12種類の氷 エレン・ブライアン・オベッド文 バーバラ・マクリントック絵 福本友美子訳 ほるぷ出版

もうすぐソチオリンピックがありますね。「がんばれ!日本!」みたいな応援の仕方はあんまり好きじゃないのですが、フィギュアスケート好きとしては、今度の五輪は見逃せないでしょう。テレビで放映される大会は全部見ているので、外国の選手にも好きな方がたくさんいるんですが、一番好きなのは、やっぱり大ちゃんこと高橋大輔選手。彼の最後のオリンピックですから。年末の代表選考はやきもきしました。彼はアスリートで、演技を数値化される競技でぎりぎりの闘いをしているのですが、生まれながらのダンサーで身体が物語を語るんですよね。そこにいつもドキドキしてしまう。その分、失敗も多くてドキドキしますけど(笑)高橋大輔選手と浅田真央選手のスケーティングは上手く言えないんですけど、他の選手と全く違うものを感じます。他の選手はスケートを愛しているんですが、彼らはスケートに愛されてるなあと思うんですよね。氷が彼らに滑ってもらいたがってる。彼らが、氷の上で流れるように滑っているだけで、うっとりする。それを見るのが至福です。二人がヘンなナショナリズムに巻き込まれないで、オリンピックで楽しく、のびのびと滑ってくれたらいいなと思うんですけど。ほんとに応援しているファンは、メダルの色がどうとか言わないんですよね、きっと。オリンピックのときだけやたらに愛国主義になる人たちに振り回されませんように。

前置きが長くなりましたが、これは、そんな氷を愛してやまない小さなスケーターたちの本です。冬を迎えて、初氷が出来ると子どもたちは期待に胸がいっぱいになるのです。それは、スケートができるから!この本には、そんなスケートの楽しみがいっぱいに詰まっています。小川の上をずっとたどっていくスケート。分厚い氷が張った池の上を走るスケート。そして、自分の家の農園にスケートリンクを作って(凄い!)そこで近所の友達とフィギュアスケートやアイスホッケーをする楽しみ。日常の中にこんなにスケートがある喜びが溢れているなんて、なんて幸せなんだろうと思います。空と、風と、森と、溶け合うように滑る楽しさ。私はスケートは屋内のリンクでしかしたことがなくて、しかも下手っぴであまりスピードを出せませんでしたが、スキーは結構経験があります。冷たい風の中で、きらきら光る白い世界を山の景色を見ながら滑り降りていく楽しさ。耳元で風がうなりをあげるほどスピードを出す感覚。もうこの年齢でそんなことをしたら危ないだろう私には、もう体感できませんが、この本の中で思い出せて嬉しくてぞくそくしました。

銀のスピードが出るまですべると、肺と足が、雲と太陽が、風と寒さが、みんないっしょにきょうそうしているみたいになる。

うん、そうそう!楽しいんだよねえ。自分の身体で掴む、確かな弾む喜びが、この本には溢れています。子どもが身体を思い切り使って喜びを感じる幸せの大切さ。それをさりげなく支える大人の心遣い。それがとても美しい絵と文章で綴られています。

児童文学には、スケートがよく登場します。フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』の川をスケートで渡っていくシーンの美しさは格別ですし、『ピートのスケートレース』(ルイーズ・ボーデン 福音館書店)の少年の冒険も忘れられません。メアリー・メイプス ドッジの『銀のスケート』(岩波少年文庫)や 『 楽しいスケート遠足』(ヒルダ・ファン・ストックム 福音館書店)も好きだなあ。こんなにフィギュアスケートが好きなのは日本人だけかも、といつも満杯のテレビ中継を見てて思うのですが、スケートを長く愛してきた国のことを、こんな物語からたどってみるのも、また楽しいと思います。

光の井戸 伊津野雄二作品集 芸術新聞社 

あけましておめでとうございます。

2014年の年明けです。どうか穏やかな一年になりますようにと、ほんとうに祈るように思います。今日は地元の氏神さまに初詣に行ってきました。小さなお堂に手を合わせていると、この地に住んで一度も大きな天災に遭ったこともなく、ご近所の方達もいい方ばかりという幸運に恵まれているということに、遅ればせながら気がつきました。25年も住んで今頃気がつくんかいな、という感じですが(汗)こういう小さなことにしっかり心の碇を下ろしておくことが、今とても大切な気がします。

心の碇というと、最近ずっと手元に置いて見ている本があります。伊津野雄二さんの作品集『伊津野雄二作品集 光の井戸』です。手垢でこの美しい本を汚してしまいたくないんですが、つい手が伸びて、頁をめくってしまう。この作品たちから溢れてくる耳に聞こえない音楽に心を澄ませていると、心がしんと落ち着いてくるのです。静かな表情を浮かべて、ゆったりと姿を現す女神のような作品たちに見惚れます。伊津野さんは、美しい彫刻を作ろうとして、これらの作品をお造りになっているのではないと思うんです。海が少しずつ石を刻んでいくように。風が砂に模様を描くように。星がゆっくり軌跡をたどるように。生まれて死んで、命を重ねて紡いでいく時が生み出すかたちに近いもの。日々命の理(ことわり)に耳を澄ますものだけが生み出せる、かたちを超えたかたち。「うた」という、少女の頭部がまるく口を開けて歌っている作品があります。彼女(と言っていいのかどうか)の声は聞こえないんですが、きっとその歌は太古の昔から鳴り響いているに違いないと思う。崇高なんですが、人をひれ伏させる気高さではなく、木や土の暖かさに満ちた慈愛を湛えています。「光の井戸」という言葉が指し示すように、伊津野さんの作品に溢れている光は、天上から射してくるのではなく、私たちの足下にある大地から生まれているように思います。そのせいでしょうか。穏やかに微笑む女性の面影は、どこか懐かしく慕わしい。伊津野さんの作品を見ていると、魂の奥底が共鳴して震えます。その分、時にいろんな負の感情や打算や、大きな流れに押し流されがちになる私の上っ面がよく見えるのです。「美」ということについて、最近特にいろいろ考えているのですが、人間がなぜ「美」を探し続けるのか、それはやはり「美」が太古の昔から私たちを支えるものであり、唯一私たちに残されている可能性そのものだからではないかと思うのです。伊津野さんの作品には、その可能性が溢れています。

かく言う私は見事に俗人で、年賀状の印刷のことで夫と小競り合いはするは、耳が悪いのになかなか補聴器をつけない母に「危ないやんかいさ」と小言をいうは、仕事に行けば、何度も言ったことを間違える同僚に「ええ加減にしてえや」と腹立つは、「明日は特売日やから、牛乳買うのは今日はやめとこ」と10円20円をケチる、そりゃもう、吹けば飛ぶようにちっさな器の人間です。でも、伊津野先生(とうとう先生、と言ってしまった)の作品を見ていると、このちっぽけな私の奥底に、伊津野先生が命を削って形にしておられるものと響き合い、水脈を同じにするものがあることを感じられるのです。それを知覚し、心の碇として自分の芯に鎮ませておくこと。例えば、マイケル・サンデル教授が授業で受講者たちに突きつけるような、正義の名をつけた残酷な二者択一を迫られたときに、この永遠を感じさせる美しさを思い浮かべることができたら。私は少なくともその正義の胡散臭さを感じることは出来るだろうと思うんですよ。

「差異のみがめだつ現代ですが伏流として在る共通のゆたかな水脈に繋がるために、自らの足元を深く掘り下げることが望まれているのではないかと考えています」

これは、伊津野先生自身の後書きの文章の一節です。ちっぽけな自分という目に見える現実に流されないように。「足元を深く掘り下げる」営みとして、今年も本を読み、じっくりと考える一年にしたいと思っています。

皆様にとって実り多い一年になりますように。今年もよろしくお願いいたします。

紙コップのオリオン 市川朔久子 講談社

母親というものは、当たり前のようだが家庭にとっては大きな存在だ。良くも悪くも家庭というものの中心にいて、家の中を丸く治めてしまう存在でもある。特に食欲で一日が回っているような男子中学生にとっては、例えもやもやとしたものがあったとしても、母親がいて帰ったらご飯が出てきて日常が回っていると「ま、いっか」といろんなことをやり過ごしてしまったりするだろう。しかし、この物語ではまず冒頭でその母親が「やるなら今でしょ」的な書き置きを残して、冗談ではなく本当に旅に出てしまうのだ。同じ母親の立場から言うと、思い切ったなあと関心してしまう。もっとも、なぜ母がそこまで思い切ったのかもこの物語の伏線として最後にわかることになるのだが。母親の不在でぽっこり空いた穴は、これまでうやむやにしてきた父親との関係を浮かび上がらせる。そして、少し日常から外れてしまった視点は、学校という「埋もれるのが勝ち」の世界で少しだけ自分と彼に関わる人を変えるきっかけを主人公の少年に与えるのだ。日常の中にある、ささやかだけれども大きな意味を持つこと。それに気付くことで起こる変化のダイナミズムを描き出した素敵な物語だった。

主人公の論里は、父親とは血が繋がっていない。思春期になり、これまでのように無邪気に父親に向かいあうことが出来なくなってしまった論里は、母の不在によって、父親との仲がぎくしゃくしてしまう。シングルマザーだった母と結婚することが世間的にどんな意味を持つかがわかってしまう年頃なのである。論里は自分の存在が父親にとって迷惑なのではないかと内心怖くてたまらないのだ。そんな中、論里は創立行事委員会で、ふとキャンドルナイトを提案してしまい、面倒くさいと思っていた行事に主体的に関わっていくことになる。そのきっかけは、同級生の女子、白(ましろ)がキャンドルナイトを「あたし、ほんとにいいと思う」と言ってくれたことだ。白は、その名前のように皆から「変わってる」と思われている。「気になっていることはすぐに突き詰めちゃう」性格の白は、でしゃばりだとか、テンポが合わないと思われているらしい。白は自分が大切だと思ったことにまっすぐ向かっていこうとする性格なのだ。委員会でキャンドルナイトで何を描くのか、という話になったとき、「絆」といういかにもそれらしい提案に流れかけるのだが、白は果敢にも「めんどくさいな」という空気に負けず、「あたしは、なんか、嫌です」ときっぱり言う。皆でやる行事だからこそ、お弁当のプチトマトのように「みんな入れてるからそれを入れてれば安心」という安易な言葉に乗っかりたくない。その思いを、論里は受け止めるのだ。

この世界はとても複雑に出来ている。家族と一口に言っても、論里が母親の気持ちを全く知らなかったように、自分を育ててきた父親の気持ちがわからないように、見せている顔はごくわずかだ。小学校の時に仲良しだった大和が学校を休みがちなのも、多分本人にも論里にもどうしようもない家庭的な背景がある。それをきちんと見つめていくことは、白のように人との軋轢を生む結果になったりするし、論里のようにしなくていいことを背負わなければならなかったりする。損得―今風に言えば「コスパ」で考えたら効率の悪い、損なことなのかもしれない。しかし、白の思いを叶えたいと思ってはまり込んだキャンドルナイトは、論里に「やろうという意志を持って動き始めると確実に物事は動きだす」ということを教えてくれる。面倒だと思っていたことも、誰かのためにと思ってやり出したことも、自分の手で成し遂げれば大きな実りをもたらすこと。その実りは自分以外の人も幸せにする力を持つこと。論里は自分という小さな星を、他人の星と繋いでいく一歩を踏み出したのだ。物語のクライマックスであるキャンドルナイトはとても美しい。論里と白の想いがぴったり重なる告白のシーンも、とても印象的だ。誰かを大切に思うことは、迷惑や損得で割り切れることではない。論里の胸の中に芽生えた恋心、「好き」と想う気持ちは、この世の中で一番大切なダイナミズムなのだ。自分に大切なことを教えてくれた白への想いを、「好き」という言葉を使わずに現したこのシーンは、とても素敵だ。

星座とは見ようとしなければ見えない。人の心も、世の中の動きも、やっぱりそうなのだ。昆虫好きでマイペースな妹の有里や、笑顔がさわやかで完璧そうに見える進藤先輩や、調子が良くていつも賑やかな同級生の元気も、皆どこかしらでこぼこや痛みを持っているのだ。それをめんどくさいと見ないようにしていると、大切なものを見失う。そこにあるものを新しい眼差しで見つめること。そうして自分で発見したことだけが、自分の中で経験になって新しい星座になって輝き出す。

「考えてみれば水原は、いつも自分の言葉に勇敢だった」

私はこの一節がとても好きだ。自分の言葉を大切にする、この勇気がないと心は枯れる。枯らそうとする圧力がやたらに多い息苦しい今、小さな勇気が灯したかけがえのない光を描き出す市川さんの繊細さが胸に染みる物語だった。

2013年8月刊行

講談社

おいでフレック、ぼくのところに エヴァ・イボットソン 三辺律子訳 偕成社

たくさんの物に囲まれて何不自由なく暮らしていても、心が空っぽなハルという少年がいます。彼は犬が欲しいと両親にお願いしますが、贅沢な家が汚れるのが嫌いな母親はそれを許しません。でも、どうしてもと願うハルに、両親は彼にレンタルであることを隠して犬を与えます。ところが、そのフレックという犬は、少年にとってはたった一匹の運命の犬だったのです。しかし、両親は残酷にもだまし討ちのようにして、二人を引き離します。とことん家族に絶望したハルは、自分の手でフレックを取り戻し、彼を理解してくれる祖父母のところに旅することを決意します。この物語は、自分で生き方を決めるために一歩を踏み出す犬と少年のお話です。

子どもって、ハルのように家出したい、と思う気持ちを願望のように持っているものではないかと思うのです。この物語で、ハルの両親、特に母親はとても愚かな面を強調して描かれています。新しもの好きで、お金持ちで、息子にたくさんのモノを与えるけれど、彼が何を望んでいるのかは考えたことがない。それなのに、「こんなにあの子のために色々しているのに」と思ったりする。確かに嫌な人たちなのですが、うーん、親ってこういう愚かなところ、ありますよね。こんなに極端ではないにしろ、自分の価値観が先走って、子どもの心を置き去りにしてしまうことはよくある話です。自分の子育てを振り返っても、あったなあと今更ですが思います。親子であっても―いや、時に親子だからこそ、お互いが違う人間であるということをちゃんと認識して認め合うことは至難の業です。多かれ少なかれそういう親子のしんどさは、誰でも抱えている普遍的な問題でもありますし、また、「自分は親とは違う」と思うことは、思春期の入り口に立つ子どもたちが初めて出会う人生の課題でもあるでしょう。それだけに、この物語に丹念に綴られているハルの絶望と怒り、フレックを愛する気持ちは、子どもの心を捉えて放さないのではないかと思うのです。

ハルはフレックと、おてがるペット社に閉じ込めれられていた4匹の犬たち、そしてピッパという少女と共に、自分の居場所を求めて旅に出ます。セントバーナードのオットー、プードルのフランシーヌ、コリーのハニー、ペキニーズのリー・チーとしっかり者のピッパという個性豊かな彼らが転々としていく旅は、ハルの両親が雇った探偵たちからも追われる、なかなか苦労の多い旅です。でも、ブレーメンの音楽隊のように、みんなで困難を乗り越えていく痛快さがあって、一瞬たりとも目が離せません。印象的なのは、この旅の中で、4匹の犬たちがそれぞれ自分の居場所を見つけていくこと。そして、その居場所は、自分が、誰かを笑顔にするために生きられる場所だということです。何を心の羅針盤として生きていくのか。これは、いつの時代にも難しい課題ではありますが、これからを生きる子どもたちには、私たちの世代とはまた違う大変さがあると思います。グローバル、と言えば聞こえはいいですが、これから企業が国家を超えて流動的に変化していくことが加速してくるでしょう。誰も時代の波の中で生きていかざるを得ないわけで、その中で自分の居場所をどこに見つけ、何を喜びとして生きていくかは、非常に見えにくいものになるだろうと思います。イボットソンが、この物語の中で、愚かさと美しさとして描き分ける人間と犬の姿は、彼女が子どもたちに送る一つの提案であると思います。ハルとフレックを結びつける、自分が誰かの喜びであることの幸せ。その喜びをを心ゆくまで感じることが、自分の人生の扉をあける力になる。ハルは、フレックと生きたいと強く願ったことで、自分と周りを変えたのです。

この物語はイボットソンの遺作だそうです。物語と子どもたちへの愛情がいっぱいに詰まったこの作品は、私をとても幸せにしてくれました。うちには猫は2匹いるけれど、犬はいません。息子たちに犬を飼ってやれば良かったと今更ながらに思います。動物には、幸せにまっすぐに向かおうとする力があります。優れた子どもの物語にも同じ力があって、私はそこに惹かれるんだなと改めて思うことが出来ました。また、この物語の中に出てくる、動物虐待すれすれのおてがるペット社のように、動物の命を軽んじてお金もうけをする人たちは、実際にたくさんいます。無理な繁殖を繰り返して、さんざん子どもを生ませた挙げ句に捨てたり、処分しようとしたり。狭い場所に病気になるのも構わず詰め込んだり。人間ならまさに犯罪そのものなのに、動物たちにはなかなか救いの手がさしのべられません。そして、犬猫を収容するセンターには、常に売れ筋の純血腫たちが持ち込まれます。この物語は動物も心と体温を持ったかけがえのない存在であることを教えてくれる。個性豊かな犬たちの名前と顔が、子どもたちの心に自分の心の友として刻まれること。これもまた、イボットソンの残した宝物ではないかと思います。動物は、特に犬や猫は、人間の一番の友達です。そして、いつも笑い会える友達こそ、人生の宝物ですもんね。

2013年9月

偕成社

家と庭と犬とねこ 石井桃子 河出書房新社

石井桃子さんの書かれる文章が好きです。時折、いろんなテーマで絵本を探したりすることがあるのですが、そんな時でもふと引き込まれるのは、石井さんのテキストのものが多い。文章が伸びやかで暖かく、しかも凛としているんですよね。『たのしい川べ』や『くまのプーさん』、ブルーナのうさこちゃんのシリーズ(あのうさこちゃんのおしゃまな物言いが大好きで、どれだけ子どもたちに読んできかせたことか!)。『おやすみなさいのほん』・・・石井さんの本に触れずに大人になるのが難しいほど、たくさんの子どもの本に関わってこられた石井さん。戦前、戦後を通して、まさに日本の児童文学の基礎を作ってこられた方の一人でしょう。偉大な、という言葉が相応しい方なのです。でも、この本に溢れているのは、地に足をつけてひたすら自分の足で歩いてこられた女性のひたむきさです。迷いも苦しみもありながら、誠実に力いっぱい生きてこられた石井さんの息吹が、このエッセイたちから感じられるようで、私はそこに心打たれてしまいました。

実は、この本は二度読みました。石井さんの膨大なお仕事量や、かつら文庫での活動は知っていたのですが、宮城で一時期農業をしてらしたことは知らなかった。このエッセイを読んで、少々意外に思った私は、買い込んでそのままになっていた「新潮(2013年1・2月号)」の『石井桃子と戦争』を一気に読みました。これは、尾崎真理子さんという方が、晩年の石井桃子さんご本人から聞いたことと資料を突き合わせて、戦前から戦時中、戦後すぐにかけての石井桃子さんのことを詳細に書かれたものです。これを読んで、石井さんがどれだけ日本の児童文学の中心におられたのかを知って、改めて圧倒されました。この論文は、何しろ戦争というものが大きく児童文学にのしかかっていた時代のことでもあり、これから単行本として詳しい資料が付随されて検証されていく性質のものだと思います。でも、犬養家との縁や、石井さんが関わった作家や学者さんたちの名前を見ただけでも、まさに歩く近代文学史そのもの。戦前から、今につながる児童文学の礎を築いてこられた方なんだと。戦前に東京にあったブルジョア階級の若者たちの集まりなどにも参加して、びっくりするほど多彩なお仕事と人間関係に、気おされて頭がくらくらする想いでした。

でも、この『家と庭と犬とねこ』の石井桃子さんは、真黒になって労働し、何年も自分の作ったお洋服を着て、旅に出ても残してきた猫のことがひたすら気になったりする、とても慎ましやかな方なんです。「新潮」には、私が疑問に思った、なぜ石井さんが宮城で農業を始められたのかということについての、野崎さんなりの推測が書かれていました。それは戦時中に石井さんが関わった子ども向けの戦争推進作品との関連から、石井さんの贖罪の気持ちがあっての行動だったのではないかという推論でした。私にはその真偽はわかりません。でも、とにかく、石井さんがどのような気持ちで戦争の間を過ごされ、終戦を迎えられたのかを想い、暗然たる気持ちになったことは確かです。そんなことを考えつつ、思いつつ、もう一度私はこの本に帰ってきて、一からこの本を読みなおしました。そして改めて思ったことは、石井桃子さんという方の心の波長に、私はとても惹かれるんだという、誠に単純な一点でした。どんなに偉い方でも、物語やエッセイを通じて心の友達になれる、その幸せったらありません。集団就職で出てきた若い人たちに何度も会いにいく石井さん。ひなまつりのお道具を大切に大切にしまっておく石井さん。縁があってやってきた傷を負った猫を、最初はこわごわながら、そのうち親友のように大切に介抱した石井さん。このエッセイにあふれる、ひとりの人間としての石井さんが、私はとても好きなんです。静かに自分を深く見つめながら生きてらっしゃる、いい意味での不器用さと一徹さに、心が寄り添います。

「・・・目のまえにたくさんあるものは、人間はだいじにしなくなりがちだ。そこで、このごろは、本もなるで消耗品のようなありさまになってしまった」

「人間には、まだわからない科学的な法則―たとえば、体質とか、気質とかで、ぴったり理解しあえる人間とか、物の考えかた、感じかたがあるような気がする。・・・この自分の波長を、ほかの人のなかに見出すことが、人生の幸福の一つなんではないかしらと、私はよく考える。」

「人生をゆっくり歩けば、ひとりや二人は、きっとこんなにわかりあえる友だちや作家にぶつかるのではないかと思う」

共感すること。出会う人や、本との一期一会を大切に思うこと。石井さんの言葉のひとつひとつに、ああ、その通りだとしみじみ思う。そして、そんな風に出会いを大切にするのは、石井さんがいつも「ひとりでいること」をとても大切にしてらしたことと深い関わりがあるように思います。誰にも流されずに、ただ自分で在り続けること。日本の児童文学の中心にいて、どんなに華やかなお仕事をされても。どんなにたくさんの人たちに囲まれても。時代や風潮に流されず、ずっと「石井桃子」であり続けた石井さんのスタンスが、たくさんの、いつまでも輝き続ける作品を生み出された根本にあるのではないか。もしかしたら、そこには戦争を体験されたことも関わりがあるのかもしれない―とも思ったりします。物語という、たったひとりの心に寄り添うものは、戦争という大義名分の塊とは対極にあります。時代という大きな流れの中にあっても、たったひとりの自分の足で立ち続けること。それだけが、雪崩を打って間違った方向に進んでいこうとする暴力を押しとどめることが出来る。例えば、子どもの頃からの友達であるプーさんや、うさこちゃんがいる国と、戦争をしたいと思う人はいないでしょう。「ひとりの力」を静かに育む物語の力を、石井さんは強く信じてらしたのではないか。このエッセイを読んで、改めてそう思ったことでした。次は、『幻の朱い実』を読もう。そう思っています。

2013年5月刊行

河出書房新社

 

魔女のシュークリーム 岡田淳 BL出版

私は、小さい頃イチゴがとっても好きで、(今でも好きだけど)少しばかりのイチゴを妹と分け合うのが悔しくてならなかった。オトナになったら山盛りのイチゴを自分で買って食べるんだ!とずっと思っていた。ところが、いざ大人になると、そんなにイチゴばっかり食べられないんですよね、これが。第一、今、どんなに美味しいイチゴを買ってみても、記憶の中のイチゴとは何かが違う。去年のクリスマスに、同年代の友人3人と昔懐かしいバタークリームのクリスマスケーキを食べる会を催した。明らかに昔のケーキよりいい素材を使ってあるだろうに、あのロウが固まったようなクリームもどきのケーキの記憶に遠く及ばなかった。子どもの頃の新鮮な味蕾と食欲は、もう戻ってこないということなんだな、きっと。(気付くの遅すぎ・・・)この『魔女のシュークリーム』は、ぴちぴちの味蕾&食欲のダイスケくんが、これでもかというほど大好きなシュークリームをお腹いっぱい食べる、とっても幸せな物語です。岡田さんの物語に出てくる食べ物は、いつもとっても美味しそうなんだけれど、このシュークリームはまた格別に美味しそう。

ダイスケくんは、「あなたの頭は、シュークリームのことしか考えられないの!?」とお母さんに言われてしまうほどのシュークリーム好き。岡田さん描くダイスケくんも、ふっくらシュークリームみたいでとっても可愛い。ある日、そんな彼に100倍大きなシュークリームを食べる幸せがやってきます。しかも、それは魔女にいのちを取られているカラスとネコとヒキガエルの呪いを解くための闘いなのです。なんと気の毒なことに、彼らは魔女にシュークリームを、身の毛がよだつほど嫌いになる魔法をかけられているのです。ダイスケくんは、うはうはとシュークリームにのめり込みます。この一心不乱に食べるダイスケくんの幸福感といったら!甘いクリームにうっとりと埋没するダイスケくんに、カラスたちが「まことのゆうきをおもちである」「ほこりたかきライオンのようだ」なんて感心するところなんか、可笑しくて仕方がない。可笑しくて仕方ないんですけど、私は何だかすごくジーンとしてしまったんです。ダイスケくんの「シュークリームのことしか考えられない」という性格は、あんまり実生活では人に評価されないことです。でも、そのマイナスが、この物語ではくるっとひっくりかえって、困っている動物たちを助けるための武器になる。お母さんが言う「あなたの頭は、シュークリームのことしか考えられないの!?」というセリフが、魔女との闘いの最後に最大級の賛辞として動物たちからダイスケくんに捧げられる。そこが、たまらなくいい。この物語を読む子どもたちは、きっと心が深呼吸するでしょう。

私たちは、特に大人はすぐに明日のことばかりを気にします。でも、それこそ五感のすべてが手つかずの新鮮さで立ちあがっているような子ども時代は、もう二度と帰ってこない。大人になってからの時間のほうが、うんざりするほど長いんです。だからこそ、思う存分楽しんで欲しい。そして、ダイスケくんのように食べることを最大限に楽しむ感受性は、「今」を楽しむ最大の武器なのかもしれない。食べることだけは、明日病にかかっている私たちに残された「今」を生き切ることが出来る場面だなあ、と思う。・・・なんていう理屈は、この物語の楽しさの前ではかえって野暮かも(笑)余談ですが。やたらに美容を気にする魔女に、つい「美魔女」という言葉を連想して、「うふふ」となってしまう私は、意地悪おばさんです。美魔女、なんて言われるのは恥ずかしいよねえ。必死のパッチな感じがね、恥ずかしい。いや、私は絶対言われないから、いいんですけどね(爆)

2013年4月

BL出版

 

チェロの木 いせひでこ 偕成社

人は―と言うと、風呂敷を広げすぎかもしれないけれど。特に子どもは、歩いていける場所に森を持つべきだとこの本を読みながら思ったことだった。命を、生と死を内包しながら深く呼吸し続ける森。古の時を受け継ぎ、そして自分の命が無くなってしまったあとにも、ずっとそこにあって静かな音楽を紡ぎ続ける場所。奥深く迷い込めば帰ってはこれないかもしれない。恐ろしい獣に出会うかもしれない。でも、だからこそ心の奥底に何かを語り掛けてくる。自分という存在が、大きな命の流れに抱かれていること。同時に、かけがえのないたった一つの存在であること。そのどちらも感じながら生きることが、今はとても難しい。私たちは、どこを切っても同じような金太郎飴のような世界に生きているから。しかし、本来私たちは森と繋がるべき存在なのだ、きっと。

この本に描かれるのは、森が生み出す命の循環だ。森で育った一本の木が、美しいチェロという楽器になり、音楽が奏でられ、人々の心に届いていく。森と人が生み出す命の饗宴にうっとりと聞き惚れてしまう。森をはぐくむのも、チェロを作るのも、音楽を奏でるのも、心を込めて修行した優しい手。そのぬくもりが伝わってくる。森の中に踊る光が、静かに降りしきる雪の重みが、切り株が、少年に語りかけた物語が、きこえてくるようだ。命を受け継ぎ、思いを込め、新しい息吹を込めて次の世代に伝えていく。人の根源的な、忘れてはならない営みが、一人の少年をそっと揺らして、豊かな人生に送り出していく。祖父から父へ、そして自分へと受け継がれていく命。自分の目で、耳で、確かにその営みを確かめて大きくなる幸せがここにある。

私も、自分の近くに本物の森を持たない。残り少ない自然も、ますます切り取られていくばかりだ。家は受け継がれるものではなくなり、代替わりすれば全てが更地になる。この間も、町内の長年丹精こめられた庭が、あっと言う間に潰されて新しい家が建った。でも、私には本がある。たくさんの人に読まれ、受け継がれてきた本たち。ずっと幼い頃から読み返している大切な本たち。そして、こうして大切なことを伝えるために生まれてくる愛しい本たち。私はその本の森を歩き続ける。そして、この森が、次の世代に、受け継がれていくために・・・少しでも私に出来ることがないか、と思い続けている。日暮れて道遠し・・・ではあるけれど。遠いなあ。(愚痴ってどうする!)

2013年3月

偕成社

スターリンの鼻が落っこちた ユージン・イェルチン 若林千鶴訳 岩波書店

橋下大阪市長の従軍慰安婦に対する発言が物議をかもしていますが、私は彼が使う「活用」という言葉が、彼の女性に対する考え方を語っているように思います。性は、人が人として生きていく根幹にある、自己の尊厳と不可避に結びついているもので、決して人に「活用」されてはならないものなのです。彼は、そういうことがわからない人なのでしょう。でも、今の日本では、こうして「おかしい」と思ったことについて発言も議論も出来ますが、もし政治に対して何も言えなくなってしまったときに、彼のような人間がトップに座ってしまったら―そう思うと非常に恐ろしい。この『スターリンの鼻がおっこちた』は、スターリン時代のソ連の少年が経験した恐怖の物語です。全く他人事ではない恐怖が目の前に迫ってくる迫力に満ち溢れています。

子どもは、一番強く時代の影響を受ける存在です。子どもは自分の弱さをよく知っています。そして、大人のように思想や教育から距離を取って生きていくことはできません。この物語の主人公であるザイチクも、秘密警察の父を幹部に持つ筋金入りの共産主義者として、ピオネール団という党の少年部に入団することを楽しみにしています。ところが、入団式の前日、今度は父親が秘密警察に逮捕され、連行されてしまうのです。密告したのは隣に住む男で、ほかに家族のいないザイチクはあっという間に夜の町に放り出されてしまいます。

ソ連という国がかってあったこと。スターリンが「大粛清時代」に2000万人もの人を追放したり処刑したり、収容所送りにしたこと。この本をいきなり手にした子どもは、そんな歴史的な知識を持ち合わせないことだろうと思います。でも、冒頭の、ザイチクが書いたスターリンへの手紙に、まず衝撃を受けるはずです。衝撃を受けないまでも、その為政者に対する盲目的な「いい子」っぷりに居心地の悪さを覚えるはずです。彼にとっては秘密警察にいる父親は英雄なのです。ザイチクを取り巻く何もかもが、今の自分たちの価値観とは違うらしい。ザイチクの眼を通じて感じるその居心地の悪さは、読むに従ってますます強くなります。監視しあっているアパートの人たちの目つき。いきなり鳴らされる真夜中の呼び鈴と、階段を上がってくる軍靴の音。いきなり連れ去られる父親の背中。ザイチクは一夜にして「いい子」から人民の敵の子どもに転がり落ちてしまったのです。転がり落ちてしまったザイチクの世界は一変します。しかも、ザイチクは学校でスターリンの胸像の鼻を壊してしまうのです。ゴーゴリの『鼻』の八等官のように、自分を取り巻くすべての世界が変わってしまったのです。今や、ザイチクも「人民の敵」。ザイチクは怯えます。教室内で行われる胸像を壊した犯人探しの恐ろしいこと。しかし、恐怖はこれで終わりません。これまで馬鹿にしていた同級生のメガネがまず自分の代わりに連れて行かれ、それから密告によって担任の先生が連れていかれ・・・ザイチクは校長に自分の父親を密告することを勧められ、そのときにもっと恐ろしい秘密を教えられるのです。

ザイチクの恐怖は、過ぎ去った過去の、自分とは関係ない恐怖なのか。この本は、読み手にそう語りかけます。自分の周りに、偉そうな洋服を着た「鼻」はいないか。もしくは、自分の鼻は、勝手に歩き出したりしないか。自分が信じている価値観が、一夜にしてくるりとひっくり返ったらどうするのか。カリカチュアライズされた挿絵の迫力も相まって、手がかりのない悪意の壁に囲まれるような孤独感が怖さを倍増させます。作者のユージン・イェルチンは、ソ連生まれです。それだけに、この物語には大粛清時代の恐ろしさが生きて脈打っているようです。私がこのザイチクの立場にいたら―きっと、彼のように「いい子」してしまったような気がします。子どもの頃、大人の顔色を読むことは抜群に上手でしたから。だから、この物語は他人事ではないし、今の日本にとっても他人事ではない。この物語のスターリン主義を、「グローバル」や「実力主義」という言葉に置き換えてみることだって出来るでしょう。訳者の若林さんが後書きで書かれているように、今の日本の子どもたちの状況に通じるものがあります。今の若い人たちに要求されるグローバリズム社会への適応力は、私のようなナマケモノには辛いとしみじみ思います。若い人の能力を、安価で、根こそぎ吸いつくそうとする化け物は、カッコいい服を着た大きな鼻かもしれません。そんな鼻はメガネくんの写真を塗りつぶしたように、ひとりの人間をモノ扱いします。そんな人をモノ扱いする大人の冷たさは、子どもの社会のいじめの問題にも繋がっている気がします。ザイチクの学校での粛清の恐ろしさに、学校での孤独を重ね合わせる子どもたちもいるでしょう。

「わたしたちがだれかの考えを、正しかろうが間違っていようが、うのみにし、自分で選択するのをやめることは、遅かれ早かれ政治システム全体を崩壊に導く。国全体、世界をもだ」

粛清の嵐が吹き荒れる教室の中で、たったひとりゴーゴリの『鼻』を教え続けるルシコ先生の言葉が身に沁みます。この物語は、ニューベリー賞のオナーブックに選ばれています。子どもたちにもぜひ読んで欲しいし、大人にも新しい目を開かせる一冊だと思います。この時代に収容所に送られた人がたどった恐怖は、『灰色の地平線のかなたに』(ルータ・セペティス 岩波書店)や、実際にシベリヤで抑留生活を送った石原吉郎の著書にも詳しく書かれています。

2013年2月発行

岩波書店

 

フランケンシュタイン家の双子 ケネス・オッぺル 原田勝訳 東京創元社


「何と、あの人造人間を作ったフランケンシュタインが、双子だった!」と、思わずびっくりマークをつけたくなる設定で描かれた小説です。ケネス・オッペルはいつも設定が斬新なんですが、この人造人間を作る以前の、YA世代のフランケンシュタインを描くという発想が面白い。中世の錬金術のおどろおどろしさと、主人公たちの若い激情が迸って、極彩色のゴシックホラーになっています。

フランケンシュタイン家の双子、コンラッドとヴィクター。正反対の性格ながらとても仲良しの二人だが、ある日兄のコンラッドが重い病で倒れてしまう。何とか彼を助けたいと思うヴィクターと、彼らと一緒に暮らしている遠縁の娘・エリザベスは、城の地下から発見した錬金術の本を読解しようと錬金術師ポリドリを探す。ポリドリは、その本を解読し、不死の秘薬を作るために三つの材料が必要だと言う。ヴィクターとエリザベスは、その材料を集めるために命がけの冒険に乗り出すのです。

いきなりヴィクターがベランダから落っこちる冒頭の劇中劇から始まって、とにかくケレン味たっぷりなんですよね。錬金術の本を城の地下で見つけるシーン一つにも、隠し扉&底の見えない階段&白骨&腕をはさんで抜けない扉・・・と、もう、これでもかとてんこ盛りの演出なんですが、それが上手く登場人物たちのキャラクターに馴染んで展開していくのが、オッペルの腕ですね。想像力が刺激されて、次々と物語の迷宮を進みたくなる。その中で展開していく双子の弟・ヴィクターの揺れ動く心が、また読みどころです。

兄のコンラッドは双子で顔もそっくりなのに、冷静沈着で人づき合いも上手く、剣の腕もヴィクターより上です。しかも、一緒に暮らす美しいエリザベスの愛まで手に入れている。ヴィクターにとって兄は一番強い絆の持ち主であり、同時に激しく対抗意識を燃やすライバルでもあるのです。その兄のために、自分の命までかけるような冒険に乗り出していくヴィクターの胸は、冒険で流す血よりも濃い感情、嫉妬と愛情で揉みくちゃ。しかも、双子の間に君臨する女神のようなエリザベスの、小悪魔っぷりったら・・・ラノベのツンデレの比じゃありません(笑)野生の血がたぎるような魔性の女、しかも無自覚というのが、また始末に悪い。(これ、凄く褒めてます・爆)深い森の奥に生えるコケをとりに、月のない夜の中を秘薬でオオカミの目になって進むエリザベスとヴィクター。記憶の奥深くから蘇る野生にあぶられるような二人の姿が、美しくて官能的です。恋人であるコンラッドには決して見せない残忍さや激情を、エリザベスはヴィクターの前では無防備に全開にするんですよね。それは、絶対的に自分を愛している男に対して女が見せる甘えと残虐さでもあるんですが、こういう恋愛の駆け引きでは、16歳の少年なんて女に勝てるわけがない。夢遊病であるエリザベスが、ヴィクターのベッドに入ってくるシーンなんて、もう気の毒としか言いようがない感じ。そらなあ、もう骨抜きになるわなあ、と思わずヴィクターへの同情を禁じ得ないエリザベスの魔性っぷりです。オッペルは魅力的な少女を書く人ですが、この多重性をあらわにするエリザベスの美しさは格別です。彼女はこの物語の起爆剤。いやもう、ヴィクターは気の毒なほど頑張ります。しかも、三つの材料の最後は・・・これは、ネタばれになるんで書きませんが、えっ、そこまで!と思う大きな犠牲をはらうものなのです。(また、このときのエリザベスが凄い。サディズムの気配まで漂います)

このシーンを読んで、なぜこれがYA向けではなく、創元推理文庫で出たのか納得しましたが。どんなに心が揺れても、ヴィクターはとことんコンラッドを助けようとした。ワシと闘い、地底の奥深くに潜り、しかも最後には自分の命さえもかけてコンラッドの病気を治そうとした。彼が愛憎に揺れ動きながらも、いや、だからこそ、その気持ちを貫いた姿に胸打たれます。だからこそ、ラストでその彼が失ってしまったものの大きさに胸をえぐられるのです。大きな犠牲を払った上に大切な存在を失い、もしかしたらそれが自分のせいかもしれないと思ってしまったヴィクターが、これからどんな道を歩むのか。とても気になりますが、訳をされた原田さんの後書きによると、続編翻訳中だとか。楽しみにして待っていようと思います。

2013年4月刊行

東京創元社

 

つなのうえのミレット エミリー・アーノルド・マッカリー 津森優子訳 文渓堂

この本、絵がとても素晴らしいのです。表紙の女の子、主人公のミレットの表情に思わず引き込まれてしまう。きゅっと結んだ唇と真剣な眼差し。強い風の中で踏み出していく一歩目の緊張と勇気が伝わってきます。

ミレットは、パリの宿屋で一生懸命働く女の子。ある日宿屋に綱わたり師のペリーニという男がやってきます。彼が密かに綱わたりをしているところを見たミレットは、どうしてもやりたくなって密かに練習するのです。それを知ったペリーニは練習をつけてくれ、ミレットはどんどん上達します。ある日、ペリーニが有名な綱わたり師だったことをミレットは知って、一緒に仕事をさせて欲しいというのですが、ペリーニは一度失敗した恐怖から興行ができなくなっていたのです。勇気を振り絞って再び綱の上に乗るペリーニですが、やはり凍りついたように立ち止ってしまう。その彼のところに、思わず走っていくミレット。

私は絵については全く門外漢なのですが、綱わたりをしている時と、ただ歩いている時では、全く身体表現というのは違うだろうと思います。体全体に漲る鞭のようなバランス感覚。しなやかな筋肉の張り。集中しながら、余計な力が入らないようにコントロールする難しさ。そんな体の表現する美しさが、見事に描き表されていて見とれてしまう。しかも、ペリーニが長年興行を張ってきた一流のパフォーマーであることも、綱の上の彼の姿に刻みこまれているのです。それに対する、ミレットの子猫のような身軽さ。若さ漲る運動神経、負けん気の強い性格も、それはそれは生き生きと伝わってきます。絵に物語があって、それが言葉で説明されなくても見るものにわかる。だからこそ、二人が綱の上で会うシーンが胸に迫ります。まっすぐ自分を見つめる少女の瞳から溢れる信頼が、ペリーニにとってどんなに嬉しいことだったか。手を差し伸べ合う二人から生まれる新しい希望と力が、きらきらと夜空に輝くラストシーンがなんて美しいこと。

今、NHKでやっている朝ドラの「あまちゃん」を、毎朝楽しみに見ているのですが、主人公のアキちゃん演じる能年玲奈ちゃんの目が、とても綺麗で毎朝見とれてしまいます。水気を含んでキラキラしてるんですよねえ。きっと、ミレットが綱の上でペリーニをみつめた瞳も、何恐れることなく輝いていたでしょう。マネやロートレックの絵のような、ノスタルジックな味が漂う絵から、ピュアな気持ちが溢れてくる素敵な絵本です。

2013年4月発行

文渓堂

 

 

モッキンバード キャスリン・アースキン ニキリンコ訳 明石書店

アメリカで「初めてのライフル」という子ども向けの銃で、5歳の兄が2歳の妹を撃ち殺すという事件があったそうで・・・。『馬を盗みに』(ペール・ペッテルソン 西田英恵訳 白水社  )を思い出してしまう。妹を殺してしまった兄はたった5歳で人を殺した記憶を背負って生きていくことになります。こんな残酷な事件が再三起こっても、なかなか銃を規制できないアメリカ、などと避難する言葉をつい言いたくなってしまうけれども、あれだけの悲惨な事故があっても日本が原発をやめられないのと、根は一緒なのかもしれないなと思います。どちらも、被害者として苦しむのは、幼なかったり、弱い立場にいる人たち、というのも共通しています。この物語の主人公のお兄さんも、学校で起こった銃の乱射事件(これまた、『少年は残酷な弓を射る』(ライオネル・シュライヴァー 光野多恵子/真貴志順子/堤理華訳 イーストプレス)を思い出します)に巻き込まれて殺されてしまったのです。残された妹のケイトリンは、アスペルガー症候群というハンディを抱えていて、お兄さんは彼女をいつも支えてくれた大切な存在でした。これは、兄を失ったケイトリンと、泣き虫のお父さんの、「その後」を描いた物語です。

自閉症スペクトラムの方たちがご自分で綴った文章を読むと、ぎゅっと引き込まれてしまうことが多いのです。チェスタトンが『棒大なる針小』で述べていた、小人の視点と重なるものがあるというか。私たちが一歩であるくところを、十歩かけていくような感じ。私たちには普通の庭に見える場所が、例えばコウロギくらいの体なら、そこはジャングルそのものでしょう。見えているものは同じでも、その尺度が全然違うのです。だから、いろんな発見がある。新しい発見もあれば、自分が幼い頃から長年慣れ親しんできた感覚や、ものの捉え方などに通じる箇所に、はっとすることも多いのです。でも、そんな彼らの内面は、外からは上手く見えない。『自閉症だった私へ』の中で、ドナ・ウィリアムスが「あまりに細かく感じすぎるが故に、かえって回りにはそのミクロさが見えない」というようなことを言っていました。つまり、見えない、もしくはわかりにくいだけで、悲しみも傷つく気持ちも、喜びも、おんなじなんですよね。そして、それが周りに伝わりにくい分、理解されなくて苦しむことも多いのです。ニキリンコさんが後書きで言うように、外国で一人いるようなものなのかもしれません。

この物語の主人公のケイトリンも、とても豊かな内面世界を持っています。でも、彼女と周りの世界との通訳をしてくれていたお兄ちゃんは、悲惨な事件で死んでしまった。彼女は深い深い孤独と悲しみの中にいます。お兄ちゃんが残した作りかけのチェストを見つめ、そこに潜り込むケイトリン。彼女が全身で泣いていることを、「悲しい」という言葉も、涙も一切書かずに伝えてくるアースキンの文章の力に、初めから引き込まれました。でも、たった一人の家族になってしまったお父さんも、彼女の気持ちを捉えることは出来ません。自分の悲しみで、いっぱいいっぱいなんですよ。ケイトリンは、少しずつ、手さぐりで歩き始めなければいけないのです。人は一人で生きられない。共に生きていくことは、痛みや悲しみ、喜びを共有することなんだけれども、それはアスペルガーのケイトリンにとって一番苦手なこと。でも、彼女は、お兄ちゃんのことを考え、「気持ちの区切り」を、まるで珍しい昆虫を探すように一生懸命探します。そんな彼女の真摯な真面目さが、とても切ない。もう、ほんとに小人が大きな山を越えるように、傍から見たら滑稽にも見えるくらいにアップアップしながら、一人で海にこぎ出していく彼女の姿に心打たれます。そして、彼女は自分だけの世界から少しだけ歩き出して、残酷な最期を迎えて、やりたいことも出来ないままに死んでしまったお兄ちゃんの心を思いやることを知るのです。「わたし自分の気持ちじゃなくて、お兄ちゃんの気持ちを代わりに感じてたよ」と叫ぶケイトリンは、悲しみと同時に、理解しあう世界への切符を手に入れたのです。

自分の気持ちを上手く伝えられなかったり、すれ違ったり。そのせいで誰かを傷つけたり、傷ついたり。ケイトリンのような孤独やしんどさは、アスペルガーの人だけが抱えるものではありません。私だって、自分の気持ちを言葉にしてしゃべることは、とても苦手です。こんな、何日もかかってやっと一つレビューをかけるようなトロいスピードですが、文章で書くほうが、まだマシ。だから、この物語のケイトリンの心に寄り添いながら、私は覗きからくりを反対から見るように、自分自身が、もしくは私たちが抱えている生きることの困難さをたくさん見つけることが出来ました。根っこは同じなんですよね。誰だって、理解されないこと、理解したいのに出来ないことに苦しんでいる。だからこそ、自閉の人たち、上手くこの世界と折り合っていくことが大変な人たちが生きやすい社会を作ることは、この世界そのものを生きやすくしていくことだと、この物語を読んで切実に感じたことでした。何だか世界はますます反対の方向に向かっているように思えて仕方ないけれども。作者のアースキンさんの危機意識も、そこにあるように思います。

さっきも書いたように、自閉スペクトラム、アスペルガーの方たちが、この世界をどんな風に見ているのかについての本を読むと、はっとさせられることが多いのです。初めて読んだのは、ドナ・ウイリアムス の『自閉症だったわたしへ』。この本を翻訳していらっしゃるニキリンコさんの『俺ルール!』(花風社)も目からウロコでした。『ぼくには数字が風景に見える』(ダニエル・タメット 講談社)という数字に共感覚を持っている男性の手記もとても心惹かれました。彼らと暮らす家族の視点から描いた児童書としては、『アル・カポネによろしく』(ジェニファ・チョールデンコウ こだまともこ 訳 あすなろ書房 )『ルール!』(シンシア・ロード おびかゆうこ訳 主婦の友社 )『トモ、ぼくは元気です』(香坂直 講談社)などがあります。

2013年1月刊行

 

 

 

 

とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢 ジョイス・キャロル・オーツ傑作選 河出書房新社

ジョイス・キャロル・オーツの傑作選です。以前読んだ『フリーキー・グリーン・アイ』もそうでしたが、オーツは「恐怖」がにじり寄ってくるのを書くのが上手いです。にじり寄ってくるというか、自分がにじり寄っていってしまうというか。ぽっかり空いている穴を覗き込みたくなる恐怖。恐怖って、ずるずると紐を手繰ると人間の個々の枠を超えて繋がる共同領域(勝手に言葉作ってますが)に赤ちゃんのへその緒のように繋がってるような気がする。オーツは、その恐怖の源泉のありかをよーく知ってるんでしょうね。自分たちのまわりに普通に転がっているアイテムを使って、その共同領域から無限の闇を引き出してみせます。だから、初めて読む短編なのに、知らないのに、デジャブ感があって、余計に怖い。しばらく現実に戻ってこれない怖さという、読書の幸せを感じました。怖いお話は、こうでなくちゃね。

オーツの筆は、グロテスクで独特な美しさを湛えています。例えば、七つの短編の中で一番長い作品、「とうもろこしの少女 ある愛の物語」。とうもろこしのヒゲのような、輝く金髪の少女が誘拐され、監禁されてしまうのですが、犯人は、なんと同じ学校の同級生の少女たち。そのことを知っているのは、彼女たちと、読者だけです。警察も母親も、学校の先生も、そのことにだーれも気づかない。気づかないままに進行する、監禁された密室での儀式めいた行為が、おぞましい。おぞましいんですが、昔、この少女たちの年頃に、オカルトめいたことを皆でしていたことをふっと思い出してしまいました。こっくりさんとか。放課後の教室でのタロット占いとか。のめりこみすぎて、集団ヒステリーのような状態になってしまったりとか。ラップ現象みたいなことが起こって、パニック起こして走り回ったりね。催眠術ごっこして、戻ってこれない子を皆で必死で介抱したり・・・。いやいや、おバカさんなこと、いっぱいやりました。だから、読んでいて、妙に疼くものがあるんですよ。知ってる。私、この怖さをどこかで知ってる、って。第二次性徴の前のほの暗い部分やコンプレックス、首謀者の女の子の深い絶望と過去の渦巻く古い屋敷の地下で展開される儀式の中心で輝く少女の髪の輝きに、くらくらします。

地上では少女の母親をめぐって、これまた私たちがよく知っている恐怖が展開していきます。マスコミと警察によって、シングルマザーである母親は、徹底的に秘密を暴かれ、好奇の目にさらされ、消費されていく。そして、偽の犯人に仕立てあげられた男のプライバシーも、徹底的に破壊されます。少女がいなくなったとわかった時、母親が警察に電話するのをためらうシーン、「九一一に電話すれば、人生捨てたも同然 九一一に電話すればあなたは乞食同然 九一一に電話すれは あなたは丸裸」・・・この恐怖を私たちはイヤというほど知ってる。自分が当事者でなければ、他人のプライバシーほど面白いことはない。無関係な人間への、そんな無自覚な残酷さを改めて掘り起こすオーツの筆にしびれます。地下と地上の狂気は、眠らされている少女を生贄にして展開し、爆発します。ラストの穏やかささえ、何かを孕んでいるように思わせるオーツの筆力が悪魔のように魅力的な一篇です。

ほかの短編も、それぞれ読み応えがあります。昔に別れたっきりの義理の娘(これが、また気味悪い娘なんですよ)に、墓地に連れていかれる「ベールシェバ」。「化石の兄弟」と「タマゴテングダケ」は双子をテーマにした話ですが、これもまた血の繋がりというものの、何ともいえない厄介さと憎しみと愛情が渦巻いてくらくらします。私が一番心惹かれたのは、「私の名を知るものはいない」という、妹が出来たばかりの少女・ジェシカの内面を描いた作品。帝王切開で出来た赤ちゃんに、両親や親戚の視線も愛情も集中してしまい、孤独にさいなまれるジェシカ。ぴりぴりした少女のアンテナが、何も言わなくてもすべてを見通しているようなネコの瞳と感応していくんです。もやのように立ち込める少女の悲しみに気付くものは、ネコと読者だけ。オーツの筆があまりにも美しくそのもやの立ち込める風景を描き出すものだから、ラストで赤ちゃんの息を吸い取ろうとするネコに自分が憑依しているような錯覚さえ覚えます。少女の内面を、こんなに繊細に描き起こしてしまうオーツに痺れました。以前読んだオーツの『アグリー・ガール』は、自分のことを醜いと思っている少女の内面を、細やかに描きだした佳品でしたが、こういうYA世代をテーマにしたオーツの作品を、もっと読みたいと改めて思います。

恐怖って何なんでしょうねえ。この本を読みながら、ずっとそのことを考えていました。恐怖というのは「知っている」ことが前提になりますよね。動物たちの恐怖のバリエーションは、人間よりはよほど少ないでしょう。想像力が深ければ深いほど、知覚できる喜びが大きいほど、その裏にある恐怖は大きく膨れあがっていく。数年前に、うちのぴっちゃん(ネコです。私はネコ馬鹿です)が行方不明になったときの恐怖は、私には筆舌に尽くしがたいものでしたが、それは、ぴっちゃんが私にはかけがえのない存在だからなんですよね。失うものがなければ、きっと恐怖は存在しない。この物語を読んだあとで、ネコたちのあったかい体を撫で撫でして「おかあさん怖かったわ~」と報告するのは、一種の快感でしたが、恐怖は快感とも深く繋がっているとも思います。恐怖って、もしかしたら生きるパワーの一つなのかもしれないですよね。とにかくオーツのこのパワーに、ある意味充電された感のある、がっつり読み応えある短編集でした。栩木玲子さんの翻訳と、あと書きのオーツについての文章も素晴らしいです。それによると、オーツはとても多作らしいです。もっと翻訳されないかなあ。

2013年2月発行

 

双頭の船 池澤夏樹 新潮社

昨日、関西では久々に震度6の地震がありました。私の住んでいるところでは、震度4くらい。阪神淡路大震災以来の久々の長い揺れでした。時間帯が同じくらいだったのも手伝って、あの記憶が一気によみがえりました。何年経っても、恐怖の記憶というのは体と心の奥底に潜んでいて無くなりはしないのだと、しみじみ実感し・・・東北の方々が延々と続く余震の中で、どんな気持ちで毎日を送ってらしたのかを改めて思いました。

この物語は、3.11をテーマにした連作です。あれから2年と少し経ちました。3.11については夥しい数のドキュメントや資料があります。ツイッターやブログというネット発信を含めると、それはそれは膨大な量になるはず。でも、3.11が物語として語られるのは、これから何だと思うのです。なぜ物語として語られなければならないのか。それは、物語が記録では見えないものを語るものだから。私たちが失ったもの。あの日からずっと心の中に鳴り響く声。闇から吹き上げる風、苦しみの中から見上げた空の色・・・それらをもう一度手繰り寄せて、失ったものを失ったままにしないために、心に深く刻んでいく営みが、「物語として語る」という行為です。そして、池澤さんのこの物語は、その出発点のような役割を果たすものなのかもしれないと思うのです。

この「双頭の船」は寓意的な手法を使って描かれています。物語を経るごとに大きく膨れ上がっていく船。200人のボランティアが舞台の上の書き割りのようにどっと移動し、甲板の上には瞬く間に240戸の仮設住宅が立ち並ぶ。そこには生きている人と、あの日にいなくなってしまった死者たちが同時に存在し、オオカミたちが命のオーラを放ちながら徘徊し、傷ついた犬や猫たちがつかの間の休息ののちに、あの世に旅立っていく。私は物語をたどりながら、なぜ池澤さんが、この物語の舞台を「双頭の船」にしたのか考えていました。この船のイメージは、間違いなくノアの箱舟でしょう。大昔に押し寄せた洪水の記憶が、人々の集まりの中で、もしくは子どもたちに語る枕辺で何度も何度も繰り返されて一つの共通の記憶となっていく。神話には、民族の心を同じ記憶に重ね、共有していくという無意識の意志が働いているはず。それは物語というものの在り方の原点だと思います。

「小説にもまた同じような機能がそなわっている。心の痛みや悲しみは個人的な、孤立したものではあるけれども、同時にまたもっと深いところで誰かと担いあえるものであり、共通の広い風景の中にそっと組み込んでいけるものなのだ」 (※)

これは、村上春樹氏の言葉ですが。物語は、たった一つの心に寄り添うもの。この世でたった一つだけの命に向き合おうとするものです。たとえば、去年レビューを書いた朽木祥さんの「八月の光」のように。「八月の光」はヒロシマの原爆をテーマにした物語です。それは、忘れ去られようとする「個」を徹底的に描くことで普遍へと繋げようとする、真摯な営みでした。鮮烈な記憶が時を超えて立ち上がります。それに対してこの「双頭の船」は、寓意的な手法を使って描かれています。登場人物たちも、どこかひょっこりひょうたん島の登場人物のように、実在の人物というよりは、キャラクターのような感じです。これは―私が勝手に思うことなんですが。3.11の東日本大震災を語る営みは、まだ始まったばかりです。「個」にリアルに向き合う物語を、今東北の方々が読むのは、きっと辛すぎる。だからこそ、ノアの箱舟という心になじみ深い神話を重ねることで、池澤さんは何とか道を開き、3.11を物語として語る回路をここから開こうとされたのではないか。この物語は、神話という原始的な物語の力を借りて、「個」に向かおうとした、営みなのではないか。そう思うのです。圧倒的な力になぎ倒されたたくさんの心たち、この世界から旅立ってしまった命に、何とかして寄り添おうとする営み。残されたものの痛みを共に感じ、分け合っていこうとする切なる願い。

平らになった地面はまるで神話の舞台のように見えたけれど、そこではまだどんな神話も生まれていない。この空っぽの場所の至るところに草の種みたいな神話の種が埋まっているのが見える気がした。(本分より)

何とかして希望の種を、あの空っぽになってしまった海辺に播こうとする、作家としての真摯な挑戦を、私はこの物語から感じました。だから、この「双頭の船」は、過去と未来を繋ぐもの、何度も何度もなぎ倒されながらもここまで歩いてきた過去と、これからを生きていこうとする未来を行き来しながら希望を運ぼうとする、私たち人間の営みという大きな流れを旅する船なのだと思うのです。神話と土の匂い。心の奥深いところから様々なシンボルが立ち上がり、トーテムポールのように各々の物語を語る。その声の語り部になってしまったような池澤さんの筆が冴える一冊でした。

※「おおきなかぶ、むずかしいアボガド 村上ラヂオ2」 村上春樹 大橋歩画 マガジンハウス 

図工準備室の窓から 窓をあければ子どもたちがいた 岡田淳 偕成社

昨日、この本を神戸からの帰りの電車の中で、待ち切れずに読んでしまったんです。いやー、失敗でした。もうね、面白すぎて、楽しくて、うふうふと声が漏れてしまうのです。あまりにツボにはまって、爆笑したくなるのを必死でこらえ、でも読むのをやめられなくて目を白黒してる私は、相当ヘンな人だったと思われます(笑)トンビのトンちゃんのくだりや、川を飛び越えられんで落っこちたお話、トイレのよこに図工準備室があるのをええことに、肝試しにきた子どもたちを脅かしてるところ・・・「さんばんめーのーはーなこさーん」「は~~~い」・・・もう、帰宅後再読して、転がりまわるくらい笑いました。「先生、何してんねんな!」ってツッコミながら。

そう、この本を読んでいる間、私はすっかり岡田先生に図工を教えてもらってる小学生みたいな気分でした。私、小学生のときは図工が大好きだったんです。でも、段々人と自分の作品を比べるようになって、あんまり好きじゃなくなってしまった。ほんまに勿体なかったなあ・・と、この本を読んで思ってしまった。岡田さんは、ずっと小学校で図工を教えてらして、その想い出がこの本にはぎっしり詰まっています。それがもう、楽しいのなんの。岡田先生は、図工準備室をうす暗くして、大きな枝やら不思議なオブジェ、雑然といろんなものを詰め込んで、ワンダーランドみたいにしてしまう。しかも、「先生のゆるしなく、じゅんびしつにはいったら、おしりペンペンです」などと書いた紙を張る。思わず裏返すと「うらがえしたひとはもういっぱつおしりペンです」と書いてあって「つぎのやつをひっかけるから、もとのむきにもどしておくこと」なんて、書いてある。ひゃ~!もう、こんな図工準備室に、行かずにおられようか、ってなもんです。そして、岡田先生の授業の楽しそうなこと!あー、これやりたかった!(今でもやってみたい)と思うことばっかり。それだけやなくて、岡田先生はいろんなことを子どもたちに働きかけます。演劇部をつくったり、お昼休みの放送のDJをして、そこで自作の短編を朗読してしまう。その短編は、今、自分が通ってる小学校が舞台なんです。ああ!なんて幸せなこどもたち。だって、その物語は、「今」の自分たちと一緒にあるワンダーランド、現在進行形の物語なんですよ。それは、不思議と一緒に生きること。子どもたちは、どんなにドキドキして放送を聞いたやろう。これこそ、エブリディマジックの魔法です。

岡田先生が図工の授業で目指してはったのは三つ。

わくわくどきどきしながら、
①絵をかくことが好きになること
②ぼくはやったぞ、と思えること
③あの子やるなあ、と思えること

ああ・・これに尽きるなあ。なんかもう、これがすべてやなって。そう思います。生きる喜びが、ここにはぎゅっと詰まっています。「図工は、いつの日か豊かな人生を送れるために、ではなく、今を豊かに生きる実学であったのだ」(本分より)私たち大人は、子どもたちに「先々のために勉強しなさい」と言う。でも、その「先」って、どこにあるんやろう。高校受験のため。大学受験のため。就職のため。スキルアップのため・・いつまで行っても「先」ばかり見なければならない人生って、しんどくない?って、思うんですよ。子どもたちの気分を支配している行き詰まり感って、そこにあるんじゃないのか。そう思います。岡田先生のような発想の先生が教育現場にいはって、子どもたちに「先生、はよ図工しよ」と言われる授業をしはることは、どんなに大切なことか。

昨日「しあわせなふくろう」さんで、この本にサインをして頂きました。その時に岡田淳さんがイラストも一緒に書いて下さったんです。私が『夜の小学校で』の最後の物語、『図書室』がとても好きだと言うのを聞きながら書いてくださったのは、人が軽く腰に手をあてて佇むシルエット。私は単純に「うわあ、素敵だ」と喜んで「ありがとうございます」と脳天気に抱きしめて帰りました。そして、この本をずーっと読んでいって。その『図書室』の話が出てきました。そこに書いてあった「本」に対する思を書いた一節に、私は撃ち抜かれてしまったんです。「世界はやっていける、人生は生きるに値する、ひとは信頼できるという感覚を、ドリトル先生の台所は育ててくれたのではないか」そう!これやん!って。私が幼いころに物語からもらったもののこれやった。そして、これからを生きる子どもたちに必要なんは、やっぱりこれやんな、って。もう、まっすぐ胸の真ん中に落ちました。岡田さんの作品の根底にあるのもこれで、だから、私はいっつも岡田さんの物語に勇気と優しさをもらうんやな、って。そう思って頁をめくったら・・・その言葉の裏に、私がサインしてもらった人のシルエットの絵が出てきたんです。うわあ!とびっくりしました。岡田先生にやられてしまった。もしかして・・私の一言を聞いて、岡田先生はこの絵を書いてくれはったんかも!そう思ったら、ドキドキして、嬉しくて、何だか泣けてしまった…。岡田先生のマジックに、笑って泣いて、感動して。すごく大切な宝物を頂きました。

この本には、阪神淡路大震災の話も出てきます。神戸に生きる人たちは、みんなこの記憶を抱えています。岡田先生も、きっときっと大変な思いをされたに違いない。でも、岡田先生は、悲しい話、つらい話ではなく、「それ以外の話をしよう」と心に決めたらしいのです。kikoさんもそうなんですが、神戸の人にはこういうところがあるなあと思います。優しいんです。悲しみも辛さも、お互いの中にあることを受け止めながら、「生きてるうちは、笑っとこや」て労わりあうような。美しいもの、美味しいものが大好きで、今を一生懸命生きてる。そんな強さと優しさ。『願いのかなうまがり角』(偕成社)に出てきた、震災でつぶれてしまったまがり角の話を思い出しました。大きな悲しみを知っている人ほど、人に優しい。身内に教育関係が多い私は、学校という場所の大変さについてもよく聞きます。それはそれは、いろんなことがあったに違いない。でも、こんなふうに学校生活の想い出を書き、愛情の溢れる本にされた岡田先生の想いに、たくさん幸せを頂いて、大切なことを教えて頂きました。岡田先生、素敵なサインとイラストを、本当にありがとうございました。大切にします。

2012年9月刊行
偕成社

 

岡田淳さんの「夜の小学校で」原画展と“ひつじ書房”

春らしい穏やかなお天気のもと、神戸まで足を伸ばして岡田淳さんの作品展に行ってきました。JRの摂津本山駅前の画廊「しあわせなふくろう」さんで、『夜の小学校で』の原画展が行われていたのです。

原画はとても素敵でした。やっぱり印刷されたものよりも色がとても鮮やかに美しく、絵から優しさや温かさが溢れてくるようでした。ほかにも素敵な絵がいっぱい出品されていて、そちらは販売されてもいたのですが、何とほとんどが売約済み。わかるなあ・・・だって、岡田さんの絵って、見ていると、何だか胸にぽっと明るいものが宿るようなのです。落ち込んだ時や、心がすさんでやさぐれた時に、あたたかい光を投げかけてくれるような。「しあわせなふくろう」さんの中には、そんな岡田さんのパワーが満ち溢れていました。小さな画廊は、もういっぱいの人。今日は岡田さんご自身も来られていて、本にサインもして頂けるということで、小学生たちがたくさん来てました。皆、手に手に岡田さんの本を持って、とっても嬉しそう。岡田さんは一人ひとりとお話しながら、ゆっくりサインとイラストを描いてあげておられました。もう、子どもたちも岡田さんも幸せそうで、いつまでも見ていたい光景でした。一人の女の子なんか、岡田さんの大ファンで、ノートに書いた自分の物語も岡田さんに読んでもらおうと持ってきてて。一生懸命な顔して岡田さんが読むのを見てました。一生の思い出になるよなあ、もしかして、将来作家さんになって、この日のことをエッセイに書いたりして・・・なんて思うのも幸せでした。もちろん私もkikoさんもサインして貰いました。私がサインしてもらったのは『図工準備室の窓から』です。

その「しあわせなふくろう」さんの数軒横に、児童書の専門店「ひつじ書房」さんがあります。ここは、kikoさんの馴染みの本屋さん。児童書の専門店として有名です。以前からkikoさんに聞いて、ぜひ行ってみたかったので、今日は心おきなく埋没(笑)kikoさんと私をこんな本屋さんにほりこんだら、もう、何時間でもいます(笑)岡田淳さんを偕成社に紹介して、作家さんになるきっかけを作られたのは、ここの店主さんです。児童書に深い造詣と理解をお持ちの方なのです。もちろん品ぞろえも充実。大好きな本、気になる本がいっぱい。選書がとても素敵なんですよね。端から端まで欲しくなる。絵本から専門書まで、何を聞いてもいろんなお話をしてくださるので、嬉しくなってあれこれとおしゃべりしているうちに、数時間も経ってしまったという・・・。本を、児童書を、とても愛してらっしゃる。その愛情がたっぷり詰まった本屋さんでした。アイザック・B・シンガーの『ショーシャ』(吉夏社)と、マーガレット・ワイズ・ブラウン&バーバラ・クーニーという大好きなコンビの絵本『どこへいってた?』(童話館)を購入。ここは、また通ってしまうと思います。

たっぷり本を見たあとで、kikoさんのお友達の雑貨屋さんでカレー皿を衝動買いし、「tea room mahisa」で、美味しいスイーツとミルクシナモンティーを満喫し、帰りの電車の中で岡田さんの『図工準備室の窓から』を読んで、電車内で爆笑したくなるのを必死でこらえつつ帰宅するという、至福の一日でした。楽しかった~!

※「しあわせなふくろう」での原画展は、3月26日(火曜日)まで。最終日の26日は、1時頃から岡田さんご自身が来店されます。店内で本の販売あり。お近くの方は、ぜひ!