エベレストファイル シェルパたちの山 マット・ディキンソン 原田勝訳 小学館


うちの図書館で高校生むけの冊子を作るというので、急いで読了。山岳小説も色々読んだが、シェルパを主人公にした小説は珍しいのではないか。エベレストという特別な山の魅力と、主人公のシェルパの少年・カミのピュアさが呼応しあって、厳しく美しい物語になっている。

物語は、ボランティアでネパールにやってきたイギリス人の少年を道案内役に進行する。急病にかかった彼を看護してくれた美しい少女・シュリーヤの頼みで、彼女の恋人であるカミを探しにいく。そこまでがまず大変なのだが、エベレストにも、カミという少年にも、簡単には会えないということなのだろう。「ぼく」が見たものは、首から下の機能を失ってベッドに横たわるカミの姿だった。物語は、そのカミの口から語られる。アメリカの有名人ブレナンを隊長とした登山隊に、シェルパとして参加したカミが、何を見、何を経験したのか。作者はカミの人生にも深く踏み込んで、彼がひとりの人間として、どんな希望や決意を持ってこの登山に臨んでいるのかを描き出していく。古くからの慣習が根強く残る土地で、カミが生まれながらの婚約者ではなくシュリーヤとの恋を成就させるには、お金が必要だった。この登山は、カミにとって将来を切り開くための大きなチャンスだった。カミのシェルパという仕事への誇りとシュリーヤへのまっすぐな愛情が、この物語の大きな魅力だ。

  しかし、高額なお金が動くエベレスト登頂は、まっすぐな情熱以外の様々な思惑や事情を孕んでいる。隊長のブレナンは、将来の大統領候補とも言われる人物で、それだけに注目度も高い。ブレナンにとっても、どうしても成功させなければならない登頂なのだ。しかし、エベレストは気高く来るものを拒む。様々な困難を乗り越えて、たった二人で頂上を目の前にしたカミとブレナンがした選択は、その気高さに相応しいものだったのか否か。

エベレスト登頂の経験がある作者は、様々な思惑を持って集まってくる人間達の事情を、リアルに描き出している。やはりそこにはお金が動いていて、名誉や名声が欲しい人間の欲望も渦巻いているのだ。しかし、エベレストはそんな人間たちを、丸裸にしていく場所だ。たったひとり、「個」として偉大な存在に向き合ったときに、どう生きるのか。自分以外、誰も知らない嘘を、人はつき通すことが出来るのか。負けるとわかっている道を進む勇気とは何か。人の、真の強さとは何か。様々な問いを投げかけて、何も言わずそびえ立つ山の存在感に痺れ、魅入られる一冊だ。

しおちゃんとこしょうちゃん ルース・エインズワース 河本祥子訳・絵 福音館書店

『こすずめのぼうけん』『ちいさなロバ』のエインズワースの絵本だ。ちいさなものへの眼差しに、子どもたちへの深い慈しみを感じる。子どもたちが、どうか幸せに生きていってくれますように、という祈りのような思い。もちろん、それがたやすく叶えられるものではないことを知り尽くしているからこその、祈りだ。

子ねこのしおちゃんとこしょうちゃんは、競い合って大きなもみの木に登ってしまう。河本祥子さんの絵がとても素晴らしい。しなるモミの枝と見事な遠近法で、屋根より高い枝の上ですくんでしまった子ねこたちの視点を、俯瞰で感じさせてしまう。そこからきゅっと画面はしおちゃんとこしょうちゃんにクローズアップしていく。二匹は鳥や飛行機に助けを求めるのだが、当然のごとく願いは届かない。そうこうしているうちに夜がやってくる。どうしようと困り切ったそのとき、もみの木の下に、ふたつの光が現れて二匹のところに登ってくるのだ。ふたつの光はしおちゃんとこしょうちゃんの、お母さんだ。良かった!家の中に戻った三匹は、くっついて眠る。その幸せそうなこと。

二匹を迎えにきたお母さんのタビーふじんは、冒険に出て失敗してしまった二匹を叱ったりしない。「さあ、もう ベッドに はいって、ねる じかんですよ」と静かに話しかけるだけなのだ。冒険の結果、誰かに助けてもらうことになっても、それは決して恥ずかしいことでも、責められることでもない。自分の足で歩き出そうとする子どもを見守る優しい眼差しが、ぬくもりとなって心に届く。

この本の中で子ねこたちを助けてくれるのはお母さんだ。もちろん、それは子どもの「安心」に直に繋がる大切なこと。でも、それと同時に、子どもたちは、この絵本を作ったエインズワースと河本さんの心を受け取るのだと思う。見知らぬ大人たちが、自分に届けてくれる、祈りと慈しみ。それを心の奥底で感じることは、子どもの心を育てる大きなゆりかごになるのだ。そう思わせてくれる絵本が好きだ。

1993年に「こどものとも」で発行された本を、ハードカバーにして再刊したもの。

福音館の持っている絵本の財産は、素晴らしい。

2016年2月発行

福音館書店

絲山秋子さんの読書会 in MARUZEN &ジュンク堂梅田店

『薄情』(新潮社)『小松とうさちゃん』(河出書房新社)の二冊の刊行記念読書会に参加してきた。大阪では珍しい、絲山さんご本人も交えての読書会。20人ほどが集まって、小さな会場はいっぱいだった。集まった方のスタンスも色々で、小さな切り抜きも全て集めています、というファンから今日初めて買ってみました、という人もいたりした。でも、それがまた面白かったのだ。ほんの一時だけれど、絲山さんに惹かれて集まった人たちの想いが小さな世界を作っていた。それぞれの不器用な言葉を真摯に受け止める絲山さんの包容力に包まれて、幸せな一時だった。  絲山さんの作品の豊かさ、短いものでも、そこに含まれているものの深さと広がりについて皆が語ると絲山さんが「それはきっと皆さん自身の豊かさなんです。私の作品は、その出力装置にしかすぎない」(言葉そのままではないので、ニュアンスだけ)とおっしゃった。でも、その出力装置の性能が半端じゃないから、皆これだけ語っちゃうんですよ!と申し上げたかったが、言いそびれてしまったのでここに書いておきます。

土地と人間の結びつきについて。住んでいる土地が、人を作るのではないかということ。これから書きたいと思ってらっしゃること。様々お伺いしたが、「面白いことに、言葉で書いてあることについての感想は人それぞれなんですが、言葉で書いていない部分については、共通点があるんです。」という言葉が印象的だった。作品という一つの山に、いろんな道から登ることが出来て、でも、同じ風景も心に感じることが出来る。これが文学の自由さでもあり、広がりでもあるんだなあと。帰宅して、『小松とうさちゃん』を読みましょう、と思いながら、ふと『海の仙人』が読みたくなって取り出したらはまってしまい、すっかり敦賀の海辺で時を過ごしてしまった。幸せだった。『薄情』と『小松とうさちゃん』のレビューは、また改めて。

「離陸」http://oishiihonbako.jp/wordpress/?s=%E9%9B%A2%E9%99%B8

「妻の超然」http://oisiihonbako.at.webry.info/201012/article_9.html

「末裔」http://oisiihonbako.at.webry.info/201104/article_4.html

「ばかもの」http://oisiihonbako.at.webry.info/200810/article_14.html

「北緯14度」http://oisiihonbako.at.webry.info/200901/article_14.html

まんげつの夜、どかんねこのあしがいっぽん 朽木祥 片岡まみこ絵 小学館

誰も遊びに来てくれないのが寂しくて、自分で作ったご馳走を食べ過ぎて太ってしまったネコが一匹。友達を探しに出かけたのに、なんと不幸なことに、土管にすっぽりはまって動けなくなってしまう。さあ、大変。皆でこの子を助けなきゃ!と「おおきなかぶ」状態になるのかと思いきや、そこはやっぱりネコですからね。皆、何だこりゃ、とフンフン匂ったりするだけで、どこかに行ってしまう。でも、その日はちょうど満月。ネコの集会が行われる夜だったのだ。土管のまわりを、ネコたちが歌って踊る。土管にはいったまんまのどかんねこはどうなるの?・・・という、可愛くて何だか不思議な味わいの絵本なのだ。

夜と満月の匂い。片岡まみこさんとコラボのネコの絵本ということで、私はもっとほんわかした感じを想像していた。もちろん、ネコたちはとってもとっても可愛くて、たまらなく魅力的だ。この絵を額に入れて、部屋のあちこちに飾っておきたい。ところが、その可愛いネコたちが朽木祥の研ぎ澄まされた言葉のマントをふわりと羽織ると、ネコのリアルをそのままに、不思議な夜の住人になるのである。

たん、たたん、たん! 「まんげつのよーる!」

宮沢賢治に「鹿踊りのはじまり」という短編がある。すすきの野原で、栃団子と忘れものの手ぬぐいを真ん中にして、鹿たちがぐるぐると歌って踊るのを、手ぬぐいの持ち主の目を通して、目撃する物語だ。鹿たちは、筋肉の盛り上がりや息づかいが感じられるほどに見事に鹿そのもので、だからこそ私たちは目の前で展開する鹿の会話の不思議に、息を詰めて魅入られる。私たちが見ているこの世界と、重なりながら隔たっている異世界。そのあわいで、鹿たちの命が喜びに歌う、くらくらする幻想とリアルの世界だ。この物語にも、そんな不思議な魅力がある。うちのネコたちも、満月の夜にするっと二本足でこの家を抜け出して、どこかの野原でこうして踊っていたりするんじゃないか。もしそうなら、どんなに嬉しいだろう。だって、まんげつの光を浴びて踊るネコたちは、それはそれは生き生きとネコである瞬間を楽しんでいるのだから。ネコは、どんなに幸せに暮らしていても、どこか「ひとり」であることを忘れない。自分の生も死も、ありのまま見事に引き受ける。そこに、私たち人間は、寂しみや、ひとりであることの誇りや、様々な人生の「滋味」のようなものを感じてしまう。この物語のネコたちも、何だか皆、それぞれにひとかたならぬネコ生を持ち寄っている気配がする。簡潔なテキストで、そこまで読み手に感じさせる深みが、朽木祥の言葉の魔法だ。心のなかの、なぜか知らないけれど、生まれたときからある寂しさに、じん、と染みこんでくる。

この満月の光は、『かはたれ』で八寸がネコになるために浴びていた光と同じなのだろうか。『かはたれ』は、夜明け前の薄明の時間のこと。ぼんやりとした、朝でも夜でもない幻の時間のことだ。母を失った少女の麻は、八寸というネコの形で現れた河童の魂に触れて、失いかけた心を取り戻す。この夜のネコたちも、異世界の住人だ。でも、きっと昼間は別の姿で暮らしているに違いない。そこらで昼寝をしていたり、おやつをねだっていたり。でも、こうして物語の中で、命の不思議のマントを羽織り、私たちに会いに来てくれる。それにもっともしかして、私も「まんげつの夜」は、こうして二本足のネコになって、この物語の中で踊っているのかもしれないじゃないか。物語という異世界に魂だけになって触れることで、私はやっと昼間人間の姿を保っているのかもしれない。

お日様が昇って朝のノネコは野原に取り残されてしまうが、もうノネコも、この絵本を最後まで読んだ私も、「ひとり」だけど一人ぼっちではない。「まんげつの夜」は、ノネコのご馳走を食べて、たん、たたん、とステップを踏みに、この絵本の頁をめくれば、よいのである。この表紙のノネコは、こちらをまっすぐに見つめて、物語の世界に誘ってくれている。ネコにこんな風に見つめられたら、私たちは魅入られるしかないのである。

2016年1月刊行

小学館

片手の郵便配達人 グードルン・パウゼヴァング 高田ゆみ子訳 みすず書房

戦争の本や資料を読み込んでいると、「国」という巨大な一つの生き物同士が戦争をしていたかのように錯覚してしまうことがある。実際にはガンダムのモビルスーツのようなものを着た「日本」なんて、どこにも在りはしない。殺したり、殺されたりするのは、自分の息子と変わらない若い男の子たち。爆撃に手や足をもがれ、暴力に蹂躙されていくのは、「おばちゃん」と声をかけてくれたりする、幼い頃から知っている桜色の頬をした娘たちなのだ。そのことを心に教えてくれるのは、いつもこの本のような、心に響く物語だ。

この本の舞台は、戦時下のドイツの一地方の村だ。主人公のヨハンは17歳。召集されて三週間で片手を吹き飛ばされ、故郷の村に帰り、やりたかった郵便配達人の仕事についている。ヨハンは、毎日20kmの山道を歩いて郵便を配達する。戦場に母達が送る小包。息子たちが送る手紙。これは、嬉しい便りだ。そして、戦死の黒い手紙を運ぶのもヨハンだ。彼が歩く道のりは、そのまま物語の地図となり、郵便が運ぶ生と死とともに、くっきりと在りし日の村が立ち上がる。パウゼヴァングの筆は見事な客観性に貫かれていて、この小さな世界に、人として生きる全てがあることを描き出していく。

70年前のドイツの人々の日常は、私たちと何ら変わらない。そこにはやはり愛情があり、裏切りや悲しみがあり、家族への慈しみがあり、恋する若者たちがいる。ヒトラーに対するスタンスも様々だ。特にヨハンの母は、助産師として自分が取り上げた若者たちを戦争に送り込むヒトラーを毛嫌いしている。その物言いは痛快だ。同じ国に住んでいても、人の心は同じ色ではない。パウゼヴァングは、村人たちの人生を次々に描いていく。銃弾で顔を吹き飛ばされた青年。五人の子どもを残して死んでいった夫の死を嘆く未亡人。疎開してきた夫婦。強制労働で連れてこられたポーランドやウクライナの人々。100人いれば、100通りの物語がそこにあり、それぞれの人生に、戦争が黒々と食い込んで傷跡を残している。

彼らは、今、ここに生きている私たちと、痛みや苦しみも、喜びも、何ら変わらない。だからこそ、何度も立ち止まって考えてしまう。なぜ、彼らがヒトラーに政権を与えてしまったのか。なぜ、ホロコーストへの道を歩くことになってしまったのか。近隣諸国やアジアに侵略し、沖縄を地上戦に巻き込み、本土を空襲や原爆で徹底的に破壊され、何十万もの若者たちを戦争に送り込んだ、かっての日本に住んでいた人たちも、きっと今の私たちと変わらぬ日常を生きていた。だとしたら、これからの私たちが、また同じ道のりを歩まない保証が、どこにあるだろう。「戦争が出来る国になる」などという威勢の良い言葉に乗せられた後の光景が、確実にこの物語の中にある。

ヨハンは、母と同じ助産師のイルメラと恋をする。夏の青空のような、命の息吹に満ちた輝かしい日々。本当なら、そこから新しい命の連鎖が繋がっていくはずだった。しかし、戦争の理不尽は、全てを押しつぶす。一旦終わったかのように見えた戦争が、逃れられぬ運命のようにヨハンを飲み込んでいくのだ。ラストの理不尽さに、私はしばし呆然とした。物語を通じて、まるで息子のように片手の郵便配達人のヨハンを愛してしまった自分がいて、この理不尽を受け入れるのが辛すぎた。しかしパウゼヴァングは、あえてこの理不尽を読み手に突きつけたのだろう。

ヨハンの片手は、ヨハンだけのものだった。他の誰の手も、その代わりにはなれなかった。その片手を奪ったのは、兵士を入れ替え可能なものとして使い捨てる軍隊であり、戦争だ。ヨハンの失われた片手は、「個」のかけがえのなさ、人間の尊厳そのものなのだ。彼は、残った片手で村人たちの郵便という愛を繋ぐ。恋人を抱きしめ、キスをする。ところが、詳しいことはネタバレになるから書かないが、ヨハンは再び、彼自身であることを剥奪されてしまう。この世界に、片手の郵便配達人は、ヨハンただひとりだった。でも、彼はそのただ一人のかけがえのなさも奪われる。これが、戦争だ。人間というものが複数ではなく単数でのみ存在するかのように、地上にひとりの人間しか存在しないように人間を組織することで、全体主義は成立すると、ハンナ・アーレントは言う。戦争は、もっとも精鋭的な全体主義そのものだ。私たちはモビルスーツを着たガンダムではない。吹き飛ばされた片手は永遠に戻ってこない。

あなたは、今、どこにいるのかと。この理不尽にたどりつく道筋は、あなたの心の中にあるのではないか。一見平穏な日常に、黒々と戦争へと続く道筋は刻まれていないか。ヨハンが片手を奪われることを許してしまったとき、収容所ではやはり個人としての尊厳を奪われたユダヤ人たちがモノのように殺されていった。どんなに綺麗事で飾っても、八紘一宇や美しい日本、などという言葉に乗せられてしまったが最後、日本は近隣諸国を蹂躙して自分たちも深い深い傷を負うことになる。戦争は一旦始まれば、巨神兵のように全てを焼き尽くしてしまう。そこから逃れられる人間など、誰一人としていない。私たちは二度と人間としての尊厳を、失ってはならない。ヨハンの片手が、それを教えてくれる。

「ヒトラーの独裁政治は誘惑的でした。自分が何をすべきか、自ら判断する必要はなかったからです」

これは、後書きでのパウゼヴァングの言葉だ。終戦時17歳だった彼女は、軍国少女だったという。一昨年亡くなった児童文学者の古田足日も、戦時中に受けた皇国教育が、嘘っぱちだと知ったとき、自分がどう生きていけばよいかわからなくなったという。その思いが彼を児童文学へと駆り立てていくのだが、パウゼヴァングのこの作品にも、同じ苦しみと願いが込められているように思う。ナチスが配ったユダヤ人を貶める本を読んだヨハンが母にその是非を尋ねたとき、彼女はこう言い放つ。「あんたの脳みそはなんのためにあるの?」ドイツは、戦後自分たちの過ちと向き合い、子どもたちにも戦争責任を教えてきた。しかし、日本は過ちの痛みをまっすぐ見つめることを怠り、歴史を自分たちの都合のいいいように書き換えようとさえしている。再び片手が失われないように。誰の命と尊厳も奪われたり、奪ったりすることのないように、最大限脳みそを使わなければならない時が、もう既に来ている。パウゼヴァングのこの本は、そのことを教えてくれる。

2015年12月刊行

みすず書房

 

 

あけましておめでとうございます

 

もはや6日、いや、日付が変わって7日になって、新年のご挨拶とは遅すぎますが。 最近、長い評論を書くので目一杯になっておりますが、更新したい気持ちはいつもあるのです。(って、新年から言い訳書いておりますが) いろんなものを読めば読むほど、あれこれ勉強すればするほど、文章が書きにくくなるということを痛感しております。しかし、痛感してばかりではいかんので(笑)今年は、なるべく更新を目標にしていきたい!と抱負を書いて自分の縛りにしておきます。

生き延びていく、という言葉が大げさではないほど、今、私たちは「異常な日常」に囲まれています。児童文学に関わるひとたちは、一番その異常さに敏感です。それは、子どもたちの未来を、いつも考えざるを得ないから。インディアンのイロクォイ族は「何事を決めるにも、自分たちの決断が七代先に影響を及ぼすことを考えなければならない」と何かを議論するときに常に誓い合っていたといいます。(管啓次郎「野生の哲学」より)その視点で見つめると、今、目の前に広がっている風景とは全く違うものが浮かび上がってきて、背筋が冷たくなっていくのです。何かしなければと、胸がぎゅっとする。だからこそ、言葉の力を信じて、今年も右往左往していきたいと思います。まずは、更新!ですね(笑)

繁内 理恵

『八月の光・あとかた』 朽木祥 小学館文庫 

2012年に刊行された『八月の光』は、ヒロシマをライフワークにしている朽木祥の渾身の一作だ。「雛の記憶」「石の記憶」「水の緘黙」という連作短編は、静かな筆致であの日を描きだす。失われた声を、体温のあるかけがえない記憶としてよみがえらせ、「個」から普遍へと繋ぐ見事な構成の三部作だ。(レビューはこちら)この文庫版では、そこに「あとかた」として二篇が書きくわえられている。原爆の残した苦しみの「あとかた」。そして、「あとかた」もなく消え去っていこうとする人々の心が、鮮やかに浮かび上がる。
「銀杏のお重」と「三つ目の橋」は、どちらも若い女性たちが主人公だ。人生で一番美しく、命の喜びに輝いている季節の女たちから、原爆は家族を奪い、若さを奪い、喜びを奪った。

「銀杏のお重」の清子は、「冬の終わりに咲きはじめる水仙のような」人だったのに、見初められて嫁いだ男性は三日で戦地に行った。たった三日だけの結婚なんて、なんと残酷なことだろう。そのまま夫は帰ってこず、清子は実家に帰されてしまう。しかも、母や叔母が持たせてくれた、家宝のように大切にしていた銀杏のお重も取り上げられてしまうのだ。幾重にも重なる戦争がもたらす不幸。それでも生きてさえいれば、面変わりして人も変わってしまったような清子にも心穏やかな日がやってきたかもしれない。しかし、原爆は清子からその時間も奪っていった。桃色の頬に白魚の指をした若い命があとかたもなく消えてしまったことを、朽木は「銀杏のお重」という、ハレの日に使われる家族の象徴のような道具に重ねて描き出した。

この物語で印象的なのは、清子の嫁入り支度の様子が細やかに描き出されていることだ。賑やかに集まって、たとえ戦時中でも少しでも美しいものを持たせ、いい着物を着せて嫁に出そうと苦心する母や叔母たち。その支度をうっとりと見る妹たち。女たちの心尽くしに彩られた清子の嫁入り姿が切ない。先日、友人の娘さんが結婚した。幼い頃から知っている可愛い娘さんの花嫁姿にきゃあきゃあ盛り上がっている今現在の私たちと、物語の中の花嫁と叔母たちの姿がちょうど重なってしまう。子を産み、毎日ご飯を作り、命を慈しんで暮らしてきた女達の営みがそのお重には詰まっていたはずなのだ。あの日の朝、たくさんの女たちが朝の支度や後片付けに追われていたことだろう。そして、声もなく叩き潰されてしまったのだ。彼女たちは、間違いなくあの日を生きていた私たちなのだ。一つのお重からヒロシマを描く、この視点に心打たれる。

もうひとつの「三つ目の橋」は、生き残ってなお苦しまねばならない「私」の物語だ。遺体も戻らず行方不明になった父を探し回って死んでいった母。残された幼い妹と懸命に生きる「私」。奉仕作業を休んで級友たちの中で一人生き残った罪悪感に苦しめられながら、妹の世話をして必死で生きている。そんな彼女にも恋人ができるが、相手の両親に結婚を断られ、恋人からは「あんたのことは容易うにはわからん」と突き放されてしまう。被曝は、体だけではなく、心にも深い傷を残す。叩きつけられ、踏みつぶされ、それでも生き延びて、やっと前を向いて歩きだそうとしても、また心を折られ、彼女はあの日に数え切れない遺体が浮かんだ橋の上から川面を見つめるのだ。しかし、そばに小さな妹の命が息づいていることが、「私」を生に連れ戻す。そのとき、絶望の淵にいる「私」の心に、月光が差し込むシーンを、ぜひ読んで頂きたい。背負いきれぬものを背負い、あの日の記憶を抱いて、それでも生きていこうとする彼女の心に染み渡っていくこの光は、希望とも絶望ともつかぬ、深い思いだ。くっきりとした言葉で語れぬものが、冬の凍てつく匂いとともに心の中になだれ込んでくる。被曝という泥沼のような絶望に心折られてなお、幼子への愛情を糧に生き抜こうとする「私」の胸にあるこの言葉にならぬ思いは、大きな嘘やプロパガンダを打ち砕く静かな力に満ちている。

悲しみの影に、そっと息づく微かな光。慈愛の微笑みの影に宿る果てしない悲しみ。朽木祥の筆は生きて、揺れ動く「私」の心を繊細に描き出して胸にしみ入るほど美しい。原爆という悲惨を描いて美しいということをおかしいという人もいるが、私はそれは違うと思う。セバスチャン・サルガドという写真家がいる。今、彼のドキュメンタリーが映画で公開されているが、彼の写真は、内乱や饑餓の地獄を撮影しても、身震いするほど美しい。監督のヴェンダースが彼の写真が「美しすぎる」という批判に対して、被写体への「尊厳」という言葉で反論している。ヒロシマは、後にも先にも人類が経験したことのない地獄だ。その苦しみの中にいた人たち、そこから果敢にも生き延びてこられた人たちの、命の尊厳への朽木の深い眼差しが、物語に「美」となって構築されているのではないか。だからこそ、その「美」は、読者の胸に共感となって染みこんでいくのではないだろうか。「美」は、私たちの心が持つ、国も民族も言葉も超える、大いなる共感の力なのだ。この物語の「私」も、やはりあの日に橋の上からひたすら水面を眺めた、もうひとりの「私」。この二つの物語は、帯にあるように、決して過去の亡霊などではない。未来の私たちであるかもしれないのだ。

原発は再稼働され、安保法案はなし崩しに可決されようとしている。今こそ、この物語の中に溢れている声にならない声に耳を傾けなければならない。心からそう思う。

2015年8月刊行

わたしが外人だったころ 鶴見俊輔文 佐々木マキ絵 福音館書店


 鶴見俊輔氏が93歳で亡くなられた。文章と本でしか存じ上げないのに、あんなに凄い知性の方なのに、なぜかとても心の近くに存在を感じる方だった。朝日新聞の上野千鶴子氏の追悼の文章が心に沁みる。もっと氏の本を読まねばと、憲法九条がなし崩しにされようとしている今、焦るように思っていたところだった。私の勉強の仕方は、いつも遅すぎる。

 この本は、福音館書店が出している「たくさんのふしぎ」という月刊誌から生まれたもので、今年の五月に傑作集としてハードカバーで出版された。16歳だった鶴見少年がアメリカに渡り、ハーバード大学に入学する。しかし、日本とアメリカは戦争を始め、大学卒業間際だった俊輔青年は留置場に入れられてしまう。その後、「日本が戦争に負ける時、負ける国にいたい」と帰国するも、徴兵されて戦地へ。そこでカリエスを発症して帰国し、敗戦の日を迎えたのだ。この体験は、鶴見氏のその後の生き方の原点になっている。

「わたしは、アメリカにいた時、外人でした。戦争中の日本にもどると、日本人を外人と感じて毎日すごしました」

 大体の日本人は、自分が「日本人」であることに、何の疑いも持たない。しかし、鶴見青年は、戦争というものによって、自分のアイデンティティを根本から覆されてしまったのだ。そして、鶴見青年を乗せた日本の軍艦は、一隻残らず太平洋に沈んでいった。たくさんの人が死んでいった。では、「なぜ自分がここにいるのか」。自分の生き残った理由もわからない。その「たよりない気分」はずっと続く。常に思想家の鶴見氏の中には、この思い惑う、柔らかな心の青年が息づいている。鶴見氏は、ずっと問いかけ続けたのだ。自分は何者か。日本人であるとはどういうことか。日本がした戦争とは何か。近代とはなにか。国とはなにか。一生をかけて問い続け、行動し、自分の頭で、考え続けた人。その原点には、自分の肉体で感じた抽象化されない強い実感がある。その実感が、ここに、とてもわかりやすい言葉で、子どもたちに向けて綴られている。佐々木マキさんの挿絵も、氏の孤独や「国家」の不気味さを写し、不思議な美しさで一人の青年の内面を表現している。

 この不安や孤独に揺らいだ感覚をずっと忘れずにいたこと、魂の奥深くに刻んだことが、真のリベラルな思想を生んだのだと私は思う。だからこそ、これからを生きていく子どもたちにこの本を読んで欲しい。感じて欲しい。復刊されて良かったと心から思う。

淵の王 舞城王太郎 新潮社

「私は光の道を歩まねばならない」

 この物語の語り手は、主人公をすぐ傍で見つめ続ける目に見えないが、確固たる意志や人格を持つ者であり、主人公はその存在には気付いていないことになっている。しかし、この言葉は、その設定を唯一飛び越えて、主人公が語り手に宣言した言葉なのである。この小説のメタ構造を、さらに飛び越えた、メタ宣言なのだ。つまり、この言葉は小説世界を貫くまっすぐな芯であり、舞城の挑戦的な宣言が主人公の口から語られたものなのではないかと思う。その証拠に、この言葉は最後の「中村悟堂」でもう一度繰り返される。ところが、この唐突な宣言を聞いた目に見えぬ語り手は、アイタタ、と主人公のさおりちゃんを思い切り揶揄する。 「あははははははははは!」「是非歩んで欲しいよ!」「頑張ってさおりちゃん!」と。

 この揶揄は、軽い言葉のようでいて、実はとてつもなく重い。時間が止まって全てを吸い込むブラックホールのように重いのだ。平和や相互理解や、基本的人権の尊重なんて生ぬるいんだよ。結局世の中は強いもの、金持ってるものが勝ちなんだよ。その中で「光の道を歩まねばならない」なんて言ってたら、笑われるよー、いいの?そんなこと言ってたら、踏みつぶされちゃうよん、という、にやにやした虚無。舞城は、そのブラックホールに、言葉で錐を突き立てる。「中島さおり」「堀江果歩」「中村悟堂」という三人の主人公は、底知れない悪意の塊、にやにやとすり寄ってくる「淵の王」に、壮絶な闘いを挑むのだ。しごくまっとうに生きること。自分を、友達を大切にし、誠実に生きること。生きることを楽しむこと。しかし、その中で、彼らは傷つき、ぼろぼろにされ、あげくの果てには飲み込まれてしまうのだ。ただその事実だけを見ると、虚無派の言う「負け」なのかもしれない。しかし、彼らは、間違いなく光の道を歩いたのだ。

 私たちは、自分の生きているどの地点でも、自分の人生、自分の物語が意味しているものを完全に振り返ることができない。それがわかるのは、人生に終止符を打つとき、暗闇に飲み込まれるときなのだろう。この物語は、はじめに書いたように、単なる主人公と読者、という二元性にもう一つのファクターを放り込んでいる。普通なら黒子として身を潜めている語り手が、別個の人格として登場するメタ構造になっているのだ。従って、読み手の感情移入や視線も、その語り手と同調することになる。さおりちゃん、果歩、悟堂、の人生を見つめ、彼らの人生が光であることを知っているのは、語り手だけ。その語り手は、自分を見つめ続けるもう一人の私かもしれないし、さおりちゃんに果歩が、悟堂にさおりちゃんが、というふうに、これまた入れ子になった語り手がついているのかもしれない。(ややこしい!)しかし、とにかくこの物語は、生が死という暗闇に飲み込まれんとするときに読む黙示録なのかもしれない、と私は思うのだ。この物語を語っているのは、生と死の狭間の一点に立つもの。そこに立ち、「私は光の道を歩んだ」と思える人生とは何か、とこの物語を読みながら考えてしまった。もちろんミステリとしても、単なる怖い話としても、たまらなく面白い。でも、私にとってこの物語は、虚無や他者への無関心というブラックホールに舞城が渾身の力で切りつけた、光の一撃に思えて仕方ない。
 
 今、国会前で、日本中で、理不尽に押しつけられようとしている法案と闘うために、勇気を出して声を上げている若者たちがいる。この物語の主人公たちのまっとうさ、光の道をごく自然に歩もうとする姿が、私には彼らと重なって見える。若者たちを、愚者たちが用意している暗闇に差し出してはいけない。絶対にさせない。そう思う。

うばかわ姫 越水利江子 白泉社招き猫文庫


若さと美しさと、「姫様」と呼ばれる暮らししか知らなかった野朱という娘が、いきなり恐ろしい運命に翻弄されるところから、この物語は始まる。盗賊に追われ、逃げて逃げて、目の前はとうとう近江の湖。とっさに出会った老婆と袿を交換して身を隠した姫に、姥皮の呪いがかかってしまう。満月の夜、淵の水に身を沈めるとき以外は、老婆の姿で生きねばならなくなってしまうのだ。嘆く野朱に、姥は言い捨てる。「皮一枚に囚われて生きるものは、みな、獣さ」しかし、皮一枚で生きている動物たちは、皮に囚われない。囚われるのは、人間だけだ。この物語には、皮一枚に翻弄される人間の弱さや愚かさ、そして愛しさが瑞々しく溢れている。

 野朱は、若さと美貌を失って初めて、人の世の悲しみを知る。老いという苦しみ。自分の身一つで生き抜いていかねばならぬ苦しみ。しかし、その苦しみの中で野朱は、他人の内面に「心を寄せる」ことを知っていくのだ。
 妖かしの一員になった野朱には、この世のものではないものが見える。天下を取らんとして滅んでいったものたちは、壮麗な幻の城に未だ魂となって棲み続けている。その滅んでゆく人を慕い、命を燃やした、お濠という女の人生を夢の中で追体験することになるのだ。お濠は美しさとはほど遠い、男たちとともに戦う女だった。しかし、その人生は見事に自分を貫いた「美」に満ちていた。
 
 「人は、ひとであることそのものが宝よ」
 「生きると決めたならば、闇に沈むな。白き光を身にまとえ・・・・・・」

 命を激しく燃やした魂が野朱に語りかける言葉たちに導かれ、硬い殻の中に眠っていた野朱の生きる力が、瑞々しく咲き開く。現実と幻想が金襴の絵巻物のように交錯する物語世界。その中にまっすぐ茎を伸ばして咲く蓮の花のように、少女の恋が花開いていくのに魅入られてしまう。これだけ凝った時代背景の中で、ひとりの少女が体感していくものをリアルに肌で感じさせる筆力は、深い知識と人間洞察あってこそのものだろう。自分の中にある感性や力を、解放させること。それには、「他者の物語」との深い関わり合いが必要なのだ。

 物語の最後に舞う花吹雪に、作者の、「命」に対する深い愛情を感じた。後悔ばかりに囚われがちな自分の弱さに、この愛情がひときわ沁みた。生と死。愛と憎しみ。幸せと不幸せ。それはすべて、姥皮ひとつの裏返しなのかもしれないが、裏返った最後に残るものが、この物語にメッセージとして溢れているように思う。

星のこども 川島えつこ作 はたこうしろう絵 ポプラ社

昨日思い立ってブログのタイトルを少し変えてみた。何のブログか明確にするためにと、少しでも検索ワードに引っかかるとよいな、という計算からだが(笑)好きな作品を、好きだ!と書くというスタンスは変わらない。この作品も、表紙を見ただけで「好きかも」と思った予感が当たって、とても素敵な本だった。

まず、文章がとても心地良い。この物語は、ゆいという少女が思春期の入り口に立って迎える、小さなターニングポイントを描いたものだ。急に背が伸びて、今まで気にしなかった異性も、少し気になったりする。自分でももてあますほどの大きな波がやってくる前の、体の中がざわめくような季節が、一年の自然の移り変わりと共に描かれる。ゆいと一緒に、柔らかな命の気配にふんわりと包み込まれるような心持ちになった。

 そう、この物語に満ちているのは、様々な命の気配だ。まず、仲良しの姉であるまいの妊娠。「おねえちゃん」が迎える様々な変化に、まいは戸惑う。妊娠しているときというのは、自分であって自分ではない、「あたしの体は今、ちびちびちゃんが操縦しているようなもんだよ」という時間なのだ。植物たちが一斉に芽吹くような命のたくましさへの畏怖のような気持ちを、ゆいはお腹が大きくなっていく姉とともに体験する。そのたくましい命は、目覚め始めたゆいの心と体にも芽吹いているものなのだ。
 もう一つは、ゆるやかな時の流れの中に溶け込んでいる、耳を澄ませないと聞こえない遙かな命の気配だ。学校にあるゆいのお気に入りの月野池には、河童の主がいるという。ゆいには、幼い頃にここで出会った不思議な少年との大切な思い出があった。千年を生きる木々や森たちのように、自分とは違う時の流れの中にいる存在を感じ取る力が、ゆいにはある。目には見えないものを見る感受性は、やはり河童と出会う『かはたれ』(朽木祥、福音館書店)の麻のように、美を感じる心、何者にも侵されない心の羅針盤を持つことに繋がっていく。だから、ゆいの奏でるピアノの音には、人の心を揺さぶる力があるのだと思う。

 今生きているということと、自分が遙かな時の流れの中にいるということは、同じことなのだ。刹那と永遠をこの身にいだく、命の不思議への畏怖と敬意が、ゆいという少女の日常から素直に伝わってくるこの物語は、木々が緑に染まっていく今の季節にぴったりだと思う。

2014年11月刊行

『鹿の王 上 生き残った者』『鹿の王 下 還って行く者』上橋菜穂子 角川書店

この本が、今年度の本屋大賞をとったらしい。先日季節風のためにこの本の書評を書いたのだが、上橋菜穂子氏への深い敬意を込めて違うバージョンのものをアップしておきたい。

上橋菜穂子は、ヴァンとホッサルという対照的な二人の男を軸に、息をもつかせぬ迫力で物語を展開していく。黒い犬の襲撃をきっかけに死病が蔓延した岩塩坑から幼子のユナを連れて逃げだした奴隷のヴァン。そして、天才医師として権力の中枢まで入り込み、自分たちの国を滅ぼした黒狼熱という病気の謎を追うホッサル。細部まで徹底的に構築された世界を細やかに描きながらも、上橋の視線は常に「複眼」だ。上橋は決して一方通行の正義を描かない。一つの正義があるところには、必ずそれに反する立場や勢力があり、考え方がある。大国の覇権に伴う近隣諸国の、生き残りをかけた戦術や陰謀。踏みつぶされた民族の怒りが絡み合う事情が、複数の立場から丹念に描かれることによって、読み手は常に価値観が揺らぎ、何が真実なのかを考えさせられることになる。自分が持つ価値観や正義は、他の目から見たときどう映るのか。正しいと信じるものは、本当に正しいのか。怒りは、復讐は、他を断罪する理由になり得るのか、否か。これは、ハイ・ファンタジーという俯瞰の視線を通した、自己への問いかけなのだ。

ヴァンは、かっては飛鹿を操り、山中でのゲリラ戦を得意とした部隊「独角」の頭を務めた男だ。「独角」は小国である故郷の部族が東乎瑠と有利な立場で交渉をするための、死ぬことを前提とした捨て駒だった。その事情に心を寄せるものは、ヴァンを歴戦の英雄とみるだろう。しかし、彼に殺された部族のものから見れば、彼は残虐な殺人者だ。また、ホッサルという医学の天才も、彼に助けられたものには神の手と言われるが、医学を穢れた呪術師として見るものからは、自分たちの血を汚す不心得者にしかすぎない。自分たちがいる場所の価値観は、違う目から見るとくるりとひっくり返るのだ。その中で、現実とどう向き合うのか。人としてどう生きるのか。ヴァンは独角の最後の生き残りだ。仲間たちはまさに捨て駒として戦地に散った。しかし、今、たった一つ守らねばならないものがある。それは、自分が背に守っている幼子の命だ。自分の能力を利用するために、ユナをさらっていったものたちに、ヴァンが吠える。

「大義のためだかなんだか知らんが、自分の命なら勝手に捨てろ。だが、おれの命はおれのもの。あの子の命も、あの子のものだ。…おれはな、なんの関係もない幼子の命を使い捨ててかまわないと思う、おまえや、いま、おれの手の下で涎を垂らしているこの爺に怒ってるんだよ。」

このヴァンという男の魅力的なことと言ったら。男が惚れる強さと情を持ち合わせる男。幼い我が子と妻を病で失い、大きな孤独を抱えながらも、再びユナを背負って守り抜こうとする包容力。彼と行動を共にする密偵のサエが彼に心惹かれてしまうのも無理はない。ヴァンは、そもそも生きること自体に深い虚無感を持つ男だ。愛した妻も息子も、病で簡単に彼から去っていった。こんなに簡単に奪われる人間の命とは何なのか。上橋は、その虚無感を抱えたヴァンの魂を裏返す。人間の視点からではなく、山犬たちの視点を借りて、この世界全体の命の流れを、光として描いてみせる。その光景の、何と不思議で美しいことか。テロの道具として使われる犬たちは、暴力と恐怖の象徴のように見えるが、実は仲間たちや他の動物たちの命と深い友愛で繋がっているのだ。まるで、『風の谷のナウシカ』のオームたちのように。その動物たちを、自分たちの「大義」のために殺戮の道具にするのは、人間の傲慢であり、身勝手に過ぎない。しかし、自分たちの大義のために子どもたちや動物を犠牲にする身勝手は、どれほどこの世界に転がっていることか。人間の勝手な都合に操られかけたオームを、そして風の谷を、自らを犠牲にして救ったのはナウシカという少女だが、この物語でその役割を果たすのは、ヴァンだ。

これ以上ネットであらすじに触れるのは、いかんだろうと思いつつ。分厚い上下巻があっという間の読み応えで、なおかつラストシーンが素晴らしいことだけは書いておきたい。民族も生まれた場所も違う血縁で結ばれてもいない者同士が結ぶ絆が光りとなって輝く。幼い子どもの、まっすぐな、ひたすらな愛情が、闇に消えてゆこうとするものを、取り戻そうとする。人は生まれて、死んでゆく。その間を必死に生きようとする姿には、イデオロギーも国も、宗教も、関係ないのだ。争いを超えて繋がろうとする人間の、子どもの力を信じたい。私はこのラストに、上橋の次の世代を生きる子どもたちへの深い思いを感じた。今、まさに読まれるべき本だと思う。

2014年

大塚 忍 写真展 『birthday』 感想

先日の日曜日、東京の蒲田にあるギャラリー「南製作所」まで、大塚忍の個展を見にいってきた。 ギャラリー紹介はこちら。http://oishiihonbako.jp/wordpress/?p=1901

土地には「気」というものがある。そこに生きた人たちの暮らしの中から、少しずつ染みこみ、立ち上る気配のようなもの。この「南製作所」というギャラリーには、長年この場所で働いてきた人と機械たちが呼吸していた、気持ちよい「気」が満ちていた。大塚の写真は、その「気」の中から生まれる新しい命を紡いで、ひそやかな美に輝いていた。

大塚の写真は、かってここにあった機械や工具を撮影したものと、氷をテーマにした連作で構成されていた。人の手によって使い込まれてきた工作機械たちは、まるで生き物のようだ。そして氷の連作は、無機質な結晶であるはずなのに、氷の粒に閉じ込められた時間を湛えて、一度きりの命に咲いている。どちらも人の目には見えない命なのだが、大塚のレンズはその輝きを捉えて私たちの目に見せてくれる。日常の何気ないものからこういう思いがけない「美」を発見する彼女の写真が、私はとても好きだ。今回の写真たちも、まことに不思議な驚きに満ちていた。鳥の翼やおたまじゃくしの卵のような。はたまたナスカの地上絵や航空写真のような氷の写真たち。一番大きな作品は、立ち上がり、光に向かって触手を伸ばす植物を感じさせて、まさに「birthday」だった。工場から、ギャラリーへ。これまでの歴史を引き継いで始まった場所にふさわしい氷の華だ。彼女の作品を見ていると、静寂がなによりも雄弁であることを深く実感する。

この日はプレゼントがもう一つあった。オープニングパーティで、パーカッショニストのコスマス・カピッツァさんとオーボエとのコラボ演奏があり、間近で楽しい演奏を堪能させてもらった。私の耳には、彼等の音に重なって、ここに憩う目に見えないものが、写真たちと一緒に小さく歌っているのが聞こえてきた。この幸せな場所に、これからどんな物語が展開していくのだろう。

[映画]アメリカン・スナイパー クリント・イーストウッド監督

この映画は、実在の人物をモデルに描かれたものだ。主人公のクリスは、愛するものを守りたいという、ハリウッド映画そのままの正義感から軍人になる道を選んだ男。強い番犬になれ、という父親の刷り込みからずっと、クリスの価値観は「強く正しいアメリカ」から揺らぐことはなかった。彼の頭の中には、絵に描いたような悪と闘うヒーローのような自分の姿があったに違いない。しかし、意気揚々とイラク戦争に出かけた彼を待ち受けていたのは、そんなわかりやすい敵ではなかった。彼が初めて殺したのは、爆弾を持っていた女性と、幼い少年だったのだ。ベトナム戦争もそうだったが、相手の懐に飛び込んでの戦争は、ゲリラ戦になる。女性も、老人も、子どもも、武器さえあれば簡単に「敵」になるのだ。もがけばもがくほど、深みに沈んでいくような血まみれの戦地から帰還してみれば、戦争などどこにも存在しないかのような本国の脳天気さが待っている。クリスが派遣された戦争には、倒すべきわかりやすい悪も存在しなければ、守るべきか弱きものも存在しない。その空しさの中で殺し合いをしていくうちに、クリスにとっての戦争は、仲間を殺していく相手方のスナイパーへの私怨へと変化していく。つまり、大義ではなく感情なのだ。自分の同期の男が殺されて復讐にいった戦闘で返り討ちにあう。その恨みが忘れられないクリスは、周りじゅう敵兵だらけ、四面楚歌の状態で命令に反してスナイパーへの一撃を放つが、そのせいで彼の部隊は総攻撃をくらう。クリスは、殺したいという自分の欲望を抑えることが出来なくなってしまったのだ。

開高健が、『歩く影たち』の中の一篇で、アメリカ軍の将校が、短い休暇のあとでそわそわと戦地に戻っていく姿を描いていた。彼が、人を殺したがっていたということに、別れてから気付いたときの衝撃が忘れがたい短編だったが、クリスも同じように精神を蝕まれていく。アメリカに帰国しても、過剰な暴力性を抑えられないのだ。映画は一見彼がPTSDから雄々しく立ち直ったかのように描かれている。(実際に、同じように心を蝕まれた帰還兵士たちを助ける軍事会社を立ち上げて活躍していたらしい。)しかし、私には最後まで彼が立ち直っているとは思えなかった。最後のシーンででクリスと妻が愛を確かめ合うシーンがあるのだが、なんと彼は妻に拳銃を突きつけて「服を脱げ」と言うのである。もちろん冗談交じりの口調ではあるが、幼い子どもたちがいる前で妻に拳銃を突きつける、という行為自体が完全におかしい。しかも、出かけるときに、その拳銃をひょい、と家の梁の上に置きっぱなしにするのだ。クリスが幼い頃に、銃を地面に放り出して父親に酷く怒られるシーンが映画の冒頭に伏線としてあるところをみると、この銃の扱いの粗雑さも、彼の異常さを浮かび上がらせるイーストウッドの仕掛けの一つなのではないかと思う。イーストウッドは、そういう小さな仕掛けをあちこちにしのばせている。イラク側のスナイパーの傍らには、クリスの妻と同じように赤ん坊を抱く彼の妻がいる。また、クリスたちが暴力で情報を引き出したイラク人の家族は、ネタを売ったことでイラク兵に殺されてしまう。ネガとポジをひっくり返すように、敵にも味方にも同じように守ろうとするものがあることを、そして弱いものが守られるどころか、まず踏みつけられていくことが、容赦ない戦闘シーンと共に刻み込まれていく。何とこの映画の撮影中に、モデルとなった人物が帰還兵に殺されてしまうという事件が起こり、エンドロールにはその実際の葬儀の様子が流される。映画で描かれている凄惨な戦争と、英雄として葬られる葬儀の美しさとのギャップは、酷くもの悲しかった。

イラク戦争で160人を射殺した人物を主人公にしたこの映画が、一体反戦なのか、それとも戦争賛美なのかという議論がアメリカでは巻き起こっているらしい。監督したクリント・イーストウッドは、それは見るものが考えることだと何も語らない。多分彼は、アメリカという国から見た戦争を、ごろん、と深くえぐり取って観るものの前に無骨に転がしてみせたのだ。反戦か否か、というわかりやすい箱に入れるのではなく、その狂気も大義も、大義に踊らされる個人の苦しみも、人が戦争に惹かれる快感も含めて、一人の男の姿に戦争を、ただ語らせた。「愛するものを守りたい」というわかりやすい大義を背負って戦争に行ったスナイパーが、現実の殺し合いの中で、どんどん私怨に心を縛られ、蝕まれていく。戦争という非日常に煽られていく感情の暴走を、間近に肌で感じさせられる二時間だった。

大塚 忍 写真展 「birthday」

私の長年の友人が、大田区に新しくオープンするギャラリーで写真展を開きます。

大塚 忍 写真展

「birthday」

2015.3.27(fri) ~ 4.10(fri)

  ギャラリー 南製作所 

  〒144-0034 東京都大田区西糀谷2丁目22-2  木曜日定休

http://immigrantp.exblog.jp/23791551/

ここは、オーナーの水口惠子さんのお父様が機械工場を営んでらした場所です。

以前、ここで大塚が水口さんのダンスとコラボした写真を見たことがあります。

http://immigrantp.exblog.jp/16993186/

長年使い込まれた機械たちと水口さんが語り合っているようでした。

今度はギャラリーとして生まれ変わったから、「birthday」。

工場萌えの方には垂涎もののギャラリーになっているそうです。

工場と大塚の写真が、どのような融合と化学反応を見せてくれるのか、楽しみです。

お近くの方、ぜひ足をお運びくださいませ。

私も大阪から行こうと思っています。