おむすびころりんはっけよい! 森くま堂作 ひろかわさえこ絵 偕成社

 絵本の世界は今、ボーダーレス化が進んでいて、刊行される新刊も大人を意識して書かれたものが多いように思う。絵本という表現形式はそれだけ大きな可能性を秘めているということなのだから、それはそれで歓迎されるべきことなのだ。しかし職業柄、図書館で子どもたちに紹介する目線で絵本を見てしまいがちな私には、時にこの傾向が寂しく思われることがある。昨日もこの「おいしい本箱」の相棒のkikoさんと大阪のジュンクで新刊チェックをしていたのだが、この絵本の楽しい存在感が、私にはひときわぴかぴかと光って見えた。

さんかくとまんまるのおむすびの国というのが、もう視覚的に楽しい。ふたつの国は仲が悪い。とはいえ、同じおむすびで、同じ畑で「からあげ」や「めんたいこ」の具を育てている(これもまた、おもしろい)のだから、違うのはただ形だけなのだ。似て非なるものは最も仲が悪いという。まんまるの国のおむすびたちが、なぜか大阪弁であるところをみると、東京と大阪、くらいの違いにすぎないのだが、得てして関係がこじれがちなのが常。ふたつのおむすびの国はとうとういくさをすることになる。

私がとっても素敵だと思うのはここからだ。「いくさ」がわからぬおむすびの殿様同士で、お相撲をとることになるのである。家来や一般人のおむすびを戦わせて、後ろでふんぞりかえったりしないのである。殿様が自分で身体を張って、いざ、尋常に勝負!毎日毎日自分でも呆れるほど戦争の記録を読み続けているが、こんなにいい争いごとの解決方法は見たことがない。兵器もなにも使わずに、まわし一つで健気に相撲をとる殿様ふたりが可愛くて、しかももの凄い熱戦なのである。ふたりとも応援したくなるではないか。そして熱戦のあとは・・・これはもうこの作品を読んで確かめていただきたい。爆笑して、ほっとして、おいしいおむすびを頬張ったときのように笑顔になれる。

ここに描かれているのは「人間」への信頼だ。おむすびのように、中身はおんなじなのに、ほんの少しの肌色や、うまれた場所や、その他もろもろ、そんなんどっちでもかまへんのと違いますか、ということで対立しあう人間の業のようなものは確かに存在する。それが人間やねん、弱い方が滅びていくのは当たり前や、そやから強う、誰にも負けへんようにしとくもんや、そうやろ、という声は、いろんな形で迫ってくる。子どもたちも、日々その価値観に追い回される。しかし、私たちの喜びは、この絵本の最後のページ、色も形も味も違うおむすびたちが、思いのままに楽しんでいる、この風景そのものにある。ここを目指してきた力が、様々な時代を生き抜いてきた人間には必ず備わっている。そう思わせてくれる。

何よりいいのは、こういう深読みさせてくれるテーマをはらみつつ、あくまで楽しいユーモアと、おにぎり一つ一つが活き活きしている絵の素晴らしさで「面白い!」ということを堪能させてくれるところであることも申し添えておきたい。コロナでしんどい今、子どもと一緒に大笑いして、何度も楽しめる一冊。

セイギノミカタ 佐藤まどか作 イシヤマアズサ絵 フレーベル館

「正義」ってなんだろう。正しいことってなんだろう。アンパンマンも仮面ライダーも、悪人をやっつける正義の味方は大人気のはずなのに、なぜか日々の暮らしのなかで「正しいこと」を言うと嫌われる。「偽善者」「ええかっこしい」「いい子ちゃん」などと言われ、疎まれる。
例えば、この物語の主人公のキノは、すぐに顔が真っ赤になることを気にしている。それをクラスメイトのお調子者のタイガが目敏く見つけてからかいのネタにしてくる。キノは心のなかではムカつくけれど、はっきりと「やめろ」とは言えない。そんな空気を読まないことを言うと、余計にからかわれるだけだから。そんなとき、空気を全く読まない、セイギノミカタの周一が「やめろよ!」とやってくる。ところが、キノは助けてくれてありがとう、と思うどころか、そうやってしゃしゃり出てくる周一がウザくてたまらない。よけいなお世話なんだよ、ほっといてくれよ!と思ってしまうのだ。タイガの悪ふざけはますますエスカレートし、それに対する周一のリアクションも大きくなってキノはどうしていいのかわからなくなってしまう。前の席のひとみちゃんは、そんなクラスの雰囲気に流されず、いつもクールに本を読んでいる。
あるよね、こんなこと!と共感できるシチュエーションを自然に描くことができる筆力はさすが。その上で、キノと周一、そして飄々とマイペースで知的なひとみちゃん、という三人のキャラが活き活きとしているので、語り手としてのキノに感情移入しながら、いろんな角度からこのささやかで、でも、解決しにくい出来事を眺めることができる。私ならどうするかな。こんなにはっきり、自分の意見が言えるかな。どうして、いつも正しいことを言う周一を、みんなうっとうしく思うのかな―知らず知らずのうちに想像してしまうに違いない。ブレイクしたブレイディみかこさんの『ぼくはイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)の言葉を借りるならエンパシー、他人の靴を履いてみる体験ができる。
正しいことを正しい、というのは勇気のいることだ。そして、正しいことや正義、というのもまた考え出すと難しい。この物語のこの本のタイトルの「セイギノミカタ」は、正義の味方と、もう一つ「正義の見方」という意味も含んでいるように思う。大抵の戦争は正義を唱えることから始まるし自分にとっての正義が相手にとってもそうだとは限らない。そして社会の構造的な暴力のあり方を考えていくと、その根っこが自分のなかにも生えていることが、否応なく見えてしまう。私のなかに、タイガもキノも、ひとみちゃんも、周一も住んでいるけれど、一番やっかいなのはタイガの作った空気に便乗して流されていく、その他大勢でいたい自分だ。アニメや時代劇の正義のヒーローはわかりやすい小悪人をやっつけるから胸がすく。でも、自分との戦い方は教えてくれはしないのだ。最後にキノが見せた勇気が、この社会を変える一歩。この光をつぶさないようにしたいと心から思う。空気を読んで、強いものに流されてきた一人一人のあきらめが、今の私たちの社会のどうしようもなさを作り上げているように思うから。

 

コロナ日記 2020年4月5日

 

 コロナ日記 2020年4月5日

.・コロナの感染死者数が国内で100人を越えた

・大阪の感染者数 新たに41人 累計387人

・政府がコロナ終息後に二兆円規模の観光・飲食支援の方針

 

ええっと・・・この政策のネーミングが「Go To Eat」「Go To Travel」というらしいのだが、これ、知識の乏しい私でもアカンと思うヘンな英語だ。東大卒の官僚たちは、このネーミングに誰も異を唱えなかったんだろうか。「総理、さすがです」とか言って揉み手しているお取り巻きの図が彷彿とするが、もう、その絵に描いたような馬鹿さ加減に吐き気がする。

もうこの感染症で、公式に発表されているだけで70人の方が亡くなっているのに。海外では死者が5万人を越えた。

 

コロナ日記2020年4月4日

コロナ日記2020年4月4日

 

・大阪における感染陽性者数 346名

・全国の医療従事者 151名感染

 

素人目にも感染爆発は近いと思われてならない。国からは何の具体策も提示されない。

医療現場はぎりぎりの状態だという。これから発症しても治療してもらえるのかどうかもわからない。この状況のなかで、家のなかをどう清潔に保つか、ウィルスを持ち込まないか、日々神経質になっていく自分がいる。夫や息子はいまいち危機感が薄いのが、またいらだちの元になり、ストレスが溜まっていく。買い物にもあまり出たくはないが、やはり日々足らなくなるものはあり、スーパーやドラッグストアに行く。そしてふらふらと、除菌グッズを買いたくなる。4匹の猫がいて、日々あちこちで色々な落とし物をしてくれるというのもあって、拭き取り用のシートなどは確かにいくらあっても足らないぐらいだ。しかし、それ以上に、弱っている心が、除菌グッズに引きよせられる。アルコール系はほぼ皆無で、豊富に売っているのは手洗い石けんの詰め替えぐらいなのだが。恐怖は人の弱さを増幅させる。いや、私の弱さというべきか。

 

職場の大切な友人が、ご家族の介護で退職することになった。十年以上共に働いた、とても有能で、よく気がついて、信頼できる人。これからもずっと一緒に働けると思っていただけにショックは大きい。ご両親が体調を崩されたときと、このコロナウィルス騒ぎが重なってしまったのが、何とも辛い。病人を抱えながら、この難局を乗り切らねばならないストレスを思うと、背筋に冷や汗が浮いてしまう。高齢の母と暮らす私だって、明日は我が身だ。病気や障害を抱えた家族とともに暮らす人。デイケアなど、公的な援助を受けながらやっと日々を送る人たちの大切な支えを、このコロナが奪ってしまう悲劇も、もうあちこちで起きているに違いない。にも関わらず、国は大企業に気前よくお金を渡すことしか考えていない。このことを、絶対に忘れない。この駄文を毎日綴ろうと思ったのは、忘れないためだ。

 

コーヒーを入れる。香が立つ。そのたびに、ほっとする。

庭のフリージアが甘く香る。ああ、まだ大丈夫だと思う。

陽光が降り注ぐ庭には、バラの新芽が赤く萌えて、命が漲っている。

ただただ、圧倒される。彼らの強さに。

 

今日読んだ本 『詩の言葉・詩の時代』三木卓 晶文社

コロナ日記2020年4月3日

コロナ日記 2020年4月3日

 

 自分の覚え書きとして。

 

・本日の大阪における陽性者数 累計311名

・政府より困窮生活者への支援として一世帯あたり30万支給との発表

・フリーランスを含む個人事業主に最大100万円、中小企業に最大200万円の現金給付を検討

・日本中のツイッター民と海外から、昨日発表された一世帯あたり二枚の布マスク配布が「アベノマスク」と失笑を買う

・大企業には一千億円出資案(融資ではなくて、出資というところがキモ)

・ロシアなどの食糧供給国が、輸出から自国消費へと方針切り替え

  昨日の布マスク二枚配布にも腹が立ったが、それ以上に怒りが沸騰したのが、「新型コロナウィルス感染症による小学校休業等対応支援金」から風俗営業者を除外したこと。セックスワーカーの女性たちをなぜ支援から除外するのだろう。「過去に企業向けの助成金で反社会的勢力の資金洗浄に使われたことがある」という理由だというのが厚生労働省の説明だが、今回の支援の対象は企業ではなく、生活している個人だ。しかも、子どものいる家庭に対しての支援なのだから、原則全員給付するのが当たり前。偉そうにロンダリングなんて言いますけど、一日たった4100円ですよ。ロンダリング、どうやってすんねん。子どもを持つセックスワーカーの女性たちは、一人で子育てしている方も多いはず。上間陽子さんのお書きになった『裸足で逃げる』(太田出版)を読んで知ったのだが、いわゆるキャバクラなどで働く若い女性たちにはシングルマザーが多いらしい。若く学歴がなく、幼い子どもがいて、実家から援助を受けられない女性たちが手っ取り早く生活費を稼ごうと思えば、やはり接待業なのだ。これは女性が受け続けている社会的な差別構造にも深く関わることで、だからこそ手厚く手を差し伸べることこそ、行政の、国としての仕事だろう。それを冷たく切って捨てる。しのごのご託を並べてみたところで、この措置が風俗業に就く女性たちへの蔑視によるものだということは明白だ。

日々発表される支援策には、このセックスワーカーの方たちへの蔑視と同じ、命の線引きがあからさまに行われている。あんたは助けないよ、と毎日言われ続けて、コロナのストレスにまた新たな痛みが加わる。今、この国を動かしている人たちにとって、人間と認識されているのは、ごく一部の一流企業に勤めている、時々偉そうなことばかり言う、首相とお友達の経団連のお歴々だけなのだろう。この国に生きる人間の顔が、彼らには見えていない。文学と、哲学を切り捨ててきた彼らには。

じわじわと黒い水が足元を浸すようなウィルス感染の不安を解消するどころか、ますますストレスをかけてくる政府にこそ、私たちは殺されるかもしれない。

月白青船山 朽木祥 岩波書店

この物語のプロローグをもう何度読み返したことだろう。追っ手の気配を感じながら闇の中で笛に隠された瑠璃を塚に埋める若者。若者を導くような、妖しく光る白猫。この幻想的かつ、若者の血と汗の匂いまで感じるほどの緊迫した空気に肌が総毛立つような気さえする。ここから、引きずり込まれるままに物語にのめり込んでいく気持ちよさは唯一無二だ。物語は一旦夢から醒めたように現代へと移り、兵吾と主税という古風な名前を持つ兄弟が登場する。ある事情で夏休みの間東京を離れ、父の生まれた古い家に滞在することになった二人は、近所に住む靜音という少女と犬のダンと共に、不思議な場所と現実を行き来する一夏を過ごすことになる。

鎌倉には、八〇〇年近く前からの落ち武者の道である切り通しがそのまま残っているという。三人と一匹は、その切り通しから、時が止まったまま流れない村に迷い込む。その村の桜はつぼみのまま咲くこともなく、人々は闇に食い尽くされそうになりながら恐れと不安の日々を繰り返している。三人と一匹は、村人に失われた瑠璃を取り戻してほしいと頼まれるのだ。現代に帰ってきた彼らは、「星月谷」「大姫」「瑠璃」という言葉を道標に、鎌倉に秘められた悲しい伝説に迫っていく。歴史という地層が積み重なっている鎌倉という土地の魅力、小さな手がかりから謎を解き明かしていく探偵の謎解きのような面白さ。吾妻鏡をベースにした古典世界に触れる典雅な趣。あちこちにちりばめられている、次の本への扉。開けても開けてもきりが無い玉手箱のような作品世界の深みにため息が出る。これだけの複雑な構成をするりと読ませる手腕はさすがとしか言いようがないが、何より心打たれるのは、子どもたちが歴史や時間の壁を越えて、悲しみや痛みに閉じ込められた過去の魂を解放していくところだ。

この物語には幾つかの時代の深い悲しみが、夜空を貫く天の川のように流れている。いや、流れているならば良かったのだ。理不尽にもぎ取られ、踏みにじられたまま置き去りにされた悲しみ。その過ちを解放するのは、「不思議なできごとを苦もなく信じられる」子どもの力だ。その力は物語の力そのものでもあるし、大人の心に秘められた子どもの心を取り戻すことでもある。時間が止まった村の人々の願いを叶えたいという子どもたちの行動が、現在を生きる大人の心もまた動かしていく。ミッションを果たした子どもたちが見た鮮やかな風景は、その力の具現化したものなのかもしれない。「歴史とは過去と現在の対話である」とE・H・カーは述べている。まるで自分と関係なさそうな歴史の出来事が、実は現在と地続きの場所で繋がっていることを子どもたちは実感する。鎌倉という歴史と深く結びついた土地で、過去との対話を通して開いた心の扉は、未来を開く扉でもあるはずだ。物語への旅は、すぐに現実を変えるものではない。しかし、この旅で子どもたちと読み手の心には、先の見えない未来へ進むときの方向感覚のようなものが宿るのではないだろうか。いつか、この物語を手に鎌倉を旅してみたい。靜音や兵吾や主税とともに、輝く星空を眺めてみたい。

2019年5月 岩波書店

バレエシューズ ノエル・ストレトフィールド 朽木祥訳 金子恵画 福音館書店

 三人姉妹がいる。ポーリィンとペトローヴァとポゥジ-という可愛い名前の三姉妹だ。彼女たちはロンドンの大きなお屋敷にコックやメイドたちと暮らしているが、実は三人ともみなしごだ。屋敷の主人である大叔父の化石収集家が、世界中のあちこちで出会った親と暮らせない赤ちゃんを、お屋敷に送ってよこしたのだ。だから彼女たちは誰一人、実の親と会ったこともない。お屋敷を管理しているシルヴィアと彼女の乳母のナナ、コックやメイドたちと暮らしている。大叔父さんはポゥジーを送ってよこしてからは全くの行方不明。彼女たちは残されたお金で細々と暮らしているので、生活は倹約一筋。食事だって、お芝居で体験する『青い鳥』のチルチルとミチルとあまり変わらないくらいだ。だから、一番の問題は、子どもたちの学費をどうするかなのだ。教育にはお金がかかる。三姉妹は家計を助けるために舞台芸術学校に入り、自分で人生を切り開いていこうとする。

この物語の面白いところは、登場人物たちの誰一人、血が繋がっていないというところだ。大人たちは血の繋がっていない三姉妹にこれでもか、と愛情を注ぐ。親代わりの真面目で人の良いシルヴィアも、厳しくて世話焼きで愛情深い乳母のナナも、下宿人としてやってきたシェイクスピアの専門家のジェイクス先生も、数学の専門家のスミス先生も、芸術学校の先生のセオさんも、自動車修理工場の経営者のシンプソン夫妻も。教養であったり、知識であったり、ちょっとした楽しみであったり、自分たちが持っている有形無形の豊かなものを、チームを組んで三姉妹に注ぐのに何のためらいもない。それは三姉妹がみなしごだからとか、かわいそうだから、というところから発生した行動ではないように思う。目の前に困っている子どもがいるのなら、何かしら出来る大人が迷い無く手を差し伸べるのが当たり前でしょう、という潔い割り切り。こういうのを、ノブレス・オブリージュというのかもしれない。風邪をひいたポーリィンに薫り高いジンジャーティーを入れながら、彼女たちが姉妹になったいきさつを聞いたジェイクス先生がさらりと言う。

「あなたのことが、ほんとにうらやましいわ。そんないきさつでフォシルを名乗ることになったり、思いもかけないめぐりあわせで姉妹ができたりなんて、胸がおどるようなことだわ」

個としての人間の誇り高さをお互いに持ち合う、そんな人生の過ごし方がこの物語の中にいい風を吹かせていて、その空気を思い切り深深とすいこむのがとても心地良い。百年前のロンドンが舞台の物語なのだが、少しも古くない。ストレトフィールド自身がプロとして関わってきた商業演劇の神髄が感じられるし、何より少女たちの日常のデティールが見事に描かれている。彼女たちがいつも苦労する、オーディションのドレスにまつわるあれこれ。細かい生地の値段まで、額を付き合わせて真剣に相談するのを読んで共感しない女の子はいないだろうと思う。クリスマスの楽しい一日。夢のような舞台の裏にある現実。出演料の計算まで、しっかり描かれていておもしろい。完訳の強みだ。隅々まで考え抜かれた訳文はどこまでも読みやすく、やはり惜しげも無く豊かなものがさらりと詰め込まれているのが伝わってくる。子どもは親の愛情だけで育つのではなくて、こんなふうに様々な大人たちの眼差しや優しい手に包まれることが理想なのだと思う。この本に託された祈りのような愛情もまた、その優しい手の一つなのだ。

姉妹たちはつましい暮らしのなかで、思い切り笑って、悩んで、自分たちで答えを探していく。美貌で長女の責任感にあふれたポーリィン。本当は自動車と本が大好きで、舞台が苦手なペトローヴァ。バレエの天才で、幼さと老練さが同居する不思議な個性のポゥジ-。彼女たちは失敗もたくさんするけれども、そのときの大人たちの見守り方も素敵なのだ。装丁も美しく、訳注も後書きも何度も読んで飽きない。長く手元において、繰り返しこの姉妹たちに会いたい。

2019年2月刊行 福音館書店

トリガー いとうみく ポプラ社

二人の少女が、少しの間学校と家庭を離れ、生きる意味を問う旅をする時間が、とても繊細なタッチで描かれている。音羽(とわ)と亜沙見(あさみ)という、この少女たちの名前がいい。町の中に細くゆらめく、この二人にだけ見えている場所で、この名前が何度も何度も、お互いの心を開く呪文のように呼び交わされる。そのたびに、ふっとこの物語の中に自分も沈み込んでいくような気がする。

年の離れた姉が死んでしまってから、様子のおかしかった親友の亜沙見が家出し姿を消してしまった。亜沙見が悩んでいることを薄々感づきながら、何も踏み込むことが出来なかった音羽は、自分を責め続けていた。しかし、姿を消して三日後、そっと音羽のところに亜沙見がやってくる。母の目を盗んで一晩眠り、また出ていこうとする亜沙見に、音羽は、今度は見失わないという決意でついていく。 亜沙見がなぜ家を出たのか、それには彼女の出生の秘密が隠されている。亜沙見はそれを知ってしまったことで、自分が生まれてきたことが罪ではなかったのかと苦しむのだ。

この作品の中に三浦綾子の『氷点』という小説の話が出てくる。これも主人公の陽子の出生の秘密が物語の鍵となる、長編小説だ。その昔、遊びに行った先の親戚の家にこの本があり、あまりに面白くて、大人の本を読んで怒られはしないかとびくびくしながらも一晩で読んでしまった記憶がある。原罪、という言葉が、よくわからぬままに強烈に胸に刺さってしばらく抜けなかった。 自分はなぜ生まれ、なぜ死んでいくのか。自分が生まれてきた意味とは何か。こんなことを面と向かって誰かに聞いたら、「中二病?」「アイタタ」とちゃかされてしまうのがオチだろう。しかし、この世に人間と生まれてきて、この問いが心に浮かばない人がいるだろうか。誰かに聞いてみたいと思わない人がいるだろうか。誰もが抱えていて、だからこそ口にするのが怖いこの問いにまっすぐ取り組む、いとうみくという作家の姿勢に、私は背筋がきゅっと伸びる思いがする。人は、この問いの中に首まで深く漬かることが必要な時があると思うからだ。例えば生きるのが苦しいと思うとき。自分の居場所がないと思うとき。同じ問いの中を彷徨いたいと、人は本の扉を開くのだから。

「とわ」という音がフランス語の、あなた、toi という音と同じなのは偶然だろうか。とわ、と、あさみ。あなたと、朝を見る。二人で揺れ動く心のトリガーを握っているような、ひりひりと痛む夜の旅には、忘れがたい風景が、心に焼きついて離れない言葉がたくさん刻まれている。いとうは、言葉にならない思いを、言葉で風景にして見せることのできる、希有な作家だ。どうしたって届かない、本当にはわかりようがない他者の痛みと心に、わからないから必死に手を伸ばし、寄り添う音羽の葛藤が、この作品の一番の光だと私は思う。迷い、戸惑いながらもその光を連れて朝の中に帰ってきた二人の物語を、何度も味わいたい。

2018年12月刊行 ポプラ社

むこう岸 安田夏菜 講談社

 印象的な表紙だ。渋谷のスクランブル交差点のような場所を、制服を来た少年が陸橋から見下ろしている。中一の和真は、有名中学に猛勉強の末に入学したものの、落ちこぼれて公立の中学に転校した。頭の中は惨めな敗北感でいっぱいだ。そして、もう一人、見下される場所に閉じ込められ、水槽の中の金魚のように窒息しかかっている少女の樹希がいる。父が借金を残して死に、パニック障害を抱える母親は働くこともできない。生活保護を受けながら、母親のかわりに家事をして妹の面倒を見ている。この物語は、スクランブル交差点をすれ違う人たちのように、この社会のなかでほとんどお互いの姿を見ることのなかった二人が出会い、見つめ合うところから何が始まるのかを描いた物語だ。 

「けどさー。生まれた家によって、できることって決まっちゃうんだよねー。愚痴じゃないよ、それがほんとだもん。」

 

樹希には夢がある。しかし、生活保護を受けている家庭では、大学進学は許されない。高校を卒業すれば、働くことが義務づけられている。結局、この生活からは抜け出せないのかという憤りと理不尽。「働かずに金もらえるんだ」とさげすまれることに、樹希は疲れ果てている。まるで、閉じ込められた水槽の金魚のように、窒息しかかっている。

ふとしたことでアベルというナイジェリア人のハーフの少年の勉強を見ることを樹希に頼まれた和真は、「居場所」というカフェでアベルと勉強をはじめる。それまで「貧しい世界」に住んでいる人たちのことを怖いと思い、嫌悪感を抱いていた和真は、樹希とアベルと知り合ううちに、二人の居場所の無さが、自分の孤独と響き合うのを感じ、安らぎを覚えるようになる。そして、樹希の夢と、それが叶えられない理不尽を知って、生活保護のことを調べはじめる。

生まれる場所や環境、性別、親の有無。生まれる場所を私たちは選べない。選べないからこそ、私たちの人生は社会や歴史の構造的な問題と密に繋がっているのだが、生まれた場所しか知らない子どもたちからは、その仕組みは見えない。見えないままに、あなたたちはそこにいるしかないんですよ、という理不尽を、あたかも自分で選んだ道のように思い込まされることになったりする。その不条理にぶち当たり、もがく二人の姿が、いちいち胸に響いてくる。ひたすら人に勝つことを親に求められる和真と、とにかく貧乏人は大人しく小さくなっていろと言われる樹希の苦しみは、そのまま、大人社会の生きづらさと理不尽に繋がっているからだ。

しかし、二人はただ黙って負けてはいない。同じ空気を吸っていても違う場所にいた二つの視線。それが交差し、ぶつかる場所で火花が散って、化学反応のようにお互いの心に燃えていくものを、安田は骨太に描き出す。面白いのは、その希望の火が「知る」という養分を吸って燃えさかっていくところだ。自分たちの権利とは何か。生きていく尊厳とは何か。とっつきにくい法律のなかにその問いかけがあり、叶えられていない理想があり、対応しきれていない現実があるということが、実感をもって迫ってくる。そして「知る」ということが行動に繋がる。そこが、とてもいい。この世界は変えられる。その気概が読み手の胸を叩いてくる。

和真が最後に見つけた、自分が「知りたい」「学びたい」となぜ思うのかという問いに対する答えを、何度も読んで私は心に刻んだ。子どもたちだけではなく、ぜひ大人にも読んでもらいたい。感じてもらいたい。そして、心に火を燃やしてほしい。この世界を変える火を。

2018年12月刊行

青いスタートライン 高田由紀子作 ふすい絵 ポプラ社

東京オリンピックの影響だろうか。最近、若い子たちの活躍が大きく取り上げられることが多い気がする。将棋の藤井四段のような、何十年に一度という天才の活躍は確かに心弾むけれど、心配性の私は、あんまり若い子たちを急かさないで欲しいなあと思ってしまう。
ゆっくり大きくなるタイプの子どもは焦ってしまうんじゃないだろうか。

この物語の主人公、颯太もゆっくりタイプの男の子。でも、仲良しのハルは、もう中学受験の準備を始めている。そして、お母さんのお腹の中には、生まれてくる妹か弟がいる。颯太は、自分の周りの流れが、急に速くなったように感じてしまう。おばあちゃんのいる佐渡に夏休みの間行くことになった颯太は、おばあちゃんが見せてくれたオープン・ウォータースイミング、つまり遠泳の大会の映像に心惹かれて、なぜか自分も出場することを決めてしまうのだ。プールで25mしか泳いだことのない颯太に、おばあちゃんは夏生という17歳のかっこいい男の子をコーチにつけてくれる。佐渡の美しい海で、颯太と夏生の夏が始まるのだ。

この物語の魅力は、言葉が五感を鮮やかに立ち上げてくるところだ。海の匂い。日焼けした肌の感触。颯太が体で感じることが、まっすぐに心の波として打ち寄せる。颯太は、決して要領が良いわけでも、運動神経がいいわけでもない。海もほんとは怖かったりする。でも、そんな自分にまっすぐ向き合う素直さが颯太にはある。この、海という大きな大きなものに向き合うときの、もう、自分以上でも、自分以下でもない感じ。自分がちっぽけだよなあと思う爽快感が、颯太と、夏生という二人の少年の姿から自分に吹き込んでくる。この風に、吹かれているのがとっても気持ちいいのだ。海に向かうときは、誰かと比べる必要なんてない。遠泳は、最後は心だという、地元の漁師のおじいちゃんの言葉が、とてもいい。佐渡に生きている人だからこその、人生の言葉だ。

海の魅力は、怖さとセットになっていると思う。どこまでも広がる視界は、気持ちいいけれども、果てがなさ過ぎて、不安になる。入ってみたい衝動にかられるけれども、いきなり深くなって足を取られたり、見た目ではわからない急な流れがあったりする。子どもが、人生という、先の見えないものに対する恐れや不安にも重なるようにも思う。その海の、ほんとに短い距離だけれど、自分の力で泳ぎ切って見えた輝く風景を、颯太と一緒に見て欲しいなと思う。きっと海に行きたくなる。佐渡は作者の高田さんの故郷だ。この海、私も行ってみたい。もう、颯太のように泳ぐのは無理だけど(笑)

八月の光 失われた声に耳をすませて 朽木祥 小学館 


偕成社版に収録されていた「雛の顔」「石の記憶」「水の緘黙」、文庫版に収録された「銀杏のお重」「三つ目の橋」、そしてこの美しい本に新たに収録された「八重ねえちゃん」と書き下ろしの「カンナ―あなたへの手紙」。密やかな声を心に響かせる短篇が7篇積み重なって、こんなに美しい装丁で再刊されたことがとても嬉しい。君野可代子さんの装画と挿絵が素晴らしい。表題紙の上には桜の花びらの薄紙。それぞれの短篇のタイトルにも、手向けの花のような、心のこもったイラストがついている。七つの物語は、あの日から少しずつ違う時間軸で描かれている。原爆という途方もない暴力になぎ倒された、小さな人間たちの物語に、とても相応しい装丁だ。

「いとけないもんから・・・・・・こまいもんから、痛い目におうて(あって)しまうよねえ」

これは、老犬のトキを権力に殺された日の「八重ねえちゃん」の言葉だ。戦争末期に、軍服用の毛皮にしたり、軍用犬として使うという名目でたくさんの犬たちが殺された。年老いて、もはやしっぽもすすけてしまった老犬まで殺されてしまうと思っていなかった綾は「なんで連れていかれたん、なんで、なんで」と泣き叫ぶ。しかし、その問いにきちんと答えられる大人はいないのだ。ただ、お人好しで、皆に軽く扱われていた八重ねえちゃんだけが、「いけんよねえ、こうようなことは、ほんまにいけんようねえ」と一緒に泣いてくれた。この少女たちの、小さなものを踏みつけにするものたちへの怒りと、人の痛みに共感する力が、もっと、もっと、人間には、今の私たちには必要なのだ。

この7篇の物語を、私は何度読み返したことだろう。まるで自分の記憶のようになっている、と思うほどなのだが、やはり読み返すたびに違うものが見えてくる。例えば、「水の緘黙」。この短篇は、7篇の中で、一つだけ「ウーティス―ダレデモナイ」という『オデュッセイア』のキュプクロスに寄せられた頌が物語の前に付けられている。この物語の中に出てくる人たちは、「僕」「K修道士」という風に、固有名詞を持たない。「僕」は、あの日からさすらい続けている。

「水の緘黙」の自分の名前を忘れてしまった「僕」は、ついてくる影たちから逃げるように彷徨うが、夜には川のほとりに寝に帰る。そこは、原爆スラムと呼ばれた川沿いの町だったのだろうか。だとすれば、そこで、ただ彷徨う「僕」を助けていたのは、やはり被爆して、そこにバラックを建てて住んでいた人たちだったのだろうか。原爆スラムは、「ヒロシマの恥部」と言われ続け、その後強制撤去されて平和公園の一部になった。そう思うと、「僕」は、忘れられていく町の記憶とも重なるようにも思える。そこで、懸命に生きていた人たちの姿とも重なるように思う。記憶は、歴史の出来事として記録されるときには単純化されてしまう。物語だけが、人間の心と体の厚みをもって、語り継がれていくのだ。

私は、この物語は、生き残ってしまった者と、あの日に声も上げずに死んでいった人たちとの、魂の対話の物語だと思っている。生き残った人たちにも、ずっと苦しみはつきまとった。「三つ目の橋」の娘の同級生たちは、あの日奉仕作業でピカにあい、誰一人助からなかった。彼女は腹痛で休んでいたのだ。本当に偶然にすぎなかった生と死を分けた理由は、ずっと娘を苦しめる。被爆による差別。親を亡くした生活の困窮。「僕」は、復興していく町が見かけを変えていっても、ずっと変わらず苦しみを抱えている生き残ってしまった人たちの心そのもののように、行き場もなくさまよい、数え切れないほどの人たちが死んでいった水辺にうずくまっている。

しかし、「水の緘黙」の扉絵に添えられている百合の花のように、この苦しみは、人間が人間の心を持っているがゆえの、切ない希望なのだと思う。この7篇の物語の主人公たちの苦しみに触れると、その尊い痛みから、ひそやかで香り高い、小さな花が生まれるように思うのだ。作者が、渾身の思いを込めて咲かせたこの花が、この表紙のようにたくさんの人たちの心に咲いて、世界中に広がっていくことを、私は心から願っている。それこそが、照りつける八月の光を、絶望の闇から希望の光へと変える力になるのだから。書き下ろしの「カンナ あなたへの手紙」は、70年以上経った日本から、世界に向けて警鐘を鳴らす物語だ。今月の7日、ニューヨークの国連本部で、核兵器禁止条約が採択されたが、世界で唯一の被爆国である日本は、その条約に署名しなかった。「八重ねえちゃん」の少女のように、「どうして、どうして」と問い続ける決意も込めて、この物語を、また何度も読み返そうと思う。何度も、何度も。

 

ミュシャ展 スラブ叙事詩 見るものを射貫く眼差し 東京新国立美術館

スラブ叙事詩を見てきた。予想を遙かに超えて巨大だ。展示できる場所を選ぶこの巨大さは、なぜ必要だったのだろうと思っていたのだが、実物を見て納得するところがあった。これは体験型の絵画なのだ。ミュシャはサラ・ベルナールという大女優の舞台装置や衣装、ポスターを作り上げていた。今で言うプロデューサーのような役割をしていた人だ。その経験も踏まえ、空間が持つ力を最大限に引き出すことで、自分の描く歴史の一瞬を、見るものに肌で感じて欲しかったのではないだろうか。

例えば『原故郷のスラブ民族』の、星空に浮かぶ異教の祭司から見下ろされる威圧感。そして、何より見るものと対峙し、こちらをみつめる二人の男女の凍り付くような眼差しは、強烈だ。今、まさに背後から襲いかかりつつある、殺戮者たちの息づかいや激しい足音の気配が、この眼差しに凝縮している。そして、この眼差しは、この一枚だけではない。どの絵にも、明らかに「見る者」を意識した眼差しでこちらを見つめてくる人物がいる。あなたは今、目撃者になった。見てしまった以上、この出来事と無関係ではいられないのだよ、という眼差しだ。戦いで殺されてしまった人々、故郷を追われさまよう母と子どもたち。ミュシャが描いているのはスラブ民族の人々の歴史だが、民族や宗教の対立をきっかけにした憎しみは、今も世界中に渦巻いている。画布の向こうから見つめ返す眼差しに、こんなに射貫かれてしまったのは、私自身、迫り来る暴力の足音に大きな不安を抱えているからなのだろうと思う。

また、画面はどんなに巨大になっても、そこに存在する人たちは、一人一人の確かな体温と自分だけの顔を持って描きあげられている。『ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛』では、戦いのさなか、火のついた松明が火薬に投げ込まれる、その瞬間が描かれている。画面いっぱいにひしめく、人、人、人。梯子によじ登ろうとしている人も、疲れて座り込んでいる人も、何かを囁き合う人たちも、次の瞬間には全てこの爆発に巻き込まれてしまうのだ。画面中央の黒い帯がそれを暗示して不気味に流れている。私はこの黒い帯に、原爆投下のきのこ雲を連想した。その瞬間まで、自分の運命を知らずに生きていた人たちの顔がここには刻みつけられている。

「見る」ことは、どうしても見るものと見られるものを分かつ。この戦闘を絵にし、客観化してしまうことは、古典絵画の戦闘シーンのような「ただ眺めるもの」として片付けられる危険性も生んでしまう。今の3D技術がある時代なら、ヴァーチャルで体験させてみたいと思うところかもしれないが、ミュシャは、暗黒を絵の中央に出現させることで、この一瞬後を想像させる推進力を絵に込めたのだ。この推進力はヴァーチャルな世界よりも強いメッセージを生むのだと私は思う。ここに刻みつけられた「瞬間」には終わりがない。だからこそ、永遠の問いかけとして見るものの心に刻印されるのだ。芸術が生み出す力を強く感じた一日だった。

茶色の朝 フランク・パブロフ・物語 ヴィンセント・ギャロ・絵 高橋哲也・メッセージ 藤本一勇・訳 大月書店

この物語は、ファシズムが音も無く静かに自分の日常の中に入り込んでくる恐怖を描いたもの。猫が増えすぎるという「問題を解決」するために、「茶色以外の猫をとりのぞく制度にする法律」を「仕方がない」と承諾したことが始まりになって、どんどん取り締まりは広がっていきます。茶色の犬以外の禁止へ。過去に茶色以外の犬猫を飼っていた人たちへの弾圧へ。いつの間にか、茶色以外のものは全て許されない朝を迎える恐怖です。以前読んだ記憶があるので、すっかりレビューを書いたつもりになっていたのに、検索してみたら無いんです。つまり、前回読んだときには、この恐ろしさが身にしみていなかったのでしょう。私も、この恐怖を見過ごしてきた一人です。

教育勅語を復活させ、教育の現場に銃剣で人を殺す方法を持ち込む。それがいつの間にか、閣議決定や、党議拘束で縛られた国会で決まっていく。権力は常に子どもを支配しようとします。子どもを洗脳すると、優秀な兵隊になっていくのは、戦前の日本の教育やヒトラーユーゲントの政策、今も世界中で増え続けている少年兵を見れば、明らかなこと。

もう何年も前から、ひっそりと教科書は政権寄りに改訂され続けているし、「個」より国や全体に奉仕することを目標にした道徳教育も、本格的に実施されます。いつの間にか、私たちの生活は茶色に染まっているのです。過酷な労働。格差の拡大。原発の再稼働。沖縄の基地問題。銃剣で人を殺す以外にも、戦争はそこここに、転がっている。何が出来るのだろう。何が。焦りながら、策を持たない私に、後書きの高橋哲也さんのメッセージが染みます。何が出来るのかを、私は誰かに教えて貰わずに、自分で考えなければならないのです。この違和感や疑問、恐怖を決して手放さないことを軸にして。

いろいろな形はそのまま残っている。家族や会社や、学校や、音楽や、映画や、そんなものは変わっていないのに、いつの間にか精神はそっくり入れ替わっている。でも、形はそのまま残っているから、誰も変わってしまったことに気づかない―これは、丸山眞男の評論で紹介されている、ヒトラーが台頭していった時代について語ったドイツの言語学者の証言です。同じことを繰り返してはならない。何十年かあとの子どもたちに、なぜ、あの時に止めておいてくれなかったのか、と言われないためにも。

 

 

あひる 今村夏子 書肆侃侃房

三つの短編それぞれがお互いの補助線のような役割を果たしていて、読み終わったあと、ほの暗く浮かび上がってくるものがある。それは、家族という形の不気味さだ。

この物語たちの中で、個人名で呼ばれるものは、あひるの「のりたま」と、子どもたちだけだ。大人たちは父、母、弟、おばあさん、という役割としての呼び方しかされない。二つ目の「おばあちゃんの家」のおばあちゃんに至っては、孫以外の家族から「インキョ」と呼ばれている。役割の中に、「個」は埋没してしまい、見えなくなってしまっている。

彼らが守ろうとしているのは、形だ。あひるののりたまは、あっという間に死んでしまう。空っぽになったケージに、しばらくしてまたあひるが帰ってくるが、それは明らかに違う個体のあひる。しかし、老夫婦はあひるを入れ替えたことを、自分でも忘れてしまったかのように振る舞う。あひるが入れ替えられたのは、子どもたちを呼び寄せるためだが、彼らは子どもが本当に好きだから、呼び寄せたかったわけではない。「子どもがいることが幸せ」だという形に拘っているからなのだ。

その形が本当に幸せなのか、幸せとは何なのか、この物語の中にいる人たちが自分に問うことは、無い。いや、そこを問いただしてしまったら、かろうじて保っているものが粉々になってしまう。それは、きっと果てしなく面倒なことなのだ。何があっても毎日ご飯を食べて、生きていかねばならないから。だから、見ないことにする。見ないことで、その形に馴染んでいるうちに、空っぽな自分になっていく。その不気味さをあぶり出しているのは子どもの眼差しだ。子どもの目は、見たくないものを見ないようにする、という取捨選択をしない。出来ないのだ。全てを等価に見る、その回路を通ってあぶり出されるものは、形と心を同じものだと思い込む暴力だ。死んでいくあひるは、その暴力に命を奪われる。

自分の名前を持たずに死んでいくあひるは、間違いなく私の中にも、私の家庭にもいる。この社会のあそこにも、ここにも。さらりとそれを平易な言葉遣いで書き上げてあるのがいい。この人の書いた児童文学が読んでみたいと思う。

海に向かう足あと 朽木祥 角川書店

この物語は、近未来ディストピア小説だ。朽木さんは、この物語を、未来への強い危機感をもって書いたという。折しも、アメリカの大統領が交代し、彼が次々と放つ手前勝手な政策は、世界中を混乱に陥れている。この不安の中で読むこの物語の、なんとタイムリーで美しく切なく恐ろしいことか。

主人公は、エオリアン・ハープ(風の竪琴)号という美しいレース用のヨットを共有している6人のクルーたちだ。オールドソルト(年期の入ったヨット乗りのこと)の相原さん、照明デザイナーの寡黙でいい男のキャプテン村雲。家族思いの公務員三好。物理学者で政府の研究機関に勤める諸橋。可愛い泉ちゃんという妹のいる若い研人と、バイトで生活費を稼ぐ他はすべてをヨットに捧げるヨットニートの洋平。彼らはチームでレースに出る。そのために、生きていると言っても過言でもないほどの海にとりつかれた男たちだ。
彼らは、新しい船を手に入れて、シンプルで最上の滞在型ホテルのある三日月島を起点にしたレースに出る計画を立てる。前半では、その楽しい未来に向かっての、光溢れる充実した日々が鮮やかに紡がれる。しかし、読み進むうちに、彼らを取り巻く世界の空気が徐々に影を増していくのが伝わってくる。そして念願のレース当日、なぜか応援に来るはずの家族も現れず、電話も繋がらない。ネットとかろうじて繋がった電話からの断片的な情報から伝わってくる現実に、ヨット乗りのユートピアのような島で、彼らは恐ろしいまでの絶望に見舞われてしまうのだ。

作者は、クルーたちの家族や恋人、ペットや仕事との関係を前半で細やかに描いている。そのディテールの楽しいこと。特に海とヨットの情景のすばらしさは、朽木ファンなら『風の靴』でお馴染みで、嬉しいことに、やっぱり彼らのホームは『風の靴』の舞台でもある風色湾だ。つまり、この湾のどこかには、海生のおじいちゃんの別荘があり、アイオロス号が係留されているんだと思うと、一気に想像は膨らんでいく。この作品は成人向けなので、主人公たちの世界も広い。特に寡黙なキャプテン村雲と、どこか儚げな輝喜の恋は印象的だ。残る5人の個性も鮮やかで、彼らが楽しげに船を走らせる、そのあれこれを読んでいるだけで、自分も海の空気を吸っている気持ちになれる。そう、かけがえのない日常の美しさが溢れているのだ。

6人が協力しないと走らないヨットのように、私たちは目に見えない糸を、共に生きる人や動物、土地や仕事、大切にしている場所に編み目のように張り巡らせて生きている。その奥行きと肌触りを、作者は6人のクルーたちを中心に、これまでの作品世界も重ねて緻密に描きあげ、奥深い作品世界を作り出す。だからこそ、彼らを襲う絶望が、彼らが失ってしまったものの重みが、自分の痛みのようにずっしりと伝わってくる。私は初めて読んだとき、ラストシーンの切なさに涙が止まらなかった。

「だけど、俺たちにとっては、いきなりなんかじゃない。俺もお前も、お前らも、ぼんやりとでもわかってただろう。こんな日が来るかもしれないって」

最年長の相原さんのこの言葉は、きっと、今誰しもが持っている不安そのものだ。だからこそ、今、世界を不安が覆い始めた今、読んで欲しい。この物語は、一つの絶望の形だ。しかし、これは生きる喜びと輝きをふんだんに詰め込んだ絶望、たくさんの人がこの絶望を噛みしめて別の足あとを作って欲しいと願う希望でもある。