あひる 今村夏子 書肆侃侃房

三つの短編それぞれがお互いの補助線のような役割を果たしていて、読み終わったあと、ほの暗く浮かび上がってくるものがある。それは、家族という形の不気味さだ。

この物語たちの中で、個人名で呼ばれるものは、あひるの「のりたま」と、子どもたちだけだ。大人たちは父、母、弟、おばあさん、という役割としての呼び方しかされない。二つ目の「おばあちゃんの家」のおばあちゃんに至っては、孫以外の家族から「インキョ」と呼ばれている。役割の中に、「個」は埋没してしまい、見えなくなってしまっている。

彼らが守ろうとしているのは、形だ。あひるののりたまは、あっという間に死んでしまう。空っぽになったケージに、しばらくしてまたあひるが帰ってくるが、それは明らかに違う個体のあひる。しかし、老夫婦はあひるを入れ替えたことを、自分でも忘れてしまったかのように振る舞う。あひるが入れ替えられたのは、子どもたちを呼び寄せるためだが、彼らは子どもが本当に好きだから、呼び寄せたかったわけではない。「子どもがいることが幸せ」だという形に拘っているからなのだ。

その形が本当に幸せなのか、幸せとは何なのか、この物語の中にいる人たちが自分に問うことは、無い。いや、そこを問いただしてしまったら、かろうじて保っているものが粉々になってしまう。それは、きっと果てしなく面倒なことなのだ。何があっても毎日ご飯を食べて、生きていかねばならないから。だから、見ないことにする。見ないことで、その形に馴染んでいるうちに、空っぽな自分になっていく。その不気味さをあぶり出しているのは子どもの眼差しだ。子どもの目は、見たくないものを見ないようにする、という取捨選択をしない。出来ないのだ。全てを等価に見る、その回路を通ってあぶり出されるものは、形と心を同じものだと思い込む暴力だ。死んでいくあひるは、その暴力に命を奪われる。

自分の名前を持たずに死んでいくあひるは、間違いなく私の中にも、私の家庭にもいる。この社会のあそこにも、ここにも。さらりとそれを平易な言葉遣いで書き上げてあるのがいい。この人の書いた児童文学が読んでみたいと思う。

車夫2 いとうみく 小峰書店

浅草を舞台に、人力車を引いている「吉瀬走」という少年を軸にした連作短編の二作目。「力車屋」の男たちや、そこにやってくる客の視点で一話が描かれる。走は両親の蒸発、という事情があって一人で力車屋にやってきた。他の男たちも、何かありそうなんだが、一作目ではあまりわからずにいた。この「わからない」というのもミステリアスでいいのだが、この二作目では少しずつ彼らの事情がわかっていくのに、ときめいてしまう。いきなり間合いをつめるのではなくて、この連作のように、人とも小説ともゆっくり知り合うのが好きだ。そして、二作目まできて、前作にぼんやりと感じていたことが、ますますくっきりしてきた。それは、この物語が、去るものと去られるものが複雑に交差する物語だということだ。

それを象徴するのが、冒頭の「つなぐもの」だ。この物語は、走という少年が母に置き去りにされてしまうところから始まる。いつも、そこにあると思っていた日常。部活をして、ご飯が用意されていて、進学すると思っていた場所から遠く離れてしまった彼が見つけた居場所が、力車屋だ。しかし、この「つなぐもの」は、走に置き去りにされてしまった部活の仲間の少年遠間直也の視点から描かれている物語だ。走は、自分が去ったことが、これほど仲間たちの心に影を落としていることには気づいていないのだろう。この人間の立体感を短編連作という形で見せてくれるのが、この物語の面白いところだ。人は、案外自分が人にどんな波紋を投げかけているのか、知らぬまま生きている。

「ストーカーはお断りします」「幸せのかっぱ」「願いごと」「やっかいな人」「ハッピーバースディ」と、その他に五つの短編が収められていて、走や力車屋の人たちのところに様々な人たちがやってくる。走たちも彼らも、大切な人や、当たり前にそこにあると思っていた場所を失ったり、無くしかけている人たちだ。しかし、つかの間、走たちの車に乗り、いつもと違う場所から自分を眺めて、笑顔を一つ抱えて帰っていく。その笑顔がまた、走たちの心を動かしていく。そのダイナムズムをとらえる作者の目は鋭くて優しい。人はそれぞれの人生を、それぞれの速度で駆け抜けていく。親子や夫婦でも、全く同じ歩調で歩く、などということはできないし、いつも何かを置き去りにしたり、失ったり、ぐるぐる堂々巡りしたりしながら生きている。この力車屋に集まっている面々の顔ぶれも、心のありようも、数年後には変わってしまっているのだろう。この物語の底に流れている切なさは、かけがえのない「今」が鮮やかに刻印されているせいではないだろうか。

最後の「ハッピーバースディ」で、走は自分を捨てた母から自分の意思で旅立っていく。縁も人との関係も、失ったものも、またそこから初めて自分で掴んでいけばいい。このシンプルな願いにたどり着くまでの走の心の軌跡が、人力車の轍のように鮮やかに胸に残って切なく、後悔だらけの人の生が愛しくなる。「やっかいな人」で、1の冒頭に出てきたミュールの女の子が出てきてしまったから、「車夫」はもうこれで終わりなんだろうか。「3」が読みたいなと、もう思っているのだけれど。

あと、これは余談だが、前作からずっと高校生という年齢の子たちのセーフティネットについて気になっている。走の場合は事業に失敗した父親がまず蒸発し、生活に行き詰まった母親も走を置いていなくなった。私学に通う走は学費も払えなくなり、家賃も生活費もなく一気に行き場を無くして途方に暮れてしまう。走は、先輩の前平くんが力車屋に連れてきてくれたから良かったものの、いろんな理由で親を頼れなくなる高校生は、きっととても多いのではないかと思うのだ。人と人との繋がりが薄くなり、自己責任という冷たい言葉が大きな顔をしている今、相談したり、頼ったりできる大人が身近にいる子は少ないだろう。そして、見た目は大人に近い高校生の子たちを食い物にしようとする闇は、あちこちにぽっかりと口を開けているはず。彼らの困難を捨て置いて、いいはずがない。いとうさんのこの作品はそういう社会に対する一つの問いかけでもあると思う。

小やぎのかんむり 市川朔久子 講談社

夏休みになった。ツイッターでも誰かが言っていたが、家庭にあんまりいたくない子どもたちにとっては、しんどい季節だ。家庭というのは密室みたいなもので、子どもが生き辛さを感じていても、それを自分で自覚したり、意識化するのは難しかったりする。抑圧されていればいるほど家庭の中は風通しが悪くなる。この物語の主人公の少女、夏芽も、DV気質の父親がいる家庭での生き辛さを抱え、摂食障害に苦しんでいる。そこから一歩抜け出して、風通しのいい場所に出た彼女が見た夏の風景が、この物語には広がっている。

DVって、男性的な価値観と深く繋がっているんだなあとしみじみ思う。女性を自分の支配下におきたいという欲望。夏芽を殴ったり、わざと貶めたりする父親が、清楚な制服の私学の女子校に夏芽を通わせたがること。その制服を着た夏芽に、電車の中で痴漢が群がってくること。それはほの暗い欲望の水脈で繋がっている。アイドル、という名の女の子たちに、プロデューサー顔したオジサンたちが制服を着せて性的な歌を歌わせるのも、水脈は同じなんだろう。でも、その欲望は社会的に許されているのに、当の女の子たちが被害を訴えても、「おまえたちがしっかりしていないからだろう」「服装がだらしないせいだろう」と言われるのがオチだったりする。人を支配するには、尊厳をとことん奪うのが近道だから。抑圧されて膨れあがる憎しみは、夏芽自身を傷つける。でも、風が吹き抜ける山寺にきて、やはり家族の暴力に苦しむ小さな雷太を守ろうとしたとき、夏芽は、自分の尊厳こそ一番大切なものだと気付き、教えられるのだ。その夏芽をそっと見守る美鈴や穂村さん、とぼけた味の住職の存在感が、とてもいい。

子どもが、この表紙の小やぎのように頼りない足で歩き出したとき、頭の上に載せてあげなければいけないのは、「あなたは、かけがえのない、唯一無二の大切な存在である」という、当たり前で、でも、一番大切なかんむりなのだ。そのかんむりは、人間なら誰しもが持っている。ところが、それが「ある」ときちんと声に出し、言葉にし、お互い大切にすることは、この物語のように、一筋縄ではいかないことが多い。しかし、そのかんむりは、あなたの頭の上にある。例えどんな卑怯な手段で奪われても、何度も自分の手で掴むことが出来る。そして、誰かに優しく載せてあげることも出来る。出来るんだよ、という作者の声が、「ベヘヘヘエエ」というやぎの声と一緒に聞こえてくる。

市川さんは、今年度の日本児童文学者協会新人賞を『ABC!曙第二中学校放送部』(講談社)で受賞されている。柔らかさと強さを併せ持つ言葉が、いつも新鮮で素敵だ。次作も楽しみで仕方ない。

2016年4月刊行 講談社

伊津野雄二展 残されし者  神戸ギャラリー島田にて

陽に透けるやわらかな棘(とげ)
胸を朱にそめ
のびあがるその極みに
地にくずれる
天と地の約束どうり
緑のアーチを描き
瞳を大空に残したまま
されど残されし者
しずかにここにとどまりて
あたらしき面(おもて)をつけよ
年ごとの花のように
年ごとの祝祭のために
―残されし者2016―

一年ぶりの伊津野雄二さんの個展。静謐な美しさに打たれながら、今回一番印象に残ったのは『残されしもの』という作品の、張り詰めた緊張感のある面差しだった。自然の木から彫り出されたトルソは、荒々しい自然の力を纏っている。しかし、その顔は、木の質感とは違うものを感じさせるほど、滑らかに磨き込まれている。顔の周りにはぐるりと線が刻み込まれて、こめかみには金具のようなものが取り付けられているところを見ると、この顔は、能の面のように取り外しできるものという設定のようだ。瞳には微かに虹彩が星のように刻まれていて、どこか近未来の匂いのする面差しだ。その表情は、厳しく凜として、優しさと、微かな、本当に微かな怒りを湛えているようにも思う。

芸術の魅力とは、新しい視座を獲得することにある。私たちが意識している「時」は常に一方方向で、矢印のように過去から未来へ同じ方向に流れている。時計の針が常に動いている、あの感覚だ。しかし、伊津野さんの作品の前に立つと、私はそこに違う「時」を幻視する。いや、そこに何か、時を超えた別の扉が開く手がかりがあるという確信に、ずっと見つめていたくなる。決して手の届かない彼方から訪なうものが、この仮面の形を借りて、語りかけてくるような気がするのだ。昨年拝見した、『されどなお 汝は微笑むか』という像の、慈しみの表情は忘れがたい。しかし、今年の『残されしもの』が厳しい瞳で見つめているものが、私はとても気になる。知りたいと思う。このところ、ずっと感じている胸が泡立つような危機感は、この瞳が見つめているものと繋がっているのだろうか。全ての人間が滅んだあとに、木や花や、鳥や、美しい生き物たちが繁栄してくれるなら、この面はつけられることはないのではないか。

会場には、限りない優しさを湛えた小さな作品も幾つも飾られていた。音楽を奏でる天使や、母と子が抱き合う柔らかな作品。緑のスカートを翻して踊る、晴れやかな少女。幸せが溢れる。毎日の暮らしの中にある、季節とともに生まれ、去っていくものを慈しむ幸せ。それは、人として生きる喜びそのものだ。それらを見つめ、時を超え、宇宙的な広がりをもつ彼方から、『残されしもの』が語りかける。会場の中央に据えられた『航海』が、たくましい腕で指し示す場所へ、人は、たどり着けるのだろうか。伊津野さんの作品には、宇宙的な俯瞰と、足元を見つめる確かな眼差しがある。自分が決して行けない場所があること、それは今、目の前に広がる風景の中に、常に内在しているのだということ、この二つを同時に見せてくれる。伊津野さんの指し示す理想は、この世のものならぬ美に満ちているけれど、その水脈は、私たちひとりひとりの心の奥底にも流れている。流れているということを、教えてくれるのだ。

しおちゃんとこしょうちゃん ルース・エインズワース 河本祥子訳・絵 福音館書店

『こすずめのぼうけん』『ちいさなロバ』のエインズワースの絵本だ。ちいさなものへの眼差しに、子どもたちへの深い慈しみを感じる。子どもたちが、どうか幸せに生きていってくれますように、という祈りのような思い。もちろん、それがたやすく叶えられるものではないことを知り尽くしているからこその、祈りだ。

子ねこのしおちゃんとこしょうちゃんは、競い合って大きなもみの木に登ってしまう。河本祥子さんの絵がとても素晴らしい。しなるモミの枝と見事な遠近法で、屋根より高い枝の上ですくんでしまった子ねこたちの視点を、俯瞰で感じさせてしまう。そこからきゅっと画面はしおちゃんとこしょうちゃんにクローズアップしていく。二匹は鳥や飛行機に助けを求めるのだが、当然のごとく願いは届かない。そうこうしているうちに夜がやってくる。どうしようと困り切ったそのとき、もみの木の下に、ふたつの光が現れて二匹のところに登ってくるのだ。ふたつの光はしおちゃんとこしょうちゃんの、お母さんだ。良かった!家の中に戻った三匹は、くっついて眠る。その幸せそうなこと。

二匹を迎えにきたお母さんのタビーふじんは、冒険に出て失敗してしまった二匹を叱ったりしない。「さあ、もう ベッドに はいって、ねる じかんですよ」と静かに話しかけるだけなのだ。冒険の結果、誰かに助けてもらうことになっても、それは決して恥ずかしいことでも、責められることでもない。自分の足で歩き出そうとする子どもを見守る優しい眼差しが、ぬくもりとなって心に届く。

この本の中で子ねこたちを助けてくれるのはお母さんだ。もちろん、それは子どもの「安心」に直に繋がる大切なこと。でも、それと同時に、子どもたちは、この絵本を作ったエインズワースと河本さんの心を受け取るのだと思う。見知らぬ大人たちが、自分に届けてくれる、祈りと慈しみ。それを心の奥底で感じることは、子どもの心を育てる大きなゆりかごになるのだ。そう思わせてくれる絵本が好きだ。

1993年に「こどものとも」で発行された本を、ハードカバーにして再刊したもの。

福音館の持っている絵本の財産は、素晴らしい。

2016年2月発行

福音館書店

絲山秋子さんの読書会 in MARUZEN &ジュンク堂梅田店

『薄情』(新潮社)『小松とうさちゃん』(河出書房新社)の二冊の刊行記念読書会に参加してきた。大阪では珍しい、絲山さんご本人も交えての読書会。20人ほどが集まって、小さな会場はいっぱいだった。集まった方のスタンスも色々で、小さな切り抜きも全て集めています、というファンから今日初めて買ってみました、という人もいたりした。でも、それがまた面白かったのだ。ほんの一時だけれど、絲山さんに惹かれて集まった人たちの想いが小さな世界を作っていた。それぞれの不器用な言葉を真摯に受け止める絲山さんの包容力に包まれて、幸せな一時だった。  絲山さんの作品の豊かさ、短いものでも、そこに含まれているものの深さと広がりについて皆が語ると絲山さんが「それはきっと皆さん自身の豊かさなんです。私の作品は、その出力装置にしかすぎない」(言葉そのままではないので、ニュアンスだけ)とおっしゃった。でも、その出力装置の性能が半端じゃないから、皆これだけ語っちゃうんですよ!と申し上げたかったが、言いそびれてしまったのでここに書いておきます。

土地と人間の結びつきについて。住んでいる土地が、人を作るのではないかということ。これから書きたいと思ってらっしゃること。様々お伺いしたが、「面白いことに、言葉で書いてあることについての感想は人それぞれなんですが、言葉で書いていない部分については、共通点があるんです。」という言葉が印象的だった。作品という一つの山に、いろんな道から登ることが出来て、でも、同じ風景も心に感じることが出来る。これが文学の自由さでもあり、広がりでもあるんだなあと。帰宅して、『小松とうさちゃん』を読みましょう、と思いながら、ふと『海の仙人』が読みたくなって取り出したらはまってしまい、すっかり敦賀の海辺で時を過ごしてしまった。幸せだった。『薄情』と『小松とうさちゃん』のレビューは、また改めて。

「離陸」http://oishiihonbako.jp/wordpress/?s=%E9%9B%A2%E9%99%B8

「妻の超然」http://oisiihonbako.at.webry.info/201012/article_9.html

「末裔」http://oisiihonbako.at.webry.info/201104/article_4.html

「ばかもの」http://oisiihonbako.at.webry.info/200810/article_14.html

「北緯14度」http://oisiihonbako.at.webry.info/200901/article_14.html

『鹿の王 上 生き残った者』『鹿の王 下 還って行く者』上橋菜穂子 角川書店

この本が、今年度の本屋大賞をとったらしい。先日季節風のためにこの本の書評を書いたのだが、上橋菜穂子氏への深い敬意を込めて違うバージョンのものをアップしておきたい。

上橋菜穂子は、ヴァンとホッサルという対照的な二人の男を軸に、息をもつかせぬ迫力で物語を展開していく。黒い犬の襲撃をきっかけに死病が蔓延した岩塩坑から幼子のユナを連れて逃げだした奴隷のヴァン。そして、天才医師として権力の中枢まで入り込み、自分たちの国を滅ぼした黒狼熱という病気の謎を追うホッサル。細部まで徹底的に構築された世界を細やかに描きながらも、上橋の視線は常に「複眼」だ。上橋は決して一方通行の正義を描かない。一つの正義があるところには、必ずそれに反する立場や勢力があり、考え方がある。大国の覇権に伴う近隣諸国の、生き残りをかけた戦術や陰謀。踏みつぶされた民族の怒りが絡み合う事情が、複数の立場から丹念に描かれることによって、読み手は常に価値観が揺らぎ、何が真実なのかを考えさせられることになる。自分が持つ価値観や正義は、他の目から見たときどう映るのか。正しいと信じるものは、本当に正しいのか。怒りは、復讐は、他を断罪する理由になり得るのか、否か。これは、ハイ・ファンタジーという俯瞰の視線を通した、自己への問いかけなのだ。

ヴァンは、かっては飛鹿を操り、山中でのゲリラ戦を得意とした部隊「独角」の頭を務めた男だ。「独角」は小国である故郷の部族が東乎瑠と有利な立場で交渉をするための、死ぬことを前提とした捨て駒だった。その事情に心を寄せるものは、ヴァンを歴戦の英雄とみるだろう。しかし、彼に殺された部族のものから見れば、彼は残虐な殺人者だ。また、ホッサルという医学の天才も、彼に助けられたものには神の手と言われるが、医学を穢れた呪術師として見るものからは、自分たちの血を汚す不心得者にしかすぎない。自分たちがいる場所の価値観は、違う目から見るとくるりとひっくり返るのだ。その中で、現実とどう向き合うのか。人としてどう生きるのか。ヴァンは独角の最後の生き残りだ。仲間たちはまさに捨て駒として戦地に散った。しかし、今、たった一つ守らねばならないものがある。それは、自分が背に守っている幼子の命だ。自分の能力を利用するために、ユナをさらっていったものたちに、ヴァンが吠える。

「大義のためだかなんだか知らんが、自分の命なら勝手に捨てろ。だが、おれの命はおれのもの。あの子の命も、あの子のものだ。…おれはな、なんの関係もない幼子の命を使い捨ててかまわないと思う、おまえや、いま、おれの手の下で涎を垂らしているこの爺に怒ってるんだよ。」

このヴァンという男の魅力的なことと言ったら。男が惚れる強さと情を持ち合わせる男。幼い我が子と妻を病で失い、大きな孤独を抱えながらも、再びユナを背負って守り抜こうとする包容力。彼と行動を共にする密偵のサエが彼に心惹かれてしまうのも無理はない。ヴァンは、そもそも生きること自体に深い虚無感を持つ男だ。愛した妻も息子も、病で簡単に彼から去っていった。こんなに簡単に奪われる人間の命とは何なのか。上橋は、その虚無感を抱えたヴァンの魂を裏返す。人間の視点からではなく、山犬たちの視点を借りて、この世界全体の命の流れを、光として描いてみせる。その光景の、何と不思議で美しいことか。テロの道具として使われる犬たちは、暴力と恐怖の象徴のように見えるが、実は仲間たちや他の動物たちの命と深い友愛で繋がっているのだ。まるで、『風の谷のナウシカ』のオームたちのように。その動物たちを、自分たちの「大義」のために殺戮の道具にするのは、人間の傲慢であり、身勝手に過ぎない。しかし、自分たちの大義のために子どもたちや動物を犠牲にする身勝手は、どれほどこの世界に転がっていることか。人間の勝手な都合に操られかけたオームを、そして風の谷を、自らを犠牲にして救ったのはナウシカという少女だが、この物語でその役割を果たすのは、ヴァンだ。

これ以上ネットであらすじに触れるのは、いかんだろうと思いつつ。分厚い上下巻があっという間の読み応えで、なおかつラストシーンが素晴らしいことだけは書いておきたい。民族も生まれた場所も違う血縁で結ばれてもいない者同士が結ぶ絆が光りとなって輝く。幼い子どもの、まっすぐな、ひたすらな愛情が、闇に消えてゆこうとするものを、取り戻そうとする。人は生まれて、死んでゆく。その間を必死に生きようとする姿には、イデオロギーも国も、宗教も、関係ないのだ。争いを超えて繋がろうとする人間の、子どもの力を信じたい。私はこのラストに、上橋の次の世代を生きる子どもたちへの深い思いを感じた。今、まさに読まれるべき本だと思う。

2014年

わたしちゃん 石井睦美作 平澤明子絵 小峰書店

幼い頃にたった一度だけ遊んだことがある子。でも、なぜか覚えているのは自分だけで、大人になってから他の誰に聞いても「そんな子いたっけ」と言われたりする。記憶の彼方にある光景は時間が経つほどぼんやりと儚げで、でも楽しかった気持ちだけ鮮やかで。そんな不思議な時間を、石井さんはほんわりと物語にしてみせた。

「わたし」は、パパの転勤で見知らぬ町に引っ越ししてきたところ。おじいちゃんおばあちゃんがいて、大好きな海があった町から引っ越してきて、心細くて寂しいわたし。ママも片付けに忙しくて、ひとりぼっち。「どこにいきたい?」ともう一人のわたしに問いかけて、外に遊びにいったら、素敵な庭のある家から「こんにちは」と声がする。誘われるままに、美しい庭でおままごと。まるでずっと友達だったような時間を過ごして最後に名前を聞いたら、「わたしちゃん」と教えてくれた。でも、次の日にまた遊びにいったら、彼女はいなかったのだ。

「わたしちゃん」と過ごした時間は、もしかしたら夢だったのかもしれないし、もうひとりの「わたし」だったのかもしれない。でも、多分そんな謎解きはどうでもいいんだろうと思う。引っ越しして、まだ新しい場所には馴染んでいない時間。体はここにあるのに、心だけどこかに忘れてきたようなふわふわした心もとない、つかの間の揺らぎが風船になって浮かんでいるような物語だ。幼い頃に「もうひとりのわたし」が、もっとくっきり自分の中にあったことを思い出す。私は一人遊びが多い子だったから余計にそう思うのかもしれないが、何かにつけ自分に語りかけてくる「わたし」がいることを、いつもとても意識していた。そして、今は出来ないのだが、少し左右の目の焦点をずらすだけで、すっと自分の体から意識を浮かせることが出来て(いや、わからないですよね。自分でも書いていてわけがわからない(笑))何か自分に都合の悪いことが起きると、よくそうやって逃避していた。離脱しているときの自分は、そこに体のある自分とは少しずれた存在で、半分「あちら側」にずれこんでいる強い感覚があった。その「あちら側」とはどこかと言われると上手く言葉にできないのだが。そういう感覚は自分だけかと思っていたが、大人になってあれこれ読んでいるうちに、似たことを書いている人をまま見つけることがある。言葉にすると特別なことに聞こえるが、多分幼い頃の未分化な、もしくは統合されていなかったりする心のありようの一つだったのだろう。あの頃リアルに私の中にあった「もう一人の私」は、大人になる道筋のどこかで姿を変えてしまったが、あの「あちら側」にずれ込む感覚は、本を読んでいるときの自分に近しいものがあるように思う。日常からふわりと抜け出す魔法の時間。その手触りを、石井さんの言葉たちに誘われて堪能した。

きっと誰でも、こんな「もうひとりのわたし」に出会う時間は子ども時代の中にそっと潜んでいるのではないだろうか。だから、大人が不思議だと思うこの物語も、子どもが読むと「うん、そうそう!」とすっと心に馴染むのかもしれないと思ったりするのだ。もはや自分の子どももうっそりした大人になってしまったので、そこを聞いてみることができないのが、誠に残念だ。

2014年7月刊行

離陸 絲山秋子 文藝春秋

ばたばたと年越しの準備をしながら、ずっとこの本を横目で眺めていた。もう、絶対面白いという予感があったのだ。やっとお雑煮をすませて本を開いて読み始めたら止まらない、止まらない。何度も繰り返される「heureuse,maheureuse」(幸せ、不幸せ)  という言葉を噛みしめながら、絲山さんの物語にはまり込んでしまった。

真冬、雪に閉ざされた巨大なダムの狭い歩梁で作業をする主人公の佐藤のもとに、いきなりレスラーのような体格の見知らぬ外国人がやってくる。こう書くと何の不思議もない感じになってしまうのだが。いつか見た黒四ダムの圧倒されるほどでかい凹部分を思い出すと、このシーンがもたらす違和感に心が泡立つ。この、現実からふわりと浮き上がる感じ。ダムの管理という地道な仕事が、しっかり書き混まれているだけに、そこにやってくる「非日常」がふわりと絶妙な距離感で浮かび上がるのだ。自分の置かれている風景が、音楽一つで色合いや形をいきなり変えてしまう感覚に少し近いかもしれない。私はこの絲山さん独特の浮遊感が大好きで、またこの物語ではそれがますます洗練されているように思う。イルベールというその男は、佐藤に「女優を、探してほしい」という。昔佐藤が少しだけつきあって振られた乃緒が、その女優なのだという。佐藤は知らないと答えるが、イルベールとやりとりを繰り返すうち、少しずつその謎に深入りしていくことになる。

この物語は長編なので、この、突然やってきた非日常が佐藤の人生に少しずつ食い入って根を張る様子が克明に描かれる。失踪した女優の乃緒。彼女を探すイルベールという黒人の男。女優の残した息子。古い文書や映画。日本からフランスへ、パレスチナへ。時空も越える謎の翼に乗ってふわりと離陸した物語は、最後まで謎を連れたまま、今度は確かな日常を連れて佐藤の人生に帰着する。佐藤ははじめ、どこかぼんやりとしたとりとめのない男として描かれる。東大卒のエリート官僚であるけれども、キャリアの役人というのは、大きな組織のコマの一つでしかなく、常に異動させられて一カ所に根付くことから意識的に切り離されている。そんな環境と、常に自分と他者の間に線を引く性格とが手伝ってどこにいても居心地が悪く、自分の人生によそ者として紛れ込んだような気分にいつも支配されている。そんな彼が渡仏して、まさに異郷でエトランゼとなることで、変わっていく。人と深く関わろうとしなかった自分と向き合い、愛する女性と出会い、イルベールや女優が残した幼い息子の人生に深く関わっていくことで、愛も苦しみも深く味わう。後書きによると、この作品の原型は長く絲山さんの中にあったらしいが、伊坂幸太郎氏の「絲山秋子の書く女スパイものが読みたい」という言葉がきっかけになったそうだ。スパイとして生きるというのは、自分の人生そのものを虚構化してしまうことだろうと思う。若い頃の佐藤のこの世界に対する馴染めなさは、どこか乃緒という女性の居所のなさと呼応していたのだろう。しかし、そこから道はどんどん分かれてしまう。不器用ながらも、佐藤は人を愛し、失い、幸と不幸、「heureuse,maheureuse」という残酷な時間にとことんまで洗われていった。パリで、故郷で、九州で、少しずつ根を生やした人と土地との関わりは、大きな悲しみに見舞われた佐藤をふわりと受け止めて落下させなかった。

そう思ったとき、物語の中でほとんど描かれていない乃緒の人生はどんなものだったのだろうと思ってしまうのだ。物語の中で、佐藤の元の同僚も失踪してしまうのだが、彼は3.11の震災の中にいて、その苛烈な風景を見てしまったせいで、元の生活に帰ることができなくなってしまう。乃緒もそうだったのだろうか。彼女も、それまでの自分を失ってしまうほど苛烈なものを見てしまったのだろうか。彼女のそばには、いつも暴力や戦争の匂いがするが、彼女が人生から離陸を繰り返したのは、そのせいだったのだろうか。佐藤の人生が語られれば語られるほど、私はそこにいない、佐藤のようなセーフティネットを持たなかった乃緒の人生が膨れあがってくるように思うのだった。絲山さんが描くそれぞれの土地は、風の匂いまでするようで、とても魅力的だ。その風景の中を、「heureuse,maheureuse」とつぶやきながら歩く乃緒の姿が、いつまでも胸に残る物語だった。

アトミック・ボックス 池澤夏樹 毎日新聞社

凜とした物語だった。大きなものに流されずに自分の足で立ち、自分の頭で考えること。こうして書くのは簡単だが、いざ人生でこれを貫こうとすると、様々な困難がつきまとう。しかし、この物語の主人公はやり切ったのだ。国家権力に追われるという恐ろしい状況の中で、一歩も引かずに父親の後悔を受け止め、もみ消されぬように命をかけて守り切ったのだ。痛快とも言える彼女の鮮やかな軌跡が、この国の中に重く立ちこめている闇を切り裂いていく。そんな景色さえ見えるような、池澤さんの鮮やかな一冊だ。

社会学者である美汐の父は、島の漁師だった。死の間際、彼は美汐にあるものを託す。それは、父が昔関わっていた国産原爆の開発プロジェクト「あさぼらけ」の資料だった。父は、自らも被爆者でありながら、原爆の開発に関わってしまったことを深く後悔し、その機密を娘に託す。それを公表するのか、しないのか。考えるよりも先に美汐に公安の手が伸びてくる。捕まれば、あさぼらけは闇に葬られる。そこから美汐の逃亡が始まるのだ。この逃亡劇が手に汗握るエンタメとして成功しているのも読み応えがあるのだが、私は美汐の逃亡を手助けする、あちこちの島に点在する老人達がとても印象的だった。彼らの、日本にいながらにして、「国」のシステムの外側にいるような生き方が、水俣で漁師として生きてこられた緒方直人さんと、ふとだぶる。

「「国」とは何だったのか。私たちは何を「国」といってきたのか。「国に責任がある」といいながら、実はそこにあったのは、「国」という主体が見えない、主体の存在しない「システム社会」ではなかったのか」 (『チッソは私であった』緒方直人葦書房)

緒方さんは、システム社会の一員ではなく、魂を持った「一人の「個」に帰りたい」ということが、ただ一つの望みだという。美汐も、逃亡を決めた瞬間から、指名手配され、家族とも職場ともアクセスできず、社会のシステムから全く切り離された「個」としてこの「あさぼらけ」という存在に対峙することになる。一方、美汐を追い、過去を握りつぶそうとする力は、国の威信や大義のためと称しながら、美汐という一人の人間の尊厳を傷つけ、危険に陥れることをためらわない。その残酷さが、美汐の薄氷を踏むような逃亡劇の中で浮かび上がって身に染みる。自分がこの立場に立ったら・・・美汐ほど体力も知力もない私はひとたまりもなく捕まってしまう。簡単に踏みにじられてしまうよなあとしみじみ思う。最後に展開される美汐と、あさぼらけプロジェクトの中心にいた人物との対話は、まさに国に「愛」という名をつけて声高に語られる数の論理と、良心を「個」に引き受けて生きようとする者との論戦で、読み応えがあった。美汐のように、戦えなくても。それが自分一人では動かしようのない、大きすぎる問題に見えても。その問題を、システム社会の論理ではなく、「個」の良心にひきうけて考え尽くしてみなければ、大切なことは見えてこない。その原点を、美汐という若い女性に託した池澤さんの願いが伝わるような一冊だった。「中年の、男性の、大企業に所属する人たち」「経済成長ばかりを大事にする今の日本の社会構造」(本文より)だけで全てを押し切ろうとする態度には、もううんざりだ。もういい加減に変わろうよ、と私も心から思う。核という私たちの手には負えないものが、一人歩きしてしまったら。その恐怖を、日本人は何度も味わったのではなかったか。この物語に描かれるあさぼらけの顛末は、その怖さも含めて、読み手に様々なことを問いかける。エンタメで愛国心をやたらに売りにする作品がベストセラーになったりするのに対抗して(かどうかはわからないけれど)池澤さんがこういう作品を書いてくれたのが、とても嬉しい。

2014年2月刊行

毎日新聞社

 

大震災から3年― 「さよならのかわりにきみに書く物語 田中正造の谷中村と耕太の双葉町」 一色悦子 随想舎

先日、kikoさんと、神戸の灘にある「阪神大震災記念 人と防災未来センター」に行ってきた。4Fのシアターで阪神大震災を、映像と音響で体験することができる。これが、「来る」と身構えているにも関わらず、非常に怖い。音と映像だけでも恐ろしい。あれがいきなり来たらと思うと、やはり想像を超える。そのあとの、震災の記憶を伝えるブースであれこれ資料を見ていると、6000人を越える死者数に改めて呆然とするのだが、そのときに横にいたkikoさんがぽつりと、「それでも私たちはまだ幸せやったな、って思う」と言う。(kikoさんは神戸の人だ)東日本大震災では、未だに行方不明の方たちがたくさんおられるから、と。kikoさんの中には、どうしても忘れられない記憶が、多分いつも、何をしていても自分の中のどこかにあるのだ。それは、きっと一生そうなのだろうと、いつも彼女を見ていて思う。この一週間、様々なドキュメンタリー番組で震災の三年後の姿が取り上げられると、その果てしなさが心を噛む。傷ついた心と暮らし、そしてもっと降り積もる原発の不安。西館の資料室には、犠牲者の方々のひとりひとりの名前と顔と人生の記録を丁寧に綴った記録がある。数ではない、たった一つの人生がそこには刻まれている。

前置きが長くなってしまったが、この物語は、福島県郡山市出身の作者が、双葉町という避難区域に住む中学生、耕太を主人公に書いた物語だ。あの日、原発の事故が起こり、いきなり避難勧告が出て避難生活を余儀なくされた中学生の耕太。茨城県古河市にある母方の祖父の家に疎開してきた彼は、そこの渡良瀬遊水池が、昔足尾銅山の鉱毒によって消えてしまった谷中村の跡地であることを知る。自分でいろいろと調べるうちに耕太は自分の故郷である双葉町と谷中村が重なって見える。富国強兵を推し進めるために銅山はどんどん開発され、そのためにふもとの谷中村は鉱毒被害に見舞われた。豊かだった村の作物はとれなくなり、渡良瀬川は死の川になり、人々は病気になり死んでいった。しかし、村民の苦しみよりも国の利益を選んだ結果、反対運動は押しつぶされ、村民は村を追い出された。その跡地が渡良瀬遊水池なのだ。

経済的な利益を優先して、一握りの人たちの苦しみは置き去りにしてしまう構図がどんな風に展開されていくのか。そして、それが今もそのまま繰り返されていることを、一色さんは、耕太の目を通して資料と共に説得力を以て描き出していく。実のところ、私がその構図に気付いたのは恥ずかしながら最近なのだ。ヒロシマを勉強していくと、必然的に核や水俣のことにぶつかる。若い頃には、それらは別々のことだと思っていた。しかし、その根っこは全て繋がっている、ヒロシマもフクシマも、谷中村の鉱毒も、水俣も。私は気付くのが遅すぎた。はっきり言うと、日本中の大人たちが気付くのが遅すぎたのだと思う。だからこそ、若い人たちにはこの国の根っこにある負の連鎖を知って欲しいのだ。そして、自分や大切な場所を守るためにも、嘘やごまかしを見抜く目を身につけて欲しい。生涯を捧げて谷中村のために奔走し続けた政治家の田中正造の言葉が紹介されている。「人、侵さばたたかうべし。そのたたかうに道あり。腕力殺りくを持ってせると、天理によって広く教えて勝つものとの二分あり。余はこの天理によりてたたかうものにて、たおれても止まざるはわが道なり」。言葉で、静かに繰り返したたかうこと。根気よく、諦めず。そのための知性を身につけることがこれからを生きる子どもたちには必要なのだと思う。この本には、一色さんの身を切るような切なる願いが込められている。子どもたちにも、そして大人にも、今是非読んでもらいたい本だ。

一色さんは、発売になったばかりの「日本児童文学 2014年3-4月号」に「「演題 だれが戦争を始めるのですか」福島県立安積女子高校三年 山崎悦子」という作品を書いておられる。十八歳の高校生のレポートという形で、日露戦争を始めたときの日本を通じて、今の日本に流れる不穏な空気を考える作品だ。原敬と田中正造という対照的な二人の政治家が、もし協力しあえていたら―お互いの立場を越えて力を合わせることが出来ていたら、戦争を繰り返した歴史は違っていたかもしれない。時代の空気に流されずに発言することはいつも勇気がいる。この一色さんの真摯な闘いに私は胸を打たれた。そちらも、是非読んで欲しい。

2013年10月刊行

随想舎

図書館のトリセツ 福本友美子 江口絵理 絵スギヤマカナヨ 講談社

子ども向けに、図書館をどう使うか、どう図書館と仲良くなるかを書いた本なのだけれど、これがとってもわかりやすくて、伝えるべきことをしっかり踏まえている内容になっています。図書館で働いてる私でさえもなるほど~、と思うくらいです。大人の方が読んでも、きっと目からウロコのところがあるはず。

この本には、図書館で出来ることがたくさん書いてあります。本を読む、借りる、本で調べる。もちろんそれが基本なのですが、私が一番いいな、と思ったのは「図書館では、なにかをしなければいけない、ということは1つもないのです。こんな自由な場所は、ほかにそうそうありません」という言葉。そう、その通りなんですよねえ。本はたくさんあるけれど、別に読まなくたってかまわない。反対に、どれだけ読んでもかまわない。誰にもなんにも強制されません。この本にも書かれていますが、様々なジャンルの本を、なるべく偏りのないように収集する。この本が読みたいとリクエストされれば、その希望を叶えるべくあちこちに問い合わせて提供します。そう、図書館は「自由」が基本なのです。そのために、図書館は資料収集の自由と、提供の自由を宣言しているんです。(「図書館の自由に関する宣言」を、リンクしておきます。私は時々、この宣言を読むことにしています。何かこうね、ぎゅっと身が引き締まる思いがします。 )その自由を、最大限に活用して貰いたいなあと思うんですよ。なぜなら、この自由は活用して、使い倒すことで、もっと活性化して広がっていくと思うから。

だいたいの図書館は地方自治体が運営している「市民の図書館」なのですが、こんな風に公共図書館が出来るまでには、先人たちの努力と闘いがあったのです。それこそ女性や子どもに貸し出しをするようになったのも、そんなに昔のことではありません。はじめから当然のようにあるものではないからこそ、どんどん使って、実績を作って、この社会になくてはならぬものとして根付いて欲しいのです。日本では、そこがまだまだだと思うんですよねえ。「これだけネットがあるんだから、何も本でなくても」という声もあるでしょうが、やはり一冊の本が持つ情報量の多さと確かさは、ネットで検索して見る頁とは格段に違います。客観性も違います。この本にも「なぜ本でさがすかというと、たいていの本は専門家が書いていますし、出版される前に何人もの人が、正しいかどうかを確認しているからです」とあるように、ネットで個人的に書いているものと、出版されるものとはその責任の取り方が根本的に違います。ネットは匿名が基本ですもんね。

そして、図書館のいいところは、同じテーマの本が何種類も揃っていること。調べたことを鵜呑みにしないで、別の角度からも見ることができる。この本には、そこもちゃんと書いてあります。「1冊見て終わりではなく、2冊以上の本を使って確認しよう」その通り。活字で書かれているからと言ってそれを鵜呑みにしない、というのも大切なことです。いろいろ調べて同じテーマで違うことが書いてあったら、それは自分で考えてみる余地があるビッグチャンスですもんね!それだけで自由研究ができちゃう。卒論もできちゃうかもしれない。「なぜだろう」と思って自分で調べて、自分の頭で考えて「これだ!」という解答を手に入れることって、ほんとに楽しい。解答を得られなくても、これまたずっと考え続けるという楽しみが生まれます。また、答えは一つでなくてもいいかもしれない。答えは無いのかもしれない。でも、なぜだろうと思って考えることが、人間に与えられた一番の楽しみであると私は思います。そして、もちろん、何にも考えないために図書館に来るのも、いいですよねえ。いろんなことに疲れて、家や学校から離れたいとき。一人でいるのも寂しいけれど、誰とも話したくないとき。人間関係に疲れて、生きていくのがめんどくさいよな、と思うとき。図書館にきて、ぼーっとして、綺麗な写真集や、美しい絵画を眺めたり。漫画を読んでみたり。居眠りしたりするだけでも、ほっと出来るかもしれない。誰に気を遣う必要もないのが、また、図書館のいいところです。安心してひとりになれる。そして、本ほどひとりになった人間の味方をしてくれるものはありません。

「学校は何年かたつと卒業しなければなりませんが、図書館に卒業はありません。何歳になっても行けます。もし図書館があなたのお気に入りの場所になったら、一生ずっと遣い続けることができますよ」

いいこと言うなあ。私もきっと一生図書館には通い続けるでしょうねえ。他にもいっぱいしびれる名言がたくさんあって、この本付箋だらけになってしまいました。「私は図書館のことよく知ってるから」と思う方にもおすすめです。そうそう~~!と嬉しくなって、明日図書館に行きたくなること、請け合いです。

2013年10月刊行

講談社

12種類の氷 エレン・ブライアン・オベッド文 バーバラ・マクリントック絵 福本友美子訳 ほるぷ出版

もうすぐソチオリンピックがありますね。「がんばれ!日本!」みたいな応援の仕方はあんまり好きじゃないのですが、フィギュアスケート好きとしては、今度の五輪は見逃せないでしょう。テレビで放映される大会は全部見ているので、外国の選手にも好きな方がたくさんいるんですが、一番好きなのは、やっぱり大ちゃんこと高橋大輔選手。彼の最後のオリンピックですから。年末の代表選考はやきもきしました。彼はアスリートで、演技を数値化される競技でぎりぎりの闘いをしているのですが、生まれながらのダンサーで身体が物語を語るんですよね。そこにいつもドキドキしてしまう。その分、失敗も多くてドキドキしますけど(笑)高橋大輔選手と浅田真央選手のスケーティングは上手く言えないんですけど、他の選手と全く違うものを感じます。他の選手はスケートを愛しているんですが、彼らはスケートに愛されてるなあと思うんですよね。氷が彼らに滑ってもらいたがってる。彼らが、氷の上で流れるように滑っているだけで、うっとりする。それを見るのが至福です。二人がヘンなナショナリズムに巻き込まれないで、オリンピックで楽しく、のびのびと滑ってくれたらいいなと思うんですけど。ほんとに応援しているファンは、メダルの色がどうとか言わないんですよね、きっと。オリンピックのときだけやたらに愛国主義になる人たちに振り回されませんように。

前置きが長くなりましたが、これは、そんな氷を愛してやまない小さなスケーターたちの本です。冬を迎えて、初氷が出来ると子どもたちは期待に胸がいっぱいになるのです。それは、スケートができるから!この本には、そんなスケートの楽しみがいっぱいに詰まっています。小川の上をずっとたどっていくスケート。分厚い氷が張った池の上を走るスケート。そして、自分の家の農園にスケートリンクを作って(凄い!)そこで近所の友達とフィギュアスケートやアイスホッケーをする楽しみ。日常の中にこんなにスケートがある喜びが溢れているなんて、なんて幸せなんだろうと思います。空と、風と、森と、溶け合うように滑る楽しさ。私はスケートは屋内のリンクでしかしたことがなくて、しかも下手っぴであまりスピードを出せませんでしたが、スキーは結構経験があります。冷たい風の中で、きらきら光る白い世界を山の景色を見ながら滑り降りていく楽しさ。耳元で風がうなりをあげるほどスピードを出す感覚。もうこの年齢でそんなことをしたら危ないだろう私には、もう体感できませんが、この本の中で思い出せて嬉しくてぞくそくしました。

銀のスピードが出るまですべると、肺と足が、雲と太陽が、風と寒さが、みんないっしょにきょうそうしているみたいになる。

うん、そうそう!楽しいんだよねえ。自分の身体で掴む、確かな弾む喜びが、この本には溢れています。子どもが身体を思い切り使って喜びを感じる幸せの大切さ。それをさりげなく支える大人の心遣い。それがとても美しい絵と文章で綴られています。

児童文学には、スケートがよく登場します。フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』の川をスケートで渡っていくシーンの美しさは格別ですし、『ピートのスケートレース』(ルイーズ・ボーデン 福音館書店)の少年の冒険も忘れられません。メアリー・メイプス ドッジの『銀のスケート』(岩波少年文庫)や 『 楽しいスケート遠足』(ヒルダ・ファン・ストックム 福音館書店)も好きだなあ。こんなにフィギュアスケートが好きなのは日本人だけかも、といつも満杯のテレビ中継を見てて思うのですが、スケートを長く愛してきた国のことを、こんな物語からたどってみるのも、また楽しいと思います。

光の井戸 伊津野雄二作品集 芸術新聞社 

あけましておめでとうございます。

2014年の年明けです。どうか穏やかな一年になりますようにと、ほんとうに祈るように思います。今日は地元の氏神さまに初詣に行ってきました。小さなお堂に手を合わせていると、この地に住んで一度も大きな天災に遭ったこともなく、ご近所の方達もいい方ばかりという幸運に恵まれているということに、遅ればせながら気がつきました。25年も住んで今頃気がつくんかいな、という感じですが(汗)こういう小さなことにしっかり心の碇を下ろしておくことが、今とても大切な気がします。

心の碇というと、最近ずっと手元に置いて見ている本があります。伊津野雄二さんの作品集『伊津野雄二作品集 光の井戸』です。手垢でこの美しい本を汚してしまいたくないんですが、つい手が伸びて、頁をめくってしまう。この作品たちから溢れてくる耳に聞こえない音楽に心を澄ませていると、心がしんと落ち着いてくるのです。静かな表情を浮かべて、ゆったりと姿を現す女神のような作品たちに見惚れます。伊津野さんは、美しい彫刻を作ろうとして、これらの作品をお造りになっているのではないと思うんです。海が少しずつ石を刻んでいくように。風が砂に模様を描くように。星がゆっくり軌跡をたどるように。生まれて死んで、命を重ねて紡いでいく時が生み出すかたちに近いもの。日々命の理(ことわり)に耳を澄ますものだけが生み出せる、かたちを超えたかたち。「うた」という、少女の頭部がまるく口を開けて歌っている作品があります。彼女(と言っていいのかどうか)の声は聞こえないんですが、きっとその歌は太古の昔から鳴り響いているに違いないと思う。崇高なんですが、人をひれ伏させる気高さではなく、木や土の暖かさに満ちた慈愛を湛えています。「光の井戸」という言葉が指し示すように、伊津野さんの作品に溢れている光は、天上から射してくるのではなく、私たちの足下にある大地から生まれているように思います。そのせいでしょうか。穏やかに微笑む女性の面影は、どこか懐かしく慕わしい。伊津野さんの作品を見ていると、魂の奥底が共鳴して震えます。その分、時にいろんな負の感情や打算や、大きな流れに押し流されがちになる私の上っ面がよく見えるのです。「美」ということについて、最近特にいろいろ考えているのですが、人間がなぜ「美」を探し続けるのか、それはやはり「美」が太古の昔から私たちを支えるものであり、唯一私たちに残されている可能性そのものだからではないかと思うのです。伊津野さんの作品には、その可能性が溢れています。

かく言う私は見事に俗人で、年賀状の印刷のことで夫と小競り合いはするは、耳が悪いのになかなか補聴器をつけない母に「危ないやんかいさ」と小言をいうは、仕事に行けば、何度も言ったことを間違える同僚に「ええ加減にしてえや」と腹立つは、「明日は特売日やから、牛乳買うのは今日はやめとこ」と10円20円をケチる、そりゃもう、吹けば飛ぶようにちっさな器の人間です。でも、伊津野先生(とうとう先生、と言ってしまった)の作品を見ていると、このちっぽけな私の奥底に、伊津野先生が命を削って形にしておられるものと響き合い、水脈を同じにするものがあることを感じられるのです。それを知覚し、心の碇として自分の芯に鎮ませておくこと。例えば、マイケル・サンデル教授が授業で受講者たちに突きつけるような、正義の名をつけた残酷な二者択一を迫られたときに、この永遠を感じさせる美しさを思い浮かべることができたら。私は少なくともその正義の胡散臭さを感じることは出来るだろうと思うんですよ。

「差異のみがめだつ現代ですが伏流として在る共通のゆたかな水脈に繋がるために、自らの足元を深く掘り下げることが望まれているのではないかと考えています」

これは、伊津野先生自身の後書きの文章の一節です。ちっぽけな自分という目に見える現実に流されないように。「足元を深く掘り下げる」営みとして、今年も本を読み、じっくりと考える一年にしたいと思っています。

皆様にとって実り多い一年になりますように。今年もよろしくお願いいたします。

紙コップのオリオン 市川朔久子 講談社

母親というものは、当たり前のようだが家庭にとっては大きな存在だ。良くも悪くも家庭というものの中心にいて、家の中を丸く治めてしまう存在でもある。特に食欲で一日が回っているような男子中学生にとっては、例えもやもやとしたものがあったとしても、母親がいて帰ったらご飯が出てきて日常が回っていると「ま、いっか」といろんなことをやり過ごしてしまったりするだろう。しかし、この物語ではまず冒頭でその母親が「やるなら今でしょ」的な書き置きを残して、冗談ではなく本当に旅に出てしまうのだ。同じ母親の立場から言うと、思い切ったなあと関心してしまう。もっとも、なぜ母がそこまで思い切ったのかもこの物語の伏線として最後にわかることになるのだが。母親の不在でぽっこり空いた穴は、これまでうやむやにしてきた父親との関係を浮かび上がらせる。そして、少し日常から外れてしまった視点は、学校という「埋もれるのが勝ち」の世界で少しだけ自分と彼に関わる人を変えるきっかけを主人公の少年に与えるのだ。日常の中にある、ささやかだけれども大きな意味を持つこと。それに気付くことで起こる変化のダイナミズムを描き出した素敵な物語だった。

主人公の論里は、父親とは血が繋がっていない。思春期になり、これまでのように無邪気に父親に向かいあうことが出来なくなってしまった論里は、母の不在によって、父親との仲がぎくしゃくしてしまう。シングルマザーだった母と結婚することが世間的にどんな意味を持つかがわかってしまう年頃なのである。論里は自分の存在が父親にとって迷惑なのではないかと内心怖くてたまらないのだ。そんな中、論里は創立行事委員会で、ふとキャンドルナイトを提案してしまい、面倒くさいと思っていた行事に主体的に関わっていくことになる。そのきっかけは、同級生の女子、白(ましろ)がキャンドルナイトを「あたし、ほんとにいいと思う」と言ってくれたことだ。白は、その名前のように皆から「変わってる」と思われている。「気になっていることはすぐに突き詰めちゃう」性格の白は、でしゃばりだとか、テンポが合わないと思われているらしい。白は自分が大切だと思ったことにまっすぐ向かっていこうとする性格なのだ。委員会でキャンドルナイトで何を描くのか、という話になったとき、「絆」といういかにもそれらしい提案に流れかけるのだが、白は果敢にも「めんどくさいな」という空気に負けず、「あたしは、なんか、嫌です」ときっぱり言う。皆でやる行事だからこそ、お弁当のプチトマトのように「みんな入れてるからそれを入れてれば安心」という安易な言葉に乗っかりたくない。その思いを、論里は受け止めるのだ。

この世界はとても複雑に出来ている。家族と一口に言っても、論里が母親の気持ちを全く知らなかったように、自分を育ててきた父親の気持ちがわからないように、見せている顔はごくわずかだ。小学校の時に仲良しだった大和が学校を休みがちなのも、多分本人にも論里にもどうしようもない家庭的な背景がある。それをきちんと見つめていくことは、白のように人との軋轢を生む結果になったりするし、論里のようにしなくていいことを背負わなければならなかったりする。損得―今風に言えば「コスパ」で考えたら効率の悪い、損なことなのかもしれない。しかし、白の思いを叶えたいと思ってはまり込んだキャンドルナイトは、論里に「やろうという意志を持って動き始めると確実に物事は動きだす」ということを教えてくれる。面倒だと思っていたことも、誰かのためにと思ってやり出したことも、自分の手で成し遂げれば大きな実りをもたらすこと。その実りは自分以外の人も幸せにする力を持つこと。論里は自分という小さな星を、他人の星と繋いでいく一歩を踏み出したのだ。物語のクライマックスであるキャンドルナイトはとても美しい。論里と白の想いがぴったり重なる告白のシーンも、とても印象的だ。誰かを大切に思うことは、迷惑や損得で割り切れることではない。論里の胸の中に芽生えた恋心、「好き」と想う気持ちは、この世の中で一番大切なダイナミズムなのだ。自分に大切なことを教えてくれた白への想いを、「好き」という言葉を使わずに現したこのシーンは、とても素敵だ。

星座とは見ようとしなければ見えない。人の心も、世の中の動きも、やっぱりそうなのだ。昆虫好きでマイペースな妹の有里や、笑顔がさわやかで完璧そうに見える進藤先輩や、調子が良くていつも賑やかな同級生の元気も、皆どこかしらでこぼこや痛みを持っているのだ。それをめんどくさいと見ないようにしていると、大切なものを見失う。そこにあるものを新しい眼差しで見つめること。そうして自分で発見したことだけが、自分の中で経験になって新しい星座になって輝き出す。

「考えてみれば水原は、いつも自分の言葉に勇敢だった」

私はこの一節がとても好きだ。自分の言葉を大切にする、この勇気がないと心は枯れる。枯らそうとする圧力がやたらに多い息苦しい今、小さな勇気が灯したかけがえのない光を描き出す市川さんの繊細さが胸に染みる物語だった。

2013年8月刊行

講談社