十一月の扉 高楼方子 千葉史子絵 講談社青い鳥文庫

十一月のうちに、この本のレビューを書きたかったのだけれど、気が付いたら12月に突入してしまった(汗)秋が深くなって風が冷たくなると、この物語が読みたくなります。年末に向けてあれこれしなきゃ、と想いながらぼんやりしたりして、あっという間にすぎてしまう11月。でも、この物語の中で爽子と過ごす11月は、感受性の塊のような14歳の心が紡ぐきらびやかなタペストリーです。高楼さんの筆は、彼女の心のひだを一つ一つ色鮮やかに描き出します。憧れ。ほのかな恋。背伸び。少女の感性は憧れとおなじくらい失望も経験します。恋心は、ため息と苦しみを。家族と離れた日々は、同性である母への複雑な想いも具現化したりします。物語の中に迷い込んだような十一月荘の日々は、様々な色で爽子を照らし、その心を染め上げるのです。少女の心の光も影も見つめながら、この作品世界は瑞々しい「美を感じる喜び」に満ちています。だから、爽子と一緒にこの物語の空気を胸いっぱいに吸い込みたくなるのです。

中学生の爽子は、ある日偶然に素敵な家を見つけます。それは「十一月荘」と名付けられた下宿ができるらしい洋館。急に父の転勤が決まった爽子は、3学期までの二ヶ月間、そこから学校に通うことを思いつきます。思いがけずその願いがかなった爽子は、十一月荘で、女性ばかりの個性的な住人たちと過ごすことになるのです。

まず、この物語は、とても重層的な構成になっています。まず、舞台となる十一月荘が、少女小説のエッセンスがぎゅっと詰まったような場所なのです。爽子の部屋は、赤毛のアンの部屋のよう。女ばかりの家は、若草物語を連想させますし、爽子と、幼いるみちゃんの関係は「小公女」のセーラとロッティを思わせます。この十一月荘に足しげくやってくる、おしゃべり好きの鹿島夫人は、赤毛のアンのレイチェル夫人…という風に、大好きな少女もののあれこれが、あちこちに散りばめられているようでうっとりしてしまう。この物語には、先行作品として人々の心に生き続ける永遠の少女たちのエッセンスが香りのように漂っています。そして、この物語には、爽子の書くもう一つの小説が描かれます。ドードー鳥の細密画の表紙の美しいノートに爽子が書きつづる「ドードー森」の物語。動物たちのファンタジーは、この物語の中でも触れられる「たのしい川べ」のような雰囲気なのですが、登場人物たちは、十一月荘の住人や、そこを訪れる人々なのです。物語の中で、もう一つの物語が語られる。それは、爽子という少女から生まれる新しい場所でもあります。家庭という檻の中から抜け出して、新しい扉を開いた爽子が、そこで出会う人たちから、これまでとは違う世界を教えてもらう。そして、そこから爽子の新しい扉が開く。それは、アンやジョーを愛する少女たちがたどってきた道のりでもあり、爽子という少女だけが開くことのできる、たった一つしかない世界でもあります。受け継がれるものと、そこから新しく生まれるもの。過去と今が出逢い、きらめくように溶けあってかけがえのない世界を作る幸せな一瞬が、ここにあります。そんな幸せが音楽の喜びとなって降り注ぐラストシーンに爽子がつぶやく言葉が、私は好きなのです。「だいじょうぶ。きっときっと、未来も素敵だ。」

物語は、心を繋ぎます。爽子の書くドードー森の物語が、るみちゃんと、そして耿介との心を繋ぐように。遥かなものに憧れ続けた少女の頃の私と爽子を繋ぎ、アンやセーラやジョーが大好きだった女の子たちの心も繋ぎます。そして、これからを生きる子どもたちの心にも、暖かい光を投げかけてくれるに違いないと思うのです。

「きょう一日(ひとひ)また金の風
大きい風には銀の鈴
きょう一日また金の風 … 」(中原中也 早春の風)

この詩は春の風の詩ですが、私はこの物語を読むと、この詩を思い出すのです。私の心が通り過ぎてしまった青春の風。でも、無くしてしまったわけじゃない。この物語に私の風も託して、今の子どもたちの心が、新しい扉を開いてくれることを願っています。「十一月には扉を開け。」りんりんと、爽やかな鈴の音がするような言葉に、物語の力が宿ります。この本は2011年に講談社の青い鳥文庫から新しい装丁で刊行されています。元々の単行本も好きなのですが、この青い鳥文庫には、高楼さんのお姉さんの千葉史子さんの挿絵がたくさん入っています。これがまた、可愛くて素敵なんですよね。こうして文庫になることで、またたくさんの子どもたちに読まれるといいなと心から思います。

2011年6月刊行
講談社青い鳥文庫

by ERI

ルチアさん 高楼方子 フレーベル館

「飛ぶ教室」の2008年春号に12歳の自分に、今プレゼントするならどんな本にするか、という特集があって自分なら何にするか、つらつらと考えていました。上橋さんの「守り人」のシリーズなんかもいいし梨木さんの「西の魔女が死んだ」も読ませたい。朽木さんの「たそかれ」の河童くんにも会わせてやりたかったもんだとか、色々悩んでたんですが、やっぱり一冊あげろと言われたら、たかどのさんの「時計坂の家」かな、と思い至りました。12歳であった私が感じていた、この世界に対するおののき・・不安。遠く果てしないものへの憧れ。そんなものが、目一杯詰まったこの本は、きっとあの頃の私にとって、かけがえのない一冊になっただろうと思うからです。高楼さんの本を、少女の頃に読んでいたかったなあ。今読むよりも、切実に心に食い込んでいたと思うんですよ。この「ルチアさん」も、やっぱり少女の頃の自分に読ませたい本。「どこか遠くのきらきらしたところ」という、書き表すのが非常に難しい、でも、人の心にある普遍的な想いが、見事にここに流れています。高楼さんは、凄いなあ・・素敵だなあ、と読み返すたびに思わずにはいられません。

「たそがれ屋敷」に、美しいお母様と暮らす、スゥと、ルゥルゥという二人の少女がいました。ある日、この屋敷に、新しいお手伝いさん、ルチアさんがやってきます。この一見変哲もないルチアさんは、二人にとって不思議な人でした。なぜか、二人の目にはルチアさんが、水色に光って見えるのです。まるで、船乗りのお父様が、異国から持ち帰った水色の玉のように・・。その謎を突き止めたいと思った二人は、ルチアさんの家まで彼女を尾行します。そこで出あったのは、ボビーという、ルチアさんの娘。ボビーには、ルチアさんは光ってなんか見えません。でも、ある日、ボビーとスゥ、ルゥルゥの3人は、夜中で一人、水色に光る不思議な実を漬け込んだ飲み物を飲むルチアさんを見るのでした・・・。

ルチアさんは、一見、どうってことのない、普通のおばさん。でも、なぜか、いつも満ち足りていて、くるくると楽しそうに働いていて。傍にいる人たちは、なぜか彼女に対して素直になってしまう。そして、なぜかスゥとルゥルゥには、ルチアさんが、きらきらと輝いて見える。その秘密を見届けようと、二人が夜の街を歩くシーンが、印象的なんです。自分たちの憧れを見届けたくて歩く夜の街は、未知の世界。なにやら心の底を歩くような薄闇の間からみた、ルチアさんの秘密のなんてキラキラして美しいこと・・。それは、闇の対比として描かれることで一層の輝きを見せて、読み手を魅了します。この、光と影を描く見事さは、高楼さんの独壇場で、読んでいると心がほうっと溜息をついて、憧れが放つあえかな光に満たされていくようです。スゥとルゥルゥ、そして、ボビーの3人の少女は、確かにその光景を見た。でも、その秘密の本当のところは、謎のままです。なぜ、水色の実は、光を放つのか。なぜ、その光は、ルチアさんを光らせているのか。その光は、なぜスゥとルゥルゥ以外には見えないのか・・。ボビーによって、その実は、ルチアさんの叔父さんが彼女に残したものということはわかるのですが、やはり、その実の持つ不思議さの答えは出ません。その謎を抱えながら、3人は大人になるのです。

水色の玉の事を忘れ、「ここ」で現実と向かい合って生きたスゥ。屋敷がなくなった後、心に、水色の玉への憧れを抱えたまま、旅に出たままのルゥルゥ。そして、ずっと、謎の水色の玉を持って、それについて考えていたままだったボビー。誰が一番幸せだったのか、などという簡単なことではなく、それぞれの生き方を選んだ人生の中で、変わらず輝いていたもの。それが、「どこか遠くのきらきらしたところ」への想い・・憧れであることが、しみじみと胸に迫ってきます。尽きせぬ憧れを胸に抱くことは、ある意味残酷なことで、その人の人生を奪ってしまう。ルゥルゥと、その父親が、人生を旅に捧げてしまったように。でも、現実の中で、ひたすら生きてきたスゥも、やはりどこか満たされない思いを抱えて生きています。

・・・そうよ、わたしたち、思っていたのよ。どこか遠いところに、
これとそっくりの、きらきら輝く、水色の国がきっとあるって。
いつかそこに行ってみたいって。わたし、本当にそう思ってたのよ。

ボビーに返してもらった水色の玉とともに、スゥのところに帰ってきた、「どこか遠くの
きらきらしたところ」への憧れは、彼女の心を満たします。この「どこか遠くのきらきらしたところ」への憧れは・・きっと、人が心の中に一度は持ったことがあるものだと思います。でも、私たちはそれを忘れてしまう。そんなものでは、食べていけないから。
・・・でも、その憧れをいつまでも忘れずに持ち続け、自分だけの結晶にしようとすることが、創作というもの、文学であり、アートであるように思います。私にとって、ルチアさんが飲んでいた水色のキラキラしたものは、例えば、この高楼さんのような作品であり、大好きな人の歌声だったりするのかもしれません。

闇の中を歩く子どものように見知らぬ場所に旅に出る・・そのおののき。はるかなもの・・形にならない、目には見えない憧れというものの輝き。高楼さんの見せてくれる世界は、いつも果てしなくて吸い込まれそうになります。12歳の時に、この本を読んでいたら・・ちょっと違う人生を歩いていたかしら。ボビーのように、目に見えないものについてずっと想いをめぐらす力を持っていたら、物語を書く人にもなれたかもしれないなあ、などど思ったり(笑)この3人の少女たちは、皆高楼さんの分身なのでしょうが、ボビーが一番高楼さん自身なのかな・・と。これは私の勘ですが。児童書ですが、「ここ」に疲れた大人の方にも、ぜひ読んで頂きたい一冊です。

by ERI