小公女 フランシス・ホジソン・バーネット 高楼方子訳 福音館書店

昨日、「私の一冊」は何か、ということを考えていて、またこの本について語りたくなってしまいました。先日行った東京の教文館・ナルニア国で、この福音館の復刻シリーズが店頭に置かれていて、それがなんと高楼方子さんのサイン本!正直ちょっと悔しかった。だって、私はこの本が出版されたときに、すぐにネットで購入してしまっていたんです。実はそのときkikoさんがそのサイン本を購入しました。サイン見せて貰って、写メ撮りかけて思いとどまりました。だって、余計に切ないもん(笑)もう一冊買おうかと悶々とする今日この頃・・・。

以前のレビューにも書いたし、昨日の記事にも書いたのですが、私はこの本を幼い頃から何度も何度も読んできました。私が幼い頃に読んでいたのは、抄訳のものです。挿絵も、今から思うと妙ちきりんなフランス人形のようなセーラだった。でも、とにかく好きだったのです。その本を、私が特別に好きな高楼方子さんが翻訳される!これが興奮せずにいられようか、ということで、すぐに入手した私は、届いた完訳本の表紙のセーラを見て、打ち抜かれたのでした。それは、私が長らく心に思い描いていたセーラ・クルーそのものだったからです。エセル・フランクリン・ベッツの描くセーラは、飾り気のない黒いドレスを着て、強い眼差しで一点を見つめています。アニメのセーラのほんわか美少女ぶりとは全く違う、激しい内面をのぞかせるその眼。組んだ両手からは、繊細さと思索的な性格が感じられます。親しみやすいというよりは、簡単に声をかけるのをためらうような、凛とした佇まいの少女です。見る人が見れば、彼女が並々ならぬ魂を秘めていることがわかるはず。この表紙は、高楼さんのリクエストによるものだとか。さすが!と、私は心が震えました。そして、私はこのセーラを見て、高楼さんの訳によるこの本を読んで、なぜ自分がこの物語が好きなのか、やっとわかったのです。(遅っ!)

この物語の中で、セーラは劇的に境遇が変わります。特別寄宿生として、何不自由なく全てを与えられ、褒めたたえられる11歳までのセーラ。そして、父親の死によって全てを失い、下働きとして食事もろくに与えられずこき使われる2年間。でも、その浮き沈みの中で、セーラは常に変わらず、見事に自分を貫きます。その誇り高さと気概に私は惹かれていたのです。そして、その彼女を支えていたのは、高楼さんも後書きでおっしゃっていますが、「想像力」です。セーラは幼い頃から想像力と共に生きていた、アメリア先生に言わせれば「変わった子」です。セーラは本が、物語が大好きです。物語に入りこむ、ということはその時間他の人生を生きること。つまり、セーラは物語を通じて自分を相対化することを知っているのです。

「人に起こるいろんなことって、偶然なのよ」
「私があなたじゃなくて、あなたが私じゃないっていうのは、偶然のできごとみたいなものなのよ」

この世界にはありとあらゆる境遇があり、生き方があり、貧富の差があり、能力の差があり、千差万別の人生がある。ありとあらゆる時間と空間を超える本の旅は、常に見知らぬ「あなた」と「私」との回路を開くことなのです。セーラは、幼い頃からその回路を開いて生きていた。そして、その回路を通じて自由に想像力を羽ばたかせることを知っているのです。物語というフィクションの中に自分を投入することで、自分の幸福も悲劇も相対化し、そこに埋没しないこと。そして、物語の力を、自分の生きる力に変えること。そこから生まれる名シーンは、皆さんご存じのことだと思います。自分の棲む屋根裏部屋を、バスチーユの囚人の部屋になぞらえてベッキーと暗号を交わすシーン。せっかく拾った小銭で甘パンを買って、それをほとんど乞食の女の子に与えてしまう。たったひとつ残ったパンを、一口食べたらお腹がいっぱいになる魔法のパンだと想像してやりすごす。中でも私の好きなのは、ロッティに自分の屋根裏部屋のロマンを語ってきかせるシーンです。みずぼらしい屋根裏部屋が、セーラの言葉の魔法でロマンチックな短編小説の趣を帯びてしまう。こういう細部の彩りがこの物語の魅力です。ロッティが去り、セーラは自分の部屋を見回して思います。「・・・・寂しいところだわ・・・・・」「ときどき、世界でいちばん寂しいところのような気がする・・・・」でも、この、魔法の溶けた寂しいセーラとロンドンの空を眺めるのは、私にとってとても大きな慰めでした。それは、現実の私が生きている世界で見上げた空とセーラの見上げた空が、どこかで・・・そう、物語という世界を通じて繋がっていると思っていたからです。

想像力と、そこから生まれる物語の力。セーラが学園で大きな影響力を持ったのは、その能力によるところが大きいのです。アーメンガードが、ベッキーが、ロッティーがセーラから離れられないのは、その魔法のような魅力です。でも、その魅力を最初から最後まで理解できない人間が、たった一人います。それが、ミンチン先生です。彼女とセーラが出会った時、セーラがまだ見ぬ人形のエミリーのことを想像で語って聞かせたところから、もうセーラのことが大嫌いになるんですよね。それが見事に伝わってくるのが、バーネットの筆力ですが。そこから、この二人は敵対することに運命が決まってしまう。ミンチン先生はとことん現実派です。目に見えるものしか信用しない。この物語は、想像力と現実派の闘いとも言えるのかもしれません。セーラのミンチン先生に対する辛辣な物言いは、想像力派であるバーネットが常日頃抱いていた想いに近いものなのかもしれないな、などと想像したりします。その闘いに最後はお金という現実で決着がついてしまうところが、少々残念なところでもあり、一番ドキドキさせるところでもあるのですが、そのラストを引き寄せたのは、後書きで高楼さんもおっしゃっている「現実を変えていくセーラの想像力」なのでしょう。

先日参加した講演会でデイヴィッド・アーモンド氏が「物語は崩壊に向かう力を押し戻すもの」とおっしゃっていました。私も、その力を信じています。想像力の翼を、大きく広げる物語の力。その原点を、私はセーラの中に幼心の中にも見出していたのではないかと、思うのです。いや、カッコよく言いすぎやな。私は、想像力たくましい子どもでしたが、どちらかというと発想が貧乏くさいというか(笑)自分が悲劇の主人公みたいに死んでしまうところを想像して、自分をいじめた子が泣いてるところを想像してうっとりしたりとか・・・貧乏育ちでしたから、100万円拾ったら何を買うかを、新聞広告を見ながら計算してみたりとか(あーあ・・・)よくそんなことを考えていたのを思い出します。そんな私にセーラは憧れでした。だって、自分が女王さまだと想像する女の子なんて、本当に私の想像力では思いもつかないことだったのですから。彼女は、精神の香気がどこから生まれるのかを私に考えるきっかけをくれたのです。今読み返すと、物語としてはあちこちに矛盾もあります。でも、そのセーラの誇り高い精神は、いつの時代にも変わらぬ光を投げかけてくれるのだと思います。その精神の輝きをくっきりと浮かび上がらせたこの新訳は、かけがえのない物語の財産だと思います。きっと、何度も何度も読み返すだろうなあ・・。そして、また不意に思いだしてこうして語ると思います。文章長いね・・・。

2011年9月刊行
福音館書店

by ERI

飛ぶ教室 31 2012 秋号

今号の『飛ぶ教室』は、【44人の「わたしの一冊」】という特集。本好きには堪えられない。メモメモ片手に、読みふけってしまう。「わたしが出会ったこの一冊、わたしを作ったこの一冊」というテーマで、44人の方々が自分を変えた一冊を語っておられるのだ。本に深く関わる生き方をしている人の「一冊」への想いは深く濃く、それぞれの出逢いの熱さに、こっちも感染してしまいそうになる。

例えば、いしいしんじさんの「大人以上の大人の、本以上の本」の長新太さんへの想い。私も、こんな風に長さんを語りたかった。あの大きくて突き抜けていて、長さんの絵を見ているだけで、どこまでも世界が広がっていくようなあの感じ。長さんが書いた本たちがなかったら・・・という想像は、マンガ界に萩尾望都さんがいなかったら、と思うくらいの欠落感を伴う。巨人だよねえ、と思うんだが、その大きさをこんなに肉体的な感動で書けるのはさすがにいしいさんだと心から感嘆した。

江國香織さんの、もはや自分とうさこちゃん(ブルーナです)の区別がつかないほどの混然一体ぶりも凄いし魚住直子さんの『ムーミン谷の冬』への共感の仕方にも、感じるところがあった。ムーミンのシリーズはどれも大好きなのだけれど、『ムーミン谷の冬』は、私にとっては別格なのだ。それは、夜の中で自分だけ起きているという孤独への親和感なのかもしれないと、魚住さんの文章を読んで思ったことだった。植田真さんの、「日常の景色を変える鍵」という、ホームズ作品に出逢った夏の想い出は、コナン・ドイルの本の魔法に強烈に囚われていた小学生の頃にタイムスリップさせてくれたし。ここには、44人の、本と出逢ってしまった人の幸せがぎゅっと詰まっている。うん。やっぱり、本と出逢うのは幸せなことだ。

新人短編共作では、庭野雫さんの『母のワンピース』と、くぼひできさんの『俺を殺す方法』が印象的だった。『母のワンピース』は、母とのささやかな行き違いが、痛みのままに残ってしまった女の子の気持ちが、とても伝わってきた。母が生きていれば、そのうち笑いごとになってしまったかもしれないことが、少女には後悔となって残っている。でも、手作りのワンピースという温もりを感じ、そこに母の想いを感じることが、少女を少し大人にする。共感する、そこにいない人の心を理解しようと伸ばす手が、心を結んでいくのだということがさり気ないメッセージとして書かれているように思えた。『俺を殺す方法』は、なかなかショッキングな物語だった。母親の自殺未遂を目撃してしまった少年の話だ。語り手は、主人公の秀一の中に住む「俺」。日常の中でいきなり両親とものっぺらぼうになってしまうような秀一の疎外感が、「俺」に語らせることで浮かび上がっている。あまりにもショッキングなことが起こると、人は記憶を途切れさせて自分を守ろうとする。でも、本当は忘れられるはずなどない。心の奥深くにしまいこんでいるだけ・・・ややもするとぽっかり浮かびあがろうとする不安や恐怖の在りかを考えさせる作品になっている。これは、けっこう挑戦的な試みかもしれないけれど、私は、子どもというのは、心の奥底に恐怖という箱を持っているように思う。怖いけれど、怖ろしいけれど、時々そこをあけて見ずにはいられない、箱。この短編も、その箱に転がっていることの一つのような気がするのだ。家庭の崩壊というのは、子どもにとって一番の恐怖だ。その恐怖の手触りを、ざらりと乾いた筆致で書いてあることに惹かれた。知らなくていいことなのかもしれない。でも、物語という方法で、自分の、もしくは他者の未知の領域を知るのも、私は子どもの物語のひとつの営みだと思う。

「books」には、加藤純子さんによる朽木祥さんの『八月の光』の評が載っていた。三つの短編の有機的な繋がりを「記憶」を鍵として述べてらっしゃる文章に、自分のレビューに欠けていたものを見つけてはっとした。そう、こういうことだったんだなあ・・。さすがだ。

最後に、自分の「わたしの一冊」を考えてみた。子どもの頃の一冊なら・・・『小公女』だと思う。今でも時々読み返すくらいの一冊だ。なんでこんなに惹かれるのか、ということに、先日高楼方子さんの新訳を読んで気がついた。セーラは、どんな境遇にいても変わらない。ちやほや甘やかされても、どん底の暮らしの中でも、彼女はいつでも自分自身で在り続ける。その気概と誇り高さが、私は好きだったのだ。どこにいても、自分を物語の主人公になぞらえてしまうことで現実から距離を置いて自分を見つめる。そんな生き方を、私は知らず知らずにセーラに教えてもらったように思う。そして、大人になってからの一冊は、朽木祥さんの『かはたれ』だ。目に見えないものを感じること。耳に聞こえない美しい音楽を聞こうとする心。それこそが、この人生を生き切るための光であることを、大人になって新鮮な眼を失いかけた私に教えてくれた一冊。河童の八寸は、出会った日から、ずっと私の中に棲んでいる。やはり、折に触れて読み返す、中年になってからの私の原点なのだ。

今更ですが・・引っ越してきました!!

これだけ記事をあげておきながら、今更の御挨拶ですが。

旧ブログ おいしい本箱Diary http://oisiihonbako.at.webry.info/ から、ここにお引っ越しして参りました。と言っても、アーカイブはまだ全然移せておりませんし、ここもまだ使い勝手がわからぬままの急発進ですが、新しいレビューはこちらにあげていこうと思っております。そして、これまでとは違う取り組みもやっていきたいと思っています。
これまでのレビューも少しずつこちらにお引っ越しさせますが、あちらはそのまま消さずに置いておこうと思いますので、これまでのレビューを読みたい方は、旧ブログの方をご覧くださいませ。

「おいしい本箱book cafe」
という名前にふさわしく、居心地のいい場所にしていきたいと思っておりますので、これからもどうかよろしくお願いいたします。

管理人 ERI

子どもと絵本に親しむ 【いいお産の日】

今日(11月4日)は、関西ろうさい病院で、【いいお産の日】というイベントがありました。これは、かんさい労務病院のもとでいいお産をし、笑顔のあふれた家庭・社会を一緒に作るという目的で、毎年病院が行っている行事だそうです。そこで『子どもと絵本に親しむ』というテーマで、kikoさんがメインのお話を、私がサブでお手伝いを、という形で参加させて頂きました。

ブックスタート(赤ちゃんに初めての絵本をプレゼントする活動です。今、多くの自治体で行われています)のお仕事をしていてよく思うのが、「絵本」について、親ごさんたちが構える気持ちをもってらっしゃること。「いつから読めばいいのか」「どういう風に読めばいいのか」「どんな絵本がいいのか」漠然と、ルールを求めてらっしゃるように思えることがあります。でも、絵本を読むのにルールはいらない。いつから、どんな絵本を読んでもいいし、どんな風に読んであげてもいい。ルールのない自由さを楽しむのが絵本のいいところだと思っています。一番大切なのは楽しむこと。子どもと一緒に笑顔になれること。子ども時代にしか経験できない、かけがえのない親子の時間を過ごすことが、絵本のある一番の喜びだと思うのです。今日のkikoさんのお話も、実際に絵本を紹介しながら、絵本の楽しさ、絵本と共に過ごす子育ての楽しさについてのあれこれを紹介するという形で進みました。

そこで何組もの親子の皆さんや看護師の皆さんとお話をして思ったのが、「絵本の力」です。会場には、たくさんの本を持っていきました。(リストを固定バーの『おいしい本の特集』の頁に貼っておきます)そこでお話をしながら、または自由に絵本を見て頂いたのですが、皆さん絵本を見ると、とてもいい顔になるんです。「この本覚えてる!」「よくおふくろに読んでもらいました」というお父さん。お父さんたちに人気だったのが『どろんこハリー』です。

このハリーのやんちゃぶりが、お父さんたちの少年心をくすぐるのかも(笑)お父さんたちが、むっちゃ笑顔でした。この笑顔、っていうのがいいんですよねえ。そのお父さんたちの「まだあるんですね、この絵本」という言葉を聞いてはっとしました。

私たちは、図書館で働いていて、いつも身近に絵本があって、どれがスタンダードで長らく愛されている絵本なのかを一通り知っています。でも、大抵の若い親ごさんたちは、絵本に触れる機会が、子ども時代以降、ぷっつりないのです。だから『ぐりとぐら』という絵本を、中川李枝子さんと山脇百合子さんというゴールデンコンビが書いてらっしゃるということも知らない。「外国の絵本なんだと思ってました」という言葉に、こちらのほうが、そうか、それも当たり前なことだよなあと認識を新たにさせて貰いました。スタンダードでなくても、名作でなくてもいいんですけど、「この絵本素敵ですよ」「面白いですよ」といろんな形で紹介することって、やっぱり必要だなと思ったんです。

絵本には力があります。読み手を笑顔にする力。頭の中で、いっぱい想像という翼を羽ばたかせるイメージを生む力。「国語が出来るようになりますか?」ということを期待される親ごさんもいらっしゃるけど、それはまあ「そんなことがあったらいいな」くらいで置いといて(笑)何より、絵本を通じて、いっぱい親子でお話して欲しい。「ちょっと怖い内容の絵本を読んでも大丈夫なんですか」とおっしゃるお母さんもいらしたけれど、お父さんやお母さんのお膝や抱っこの中で、怖い世界を覗くのも、一つの経験だと思います。絵本の、物語のいいところは、ちゃんと帰ってこれるところ。最近流行りの『地獄絵本』なんかは、私はどうなんだろうと思いますが(だって、あれは絵本じゃないですからね。元々の目的が、信仰しないと地獄におちるよ、という脅迫のようなものですから。絵も美しくない)物語の世界を堪能して、また温かいお膝に戻ってくるというのは、これも大きな喜びです。

一人のお父さんが『おおきなかぶ』を見て、しみじみと「これ、おふくろがよく読んでくれたんですよ。うんとこしょ、どっこいしょ、ってすごく元気に読んでくれた声も思いだしました」とおっしゃってました。そのお母さんは、今、ご病気で声がうまく出せなくなってらしゃるそうで・・。でも、絵本を見たときに、元気な時のお母さんを、絵本を読んで、いっぱい抱きしめてくれたその愛情も一緒に思いだせるなんて、なんて幸せなことなんだろう。胸がいっぱいになりました。改めて、絵本っていいなあと思わせて頂けたこと。たくさんの気づきを頂けたこと。貴重な機会を頂きました。看護師長さんはじめ、お世話になった方々に、心から感謝の一日でした。また、こんなふうに、絵本のお話をいろんな方とできる機会があったらと思います。

by ERI

デイヴィッド・アーモンド講演会 「想像から生まれる力」 

今日(11月3日)大阪府立中央図書館で、来日されているデイヴィッド・アーモンド氏の講演会「想像から生まれる力―国際アンデルセン賞作家、デイヴィッド・アーモンド自身を語る」という講演会がありました。こんな機会は一生に一度かもしれないと、張り切って行ってきました。

初めて拝見したアーモンドさんは、とても気さくなあったかいオーラを放っておられる方でした。会場に気軽な感じで入ってこられて、とても熱心にいろんなお話をしてくださって・・・何だか、ますますファンになってしまいました。アーモンドさんは日本が大好きで、岩手にも行ってらしたとか。宮沢賢治の詩が好きで、とてもインスピレーションを感じられるそうです。賢治が方言を使って物語を書いているところに共感してらっしゃるようで・・講演の中でも、故郷の風景や子どもの頃のお話をいろいろしてくださいましたが、彼の言葉のひとつひとつが、そのまま作品世界を連想させるものでした。空が、土が、spiritが呼び掛けてくる・・という言葉が印象的でした。

作品が好きで読みこんでいる作家さんのお話を聞くと、当たり前かもしれませんが、共感できるところがとても多いです。「ありふれた(ordinary )」という言葉をよく私たちは使うけれども、この世界にありふれたものなど、何もないということ。存在の奇跡ということにからめて、ウイリアム・ブレイクの「THE TIGER」という詩を朗読しておられましたが、ブレイクの詩は、イギリスでもアーモンドさんの著書に影響されて読む人が多いとか。昨日レビューを書いた『ミナの物語』の主人公ミナは、(登場人物は誰でもそうだけれども)自分の一部だと。そして、「私が作品を書くのを助けてくれる部分」だともおっしゃっていました。ミナの世界に対する無垢な驚きの眼は、そのままアーモンドさんの心の眼なんですよね。・・・うん、納得。

ご自分の作品がどんな風に生まれるかという話も、創作ノートを公開してまで説明してくださって、とても興味深いものでした。子どもたちにも、同じように創作について説明されるそう。それは、本は遠いものに見えるが、皆さんにも近づきやすいものだということを伝えたいからとか。「あなたも出来ます」ということを伝えたいのだとおっしゃっていました。いやいや、それは難しいよ、と思いながら、そんなアーモンドさんの姿勢が素敵です。いろんな作品のお話もしてくださったのですが、その中でも印象的だったのを一つだけ。

『肩胛骨は翼のなごり』のスケリグ。「あの不可思議な存在を思いつかれたきっかけは何だったのですか」という質問(実はこれ、私でした)に、シュン、と降りてきたんだと。(シュン、という擬音とジェスチャー付きでした)一冊本を書き上げてポストに投函し、頭の中は空っぽで、やれやれ、ちょっと休憩しようと思って10mほど歩いたところで、いきなりあの物語を思い付いた。机に向かって書き始めたら、スケリグが、いきなり頭の中にやってきたらしいんです。「どこから来たのかわからないけど」とおっしゃってました。びっくりされたらしい(笑)あの物語は、書いている間、自分でもどうなるのかわからなかったと。あの作品をよく「巧みだ」と評されることが多いけれど、「その通りだよね」と笑ってらっしゃいました。『肩甲骨は翼のなごり』は、どうもとてもお気に入りのようです。5歳の頃に、氏の肩胛骨をお母様がさわって、「これはあなたが天使だったときの名残りよ」と言ってくれたと。そのことは忘れられないとおっしゃってました。あの物語には、そんな想い出も込められていたらしいのです。だからこそ、より特別な作品なのかもしれません。

既にイギリスでは出版されている著書を幾つか見せてくださったのですが、どれも涎が垂れるほど読みたいものばかり・・・どうか、日本でも出版されますように。これから書きたいものも、山のようにおありになるとか。嬉しいなあ。

「物語は楽観主義と希望から生まれる」「物語は崩壊に向かう力を押し戻すもの」「人間は物語を語るもの。人は人である以上、物語を語り続ける」

この言葉に、アーモンドさんの物語に対する信頼と愛情、物語を生みだすものとしての気概を強く感じました。参加できて幸せでした。アーモンドさん、ありがとうございました。そして、この機会を作って頂いた関係者の方々に、心からお礼を申し上げたいと思います。本にサインまでして頂きました~!幸せ・・・。

by ERI

 

ミナの物語 デイヴィッド・アーモンド 山田順子訳 東京創元社

大好きな『肩胛骨は翼のなごり』のミナの物語・・・もう、この惹句を読んだとたん、アマゾンでぽちっとしてしまったこの本。ひとつひとつの言葉が、優しい雨のように、木漏れ日のように心に降り落ちて、沁み込んでいくのです。生まれおちて初めて空や海を見る幼子のように新鮮な眼で全てを見つめ、言葉を紡いでいくミナ。私はミナと一緒に、この世界の不思議を見つめます。何て豊穣なミナの世界!原題は『My NAME IS MINA』。ミナが自分のノートに綴った心の記録が、この本です。

ミナは、常に考えています。ミナのお母さん曰く「自分の意見や見解を持っている子」なんです。いつも驚きを持って自分と世界を見つめている彼女にとって、毎日は冒険。思考は果てしなく展開し、心はフクロウのように翼を広げてどこまでも飛んでいこうとする。その自由さといったら!この本は、ミナのノートそのものという設定で、そこがとても楽しいのです。ぴょんぴょん跳ねるウサギのように、楽しく跳ねまわる彼女の視線。美しいもの、素敵な言葉を見つけると、一直線に走り寄って言葉にせずにはいられない。

「この刺激的で、すばらしくて、不可思議で、美しくて、息を呑むような、驚きに満ちた、ゴージャスで、いとおしい、あたしたちの世界をみつめよう!」

ミナの心を書き写すアーモンドの筆は、冴えに冴えます。月の夜。地下の坑道。お気に入りの木の上。埃だらけの隣の家(そう、マイケルが越してくるあの家です)まで、ミナにとってはこの世の不思議を内包する、存在の輝きに満ちた特別なもの。その心の軌跡を、少女の瑞々しい瞳が見つめるままに書きとっていきます。この本は、ミナの心の自由そのもの。その眼差しに心を重ねるのは、心躍る体験でした。しびれた足のように堅くなっている心に血が巡る感覚・・・ル・クレジオの『地上の見知らぬ少年』のように、この世界をはじめて眼にする新鮮な喜びに、心が躍りました。ミナと一緒にこの世界を愛せる気持ちになれるんです。まだ少女であるミナの世界は、物理的に言うとほんの狭い場所なんですが、彼女の心の旅はどこまでも広がっていく・・そう、本の世界と同じです。

でも、そんな彼女は、学校という場所では異端者です。ミナにとって学校は鳥籠。彼女の羽を縛る恐るべき場所。「標準学力テスト」とミナが折り合うはずもありません。「標準」という言葉で、たった一つの価値観で、子どもを評価しようとすることに、ミナはことごとく反発します。「上手くやる」「人に合わせる」ということが全く出来ない。心に自由の翼を持つ彼女は、現実世界では落伍者なのです。ミナは、学校にいかずに、家で母の教育を受けています。今は、それでいい。でも、いつまでもそのままではいられないことも、わかっているのです。自分の心の王国では女王であるミナも、いやいや行ったフリースクールでは、おびえ、戸惑うちっぽけな女の子。

「“成長する”ことは、すばらしくて胸がどきどきするけれど、同時に、決して簡単なことではないのだろう。こんちくしょうにむずかしいことなのだろう」

自分だけの心の世界から、誰かと共有する世界へ。しなやかな心は、別の魂と出逢いたくてうずうずする。でも、繊細すぎる感性は、傷つくことを恐れ、伸ばした手を引っ込めようとする。そんなミナの葛藤が、アーモンドならではの細心さで書き綴られます。差し出そうとする手をそっと抱き寄せるようなアーモンドの優しさは、少女や少年と呼ばれる年代を生きる子たちの心に必ず届くと思います。

この本は、マイケルと新しい物語を始める、その日までの物語。彼女が、その手で新しい扉を開く、その瞬間までを綴ります。新しい扉を開いたミナは、マイケルと、スケリグと出逢い、「不可思議な存在」がもたらす奇跡を分け合います。そう。人と出逢い、勇気を出して心を繋ぐことで、世界は広がっていく。傷つきやすい魂の苦しみを見つめながら、生きる喜びを心いっぱいで抱きしめようとするアーモンドの詩情に、心深く打たれる一冊でした。この本を読んで、再び『肩胛骨は翼のなごり』を読むと、感動がひとしお。そして、またこのミナの物語を読み・・という、循環に陥ってしまう、きっと折に触れて読み返す大切な本になりそうです。山田順子さんの繊細な訳に感謝です。

明日(もう今日になってしまったけれど)は、大阪の中央図書館で、この作品の著者デイヴィッド・アーモンドの講演会があるのです。もちろん行きます!また、お伝えできることがあったら報告しますね。

2012年10月刊行

by ERI

夜の小学校で 岡田淳 偕成社

夜の小学校には、昼間とは違う時間が流れています。この物語は、夜の小学校の中から生まれたちょっと不思議な短編集。頁をめくるたびに、新しい扉が開きます。そこから吹いてくる風は、心に幸せなざわめきを残していくのです。御自身の手による素敵な挿絵と一緒に、大好きな岡田ワールドに浸りました。

主人公の「僕」は、桜若葉小学校というところで、夜警の仕事をすることになります。にぎやかな子ども達の声が溢れている昼間とは、違う顔をしている夜の校舎や校庭。そこには、不思議なお客様がやってくるのです。ほんとに夜の小学校で、こんなあれこれに出逢ったら・・・きっと、ちょっと怖い。でも、その隠し味のような怖さが、物語の醍醐味です。岡田さんの物語には、『二分間の冒険』『選ばなかった冒険』『ふしぎの時間割』など、学校を舞台にしたファンタジーがたくさんあります。『二分間の冒険』『選ばなかった冒険』は息子たちも大好きで、何度も何度も読みました。小学校を舞台にしたファンタジーは、岡田さんの魅力溢れる独壇場なのです。子どもたちにとっては、人生の半分を過ごす場所が学校です。いつもの見慣れた風景である学校。でも、ふと忘れ物を取りに帰った夕方の教室や、いつもは来ない日曜日のがらんとした校庭、気分が悪くなって行った保健室のベッドに寝転がって見上げた空の青さに、ふっと違う時間の流れや空気を感じてしまう・・・それは、生まれて初めて感じる異世界への、つまり物語への扉。一瞬で見失いそうになるその扉を、岡田さんは絶妙なタイミングで開けてみせます。長年小学校に勤務されて、学校の隅々まで知りつくしておられる、ということもあるかもしれません。そして、その長年過ごしておられた場所を見つめる瑞々しい眼差しと感性が、素晴らしいと思うのです。

この物語の「僕」は、若い頃の岡田さんご自身が投影されているようにも思うし、これから物語を書こうとする人、これから未来を切り開いていこうとする人への、優しい励ましも投影されているように思います。アライグマに「いろいろなしごとをしたことが力になるんですね」と言われて、「―そうだったんだ」と気がつく僕。日常の中に潜む不思議を発見する。それは、見慣れた風景を一変させる物語の力を得ることに繋がっていくのでしょう。『図書室』という短編では、本たちが静かに扉を用意して、開けてくれるのを待っています。学校という場所は、子どもたちにとっていつも幸せなところではありません。自分の小学生の頃を思い返してみても、まことに生き抜くのが大変だったとしみじみと思うのです。同年齢の子たちが何十人もひとつの部屋に揃う、あの人間関係を思い出しただけでも、もう無理と思ってしまう(笑)大人になった今なら、笑い話ですみます。でも、学校という逃れられない密室で自分の居場所がゆらぐ、あの不安は、真剣に辛いものでした。でも、本という扉を開ければ、私はいつも自分だけの時間を過ごすことが出来た。そこには、果てしない自由がありました。今、子どもをめぐる環境は、のんびりしていた私たちの頃とは比べ物にならないほど様々な難しさに満ちています。だからこそ、本当はもっと物語の力は必要なのだと思うのですが・・・児童文学というジャンルにおける物語の紡ぎ手は、少なくなってきているようにも思います。児童文学では食べられない。出版部数も限られていて、大人の文学に比べると、あまり注目されなかったりします。でも!でも、です。子どものときに、胸がわくわくするような物語に出逢わなければ、大人の本を読む人口だって、減ってしまうと思うんですよ。岡田さんも、密かにそんな危機感をお持ちなのかもしれないな・・・この本を読みながら、そんなことを思いました。

主人公の「僕」は、大好きな『ドリトル先生航海記』の扉を開けて、幸せな気持ちになります。

「本はいつだってああして待っているんだ」

子どもの心を受け止め、、時間と空間を超えて新しい場所に連れていってくれる・・・そして、懐かしい友達のように、いつも変わらずそこにいてくれる、本。本は一生の友達になってくれます。心から本を愛する岡田さんの気持ちが、溢れてくるような一冊でした。

by ERI

2012年10月

偕成社

ラビット・ヒーロー 如月かずさ 講談社

自信満々な男の人が苦手です。どちらかというと、ちょっと自信なさげな繊細な人の方が、守ってあげたい感じがして好みかな(知らんがな)そういう意味では、この物語の主人公宇佐くんは、ツボでした。(もっと知らんがな・・・)特撮ヒーローものが大好きな高校生・宇佐くんが、本物のヒーローのようなかっこいい先輩・日高さんに誘われて、ローカルヒーローのショーを作り上げるお話です。出来のいい兄に押されて、ずっと自信なく生きてきた宇佐くんが、初めて自分の意見と力を発揮して少しずつ世界を広げていきます。濃いキャラたちのきめ細かい心理描写とテンポのいい文章で、最後までぐいぐい引き込まれて読みました。その昔、体育祭や文化祭で、あれこれ皆で悩みながら必死になって何かを作り上げた高揚感を想い出します。始めは何だかんだと足並みが揃わなかったりするのに、いつの間にか一つの目的に損得勘定抜きで邁進してしまう、あの感じ。一晩眠れば、すっかり疲れがリセットされる体力がある若い頃にしか味わえない、体ごとの達成感・・・久しぶりに感じさせてもらってとっても楽しかった。そんな世代のみならず、現役中高生も夢中になれる楽しい作品だと思います。

特撮ヒーローの創成期に育ったもんですから、仮面ライダーやウルトラマンシリーズ、怪傑ライオン丸やミラーマン、キカイダーに仮面の忍者赤影(ちょっと違うか)、子ども時代はありとあらゆる特撮ものを見てました。今、ローカルヒーローが日本各地で大流行りなのも、きっと私たちの世代のオジサンたちが企画にからんでるからやないかと睨んでます(笑)男子というのは、染色体に特撮ヒーローものが好きな遺伝子が組み込まれてるんでしょうねえ。この物語の主人公の宇佐くんも、傍からは「オタク」と呼ばれるマニアです。でも、彼はそんな自分に自信がない。出来のいい兄と厳しい抑圧型の母親に押され、学校でも部活もせず、ひっそりと生きる毎日。でも、そんな彼に出逢いが待っています。ひょんなことから、本物のヒーローのような日高先輩と知り合い、先輩のおじいさんが作ったというキリバロンGという本格的なマスクと衣装を使って、ヒーローになることになったのです。身長190センチ、爽やかな男前、バスケ部の英雄という、もう自分と対極の日高先輩。普通なら彼がやる役ですが、いかんせんおじいさんの作った衣装は小さかったのです。

宇佐くんは、とても人の気持ちのわかる子です。日高先輩に恋心を抱く佐倉さんの気持ち。大好きだったおじいさんを亡くしてしまった日高先輩の気持ち。日高先輩が、おじいさんの死に対して、何か屈託を抱えているらしいのにも気づくほど繊細な心を持っています。だから、人の思惑や感情を感じすぎて身動きとれなくなってしまう。でも、そんな彼は、自分の好きなものに対しては細やかな愛情を注ぐことが出来るのです。人は、そんな彼の見た目の弱さを笑うかもしれない。役立たずとなじるかもしれない。でも、本当はそうじゃない。宇佐くんのそんな繊細さや、自分の好きなものを大切に抱きしめる気持ちが、一見なんの悩みもなさそうに見える日高先輩の弱さと苦しみを知らず知らずに救うのです。それまで知らなかった自分と向き合い、内面という未知の領域に踏み込むとき、人は常に弱者なのかもしれません。物語は常に心の旅をする弱者の味方です。この物語は、まるで正反対に見える二人の心に踏み込んで、本当の強さやたくましさというものが何なのかということを考えさせてくれます。読後感もとっても爽やか。佐倉さんの双子の弟たちと、宇佐くんのやりとりにもほっこり、和ませて頂きました。とっても元気が出る一冊です。

 

by ERI

天使の午後 伊津野雄二展~光の井戸~ 神戸 ギャラリー島田

今日は天使の午後を過ごしました。朽木祥さんの著書『八月の光』の表紙の天使を作られた伊津野雄二さんの展覧会に行ったのです。場所は神戸のハンター坂にある島田ギャラリー。安藤忠雄建築の建物にあるギャラリーです。
『八月の光』

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島田ギャラリー

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にぎやかな通りから地下に降り、光だけが射す静かなギャラリーに、作品が展示されていました。伊津野さんの作品を初めて拝見しましたが・・・まさに、光が溢れてくるような喜びを感じる作品たちでした。美しいとか、芸術的とか、そんな言葉まで不似合いと思えるような、魂が震える喜びです。天上の音楽。この耳には聞こえない、伊津野さんが形になさらなければ私たちの眼には決して触れないもの。命や時の重なりに、常に深く分け入る営みを自分に課してらっしゃる方だけが表現できる言葉にならぬもの。女性の形をしている胸像は、石や木の肌触りをそのまま残して、力強く微かに微笑んでいます。そこに、私は慈しみ、命への礼讃を感じてしまいました。
そう、作品たちは一見たおやかなのですが、とても力強いのです。さっき私は「天上の音楽」と書きましたが、この個展のタイトルは「光の井戸」。伊津野さんの光は、地から射しているらしい。大地から生まれるもの。草花や石や、木や、全てのものに宿る力が、そこから溢れだしてくるようでした。伊津野さんの女神や天使は、天と地を繋ぐもの、時の隔たりを超えて私たちを結ぶ「祈り」の根源的な形なのかもしれません。・・・などとどれだけ言葉を紡いでも、あの作品の香気はとても伝えられるものではないのですが。ギャラリーの主、島田氏のお話も少しお伺いしましたが、伊津野さんはこの作品そのもののような穏やかで気品のある方だとか。「女性の形をしているけれども、性を超えた命の力強さが溢れている」(言葉そのままではありません)というようなお話をされていました。なるほど・・・。
島田氏のブログに紹介されているのですが、「幕間」と名付けられた小さな小さな本を読む天使の像がありました。壁に掛けられているので、ふわりと浮かんでいるように見える天使です。この天使がもう、なんとも可愛らしくて無垢で、一目みてすっかり恋してしまったのです。静かな喜びに満ちているこの天使が、もし私のところに来てくれたら、どんなに心やすまるだろう。そう思った瞬間、あそこを綺麗にして、この天使のコーナーを作って、その下に美しい小机を置いて、花と大好きな本を飾って・・と、一気に妄想が膨らみ(笑)おそるおそるお伺いしてみたところ、二つとも既に完売でした(泣)そうだよねえ、まさかうちの家になど、あの天使が来てくれるわけないよねえと思いながら、今もあの優しいお顔を思い出すたびため息なのです。いつか・・いつか、伊津野さんの作品をお迎えできるような御縁がもらえたら良いなと、しみじみ思った午後でした。
帰りは、ひさびさに「にしむら珈琲」で遅いランチ。

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老舗らしい落ち着きと行き届いたサービスで、おいしい珈琲もますます美味。
そして、帰りの電車の中で、ふと思い立って持ってきたディヴィッド・アーモンドの新作、『ミナ』を読んだのです。伊津野さんの作品の香気に洗われて一瞬生まれかわった心に(ほんまかいな)ミナの瑞々しい息吹が吹きこんで、ずんと心の芯に響きました。『ミナ』は、蒼ざめた天使が登場する『肩胛骨は翼のなごり』の兄弟のような物語。主人公の男の子とスケリグを助ける女の子、ミナの物語です。我ながら、このセレクトに共時性を感じてしまいました。年に何度かあるかなしかの、佳き日。まさに、天使の午後を過ごした一日でした。『ミナ』については、また明日。

 

by ERI

東京本屋めぐりの旅 3

 

  19日(金)は、やっと快晴!再び本屋さん巡りに萌え・・・いや、燃えました(笑)
まず、中央線の御茶ノ水で降りて、ニコライ聖堂へ。秋の日射しに白壁の建築が映えて美しかった。正面のステンドグラスに『太初に言あり 言は神と共にあり』とあるのが、大学と古書の街である土地柄に相応しい。

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古書街を目指して歩いていると、有名な山の上ホテルがありました。池波正太郎先生はじめ、文人が缶詰になって原稿を書いたというホテルです。そっとロビーを覗かせて頂きました。落ち着いた雰囲気の、歴史を感じさせる佇まいにうっとり。田辺聖子全集が置いてありましたよ。東京での定宿なのかしらん。写真は、ホテルの立体駐車場の建物だと思うんですが、蔦が絡まって、なにやら不思議な佇まいを醸し出していました。東京というところは、割合に緑が多くて。人の多さに疲れた心がほっとします。

 

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昔から、それこそ池波正太郎先生はじめ、いろんな方のエッセイを読んで、東京の地名などはけっこう頭には入っているんです。でも、実際に歩いてみると、なぜこのホテルが文人たちに愛されてきたのか、立地条件や位置関係を知って腑に落ちるんですよね。皇居がどこまで広がっているのか、そんなことさえ、実際に見ていないとわからない。前日に、改装の終わった東京駅のど真ん中に立って、振り返ったとき、皇居まで何も遮るものなく道が通っているのを見て、なるほどと納得感が湧いたように、自分で歩いてはじめてわかることってあるな、としみじみしました。街の在り方は、やはり歴史と結びついている。土地の記憶を感じるのが東京歩きの面白いところです。
神保町の古書街では、みわ書房さんに行きました。児童書専門の古本屋さんです。細い通路の両脇には、子どもの本がいっぱい。ここでは、『ニューヨーク145番通り』を買いました。買おうと思っていた本にふっと出逢える、縁が繋がるのが、古本屋さんめぐりの楽しいところ。

 

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ここで、もっと神保町をぐるぐるしたい気持ちをぐっと抑えて、再び中央線で吉祥寺へ。まず、「百年」という古本屋さんに行きました。古本屋さんというよりは、おしゃれなセレクトショップという雰囲気のお店。ここは、ほんとに品ぞろえがとても良くて棚を涎を垂らしながら見つめてしまいました。絵本の状態が良くて、友人はここでたくさん絵本を購入。
次に「トムズボックス」へ。ここは、小さな絵本屋さんなんですが、絵本好きには有名なお店です。まず、入口が可愛い!!カレルチャペック紅茶店の吉祥寺本店の奥にあります。

 

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「トムズボックス」は、いつもギャラリーで個展が開かれているのが有名なんですが、私たちが行った時も、<「裏庭に咲いた話」大野八生展>が始まったばかりでした。実は、この大野八生さんの絵本『カエルの目玉』を、前日教文館ナルニア国で見て、「これ、いいよねえ」と友人と盛り上がっていたのです。非常によく観察して書いてらして、それでいてとぼけた味もあって、色がとても美しい。その絵を描いてらっしゃる方と、次の日にお会いできるなんて、思わず不思議な縁を感じてしまいました。個展は『夏のクリスマスローズ』(アートン)に収録されている絵の原画が展示されていたのですが、これがまた、ほんとに美しかった。愛情いっぱいに植物を育ててらっしゃるのが、伝わってくるんです。まっとうで鋭敏な感受性の美しさが、とても心地よくて・・描かれている植物の可愛さに胸がぎゅっとしました。会場には、ご本人がいらしてて、本を買った私たちに声をかけてくださって、さらさらと本の見返しにイラストまで書いてくださいました。「何がいいですか?」と聞いてくださったので「うちの2匹の猫たちを」とお願いすると、一瞬でさらさらと書きあげる、その筆運びの見事さに感動。
この本です。

 

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書いてもらったイラストは・・・内緒(笑)。友人はクリスマスローズを書いてもらっていましたが、それもとても美しかった。ほんと、行って良かった!
そのあと、高円寺の「えほんやるすばんばんするかいしゃ」へ。ところが、ここで迷いに迷ってしまい、たどり着くのが遅くなってしまいました。ここは、外国の絵本がたくさんあります。あまり他では見たことがないような珍しい絵本がたくさん。でも、帰りの時間が迫っているのと、歩きすぎてけっこう疲れてしまったので、あまり見る時間と体力がなかったのが残念でした。ここでは、マーガレット・ワイズ・ブラウンの『よるとひる』を買いました。ワイズ・ブラウンとレナード・ワイズガードのコンビの絵本が好きなんですよ。

 

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もう、ここで体力が限界でした(笑)中央線で東京までまっすぐ帰って新幹線に乗りました。中央線沿線って、便利ですよねえ。吉祥寺も高円寺も、また行ってみたい街です。
ふう・・・あちこち行ったなあ。本屋さんばかり行った三日間。楽しかった!また、来年あたり行きたいな。

by ERI

世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密 山田航 新潮社

今の若者たちは、短歌というものをどれくらい読むんだろう。中学や高校の授業で駆け足で通り過ぎて終わり・・というのが、大多数ではないかと思うんだけれど。かく言う私も、そんなに現代短歌に詳しいわけではないのだが、こういう本を読むと、やっぱり読まなきゃもったいないな、と思う。

風の交叉点すれ違うとき心臓に全治二秒の手傷を負えり

校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け

こういう心の動きに、キュンとこない高校生はいないんじゃないかと思う・・・んだけどなあ。どうなんだろう。膨れ上がった自意識がちりちりする感じ。世界中が夕焼け、と思うむき出しの視線と、そこに漂う不安。ぎゅぎゅっと、「今」が肉薄してくる感じがする。短歌は、当たり前だけれど、千年以上の長い長い歴史があって・・・私たちの使う日本語の言葉の力と呪いのように深く結びついているもの。五七五七七という定型は、そのまま日本語の基本です。だからこそ、一つ使い方を誤ると、ただの陳腐な入れものになってしまう。言葉の力をいったん定型から引き剥がして、再び構築しなければ「今」を語る短歌は生まれないでしょう。この本は、穂村さんの短歌を山田航さんが詳しく解釈し、その解釈に穂村さん自身がコメントを付けたもの。この、山田さんの解釈がとっても面白いです。優れた「読み」は、新しい目を開かせて、作品に新しい魅力を与えるものだと、改めて感じさせられました。

穂村さんと私はほぼ同世代で、自意識の在り方とか、言葉の背景にある時代感覚とかが、理屈抜きで伝わってくるところがあります。その自分の感覚で掴んだものと、山田さんの歌人としての眼差しと心性で掴んだものの違いに、はっとさせられます。

春を病み笛で呼びだす金色のマグマ大使に「葛湯つくって」

by ERI

 

東京本屋めぐりの旅 2

 

 

18日は、まずシャルダンの展覧会へ。三菱一号館美術館です。ここは、建物とお庭がとても綺麗。

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モノクロで撮影すると、まるでパリの街角。 前日に行った東京写真を意識してか、ちょっとアート風に撮りたい感じが見えるのが、我ながらどうかと思う(笑)

 

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ここでは、『シャルダン展―静寂の巨匠』を見ました。シャルダンという人の作品を、これだけ一同に集めてあるのは初めてです。この展覧会が、とても良かった。こうして、一人の画家をじっくり鑑賞できるのは、とても贅沢なことです。いろんな作家の有名な作品を、いいとこ取りみたいにして集めてあるより、私はこういう形式の展示が好きかな。ゆっくりその世界に浸れて、世界観を感じることが出来るから。例えば、このシャルダンの展覧会でも、若い頃の静物画と、晩年の静物画とでは、全く趣が違います。晩年になるほど、画面に光が満ちて瑞々しく、描かれている果物などが命そのものに見える。生きてここにある喜び、というものが溢れている。若い頃の、自分が命そのものに輝いているときに見るものと、晩年になって見るものとでは、対象物に対する距離感が違うんだと思うんですよ。生きているということに対する慈しみや愛情が、その眼差しに感じられるんです。もちろん、技法の円熟や成長もあるでしょう。でも、あの静かな画面に溢れていた光は、紛れもなく命への愛情そのものだと思いました。その慈しみが、やはり晩年に近い年齢の私の心に沁みこんできました。年齢を重ねてわかることもありますね、やっぱり。見れてよかったなあ。
そして、改修工事が終わった東京駅を見て・・・。

 

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いつものように、銀座の本屋さん、こどもの本のナルニア国(教文館)へ。ここはとても好きな本屋さんです。落ち着いていて見やすいし、選書がとてもいいんですよ。何時間いたかなあ。2時間は優にいましたね。そして、友達とやたらにテンションがあがって本を買う、買う(笑)
これが、当日の収穫。

 

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このほかにも、絵葉書は買うわ、ちっさなぬいぐるみをお土産に買うわ、あれこれあれこれ追加で買ってたら、お店の方が「お家に本を送りますよ」と言ってくださって、大助かりでした。1万円以上のお買い上げで宅配サービスをして貰えるそうで、ほんとに助かりました。友人も、たんまり絵本を買って「どないしよ」状態だったんで(笑) でも、ショックだったのが、岩波の、既に持っている高楼方子さん訳の『小公女』、高楼さんのサイン入りがあったんですよ!うーん・・・持ってるから、迷って迷って見送ったんですが。買った友人に見せて貰ったら、可愛いイラストまで入ってる!高楼さんの直筆!高楼さんファンとしては、心が揺れる・・・。お取り寄せしようかどうか、考え中。
・・・ふと気がつけば、既に真っ暗。本にお金を使いすぎてすっかりしぶちんになった私たちは、銀座なのに、なぜかドトールでお茶と相成りました(笑)でも、銀座のドトールはおしゃれだった。

 

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あー、疲れたということで、二日目はここまで。

by ERI

東京本屋めぐりの旅 1

17日(水)から、19日(金)にかけて久しぶりに東京に行ってきました。約1年ぶりの東京です。友人と会ってゆっくりしゃべるという目的のために行ったのですが、美術館に2か所行った他は、とにかく本屋さんばかりを巡るという、ニッチな旅でした(笑)
17日は、まず恵比寿にある東京都写真美術館へ。

 

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ここは、建物がとてもいいんです。美術作品を、どんな建築で見るかというのは、けっこう大きなファクターだと思います。採光や雰囲気、空気感によって、作品の印象も違ってしまう。この写真美術館は、写真を鑑賞する、ということに特化した美術館なので、写真という表現に対して、でしゃばらず、語りすぎず、ニュートラルに雰囲気が保たれています。そこが気持よくて、気が付いたら2時間あまりが経っていたという(笑)「繰上和美 時のポートレイト」という特別展と、「機械の眼 カメラとレンズ」という写真美術館コレクション展が開かれていました。展示としては「機械の眼」の方が面白かったかな。友人が写真家なので、彼女のいろんな話を聞きながらそれぞれの作家の作品を見るのが面白いんですよ。写真というのは、一瞬を切り取る芸術。それだけに、その作品を切り取るまでの作家のスタンバイの仕方が見事にそこに現れるような気がします。そこを読みとるのも、写真の見方の一つかもしれないな・・と、彼女の解説を聞きながら思いましたね。ここはギャラリーも楽しくて、思わず長居してしまい、マイケル・ケンナの写真集と、キーホルダーを購入。マイケル・ケンナは高いんですが、この写真集はけっこうお手頃な値段で、なおかつ装丁がとても美しいんです。満足(笑)
こういう、写真だけの美術館というのは、大阪にはありません。写真、というものは、写真集で見るのもいいんですが、一つの統一された世界観の中でゆっくり向き合うほうが、まっすぐ伝わってくるものがあります。常にその機会に恵まれているのと、そうではないのとでは、写真という芸術に対する感性に差が出てくるような気がします。大阪にも、こんな美術館が欲しいよなあ・・・。今の府知事や市長じゃ、無理な話だよなあ。
そこから、代官山に移動。お目当ては、おしゃれな古着屋さん・・ではなくて、おしゃれな書店・DAIKANYAMA TSUTAYA です。確かにおしゃれでした。本や雑誌、写真集が溢れんばかりに並べてあります。分類はいたっておおらかで、食べ物、旅、ファッション、アート、小説や哲学・・・と、おおざっぱな括りはあるものの、とにかく連想に任せてどっさり置いてある感じ。外国の雑誌もありとあらゆるものがあって、とにかくにぎやか。本を探すというよりは、本と出逢うという感じです。「あ、こんなのあるんだ」と手に取って・・いったん手に取ったら、放しちゃいけません。もう二度と出会えない(笑)建て物が三つあって、どこも似たような感じで、なおかつ分類がされていないので、もう一度そこにたどり着こうと思っても、難しい。実際に、後で買おうと思っていた本の居場所がわからなくなり、店員さんに聞いたところ、店員さんもわからなかったという。「あのへんかも」という答えしか返ってこなかった。東京、代官山というシチュエーションでないと成り立たない商売かも。大阪でやったら「姉ちゃん、どこにあるかもわからんのかいな」と、おっちゃんやおばちゃんに怒られます(笑)あと、写真集も非常に雑多に並べられていて、その規則性もわからず。著者順でも、タイトル順でも、ジャンル別でもない。これは、本をとにかく分類してきっちり並べたくなる図書館員にはむずむずする環境でした(笑)・・・と、いろいろ言いながら、ここでも長々と本を見て、Coyoteの星野道夫さんの特集のバックナンバーと、ブルース・チャトウィンの旅行記を買いました。Coyoteは大好きな雑誌で、この特集号も当たりでした。復刊されて良かった・・・。

 

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これが、一日目の収穫。あとは、銀座に戻って、ひたすらしゃべって、しゃべりまくりました(笑)
長くなったので、ここで一旦終了です。

by ERI

[映画] ソハの地下水道 アグニェシュカ・ホランド監督 

ナチ政権下のポーランドで、地下水道にユダヤ人をかくまった男・ソハの物語です。原題は「IN DARKNESS」。ユダヤ人狩りが執拗に行われる地上の闇(まさに、真の闇だった・・・)から逃れて、地下水道の暗闇に隠れるユダヤ人の人たち。彼らを、金のために匿った男が、少しずつ彼らと運命共同体のような絆を作っていく物語です。
この監督の眼差しのありようが、見ていてとても好ましかった。フラットなんですよ。人間は混とんとした存在です。一人の人間の中にも愛情や欲望や裏切りや嫉妬や悲しみや慈しみや・・・様々なものが溢れています。それは、どの時代に、どんな場所にいる人間でも同じだと思います。2012年の日本に生きている私たちも、1943年のポーランドに生きている人たちも、基本は同じ。平和な時には顕在化しない感情や行動が、見つかれば即射殺という極限状況の中で、膨れ上がったりしぼんでしまったりする、それが映画の中で描かれますが、この監督は「基本は同じ」という観点をずっとフラットに保ったまま、この物語を紡いでおられたように思います。だからこそ、彼らのおかれた状況が心底怖ろしく、ひとりひとりの心の動きが心に食い込んでくるのです。これらは、全く他人事ではない。普通の顔をして生きている人間が、ギリギリのところで選択肢を迫られたとき、何を選ぶのか。そこが胸に沁みました。
この物語の主人公であるソハも、金のためにコソ泥を働くような人間です。崇高な理想など持ち合わせてはいない。金のために動く男です。でも、彼は金のために人を救うことを選ぶ人間なんですよね。作品中に、ソハと旧知の間柄である将校が出てきますが、彼は金のためにとことんユダヤ人狩りをする。殺すことを選びます。それに比べれば、遥かにソハの方がまし・・・と現代に生きる私たちは簡単に思いますが、1943年のポーランドでは、ユダヤ人を殺すより、救う方がはるかに難しい。ソハも、とにかく苦労します。しかも、助けられている方も人間です。こっちはこっちで色々ある。不倫あり、裏切りあり、家族の内輪もめもあり。ほんとに、人間って、どこまで行ってもどうしようもないもんです。そこを、この監督は隠そうともせずにそのまま描きます。でも、そのどうしようもない暗闇の中から、小さく灯る美しいものが確かに生まれてくる。暗闇に灯る光の美しさに泣けました。
ソハは、そんな気のなかったところで、つい、ユダヤ人たちを助けてしまうんです。物資を手に入れようと地上にでたムンデクが、ドイツ人将校に殺されそうになっているところを、つい、救ってしまう。坑道の中で迷子になっている子どもたちを、送り届けてしまう。ギリギリのところで、彼は人に手を差し伸べるのです。その「つい」という、言葉にならない、利益にもならない行動こそが、もしかしたら人の一番ゆるがせに出来ない価値観そのものなのかもしれません。馬鹿なことしちゃったよなあ、ってその時の損得では思っても、心の一番芯にあるものが、ふとその方向に人を動かす。地下の暗闇に生まれて、すぐに死んでしまった赤ん坊を、ソハが埋葬するシーンがあります。そこで、映画館のあちこちから涙の気配が伝わってきました。「ああ・・皆、ここで泣いてはるんやな」と。あの時、映画館にいた人たちは、皆ソハの心に寄り添っていたんやなと思うんです。自分たちと同じ、弱さを持ったソハという男の芯から生まれて育ったものが、見るものの心を満たした。あの空気が、この映画の真価を物語っていたように思います。
あの当時、アンネ・フランクの一家を匿っていたミープさんは、自分は特別なことをしたわけじゃないと、ずっと言っておられたらしいです。何人もの人間を匿う、毎日の食料の買い出しだけでも大変な想いをしたことでしょう。その中で、一度たりとも迷いが生まれなかったかと言えば、決してそうではないと思うんですよね。あの当時、苦しみや葛藤を抱えながら、それでも、ソハやミープさんのように、ごく普通の人々が迫害されるユダヤの人たちを匿い続けた。それはもう理屈でもなんでもなく、そうせえへんかったらしゃあないねん、という心の声がさせたことだと思うんです。ギリギリの時に、自分の心の声がなんと囁くか。どこに自分を連れていくのか。そこを考えさせる映画でした。ラストシーンの青空が、心底美しく、目に沁みました。そして、ラストに映し出された「人は神の名をかたってでもお互いを罰したがる」(うろ覚えなので、そのままではないかも)という言葉にうなだれました。ほんと、その通りだわ・・・。
by ERI

100%ガールズ 1st season 吉野万理子 講談社YA!EATERTAINMENT

「けいおん!」とか、「じょしらく」とか、タイトルが平仮名でキャラもきっちり萌えタイプ別に設定され、これでもか!というくらい可愛い女の子たちが出てくるという、ガールズもののアニメが人気です。うちにも二次元の女子しか愛せないヲタ男子がいるので(笑)私も一通りは見てます。(別に一緒に見なくてもいいんですけどね)そこに出てくるガールズたちは、見事に男子の妄想そのままの可愛さ。ま、現実にはおらんよね、という設定です。(まあ、あり得ない美少年BLものに萌え萌えだったりする女子と妄想度では同じ・爆)この作品も、ガールズたちの物語ですが、男子というよりは、女子が読んで楽しい学園もの。舞台は100%ガールズ、つまり女子校です。
主人公の真純は、宝塚命の母に男役になることを期待されて育った女の子。同級生に制服のスカート姿を見せたくないという理由だけで、遠くの横浜にある女子高に進学することにしたのです。初めて通う学校のしきたりや気風、初めて出逢うクラスメイト、先輩たち。新しい環境の中で、どんどん新しい目を開いて変わっていく女の子の気持ちが、鮮やかにテンポ良く描かれて、ほんとにあっという間に読んでしまいました。主人公の真純が良い子なんですよ。彼女は大切なことに自分で気づける子なんですよね。この「自分で気づく」って大事やな、と思うのです。
彼女は、男の子っぽくすることがカッコいいことだと、思っていたわけです。でも、先輩の人に対する優しい接し方や、自分が怖気づいて逃げたことに対して同級生が誠心誠意頑張る姿を見て、人のカッコよさというものが外見だけにあるわけじゃないと気づきます。
「カッコいいというのは、男とか女とか年齢とか関係ないんだ。きっと生き方の問題なんだ。」
何だか、胸のあたりがスカっとします。ほんと、そうだよね~、と真純と女子会したくなるわけですが(誰が女子やねん)誰に強要されたわけでもなく、こうして自分で獲得した価値観というのは、一生の宝物だよね、と思うんです。例えば、真純は、妹に「女子校ってネチネチしてるって、決まってるんだって」と聞いて、びくびくしていたのです。こういうもっともらしい伝聞情報って、ほんと山のようにあって、それこそネットを開けるだけでも洪水のように溢れてなだれ込んでくるし、口コミでも恐ろしい早さで伝わっていく。でも、そういう伝聞情報を頭に詰め込めば詰め込むほど、身動きがとれなくなったりします。だから、そういう伝聞情報を頭に詰め込むことを「仕入れる」というのかも。ただストックして次に流すだけで、自分の血肉にはならないんですよね。「知る」ということは、本当は人を解放するものであり、既成概念に風穴を開けること、心の自由を獲得すること。自分の人生を決めていく大切な羅針盤です。自分の心と体で、いろんなことを「知って」いく真純の毎日がフレッシュで、元少女(誰が少女やねん)の価値観にも酸素を入れてくれる感じです。この本はシリーズになるのかな。宝塚受験をめぐって、母と娘の攻防も生まれそうな予感。揉め揉めになるんかなあ、楽しみやなあ。(楽しみなんかい!)
2012年7月刊行 講談社

by ERI