ヒロシマを伝えるということ 朽木祥さんの作品に寄せて

原爆忌に朽木祥さんの『彼岸花はきつねのかんざし』(学研、2008年刊)『八月の光』(偕成社、2012年刊)『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』(講談社、2013年刊)を読み返していました。

(以前書いたレビューはこちら)→『彼岸花はきつねのかんざし』『八月の光』『光のうつしえ

原爆をテーマにした作品はたくさんありますが、朽木さんのようにヒロシマをライフワークにして創作されている方は少ないです。今、原爆や戦争のことを若者に伝えることは、なかなか難しいものがあります。NHKの番組で放送されたことですが、長崎では原爆の語り部の方に「死にぞこない」と中学生が暴言を浴びせたとか。戦争は、今の若者たちの暮らしから遠すぎて、「ふーん、そんなことあったんだ」くらいの感情しか動かないのではないかと思います。いや、実を言うと、私自身もそうでした。それどころか、社会的なことに問題意識を持つこと自体、何やらタブー感さえ持っていました。

日本の社会は、同調意識が強いんです。当たらずさわらず、「皆と一緒」にしておくのが、一番都合がいい。空気を読むことに長けていた私も、若さゆえの頑なさと保身で、そんな価値観にすっかり縛られていたように思います。でも、子どもを生んで、子育てにもみくちゃにされ、すっかり裸になった心に、幼い頃に触れた児童文学が再び色鮮やかに染みこんできた。戦争や核のことを深く考えるようになったのも、実を言うと朽木さんの作品に触れたことがきっかけです。だから、今の若者たちだって、例え教えられたその時にはピンとこなくても、ふとしたことがきっかけで、もう一度自分から知りたくなる時というのは、必ずやってくると思うのです。心の中に、そのきっかけを作っておくためにも、子どものうちに素晴らしい作品に出会っていて欲しい。今、核は世界的に大きな、避けて通れない、しかも自分たちに必ず降りかかってくる問題です。福島の原発事故では、全ての炉がメルトダウンし、3号機ではほぼ100%の燃料が溶け落ちているとのこと。廃炉までの行程を考えると気が遠くなります。これほどの規模の大事故があったにも関わらず、政府は原発を手放そうとはしません。それは、何故なのか。そこに住む人々の命を犠牲にして、一体何を守ろうとしているのか。秘密保護法案を可決させ、憲法を恣意的に解釈することを自分たち閣僚だけで決め、近隣諸国との対決姿勢をあらわにする今の政治のあり方に、私は強い不安を覚えています。広島と長崎から始まった核の時代は、そのままフクシマに繋がっています。「今」しか見えない眼では、それを見通すことは難しい。連作短編の『八月の光』は、卓越した文章力で「あの日」をくっきりと立ち上がらせ、これからの未来をどう生きるのかを問いかける意欲作です。そして『光のうつしえ』は、記憶を未来に繋いでいくことが語られます。

「加害者になるな。犠牲者になるな。そしてなによりも傍観者になるな」

『光のうつしえ』の中で、婚約者を原爆でなくしてしまった先生が、子どもたちに送った手紙の中の一節です。この言葉の中で一番大切なのは「傍観者になるな」ということ。戦争は常に一人の人間を加害者にも犠牲者にもするのです。それは、今、パレスチナで続く戦闘を見てもわかるように、国家に軸を置いた二元論という単純な腑分けでは語りきれるものではありません。『八月の光』の『水の緘黙』の主人公の青年は、「あの日」から深い深い罪悪感にさいなまれて彷徨い続けます。それは、目の前で燃える少女を助けられなかったから。生き残った人たちは、皆、多かれ少なかれ、自らも傷つきながら「生き残ってしまった」という苦しみに苛まれるのです。ハンナ・アーレントが指摘したように、ホロコーストが行われていたとき、ユダヤ人の指導者たちの中にもナチスに協力した人がいた。もしくは、『夜と霧』でフランクルが語ったように、看守の中にも何とかしてユダヤ人に親切にしようと努めた人もいたのです。私たちは否応なく時代の中で生きている。その中で何を選んでいくのか、どのように生きるのかを自らに常に問いかけなければならないのです。『象使いティンの戦争』(シンシア・カドハタ)では、アメリカ兵をトラッキング(敵の足跡をたどること)して案内した村人の親切が虐殺に繋がり、村人たちは戦争へと踏み出していきます。気がつかないうちに、村人たちは戦争への一線を越えていたのです。そうならないように、一人の人間として考え抜くこと。それが、「傍観者になるな」という言葉の中には含まれているのではないかと思うのです。個々の思考停止の果てに戦争があるのだとすれば、常に私たちの中に戦争の可能性は眠っているのです。『光のうつしえ』は、過去を踏まえた上で、国や民族の枠を超えて、一人の人間としてどう生きるかという真摯な問いかけを投げかける作品だと思うのです。

広島は、長崎は、世界で唯一直接的な核攻撃を受けた場所です。そこで何があったのか。それは、徹底的に語られ、検証され、人類への責任として世界中に発信するべきことです。世界中に核は溢れていて、フクシマの事故もチェルノブイリの事故も人為的なミスから起こっていることを考えれば、人間のすることに絶対はあり得ない。唯一の被爆地に生まれた朽木さんは、被曝を風化させないという責任を、人類に対して、これからを生きる世代に対して背負い続けて、物語を書いていこうとされているのではと思います。その物語の力を、どうかこの夏休みに、子どもたちと一緒に感じて頂きたいと心から思います。

 

槍ヶ岳山頂 川端誠 BL出版

槍ヶ岳。もう、名前からしてかっこいい。先日書いた『八月の六日間』の主人公のように、「槍を責めます」と、言ってみたい。この表紙でスナップショット風にこちらを向いている少年の顔も、とても誇らしげだ。この絵本は正方形に近く、かなり大型。見開きでたっぷり山のダイナミックさが楽しめる。10歳の少年がお父さんと槍ヶ岳縦走に挑む、濃い二泊三日が描かれているのだが、どーんとした山の存在感と迫力がとても素晴らしい。何しろ槍ヶ岳だから、10歳の少年にはなかなかキツい行程なのだが、キツいからこそ身体いっぱいで山を感じる少年と一緒に、心の中の余計なものがすうっとそぎ落とされる。深呼吸したくなる。見開きには、山荘の記念スタンプが旅の行程と一緒に押されていて、それも心憎いのだ。

山では、とにかく愚直に歩くしかない。この絵本の中でも、雨の中を「もうだめだ」と何度も思いながら登り続ける場面があるが、この愚直にやるしかない、というシチュエーションは、結構楽しいものなんだと思う。しんどいけど、楽しい。しんどいから、楽しい。山頂に立って自分の歩いてきた道をたどる少年の胸の内に溢れているものを、宝物のように愛しく思った。夏休みにこんな旅の出来る父と息子が、うらやましくて仕方ない。山と、自分の後ろをずっと歩いてくれるお父さんに見守られている少年は、とても幸せだと思う。風景も清々しくて、今この季節に読むのにぴったりだ。恐ろしいほどの酷暑を一瞬忘れさせてくれる一冊。

八月の六日間 北村薫 角川書店

北村薫さんの小説を読んだのは久しぶりです。でも、久しぶりに読んでも「ああ、これこれ!」という独特の「間」は健在で嬉しくなります。文章をたどりながら、ふっと考え込んだり、風景を眺めたり。揺り動かされた心を、水面を見つめるようにそっと眺めてみたり。読み手の呼吸に合わせてくる、名人芸とも言うべき「間」なんですよね。しかも、その計算されつくしている「間」が、この本のテーマである山登りの行程のように、ごく自然に、もう初めからそこにあるように描かれていて、読み手を物語の最後まで連れていってくれます。

主人公は40歳くらいのベテラン編集者である女性で、仕事の責任や毎日のルーチンや、上手くいかなかった恋愛が人生にぎっちり詰まった毎日を送っています。この物語は、時折そんな日常から抜け出して山に行く、彼女の独白というか、意識の流れが書かれています。楽しい山歩きは五回。それが、こんな例えは失礼かもしれないんですが、小学生の作文風に書かれています。前日の荷造り、おやつに何を入れたか(これが楽しい!私もじゃがりこ好き)、何時に起きてどこから出発して、どこを歩いて、何を食べて…と、延々と全てを網羅。これを凡人が書くと、ただの素人のブログ風になってしまうんでしょうが、北村薫さんが書くと名人芸になる不思議さったらありません。まず、あふれんばかりの文学の蘊蓄が楽しい。何しろ主人公は編集さんなので無類の本好きという設定です。山歩きにも、絶対お守りのように文庫本を持っていく活字中毒で(お仲間だわ)、そこも楽しい。あ、これかー、これ持っていくのか。やられたなーと思ったり。私なら何を持っていくかを、自分の本棚見ながら考えたり。山歩きと言っても、命をかけた過酷な山歩きではなく、かといって私が行くような日帰りハイキングでもなく、頑張れば手が届いて、穂高や槍ヶ岳の風景を満喫できるという絶妙な山歩きなんです。ほんと、「行きたい!」って思いましたもん。彼女は山に一人で出かけます。それは、多分自分自身を確かめるため。

こんな大きな風景の中に、ただ一人の人間であるわたし。それが、頼りなくもまた愛しい。 思い通りの道を行けないことがあっても、ああ、今がいい。わたしであることがいい。

私たちは「人間」だから、人と人の間で微妙な距離を測りながら生きている。時に自分の輪郭がぼやけてしまうことだってあるし、ぶつかってしまうこともある。でも、山にいるときの自分は果てしなく小さくて、ただひたすら山という美しい場所に抱かれて、徹底的に一人になれる。身体の隅から隅まで感覚も研ぎ澄まされて、輪郭もくっきりするでしょう。うん、ここまでならほんとに「ああ、素敵ね~」という感じなんですが、でも、北村さんは、この小説のあちこちに小さなクレバスを潜ませています。歩きながら、思い出す若い頃のトラウマや、山のあちこちでふと会う人から覗くもの。幼い頃から抱える根源的な恐怖などが、美しい風景の中から突然現れる。個人的には、彼女の元上司の先崎さんのセリフが胸に沁みました。この一節を読めただけでも、この本を読んでよかった。(引用はしません~。(笑))どこまで奥があるのかわからない割れ目を持ちながら、人は生きている。というか、生きていかざるを得ない。おお、同士よ、という思いが、読んでいる間に胸に沁みる一冊でした。

下界にいるときの身分序列も全く関係なく、袖振り合うものは助け合うというルールが存在する山に、たくさんの人が惹かれるのもわかるわー、としみじみ思った読書でした。去年の夏は、友人と長野の夏を満喫できたのだが、今年はどうも諸事情あって難しそうです。ああ、でも、山に行きたいなあ。

あひるの手紙 朽木祥 ささめやゆき絵 佼成出版社

言葉を初めて手に入れたときの喜びを覚えていると言うと、「ほんまかいな」と言われそうですが。自分としては結構はっきりした記憶です。「あいうえお」の赤い磁石を買って貰い、それを絵本の字と同じ順番に並べてみたとき、「あ」の字と音が、ふと一致したんですよね。一つわかれば後は芋づる式に疑問氷解し、それまで見知らぬ暗号だった文字が、私に語りかけてくるように思えて、興奮しました。多分三才くらいだった・・・ということは、ウン十年昔の記憶ですか(笑)私にとって、文字を手に入れた日は、新しい扉が開いた瞬間だったのでしょう。 そんな古い記憶が蘇ってくるほど、この物語には磨き抜かれた言葉の喜びがきらきらしています。

ある日、一年生のクラスに一通の手紙が届きます。そこには覚えたての元気な字でただ一言「あひる」の文字。それは、「ゆっくり、ゆったり、大きくなって」ひらがなを書けるようになった24歳のけんいちさんからのお便りだったのです。そこから、子どもたちとけんいちさんの、お手紙での素敵な言葉のキャッチボールが始まります。「あひる」「るびい」「いるか」・・・交わし合うたった一つの言葉に、たくさんの笑顔が重なっていきます。手紙を送るときの、「喜んでくれるかな?」というドキドキ。お返事を待つときの「早く来ないかな~?」と思うときめき。届いたお手紙を開けて、紙をそっと開くまでの待ち遠しさ。そんな時間も全部こもった手紙って、ほんとにいい。「あひる」という言葉と一緒に、一年生の皆と、ゆっくり大きくなった、けんいちさんが、にこにこと行進していくような。お手紙に書いた言葉たちが、皆で歌っているような楽しい時間が、見事に一冊の本になっています。

朽木さんの物語には、よく手紙が登場します。『かはたれ』(福音館書店、2005年)の、麻のお父さんからの手紙。『風の靴』(講談社、2009年)の、ヨットマンのおじいちゃんからの瓶に入った手紙。『オン・ザ・ライン』(小学館、2011年)では、何枚もの絵葉書が、主人公の侃をめぐる人々の心を行き交います。作品の中で、手紙たちはゆっくりと相手に届く時を待ち、主人公たちの心をほぐしていくのです。思うに、手紙は心を交わすのにちょうどいい「時間」を生むのだと思います。何もかも、早く、早くとせかされてしまいがちな子どもたち。そのスピードはますます上がってめまぐるしいほど。でも、ゆっくりでなければ育たないものがあるのです。けんいちさんの書いた「あひる」の文字は、「にぎやかに、わらっているみたいな三つの文字」。ゆっくり、ゆっくりたどりついた三つの文字への時間の中に、どれだけの愛情と慈しみがこめられていることか。だからこそ育った素直な喜びが、この「あひる」という言葉にはじけているように思うのです。そのけんいちさんの言葉を、まっすぐに受け止めて返していく子どもたちの心には、余計な壁も何もない。心地良いリズムを刻む楽しさと共に、何の押しつけもなく、お互いの尊厳を大切にするメッセージが心にするりと染みこんでくる。言葉は不完全な入れ物だから、そこに何を込めるかで宝物にもなれば、相手を切り裂く刃にもなります。子どもたちには、相手と自分を大切にする言葉を育てて欲しいと切に思います。幼年の物語という難しいジャンルで(これは、ほんとに難しいんですよ!)こんなに自然にメッセージと楽しさを両立させた作品が生まれたというのは、ほんとに嬉しいことです。学校という社会の始まりの中に飛び込んでいく子どもたちへのプレゼントにも相応しい一冊だと思います。ささめやゆきさんの暖かみのある挿絵も、この物語にぴったり。表紙の赤いポストがいい!あのずんぐりした形。ポストは、やっぱりこれでなくちゃね。

2014年4月刊行

佼成出版社

 

ミシンのうた こみねゆら 講談社

こみねさんの描く世界は、どこかしら、私たちがどこかに置き忘れている世界と呼応していると思う。それは、常に美の世界に耳を澄ませ、心を尽くしている人だけが捉えることのできる、一抹の水脈のようなものかもしれない。昨年の夏、満月の夜に八島ヶ原湿原の夜の中を歩いた。灯りひとつ、人工物の何一つ無い世界を、神経を研ぎ澄ませて歩いていると、身体のどこかに違う目が開いていくような気がした。この絵本を読んでいると、あのとき満月を見上げていたときの気持ちを思い出す。月や風や草花や虫たちが語りかける耳に聞こえない声に、全身を使って耳をすませる時間。心をすます、という言葉はないけれど、こみねさんの絵本にゆっくり向き合って、心をすませているときに聞こえてくる音楽がとても好きだ。

品の良い洋装店のウインドウに、手回しのアンティークミシンが置かれている。たくさんのお洋服を作ってきたに違いないミシンは、もっと効率の良いミシンに仕事を譲って店頭にひっそり飾られているのだけれど、きっと「私を使って」と願っていたに違いない。その願いに引き寄せられるように、見習いの女の子が満月の夜にミシンのところにやってくる。カタカタ・・・可愛い音をたてて、少女は個性的なお洋服を作り出す。このお洋服が、どれもとっても素敵で美しいのだ。朝になって少女は勝手なことをして、と怒られるのだけれど、彼女のお洋服にぴったりな人がやってきて、必ず売れてしまうのだ。もしかして、このミシンは「こんなお洋服が欲しい」という願いを受け止めて、少女を呼び寄せているのかもしれない。一生に一度でいいから、まるで自分のためにあるように似合うお洋服を着てみたいというのは、女性なら誰でも思うことだと思う。「着る」というのは、そうありたい自分自身を多少なりとも体現することだし、どんなお洋服を着るかは自分の生き方とも深く関わってくる。自分の好きなものを着られるということは、人の尊厳を守るものでもあると思う。自由が奪われるところでは、大抵「着る」自由も奪われてしまうから。・・・などと大きな話になっていくのは、少女が最後に作ったお洋服を着るために現れたちいさな女の子がとても気になってしまうからだ。

遠くの野原にぽつんと佇んでいるちいさな女の子は、真っ白い服を着て、どことなく寂しそうだ。満月の月明かりの中をやってきたときも、命を宿さないような、青白い顔をしている。でも、ミシンが作り出した可愛い青いフリルのお洋服を着たとたん、生き生きとした表情で走り出すのだ。この子はどこから来たのかな。ずっと一人でいたのかな・・・。夜明けの町を手を繋いで走っていくふたりは、どこに行くのだろう。ふと、バーネットの『白い人びと』を思い出したりするのだけれど、その答えは読むものが「こうであって欲しいな」という自分の願いとともに、胸に沈めておくべきものなのだろうとも思う。あの小さな女の子は、女の子の憧れそのものなのかもしれないし、帰る場所を見つけた可愛い天使なのかもしれない。確かなのは、小さなミシンが、誰かの願いや希望を、カタカタと優しい歌を歌いながら生み出してきたということ。その音に心を澄ます、美しいオルゴールのような絵本が私のところにやってきてくれたことが、とても嬉しい。

2014年2月刊行

講談社

炎と茨の王女 レイ・カーソン 杉田七重訳 東京創元社

異世界ファンタジーが好きであれこれ読むんですが、最近読んだ中では、これは特筆物のおもしろさでした。主人公は王女様。生まれつき神に選ばれしゴッド・ストーンの持ち主である彼女が、試練の旅を通じて大きな成長を遂げるというファンタジーの王道です。王道ですが、設定がとてもユニークで文章が瑞々しいので、良い意味でその王道を感じさせません。恋も、裏切りも、悲しみも、友情も、冒険も楽しめるジェットコースターストーリー。こういうの、いいですよねえ。ここまでいろんな要素を盛り込んであるにも関わらず、とても読みやすい。感情移入しやすいんです。それは、思うに主人公である王女さまであるエリサのキャラによるものなのかも。華やかさとは無縁の性格。食いしん坊で汗っかき、国政の面倒なことは優秀な姉に任せ、趣味は勉強。三カ国語を話し、聖典や歴史書は暗記するほど読み込んでいるという、引きこもり系のオタク女子王女なんですよ。何だかもう、読書好き人間にとっては他人とは思えない(笑)

その彼女がいきなり隣国のえらくかっこいい王と結婚することになります。嫁ぎ先にいく途中で既に命を狙われ、やっと着いたと思ったら、なぜか王は自分を王妃としては紹介してくれない。美しい愛人はいるは、先妻はやたらに美女だは、落ち込むことばっかりの日々で、ますます引きこもり傾向が加速するエリサ。このあたりのエリサのもやもやがとても丁寧に書き込まれていたので、そうか、宮廷を舞台にした心理劇になるのかなあと思ったら、何とある日いきなり誘拐されて砂漠の旅に放り込まれてしまうという運命の急変から、それはそれは息つく暇もないジェットコースターストーリーになるんですよ。ぐっと主人公の気持ちに引きつけておいてから翻弄する。もうね、読むのが止まらなくて困りました。

物語は、エリサの持つゴッドストーンをめぐって展開していきます。王女暮らしのエリサが、砂漠を越え、大きな国の戦争の狭間でぼろぼろに傷ついた人たちと出会って、何とかして彼らの力になりたいと思うようになる。これまで与えられていただけの生活から、自分の力と才覚で居場所を勝ち取っていくまでの、彼女の闘いと成長がまぶしくて読み甲斐があります。個人的には侍女として宮廷に潜入し、エリサを誘拐する美女のコスメ、エリサを愛する、優しい大型犬のような若者のウンベルトがお気に入りかなあ。この物語は三部作で、次々翻訳されるみたいです。早く続きが読みたいなあ。

あいしてくれて、ありがとう 越水利江子作 よしざわけいこ絵 岩崎書店

私の父親はとても心配性だった。少しでもとがったもの、例えばハサミや毛糸の編み棒なども、妹や私が怪我をしてはいけないと、すぐにどこかにしまい込んでしまう。建て売りの古い家の窓から冷たい風が入ってくるのを気にして、私の部屋の窓をきっちりテープで封鎖してしまったこともあった。もう、ちょっと、やめてよー、息苦しいやん、と若い私は思っていたものだ。この物語を読んでいると、あんな風に何の見返りもなく、ただ愛してくれた人がいなくなってしまったということが、表紙の風船のようにぽっかりと浮かんでくる。とても寂しいけれど、その風船を手に持ってしばらく眺めていたくなる。

この物語は、急にいなくなってしまった、大好きなおじいちゃんへの手紙だ。バイクでタイフーンのようにやってくるカッコいいおじいちゃん。どうやら何かの事情で、自分だけで子どもを育てている娘と、孫のことが気になって気になって仕方なかったおじいちゃん。口うるさいけれど、女親とは違うやり方で包んでくれるおじいちゃんは特別の存在だ。別におじいちゃんが何か役に立つことをしてくれるからじゃない。何かいい物を持ってきてくれるからでもない。ただ、「お母さんのおにぎりと、おじいちゃんのおにぎりと、どっちがうまい?」なんて聞いたりする、おとなげないおじいちゃんは、「僕」が今ここにいることを、とてもかけがえなく思っていたのだと思う。そのことを、抑えた言葉数で見事に伝えてしまう利江子先生の筆力は、さすがだ。

年を取ればとるほど、悲しいことも、辛いこともたくさん見てしまう。ヘンな話、親子だからといって愛し合えるとも限らないし、また愛し合っていても、会いたい時に会えるとも限らない。だからこそ、きっと、このおじいちゃんは、僕たちにいつも「ここにこうして、いてくれて、愛させてくれて、ほんまにありがとう」と思っていた人なのだ。その「ありがとう」は、お母さんの、お姉ちゃんの、そして僕が今ここにいることへの限りない寿ぎだった。だから、「あいしてくれてありがとう」という僕たちの感謝は、おじいちゃんの「愛させてくれてありがとう」という感謝と背中合わせなんだろうと思う。この物語には、その背中合わせの「ありがとう」の暖かさが溢れている。この物語を読む子どもたちは、ふと顔をあげて、自分を愛してくれる人を改めて見つめたくなるんじゃないだろうか。それは、自分が今生きているということを、とても大切に思える瞬間のはずだ。

心配性だった私の父は平均寿命よりもだいぶ早く、この物語のおじいちゃんと同じように、肺が原因であっという間にいなくなってしまった。だから、やっぱりこの物語のお母さんのように「ごめんね」と思うことが今でもある。でも、猫を溺愛している長男に、最近父と同じような心配性ぶりをみつけることがあって、可笑しくて一人で笑ってしまうことがあるのだ。ああ、そういうことなんやなあと、この物語で僕がおじいちゃんから受け取った愛情を感じて、納得してしまった。この年齢で父の娘である自分を思い出すというサプライズももらえて、とても嬉しかった。そして、この物語のような距離感が自分と息子の間に生まれるのだとしたら(生まれるのだかどうだかわからないけれど)、死ぬのもちょっと悪くないとも思う。大人の疲れた心にも効く一冊です。

2013年9月刊行

岩崎書店

花びら姫とねこ魔女 朽木祥作 こみねゆら絵 小学館

もう5年ほど前になるんですが、当時はまだ外に遊びに出していたうちの猫が、数日の間行方不明になったことがあります。いつもなら名前を呼べば帰ってくる子が夜になっても帰らない。さあ、そこから私がどんなにうろたえたか、苦悩の数日間を過ごしたかは、興味のある方は当時の日記をお読み頂くとして-靴下を何足も履き破ってしまうほど愛猫を探し歩きながら、ずっと考えていたことは、「なぜ、ぴいすけじゃなきゃダメなんだろう」ということでした。早朝や夜に猫のいそうな場所を探しながら歩いていると、飼い猫やら野良さんやら、たくさんの猫に出会います。その度に「うちの子じゃない」とがっくりし、狂おしいまでに自分の猫をこの手で抱きたいと思った、あの渇望。猫はこんなにたくさんいるのに、どうして私はあの子でないとダメなんだろうと、よその猫を見るたびに苦しいほどに思ったあの気持ちを、この絵本を読んで久しぶりに胸をつかまれるほど思い出してしまいました。

花びら姫は、五月のばらよりも綺麗なお姫様。自分の美しさをよーく知っているお姫様は、「とくべつ」なものだけを求めて、家来たちに集めさせておりました。ところが、ある日妖精たちのパンケーキをつまみ食いしてしまったせいで、花びら姫は恐ろしい呪いをかけられてしまい、凍える寒さの北の森にある石の館に、ムカデやカエルと住むことになってしまいます。その呪いを解くには、「とくべつ」な猫が必要。そこで、呪いのかかった花びら姫、つまりねこ魔女は、そこら中から猫を探してさらってきますが、手当たり次第に集めたどの猫も、「とくべつ」ではないのです。その彼女に「とくべつ」を教えたのは、誰だったのか。「とくべつ」って何なのか。それが、この絵本のテーマになっています。

花びら姫は、誰も愛したことがなかったんですよね。愛したのは自分だけ。だから「とくべつ」がわからない。彼女が閉じ込められた北の森の館は、本当は誰も愛さなかった彼女の心の中だったのかもしれません。その彼女の凍てついた心を溶かしたのは、どこにでもある、でも、たった一つしかないもの。それは、私が、どうしてもぴいすけを抱きしめたいと思った気持ち。初めて抱き上げたときの柔らかさに感じた愛しさから始まって、毎日交わす眼差しや、寄り添う体温の中に育てているものに違いありません。私は、お散歩してるワンちゃんと飼い主さんを見るのがとっても好きですが、それはお互いを「とくべつ」と思っている気持ちを感じるからなんだと思います。あと、猫を猫可愛がりしている、もしくは猫に下僕のようにお仕えしている(笑)ベタ甘の猫ブログを見るのも、とっても好きなんですよね。猫という生き物は、人間に愛されれば愛されるほど猫らしく、「うふふ。私ってとくべつ」と輝いているように思います。猫が大好きでご自分も猫さんと暮らしておられる朽木さんとこみねさんは、そこがとてもよくわかってらっしゃる。ありふれているけれど、かけがえのないもの。日常の中にごく当たり前にあるけれど、本当はふたつとない大切なもの。この絵本は、そんな自分のそばにある「とくべつ」を教えてくれる。読み終わったあと、思わず自分のそばにいる可愛い子を抱きしめたくなる。自分の愛するものが、きらきらと輝いてみえる。そんな絵本です。

実は、この絵本に描かれている猫さんたちは、みーんな誰かの「とくべつ」なのです。ツイッターで、この絵本のために愛猫の写真を募集があったんです。2月ぐらいだったかな?もちろん、私もちゃんとうちの猫さんふたり、ぴいすけとくうちゃんの写真を送りました。こみねさんは、その全部の猫さんたちを、丁寧に丁寧に、一匹一匹この絵本に書き込んでくださったのです。なんと、全部で80枚以上の原画をお描きになったとか。うちの子たちも、ちゃーんとおります。「うちの子、わかるかなあ」と思っていたのが申し訳ないくらいに、一目見て「あっ、これ、うちの子!」とわかりました。それだけ、ほんとに愛情込めて書いてくださったんだと、もう感涙で、それからどれだけ人に自慢しまくっていることか(笑)自慢用の一冊を用意して、持ち回っています。きっと、私のように自慢しまくっている飼い主さんたちが、日本中にいますね。今、ざっと数えただけでも100匹近くの猫さんがこの絵本におりましたよ。凄い!だから、この絵本にはたくさんの、でも、たった一つしかない「とくべつ」が詰まっています。こみねさんの筆は、その愛情を感じ、朽木さんの描き出す心の物語に感応して、冴え渡っているようです。もう、隅々まで美しい。どの頁を見ても見飽きない。見れば見るほど引き込まれます。朽木さんの繊細な文章とこみねさんの絵の素敵なマッチング。「細部に神が宿る」とはこのことかと思いますね、ほんとに。

私はきっと、一生この絵本をそばにおいて、誰かれ構わず自慢しまくることでしょう。「また、はじまったで、ばあちゃんの自慢話」「何回聞かされたかわからんな、もう耳タコや」「もうしゃあないな、あれがたった一つの自慢なんやから、聞いたれや」と言われることでしょう。もし、将来孫なんかが出来たら、きっと嫌というほど読み聞かせてしまうに違いない。入手してから、枕元に置いて毎日眺めております。大好きな朽木さんのテキストで、大好きなこみねさんの絵の本に、うちの猫たちがいるなんて、これほど幸せなことはありません。この本は、私の「とくべつ」な一冊です。

2013年10月刊行

小学館

 

 

 

光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島  朽木祥 講談社

「美」はいつも心に新しい感動をくれる。美しさは人の心の扉を開いて、そっと奥底に滑り込む。夕焼けが、樹々や海の色が人の心にいつも何かを語りかけるように、「美しい」ということは私たちの心を解き放つのだ。ヒロシマの物語、というと「怖い」「恐ろしい」という拒否反応が特に子どもたちには生まれがちだが、この『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』は、ヒロシマの記憶を残された人たちの心と共に伝えながら、しみじみと美しい。この作品は、児童文学というジャンルにおいて、「ヒロシマを美を以て語る」という難しいことをやってのけたのではないかと、読み終えてまず思ったことだった。卓越した文章力がある朽木さんだから出来たこの物語は、灯籠の光とともに、原爆投下前の廣島、あの日のヒロシマ、そして現在の広島を繋いで確かなメッセージを刻み、読み手の心に色鮮やかに流れ込んでくる。

舞台は、あの日から25年後の広島。犠牲者を悼む色とりどりの灯籠流しのシーンから始まる。12歳の希未は、母が何も書かれていない白い灯籠を流すことに初めて気がつく。「あれは誰の灯籠なんだろう」と思った希未に、一人の老婦人が声をかける。「あなたは、おいくつ?」どうやら、老婦人は誰かの面影を希未に見つけたようなのだ。その老婦人のことが気になっていた夜、希未は仏壇の部屋で声を殺して泣く自分の母を見る。「もはや戦後ではないと言われ始めたころになっても、人びとは変わらず誰かを待ち続け、探していたのである」これは、朽木さんが書かれた「過ぎたれど去らぬ日々」(※1)という文章の一節だが、25年が経っても希未の周りにいる人々は、それぞれ亡くなった人の面影を心に「うつしえ」として刻んだままなのだ。希未は、ひょんなことから自分の通う中学校の美術教師である吉岡先生にも、忘れられない人がいることを知る。そして、その吉岡先生の入院をきっかけに、希未たち美術部は「あのころの廣島とヒロシマ」というテーマで文化祭に向けて作品を作ることを決め、自分たちの身近な人たちのかっての「廣島」と、あの日の記憶 「ヒロシマ」を聞くことにする。そのための打ち合わせのために若い希未や俊が話し合っている言葉の一つに、私ははっとした。

「よう知っとると思うとることでも、ほんまは知らんことが多いよな」
「よう知っとると思うとる人のこともね・・・・・ 」

この夏にNHKが放送した『ヒバクシャからの手紙』という番組を見たのだが、68年経った今でも、自分の娘や息子たちに被爆体験を語れない人たちがたくさんおられる。親しい肉親相手だからこそ、語れない人も多い。この「語れない」というところに、何が込められているのか。その言葉にならぬ思いを、朽木さんはこの作品の中で、丁寧に選び抜かれた言葉で綴られているように思う。この本の献辞は【世界中の「小山ひとみさん」のために】と綴られている。小山ひとみさんは、戦死された息子さんのことを歌った短歌をたくさん新聞に投稿された実在の方で、この物語にも何首か紹介されている。その短歌には、夫も子どもにも先立たれた小山さんの、極北に一人佇むような日々が凝縮されているようだ。先日の講演会で聞いたところによると、朽木さんはこの小山さんの短歌をリアルタイムで読んでおられたらしい。私は母親だから、やはり、息子を失った母の辛さに共鳴してしまう。そのしんしんと伝わってくる思いが、作品中に挿入される一人一人の記憶の物語と深く響き合って、まるで昨日自分の身におこったことのように身に染みた。吉岡先生の、耕造の祖父母の、須藤さんの、そして、希未の母が流す灯籠に託された思い。「知っていると思うとる人」が心の奥深くにしまい込んでいた記憶、顔の見える身近な人たちの見えなかった苦しみに触れることは、希未たち若者の心に新しい目を開いていく。人を成長させるのは、誰かの苦しみや痛みを自分自身のものにする力、「共感共苦」(Compassion)(※2)の力なのだ。お見舞い帰りのバスの中で吉岡先生の気持ちに気がついて大泣きしてしまった希未の涙は、今まで気づかなかった他人の心に深く共感したからこそ生まれてくるものであり、その共感は、この混沌とした世の中でいったい何が真実なのかを見抜く鍵でもあるのだと思う。

そう、この「よう知っとると思うとることでも、ほんまは知らんことが多いよな」という一言には、私たち人間が常に意識して考えていかねばならない深いものが隠されている。 1996年にノーベル賞を受賞したポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカは、言う。自分に対して「わたしは知らない」ということが、自分の選び取った仕事に対する不断のインスピレーションを生むものだと。そして、反対に「知っている」と思うことの危険性についてこう述べている。「どんな知識も、自分のなかから新たな疑問を生み出さなければ、すぐに死んだものになり、生命を保つのに好都合な温度を失ってしまいます。最近の、そして現代の歴史を見ればよくわかるように、極端な場合にはそういった知識は社会にとって危険なものにさえなり得るのです。」(※3)私たちはヒロシマを知っていると、記憶していると思っていた。少なくとも、私はそんな風に思い込んでいた。ところが、だ。真の記憶として心に刻まずにいた核の恐ろしさは、いつの間にか「知っている」と思う傲慢さの陰で忘れられて、日本は名だたる原発依存の国になっていた。そのことが、3.11のフクシマに繋がっているのだと私は思う。そんな私たちに、この物語は静かに語りかける。「あなたは知っていますか?」と。真の意味で、「知ろうとしていますか?」と。この、固定概念や思い込みを解き放ち、新しい目で、新鮮な心で物事の本質を見極めようとする、それは物語の力であり、芸術の力なのだ。

しかし、この『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』でも語られているように、美術や音楽、芸術は、国が危険な方に向かおうとするときに一番に弾圧されてしまう。「戦争が始まって真っ先に無用とされた科目は美術や音楽だったって。あと本もたくさん規制されたって」というのは事実だ。なんだか、その萌芽が今、あちこちに芽生えているような気がするのは私だけなんだろうか。(余談だけれど・・。「役にたたない」というお題目のもとに、文学や哲学さえも大学の学部から無くなっていくことが、私には何か恐ろしいことの始まりのように思えてならない。)希未や俊は、絵や彫刻を制作し、自由に「あのころの廣島とヒロシマ」を表現することで新しい心の目を開いていく。そして、ヒロシマを出発点として、その眼差しはもっと広がっていくのである。子どもを、若者を自分たちの都合の良いように使いたがる大人は、まずそういう自由な心の目をふさごうとする。吉岡先生からの手紙の中で述べられている「加害者になるな。犠牲者になるな。そしてなによりも傍観者になるな」という言葉は、心の自由を奪われない未来に向けての、これからを生きる子どもたちへの大切なメッセージだ。そして何より私がいいなと思うのは、この物語の中で、そのメッセージが「自分たちの出来ること」と結びついていることだと思う。大きな暴力や社会的な問題に対するとき、人は自分の小ささと非力を感じて、無力感に襲われてしまう。自分に出来ることなど、何もないと思ってしまいがちだ。私もずっとそう思っていた。しかし、吉岡先生が手紙の中で希未たちに伝えているように、「この世界は小さな物語が集まってできている。それぞれのささやかな日常が、小さいと思える生活が、世界を形作っている」のだ。そこから離れたところに、人の幸福はない。だからこそ、私たちは自分たちの小さな人生の中で何度も大切な記憶を心に刻みつける必要があるのだ。小さいからこそ出来ることがある。心に小さな灯籠流しの光を刻むことが、まことしやかに語られる大きな嘘を見抜く礎になるはずなのだ。希未や俊や耕造が、小さな「自分に出来ること」を精一杯やり遂げたことが、彼らの身近にいた人たちに、どんなに希望を与えたか、この物語の最後に原爆ドームを照らした色とりどりの美しい輝きを、どうか味わって欲しい。

ヒロシマは、過ぎた過去のことではなく、これから世界中どこにでも起こりえることでもあるし、この世界のどこかで、今、起こっていることでもある。ヒロシマを深く記憶することは、過去と現在と未来を繋ぐ視点を持つことではないか。私は最近ようやく、そんな風に考えるようになった。この物語のサブタイトル『廣島 ヒロシマ 広島』が意味するところも、そこにあるように思う。この物語は、これまでヒロシマを知っていたつもりであった私のような大人にも、これからヒロシマを知る子どもにも、非常に大切なことを丁寧に伝えてくれる物語だと思う。原爆についての基本的な知識もきっちりと書かれている。たくさんの人に読んで貰いたいし、『八月の光』(偕成社)の時にも思ったのだが、ぜひ翻訳されて海外の人にも読んで頂きたい。

2013年10月11日発行

講談社

 

(※1)「過ぎたれど去らぬ日々」朽木祥 子どもの本2012年9月号 日本児童図書出版協会

(※2)「「記憶」から去らない姿」朽木祥 子どもと読書 2013年7・8月号 親子読書地域文庫全国連絡会

(※3)「終わりと始まり」ヴィスワヴァ・シンボルスカ 沼野光義訳 未知谷

朽木祥講演会と池袋ジュンク堂でのブックフェア

久しぶりの更新です。何と一ヶ月近く放置してました・・。今日からまたぼちぼちと更新していきます。実はその間、堅い文章を一生懸命書いていたので、自分のブログにどんな感じで書いていいのか軽く戸惑い中(笑)

更新はさぼっておりましたが、その間にも文学オタクはますます昂進しておりまして、この週末は東京のオリンピックセンターで開かれた、親地連(親子読書地域文庫連絡協議会)の全国大会に行ってまいりました。一番のお目当ては朽木祥さんの講演会『物語の力』ですが、夜の交流会も次の日の分科会も、非常に充実した内容で有意義な時間でした。はるばる行って、本当によかった。まず、朽木祥さんの講演会のご報告と感想を・・・。

朽木祥さんの講演会のタイトルは「物語の力」。去年上梓された『八月の光』(偕成社)と、刊行されたばかりの『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』(講談社)を中心に、「ヒロシマをどう伝えるか」というお話でした。その鍵は“Compassion”(共感共苦)だと。この、人の苦しみを他人事にせず、自分の痛みとして記憶する、という営みをいろんな手法で積み重ねてらっしゃる朽木さんのお仕事に、私は深く共感するところがあります。『彼岸花はきつねのかんざし』(学研)はきつねと少女が心通わせるファンタジーの手法で。そして、『八月の光』は精緻なリアリズムの手法で。その「物語の力」で、忘れっぽい私たちが見失いかけている大切なことを問いかけてくださるように思うのです。朽木さんも講演の中でおっしゃっておられましたが、私たちが(少なくとも日本人の大部分が)ヒロシマを忘れてしまっていたことは、そのままフクシマと繋がっているように思うんですよ。だからこそ、今、またヒロシマを深く記憶する必要があるんですよね。でもでも・・・そんな風に思う人間は、少数派なのかと、憲法改正やオリンピック招致の際の原発に対する発言、『はだしのゲン』に対する圧力なんかを見るたびに苦しい思いに駆られてました。でも、朽木さんのお話を聞いて、やっぱりここで、子どもたちにしっかり過去のことを伝えていかなきゃいけないんだと思いました。「声高にではなく、静かな声であきらめず、しぶとく語ること」と朽木さんはおっしゃった。「静かな共感を呼ぶ物語を書きたい」と。

世間を暗い方向に引きずっていこうとするプロパガンダは大声でがなり立てることで、聞き手を思考停止に陥らせます。人は、暴力や破壊に惹かれていく一面を持ち合わせていて、私の中にも、そういう衝動は確かにある。でも、心に静かな声で語りかける愛しい物語の主人公たちが住んでいたら。きっと、そんな衝動に優しい手を当てて引き留めてくれると思うんですよね。朽木さんの物語には、そんな優しさと力があります。新刊の『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』もヒロシマがテーマで、そのお話もたくさんしてくださいました。ネタばれになるので詳しくは書きませんが、「芸術の力」と「失われた声を聞くこと」という二つが重要なモチーフになっているとのこと。「被害者、加害者という次元ではなく、この人類が経験した未曾有の事件を、人類共通の問題として記憶し、伝えたい」と語っておられたことを、しっかり覚えておきたいと思います。

こうして書くと、ひたすら堅い重い講演会かという感じですが、所々でユーモアも交えながら、ぎゅっと中身の詰まった一時間半でした。最後にファンタジーの物語に触れて、「ファンタジーを読むことで心が育ってくる。幸福な約束をちゃんと果たして終われることが児童文学のすばらしいところ。この世の楽しさも味わってもらいたいし、自由な心と深い知性を育てて欲しい」と述べておられたことに、深く頷きました。『光のうつしえ』と『花びら姫とねこ魔女』にもサインをして頂いたし。大満足でした。私ももっと勉強しなくちゃなあと、教養の塊のようなあれこれをお聞きして思ったことでした。

朽木祥さんの新刊『光のうつしえ』(講談社)と『花びら姫とねこ魔女』(小学館)については、また改めて長々と書きます。(笑)

池袋のジュンク堂で、新刊発売に合わせて朽木祥ブックフェアが開催されています。私も行ってきましたが、とっても可愛くコーナーが作ってありました。可愛いミニ冊子もありました。これは数量限定でいつ無くなるかわかりませんが、貰えます。 初日に行けてラッキーだったなあ。10月いっぱい開催の予定だそうです。

親地連のことも書きたかったのに、時間ぎれ。また明日・・・。

by ERI

ゲンタ! 風野潮 ほるぷ出版

嬉しい『ビート・キッズ』シリーズの新刊です。なんと、ビート・キッズのヴォーカルのゲンタが、小学生の見知らぬゲンタと入れ替わってしまう物語。キレのいいテンポで、読後感も爽快。しばし暑さを忘れて読みふけりました。

小学校5年生のゲンタは、林間学校で行ったキャンプ場で高いところから落ちて気を失う。同じころ、キャンプ場の近くの高原でライブをしていたビート・キッズのヴォーカル、ゲンタもステージからジャンプしてそのまま意識を失ってしまう。そして、気がついたときには、二人は入れ替わっていた!というお話です。

大阪弁バリバリで、いらん笑いを取りにいっては滑る25歳の子どものようなゲンタと、少々ひねくれていて、こまっしゃくれた小学生のゲンタ。その二人が入れ替わって、右往左往しながらもとに戻ろうと悪戦苦闘。そのゲンタをサポートする25歳と11歳のサトシ、というなんとも憎い構成になっています。表のゲンタと裏のゲンタ―というと、どっちが表やねん、ということになるんで紛らわしいんですが。この二人、性格は違うんですが、どことなく「今」の自分に行き詰まり感があるんです。25歳のゲンタは、自分の家庭の事情が原因で、ライバルだったバンドに差をつけられてしまったのが面白くない。一方、11歳のゲンタは、母親が離婚するといって家を出ていったのを止められなかった自分が悔しくて仕方ない。もやっとしていた二人の心が入れ替わって別の体に放り込まれたときに、その体で体感することが、ビンビンとハートをゆさぶっていくのがとっても新鮮で楽しいんです。まさに、心のビートが伝わってきます。そして、大阪弁の飛び交うノリの中に、たまらん胸キュンが不意に現れるのに、私のような大阪もんは、特にやられてしまいます。

ツボは、25歳のゲンタのダメダメっぷり(笑)自分の携帯の番号ぐらい覚えときいや、とか。なんで11歳のサトシに全部おまかせやねん、とか。ものすごツッコミました(笑)いやもう、ほんまに「あかんやん」なゲンタなんですが、こういうアホで憎めんキャラを書かせたら、風野さんはほんまに上手いです。でも、その25歳のゲンタの刻むビートと音楽が、11歳のゲンタと彼を「歌う喜び」で繋いでいくんです。11歳のハートのゲンタが、たくさんのオーディエンスの前で25歳の体で歌う。そして、25歳のハートのゲンタが、サトシだけしかいない道端で、11歳の体で歌う。その時に訪れる至福の、無垢な喜びの手触りがまっすぐ胸に落ちてきます。

「歌うことは、喜びなのだ。声を出すことは―言葉を、心を伝えることは、喜びだったんだ。それを相手に伝えることも大事だけど、自分に伝えることはもっと大事だったんだ。」

この生きる喜びが、ビートになって心に伝わってくる。音楽の喜びって、今、ここにいる喜びに直結するんですよね。それを物語で伝えてしまう風野さんの言葉たちが気持ちよくて、ここ数日いろんなことで凹んでいた心に風穴があきました。子どもも大人も、先を見て歩くことばかりです。役に立つ大人にならなきゃいかんとか。どんなスキルを身につけるかで将来が変わってくるとか。そして、いざこの年齢になってみると、先に待っていることって、そんなに好いとは思えないあれこればかり。おいおい、ってそれこそツッコミたくなってしまう。そう思うと、私たちは限りなく「今」を失っているのかもしれないのです。音楽は、そんな私たちを「今」に結びつける営み。その輝かしい瞬間が、この物語には煌めいています。

そして、もうひとつ嬉しかったのは、最後に出てくるライブ会場が、万博のもみじ川広場だったこと。うふふ。地元です。夏のもみじ川というと、FM802のライブかなあ、なんて思うのも楽しい。自分のよーく知ってる場所が出てくると臨場感たっぷりで萌えます。久々にライブ行きたいなあ~と、音楽好きの血が騒いだ一冊でした。

2013年6月刊行

ほるぷ出版

by ERI

 

 

象使いティンの戦争 シンシア・カドハタ 代田亜香子訳 作品社

ティンはベトナムの高地に住むラーデ族の象使いの少年だ。学校に行くのももったいないと思うほど大好きな象のそばにいたいティンは、将来立派な象使いになりたいと思っている。ところが、ベトナムからアメリカが撤退して二年後、かってアメリカ特殊部隊に協力した彼らの一族は、北ベトナムの攻撃を受けるようになってしまった。ティンの村にも危険が迫り、ある日いきなりの総攻撃を受けてしまうのだ。

大好きな象のことで頭がいっぱいの少年・ティンの日常があっという間に崩れ去るのが胸に痛くて、頁をめくるのがとても辛かった。私の幼い頃、まだベトナムは戦時下にあった。テレビのニュースでも度々見たのを覚えている。戦争は恐ろしいと思い、ニュースを見るたびに心が痛んだけれども、私にとってはどこか遠いところでやっている他人事の戦争だった。子どもというのは、とにかく自分のことでいっぱいいっぱいなもの。そして、どこかで大人たちがやっている戦争と自分は無関係だと思っていた。この物語のティンだって、そういう子どもの一人なのだ。なぜ、大人が始めた戦争のために、自分がこんな目にあわねばならないのか、わからない。しかし、子どもだからといって、戦争と無関係では決していられない。それどころか、まず一番に殺され、傷つけられるのは子どもたちなのだ。わけもわからぬままに、いきなり生死を分ける決断を次々と迫られるティンの慄きと恐怖が痛いほど伝わってくる。子どもが子どもでいられなくなる、それが戦争なのだ。しかも、突然の襲撃で、村人たちの半分近くが殺されてしまう極限状況は、ティンが信じていた世界を何もかも狂わせてしまう。

突然の殺戮は、村人たちを守っていた精霊の存在も吹き飛ばしてしまう。ということは、長い時の中で培ってきた土地との結びつきも無くなってしまうということなのだ。そして、一緒に暮らしてきた人たちとの絆も。辛くも兵士たちのところから逃げ出したティンは、ジャングルを仲間の象使いの少年たちと彷徨うのだけれど、極限状況の中でずっと親友でいたユエンや、象使いの先輩であるトマスとの仲も壊れていく。ティンの父は、優れたトラッキング(敵の足跡をたどること)の才能を持っていたので、何度かアメリカの兵士を案内したことがあった。ティンも、その手伝いをしたことがあったのだ。ユエンもトマスも、今のこの状況は、アメリカに協力した人間が招いたのだとティンを責める。苦しいとき、辛いとき、人はそれを誰かのせいにしてしまいたくなるものだ。責める二人にティンは反発し、ますます溝は深くなる。しかも、逃げ道のない状況は、大人たちも狂わせる。あんなに考え深かった父さんが、負けしか見えない戦いに突き進もうとしているのだから。

「ときどき、考えもしないうちに、一線を越えてしまうことがある。そして線の向こうにいってから、望んでもない状況に踏みこんでしまたことを知る。わかるか?わたしは、戦うという決断はしなかった。線を越えるという決断をしただけだ。」

なぜ戦うのかというティンの問いに答える、この父さんのセリフが胸に刺さる。戦争になるのか、ならないのかを分けるのは、こういう〈考えもしないうちに、踏み越えてしまう一線〉なのだろう。例えば、アメリカがベトナムに介入したときも。日本が軍国主義に染まってしまったときも。ドイツがヒットラーに政権を明け渡してしまったときも。きっとその前に踏み越えてしまった一線があったはず。私たちは、まだ踏み越えずにいるんだろうか。そうではないと、確証を持って言えないのが、また怖い。

でも、何もかも変ってしまった中で、唯一変わらないものがある。それが、象たちだ。象たちだけは、自分を可愛がってくれる少年たちを最後まで信じてついてくる。ジャングルの中で象たちが見せる表情の、なんて優しく穏やかなこと。佇まいの高潔なこと。深い絆で結ばれている賢い自分の象・レディと再会したティンは、どんなに嬉しかったことか。レディと、彼女が生んだ子象のムトゥ(星という意味)は、ティンの幸せそのもの。母子の象とティンが過ごすジャングルでのひとときは、それはそれは美しくて、読んでいて涙が出てしまう。彼らの幸せがつかの間だとわかっているから余計に切ない。でも、その喜びが、ティンにどうすればいいかを教えてくれるのだ。憎しみや悲しみではなく、愛情が、ティンに生きる道を指し示してくれる。苦しむティンの心の中から最後に生まれる微かな光が、とても胸に沁み渡るのだった。

シンシア・カドハタさんの文章は簡潔で、なおかつ抑制された文章から静かに滲みだしてくる詩情がある。風景が、心を持って語りかけてくるようだ。ティンたちが迷い込む果てしないジャングルが、苦しみ惑う彼らの心象風景と重なって、読み手に戦いの中で踏みつぶされていくたった一つの人生について問い続ける。もう大人の私は、戦争が地球上のどこで行われていようとも、自分と無関係で無いことを知っている。そして、今でもいろんな理由で戦争したがっている人たちがたくさんいることも知っている。だけど、私にその一線が見えるだろうか?自分も、無関心という罪を持って、うっかりそこをまたいでしまうのではないだろうか?そう思うと、とても恐ろしい。この物語を読んだ若い人たちが、その一線について、大きなものに流されようとするときに、私たちを呼び戻す象たちの声について、何かを感じとってくれたら嬉しい。私も、この物語を忘れまいと深く思う。

2013年5月刊行

作品社

 

引き出しの中の家 朽木祥 ポプラ文庫

朽木祥さんの『引き出しの中の家』が文庫になりました。(以前書いたレビューはこちら→「おいしい本箱Diary 引き出しの中の家」)単行本も赤い表紙のとても可愛い本だったのですが、今度はピンクの表紙で、これまた乙女心をキュンとくすぐる可愛さ、愛しさです。文庫化を機会に、またこの本を読み返しました。再読って、いいですね。新しい発見と、時間を経て自分の中に積み重なってきたものとの両方を感じながら読むことが出来る。若い頃、大学で物語の受容と創造について講義を聞いたことがあります。昔、印刷がなかった頃は、写本を繰り返して物語は波及していった。その際に、写本をしながら、読み手は自分の物語を少しだけそこに付け加える。もしくは書き換える。それを繰り返すことによって物語は変貌を遂げていくわけです。その変化を研究することによって、私たちはその頃の人たちの価値観や物語観を知ることが出来る。もちろん、私は写本はしませんが、初読みのときから自分の中につけ加わったものを意識することで、いろんなことを改めて感じ、また考えさせられました。これまで単行本で買った本を文庫本で買いなおすことはしませんでした。これが初めての体験なんですが、再読をきちんとし直す機会になってとても貴重でした。朽木さんの本は折に触れて読み返すことが多いのですが、読むたびに新しい発見があります。だから、いつも付箋だらけ。

この作品の感想は、以前のレビューに書いています。ですので、重なる感想は書きませんが。物語の、目に見えているものの奥にあるものの深さに、改めて感じ入ってしまいました。「小さい人」が登場する物語というのは、『床下の子どもたち』(メアリー・ノートン)を初めとして私が知っているだけでも幾つかあります。彼らは小さいがゆえに常に危険と隣り合わせに住んでいます。日本のもので有名なのは、いぬいとみこさんの『木かげの家の小人たち』と佐藤さとるさんの『だれも知らない小さな国』ですが、『木かげの家の小人たち』では戦争が、『だれも知らない小さな国』では、都市開発が彼らの前に立ちはだかる大きな困難として描かれます。この物語の「花明り」たちもそうなんですね。殿様によって弾圧された歴史を持っている。そして、もしその存在が大多数の人に知られるところになれば、散在が池で河童が見つかったときの大騒ぎのようになることでしょう。花明りたちが、ひっそりとどこで暮らしているのは、この物語で詳しく書かれていませんが、常に怯えながら生活していることは想像に難くありません。この物語の前半では、そんな花明りと、病気がちで義母ともうまくいかない七重の孤独な心が重なります。散在が池に身を隠す河童たち。そして、人差し指ほどの小さな人たち。朽木さんのファンタジーは、常にマイノリティである存在が描かれます。河童。小さな人たち。きつねや猫、犬。その心に寄り添い、そっと彼らの世界に目を凝らせて見えてくるもの。その中に、私たちが忘れてはならない一番大切なものが隠れている。思えば、子どもも、この社会の中でのマイノリティである存在です。常に七重のように大人の思惑に左右される。だからこそ、二つの魂は出会うのです。河童の八寸と麻が出会ったように。そんな彼らと心を重ね、寄り添うことで、私たちはとても美しい風景を見ることが出来る。それは、大きなものばかりを見ていては気がつかない、人間らしく生きるための原風景ではないかと思うのです。

大きくがなりたてるプロパガンダや、一斉に雪崩を打って変わっていく世論。マスコミの喧騒に、私たちはとかく引きずられがちです。でも、自分の心の中に、こんな小さな人や、幼い河童の姿を住まわせ、彼らの声に耳を傾けていれば。きっとすべての見え方は違ってくるのではないか。そう思うのです。小さな人は、私たちが守らねばならない時代の中で抑圧されていくものの影を背負っているのかもしれません。そう思いながら読んでいると、この大きな屋敷のからくりは、アンネ・フランクの潜んでいた屋根裏に、ふと重なるように思ったりもしました。小さな存在、隠れているもの、耳を傾けなければ聞こえない声の中に、私たちが守らねばならないものがある。この物語を読む子どもたちの心の中に、花の香りと光を放つ小さな人が住んでくれますようにと思います。そして、大人の心には、彼らが帰ってくる喜びがもたらされるはず。

物語の後半、「今」を生きる薫と桜子が、失われそうになっていた七重と独楽子の絆を結び合わせます。人間と花明り。大きさも生き方も違うけれど、お互いの立場を超えて心を繋ぐ薫と桜子の笑顔が、ラストで見事に花開く光景に胸が熱くなってしまいます。実は数日前にぱせりさんのブログでこの本の感想を読ませて貰ったのですが。ぱせりさんは、この物語の最後に脳内でアメリカに住む七重から手紙がくるシーンを付け加えてしまっていたらしいのです。それをふんふん、さもありなん、と読んでいた私なのですが、なんと私もちゃっかり同じことをしていました。「おばあちゃんが薫にこのライト様式の家屋敷をゆずるつもりで、手入れをしようと密かに決意する」「七重を乗せた飛行機がタラップに到着して、彼女の足先が見える」という二つのシーンを勝手に付け加えていたことが判明。何度もこの物語の細部を反芻するうちに、自分の願望まで付け加えていたんですね。そんなシーンがつけ加わるほど、私もぱせりさんも、この物語に「希望」を貰っていた。そんな気がします。希望は、これからを生きる力、そしてかけがえのない「今」を感じる力です。

「瑠璃のさえずりはね、忘れていた大切なことを思い出させてくれる。あたしたちが、どんなすてきなものを持っているか教えてくれる。ほんとうに大切なことを、きっと思い出させてくれる。だから、瑠璃と会えた人はとても幸せなんだって」

花明りの独楽子に、七重に、薫に、桜子に、またこの文庫で会えて、とても幸せでした。物語の力を信じることが出来る。その喜びも、またこの物語から貰うことが出来ました。薫のおばあちゃんの口からふと「散在が池」という言葉がこぼれて、私の脳内朽木ワールドの地図帳に、そっとこの家の場所が書き記されています。ファンとしては、そんなオタクな楽しみもまたこたえられません。この物語を読んだ人たちが、それぞれどんなシーンを頭の中で付け加えたのか。とっても知りたい・・・。

2013年6月刊行
ポプラ社

なめらかで熱くて甘苦しくて 川上弘美 新潮社

性をテーマにした短編の連作です。タイトルが、ちょっと怖いもんですから、ちょっと身構えました。女の性(さが)を自分のカラダで確かめました系のめくるめく愛欲の世界・・・なんていうのは、もはや読むのがめんどくさいんですよ。でも、川上さんだから、そんなことあるはずもなく。久しぶりにずっしりと読み応えのある川上さんの濃密な言葉の世界でした。

「aqua」「terra」「aer」「ignis」「mundus」という五つの短編が並んでいます。少女時代から時系列に並べられている形なんですが、川上さんなので、そんなに簡単に読み解けるしろものではありません。(うふふ・・・しろもの。「aer」に出てくるこの言葉が頭を離れない)実験的に表現形式も温度も視点も変えて紡がれる小説たちが、この一冊の中でぐるぐると生と死を繰り返しているようなのです。ことに面白くなってくるのが、「aer」から後の3編。ここに「しろもの」が出てくるんですよ。しろもの、とは、赤ん坊のことです。あの妊娠・出産期という、自分が自分でなくなってしまう時間の中に流れていた濃密なもの。そう、自分も「どうぶつ」だったなあ、と。そして、あの頃にさんざん翻弄されていた赤ん坊を「しろもの」と言ってしまう川上さんの言語感覚に、強烈なカタルシスを感じてしまう。だって、あの頃私は「どうぶつ」だったのだから、自分が体の奥底に抱えていた充足と恐怖をこんな風に言葉にすることは出来なかったもの。言葉にならないことを言語化するという営みは、私たちを普遍に連れていきます。一人の少女から生まれた「性」は、たった一人で死んでいく女のつぶやきも、しろものを産んでしまって右往左往する母親の戸惑いも、女とは全く違う男という生き物との果てしない距離も、すべてを連れて旅し、どこか知らない混沌に帰っていくのです。川上さんの言葉は、「言葉」という抽象でありながら、肉体を伴って、そのまま滅びていく手ごたえがある。それがとても不思議で、魅了されます。

伊勢物語と浄瑠璃の道行をかけあわせたような「igunis」が特に面白かった。道行、というよりはお遍路さんの歩く道のイメージに近いかな。苦行のような、諦めのような(笑)もしかしたら、今の私が、この短編のどんぴしゃな年齢なのかもしれないんですが。ラストの「mundus」は、詩と散文の間を揺れ動くような、密度の濃い一篇。何度読み返しても、夥しく語られる「それ」の正体が頭の中で伸びたり縮んだり、膨れ上がったりして眩暈がします。「それ」はどこからかやってきて、どこかに去っていく私たちに刻印されている夥しい記憶なのかも。段々「それ」が何か、何て考えることもやめて、川上さんの紡ぐ言葉の川に身をゆだねて流されるままに流されました。その川は「なめらかで熱くて甘苦しくて」、どうやらたどりつくのは彼岸らしいとわかっても、そのまま流されたくなります。うん。ずーっとこうして「性」に流されてきたなあと。最後の最後でまたしても川上さんにやられた、と思う、そんな一冊でした。

2013年2月刊行

新潮社

 

 

霧の王 ズザンネ・ゲルドム 遠山明子 東京創元社

設定がとても面白いファンタジーなのですが、その設定ゆえに、主人公たちの心の中まで霧の中になってしまい、最後まで共感がもたらす心の震えを感じることが出来なかったのが残念です。

物語は、大きなお屋敷の下働きの少女サリーが、図書室で本を閉じるシーンから始まります。お屋敷はクモの巣のような廊下と、幾つあるのかわからない部屋と、東西南北にそびえる大きな塔、地下の迷路まである壮大なもの。サリーはそこから出たことがありません。いきなり夜の晩さん会にかり出されたサリーは、そこで客の何人かが死んでいく恐ろしい光景を見ます。どうやら、このお屋敷は普通の世界にあるのではないらしい。館の中の人は何度死んでも生き返り、図書室の仲良しの司書は梟だし、庭園にいる猫は、サリーに語りかけてくる。どうやらこのお屋敷は、邪悪な霧の王を閉じ込めるための時の止まった空間らしい。そして、サリーは、この世界のゆがみを正す唯一の存在らしい・・・ということが、読み進めるうちに段々とわかってきます。

凝った装丁と、各章の初めに施されている繊細な挿絵。贅沢な調度や料理のあれこれを読む楽しさ。美しい庭や果樹園の描写なども素晴らしくて、印象的なシーンがたくさんあります。RPGのゲームのように、大きな図書室をホームに、壮麗なお屋敷や地下迷路のダンジョンを探検したくなる。どこまで行っても霧の中、というあやかしの世界をさまよう面白さがあります。狼の頭に手を触れてワープしたりする面白い仕掛けもあって、そこがとても魅力的なのですが・・・その霧が、いつまで経っても晴れない。主人公のサリーは、霧の王をこの屋敷に幽閉した猫の女王・サラのもうひとつの姿らしいのです。しかし、サリーはそのサラの記憶を今は失っていて、なぜ自分が霧の王に立ち向かわねばならないのかがわからない。サリーの人格や個性が、設定に引きずられるままに最後まではっきりしません。そして、頭に霧がかかったサリーを導く役のわき役たちも、やはり、いまひとつキャラクターがはっきりせず、皆で右往左往したまま最後まで行ってしまうんですね。だから、ストーリーの中で誰かに感情移入することがしにくいのです。皆、ぼんやりと輪郭がかすんだまま・・・それが設定の在り方ではあるのですが、やはり物語というのは、主人公と一緒に心の旅をするものであると思うのです。そこが弱いというのが非常にもったいない気がしました。そして、これは私の理解力の故かもしれないのですが、この霧の奥にあるはずの、登場人物たちの真の姿が織り上げる物語の在りようも、しっかりと伝わってこない。だから、最後に霧が晴れたときのカタルシスが、あまり無いんですよねえ。右往左往した割には、あっけなく最後の闘い(?)が終わってしまう・・・というか、実質的にサリーはなんにもしてないというのも、感情移入しにくい理由の一つかもしれません。

何やら文句ばかりつけたような文章になってしまいましたが(汗)文章や設定の魅力と、筋運びとのアンバランスさが何やら歯がゆくて、ついあれこれ書いてしまいました。ファンタジーって、難しいもんですねえ。うーん・・・。でも、この作者は最近矢継ぎ早に作品を発表しているらしいので、翻訳されたらぜひ読んでみたいと思っています。いろんな要素がぱん、とツボにはまったら、傑作が生まれるんじゃないか。そう思わせる作者でもあるのです。いろんな意味で気になる一冊でした。

2012年12月刊行

東京創元社