ミュシャ展 スラブ叙事詩 見るものを射貫く眼差し 東京新国立美術館

スラブ叙事詩を見てきた。予想を遙かに超えて巨大だ。展示できる場所を選ぶこの巨大さは、なぜ必要だったのだろうと思っていたのだが、実物を見て納得するところがあった。これは体験型の絵画なのだ。ミュシャはサラ・ベルナールという大女優の舞台装置や衣装、ポスターを作り上げていた。今で言うプロデューサーのような役割をしていた人だ。その経験も踏まえ、空間が持つ力を最大限に引き出すことで、自分の描く歴史の一瞬を、見るものに肌で感じて欲しかったのではないだろうか。

例えば『原故郷のスラブ民族』の、星空に浮かぶ異教の祭司から見下ろされる威圧感。そして、何より見るものと対峙し、こちらをみつめる二人の男女の凍り付くような眼差しは、強烈だ。今、まさに背後から襲いかかりつつある、殺戮者たちの息づかいや激しい足音の気配が、この眼差しに凝縮している。そして、この眼差しは、この一枚だけではない。どの絵にも、明らかに「見る者」を意識した眼差しでこちらを見つめてくる人物がいる。あなたは今、目撃者になった。見てしまった以上、この出来事と無関係ではいられないのだよ、という眼差しだ。戦いで殺されてしまった人々、故郷を追われさまよう母と子どもたち。ミュシャが描いているのはスラブ民族の人々の歴史だが、民族や宗教の対立をきっかけにした憎しみは、今も世界中に渦巻いている。画布の向こうから見つめ返す眼差しに、こんなに射貫かれてしまったのは、私自身、迫り来る暴力の足音に大きな不安を抱えているからなのだろうと思う。

また、画面はどんなに巨大になっても、そこに存在する人たちは、一人一人の確かな体温と自分だけの顔を持って描きあげられている。『ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛』では、戦いのさなか、火のついた松明が火薬に投げ込まれる、その瞬間が描かれている。画面いっぱいにひしめく、人、人、人。梯子によじ登ろうとしている人も、疲れて座り込んでいる人も、何かを囁き合う人たちも、次の瞬間には全てこの爆発に巻き込まれてしまうのだ。画面中央の黒い帯がそれを暗示して不気味に流れている。私はこの黒い帯に、原爆投下のきのこ雲を連想した。その瞬間まで、自分の運命を知らずに生きていた人たちの顔がここには刻みつけられている。

「見る」ことは、どうしても見るものと見られるものを分かつ。この戦闘を絵にし、客観化してしまうことは、古典絵画の戦闘シーンのような「ただ眺めるもの」として片付けられる危険性も生んでしまう。今の3D技術がある時代なら、ヴァーチャルで体験させてみたいと思うところかもしれないが、ミュシャは、暗黒を絵の中央に出現させることで、この一瞬後を想像させる推進力を絵に込めたのだ。この推進力はヴァーチャルな世界よりも強いメッセージを生むのだと私は思う。ここに刻みつけられた「瞬間」には終わりがない。だからこそ、永遠の問いかけとして見るものの心に刻印されるのだ。芸術が生み出す力を強く感じた一日だった。

カエルくんのだいはっけん! 松岡達英 小学館

 松岡達英さんの命への愛情が、いっぱいに詰まった絵本。松岡さんというと、『ぴょーん』のカエルの表紙を思い浮かべてしまうが、この絵本の表紙も、元気なカエルくんだ。このカエルくんは、生まれたてというか、カエルになりたてのほやほや。だから、その目に映るもの、何もかもが色鮮やかで瑞々しい。

四ヶ月検診で赤ちゃん達に会うと、目の美しさにいつも見とれてしまう。透明な水の膜がうっすらと瞳を覆う、生まれたての目で見たら、どんなにこの世界が色鮮やかに見えるだろうと思うのだ。この絵本の命の輝きを見て、私は、「あっ、これが生まれたての目で見る世界かも」とドキドキした。沼や、川や、夜の森や、茂みにいる昆虫や虫たちが、見開きいっぱいに展開して、生き生きと動いている。生まれたての子どもの眼差しと、経験を積み重ねた表現力と、生き物への深い理解。優れた画家は皆この三つを兼ね備えているのかもしれないが、松岡さんはその力を、惜しげも無くこの絵本に注ぎ込んでいる。この見開きに描かれる生き物たちは、全て食べたり食べられたりする関係で、こうして多種多様な存在がいることで、大きな命の環が出来ている。それが、とても自然にわかるのだ。

今、虫やカエルを、気持ち悪いと思う人が多い。私も小さな頃はびっくりするぐらいの虫嫌いで、虫だらけの田舎に帰省するのが気が重かったが、今から思うと、とても貴重な経験だった。空が真っ赤になるほど群れ飛ぶ赤とんぼや、手ぬぐいひとつで掬い放題に小魚がいる沢。そこにオニヤンマが無数に卵を産むところを、息を潜めて見入ったし、アリジゴクの巣にいろんなものを落としてみたりした。父に連れられて滝に行ったとき、そこがあまりにひんやりと冷たくてしんとしているのが怖かった。今、石牟礼道子さんの『水はみどろの宮』を読んでいるのだが、人の魂の奥深くに分け入るような世界に入っていくとき、その入り口は人ではないもの―虫や花や、川や木の息づくところにあるのだと気付かされる。この世界を人間ではないものの目で眺めてみる眼差しは、人間が人間として旅をするのに必要なことなのだ、きっと。松岡さんの生き物の絵本に出会ったら、きっと本物の自然に向いたくなる。夏休みに、親子でゆっくり楽しめる絵本だと思う。どこかにキャンプに行く前に読んだら、そこで虫たちに出会うのが楽しみになるかもしれない。私の周りにいる絵本好きな人たちにもとても好評だった。見返しの、泳ぐカエルさんの絵も、とっても可愛い。私のようなカエル好きにはたまらない一冊。

2016年5月刊行
小学館

淵の王 舞城王太郎 新潮社

「私は光の道を歩まねばならない」

 この物語の語り手は、主人公をすぐ傍で見つめ続ける目に見えないが、確固たる意志や人格を持つ者であり、主人公はその存在には気付いていないことになっている。しかし、この言葉は、その設定を唯一飛び越えて、主人公が語り手に宣言した言葉なのである。この小説のメタ構造を、さらに飛び越えた、メタ宣言なのだ。つまり、この言葉は小説世界を貫くまっすぐな芯であり、舞城の挑戦的な宣言が主人公の口から語られたものなのではないかと思う。その証拠に、この言葉は最後の「中村悟堂」でもう一度繰り返される。ところが、この唐突な宣言を聞いた目に見えぬ語り手は、アイタタ、と主人公のさおりちゃんを思い切り揶揄する。 「あははははははははは!」「是非歩んで欲しいよ!」「頑張ってさおりちゃん!」と。

 この揶揄は、軽い言葉のようでいて、実はとてつもなく重い。時間が止まって全てを吸い込むブラックホールのように重いのだ。平和や相互理解や、基本的人権の尊重なんて生ぬるいんだよ。結局世の中は強いもの、金持ってるものが勝ちなんだよ。その中で「光の道を歩まねばならない」なんて言ってたら、笑われるよー、いいの?そんなこと言ってたら、踏みつぶされちゃうよん、という、にやにやした虚無。舞城は、そのブラックホールに、言葉で錐を突き立てる。「中島さおり」「堀江果歩」「中村悟堂」という三人の主人公は、底知れない悪意の塊、にやにやとすり寄ってくる「淵の王」に、壮絶な闘いを挑むのだ。しごくまっとうに生きること。自分を、友達を大切にし、誠実に生きること。生きることを楽しむこと。しかし、その中で、彼らは傷つき、ぼろぼろにされ、あげくの果てには飲み込まれてしまうのだ。ただその事実だけを見ると、虚無派の言う「負け」なのかもしれない。しかし、彼らは、間違いなく光の道を歩いたのだ。

 私たちは、自分の生きているどの地点でも、自分の人生、自分の物語が意味しているものを完全に振り返ることができない。それがわかるのは、人生に終止符を打つとき、暗闇に飲み込まれるときなのだろう。この物語は、はじめに書いたように、単なる主人公と読者、という二元性にもう一つのファクターを放り込んでいる。普通なら黒子として身を潜めている語り手が、別個の人格として登場するメタ構造になっているのだ。従って、読み手の感情移入や視線も、その語り手と同調することになる。さおりちゃん、果歩、悟堂、の人生を見つめ、彼らの人生が光であることを知っているのは、語り手だけ。その語り手は、自分を見つめ続けるもう一人の私かもしれないし、さおりちゃんに果歩が、悟堂にさおりちゃんが、というふうに、これまた入れ子になった語り手がついているのかもしれない。(ややこしい!)しかし、とにかくこの物語は、生が死という暗闇に飲み込まれんとするときに読む黙示録なのかもしれない、と私は思うのだ。この物語を語っているのは、生と死の狭間の一点に立つもの。そこに立ち、「私は光の道を歩んだ」と思える人生とは何か、とこの物語を読みながら考えてしまった。もちろんミステリとしても、単なる怖い話としても、たまらなく面白い。でも、私にとってこの物語は、虚無や他者への無関心というブラックホールに舞城が渾身の力で切りつけた、光の一撃に思えて仕方ない。
 
 今、国会前で、日本中で、理不尽に押しつけられようとしている法案と闘うために、勇気を出して声を上げている若者たちがいる。この物語の主人公たちのまっとうさ、光の道をごく自然に歩もうとする姿が、私には彼らと重なって見える。若者たちを、愚者たちが用意している暗闇に差し出してはいけない。絶対にさせない。そう思う。

希望の牧場 森絵都作 吉田尚令絵 岩崎書店

3.11の震災で起きた原発事故で、たくさんの人たちが故郷を追われた。そのときに、たくさんのペットや家畜が悲惨な状況の中、死んでいった。この絵本に描かれている『希望の牧場・ふくしま』の代表である吉澤正巳さんも、国から退去するように言われ、その次は牛の殺処分(なんて恐ろしい言葉だろう)への同意を求められた。しかし、吉澤さんは自分も被曝することを知りながら、退去にも殺処分にも応じなかった。そして、自分の牛たちの世話をひたすら続けて現在に至っている。こう紹介すると、とても悲惨な絵本であるかのように思われるかもしれないのだが、そうではない。もちろん悲惨な事実もきちんと描かれているのだが、この絵本にはシンプルな強さが溢れているのだ。

「だって、牛にエサやらないと。オレ、牛飼いだからさ」

目の前にお腹を空かせている生き物がいる。だから、ご飯を食べさせてやる。ただ、それだけのまっすぐにシンプルなことを、ただやり切ろうとする強さ。肉牛としての「意味」は被曝してしまった牛にはもはや無い。しかし、生きることに「意味」を結びつけているのは人間だけだ。意味がなくなれば殺処分してもいいのか、という問いかけは、そのまま弱いものや目に見えない苦しみを切り捨てていこうとする人間の姿をあぶり出すように思う。

「希望なんてあるのかな意味はあるのかな。 まだ考えてる。オレはなんどでも考える。 一生、考え抜いてやる。 な、オレたちに意味はあるのかな?」

吉澤さんのような人がいて、その生き方を支援する人たちがいる。それは最後の希望なのかもしれないけれど、全てが他人事になってしまったときに、その希望は消えてしまうのだと思う。昨日終わった選挙の結果は、無関心という化け物が生み出した結果なのか。そう思うのは私だけなのか。テレビを見ながらやけに疎外感を感じてしまうのだが、この吉澤さんの言葉を噛みしめながら、考えることを放棄しちゃいかんよ、と自分に言い聞かせている。

2014年9月刊行

岩崎書店

クラスメイツ 前期・後期 森絵都 偕成社

久々の森絵都さんのYA作品です。何と12年ぶりとか。そんなに経ってたのかと、びっくりしました。森さんのYA作品が大好きです。最近はすっかり成人の小説に移られて、もうYA作品はお書きにならないのかと、すっかり拗ねていました(笑)大人の小説もいいんですけど、こうしてYA作品を読むと、森さんにしか書けない世界がやっぱりあるんですよねえ。読みながら、やっぱり好きだなあと嬉しくなりました。

この物語は、1年A組24人全員を主人公にした短編が24篇という企画で、この試みは目新しくはないものの、森さんが書くと新しい風が吹き抜けます。学校というのは、同じ年齢の人間が一つの場所に集まる特殊な空間。その中で、全員のドラマを追うと、面白い反面、息が詰まるようなしんどさが生まれてしまったりします。(これは、私自身があまり学校という場所が得意ではなかったせいもあるのかもしれませんが。)でも、森さんの物語には、どんな物語にもその子だけの風が吹いていて、心地良い。『10代をひとくくりにする、ということの対極に森さんの作品がある』と、あさのあつこさんが以前言っておられましたが、まことに至言だと思います。一人の人間が、様々な距離から見た24の視線から浮かび上がってくる。自分でこうだと思う自分、他人から見た自分。その違いも含めて、24人を描いてますます「個」が際立つという、なんともニクイ構成になっているのです。一人一人の存在感が粒立っているからこそ、一人の人間が持つ多様性がプリズムのように輝いてお互いを照らし出す。そこがいい。この1年A組、とても居心地がよさそうなんですよね。読んでいて、自分の座る椅子も、このクラスの中にあるような気になってきます。その秘密は、担任の藤田先生にあると見ました。押しつけず、いい距離感で常に生徒を見守るしなやかな強さがあります。この「見守る」というのは、実は一番エネルギーのいることだと思うのです。ありとあらゆる機会を捕まえて、水泳部に生徒を勧誘する癖のある藤田先生には、その強さと同時に、人としての可愛げがあって、とても魅力的です。厚みを持つ「人」を書けるのが、森さんの魅力だとつくづく思います。

クラスカースト、LINE、いじめ、グローバル人材の育成・・・今の中学生たちは、マスコミからの情報や、流行のキーワードでとかく読み解こうとされがちです。(いや、これは中学生だけではないのかもしれませんけど)私の頭も、つい、そんな言葉に毒されそうになってしまう。でも、森さんの物語には、そんな薄っぺらさが吹き飛んでいく身体性があります。例えば、自分の子どもが、小学生であろうと、中学生であろうと、赤ん坊であろうと変わらない、たった一人の体温のある存在であるように。ひとり一人が確かに胸に刻まれていく実感がある。最近テレビをつけると流れてくる、首相と呼ばれる人が語る、薄っぺらで大きな物語は、ひたすらうそ寒く恐ろしいです。あれに負けない厚みのある、同時代に生きる「個」の物語を、私たち大人は子どもたちに語らねばならないと切実に思うのですが・・・。そんなことを、この楽しい物語を読みながらずっと考えていました。森さんには、やっぱりYAの世界に帰ってきて頂きたい。自分で物語を語れない私は、やはりそう願ってしまうのです。

2014年5月刊行
偕成社

 

 

ゾウと旅した戦争の冬 マイケル・モーパーゴ 杉田七恵訳 徳間書店

ゾウがとっても可愛いです。戦争という、人間の最も醜い愚行の中で、一頭の子ゾウの姿だけが生き物としてのまっとうさに輝いているのです。空襲の中を子ゾウと旅するというのは、本来なら非現実なことなんですが、戦争がその非現実をひっくり返します。支え合い、いたわり合うということを思い出させてくれる穏やかな、優しい命。戦争のお話なのに、読み終わったあと、生きる喜びがじんわりと心を包んできます。マイケル・モーパーゴならではの不思議な輝きを放つ物語です。

第二次世界大戦の末期、空襲が始まったドレスデンの町から、一組の家族が子ゾウと共に逃げだします。16歳のリジーと、9歳の弟のカーリ、そして母のムティ。飼育員をしていたムティが動物園から連れ帰ってきた子ゾウのマレーネは、人懐っこくて可愛い子。マレーネがいるところには、いつも安らぎが生まれます。空襲の夜、命からがら逃げ、動物園から聞こえる悲鳴を聞きながらたちすくむ三人を、マレーネがそっと鼻で包むシーンがあります。人間の勝手な都合に何の罪もない動物たちを巻き込んでしまったこと。町が焼き尽くされていく悲しみと怒り。地獄絵図のような状況の中で、ただ自分たちを信頼して温もりを伝えてくるマレーネ。その対比が鮮やかで忘れられない情景です。

傷つけ合う愚かさと、心を繋ぐ素晴らしい力と、どちらもが人間であり、生きていく上で多かれ少なかれ誰もが身のうちに抱える両面です。作者はその両面を戦争という極限の中で見事に描いていきます。命を繋ぐぎりぎりの場所で、怒りや悲しみに胸を焦がしながら、家族がいつも「愛」に軸足を置いて歩こうとする。その先頭にゾウのマレーネがいることが、私にはとても象徴的なことに思えるのです。ありとあらゆる手段でお互いを差別化しようとしてしまう人間が陥る最大の過ちが戦争。その過ちをどう乗り越えるかを、種という垣根を超えて心を繋ぐマレーネが教えてくれているようだと思うのです。そして、その力は子ども達の中にも溢れています。たどり着いた叔父さんの農場で出会った敵国人であるカナダ人の兵隊であるピーターに、リジーはあっという間に恋をして、カーリはなついてしまうのです。兵隊という顔の見えない存在から、名前と顔のあるひとりの人間として出会ったとき、いろんな壁が消えてしまう。子どもの持つ、壁を超えてゆく力の鮮やかさが、この物語の中で希望として輝いています。

大人はなかなかそうはいきません。戦争に反対で、日頃ドイツ政府を批判していた母が、一番ピーターに抵抗感が強いのも、これまたよくわかるところです。しかし、この物語にはもうひとつの輝きが描かれています。傷ついた人たちを助け、敵国人であるペーターと共にいるリジー達家族を救ってくれた公爵夫人の知性の輝きです。避難民を受け入れ、自らの信念を貫く勇気は、きっと長い時間をかけて磨き上げられた教養と知性に支えられている。その美しさに、リジー達は救われるのです。壁を超えていく子どものしなやかな心と、磨き上げられた大人の知性。その両方に敬意を払う作者の願いが伝わってきます。

リジーとペーターがその後、どんな人生を送ったか。子ゾウのマレーネが戦争のあとどうなったのか。それは、ネタばれになるので書きませんが。老婦人の回想として少年に語られるこの物語が、かけがえのない子どもたちへの贈り物であることは間違いがありません。表紙も装丁も素敵で、ほんとに読んで良かったなと思わせられる1冊でした。

2013年12月刊行

徳間書店

 

てつぞうはね ミロコマチコ ブロンズ新社

てつぞうは、ミロコマチコさんが一緒に暮らしていた猫さんだ。もっとも、猫飼いの勘で、白いおっきな猫がはみださんばかりの表紙を見ただけで、「あ、この子はミロコマチコさんの猫だな」とわかってしまったけれど。『おおかみがとぶひ』の動物たちは、とってもアートだったけれど、このてつぞうは「あにゃにゃ」と話しかけてきそうなほど心の近くまで寄ってくる。賢くて気むずかしくて、わがままで甘えたのてつぞう。うちのぴいすけも、歯磨きのスースーする匂いが大好きで、私が歯を磨いているとやたらに寄ってくるんだけど。しかも、猫ぎらいで、人を選ぶところも、一緒なんだけど。桜の花びら追いかけてるし。可愛いなあ。てつぞうがめっちゃ好きになってまうやん。やだなあ。困ったなあ。だって、いやな予感がするんだよね・・・と思っていたら、やっぱりてつぞうは、見開きの画面の中で、虹の橋を渡って逝ってしまった。

でも、ミロコさんのところには、今、ソトとボウという二匹の猫さんたちがいて、彼らはてつぞうのお皿でご飯を食べて、てつぞうの使っていたトイレでおしっこもうんちもする。彼らは捨てられていたのを、ミロコさんの知り合いが拾って、てつぞうのあとにミロコさんのところにやってきた。生まれて死んでいくサイクルが、猫は私たちよりも短くて、どうしても先に逝ってしまう。それがわかっているから、目の前にいても、いつも心のどこかに、失うことを怖れる気持ちが揺れているのだけれど。ミロコさんが描かずにいられなかったてつぞうの絵は、生きている喜びがひたすらにいっぱいで、ミロコさんを愛して、ミロコさんに愛されて一生を送ったことがまっすぐ伝わってくる。彼はとても誇り高く自分の命をまっとうして逝った。これを幸せと言わずしてなんとしよう。

ミロコさんは、てつぞうというかけがえのない自分の猫を描いているのだけれど、自分のためにこの絵本を描いていない。命の大きな流れの中に、視点を置き直している距離感が、この絵本を見事な作品にしていると思う。命は絵本の大きなテーマの一つだ。生まれて初めて「死」に向かい合う瞬間が、幼い頃に必ず誰にもやってくるから。てつぞうの命が、ミロコさんの絵の中で生き生きと飛び跳ね、また次の子たちの命と響き合っているようなこの絵本は、言葉を尽くさなくても子どもたちに大切なことを教えてくれるような気がする。

2013年9月刊行

ブロンズ新社

猫のよびごえ 町田康 講談社

年末である。師走なんである。非常に寒がりなので、あまり大掃除とかはやりたくない。しかし、いろいろと用事が鬱陶しいほど溜まっているし、読まなければならない本も山積みなんである。書かなきゃいけないこともたくさんある。先日見た骨太の映画『ローザ・ルクセンブルク』の話なども書きたい。なのに、手元に町田さんの本があると、もういけないんである。つい、開く。読み出したら、町田さんの語り口に引き込まれてしまい、結局最後まで一気読み。もう、とことんまで猫神さまに取り憑かれている町田さんに合掌してしまった。そして、やっぱり色々考えてしまった。

この本には、ここ3年ほどのエッセイが収録されているのだが、その間に町田さん、猫を4匹ほど拾ったり、預かったりしておられるのだ。しかも、何と犬まで増殖している。町田家には既に9匹の猫がいたわけで、もう何がなんやらめっちゃくちゃなんである。これだけ猫がいると、それでなくても猫同士のバランスを保つのが大変なのに、そこに新参者が入ってくると、何しろ猫は環境が変わることが一番嫌いなんで、揉めに揉める。そこで町田さんは、あっちの猫に気を遣い、こっちの猫におべんちゃらを遣い、今度はそっちの猫をなだめすかして、必死に奮闘する。でも、猫たちは町田さんを独占できぬ嫉妬に身悶えして、マーキングはするは、ハンガーストライキはするは、とことん町田さんを振り回す。もう、そのあたりの「しゃあないな、もう」という涙目いっぱいのドタバタがなんとも可笑しく、切ないんである。そして、あったかいんである。

町田さんは、猫を飼うということがどういうことか知り尽くしているので、いつも新しい猫に出会うと一応躊躇する。「猫を保護すると自分の時間をとられるし、はっきりいって医療費も餌代など、銭もけっこうかかる」。本音をいえば、もうこれ以上は避けたい。でも、そのとき町田さんに内なる声がささやくのである。「おまえって悪魔?」見捨てたりなんかしたら「地獄の業火に焼かれますよ」と。町田さんは、含羞の人なのでこういう言い方になるんだが、別に信心深いわけじゃないと思う。町田さんは、忘れる、ということが出来ない人なのだ。身を切る「後悔」という業火の恐ろしさを知っている。

町田さんはたくさん、身寄りの無い猫を飼ってきた。いくつもの命も見送ってきた。自分のところにやってきて、たとえ少しでも一緒に暮らした命は、もう、犬とか猫とかいう種族の分類なんてくそ食らえに関係なく、家族なんである。この本にも、町田さんが代弁している猫さんたちの心のつぶやきがたくさん書かれているけれど、彼らにも人と変わらぬ心があり、プライドがあり、愛情や悲しみがある。小説という、心と常に向き合う作業が習い性となっている町田さんには、彼らの声がほんとに台詞になって聞こえているに違いない。困った境遇の猫を目の前にすると、その子がこれからどんな末路をたどるか、その溢れんばかりの想像力で一番悲惨な状況を思い描いてしまうんだろう。町田さんは、失った猫さんのことを語れない。2年経ってやっと「二〇〇八年三月十五日の深夜、トラが死んだ」と書く町田さんの辛さが、切なかった。町田さんにとって、その記憶はずっと色あせず、変わらぬ手触りで心の中に存在し続けているのだろう。饒舌な町田さんが語れないくらいに。猫や犬を救う活動をしている方達というのは、自分たちのところにやってきた子たちの幸せを考えながら、いつも自分が救えなかった命に心を痛めているようなところがある。その痛みを忘れられないから、手を差し伸べずにはいられない。痛みの記憶を持ち続けることについて、あれこれと考えてしまった。

最近「空気を読む」ということについて、あれこれ考えている。今更遅いよ、と言われそうだが、まあ、それでも考えざるを得ない。だって、最近の「空気を読んで忘れなさい」圧力って、凄いじゃないですか。秘密保護法案ていうのは、「あんたたち、怖かったら何にも言わないで空気読んで自己規制しときなさいよ」っていう脅しみたいなもんですよね。しかも、原発を発電のベースにするよ、なんて宣言しちゃうし。この、全く何も解決できていない状況は、どうするんだか全く説明がないままなのに。戦争だって、震災だって、原発の事故だって、とにかく無かったことにしておきたい人たち(いや、戦争はこれからやろうとしてるのかも)の圧力をひしひしと感じてしまう。でも、そういう人たちは絶対に困っている人、弱い立場にいる人には手を差し伸べない。痛みや苦しみは、効率やお金儲けには邪魔なものだから。町田さんにとって、猫さんと自分は同じ並列にある。(いや、猫さんの方が上にいるのかもだけど)だから、彼らの痛みを見て見ぬふりが出来ない。弱さや痛みを分け合う、というのはまっすぐお互いに向き合う関係の中からしか生まれないのだろう。いつまでも仮説住宅に暮らしている人たちや、事故原発の中で放射能を浴びながら作業している人たちや、自分たちが可決しようとする法案に反対するひとたちのことを見下して差別化する眼差ししか持たぬ人たちは、切り捨てることのみ考えてるんだよなあ。傲慢な彼らの顔を思い浮かべるだけで、げんなりしてしまう。反対に、「やだなあ」なんて思いながらも、絶対に命を投げ出さす、こけつ転びつ、カッコ悪く猫さんたちと生きている町田さんは、何てかっこいいんだろう。町田さんは、猫は空気を読むことに長けているという。でも、猫たちは決して相手に自分の考えを押しつけたりはしない。「私たちはそんな風にして生きている。今日もまだ生きている。今日もまた、生きていく」ラストの一行の「私たち」という言葉が胸に沁みる。

2013年11月刊行

講談社

 

 

泣き童子(なきわらし) 三島屋変調百物語 参之続 宮部みゆき 文藝春秋

宮部さんの物語は、読みだしたらやめられなくなります。昨日は夏休みに入って初めての週末。選挙も重なり図書館の人出も最高潮で、くたくたに疲れて。ところが、寝る前にちょっと、と思って読み始めたら、やめられない。とうとう深夜の丑三つ時まで読みふけってしまいました。

このシリーズも3巻目になりました。人の抱える暗闇と不思議を描くこの物語はますます深く、恐ろしく道なき道に分け入っていくようです。物語は、時代を映します。特に宮部さんのように人の心の闇を特に追い続ける人は、特に敏感に「今」の私たちの闇を感じとるでしょう。先日読んだ『ソロモンの偽証』も、その闇に真正面から向き合う物語で読み応えがありました。けれど、この三島屋のシリーズは時代物なだけに、その闇がすとん、と胸に落ちてくるように思います。江戸時代という、私たちの根っこに繋がる場所のあちこちに棲息している闇が見事に今と呼応する、その闇の色がより濃くなっていることに、私は肌が粟立つ想いがしました。そう思って、それぞれの短編が書かれた時期を見ると、2篇目の『くりから御殿』が書かれたのが、2011年7月。震災からあとに書かれた物語たちでした。ああ・・そうなのか、とこの物語たちに対する共感の想いが深くなりました。

『くりから御殿』は、幼い頃に鉄砲水で故郷を失い、みなし子になってしまった男の話。両親も、親族も、中の良かった友達や従妹たちもすべて失ってしまった長坊の寂しさ、辛さが身に沁みます。40年経っても、その辛さ、「置いてけぼり」になってしまった心の傷は癒えることはなくて、ずっと、ずっと心の奥底で血を流している。大人になっても、幼い長坊は、ずっと「くりから御殿」で失った人を探し続けていたんですよね。宮部さんの描く生き残ってしまったものの苦しみは切なく胸を打ちます。生き残ってしまった、という罪悪感。その苦しみは、朽木祥さんの『八月の光』にも大きなテーマとして掲げられていましたし、V・A・フランクルは、『夜と霧』で「最もよき人々は帰ってこなかった」と書きました。そして、今も何万人もの人たちがその苦しみを背負っているのです。その彼に、なんとか寄り添おうとする女房の姿に、宮部さんの切なる願いがこもっているようでした。

そして、非常に恐ろしかったのが「泣き童子」。漱石の『夢十夜』の第三夜、石地蔵のように重たい子をおぶって歩く男の話を連想させる物語です。全くしゃべらない三つの幼子が、特定の人を見ただけで身も背もないほど泣き叫ぶ。その子は、人の罪に感応するのです。人を殺めた自分の娘は、自分の罪を泣き叫ばれるのが怖くてその幼子を殺してしまった。そのことを知りながら、父も見て見ぬふりをした。しかし、長い月日が経ってその娘が産んだ子は、またもやしゃべらぬ子。見て見ぬふりをした罪は、もっと大きな厄災になって帰ってくる。私は、この物語が他人事だとは思えないのです。私も、過去にたくさんの見て見ぬふりしたことがある。そして、今もそうです。昨日参院選があって、自民党が圧勝しました。私は、彼らの原発推進が恐ろしくて仕方がないのです。今を快適に暮らすために、未来を生きる子どもたちに原発のゴミを置いていく傲慢さが怖い。故郷を失った人たちが何万人もいることを忘れたような顔をして、「美しい日本」などと何故言えるのだろう。私たちは大きな罪を犯しているんじゃなかろうか。そんな気がして仕方がない。未来の子どもたちに、その罪を糾弾されたとき、私たちはなんと答えればいいんだろう。「―じじい、おれがこわいか」という泣き童子の問いかけが、私には震えるように恐ろしい。でも、そんな風に思う人間は、マイノリティに過ぎないんだと痛感してしまう選挙でした。「死んで白い腹を見せ、ぷかぷか浮きながら腐ってゆく鯉の眼」を持つ老人のように、その罪が自分に帰ってくるならまだ良いけれど。未来の子どもたちに背負わせるのは間違っている。「小雪舞う日の怪談語り」の、橋の上から異界にいってしまった女性のように、母親なら自分の命よりも子の行く末を願うもの。その人としての道を選ばなくなった私たちは、いつか「まぐる笛」に出てくる化け物のように、己を喰い果てていく道を選んでいはしまいか。宮部さんの冴えに冴えた筆が描く恐怖が、まざまざと胸に突き刺さる選挙の夜でした。

分別ざかりの大人たち
ゆめ 思うな
われわれの手にあまることどもは
孫子の代がきりひらいてくれるだろうなどと

いま解決できなかったことは くりかえされる
より悪質に より深く 広く
これは厳たる法則のようだ (くりかえしのうた)

これは、ツイッターで流れていた、茨木のり子さんの詩の一節。江戸時代に培われた日本人としての財産を食いつぶすように私たちは生きている。私たちが次の世代に残すものは、ゆめゆめ厄災や負の遺産であってはならないのだと。冒頭の「魂取が池」は、「この世のあちこちにあるに違いない、だけどわたしたちには知りようのない、けっして近づいてはいけない場所」に自分の欲望や浅知恵で踏み込んでしっぺ返しをくらう話です。私たちは、自分も含めて大きな闇を抱える存在です。そのことを忘れてはならないんだと。宮部さんの物語を読むたびに思います。読んでいる間は面白くて面白くて夢中になるんですが。読後にその重みがずしっとくるのがさすがの出来栄え。九十九まで続ける予定らしいので、こちらも長生きしてずっと読みたいシリーズでした。

2013年6月刊行

文藝春秋

発電所のねむるまち マイケル・モーバーゴ ピーター・ベイリー絵 杉田七重訳 あかね書房

何度も何度も繰り返し語られねばならないことがある。例えば、児童文学の大きなテーマの一つである戦争。ヒロシマ、ホロコースト、強制収容所・・・これまで、幾多の物語が様々な苦しみの中の「たったひとり」の物語を紡いできた。時々、「何度も使い古されたテーマで物語を書くのは、進歩がないのでは」などと言う人もいるが、それは誠に間抜けな楽観主義である。私たち人間は間違いを犯す動物なのである。間違えまいとして考えに考えた挙句、大きな落とし穴に落ちたりすることもある。間違える動物である私たちが出来ることと言えば、何度も何度も、間違えた記憶を反芻し、なぜ間違えたのか、これから間違えないためにはどうしたらよいのかを、真剣に考え続けることくらいしかないと思うのだ。そして、その記憶は、たったひとりの心に寄り添うものでなくてはならない。私たちは、他人の苦痛に鈍感だ。特に、顔の見えない人たちの苦痛は、無かったものとして葬り去ることが出来る。だからこそ、「ひとり」の、名前と顔を持つ人間の心を描き切ることでしか、私たちはその苦しみを共有できないのだと思う。だから、物語は、何度も何度も書かれねばならない。『八月の光』の後書きで、朽木祥さんが、おっしゃっていた言葉。「二十万の死があれば二十万の物語があり、残された人びとにはそれ以上の物語がある」のだから。

原発の問題もそうである。チェルノブイリに、3.11の震災でのフクシマと、短期間に私たちは大きな事故を繰り返した。あれからたった2年と少ししか経たないのに、もはやマスコミも政治家も、原発の問題を論点にしなくなっている。むしろ論点にすることがタブー視されるような空気までも漂っている。今議論を尽くさずして、いつ尽くすのだろうと思うのだけれど。前置きがとても長くなってしまったけれど、この『発電所がねむるまち』は、原発で失ってしまったものを描く物語だ。表紙に描かれているような、生きる喜びがいっぱいに漲っている美しい湿原が、死の土地に変わってしまう物語だ。

この表紙でロバに乗って走っている少年が、主人公のマイケル。物語は、大人になったマイケルが、生まれ育った海辺の町を訪ねるところから始まる。少年の頃、その町には大きな湿原があった。ひょんなことから、マイケルは、そこに鉄道客車を置いて暮らしているぺティグルーさんと友達になる。ペティグルーさんは夫が事故で死んでしまったあと、一人で湿原で暮らしている。ロバと三匹の犬と、ミツバチと畑仕事、そしてたくさんの本と暮らしているペティグルーさんの客車の、なんて居心地よさそうなこと。いつぞや、ドキュメンタリーでトーベ・ヤンソンが夏の間暮らしていた島の家を見たことがある。小さい、まさに小屋のような家なのだけれど、その小ささが魅力的だった。生きていくのにこれだけあれば十分、という取捨選択を間違いなく選び取る知性と果断さ、そしてユーモアが溢れているような家。さすが、ととても惹きつけられたのだが、このペティグルーさんの鉄道客車の家も、そこに匹敵するほど魅力的だ。もう、ぜひ、そこはこの本を見て頂きたいと思う。ペティグルーさんは、湿原の中で、賢い動物のように過不足なく生きている。その人となりが伝わってくる。

マイケルと彼の母は、ペティグルーさんと友達になり、そこでとても幸せな時間を過ごす。広大な湿原と走る動物たち。降るような星空。幸せな日々―。ところが、ある日、その湿原に原発計画が持ち上がる。初めは反対していた人たちも、段々原発賛成にまわりはじめ、とうとうペティグルーさんは湿原から追い出されてしまうのだ。そんな犠牲の上に作った原発だったのに―久しぶりに帰ってきたマイケルが見たものは、使い古されてただのコンクリートの塊になってしまった原発と、かっての輝きをすべて失ってしまった故郷の姿だった。

「だからお願いです。もういちど考えてください。機械は完璧ではありません。科学も完璧ではありません。まちがいは簡単に起きる。事故は起きるのです。」

私もそう思う。どんなに安全基準を徹底しようとも、間違いは簡単に起きる。だって、その機械を管理しているのは人間なのだもの。自分の手で客車を燃やし、うつむくペティグルーさんの姿に、フクシマの事故で故郷を失ってしまった何万人もの人たちの姿が重なる。よしんば事故が起こらなくても、原発は廃炉にするのにも非常な手間と時間がかかる。そして、その後、また更地にしてしまえるわけでもない。放射能の半減期は人間の寿命など吹き飛んでしまうくらいに長いのだから。例えばコンクリートの石棺で覆い、何百年どころか何千年、何万年もの時を待たねばならない。しかも、コンクリートは劣化する。チェルノブイリのように、何十年ごとにより大きな石棺を作り続けねば放射能は隙間から洩れる。しかも、使用済みの核燃料をどうするかという問題もある。すべてが棚上げなのである。そこまで考えると、果たして原発は安い電力を産む、などと脳天気なことを言ってよいのだろうかと思う。今だけのコストパフォーマンス(この言葉は大嫌いだけれども)と引き換えにするものは大きすぎないか。この物語を読んで、ますますそう思ってしまった。この物語は、本当に「今」読まれるべき物語だと痛切に思う。

2012年11月発行

あかね書房

by ERI

 

村岡花子と赤毛のアンの世界 生誕120周年永久保存版 河出書房新社

今日、初めて梅田のグランフロントに行ってきました。目的は、本を大好きなもの同士のおしゃべりです。デイヴィッド・アーモンド氏の講演会に行った折に、本当に偶然に知り合った若いお友達と、マニアックな本の話をしに行ったのでした。好きな本が重なる、というのはこんなに楽しいものかという勢いで喋りに喋り、気が付いたら夕方。本人たちの感覚では、つい1時間くらいしゃべったかな、くらいの感覚でびっくりしたのでした。本を読むというのはとても個人的な行為なのですが、思い入れのある本のことを同士とあれこれお喋りするのは、本当に楽しいことです。一つの本について、複数の目が持てる。自分が気付かない良さを発見する、話しあうことで深いところまで分かり合えたりする。そんな喜びは、本読みの大きな幸せです。この本のようなマニアックな特集本を読む楽しみも、そこにあります。村岡花子さんと赤毛のアンを大好きな人たちが集まって、自分の想いを語る楽しみ。今まで知らなかったことを教えてもらえる楽しみ。そして、これまで以上に、またその本が好きになれる幸せ。たくさんの喜びがぎゅっと詰まっています。

村岡花子さんについては、以前『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』を読んだことがあります。その時にも思ったのですが、こうして様々な論考やご自身のエッセイなどを読むと、モンゴメリという作家と村岡さんが出会った必然性というか、深い縁に驚きます。ポール・オースターと柴田元幸氏、フランクルの『夜と霧』と霜山徳爾氏、という風に、深く結びついて切り離せない名訳というのがありますが、それはただ文章を訳するという作業以上のものがあるような気がします。明治という時代に、特権階級でない女性が学問を修め、家庭を持ち、幼子を亡くし、戦争を乗り越えて生き抜いていく中で、モンゴメリの物語と魂が結びついていったのではないか、この本の様々な資料を読みがなら、その感はより強くなりました。そして、この本はまた新しい驚きもくれました。モンゴメリが亡くなった当日に出版社に届けられた原稿があったこと。それが最後の赤毛のアンシリーズとしてカナダで出版されたのが2009年であること。そして、その日本語訳が村岡美枝さんの訳で去年出版されていること!慌ててアマゾンでポチりました。アンの後日談ではなく、アンの周りにいた人たちの物語で、これまでよりもダークな、人間の影の部分に焦点を当てた物語が多いとのこと。(まだ全然読めていません)そして、モンゴメリが、最後は自分で命を断ってしまったことも、この本で初めて知りました。彼女は実生活でいろいろな苦しみを抱えていたんですよね。そのことはある程度は知っていたのですが。小説家として成功しながら、晩年を迎えて自殺しなければならなかったその苦しみを、この年齢になって考えると胸がしんとします。そのことも含めて、最後の小説が現れたことで、ここから新しい検証と論考が始まっていくのでしょう。それは、戦争や家庭、女性の生き方という「今」の困難と響き合うのものなのではないか。そんな予感もします。

『赤毛のアン』を、私は何度読み返したことか。アンのような友だちが欲しいと願った幼い頃から、このシリーズは理屈抜きの私の腹心の友でした。アン・シャーリーや『小公女』のセーラ、そしてアンネ・フランクが、ある意味、現実の友だちよりも大切な存在だった時もあります。その自分の強い思い入れが何故だったのか。私は今でも折に触れ考えることがあるのです。この本のような多角的な資料を集めた特集本は、その自分の心のへの道しるべとなるのです。一応図書館で予約して読んでみましたが、やはりこれはポチっと購入決定です。これまた大好きな梨木香歩さんと熊井明子さんの対談が載っているのにも興奮しました。河出書房新社さん、ありがとう。そして、今気付いたんですが、同じく河出書房新社から『図説赤毛のアン』という本も出てるんですね。これも読まねば。

 

桜ほうさら 宮部みゆき PHP

GWだというのに、このところ寒かったですね。花冷えの頃のようなお天気で、私のような寒がりには辛い。今日は暑いくらいでしたけど、また明日は冷えるとか。北海道は雪。気分は春というか初夏なのに・・・という落差がこたえるんですよね。この、「そうあるべき」という気持ちと、現実との落差というのは、概して精神状態に悪い。そして、家庭というのは、この落差だらけの場所なのかもしれません。

主人公の笙之介は、故郷を離れて江戸で暮らしているのですが、その理由は賄賂の疑いがかかった父が、自宅で切腹して果てたことにありました。もちろん家は断絶です。しかし、笙之介の父親は真面目一方な畑を耕すのが楽しみという人柄で、どうやら誰かの陰謀で罪をきせられてしまった疑いが強い。身に覚えのない父を追い詰めたのは、彼の手跡にしか思えない手紙でした。二男である笙之介は父の汚名を濯ぐ手がかりを求めて江戸に出てきたのです。人の手跡を、本人でさえわからぬほどに真似ることのできる人間を求めて、富勘長屋という貧乏所帯ばかりが集まる長屋で暮らす笙之介は、次々にいろんな事件と関わり、たくさんの人と出会います。長屋の気のいい住人たちとの友情や、桜の精のような女性・和香との出会い。狭い故郷の藩の中では見えなかったものが、江戸という人のるつぼの中で様々な人間の暮らしに向き合っているうちに段々見えてくるのが読みどころです。

家庭というのは、密室性の濃いものです。それだけに、離れてみて、もしくは時間が経ってやっと見えてくるものがあったりします。笙之介の母は、思い通りにならない自分の人生の帳尻を、自分に似た長男で合わせようとした。それが、一家の破滅の始まりだったんですが・・・。こういう理不尽なめぐり合わせにがんじがらめになってしまう人たちのドラマを書かせたら、宮部さんの右に出る人はそういないでしょう。笙之介の母だって悪人ではありません。本人は正しいことをしている積りなのです。この、正しいことをしている積りの人、というのがこの世で一番始末に負えません。自分の行動の裏に、何があるのかを考えてみることはしないので、軌道修正出来ないんですよね。子は親の影を生きる、といいます。母に可愛がられた兄は、母が溜めこんだ毒と一緒に、今度は金と権力が欲しい邪心と出会って破滅への道を進んでいくのです。

家族というのはなかなか厄介なものです。親子だから、兄弟だから、気持ちが通じたり、愛し合って生きていきたいと誰しもが思う。でも、そんなに簡単にはいかないんですよね、これが。この間も、佐野洋子さんの「シズコさん」を読み返していたのですが、母を愛せないという自責の念をずっと抱えていた佐野さんの苦しみが、娘として、母親として胸に沁みました。「親を愛せず、親から愛されないとしても、それだけで人として大切なものを失っているわけではない、家族だけが世界の全てではない」(著者インタビューより)ということを、宮部さんはこの物語で書きたかった、とおっしゃってますが、そのことを自分の心の真ん中まで得心させるには、なかなか大変なものがあります。この本の分厚さは、その心の旅の長さなのかもしれません。笙之介が、結果的に自分の名前も過去とも決別することになった最後の試練は、読むのは辛くなるほどキツいです。でも、笙之介には自分の居場所とも言える、自分で手に入れた人との繋がりがあった。その暖かさが、桜の花びらのように笙之介に降り注ぐラストが素敵でした。家族だから愛し合って当たり前、という「当たり前」を捨ててみたら、案外そこから新しい関係が始まるのかもしれない。現実を変えることは難しくても、心に届く物語の力がもたらすカタルシスによって、現実を新しく見つめなおす。最後の笙之介と和香の笑顔を思い描きながら、その可能性を思った一冊でした。

2013年3月刊行

PHP

 

嵐にいななく L・S・マシューズ 三辺律子訳 小学館

この物語、冒頭からとてもドキドキします。嵐の夜、お母さんと二人きりで暮らすジャックの家を洪水が襲います。あっという間にあがってくる水の中、ボートで漂う二人・・。思わず3.11を思い出してしまうのですが、その後の展開は津波の話ではありません。でも、この不気味に襲ってくる水のような不安は、この物語の中にずっと漂うことになります。上手いなあ・・・と引きずり込まれるうちに、この物語が近未来のような複雑な設定になっていることに気付くのです。ひたひたと迫る暗い水のような時代の不安。その中で少年が自分の手で掴む、信頼という黄金がきらきらと泥の中から現れる。その鮮やかさに思わず涙してしまう物語でした。

村を襲った洪水から逃れ、新しい町に引っ越ししたジャック。そこで彼は、一匹の傷ついた馬・バンに出会う。バンは、人間とトラブルを起こしたせいで、もうすぐ殺されてしまうという。思わずバンを飼うことにしたジャックだが、動物をペットとして飼うことは許されていない。馬なら、運送に使うという目的でしか飼育できないのだ。一度も馬と過ごしたことがないジャック。でも、両親と隣に住むマイケルの力を借りて、何とかバンに荷を引かせる訓練を始める・・・。

主人公のジャックは、あまり自分に自信を持てていない男の子なのです。度重なる父親の転勤で、まとまって学校に通えず、読み書きが遅れがち。しかも引っ込み思案な彼は、友だちも作りにくい。読みながら、私は、そんなジャックの不安が、そのまま自分の中の不安と繋がっていくのを感じていました。ジャックの生きる世界は、私たちの社会の不安が、そのまま膨れ上がっているような世界なのです。先進技術がありながら、エネルギーが足りない。動物も自由に飼えない。戦争が絶え間なく続き、気候も不順で雨季と乾季を繰り返す。そして、どうやら教育もお金の有無で格差が広がっているらしい。いろんなことを考えれば考えるほど、まるで窒息しそうな息苦しい世界。でも、ジャックは引っ越してきた町で、バンに出会ったのです。躍動する命、温かい体とまっすぐな眼差しを持った美しい馬が、ジャックの内に眠っている力を呼び覚ましていくのです。その毎日の手ごたえが、とても瑞々しく描かれます。「ぼくはこうやってここに、馬といることで、とても満たされた気持ちになる」というジャックの気持ちが、私はとてもよくわかります。嘘偽りなく生きている動物がくれる愛情と信頼ほど、胸にまっすぐ沁み込むものはないですから。バンのいななきが、温かい体が、ジャックの視界に一筋の光を連れてくるのが見えるようでした。

そして、もう一つ大切なのが、隣に住むマイケルとの関係です。このマイケルの描き方がねえ、それはもう上手いというか、何というか。この物語は、ジャックの視点からの部分と、マイケルが日記として書いた部分とが交錯して進みます。マイケルはジャックに自分の日記を書き写すことを勧めて読み書きの手ほどきをするのです。読み手は、ジャックとともに、マイケルの日記から、彼の人となりを想像しながら読み進めていくのですが、いい意味で、その想像を最後の最後で裏切られることになるのです。このどんでん返しが、何とも鮮やかで、「やられた」と思いながら涙が溢れて、もう一度この物語を初めから読み返したくなること請け合いです。マイケルがジャックに与える優しさと希望が、読み返すたびに胸に沁み込んでいくのです。

作者のマシューズさんは、読み手の想像力を刺激することに長けた方です。以前読んだ『フイッシュ』も、とても不思議な味わいの物語でした。読み手の視点によって、プリズムのように様々に色を変えるような、そんなお話なのです。この物語も、そんな仕掛けがいっぱいです。ジャックの世界は、どうしてこんな風になってしまったのだろう?犬や猫が全く出てこないけれど、ペットが許されない時代で、彼らはどうしているのか。・・・そんなことを考えてしまう。ジャックの世界も、私たちの世界も、簡単に答えの出るようなことばかりではありません。簡単に見せかけていることほど、裏にややこしい、どす黒いものを秘めていたりする。情報が溢れるほど押し寄せるこの時代に、子どもたちは一人でこぎ出していかねばならないのです。その中で生き抜く、お仕着せではない知性、本当の知恵とは何かを、この物語は考えさせます。そして、どんな時代であっても、自分の手で繋ぐ信頼こそが、人の背中を押してくれるということを教えてくれるのです。彼らの信頼という黄金は、バンを、ジャックを、マイケルを、嵐になぎ倒されてしまいそうになった村の人たちも救っていくのです。訳された三辺さんもおっしゃっていますが、この最後の驚きを、ジャックとバンとマイケルが成し遂げた奇跡を、どうか味わってみて頂きたいと思います。

2013年3月刊行

小学館

 

 

火山のふもとで 松家仁之 新潮社

去年遊びに行った金沢の21世紀美術館での体験が忘れ難く、時々建築の本などを覗いてみたりします。21世紀美術館を作ったのは妹島和世さんと西沢立衛さんという二人の建築家ユニット「SANAA」。先日特集番組も見たのですが、軽やかで光溢れる建築の数々に魅了されました。建築というのは非常に求心力がありまよね。素晴らしい建築が一つあるだけで、その町の風景や雰囲気を変えてしまう。人が、その場所を目指してやってくる。そういう「場」を作ってしまうドラマチックな力があります。この物語も、建築と人が作る「場」を語ります。この物語を読んでいる間中、浅間山を望む北軽井沢の自然と、「夏の家」が織りなす空気の中にいることが、とても心地よくて幸せでした。

物語は、主人公の僕が、「村井設計事務所」に入所して初めて「夏の家」という山荘で過ごす日々が描かれます。所長の村井俊輔は、フランク・ロイド・ライトに師事し、端正で美しい建築を生みだす、知る人ぞ知る高名な建築家。夏には、北軽井沢の山荘で仕事するのが、この事務所の恒例です。高齢の村井所長を中心に、個性豊かな人たちが共同生活を送りながら設計に取り組んでいく毎日が描かれます。これがもう、「美」を生み出すに相応しい、素晴らしい場所なんですよ。程よい緊張と自然との一体感がもたらす安らぎと、文化を育んできた歴史が、静かに結実しているような、みっちりと生きる手ごたえを感じる「ぼく」の日々。もう、うらやましいの一言です。村井氏は、木を使った非常に繊細なディテールを持つ建築を生み出す人として描かれています。その建築に対する姿勢は、そのまま、この物語の作者である松家氏の思想でもあるのでしょう。「細部と全体は同時に成り立っていくんだ」という言葉通り、ありとあらゆる細部に神経が行き届き、それらが見事な調和を見せる物語でした。だから、どこを読んでいても気持ちが好い。松家氏の美意識の鋭さと繊細さが、「ぼく」の眼差しの初々しさと重なって、もう二度と帰らない夏の想い出を煌めかせます。

そう、この夏は二度と帰ってこない「ぼく」にとって忘れられない夏なんですよね。この「夏の家」の日々は、初めから僅かな滅びの影を纏っています。急ぐように熱を帯びるコンペの準備や、村井氏が語る言葉のひとつひとつに、ある予感が孕んでいる。どんなに優れた才能と頭脳の持ち主でも、貴重な、積み上げた経験とともに滅びる日が必ずやってくる。人も、必ず朽ちていくものなのだけれど、どう生きるか、という志を持った美意識は、心から心に伝わっていくものなのです。それを残していくのが建築であり、物語なのだと、そう思います。人生にこぎ出したばかりの「ぼく」の若さ、生命力と、最後に燃えあがろうとする老建築家の気概が重なり合って、清冽な「場」を生み出す。どっしりと変わらぬ浅間山を背景に、より良く生きようとする人たちのコミュニティの在り方に深く共感できる物語でした。

ここからは、この物語を読んで私が考えたことなんですが。日本人の仕事の理想的な在り方は、こういうところにあるんじゃないかと思うんですよ。繊細な美意識と手仕事。自然との調和。各々の長所を生かした共同作業。緻密な手触りのディティールが生み出す心地よさと清冽な佇まい。冒頭に書いた「SANAA」の仕事も、日本の伝統的な建築の在り方を受け継ぐ美意識が、海外の人に高く評価されているそうだし。世界市場と渡り合う競争力、なんていいますが、それは果たしてTOEFLで何点取る、なんていうところから生み出されるものなのかどうか、はなはだ疑問です。日本人にしか生み出せないものは、何なのか。もちろん語学は出来るに越したことはないけれど、それ以前にやるべきことがたくさんあるんじゃないか。繊細な美意識や手仕事を伝え、継承し、磨き上げていくためには、やはりそれを言い表す日本語の語彙や表現能力が必要です。外国にない、日本人にしかない感性は、やはり美しい日本語があってこそのものだと思うのです。今、それがあまりにもないがしろにされすぎなんじゃないか。この物語の中の、お互いの建築理論を語り合う言葉の豊富さを読むにつけ、優れた仕事と言葉の結びつきの重要さを感じます。感性と思想を伝える「自分の言葉」を持つことは、やはり優れた母国語の感性あってのものではないか。そう思うのです。松家氏は、長年新潮社で優れた文学の仕事をされてきた人。その方が今、この小説を書かれた思いに、そっと心重ねてみたくなる、そんな物語でした。

2012年9月刊行

新潮社

 

 

キミトピア 舞城王太郎 新潮社

舞城氏の言葉は、日常に切り込んでくる鋭く、扇情的な凶器のようだと思う。「言葉」というものは不完全で曖昧な道具で、私たちの生活や意識と密接に結びついている。個人個人の言語感覚のずれもある。その「個」に結びついた言語をいったん日常から引きはがし、厳密に再構築した上でもう一度「日常」という風景の中に放り込む。すると、言葉は新たな熱を帯びて「個」の中に切り込んでゆき、私たちが言葉にすることを諦めて葬り去ろうとしていた感情や奇妙なズレや暗闇を掘り起こしていく。文学というものは、多かれ少なかれ、この営みを繰り返すものだけれど、舞城氏ほど、言葉の可能性と限界を同時に感じさせてくれる人はあまりいないんじゃないか、と思ってしまうのだ。

『キミトピア』と名づけられたこの短編集は、誰でも一度は巻き込まれてしまうような、人間同士のトラブルやズレを克明に描き出す。登場人物、特に語り手は、とにかく論理的に言葉を駆使して思考し、問題の本質をえぐりだそうとする。たとえば冒頭の「やさしナリン」。夫と義妹の「他人のかわいそうに弱い」という性格が巻き起こす、お金とコンプレックスの混じった身内のゴタゴタ…もう、他人に説明するのもめんどくさいこういうゴタゴタって、誰でも一度や二度は巻き込まれたことがあるはず。ものすごく精神力を消耗するんだよなあ、こういうのって。言葉を尽くしても尽くしても、なぜか見事に核心がすれ違っていくあの隔靴掻痒というか、気持ち悪さが、こんなに見事に再現されるのが信じられないくらいなのだ。主人公の櫛子は、夫に、義妹に、ありとあらゆる言葉を駆使して彼らの「やさしナリン」の理不尽さをわからせようとする。この櫛子の言葉は、「そう!それが言いたかったの!」と、自分の過去のゴタゴタに使いたかったセリフ満載の明晰さなんですよ。このあたりの言葉の縦横無尽さは、「真夜中のブラブラ蜂」の網子の言葉たちなんかも読んでてうっとりするくらいです(笑)「好きなことやっていいよ」と言いながら、絶対にそう思ってない夫や息子の無意識の領海に、ビシビシと切り込んでいく網子の言葉たちに、すっかり惚れました。(個人的な感情が入ってるな・爆)

しかし、しかし。櫛子にしても網子にしても、言葉を交わせば交わすほど、相手との距離が離れていくんですよね。言葉たちが、見事な理論と世界観を構築していけばいくほど言葉が照らす光は、同時にくっきりと距離と、お互いの間に横たわる暗闇を暴きだすことになる。…言葉の可能性と限界とは、人間同士が分かり合おうとする可能性と限界のことだよな、とつくづく思う。キミと僕、あなたと私がいてわかり合おうとすることは、どこにもないユートピアを願うことなのかもしれない。でもでも。その言葉の限界を、人と人との果てしない距離を、舞城氏はありとあらゆる仕掛けを駆使して突き抜けようとするんですよね。流動的で、ヒステリックな「今」をガリガリと齧りながら走る、その乱舞っぷりを、私は頼もしいと思うし、エロくて素敵だとも思うし、とことんいてまえ!とも思うのである。文体の疾走感を読む楽しみだけでも、相当ポイント高いです。…なんで、舞城氏は、芥川賞を取れないんだろう。不思議だなあ。

2013年1月刊行
新潮社