)のことを思い出した。あの小説のラストで、乙女たちが「アンネ・フランク」という名前を呼ぶのは、彼女が名前を奪われてしまったことへの糾弾だったんだな、と。そんなことに今頃気づく私はアホですが(汗)あのレビューで、私は現代に生きる彼女たちの幼児性と、アンネ・フランクという存在を結び付けていいのか、というようなことを書いた。でも、それは今になって間違っていたなあと思う。中国との尖閣諸島をめぐっての争いや現大阪市長の言動を見るにつけ、大きく鬱積された不満がいかに幼児性と結びつきやすいかを実感するからだ。ヒロシマも、シベリアも他人事でもなく、遠い歴史上のことでもない。当たり前に、私たちのすぐそばに転がっている、それこそひとりひとりの心の中にも潜んでいることなのだ。この絵本の作者であるアーサー・ビナードさんは、「ピカドン」という言葉に生活者の実感を読みとられた。それは、生身の体で感じた恐怖だ。頭で、机上の理論をこねまわしているだけでは、私たちはかえって自らの幼児性に振り回されてしまうことになるんじゃないか。自らが体で感じること、そこをしっかり踏まえないと、また私たちは怖ろしいところに踏み込んでしまうのではないかと、自分の弱さを振り返るにつけ、そう思う。

・・・・・長い文章になってしまった。重く長い文章に最後までお付き合いいただいた方、ありがとうございました。

2012年7月
童心社

by ERI

とにかく散歩いたしましょう 小川洋子 毎日新聞社

小川さんの新刊『最果てアーケード』を、発売してすぐ買い、ちびちび、ちびちびと読んでいて、まだ終わらない。小川さんの物語は、私にとっては美味しい美味しい飴ちゃんのようなもの。言葉のひとつひとつを口にいれて転がして味わい、そっと舌触りを楽しむ。長期間枕元に置いて、あちこち拾い読みしたり、また一から読んだり、そんなことをしながらいつの間にか自分の中に溶け込んでしまうことが多いので、必ず買って読んでいる割にはレビューが書けなかったりする。言葉があまりに緊密に結びついて物語世界を作っているので、それを他の言葉に置き換えて語りにくい。谷川俊太郎が石原吉郎の詩に対して言った言葉に、「この詩は詩以外のなにものでもない。全く散文でパラフレーズ(語句の意味を別の言葉で解説すること)出来ぬ確固とした詩そのものなんです」というのがあって、なるほどと思ったけれども、そういう意味では小川さんの文章は私にとって詩に近いものかもしれない。きらめきながら一瞬で消えていく風景を見つめ続けるようなもので、ただひたすらそこに自分を失くして埋没してしまうのである。

一方、これはエッセイなので、図書館で借りたのです。そうなると返却期限があるので割と早い時間で読めるのだけれど、いちいち個人的に気になるところが多くて付箋だらけになり、こらあかんわと、やはり購入決定。アゴタ・クリストフが母国語ではないフランス語で『悪童日記』を書いたことが、子どもの言葉の魅力に繋がっていること。漱石の小説の主人公たちが、とにかく散歩ばかりすること。ポール・オースターの声が、とても魅力的なこと。(これは、お友達にまず教えてもらったことだけれど・・・彼は、また好みのタイプの男前!)等々、「そうそう、そうなんよ!」と、自分がいつも思っていたことを、小川さんの的確、かつ美しい文章で綴られているのを読んで、思わず小川さんの肩を叩いて「わかる~~!」と言いたくなったり、やられたわ~、と思ったり(笑)共感と羨望、というのが一番はまるエッセイのあり方だと改めて思ったことだった。

中でも「そうそう!」度が高かったのが、「巨大化する心配事」という項。重大な問題だと、かえってあまり思い煩ず、なりゆきにまかせたりするくせに、ちっさな心配事が膨らみだすと、気になって気になって仕方ない。外で友達とランチしていても、ふっと「あの借りた本、どこに置いたかな」とか「あの受け取り証、もしかして今朝ごみに出してないよな」とか思いだすと、ぶわん、と心配の風船が膨れ上がって私を圧迫してくる。始めて車で出かける場所というのも果てしなく緊張する。あそこで右折するのに車線変更がちゃんと出来なかったらどうしよう、とか思いだすと寝られなくなったりする。ところが、心配性だから失敗しないかというと、ところがどっこい、そうではないところが我ながら悲しい。この間も、コメントでご指摘して頂いたように、レビューを書いた本のタイトルを間違って書いていたりするんである。正直、あれには落ち込みました。本文をどれだけ一生懸命書いても、タイトル間違えてたらしゃれになりませんから!ほんとに失礼なことですよね。ああ・・情けない。でも、どうやら小川さんも同じ性癖をお持ちらしい・・・いや、小川さんは私ほどおバカさんではないだろうが、この「そうそう!」は、落ち込んだ心に沁み入った。小川さん、ありがとうございます。

小川さんは、彼女にしか聞こえないないような、ひそやかな小さな声に耳を傾ける。私は、ビクターの犬のように、少し頭を傾けて、聞こえない音に耳を澄ませる小川さんを想像して敬虔な気持ちになる。小川さんが小説という形で、それを私たちに伝えてくれることに感謝する。小川さんの小説がなかったら、私はあの美しくも怖ろしい、でもなぜか私の座る小さな椅子がある世界を手に入れることが出来なかったのだから。この世界は、スナフキンが言うように平和なものじゃない。小川さんの小説は、生きていくのがどうもあんまり上手くない私の傍にいて、寄り添ってくれる。「とにかく散歩いたしましょう」と小川さんを連れて歩いた犬のラブのように、私を別世界に連れていってくれるのである。小川さんの世界を旅すると、私は穏やかな充足に包まれる。

こんなことをやって、何になるんだろう」と、ふと無力感に襲われるようなことでも、実は本人が想像する以上の実りをもたらしている

小川さんのこの言葉を勝手に心の糧にして、今夜は眠ろう。少しでも、そんな自分でいられますように。

2012年7月刊行 毎日新聞社

by ERI