海に向かう足あと 朽木祥 角川書店

この物語は、近未来ディストピア小説だ。朽木さんは、この物語を、未来への強い危機感をもって書いたという。折しも、アメリカの大統領が交代し、彼が次々と放つ手前勝手な政策は、世界中を混乱に陥れている。この不安の中で読むこの物語の、なんとタイムリーで美しく切なく恐ろしいことか。

主人公は、エオリアン・ハープ(風の竪琴)号という美しいレース用のヨットを共有している6人のクルーたちだ。オールドソルト(年期の入ったヨット乗りのこと)の相原さん、照明デザイナーの寡黙でいい男のキャプテン村雲。家族思いの公務員三好。物理学者で政府の研究機関に勤める諸橋。可愛い泉ちゃんという妹のいる若い研人と、バイトで生活費を稼ぐ他はすべてをヨットに捧げるヨットニートの洋平。彼らはチームでレースに出る。そのために、生きていると言っても過言でもないほどの海にとりつかれた男たちだ。
彼らは、新しい船を手に入れて、シンプルで最上の滞在型ホテルのある三日月島を起点にしたレースに出る計画を立てる。前半では、その楽しい未来に向かっての、光溢れる充実した日々が鮮やかに紡がれる。しかし、読み進むうちに、彼らを取り巻く世界の空気が徐々に影を増していくのが伝わってくる。そして念願のレース当日、なぜか応援に来るはずの家族も現れず、電話も繋がらない。ネットとかろうじて繋がった電話からの断片的な情報から伝わってくる現実に、ヨット乗りのユートピアのような島で、彼らは恐ろしいまでの絶望に見舞われてしまうのだ。

作者は、クルーたちの家族や恋人、ペットや仕事との関係を前半で細やかに描いている。そのディテールの楽しいこと。特に海とヨットの情景のすばらしさは、朽木ファンなら『風の靴』でお馴染みで、嬉しいことに、やっぱり彼らのホームは『風の靴』の舞台でもある風色湾だ。つまり、この湾のどこかには、海生のおじいちゃんの別荘があり、アイオロス号が係留されているんだと思うと、一気に想像は膨らんでいく。この作品は成人向けなので、主人公たちの世界も広い。特に寡黙なキャプテン村雲と、どこか儚げな輝喜の恋は印象的だ。残る5人の個性も鮮やかで、彼らが楽しげに船を走らせる、そのあれこれを読んでいるだけで、自分も海の空気を吸っている気持ちになれる。そう、かけがえのない日常の美しさが溢れているのだ。

6人が協力しないと走らないヨットのように、私たちは目に見えない糸を、共に生きる人や動物、土地や仕事、大切にしている場所に編み目のように張り巡らせて生きている。その奥行きと肌触りを、作者は6人のクルーたちを中心に、これまでの作品世界も重ねて緻密に描きあげ、奥深い作品世界を作り出す。だからこそ、彼らを襲う絶望が、彼らが失ってしまったものの重みが、自分の痛みのようにずっしりと伝わってくる。私は初めて読んだとき、ラストシーンの切なさに涙が止まらなかった。

「だけど、俺たちにとっては、いきなりなんかじゃない。俺もお前も、お前らも、ぼんやりとでもわかってただろう。こんな日が来るかもしれないって」

最年長の相原さんのこの言葉は、きっと、今誰しもが持っている不安そのものだ。だからこそ、今、世界を不安が覆い始めた今、読んで欲しい。この物語は、一つの絶望の形だ。しかし、これは生きる喜びと輝きをふんだんに詰め込んだ絶望、たくさんの人がこの絶望を噛みしめて別の足あとを作って欲しいと願う希望でもある。

 

風の靴 朽木祥 講談社文庫

暑い。とにかく暑すぎるので、爽やかな風が欲しくてこの本を読み出したら止まらなくなった。海風に乗って、心がどこまでも駆けていくような気がする。

出来のよすぎる兄と同じ私立中学の受験に失敗した夏。中一の海生は、もやもやした気持ちを連れて、親友の田明と愛犬のウィスカーを連れて家出を決行する。江ノ島のヨットハーバーから、風色湾のおじいちゃんのクルーザー、アイオロス号まで。A級ディンギーのウィンドウシーカー号を、自分たちだけで駆っていこうとする冒険の旅なのだ。海生にヨットの操縦を教えてくれたかっこいいおじいちゃんは、受験のあとで急死してしまった。抱えきれない思いがふくれあがった少年は、海に向う。

ヨットを子どもたちだけで乗り回す。もちろん私にはそんな経験はないのだが、海生たちがウィンドウシーカーで海にこぎ出していく瞬間、胸が疼くような本物の喜びがある。海やヨットを知り尽くしている作者の知識が深く、海の輝きと風を切るヨットの音まで伝わってくることが一つ。そして、読み返して改めて感嘆するのは、この物語が内包している世界観の深さと広がりだ。

この物語は、海生という少年の他に、もう一人主人公がいる。それは、ウィンドウシーカーとアイオロスの持ち主で、今、目の前にはいない海生のおじいちゃんだ。海風に洗われたような、かっこいいおじいちゃんだが、彼の人生も、決して平坦ではなかったようなのだ。彼と、海生の父である息子の間にあっただろう葛藤や、失ってしまった愛するものへの悲しみの物語が、どうやらこの物語の背後にはあるらしい。目の前にいないからこそ、読者は残された船や本や、海生の思い出から彼の生き方を想像し、思いを馳せる。凜と生き抜いたおじいちゃんの人生は、海生という少年の心と体の中に、しっかりと根を張って息づいている。だからこそ、おじいちゃんが海生に残した言葉が、羅針盤のように、しっかり胸に届くのだ。その言葉は、ぜひ物語の中で読んで欲しい。そのとき、この物語のタイトルが、星の輝きのように胸に落ちてくるはずだから。風はいろんな方向から吹いてくる。しかし、その風をどう掴み取るか、どう生きるかは自分で決めることなのだ。こう言ってしまうのは簡単だが、それはとても難しい。でも、難しいからこそ、船出していく喜びもあるんだということが、この物語の中で夏の海のように煌めく。海の風が心を後押しする。

夏休みの子どもたちと船、というとアーサー・ランサムを連想するのだが、ランサム・サーガの第一巻『ツバメ号とアマゾン号』の解説で、訳者の神宮輝男が、物語に寄せて、こう書いている。

「このよろこびは、レクリエーションというようなものではなく、人間がもっとも人間らしくなったときに感じる深いよろこびだとわたしは思います。」

この言葉を、私はこの『風の靴』にも捧げたい。神宮輝男氏というと、私たち児童文学に関わる人間には神のような存在なのだが、その神が『風の靴』にも見事な解説を寄せている。それも、ぜひ読んで欲しい。文庫で再刊になって、ますます手にとりやすくなった。夏休みに、親子で読むと、絶対楽しい一冊。

2016年刊行
講談社

八重ねえちゃん 朽木祥 日本児童文学 2016年7・8月号

 
戦時中に、たくさんの犬や猫たちが、殺されていったことをご存じだろうか。食糧事情が悪くなる中で、ペットを飼うことが敵対視されるようになり、軍服用の毛皮にしたり、軍用犬にしたりするためという名目で犬や猫が供出させられたのだ。役立つどころか、ただ無残に殺されてしまっただけの子たちもたくさんいたという。この物語の主人公・綾子の飼っていた老犬のトキも、役所の人に連れていかれてしまった。日向ぼっこと綾子を迎えに出てくるのが精一杯のおじいさん犬だったのに。何の罪もない動物たちを、人間を信頼しきって暮らしていた犬や猫を、なぜむごたらしく殺さねばならないのか。泣きながら「なんで連れていかれたん。なんで、なんで」と聞く綾子の問いに、大人たちは黙ってしまうか、苦々しい顔をするだけ。母には「お国のため」だから「仕方が無い」と、叱られてしまう。ただ一人、年の近い叔母の八重姉ちゃんだけが、綾子の問いに何とか答えようと一生懸命言葉を探し、「こうようなことは、いけんよねえ」と、怒りに震える綾子と共に泣いてくれたのだ。

賢い大人たちは、綾子の「なんで」という問いかけに「聞こえないふりや見ないふり」をした。心のどこかでおかしいと思っていても、その気持ちと向き合えば、「非国民」であることに繋がってしまうからだ。それは、すなわち危ない目にあうことでもあり、大きな壁にたった一人でぶつかりにいくようなことでもあった。だから、皆、自分の家の犬や猫が殺されていくのを、見て見ぬふりをした。私だって、戦争中に生きていれば、同じことをしただろう。しかし、老犬のトキが連れていかれてから半年後、広島には原爆が落とされ、昭和20年だけで14万人が死んでいったのだ。「聞こえないふりや見ないふり」をした大人たちだけではなく、たくさんの、本当にたくさんの若者や子どもたちが死んでいった。爆心地近くでは建物疎開などの勤労奉仕作業のために、女学校や中学校の学生たちが多数集められていた。彼らの大多数は、即死し、遺体も残らぬほど焼けてしまったのだ。綾子と一緒に泣いてくれた八重姉ちゃんも、帰ってこなかった。朽木は、この短い短編で、史実を踏まえ、歴史を見据えた問題提起を、小さい子どもの眼差しを通して見事に描き出している。子どもたちは動物への愛情を通して、戦争の残酷さを心で知ることが出来る。また、この物語を読んだ大人は、「どうして」という綾子の問いかけのくさびを、胸に打ち込まれるはずだ。

「いとけないもんから・・・・・・こまいもんから、痛いめにおうて(あって)しまうよねえ・・・・・・」

戦争で一番先に踏みにじられるのは、子どもや弱い立場にいるものたちだ。八重姉ちゃんは、良く言えばおっとり、要領が悪い愚直な人だった。でも、彼女だけが綾子の、連れていかれたトキの痛みと苦しみに共感し、「こうようなことはいけんよねえ」と言う力を持っていたのだ。人が生きていくには、賢く社会の中で立ち回るのも必要なことだ。しかし、それだけでは、人は大切なものを見失ってしまう。
 アウシュヴィッツ収容所にいた経験を、評論や小説で語り続けたプリーモ・レーヴィは、当時の大多数のドイツ人が、「意図的な無知と恐怖が、ラーゲル(収容所)のおぞましい残虐さを証言したかもしれない多くの「市民」の口をつぐませることになった」と述べている。(『溺れるものと救われるもの』)私たちは収容所、というとアウシュヴィッツやビルケナウ、ダッハウ、くらいしか思いつかないが、当時のドイツ領には、地図が真っ黒になるほど収容所があった。そこに物品を納入したり、労働力をただで使って利益を得ていた一般企業も多く存在した。囚人服、ガス室の装置、多くの薬品、建築資材。何しろ500万人以上のユダヤ人たちが収容され、殺されていったのだ。その維持に「普通の人々」が関わらないはずがない。でも、彼らは「目と耳と口を閉じて」語らなかった。そして、皆が自分の足元に開いている暗闇を見ようとしなかったのだ。賢く生きるということは、「意図的な無知」に繋がりやすいのだ。
 これは他人事ではない。日本にも、あまり知られていないが、ナチスドイツのように中国大陸から人々を強制連行してこき使った収容所がたくさんあった。今年の課題図書である『生きる 劉連仁の物語』(森越智子 童心社)はその問題を扱っている。日本は、その戦争の反省に立って、平和憲法を守ってきたはずだ。しかし、その足元が揺らいでいる。参院選で自民党が圧勝し、その大勢が判明した途端に、憲法改正という言葉が大量に、それまで沈黙していたメディアから流れた。本来なら権力の監視役としての機能を果たさねばならないメディアは、もうその役割を放棄して、「賢く」目と耳と口を閉じていこうとしている。その姿勢は、私たち日本人の心性をそのまま反映しているのだと思う。『帰ってきたヒトラー』という映画を先日見に行ったのだが、その中でヒトラーは「普通の人々が私を選んだのだ」と言っていた。大きな暗闇が、今、「賢く」生きていると思っている私たちの足元に開いてはいまいか。

この物語の最後、18歳になった主人公の綾子は、原爆のあの日を思い出しながら、「どうして、あんな恐ろしいことが起きたのだろう」と激しく読み手に語りかける。その声が、いつまでも胸の中でこだまする。愚直な子どもの「どうして」を大人が手放してしまったあと、犠牲になるのはこれからを生きる子どもたちなのだ。この物語には、「今」に繋がる大切な問いかけがたくさん詰まっている。たくさんの人に読んで欲しい。

まんげつの夜、どかんねこのあしがいっぽん 朽木祥 片岡まみこ絵 小学館

誰も遊びに来てくれないのが寂しくて、自分で作ったご馳走を食べ過ぎて太ってしまったネコが一匹。友達を探しに出かけたのに、なんと不幸なことに、土管にすっぽりはまって動けなくなってしまう。さあ、大変。皆でこの子を助けなきゃ!と「おおきなかぶ」状態になるのかと思いきや、そこはやっぱりネコですからね。皆、何だこりゃ、とフンフン匂ったりするだけで、どこかに行ってしまう。でも、その日はちょうど満月。ネコの集会が行われる夜だったのだ。土管のまわりを、ネコたちが歌って踊る。土管にはいったまんまのどかんねこはどうなるの?・・・という、可愛くて何だか不思議な味わいの絵本なのだ。

夜と満月の匂い。片岡まみこさんとコラボのネコの絵本ということで、私はもっとほんわかした感じを想像していた。もちろん、ネコたちはとってもとっても可愛くて、たまらなく魅力的だ。この絵を額に入れて、部屋のあちこちに飾っておきたい。ところが、その可愛いネコたちが朽木祥の研ぎ澄まされた言葉のマントをふわりと羽織ると、ネコのリアルをそのままに、不思議な夜の住人になるのである。

たん、たたん、たん! 「まんげつのよーる!」

宮沢賢治に「鹿踊りのはじまり」という短編がある。すすきの野原で、栃団子と忘れものの手ぬぐいを真ん中にして、鹿たちがぐるぐると歌って踊るのを、手ぬぐいの持ち主の目を通して、目撃する物語だ。鹿たちは、筋肉の盛り上がりや息づかいが感じられるほどに見事に鹿そのもので、だからこそ私たちは目の前で展開する鹿の会話の不思議に、息を詰めて魅入られる。私たちが見ているこの世界と、重なりながら隔たっている異世界。そのあわいで、鹿たちの命が喜びに歌う、くらくらする幻想とリアルの世界だ。この物語にも、そんな不思議な魅力がある。うちのネコたちも、満月の夜にするっと二本足でこの家を抜け出して、どこかの野原でこうして踊っていたりするんじゃないか。もしそうなら、どんなに嬉しいだろう。だって、まんげつの光を浴びて踊るネコたちは、それはそれは生き生きとネコである瞬間を楽しんでいるのだから。ネコは、どんなに幸せに暮らしていても、どこか「ひとり」であることを忘れない。自分の生も死も、ありのまま見事に引き受ける。そこに、私たち人間は、寂しみや、ひとりであることの誇りや、様々な人生の「滋味」のようなものを感じてしまう。この物語のネコたちも、何だか皆、それぞれにひとかたならぬネコ生を持ち寄っている気配がする。簡潔なテキストで、そこまで読み手に感じさせる深みが、朽木祥の言葉の魔法だ。心のなかの、なぜか知らないけれど、生まれたときからある寂しさに、じん、と染みこんでくる。

この満月の光は、『かはたれ』で八寸がネコになるために浴びていた光と同じなのだろうか。『かはたれ』は、夜明け前の薄明の時間のこと。ぼんやりとした、朝でも夜でもない幻の時間のことだ。母を失った少女の麻は、八寸というネコの形で現れた河童の魂に触れて、失いかけた心を取り戻す。この夜のネコたちも、異世界の住人だ。でも、きっと昼間は別の姿で暮らしているに違いない。そこらで昼寝をしていたり、おやつをねだっていたり。でも、こうして物語の中で、命の不思議のマントを羽織り、私たちに会いに来てくれる。それにもっともしかして、私も「まんげつの夜」は、こうして二本足のネコになって、この物語の中で踊っているのかもしれないじゃないか。物語という異世界に魂だけになって触れることで、私はやっと昼間人間の姿を保っているのかもしれない。

お日様が昇って朝のノネコは野原に取り残されてしまうが、もうノネコも、この絵本を最後まで読んだ私も、「ひとり」だけど一人ぼっちではない。「まんげつの夜」は、ノネコのご馳走を食べて、たん、たたん、とステップを踏みに、この絵本の頁をめくれば、よいのである。この表紙のノネコは、こちらをまっすぐに見つめて、物語の世界に誘ってくれている。ネコにこんな風に見つめられたら、私たちは魅入られるしかないのである。

2016年1月刊行

小学館

『八月の光・あとかた』 朽木祥 小学館文庫 

2012年に刊行された『八月の光』は、ヒロシマをライフワークにしている朽木祥の渾身の一作だ。「雛の記憶」「石の記憶」「水の緘黙」という連作短編は、静かな筆致であの日を描きだす。失われた声を、体温のあるかけがえない記憶としてよみがえらせ、「個」から普遍へと繋ぐ見事な構成の三部作だ。(レビューはこちら)この文庫版では、そこに「あとかた」として二篇が書きくわえられている。原爆の残した苦しみの「あとかた」。そして、「あとかた」もなく消え去っていこうとする人々の心が、鮮やかに浮かび上がる。
「銀杏のお重」と「三つ目の橋」は、どちらも若い女性たちが主人公だ。人生で一番美しく、命の喜びに輝いている季節の女たちから、原爆は家族を奪い、若さを奪い、喜びを奪った。

「銀杏のお重」の清子は、「冬の終わりに咲きはじめる水仙のような」人だったのに、見初められて嫁いだ男性は三日で戦地に行った。たった三日だけの結婚なんて、なんと残酷なことだろう。そのまま夫は帰ってこず、清子は実家に帰されてしまう。しかも、母や叔母が持たせてくれた、家宝のように大切にしていた銀杏のお重も取り上げられてしまうのだ。幾重にも重なる戦争がもたらす不幸。それでも生きてさえいれば、面変わりして人も変わってしまったような清子にも心穏やかな日がやってきたかもしれない。しかし、原爆は清子からその時間も奪っていった。桃色の頬に白魚の指をした若い命があとかたもなく消えてしまったことを、朽木は「銀杏のお重」という、ハレの日に使われる家族の象徴のような道具に重ねて描き出した。

この物語で印象的なのは、清子の嫁入り支度の様子が細やかに描き出されていることだ。賑やかに集まって、たとえ戦時中でも少しでも美しいものを持たせ、いい着物を着せて嫁に出そうと苦心する母や叔母たち。その支度をうっとりと見る妹たち。女たちの心尽くしに彩られた清子の嫁入り姿が切ない。先日、友人の娘さんが結婚した。幼い頃から知っている可愛い娘さんの花嫁姿にきゃあきゃあ盛り上がっている今現在の私たちと、物語の中の花嫁と叔母たちの姿がちょうど重なってしまう。子を産み、毎日ご飯を作り、命を慈しんで暮らしてきた女達の営みがそのお重には詰まっていたはずなのだ。あの日の朝、たくさんの女たちが朝の支度や後片付けに追われていたことだろう。そして、声もなく叩き潰されてしまったのだ。彼女たちは、間違いなくあの日を生きていた私たちなのだ。一つのお重からヒロシマを描く、この視点に心打たれる。

もうひとつの「三つ目の橋」は、生き残ってなお苦しまねばならない「私」の物語だ。遺体も戻らず行方不明になった父を探し回って死んでいった母。残された幼い妹と懸命に生きる「私」。奉仕作業を休んで級友たちの中で一人生き残った罪悪感に苦しめられながら、妹の世話をして必死で生きている。そんな彼女にも恋人ができるが、相手の両親に結婚を断られ、恋人からは「あんたのことは容易うにはわからん」と突き放されてしまう。被曝は、体だけではなく、心にも深い傷を残す。叩きつけられ、踏みつぶされ、それでも生き延びて、やっと前を向いて歩きだそうとしても、また心を折られ、彼女はあの日に数え切れない遺体が浮かんだ橋の上から川面を見つめるのだ。しかし、そばに小さな妹の命が息づいていることが、「私」を生に連れ戻す。そのとき、絶望の淵にいる「私」の心に、月光が差し込むシーンを、ぜひ読んで頂きたい。背負いきれぬものを背負い、あの日の記憶を抱いて、それでも生きていこうとする彼女の心に染み渡っていくこの光は、希望とも絶望ともつかぬ、深い思いだ。くっきりとした言葉で語れぬものが、冬の凍てつく匂いとともに心の中になだれ込んでくる。被曝という泥沼のような絶望に心折られてなお、幼子への愛情を糧に生き抜こうとする「私」の胸にあるこの言葉にならぬ思いは、大きな嘘やプロパガンダを打ち砕く静かな力に満ちている。

悲しみの影に、そっと息づく微かな光。慈愛の微笑みの影に宿る果てしない悲しみ。朽木祥の筆は生きて、揺れ動く「私」の心を繊細に描き出して胸にしみ入るほど美しい。原爆という悲惨を描いて美しいということをおかしいという人もいるが、私はそれは違うと思う。セバスチャン・サルガドという写真家がいる。今、彼のドキュメンタリーが映画で公開されているが、彼の写真は、内乱や饑餓の地獄を撮影しても、身震いするほど美しい。監督のヴェンダースが彼の写真が「美しすぎる」という批判に対して、被写体への「尊厳」という言葉で反論している。ヒロシマは、後にも先にも人類が経験したことのない地獄だ。その苦しみの中にいた人たち、そこから果敢にも生き延びてこられた人たちの、命の尊厳への朽木の深い眼差しが、物語に「美」となって構築されているのではないか。だからこそ、その「美」は、読者の胸に共感となって染みこんでいくのではないだろうか。「美」は、私たちの心が持つ、国も民族も言葉も超える、大いなる共感の力なのだ。この物語の「私」も、やはりあの日に橋の上からひたすら水面を眺めた、もうひとりの「私」。この二つの物語は、帯にあるように、決して過去の亡霊などではない。未来の私たちであるかもしれないのだ。

原発は再稼働され、安保法案はなし崩しに可決されようとしている。今こそ、この物語の中に溢れている声にならない声に耳を傾けなければならない。心からそう思う。

2015年8月刊行

うばかわ姫 越水利江子 白泉社招き猫文庫


若さと美しさと、「姫様」と呼ばれる暮らししか知らなかった野朱という娘が、いきなり恐ろしい運命に翻弄されるところから、この物語は始まる。盗賊に追われ、逃げて逃げて、目の前はとうとう近江の湖。とっさに出会った老婆と袿を交換して身を隠した姫に、姥皮の呪いがかかってしまう。満月の夜、淵の水に身を沈めるとき以外は、老婆の姿で生きねばならなくなってしまうのだ。嘆く野朱に、姥は言い捨てる。「皮一枚に囚われて生きるものは、みな、獣さ」しかし、皮一枚で生きている動物たちは、皮に囚われない。囚われるのは、人間だけだ。この物語には、皮一枚に翻弄される人間の弱さや愚かさ、そして愛しさが瑞々しく溢れている。

 野朱は、若さと美貌を失って初めて、人の世の悲しみを知る。老いという苦しみ。自分の身一つで生き抜いていかねばならぬ苦しみ。しかし、その苦しみの中で野朱は、他人の内面に「心を寄せる」ことを知っていくのだ。
 妖かしの一員になった野朱には、この世のものではないものが見える。天下を取らんとして滅んでいったものたちは、壮麗な幻の城に未だ魂となって棲み続けている。その滅んでゆく人を慕い、命を燃やした、お濠という女の人生を夢の中で追体験することになるのだ。お濠は美しさとはほど遠い、男たちとともに戦う女だった。しかし、その人生は見事に自分を貫いた「美」に満ちていた。
 
 「人は、ひとであることそのものが宝よ」
 「生きると決めたならば、闇に沈むな。白き光を身にまとえ・・・・・・」

 命を激しく燃やした魂が野朱に語りかける言葉たちに導かれ、硬い殻の中に眠っていた野朱の生きる力が、瑞々しく咲き開く。現実と幻想が金襴の絵巻物のように交錯する物語世界。その中にまっすぐ茎を伸ばして咲く蓮の花のように、少女の恋が花開いていくのに魅入られてしまう。これだけ凝った時代背景の中で、ひとりの少女が体感していくものをリアルに肌で感じさせる筆力は、深い知識と人間洞察あってこそのものだろう。自分の中にある感性や力を、解放させること。それには、「他者の物語」との深い関わり合いが必要なのだ。

 物語の最後に舞う花吹雪に、作者の、「命」に対する深い愛情を感じた。後悔ばかりに囚われがちな自分の弱さに、この愛情がひときわ沁みた。生と死。愛と憎しみ。幸せと不幸せ。それはすべて、姥皮ひとつの裏返しなのかもしれないが、裏返った最後に残るものが、この物語にメッセージとして溢れているように思う。

星のこども 川島えつこ作 はたこうしろう絵 ポプラ社

昨日思い立ってブログのタイトルを少し変えてみた。何のブログか明確にするためにと、少しでも検索ワードに引っかかるとよいな、という計算からだが(笑)好きな作品を、好きだ!と書くというスタンスは変わらない。この作品も、表紙を見ただけで「好きかも」と思った予感が当たって、とても素敵な本だった。

まず、文章がとても心地良い。この物語は、ゆいという少女が思春期の入り口に立って迎える、小さなターニングポイントを描いたものだ。急に背が伸びて、今まで気にしなかった異性も、少し気になったりする。自分でももてあますほどの大きな波がやってくる前の、体の中がざわめくような季節が、一年の自然の移り変わりと共に描かれる。ゆいと一緒に、柔らかな命の気配にふんわりと包み込まれるような心持ちになった。

 そう、この物語に満ちているのは、様々な命の気配だ。まず、仲良しの姉であるまいの妊娠。「おねえちゃん」が迎える様々な変化に、まいは戸惑う。妊娠しているときというのは、自分であって自分ではない、「あたしの体は今、ちびちびちゃんが操縦しているようなもんだよ」という時間なのだ。植物たちが一斉に芽吹くような命のたくましさへの畏怖のような気持ちを、ゆいはお腹が大きくなっていく姉とともに体験する。そのたくましい命は、目覚め始めたゆいの心と体にも芽吹いているものなのだ。
 もう一つは、ゆるやかな時の流れの中に溶け込んでいる、耳を澄ませないと聞こえない遙かな命の気配だ。学校にあるゆいのお気に入りの月野池には、河童の主がいるという。ゆいには、幼い頃にここで出会った不思議な少年との大切な思い出があった。千年を生きる木々や森たちのように、自分とは違う時の流れの中にいる存在を感じ取る力が、ゆいにはある。目には見えないものを見る感受性は、やはり河童と出会う『かはたれ』(朽木祥、福音館書店)の麻のように、美を感じる心、何者にも侵されない心の羅針盤を持つことに繋がっていく。だから、ゆいの奏でるピアノの音には、人の心を揺さぶる力があるのだと思う。

 今生きているということと、自分が遙かな時の流れの中にいるということは、同じことなのだ。刹那と永遠をこの身にいだく、命の不思議への畏怖と敬意が、ゆいという少女の日常から素直に伝わってくるこの物語は、木々が緑に染まっていく今の季節にぴったりだと思う。

2014年11月刊行

トオリヌケキンシ 加納朋子 文藝春秋

加納さんの物語は、いつもほろりと心に沁みる。人々が何気なく通り過ぎていく道の一つ裏に隠れている、迷路や路地の暗がり。小さな謎の顔をして蹲っている悲しみが、木漏れ日のように優しく透明感のある文章で語られることで、背中にささやかな羽をつけて飛び立っていくような、そんな優しさがある。皆身軽にすいすいと通り抜けていく扉が、なぜか自分にだけは閉まっていたり。皆には見えているものが、自分にだけ見えなかったり。反対に誰にも見えないものが、自分にだけ見えてしまったり。とにかくこの世界はハンディを持つものに厳しく、理不尽だ。この本には、理不尽の壁に「トオリヌケキンシ」されてしまった若者たちの物語が収められている。

自分を押し込めている理不尽の正体は何か。それがわからないことが、人と違う苦しみを抱えているものにとっては一番辛いことなのだ。どの扉を開ければいいのか。いや、もしかしたら自分を通してくれる扉などはないのではないか。悶々とするうちに、どんどん自分に対する疑いや、恐怖ばかりが膨れあがる。「フー・アー・ユー?」には、相貌失認の男の子が、ネットからたまたま自分と同じ症状を見つけるシーンがあるが、まさにこれは幸運な例だと思う。心に抱く恐怖や違和感は、特に子どものうちは他人に上手く説明できないことが多いし、周りの人間が気づけるとも限らない。私自身も、次男が生まれつき抱えていたしんどさに、彼が成人するまで気づかなかった。いやもう、それを知ったときは非常に驚いた。彼に「気付かずにいて本当に申し訳なかった」と謝ったら「いや、これを診断できるのは日本でも数人しかおらんらしいから」と反対に慰められてしまったが、やはり私は今でも彼にすまないことをしたと心から思う。ハンディを背負わせていたこともそうだが、何より気付かずにいた、ということは今でも自分が許せない。

だから、この物語に描かれている場面緘黙や相貌失認、醜形恐怖という、傍目からわかりにくい心のしんどさや病気の苦しみについて、この物語を手にとる若い人たちが知るきっかけになれば何よりだと思うのだ。もちろん、加納さんはミステリの名手であるし、ここに収められている短編はどれも切れ味が良くて面白さは折り紙つきだ。だからこそ、物語の面白さと共に、これまで知らなかった視点で自分を眺めてみたり、人の苦しみに思い当たったりする心ばえが、ごく自然に流れこんでくるのではないか。加納さんはご自分も大変な病気をされて、そのことを体験記に書かれた。最後の「この出口の無い、閉ざされた部屋で」という短編には、その経験がのたうっているようだった。「かくも世界とは、不合理で不平等に満ちている」なぜ自分だけが、と壁に頭を打ち付けて苦しむときは、誰にだってやってくる。「トオリヌケキンシ」の扉を開きたい。人の弱さ、悲しみを愛しく思い、精一杯さりげなく差し伸べられる手の温かさ。それが素直に伝わってくる物語だった。

2014年10月刊行

ヒロシマを伝えるということ 朽木祥さんの作品に寄せて

原爆忌に朽木祥さんの『彼岸花はきつねのかんざし』(学研、2008年刊)『八月の光』(偕成社、2012年刊)『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』(講談社、2013年刊)を読み返していました。

(以前書いたレビューはこちら)→『彼岸花はきつねのかんざし』『八月の光』『光のうつしえ

原爆をテーマにした作品はたくさんありますが、朽木さんのようにヒロシマをライフワークにして創作されている方は少ないです。今、原爆や戦争のことを若者に伝えることは、なかなか難しいものがあります。NHKの番組で放送されたことですが、長崎では原爆の語り部の方に「死にぞこない」と中学生が暴言を浴びせたとか。戦争は、今の若者たちの暮らしから遠すぎて、「ふーん、そんなことあったんだ」くらいの感情しか動かないのではないかと思います。いや、実を言うと、私自身もそうでした。それどころか、社会的なことに問題意識を持つこと自体、何やらタブー感さえ持っていました。

日本の社会は、同調意識が強いんです。当たらずさわらず、「皆と一緒」にしておくのが、一番都合がいい。空気を読むことに長けていた私も、若さゆえの頑なさと保身で、そんな価値観にすっかり縛られていたように思います。でも、子どもを生んで、子育てにもみくちゃにされ、すっかり裸になった心に、幼い頃に触れた児童文学が再び色鮮やかに染みこんできた。戦争や核のことを深く考えるようになったのも、実を言うと朽木さんの作品に触れたことがきっかけです。だから、今の若者たちだって、例え教えられたその時にはピンとこなくても、ふとしたことがきっかけで、もう一度自分から知りたくなる時というのは、必ずやってくると思うのです。心の中に、そのきっかけを作っておくためにも、子どものうちに素晴らしい作品に出会っていて欲しい。今、核は世界的に大きな、避けて通れない、しかも自分たちに必ず降りかかってくる問題です。福島の原発事故では、全ての炉がメルトダウンし、3号機ではほぼ100%の燃料が溶け落ちているとのこと。廃炉までの行程を考えると気が遠くなります。これほどの規模の大事故があったにも関わらず、政府は原発を手放そうとはしません。それは、何故なのか。そこに住む人々の命を犠牲にして、一体何を守ろうとしているのか。秘密保護法案を可決させ、憲法を恣意的に解釈することを自分たち閣僚だけで決め、近隣諸国との対決姿勢をあらわにする今の政治のあり方に、私は強い不安を覚えています。広島と長崎から始まった核の時代は、そのままフクシマに繋がっています。「今」しか見えない眼では、それを見通すことは難しい。連作短編の『八月の光』は、卓越した文章力で「あの日」をくっきりと立ち上がらせ、これからの未来をどう生きるのかを問いかける意欲作です。そして『光のうつしえ』は、記憶を未来に繋いでいくことが語られます。

「加害者になるな。犠牲者になるな。そしてなによりも傍観者になるな」

『光のうつしえ』の中で、婚約者を原爆でなくしてしまった先生が、子どもたちに送った手紙の中の一節です。この言葉の中で一番大切なのは「傍観者になるな」ということ。戦争は常に一人の人間を加害者にも犠牲者にもするのです。それは、今、パレスチナで続く戦闘を見てもわかるように、国家に軸を置いた二元論という単純な腑分けでは語りきれるものではありません。『八月の光』の『水の緘黙』の主人公の青年は、「あの日」から深い深い罪悪感にさいなまれて彷徨い続けます。それは、目の前で燃える少女を助けられなかったから。生き残った人たちは、皆、多かれ少なかれ、自らも傷つきながら「生き残ってしまった」という苦しみに苛まれるのです。ハンナ・アーレントが指摘したように、ホロコーストが行われていたとき、ユダヤ人の指導者たちの中にもナチスに協力した人がいた。もしくは、『夜と霧』でフランクルが語ったように、看守の中にも何とかしてユダヤ人に親切にしようと努めた人もいたのです。私たちは否応なく時代の中で生きている。その中で何を選んでいくのか、どのように生きるのかを自らに常に問いかけなければならないのです。『象使いティンの戦争』(シンシア・カドハタ)では、アメリカ兵をトラッキング(敵の足跡をたどること)して案内した村人の親切が虐殺に繋がり、村人たちは戦争へと踏み出していきます。気がつかないうちに、村人たちは戦争への一線を越えていたのです。そうならないように、一人の人間として考え抜くこと。それが、「傍観者になるな」という言葉の中には含まれているのではないかと思うのです。個々の思考停止の果てに戦争があるのだとすれば、常に私たちの中に戦争の可能性は眠っているのです。『光のうつしえ』は、過去を踏まえた上で、国や民族の枠を超えて、一人の人間としてどう生きるかという真摯な問いかけを投げかける作品だと思うのです。

広島は、長崎は、世界で唯一直接的な核攻撃を受けた場所です。そこで何があったのか。それは、徹底的に語られ、検証され、人類への責任として世界中に発信するべきことです。世界中に核は溢れていて、フクシマの事故もチェルノブイリの事故も人為的なミスから起こっていることを考えれば、人間のすることに絶対はあり得ない。唯一の被爆地に生まれた朽木さんは、被曝を風化させないという責任を、人類に対して、これからを生きる世代に対して背負い続けて、物語を書いていこうとされているのではと思います。その物語の力を、どうかこの夏休みに、子どもたちと一緒に感じて頂きたいと心から思います。

 

槍ヶ岳山頂 川端誠 BL出版

槍ヶ岳。もう、名前からしてかっこいい。先日書いた『八月の六日間』の主人公のように、「槍を責めます」と、言ってみたい。この表紙でスナップショット風にこちらを向いている少年の顔も、とても誇らしげだ。この絵本は正方形に近く、かなり大型。見開きでたっぷり山のダイナミックさが楽しめる。10歳の少年がお父さんと槍ヶ岳縦走に挑む、濃い二泊三日が描かれているのだが、どーんとした山の存在感と迫力がとても素晴らしい。何しろ槍ヶ岳だから、10歳の少年にはなかなかキツい行程なのだが、キツいからこそ身体いっぱいで山を感じる少年と一緒に、心の中の余計なものがすうっとそぎ落とされる。深呼吸したくなる。見開きには、山荘の記念スタンプが旅の行程と一緒に押されていて、それも心憎いのだ。

山では、とにかく愚直に歩くしかない。この絵本の中でも、雨の中を「もうだめだ」と何度も思いながら登り続ける場面があるが、この愚直にやるしかない、というシチュエーションは、結構楽しいものなんだと思う。しんどいけど、楽しい。しんどいから、楽しい。山頂に立って自分の歩いてきた道をたどる少年の胸の内に溢れているものを、宝物のように愛しく思った。夏休みにこんな旅の出来る父と息子が、うらやましくて仕方ない。山と、自分の後ろをずっと歩いてくれるお父さんに見守られている少年は、とても幸せだと思う。風景も清々しくて、今この季節に読むのにぴったりだ。恐ろしいほどの酷暑を一瞬忘れさせてくれる一冊。

八月の六日間 北村薫 角川書店

北村薫さんの小説を読んだのは久しぶりです。でも、久しぶりに読んでも「ああ、これこれ!」という独特の「間」は健在で嬉しくなります。文章をたどりながら、ふっと考え込んだり、風景を眺めたり。揺り動かされた心を、水面を見つめるようにそっと眺めてみたり。読み手の呼吸に合わせてくる、名人芸とも言うべき「間」なんですよね。しかも、その計算されつくしている「間」が、この本のテーマである山登りの行程のように、ごく自然に、もう初めからそこにあるように描かれていて、読み手を物語の最後まで連れていってくれます。

主人公は40歳くらいのベテラン編集者である女性で、仕事の責任や毎日のルーチンや、上手くいかなかった恋愛が人生にぎっちり詰まった毎日を送っています。この物語は、時折そんな日常から抜け出して山に行く、彼女の独白というか、意識の流れが書かれています。楽しい山歩きは五回。それが、こんな例えは失礼かもしれないんですが、小学生の作文風に書かれています。前日の荷造り、おやつに何を入れたか(これが楽しい!私もじゃがりこ好き)、何時に起きてどこから出発して、どこを歩いて、何を食べて…と、延々と全てを網羅。これを凡人が書くと、ただの素人のブログ風になってしまうんでしょうが、北村薫さんが書くと名人芸になる不思議さったらありません。まず、あふれんばかりの文学の蘊蓄が楽しい。何しろ主人公は編集さんなので無類の本好きという設定です。山歩きにも、絶対お守りのように文庫本を持っていく活字中毒で(お仲間だわ)、そこも楽しい。あ、これかー、これ持っていくのか。やられたなーと思ったり。私なら何を持っていくかを、自分の本棚見ながら考えたり。山歩きと言っても、命をかけた過酷な山歩きではなく、かといって私が行くような日帰りハイキングでもなく、頑張れば手が届いて、穂高や槍ヶ岳の風景を満喫できるという絶妙な山歩きなんです。ほんと、「行きたい!」って思いましたもん。彼女は山に一人で出かけます。それは、多分自分自身を確かめるため。

こんな大きな風景の中に、ただ一人の人間であるわたし。それが、頼りなくもまた愛しい。 思い通りの道を行けないことがあっても、ああ、今がいい。わたしであることがいい。

私たちは「人間」だから、人と人の間で微妙な距離を測りながら生きている。時に自分の輪郭がぼやけてしまうことだってあるし、ぶつかってしまうこともある。でも、山にいるときの自分は果てしなく小さくて、ただひたすら山という美しい場所に抱かれて、徹底的に一人になれる。身体の隅から隅まで感覚も研ぎ澄まされて、輪郭もくっきりするでしょう。うん、ここまでならほんとに「ああ、素敵ね~」という感じなんですが、でも、北村さんは、この小説のあちこちに小さなクレバスを潜ませています。歩きながら、思い出す若い頃のトラウマや、山のあちこちでふと会う人から覗くもの。幼い頃から抱える根源的な恐怖などが、美しい風景の中から突然現れる。個人的には、彼女の元上司の先崎さんのセリフが胸に沁みました。この一節を読めただけでも、この本を読んでよかった。(引用はしません~。(笑))どこまで奥があるのかわからない割れ目を持ちながら、人は生きている。というか、生きていかざるを得ない。おお、同士よ、という思いが、読んでいる間に胸に沁みる一冊でした。

下界にいるときの身分序列も全く関係なく、袖振り合うものは助け合うというルールが存在する山に、たくさんの人が惹かれるのもわかるわー、としみじみ思った読書でした。去年の夏は、友人と長野の夏を満喫できたのだが、今年はどうも諸事情あって難しそうです。ああ、でも、山に行きたいなあ。

あひるの手紙 朽木祥 ささめやゆき絵 佼成出版社

言葉を初めて手に入れたときの喜びを覚えていると言うと、「ほんまかいな」と言われそうですが。自分としては結構はっきりした記憶です。「あいうえお」の赤い磁石を買って貰い、それを絵本の字と同じ順番に並べてみたとき、「あ」の字と音が、ふと一致したんですよね。一つわかれば後は芋づる式に疑問氷解し、それまで見知らぬ暗号だった文字が、私に語りかけてくるように思えて、興奮しました。多分三才くらいだった・・・ということは、ウン十年昔の記憶ですか(笑)私にとって、文字を手に入れた日は、新しい扉が開いた瞬間だったのでしょう。 そんな古い記憶が蘇ってくるほど、この物語には磨き抜かれた言葉の喜びがきらきらしています。

ある日、一年生のクラスに一通の手紙が届きます。そこには覚えたての元気な字でただ一言「あひる」の文字。それは、「ゆっくり、ゆったり、大きくなって」ひらがなを書けるようになった24歳のけんいちさんからのお便りだったのです。そこから、子どもたちとけんいちさんの、お手紙での素敵な言葉のキャッチボールが始まります。「あひる」「るびい」「いるか」・・・交わし合うたった一つの言葉に、たくさんの笑顔が重なっていきます。手紙を送るときの、「喜んでくれるかな?」というドキドキ。お返事を待つときの「早く来ないかな~?」と思うときめき。届いたお手紙を開けて、紙をそっと開くまでの待ち遠しさ。そんな時間も全部こもった手紙って、ほんとにいい。「あひる」という言葉と一緒に、一年生の皆と、ゆっくり大きくなった、けんいちさんが、にこにこと行進していくような。お手紙に書いた言葉たちが、皆で歌っているような楽しい時間が、見事に一冊の本になっています。

朽木さんの物語には、よく手紙が登場します。『かはたれ』(福音館書店、2005年)の、麻のお父さんからの手紙。『風の靴』(講談社、2009年)の、ヨットマンのおじいちゃんからの瓶に入った手紙。『オン・ザ・ライン』(小学館、2011年)では、何枚もの絵葉書が、主人公の侃をめぐる人々の心を行き交います。作品の中で、手紙たちはゆっくりと相手に届く時を待ち、主人公たちの心をほぐしていくのです。思うに、手紙は心を交わすのにちょうどいい「時間」を生むのだと思います。何もかも、早く、早くとせかされてしまいがちな子どもたち。そのスピードはますます上がってめまぐるしいほど。でも、ゆっくりでなければ育たないものがあるのです。けんいちさんの書いた「あひる」の文字は、「にぎやかに、わらっているみたいな三つの文字」。ゆっくり、ゆっくりたどりついた三つの文字への時間の中に、どれだけの愛情と慈しみがこめられていることか。だからこそ育った素直な喜びが、この「あひる」という言葉にはじけているように思うのです。そのけんいちさんの言葉を、まっすぐに受け止めて返していく子どもたちの心には、余計な壁も何もない。心地良いリズムを刻む楽しさと共に、何の押しつけもなく、お互いの尊厳を大切にするメッセージが心にするりと染みこんでくる。言葉は不完全な入れ物だから、そこに何を込めるかで宝物にもなれば、相手を切り裂く刃にもなります。子どもたちには、相手と自分を大切にする言葉を育てて欲しいと切に思います。幼年の物語という難しいジャンルで(これは、ほんとに難しいんですよ!)こんなに自然にメッセージと楽しさを両立させた作品が生まれたというのは、ほんとに嬉しいことです。学校という社会の始まりの中に飛び込んでいく子どもたちへのプレゼントにも相応しい一冊だと思います。ささめやゆきさんの暖かみのある挿絵も、この物語にぴったり。表紙の赤いポストがいい!あのずんぐりした形。ポストは、やっぱりこれでなくちゃね。

2014年4月刊行

佼成出版社

 

ミシンのうた こみねゆら 講談社

こみねさんの描く世界は、どこかしら、私たちがどこかに置き忘れている世界と呼応していると思う。それは、常に美の世界に耳を澄ませ、心を尽くしている人だけが捉えることのできる、一抹の水脈のようなものかもしれない。昨年の夏、満月の夜に八島ヶ原湿原の夜の中を歩いた。灯りひとつ、人工物の何一つ無い世界を、神経を研ぎ澄ませて歩いていると、身体のどこかに違う目が開いていくような気がした。この絵本を読んでいると、あのとき満月を見上げていたときの気持ちを思い出す。月や風や草花や虫たちが語りかける耳に聞こえない声に、全身を使って耳をすませる時間。心をすます、という言葉はないけれど、こみねさんの絵本にゆっくり向き合って、心をすませているときに聞こえてくる音楽がとても好きだ。

品の良い洋装店のウインドウに、手回しのアンティークミシンが置かれている。たくさんのお洋服を作ってきたに違いないミシンは、もっと効率の良いミシンに仕事を譲って店頭にひっそり飾られているのだけれど、きっと「私を使って」と願っていたに違いない。その願いに引き寄せられるように、見習いの女の子が満月の夜にミシンのところにやってくる。カタカタ・・・可愛い音をたてて、少女は個性的なお洋服を作り出す。このお洋服が、どれもとっても素敵で美しいのだ。朝になって少女は勝手なことをして、と怒られるのだけれど、彼女のお洋服にぴったりな人がやってきて、必ず売れてしまうのだ。もしかして、このミシンは「こんなお洋服が欲しい」という願いを受け止めて、少女を呼び寄せているのかもしれない。一生に一度でいいから、まるで自分のためにあるように似合うお洋服を着てみたいというのは、女性なら誰でも思うことだと思う。「着る」というのは、そうありたい自分自身を多少なりとも体現することだし、どんなお洋服を着るかは自分の生き方とも深く関わってくる。自分の好きなものを着られるということは、人の尊厳を守るものでもあると思う。自由が奪われるところでは、大抵「着る」自由も奪われてしまうから。・・・などと大きな話になっていくのは、少女が最後に作ったお洋服を着るために現れたちいさな女の子がとても気になってしまうからだ。

遠くの野原にぽつんと佇んでいるちいさな女の子は、真っ白い服を着て、どことなく寂しそうだ。満月の月明かりの中をやってきたときも、命を宿さないような、青白い顔をしている。でも、ミシンが作り出した可愛い青いフリルのお洋服を着たとたん、生き生きとした表情で走り出すのだ。この子はどこから来たのかな。ずっと一人でいたのかな・・・。夜明けの町を手を繋いで走っていくふたりは、どこに行くのだろう。ふと、バーネットの『白い人びと』を思い出したりするのだけれど、その答えは読むものが「こうであって欲しいな」という自分の願いとともに、胸に沈めておくべきものなのだろうとも思う。あの小さな女の子は、女の子の憧れそのものなのかもしれないし、帰る場所を見つけた可愛い天使なのかもしれない。確かなのは、小さなミシンが、誰かの願いや希望を、カタカタと優しい歌を歌いながら生み出してきたということ。その音に心を澄ます、美しいオルゴールのような絵本が私のところにやってきてくれたことが、とても嬉しい。

2014年2月刊行

講談社

炎と茨の王女 レイ・カーソン 杉田七重訳 東京創元社

異世界ファンタジーが好きであれこれ読むんですが、最近読んだ中では、これは特筆物のおもしろさでした。主人公は王女様。生まれつき神に選ばれしゴッド・ストーンの持ち主である彼女が、試練の旅を通じて大きな成長を遂げるというファンタジーの王道です。王道ですが、設定がとてもユニークで文章が瑞々しいので、良い意味でその王道を感じさせません。恋も、裏切りも、悲しみも、友情も、冒険も楽しめるジェットコースターストーリー。こういうの、いいですよねえ。ここまでいろんな要素を盛り込んであるにも関わらず、とても読みやすい。感情移入しやすいんです。それは、思うに主人公である王女さまであるエリサのキャラによるものなのかも。華やかさとは無縁の性格。食いしん坊で汗っかき、国政の面倒なことは優秀な姉に任せ、趣味は勉強。三カ国語を話し、聖典や歴史書は暗記するほど読み込んでいるという、引きこもり系のオタク女子王女なんですよ。何だかもう、読書好き人間にとっては他人とは思えない(笑)

その彼女がいきなり隣国のえらくかっこいい王と結婚することになります。嫁ぎ先にいく途中で既に命を狙われ、やっと着いたと思ったら、なぜか王は自分を王妃としては紹介してくれない。美しい愛人はいるは、先妻はやたらに美女だは、落ち込むことばっかりの日々で、ますます引きこもり傾向が加速するエリサ。このあたりのエリサのもやもやがとても丁寧に書き込まれていたので、そうか、宮廷を舞台にした心理劇になるのかなあと思ったら、何とある日いきなり誘拐されて砂漠の旅に放り込まれてしまうという運命の急変から、それはそれは息つく暇もないジェットコースターストーリーになるんですよ。ぐっと主人公の気持ちに引きつけておいてから翻弄する。もうね、読むのが止まらなくて困りました。

物語は、エリサの持つゴッドストーンをめぐって展開していきます。王女暮らしのエリサが、砂漠を越え、大きな国の戦争の狭間でぼろぼろに傷ついた人たちと出会って、何とかして彼らの力になりたいと思うようになる。これまで与えられていただけの生活から、自分の力と才覚で居場所を勝ち取っていくまでの、彼女の闘いと成長がまぶしくて読み甲斐があります。個人的には侍女として宮廷に潜入し、エリサを誘拐する美女のコスメ、エリサを愛する、優しい大型犬のような若者のウンベルトがお気に入りかなあ。この物語は三部作で、次々翻訳されるみたいです。早く続きが読みたいなあ。

あいしてくれて、ありがとう 越水利江子作 よしざわけいこ絵 岩崎書店

私の父親はとても心配性だった。少しでもとがったもの、例えばハサミや毛糸の編み棒なども、妹や私が怪我をしてはいけないと、すぐにどこかにしまい込んでしまう。建て売りの古い家の窓から冷たい風が入ってくるのを気にして、私の部屋の窓をきっちりテープで封鎖してしまったこともあった。もう、ちょっと、やめてよー、息苦しいやん、と若い私は思っていたものだ。この物語を読んでいると、あんな風に何の見返りもなく、ただ愛してくれた人がいなくなってしまったということが、表紙の風船のようにぽっかりと浮かんでくる。とても寂しいけれど、その風船を手に持ってしばらく眺めていたくなる。

この物語は、急にいなくなってしまった、大好きなおじいちゃんへの手紙だ。バイクでタイフーンのようにやってくるカッコいいおじいちゃん。どうやら何かの事情で、自分だけで子どもを育てている娘と、孫のことが気になって気になって仕方なかったおじいちゃん。口うるさいけれど、女親とは違うやり方で包んでくれるおじいちゃんは特別の存在だ。別におじいちゃんが何か役に立つことをしてくれるからじゃない。何かいい物を持ってきてくれるからでもない。ただ、「お母さんのおにぎりと、おじいちゃんのおにぎりと、どっちがうまい?」なんて聞いたりする、おとなげないおじいちゃんは、「僕」が今ここにいることを、とてもかけがえなく思っていたのだと思う。そのことを、抑えた言葉数で見事に伝えてしまう利江子先生の筆力は、さすがだ。

年を取ればとるほど、悲しいことも、辛いこともたくさん見てしまう。ヘンな話、親子だからといって愛し合えるとも限らないし、また愛し合っていても、会いたい時に会えるとも限らない。だからこそ、きっと、このおじいちゃんは、僕たちにいつも「ここにこうして、いてくれて、愛させてくれて、ほんまにありがとう」と思っていた人なのだ。その「ありがとう」は、お母さんの、お姉ちゃんの、そして僕が今ここにいることへの限りない寿ぎだった。だから、「あいしてくれてありがとう」という僕たちの感謝は、おじいちゃんの「愛させてくれてありがとう」という感謝と背中合わせなんだろうと思う。この物語には、その背中合わせの「ありがとう」の暖かさが溢れている。この物語を読む子どもたちは、ふと顔をあげて、自分を愛してくれる人を改めて見つめたくなるんじゃないだろうか。それは、自分が今生きているということを、とても大切に思える瞬間のはずだ。

心配性だった私の父は平均寿命よりもだいぶ早く、この物語のおじいちゃんと同じように、肺が原因であっという間にいなくなってしまった。だから、やっぱりこの物語のお母さんのように「ごめんね」と思うことが今でもある。でも、猫を溺愛している長男に、最近父と同じような心配性ぶりをみつけることがあって、可笑しくて一人で笑ってしまうことがあるのだ。ああ、そういうことなんやなあと、この物語で僕がおじいちゃんから受け取った愛情を感じて、納得してしまった。この年齢で父の娘である自分を思い出すというサプライズももらえて、とても嬉しかった。そして、この物語のような距離感が自分と息子の間に生まれるのだとしたら(生まれるのだかどうだかわからないけれど)、死ぬのもちょっと悪くないとも思う。大人の疲れた心にも効く一冊です。

2013年9月刊行

岩崎書店