あひる 今村夏子 書肆侃侃房

三つの短編それぞれがお互いの補助線のような役割を果たしていて、読み終わったあと、ほの暗く浮かび上がってくるものがある。それは、家族という形の不気味さだ。

この物語たちの中で、個人名で呼ばれるものは、あひるの「のりたま」と、子どもたちだけだ。大人たちは父、母、弟、おばあさん、という役割としての呼び方しかされない。二つ目の「おばあちゃんの家」のおばあちゃんに至っては、孫以外の家族から「インキョ」と呼ばれている。役割の中に、「個」は埋没してしまい、見えなくなってしまっている。

彼らが守ろうとしているのは、形だ。あひるののりたまは、あっという間に死んでしまう。空っぽになったケージに、しばらくしてまたあひるが帰ってくるが、それは明らかに違う個体のあひる。しかし、老夫婦はあひるを入れ替えたことを、自分でも忘れてしまったかのように振る舞う。あひるが入れ替えられたのは、子どもたちを呼び寄せるためだが、彼らは子どもが本当に好きだから、呼び寄せたかったわけではない。「子どもがいることが幸せ」だという形に拘っているからなのだ。

その形が本当に幸せなのか、幸せとは何なのか、この物語の中にいる人たちが自分に問うことは、無い。いや、そこを問いただしてしまったら、かろうじて保っているものが粉々になってしまう。それは、きっと果てしなく面倒なことなのだ。何があっても毎日ご飯を食べて、生きていかねばならないから。だから、見ないことにする。見ないことで、その形に馴染んでいるうちに、空っぽな自分になっていく。その不気味さをあぶり出しているのは子どもの眼差しだ。子どもの目は、見たくないものを見ないようにする、という取捨選択をしない。出来ないのだ。全てを等価に見る、その回路を通ってあぶり出されるものは、形と心を同じものだと思い込む暴力だ。死んでいくあひるは、その暴力に命を奪われる。

自分の名前を持たずに死んでいくあひるは、間違いなく私の中にも、私の家庭にもいる。この社会のあそこにも、ここにも。さらりとそれを平易な言葉遣いで書き上げてあるのがいい。この人の書いた児童文学が読んでみたいと思う。