とっても すてきな おうちです なかがわちひろ文 高橋和枝絵 アリス館

先日、津久井浜にある「うみべのえほんやツバメ号」で開催されていた「高橋和枝絵原画展」におじゃましたときに、この絵本の原画を拝見した。当日は37度になろうとする酷暑で、その前に行った上野では息も絶え絶えになったが、京急の特急で向かった三浦半島の津久井浜という、海風が吹き渡るところはとても爽やかで、生き返ったような気持ちになった。そして、そこで出会った絵本の原画も、私を生き返らせてくれるような気持ちにしてくれたのだ。一階には『ねこもおでかけ』(朽木祥 講談社)の原画。大好きな茶トラの猫、トラノスケがとっても可愛くて、ご自分も猫を飼ってらっしゃる高橋さんの猫愛があふれていた。猫愛は昨年出版された『うちのねこ』(アリス館)にもあふれているのだが、そのモデルの猫さんとの日々を綴った手作りの冊子も拝見できて、とても嬉しかった。そして、二階のギャラリーには、この『とっても すてきな おうちです』の原画が並んでいたのだ。

 

「幸福という言葉が、どのような内容を持っているかは別問題としても、私は幸福になろうと思うし、そう希望することを許されている筈だ。私たちはあまり多くの不幸を知りすぎたので、自分がどんなに不幸であるかということをはっきり知る力を失ってしまっており、そういうほんとうに不幸な状態に完全に慣らされてしまった結果、ばくぜんと、そういう不幸な状態を最もふつうの状態のように考え、そのことから幸福という言葉の本当の意味の重量を知ることができなくなっている。」(石原吉郎「一九五六年から一九八五年までのノートから」石原吉郎詩集、講談社文芸文庫、二〇〇五より)

 

「幸せ」とは人によって違う。特に幸せを欲望と結びつけたときには。しかし、シベリア抑留という生と死の極限を体験した石原吉郎にとっての「幸せ」とは、欲望をかなえる喜びとは違うような気がするのだ。それは、人間が人間として、当たり前に、深々と呼吸をし、生活するようなことではないかと思う。この絵本には、その「幸せ」が見事に息づいている。何も特別なこともない、ただ日の当たる春の庭。アリや、クモや、ツバメが巣を作り、猫と子どもが日向ぼっこをする。それぞれの生き物には「おうち」があって、命の営みがある。お互い食べたり食べられたり、という緊張感はあるけれど、硬く、重たく炸裂し、あたり一面を焼け野原にするものなど何も降ってはこない、共存を許された穏やかな場所。陽射しのなかで、お日様の匂いのする猫の背中に顔をくっつけて、命たちの小さなざわめきを感じながら、うとうと、ごろごろ、する。子どものほっぺと膝小僧も、ほんのり色づいている。「これが/わたしたちの おうちです。/おひさま きらきら かぜが そよそよ/つちが しっとり ほっこり あたたかい。」ツバメの巣のある縁側で、うーんと昼寝のあとの伸びをする頁の絵に、魅入られる。高橋さんの絵は質感がとても柔らかい。植物も鳥も虫たちもたくましい生命力を持っているが、同時にその命の湛えられている体の輪郭はとても柔らかくて傷つきやすい。だからこそ、命は成長するし、形を変えて生き続けることもできるのだ。その儚さゆえの命の力がどの絵からも伝わってきて、心を包んでくれる。

 

ここ数年、そして去年の秋から特に、何をしていても気持ちの裏側に、今、ガザで行われているジェノサイドのことがべったりと張り付いて、消えない。子どもたちが飢え、殺されていくのを世界中が見ていることを思うたび、「幸せ」という言葉自体が崩れ去っていくような気さえする。この状態に自分自身が慣れてしまっている、と思うときには特にそうだ。

「幸せ」はここにある。子どもが柔らかく伸びをし、風がそよぎ、洗濯物がはためいているこの庭に。この「幸せ」を心ゆくまで享受するのはすべての子どもがもっている権利だし、この世界を担保するのは大人の役割だ。改めてそう思う。そう思える出会いがあって、ほんとうに良かった。『ねこもおでかけ』と、去年出版された『うちのねこ』(アリス館)にお宝サインを頂いて、ほんとに「幸せ」な時間だった。

うまれてそだつ わたしたちのDNAといでん ニコラ・デイビス文 エミリー・サットン絵 越智典子訳 斎藤成也 監修 ゴブリン書房

 

国とは何だろう。国という大きな枠組みに属していないと、わたしたちが人間らしく生きることは難しい。しかし、「国」というアイデンティティは、私たちを形作る複雑な、無数の要素のたった一つにすぎないはず。好きな音楽、食べ物の好み、どんな家に住み、どんな仕事をしているのか。映画の好みや、それこそ推しのアイドルに至るまで、ひとりの人間のなかには、無数のアイデンティティがある。それなのに、たった一つ、国という帰属のために、敵と味方に分かれて殺しあわねばならぬという価値観に縛られる理不尽から、そろそろ自由になってもいいはずだ。

 

「すべての いきものが、うまれて そだつ」という文章と生き物たちの鮮やかな絵からはじまるこの絵本は、DNAという生き物の「せっけいしょ」について、わかりやすく楽しく教えてくれる。驚くほどはやく成長するもの、長い時間をかけるもの。大きく成長するもの、小さいサイズでおとなになるもの。環境にあわせてDNAの設計書がつくりかえられ、驚くほど多様な生き物たちが、この地球上に生きているという奇跡がどのようにこの青い星に満ちているのか。その理由が科学の力でわかりはじめたからこそ、なお募る不思議さと豊かさが、ぎっしりとこの絵本には描きこまれている。

 

様々な肌の色、髪、体格、服装をした人たちが100人以上いる駅を描いた頁と、動物や植物たちが300種類近く(正確に数えるのが難しいほどたくさん!)も描きこまれた頁が呼応するように配置されているのは、考え抜かれてのことだろう。様々な人種に分かれているように見えるが、私たちは「人間」という大きなひとつの種だ。肌や髪の色の違いは、多様性というDNAの生存戦略。人間のDNAという設計書は、ひとりひとり違うけれども、「わたしたちは みんな おなじ、にんげんだから。」地球上のほかの人たちとも似ていること。そして、地球上のすべての生き物の設計書も、どこか同じところがあって、「みんなが おおきな かぞく」であること。大きな命の樹に実る果実のように。

 

見かけも、生き方もこんなに違う生き物がいる地球の不思議と、それが塩基というたった4つの文字で書かれた暗号から、出来ているんだという驚きを何度も味わいたい。科学は、積み上げられた事実に裏打ちされた大切なことを教えてくれる。動物学者であるニコラ・デイビスは、科学者の視点から、命の不思議を教えてくれるが、そこには深い祈りがあると思う。どうやら、私たち人間の遺伝子には、ある条件がそろうと発動する残虐さが組み込まれている。ゾンビのように蘇る戦争を、これほど繰り返しているのだから。しかし、この血塗られた呪いを解く鍵もやはり私たちのなかにあると思いたい。ニコラ・デイビスは、その鍵のひとつを、子どもたちに手渡したいと思っているのではないだろうか。彼の書いた『せんそうがやってきた日』(レベッカ・コップ絵、長友恵子訳、鈴木出版)という絵本もぜひ読んでほしい。もう、大人たちの憎しみに子どもたちが殺されるのは、たくさんだ。

2021年4月発行

青いスタートライン 高田由紀子作 ふすい絵 ポプラ社

東京オリンピックの影響だろうか。最近、若い子たちの活躍が大きく取り上げられることが多い気がする。将棋の藤井四段のような、何十年に一度という天才の活躍は確かに心弾むけれど、心配性の私は、あんまり若い子たちを急かさないで欲しいなあと思ってしまう。
ゆっくり大きくなるタイプの子どもは焦ってしまうんじゃないだろうか。

この物語の主人公、颯太もゆっくりタイプの男の子。でも、仲良しのハルは、もう中学受験の準備を始めている。そして、お母さんのお腹の中には、生まれてくる妹か弟がいる。颯太は、自分の周りの流れが、急に速くなったように感じてしまう。おばあちゃんのいる佐渡に夏休みの間行くことになった颯太は、おばあちゃんが見せてくれたオープン・ウォータースイミング、つまり遠泳の大会の映像に心惹かれて、なぜか自分も出場することを決めてしまうのだ。プールで25mしか泳いだことのない颯太に、おばあちゃんは夏生という17歳のかっこいい男の子をコーチにつけてくれる。佐渡の美しい海で、颯太と夏生の夏が始まるのだ。

この物語の魅力は、言葉が五感を鮮やかに立ち上げてくるところだ。海の匂い。日焼けした肌の感触。颯太が体で感じることが、まっすぐに心の波として打ち寄せる。颯太は、決して要領が良いわけでも、運動神経がいいわけでもない。海もほんとは怖かったりする。でも、そんな自分にまっすぐ向き合う素直さが颯太にはある。この、海という大きな大きなものに向き合うときの、もう、自分以上でも、自分以下でもない感じ。自分がちっぽけだよなあと思う爽快感が、颯太と、夏生という二人の少年の姿から自分に吹き込んでくる。この風に、吹かれているのがとっても気持ちいいのだ。海に向かうときは、誰かと比べる必要なんてない。遠泳は、最後は心だという、地元の漁師のおじいちゃんの言葉が、とてもいい。佐渡に生きている人だからこその、人生の言葉だ。

海の魅力は、怖さとセットになっていると思う。どこまでも広がる視界は、気持ちいいけれども、果てがなさ過ぎて、不安になる。入ってみたい衝動にかられるけれども、いきなり深くなって足を取られたり、見た目ではわからない急な流れがあったりする。子どもが、人生という、先の見えないものに対する恐れや不安にも重なるようにも思う。その海の、ほんとに短い距離だけれど、自分の力で泳ぎ切って見えた輝く風景を、颯太と一緒に見て欲しいなと思う。きっと海に行きたくなる。佐渡は作者の高田さんの故郷だ。この海、私も行ってみたい。もう、颯太のように泳ぐのは無理だけど(笑)

一三番目の子 シヴォーン・ダウド パム・スマイ絵 池田真紀子訳 小学館


一人の女が産んだ一三番目の子を、その子の十三番目の誕生日に、生け贄に捧げよ。そうすれば、一三年間の繁栄が約束される。約束が守られないとき、村は暗黒の神ドントによって滅ぼされるであろう。その呪いにより、主人公のダーラは、明日一三歳の誕生日を迎え、足に石をくくりつけ、海に沈められるのだ。ダーラはそのためだけに、家族からも離されて育てられてきた。

この残酷な一日を、作者は様々な眼から描いていく。ダーラの、死を目の前にした夜。恐怖に震える彼女の前に、一度も会ったことのなかった双子の兄・バーンが現れる。村では、一三番目の子を誰も産みたがらない。二人の母・メブも、自分が双子を妊娠していることに気付かなかったのだ。十二番目に生まれたのが男の子のバーンで、十三番目が女の子のダーラ。しかし、この最後の夜に、二人はクロウタドリの案内で、「運命の裏側」を覗くことになる。どちらが十三番目の子どもだったのかを知ってしまうのだ。真実を隠してきた母の悲痛な叫びと、それを笑う産婆の会話を聞いた二人が、それぞれお互いを助けるために死を決意する。その姿に、母のメブは「どうかこの一度だけ、正しい道をお示しください!」と神に叫ぶ。

生け贄になるダーラ、双子の片割れのバーン、母のメブ、家族はそれぞれの苦しみにあえいでいる。なぜ殺されるのが自分なのかという苦しみ。また、なぜ自分ではないのかという苦しみ。二人の子のどちらかを選ばねばならなかった母の苦しみ。そのどれもが、抑制された音楽的な文章からずっしりと伝わってくる。彼らの苦しみは、愛情と贖罪ゆえの、人としての苦しみだ。この苦しみも恐ろしいが、この物語の中で一番恐ろしいのは、この家族の傷みを全くの他人事として見放している、その他大勢の村人たちだ。これまでそうだったから、という思考停止。一人の命を捧げることで、大多数の人間が幸せになるなら、それが正しいという考え方。皆にあわせておかないと、矛先が自分に向かってきちゃ困るんだよね、という気持ち。その名前を名乗らぬ人たちが、声を揃えて「二人とも殺せ!」と叫ぶのだ。

シヴォーン・ダウドが、この物語を神話のような舞台設定にしたのは、この苦しみと無関心が、人間がずっと抱えている普遍的なものであることを伝えたかったからなのではないか。私たちは、ダーラとバーン、メブ、どの立場にも運命のいたずらでなり得る。しかし、知らず知らずのうちに、海に沈む子どもを無感動に眺めていることが多くはないか。こんな犠牲が間違っている、と声にあげることを怖れて見て見ぬふりをしているのではないか。子どもたちを縛る呪いは、他でもない人間が作り上げたもの。それを断ち切ったのは、双子と母の勇気だったが、本当はこんなことをさせてはいけないんだ、という強い気持ちが物語の底から伝わってくる。シヴォーン・ダウドは、『ボグ・チャイルド』でカーネギー賞を受賞した、将来を嘱望される作家だったが、47歳でこの世を去った。貧困地域や少年院など、本を読む環境にない子どもたちへの読書活動にも関わっていた方だったらしい。私は翻訳されたものを全部読んでいるが、どれも忘れがたい作品ばかり。彼女の未発表作品を、こうして美しい本にして出版して貰えて、本当に嬉しい。

パム・スマイの挿絵と装丁が素晴らしく、物語を一羽の鴎になって目撃するような、神秘的な気持ちにさせられる。手元に置いて、何度も何度も読み返したい。運命のいたずらに巻き込まれた痛みに震えるときも、この世界で一番美しいものに触れたいときも。そして、今、自分がこの物語のどこに立っているのかを確かめたいときも。呪いの連鎖を断ち切って、新しい土地に降り立った若い二人の背中が眩しい。これからを生きる、若い人たちに読んで欲しい本だ。

2016年4月刊行
小学館

エベレストファイル シェルパたちの山 マット・ディキンソン 原田勝訳 小学館


うちの図書館で高校生むけの冊子を作るというので、急いで読了。山岳小説も色々読んだが、シェルパを主人公にした小説は珍しいのではないか。エベレストという特別な山の魅力と、主人公のシェルパの少年・カミのピュアさが呼応しあって、厳しく美しい物語になっている。

物語は、ボランティアでネパールにやってきたイギリス人の少年を道案内役に進行する。急病にかかった彼を看護してくれた美しい少女・シュリーヤの頼みで、彼女の恋人であるカミを探しにいく。そこまでがまず大変なのだが、エベレストにも、カミという少年にも、簡単には会えないということなのだろう。「ぼく」が見たものは、首から下の機能を失ってベッドに横たわるカミの姿だった。物語は、そのカミの口から語られる。アメリカの有名人ブレナンを隊長とした登山隊に、シェルパとして参加したカミが、何を見、何を経験したのか。作者はカミの人生にも深く踏み込んで、彼がひとりの人間として、どんな希望や決意を持ってこの登山に臨んでいるのかを描き出していく。古くからの慣習が根強く残る土地で、カミが生まれながらの婚約者ではなくシュリーヤとの恋を成就させるには、お金が必要だった。この登山は、カミにとって将来を切り開くための大きなチャンスだった。カミのシェルパという仕事への誇りとシュリーヤへのまっすぐな愛情が、この物語の大きな魅力だ。

  しかし、高額なお金が動くエベレスト登頂は、まっすぐな情熱以外の様々な思惑や事情を孕んでいる。隊長のブレナンは、将来の大統領候補とも言われる人物で、それだけに注目度も高い。ブレナンにとっても、どうしても成功させなければならない登頂なのだ。しかし、エベレストは気高く来るものを拒む。様々な困難を乗り越えて、たった二人で頂上を目の前にしたカミとブレナンがした選択は、その気高さに相応しいものだったのか否か。

エベレスト登頂の経験がある作者は、様々な思惑を持って集まってくる人間達の事情を、リアルに描き出している。やはりそこにはお金が動いていて、名誉や名声が欲しい人間の欲望も渦巻いているのだ。しかし、エベレストはそんな人間たちを、丸裸にしていく場所だ。たったひとり、「個」として偉大な存在に向き合ったときに、どう生きるのか。自分以外、誰も知らない嘘を、人はつき通すことが出来るのか。負けるとわかっている道を進む勇気とは何か。人の、真の強さとは何か。様々な問いを投げかけて、何も言わずそびえ立つ山の存在感に痺れ、魅入られる一冊だ。

わたしが外人だったころ 鶴見俊輔文 佐々木マキ絵 福音館書店


 鶴見俊輔氏が93歳で亡くなられた。文章と本でしか存じ上げないのに、あんなに凄い知性の方なのに、なぜかとても心の近くに存在を感じる方だった。朝日新聞の上野千鶴子氏の追悼の文章が心に沁みる。もっと氏の本を読まねばと、憲法九条がなし崩しにされようとしている今、焦るように思っていたところだった。私の勉強の仕方は、いつも遅すぎる。

 この本は、福音館書店が出している「たくさんのふしぎ」という月刊誌から生まれたもので、今年の五月に傑作集としてハードカバーで出版された。16歳だった鶴見少年がアメリカに渡り、ハーバード大学に入学する。しかし、日本とアメリカは戦争を始め、大学卒業間際だった俊輔青年は留置場に入れられてしまう。その後、「日本が戦争に負ける時、負ける国にいたい」と帰国するも、徴兵されて戦地へ。そこでカリエスを発症して帰国し、敗戦の日を迎えたのだ。この体験は、鶴見氏のその後の生き方の原点になっている。

「わたしは、アメリカにいた時、外人でした。戦争中の日本にもどると、日本人を外人と感じて毎日すごしました」

 大体の日本人は、自分が「日本人」であることに、何の疑いも持たない。しかし、鶴見青年は、戦争というものによって、自分のアイデンティティを根本から覆されてしまったのだ。そして、鶴見青年を乗せた日本の軍艦は、一隻残らず太平洋に沈んでいった。たくさんの人が死んでいった。では、「なぜ自分がここにいるのか」。自分の生き残った理由もわからない。その「たよりない気分」はずっと続く。常に思想家の鶴見氏の中には、この思い惑う、柔らかな心の青年が息づいている。鶴見氏は、ずっと問いかけ続けたのだ。自分は何者か。日本人であるとはどういうことか。日本がした戦争とは何か。近代とはなにか。国とはなにか。一生をかけて問い続け、行動し、自分の頭で、考え続けた人。その原点には、自分の肉体で感じた抽象化されない強い実感がある。その実感が、ここに、とてもわかりやすい言葉で、子どもたちに向けて綴られている。佐々木マキさんの挿絵も、氏の孤独や「国家」の不気味さを写し、不思議な美しさで一人の青年の内面を表現している。

 この不安や孤独に揺らいだ感覚をずっと忘れずにいたこと、魂の奥深くに刻んだことが、真のリベラルな思想を生んだのだと私は思う。だからこそ、これからを生きていく子どもたちにこの本を読んで欲しい。感じて欲しい。復刊されて良かったと心から思う。

いっしょにアんべ! 高森美由紀作 ミロコマチコ絵 フレーベル館

人々の暮らしと共に歩いてきた言葉が持つ力というものは誠に大きいなと思う。タイトルは東北の方言で「いっしょに行こう!」という意味だ。しかし、「アんべ!」という言葉には、もっと深い温もりや、お互いの荷物を持ち合うような共生の気持ちが含まれているように思う。まあ、お互いあんまり器用には生きられないけれど、一緒にいこか(大阪弁で解説して申し訳ない)という気持ち。この物語には、縁があって寄り添う男の子のストレートな思いが溢れている。踏まれても折られても、何とか伸びようとする若芽のような子どもの力が、朝日のように輝く素敵な物語だ。

主人公は、柿の木から落ちて足を骨折してから、クラスメイトたちと距離が出来てしまい、ひとりの日々を過ごしている5年生の男の子ノボル。そして、彼の家に里子としてやってくる、3.11の震災で親を亡くした有田といういがぐり頭の少年だ。この二人の距離感がとても面白い。有田はマイペースで、いつも首からカメラをさげ、目に付くものを片端から撮りまくっている。何かにつけその調子で、長年ひとりっきりで人との距離感に敏感になっているノボルにぐいぐい近寄ってくる。ノボルも最初は引き気味なのだが、有田のどこかひょうきんで憎めない性格に少しずつ惹かれていく。震災は有田の心に深い傷を残している。水が怖くて一人で風呂に入れないし、首から提げているカメラは、独りぼっちになってしまった避難所で被災した夫婦がくれたもので、片時も手離すことが出来ない。学校に行っても昔自分が飼っていた犬に似ている近所の犬を、追いかけ回してしまう。

この有田という少年が持っている悲しみと痛みが、ノボルの目を通して読み手に強い実感をもって伝わってくる。彼がなぜ、目に映るすべてのものをカメラに撮りたがるのか。それは、彼が常に「末期の目」でこの世の中を見ているからに違いない。彼はあの日に生と死の境目に立ち、家族も友達も目の前で亡くしてしまった。それまでの日常を無くしてしまった彼には、窓に映る水滴一つもかけがえのない「今」の瞬間なのだ。少しの揺れにも恐怖が蘇り、愛犬のチョコを、流されていく父や母を助けられなかった苦しみはいつも胸にある。大人はそんな彼を傷つけまいと、少し遠巻きにして彼を見ているのだが、ノボルはそんな有田に振り回されながらも、子ども同士のまっすぐさで、彼にぶつかっていく。ケンカもする。文句も言う。でも、ずっと一人で過ごしてきたノボルは、いきなりひとりっきりになってしまった有田の心の痛み、苦しみを理屈ではなく感じる心根を持っているのだ。有田にどんな声をかければいいのかと聞いたときに、ノボルの父ちゃんが言う。「ただ、そういうことがケイタくんの身に起きた、ということを知っていればいい、心にもないなぐさめやとってつけたようなはげましはするな。・・・ただ事実を覚えておきなさい」という。その言葉のとおりに、ただ一緒にいようとするノボル。そして、有田もノボルの過ごしてきた日々の寂しさに気がつく。そんな二人に巻き起こるいろんな事件が、小さなつむじ風のように心に風穴を開けていく。それがとても心地よく胸に沁みた。

物語の最後、犬のダイゴロウを連れた二人が新雪の上を走り回って朝日に叫ぶ姿が忘れられない。声が枯れるまで父母と愛犬の名前を呼び続ける有田の声を、じっと聴くノボル。

「有田の深い傷と、痛みをオレもいっしょになって浴び続けた」

ここから、また生きることが始まるのだ。ひとりではなく、一緒に。「いっしょにアんべ!」という言葉の美しさに込められた作者の思い。たくさんの人に読んで欲しい一冊だ。

2014年2月刊行

ちいさなちいさな めにみえない びせいぶつのせかい ニコラ・デイビス文 エミリー・サットン絵 越智典子訳 出川洋介監修 ゴブリン書房

子どもの特権は(もちろん大人でも大切なことだけれど)びっくりすることだと思う。 おっ、と思うくらいの小さなびっくり。世界の見え方が変わってしまうほど、大きな声で走り回って「知ってた?ねえねえ、知ってた?」と言ってあるきたいほど、大きなびっくり。それが次の「知りたい」に移っていったり、自分を思いもよらない方向に突き動かしたりするんじゃないかと思うのだ。この絵本は「びせいぶつ」つまり、微生物についての絵本だが、一応の知識がある大人でも思わず「うわあ」と声を出してしまう驚きと楽しさに満ちている。絵がとてもいい。スプーン一杯の土に、インドの人口と同じくらいの10億もの微生物がいること。10億・・・という数字は具体的に想像するのが難しいけれど、こうしてうまく視覚化されると、すんなり驚くことができる。一つの微生物があっという間に増殖して見開きの頁いっぱいになるところは、インフルエンザにやられたばかりの体には少々こたえるくらいだ(笑)

微生物は、私たちの目には見えないけれど、地球の生き物にとって大きな役割を果たしている。それが、美しくセンスの良い絵で、誰にでもわかるように描かれていて、なぜかしら、ふーっとため息をつきたくなる。この世界を支えている生き物たちの絶妙な役割分担について。どうして、こんなに多種多様なものが存在するんだろうという素朴な驚き。微生物の形の面白さや不思議さ。何もかもがやっぱり不思議で、何度も読んで、ふーっとため息。大きい、小さい、ということは非常に相対的なこと何だわ、と改めて思う。くじらは大きくて微生物は小さい。うん、確かにそうではあるけれど、それはあくまで「人間」を尺度にしているからそう思うだけのこと。微生物から見れば、猫も人間もくじらも、多分分解したり寄生するべき有機物、というだけのことなのだろうと思う。別の生き物の視点に立つだけで、これまでとは全く違う世界が見えてくる。その面白さを発見する喜びがこめられている科学絵本が私は好きだ。子どもと読んで一緒にびっくりするのが楽しい一冊。

2014年8月刊行

ルゥルゥおはなしして たかどのほうこ作・絵 岩波書店

本当にもう、隅から隅まで可愛い、高楼さんの世界がいっぱい詰まった本なのだ。小さな女の子のルゥルゥが、自分の部屋で可愛がっているぬいぐるみを主人公にしてお話をする。ぬいぐるみたちはそれが嬉しくて、いつも彼女がちりん、と鈴の音をたてて部屋に入ってくるのを心待ちにしている。このルゥルゥの部屋がこれまた可愛いこと、可愛いこと!この本自体、表紙から見返しの小花模様、目次も表題紙もすべてとても凝っていて、本の扉を開いて可愛いお話の部屋に入っていくような気持ちになれる。子どもたちは、この本の扉を開いてルゥルゥのお部屋のぬいぐるみたちの隣にそーっと座り、綺麗なカーテンのかかった窓から素敵なお庭を眺めてルゥルゥのお話を聞けるのだ。私が少女の頃に思い描いた幸せというのはこんな姿形をしていたんじゃないのかしらと思うほど、この本にはいっぱいに喜びが詰まっている。お話を聞く喜び、自分でお話を作る喜び。お話の中に入っていく喜び、そっと本を閉じて物語の世界からそっと帰ってくる喜び。ルゥルゥのお話は子どもらしく行ったり来たりするし、途中で思いつきが挟まったりするのだけれど、それがまた友達とのおしゃべりみたいで楽しい。盛大なツッコミ覚悟で書いてしまうが、私の中に眠っている(何年眠ってるかは秘密)女の子がこの物語の中で満足のため息をつくのが聞こえるのである。   『時計坂の家』『11月の扉』『緑の模様画』。私の大好きな高楼作品の少女達は現実と幻想の世界とのあわいにいて、二つの世界をかろやかに行き来する。彼女たちにとって「おはなし」は特別なものであり無くてはならないものだ。きっと高楼さんご自身もそんな少女だったのだろう。高楼さんも訳した『小公女』のセーラも、自在にお話を語る少女だった。『11月の扉』では主人公の爽子が物語の中で『ドードー鳥の物語』というおはなしを書く。ぬいぐるみと11月荘の住人を重ねて描くそのおはなしは、劇中劇のように物語の中での現実とリンクして爽子の内面を光と影を色濃くして語っていくのだが、このお話のルゥルゥは、爽子よりもっと幼いので、まだ物語に影は生まれていない。ルゥルゥの語るペパーミントの海の色のようにきらきらと透明でどこまでも幸せなのだ。こんなに曇りのないきらきらの幸せが言葉で紡げることに驚いてしまう。岡田淳さんといい、高楼さんといい、絵が書ける方の文章は独特のきらめきがある。ルゥルゥの部屋から見えるペパーミントグリーンの海の色は、『ルチアさん』(フレーベル館、2003)が持っていた水色の玉と同じような色なのだろうか。『ルチアさん』が私は大好きなのだが、あの物語の中の女の子も、確かルゥルゥという名前だった。何でもこじつけたがるのは、本読みの悪い癖かもしれないが、『ルチアさん』のルゥルゥが抱いていた遙かなものへの憧れは、この『ルゥルゥおはなしして』のルゥルゥにも溢れているように思う。

2015年2月刊行

あたしがおうちに帰る旅 ニコラ・デイビス 代田亜香子訳 小学館

ここ数日の暑さといったら。命の危険を感じるほど暑いですよね。その中で、我が家は築26年のお風呂とリビングの改装工事が今日まで入っておりまして、非常に疲れました。工事というのは、たくさんの人が出入りします。常に自宅開け放し状態。その気疲れと、壁をドリルではつっていく恐ろしい音、古い痛んだコンクリの匂いと想像以上にダメージをくらったわけですが、特にかわいそうだったのが猫たちで、ストレスで便秘になってしまいました。終わった途端に立派なのが出て一安心でしたが。どうも、人も猫も、思ったよりも「家」というものに守られているんだなあと実感した一週間でした。猫たち、今爆睡してます。

この物語は、そんな安心できる「家」を持たない少女のお話です。彼女は「イヌ」と呼ばれて怖いおじさんにこき使われてペットショップで暮らしています。いや、「暮らしている」わけじゃありません。だって、人間扱いされていないんですから。そんなイヌの唯一の友達は、ハナグマのエズミ。そんな彼女のところに、カルロスという一羽の大きなコンゴウインコがやってきます。来たときはボロボロだったカルロスですが、イヌに助けられて店の人気者になります。そしてイヌとエズミを連れておじさんのところから抜け出し、「おうち」を目指すのです。

イヌは店に連れてこられる前の記憶がありません。言葉も一言もしゃべらないまま暮らしています。この母語と記憶を失くしてしまうということは、普通ならあり得ません。しかし、『四つの小さなパン切れ』という本を書いたマグダ・オランデール=ラフォンは、アウシュビッツの強制収容所での体験のせいで、母語であるハンガリー語と幼い頃の記憶を失くしてしまったそうです。そこを読んで、私ははっとイヌもそうなんじゃないかと思ったんです。どうやら彼女は誘拐されてきたらしい。子どもを誘拐したり、人身売買したりして強制労働させる、という非人道的なことが、今、この世界で実際に行われている。作者のニコラ・デイビスさんは、そんな子たちのことを取材してこの本を書いたらしい。イヌは、人間としての尊厳もぬくもりもすべてを踏みにじられて生きている。だから、「言葉」も失っているのです。だからこのイヌとエズミ、カルロスの三人(あえて三人と書きますが)の旅は、自分の居場所を取り戻す旅、そしてイヌにとっては自分の言葉を取り戻す旅です。

こういう社会的な問題をテーマにした児童文学、というのは難しいものだと思います。そのテーマをいかに自分のものとして、感じさせるか。そこが非常に難しい。教科書のように「考えてみましょう」と言われたりするのに、子どもたちは飽き飽きしているだろうし。自分とは関係ない、と思われてしまったらアウトでしょう。その点、この物語は、とっても生き生きと物語が動いていきます。読みだしたら止まらないくらい、三人の冒険の続きが読みたくてたまらなくなるのです。いつも傍にいてくれるエズミと、信じられないくらい頭の良いカルロスの組み合わせがいいんですよねえ。窮地に追い込まれたときのカルロスが放つ言葉が、相手をやっつけてしまうところなんか、もう、ほんとに胸がすっとします。ほんとにカルロスはまるで中世の騎士のようにイヌを守るんですよ。カッコいいんです。惚れちゃいます。

動物、冒険、そして友情。ハラハラドキドキの冒険の後、カルロスは「言葉」のいらない自分の世界に帰っていきます。このシーンの美しさ、切なさは忘れられません。そして、最後にたどりついた場所で、イヌはやっと自分の「言葉」を取り戻します。そのとき、イヌと呼ばれていた女の子が、本当はなんという名前だったかが初めてわかるのです。やっと彼女はひとりの人間に帰ることが出来たのです。ああ、良かった・・と思いながら、そのとき改めて、彼女が抱えていた痛みと、生きていこうとする強さが自分の胸の中に溢れてくるのを感じるのです。

想定も挿絵もとても神経が使われています。そして、代田さんの翻訳もとても読みやすくて言葉が美しいのです。イヌと呼ばれた少女を、まるで抱きしめるようかのような本の作りに感動しました。こういうところからも、子どもたちにさりげなく伝えたいものが感じられます。夏休みにおすすめの一冊。ああ、面白かった、と読むだけでいい。きっと、この少女と、エズミとカルロスと友達になれるから。それが大切なんだと思います。私にとっても、忘れられない一冊になりました。

2013年3月刊行

小学館

 

聖痕 筒井康隆 新潮社

筒井康隆に出会ったのは中学生のときだったろうか。あれからウン十年・・・彼は全く枯れることもなく、ますます豊饒に過激に爆弾を投げてくる。何度も書いたけど、やっぱりこの一言を言わせてもらおう。筒井康隆は天才だ!!

彼は一時フロイトにえらく傾倒したらしいし、作品にも色濃くそれが現れ、欲望というのは彼の大きなテーマの一つでもあった。そして今度はそれを逆手にとって大逆転をかましたような作品で、度肝を抜かれてしまった。これは、ほんとに筒井康隆にしか書けない小説だ。主人公の貴夫は絶世の美貌を持って生まれてきたが故に、5歳のときに変質者に性器を切り取られるという恐ろしい目にあってしまう。うわわ、こんな酷いことがこの世にあってよいものか。メラメラと義憤にかられた冒頭で、思えばすっかり主人公の貴夫に私も魅入られてしまったらしい。しかもそこから、この小説はどんどん逆転ホームランを打ってくる。人は性に振り回される存在だが、彼にはその根源たる性欲がない。しかも、類まれな美しさを持ち、裕福な家に生まれ、知性にも優れた彼は、すべてのコンプレックスからも自由なのである。その人生の煌びやかで自由なこと。彼は美しい女性に囲まれて「食」を追求した人生を送っていく。米光一成氏が文春の書評で「現代版源氏物語絵巻」とおっしゃっていたが、ほんとに清々しいくらいのモテっぷり。しかし、私はこの小説は、喪失した場所から語られる物語という意味で、どちらかというと「平家物語」に近いんじゃないかと思う。

貴夫の恐ろしい体験には遠く及ばないが、実は私も先日、右手の人差し指をざっくりと切ってしまった。2針ほど縫っただけで済んだので大した怪我ではないのだが、それでも家事は出来ないし、顔を洗うのもやたらに不便だ。何をするのも普段の二倍以上の時間がかかる。そうして片手の自由を一時的にだが失って見えてくるのは、我が家のいびつさなのだ。主婦という名のもとに、何もかもをこの右手がしていることの不自然さ。いや、笑い話ではなく、これは誠に困ったことだ。この脆さを作っているのは、メンドクサイことはやりたくないという夫の我儘とメンドクサイから何もかもやってしまう私の片意地の張り方の両方で、誠にどうしようもない。どうしようもない、ということがまざまざと見える。この何かを失った所から見えてくるものというのは、良くも悪くも確かに真実なんだと思う。

この物語は、日本が高度経済成長からバブルに向かい、浮かれ騒ぎに狂乱した時代を経て、二年前の3.11の震災までを貴夫の生涯とともに描きだす。日本人が海外でブランドものや土地を買い漁ったり、土地の値段を釣り上げて気が狂ったようにお金を使ったりした時代。その真ん中にいて、ただ静かに「食」という美だけを求めて、その他の欲望から一切無関係な貴夫は、たった一人視点が違う。それは、彼が「失ったもの」であるからなのだ。貴夫という静かな「聖心地」の存在が映しだす過去は、筒井氏が縦横無尽に繰り出す古語混じりのSF擬古文(?)の文体と相まって、きらきらしくも華やかに、人間の欲望を浮かべて輝いて流れていく。まさに「 おごれる人も久しからず、 唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、 偏に風の前の塵に同じ」である。滅んでゆく平家を語るのは、光を失った琵琶法師。そして、現代の滅びは、欲望を失った貴夫の視点から語られ、資本主義というリビドーが終末期に達したことを暗示する。最後に金杉君という文芸評論家(彼は筒井氏自身を思わせる・・・)が終末論を語るのだが、いやもう、ここは全部引用したいほど、今という時代の不安の正鵠を射ていると思う。「この大震災がまさに終末への折り返し地点」であり、これから私たちはリビドーを捨てて「静かな滅び」に向かうべきなのだ、と力説するのである。

小説家は時代を映す。彼らは、目に見えないものを見、耳に聞こえない音を聞こうとする人たちだから。最近、昔に読んだ漱石の文明論が気になっていて、読み返そうと思っている。どこまでも拡大を続けようとして踊り続ける私たちの姿を、漱石は既に明治時代に予言していたんだなと、最近痛いほど思うのである。筒井康隆は、時代を何周も先に走ってきた人。その彼が提示してきた終末論が、やたらに身に沁む読書だった。偉い政治家の人たちは、きっと読まないだろうけどね・・・。

2013年5月刊行

新潮社

 

トランプおじさんと家出してきたコブタ たかどのほうこ にしむらあつこ画 偕成社

音読、というのが結構好きです。声に出して読むと、黙読では味わえない言葉のリズムの面白さも味わえるし、とっても簡単に俳優気分も味わえます。その昔、とても長い間私は子どもたちに本の読み聞かせをしましたが、それは多分子どものためと言いながら、半分以上自分の楽しみだったんですよね。今はそれが出来なくてとても残念。特に、この本のように言葉が生き生きと脈打っているような物語に出会うと、「声に出して読みたい病」が再発して、困りました。子どもたちと、あれこれ突っ込んだりして笑いながら、読みたかったなあ。

まず、登場人物の名前が面白い。動物の言葉がわかるトランプおじさんは、ほとんどいつも本を読んていて、イルカーネポポラーネという白いずんどうの、ソファでいっつもごろごろしてる犬と暮らしています。この「イルカーネポポラーネ」っていうのを、「いるか~ね ぽぽら~ね」ってまず引き延ばして読みたいじゃありませんか。まったり暮らしている二人のところに、トゥモロウというブタが転がり込んできます。トゥモロウは、モンドリ・ドリーさんというおばあさんと一緒に暮らしていたのですが、家族だった動物たちが次々といなくなったのがおばあさんのせいだと思い込んで家出してきたのです。そこで、トランプおじさんとイルカーネポポラーネは、いなくなったカモとワニとテンと小鳥がどうなったのか、調査することになったのです。

このトゥモロウというブタさんの微妙な人(?)となりといい、トランプおじさん&イルカーネポポラーネの、のんびりした探偵っぷりといい、だあれも偉い人や「ああしましょう、こうしましょう」という人が出てこないのが最高に楽しいんですよね。たかどのさんの軽快な言葉のリズムに乗って、つるつる物語の中を滑っていく楽しみ。ところどころに「ふくみがあったのです」「じくじたる思いがしたのでしょう」なんて、大人の言い回しが出てきて、うまくジャンプする場所を作ってあるのもいい。こういう言葉を知って、自分の頭に書きこむ楽しみって、読書の喜びの一つですよね。このあたりの言葉遣いの呼吸が、さすがです。

猫のシマモヨウにそそのかされて生まれたトゥモロウのモンドリ・ドリーさんへの疑いは、実は妄想なのです。でも、調査しているうちにトランプさんたちもその妄想にどんどん巻き込まれていっちゃうんですよね。そのあたりにハラハラしながら、でも、読み手には彼らの妄想が、妄想であることがちゃんと伝わるように書いてあります。だから、子どもたちは、トゥモロウの妄想に皆が巻き込まれる物語を安心しながら楽しめるし、その一部始終を客観的に眺めることにもなっているんですよね。言葉というのは魔力があって、表に見えているものだけを使って、どんな風にも物語を作ることが出来る。それって、ほんとは怖いことなんですよね。例えば・・・ですが。皇太子妃の雅子さんに対する報道なんかを見ていると、マスコミの姑根性を凄く感じてしまうんですよ。ご病気が長くて自分のことを語る機会がないだけに、どんどん勝手に物語が作られてしまっている気がします。心の病を抱えた家族に対して、これは暴力に近いよなあと溜息が出る。そして、こんな風に誰かを追い詰めることを、自分もしてしまうかもしれないと怖くもなる。だから、トゥモロウが作った物語が、ドリーさんの実際の姿からどんどんかけ離れていくのを読みながら、「おーい、帰ってこいよ~!」と子どもたちが思ってくれたら嬉しいな、とこの物語を読んでいて思いました。「これはね、じぶんのよわいこころにつかまっちゃったってことだとおもうんです」という最後のトゥモロウの言葉に、つるつるっと楽しく読みながら、ぽーんと飛びこんで、「ああ、よかった~」って思える。たかどのさんの物語の中に張り廻らされた何気ない仕掛けに、「うんうん」といっぱいニコニコしながら頁を閉じました。子どもと一緒に読むと、ほんとに楽しいだろう一冊です。にしむらあつこさんの絵も、とっても可愛い。エプロンの似合うトゥモロウが最高です。

2013年4月

偕成社

 

 

あい 永遠に在り 高田郁 角川春樹事務所

高田さんには、「みをつくし料理帖」という時代小説の人気シリーズがあります。図書館でもたくさん予約が入りますし、夫が大ファンで、私も作品は全部読んでおります。高田さんの物語のヒロインは、いつも過酷な運命に翻弄されます。でも、激しく押し寄せる川の流れの中で、逆らわず、流されず、へこたれず、健気に生き抜くのです。この本の主人公・あいも、そういう女性です。関寛斉という幕末から明治にかけて活躍した医師の妻であり、実在の人。夫とともに時代の変わり目の激動の中に生き、12人の子を産み、6人の子を亡くし・・・古希を過ぎ、すべてを捨てて北海道に入植した夫についていって、そこで人生を終えた人です。

この夫婦の在り方をあえて一言でいうとしたら、「私心がない」ということだと思うんです。関寛斉とあいは、「八千石の蕪かじり」と言われる、貧しい農村の出身です。その地域から血の滲むような思いで学問を収め、医学を志した寛斉は人の何倍もの使命感を持って生きた人。栄達を嫌い、貧しいものからは医療費を取らず、種痘を実施し、晩年になって隠居するどころか、若者でも耐えられないほどの開拓事業にその身を投じていく人なんです。そういう人は、多分に人に、世間に理解されにくい。その夫の孤独を包み、幼い頃からの機織りで家計も支え、子どもを育てたあい。同じ女として溜息が出るほど凄いなと思います。若い頃の自分なら、こんな物語を読んだとき、「こんなに出来た人なんて、いるわけないやん」と思ってしまったような気がします。でも、この年齢になると、自分の狭い枠の中だけで人を判断することの無責任さだけはわかるようになるんですよね。自分の産んだ子のうち、6人を亡くすというのは、どれだけ辛いことだったことか。何度も財産すべてを無くす目にあうのは、家庭を持つ身として、どれだけ不安だったことか。それでもしゃんと立って歩いていけたのは、私心なく「人の本分」を果たしたいと願う夫に、自分の夢も託したからではなかったのかと思います。人は、辛いことがあったとき、自分のために頑張る気力も生まれてこないときでも、人のためなら頑張れたりする。高田さんが書きたかったのは、あいが苦しみや悲しみにぶつかったときに、どう行動し、生き抜いていったのか。彼女を支えたのは何だったのか、ということなのだと思うのです。「人たるものの本分は、眼前にあらずして、永遠に在り」。これは、寛斉を支援した豪商の濱口悟陵の言葉です。この言葉に支えられて生きた夫婦の、不器用な、でも私心のない生き方の尊さを思いました。

3・11から2年が経って・・・いろんな特集を見たり、いろんな人の書いたものを読んだりしましたが、本当に何一つ変わっていない。復興などほど遠い現状の中で、被災地とそれ以外の場所での温度差が大きくなっているようにも思います。アベノミクス、という言葉がやたらに飛び交う毎日ですが、経済というものは本当にこんなにヒステリックなものなんでしょうか。実質的な何かが変わったように見えないのに、なぜ政権が変わっただけでこんなに空気が違ってしまうのか。その動向の在り方というものが、私にはわけがわかりません。くるくる変わる猫の目のように、また空気が変われば簡単に転がり落ちるような気がしてならない。そして、この浮ついた流れが、弱いものや大切なことを置き去りにして忘れようとしているような気がしてならないのです。あいが見つめようとした永遠の中に在るものとはなにか。あいの眼差しに、今の私たちの目線を重ねてみる・・それが、この本の読み方の一つかもしれないとも思いました。

2013年1月刊行

角川春樹事務所

 

冷血 高村薫 毎日新聞社

神は細部に宿るというけれど、この小説における高村さんの仕事の見事さは恐ろしいほどだった。CGなんて目じゃないほどの緻密さで小説が立ち上がってくるのである。圧倒的な力でねじ伏せられ、引きずり込まれる。虚無へ、人間が持つ果てしないブラックホールのような虚無へと連れていかれ、逃れるすべもない。しかし、その中に、ほんの少しだけ見える、人として踏ん張る足がかりがあって、それが合田という、ずっと高村さんと共に歩んできた存在に見え隠れしているのが、今、この時代の『冷血』として高村さんが命がけで提示してくれたものなのかもしれないと思う。

この物語の背後にあるのは、フラクタルな、逃げ場のない都会の近郊地の風景だ。著者の高村薫さんが、インタビューで、「16号線があって、初めてこの人物の物語が成立する」とおっしゃっていたが、ここに描かれる16号線の風景は、東京という都会の周り、日本のどこに行っても広がっているような大きな道路沿いに広がる無機質な風景だ。都会と田舎の境目、田舎ほど濃い人間関係もなくて人の出入りも激しいけれど、どこか全てが他人事のような風景だ。トラックとコンビニと、チェーンの飲食店にショッピングモール。車で旅行していると、あまりに同じような風景が続くんで、時々どこを走っているんだかわからなくなることがある。それは、ル=グウィンの言う「同じものが常に、同じものへとつながっていく」「他者はない。逃げ道もない」(※)風景なのかもしれない。その逃げ場のない場所から、二人の殺人者がむっくりと立ち上がり、特に理由もないままに歯科医の一家を惨殺する。高村さんの筆は、その二人の男が身体の中に抱えている、逃げ場のない熱量を文章の細部にまで漲らせる。犯行前の二日間ほどの二人の行動を読んでいると、爆発寸前のような膿が、二人の間に膨れ上がっていくのがわかる。この二人は出会いサイトで知り合った行きずりのような関係性なのだけれど、彼らにはある共通性があると思う。それは、思考停止だ。

犯人の二人は、一家四人を即死させるような理不尽な犯罪のあと、まことに幼稚な行動をとる。何だかもう、犯罪を隠すのもめんどくさい、というような投げやりさなのだ。ペタペタとあちこちに足跡をつけた二人は逮捕され、そこから合田も含めた捜査班の徹底的な検証が始まる。生い立ちから成育歴、当日の行動から何もかも調べ上げられ、追求されるのだけれど、そこには犯罪に繋がる「なぜ」という理由はまったく見当たらない。ただただ、二人のたどった、やり切れない人生の風景だけが延々と立ち上がるだけなのだ。その一つ一つは犯罪と明確な繋がりは持たないのだけれど、少しずつ積み重なることで、親不知が腐る圧倒的な疼痛のように彼らから思考能力を奪い、雪崩が起きるように理不尽な暴力へと二人を押し流していく。「考えていたら、やってません」という彼らの言葉は、掛け値なしに本当なのだ。私には、その思考停止が、「冷血」というテーマに繋がるものだと思えて仕方なかった。そして、彼らのような思考停止は、私の中にも巣食うものであると思わざるを得ないのだ。

私の人生にも、彼らのように積み重なってどうしようもない風景がある。犯罪は侵さないけれど、そこから目をそらして考えないようにすることで、成り立っている日常があるのは事実だし、自分の人生から目をあげても、やはりそこには累々と積み重なっているやり切れない風景が広がっている。私は最近になって漸く戦争や、ヒロシマと長崎の原爆投下や、貧困や、原発について考えるようになった。それらについて少しずつ勉強し始めて思うことは、これまでの自分の徹底的な無関心と思考停止だ。こんな大きなことを自分のような小さな存在が考えてみたところで、なんになるだろう。それよりは、自分の目に見えていることだけを考えて過ごしたほうが、精神衛生にもいいし、という感覚でほったらかしてきたことがたくさんある。その自分の無関心を振り返ってあれこれ考えていると、私と同じような無関心の洞が、あちこちに空いているのが見えるような気がする。私もやっとその洞を見始めたところなので、何の偉そうなことも言えないし、その洞を見つめれば見つめるほど、どうしようもない人間存在のカオスにはまり込んでいくことは目に見えているのだけれど、その洞に目を凝らしておかないと、大変なことになるんじゃないか(いや、もう、なっているんだと思うけれど)という予感がしているのだ。『新潮』の2月号「有限性の方へ」という評論の中で、加藤典洋さんが、今私たちの足元に空いている巨大な穴ぼこについて言及されているけれど、たとえ視界に入らないような大きすぎる穴ぼこであっても、「仕方ない」という思考停止だけはしてはいけないように思う。この年齢で青臭いといわれても、マイノリティとして小さな小さな声に過ぎなくても、考えて、それを言葉にしていかなければ、この穴ぼこはもっと巨大になってしまうような気がする。この『冷血』という物語の男たちに穿たれている思考停止という洞は、今、私たちの中に、足元に空いている穴ぼことそういう意味で繋がっていると思うのだ。

その巨大な穴ぼこの前で、ただひたすら目をそらさずに見つめる役割をはたしているのが、合田という人間だ。この『冷血』というブラックホールのような暗闇の中で、唯一光となって掲げられるのは、この犯罪と二人の男に正面から向き合い、ひたすら泥臭く正体の見えない暗黒を見据え続けた合田という男の眼差しだと思う。犯人にも「学生のようだ」と言われるような合田は、輪郭を持たない化け物のような彼らの犯罪を調べつくし、何とかして言葉にしようとあがき続ける。この物語のほとんどは、その営みで埋め尽くされている。そして、世間が彼らのことを忘れる頃になっても、彼らにハガキを書き、会いにいく。何度わからないと言われても、とにかく彼らの言葉を聞き、彼らと同じ映画を見たり本を差し入れたりして読んだ感想を述べ合ったりする。そんな高村薫さんがおっしゃるように、「事件を超えて人間そのものと向き合うようになった」合田に対し、殺人者である井上が書き送るハガキの内容が、「文学」なのだ。多分彼らにも、自分自身の犯したことは「わからない」ことなのだと思う。でも、合田との、まるで合同作業のような検証と、「人間として」彼らと向き合う眼差しから、井上の中に言葉が生まれてくる。その言葉は、生きて思いを伝え合うからこそ生まれる、『冷血』の中に微かにめぐる希望なのかもしれないと思う。希望という言葉を使っていいかどうかわからないほどの希望ではあるけれど。そのほのかな温かみは、冒頭に置かれている、もう誰とも思いをかわすことの出来ない殺されてしまった少女の日記の言葉が放つ死者の孤独を際立たせる。彼女の日記は、誰も受け止めてくれる人がいないまま、打ち捨てられるのだ。血のつながった祖母にさえも、「見たくもない」と言われてしまう、少女が唯一残した言葉たちが不憫で仕方なかった。それに比べて、井上には最後の最後まで自分の言葉を聞いてくれた合田がいた。少女と井上を分けていたのは、生きているかどうかという違い、その言葉を受け止めてくれる誰かがいるかどうかの違いなのだ。その理不尽も含めて、「生きよ」とぎりぎりの場所から発する高村さんの問いかけは、カポーティの『冷血』をそのまま使ったタイトルに相応しい、今読むべき本だと思う。図書館の返却期限があったので、だいぶ急いで読み飛ばしてしまった。これは、買ってじっくり読み直さなければな、と思う。

(※『いまファンタジーにできること アーシュラ・K・ル=グウィン 河出書房新社)

2012年12月刊行

毎日新聞社

 

 

 

ウエストウイング 津村記久子 朝日新聞出版

一昨日だったか、テレビのバラエティで、大阪府民の県民性をえらい誇張してやってました。大阪の男は声がでかいとか、やたらに「くさっ」と言うとか。まるで大阪府民が全員お笑い芸人みたいな取り上げ方で、なんやら片腹痛いなと思ったりしました。そないに、皆がみんな、お笑いに走ってるわけやないですしねえ。まあ、確かに人を楽しませたいとか、大阪人同士の独得の間の取り方とかはありますが、大阪弁は、お笑いだけに特化した言葉やない、当意即妙の距離感の伸び縮みがある言葉やと思ってます。その距離感の伸び縮みというのは、年齢だけやない、「オトナ」であることをわきまえてるのんかどうなんか、という物差しなんやと思うのです。津村さんの小説読んでもろたら、そのへんがわかってもらえるかもなあ、と思った次第です。

年代物の雑居ビルを職場にしているネゴロさんと、フカボリくん。そして、ビル内の塾に通ってきているヒロシという小学生。ビルの物置をそれぞれが休憩所にしている縁で顔も見ずにゆるく繋がっている3人の物語が同時進行します。仕事をきちんとこなす中堅事務職で、それだけにややこしいことを抱えがちな事務職のネゴロさん。真面目でおっちょこちょいで、自ら貧乏くじを引いてみたがるような、可笑しみのある男のフカボリくん。そして、母親にいわれていやいや塾に通ってはきてるんだけれども、全く身が入らずに絵ばかり書いているヒロシ。それぞれの人間関係の円がゆるく重なって、模様を作ります。この大人の世界の中に、ふっとヒロシが上手いこと紛れこんでるとこが、面白い。絵が好きで、多分それで食べていける才能のあるヒロシは、年齢的には子どもやけど精神的にはすっかりオトナです。絵を描く人、写真を撮る人というのは、物事の本質をすっと見抜く目を持っていることが多いんですよね。そこを一目で見抜いてバイトに据えたレンタルロッカー屋の親父はさすがです(笑)オトナ子どものヒロシ、雨の地下道にゴムボート浮かべて乗り入れたりする子どもオトナのフカボリくん、しっかり者でオトナオトナのネゴロさん。その三者三様の描く模様が古いビルのゆるい風景の中で雨に打たれて滲んでいくような独特の風情が読みどころでした。成長戦略とか、グローバルとか、ぴかぴかのオフィスで働いてはるとことは、ちょっと違う、圧倒的大多数の大阪民の匂いです。その匂いがやたらに濃く匂う(文字通り濡れた靴下のかほりまで漂う)大雨に閉じ込められる日のドタバタなんか、お腹抱えて笑いました。

テレビ用の言葉ではなく、日常の中で生きてる大阪弁の微妙なやり取りを、その時の空気感も含めてごく自然に小説に出来る、というのはとても難しいことやと思うんですが、津村さんはそこがとっても上手い。この小説も、ほんまに普通の私らとおんなじような大阪の子(大阪では大人にも「子」を使います。)の毎日―そないにぱっとしたこともなく、地味にひたすら働いて、その割にはお給料安いし、けどこの仕事かていつまでちゃんとあるんやろ、と思いながらなんとか暮らしてる。そんな毎日の中にある、ちっさいけどおっきなこと、ほんまに狭い世界での出来事やけど、うちらにとってはそこが大事やねん、ということが見事に書いてあるなと思います。生きてるってそういうことですよねえ。その大事なことは、大人であれ、子どもであれ、人に指図されて決められたり、わかったような顔で図られたりするようなもんではないんです。ヒロシの通う塾の講師が「こんな所で働く人間になったらダメだ」というような古いビル。そんな一元的な価値観がはびこりかけてる日本ですが、そんなゆるい所にだからこそ生まれる人と人との繋がり、コミュニティがあって、本当はそっちのほうが毎日生きていくには大切なんちゃうかな、と思います。大雨の中で、「あ、あそこ入ろう」と走り込みやすい、すっと何もかも受け入れる余地がある曖昧な場所。そんな場所を、効率や欲得ばかりではなく、ちゃんと確保して大切にしとくのが、ほんまのオトナ社会というもんやんな、と。津村さんの描くあったかい場所を失ったらあかんなと思いながら、この本を読み終えました。

 

2012年11月刊行

朝日新聞出版