発電所のねむるまち マイケル・モーバーゴ ピーター・ベイリー絵 杉田七重訳 あかね書房

何度も何度も繰り返し語られねばならないことがある。例えば、児童文学の大きなテーマの一つである戦争。ヒロシマ、ホロコースト、強制収容所・・・これまで、幾多の物語が様々な苦しみの中の「たったひとり」の物語を紡いできた。時々、「何度も使い古されたテーマで物語を書くのは、進歩がないのでは」などと言う人もいるが、それは誠に間抜けな楽観主義である。私たち人間は間違いを犯す動物なのである。間違えまいとして考えに考えた挙句、大きな落とし穴に落ちたりすることもある。間違える動物である私たちが出来ることと言えば、何度も何度も、間違えた記憶を反芻し、なぜ間違えたのか、これから間違えないためにはどうしたらよいのかを、真剣に考え続けることくらいしかないと思うのだ。そして、その記憶は、たったひとりの心に寄り添うものでなくてはならない。私たちは、他人の苦痛に鈍感だ。特に、顔の見えない人たちの苦痛は、無かったものとして葬り去ることが出来る。だからこそ、「ひとり」の、名前と顔を持つ人間の心を描き切ることでしか、私たちはその苦しみを共有できないのだと思う。だから、物語は、何度も何度も書かれねばならない。『八月の光』の後書きで、朽木祥さんが、おっしゃっていた言葉。「二十万の死があれば二十万の物語があり、残された人びとにはそれ以上の物語がある」のだから。

原発の問題もそうである。チェルノブイリに、3.11の震災でのフクシマと、短期間に私たちは大きな事故を繰り返した。あれからたった2年と少ししか経たないのに、もはやマスコミも政治家も、原発の問題を論点にしなくなっている。むしろ論点にすることがタブー視されるような空気までも漂っている。今議論を尽くさずして、いつ尽くすのだろうと思うのだけれど。前置きがとても長くなってしまったけれど、この『発電所がねむるまち』は、原発で失ってしまったものを描く物語だ。表紙に描かれているような、生きる喜びがいっぱいに漲っている美しい湿原が、死の土地に変わってしまう物語だ。

この表紙でロバに乗って走っている少年が、主人公のマイケル。物語は、大人になったマイケルが、生まれ育った海辺の町を訪ねるところから始まる。少年の頃、その町には大きな湿原があった。ひょんなことから、マイケルは、そこに鉄道客車を置いて暮らしているぺティグルーさんと友達になる。ペティグルーさんは夫が事故で死んでしまったあと、一人で湿原で暮らしている。ロバと三匹の犬と、ミツバチと畑仕事、そしてたくさんの本と暮らしているペティグルーさんの客車の、なんて居心地よさそうなこと。いつぞや、ドキュメンタリーでトーベ・ヤンソンが夏の間暮らしていた島の家を見たことがある。小さい、まさに小屋のような家なのだけれど、その小ささが魅力的だった。生きていくのにこれだけあれば十分、という取捨選択を間違いなく選び取る知性と果断さ、そしてユーモアが溢れているような家。さすが、ととても惹きつけられたのだが、このペティグルーさんの鉄道客車の家も、そこに匹敵するほど魅力的だ。もう、ぜひ、そこはこの本を見て頂きたいと思う。ペティグルーさんは、湿原の中で、賢い動物のように過不足なく生きている。その人となりが伝わってくる。

マイケルと彼の母は、ペティグルーさんと友達になり、そこでとても幸せな時間を過ごす。広大な湿原と走る動物たち。降るような星空。幸せな日々―。ところが、ある日、その湿原に原発計画が持ち上がる。初めは反対していた人たちも、段々原発賛成にまわりはじめ、とうとうペティグルーさんは湿原から追い出されてしまうのだ。そんな犠牲の上に作った原発だったのに―久しぶりに帰ってきたマイケルが見たものは、使い古されてただのコンクリートの塊になってしまった原発と、かっての輝きをすべて失ってしまった故郷の姿だった。

「だからお願いです。もういちど考えてください。機械は完璧ではありません。科学も完璧ではありません。まちがいは簡単に起きる。事故は起きるのです。」

私もそう思う。どんなに安全基準を徹底しようとも、間違いは簡単に起きる。だって、その機械を管理しているのは人間なのだもの。自分の手で客車を燃やし、うつむくペティグルーさんの姿に、フクシマの事故で故郷を失ってしまった何万人もの人たちの姿が重なる。よしんば事故が起こらなくても、原発は廃炉にするのにも非常な手間と時間がかかる。そして、その後、また更地にしてしまえるわけでもない。放射能の半減期は人間の寿命など吹き飛んでしまうくらいに長いのだから。例えばコンクリートの石棺で覆い、何百年どころか何千年、何万年もの時を待たねばならない。しかも、コンクリートは劣化する。チェルノブイリのように、何十年ごとにより大きな石棺を作り続けねば放射能は隙間から洩れる。しかも、使用済みの核燃料をどうするかという問題もある。すべてが棚上げなのである。そこまで考えると、果たして原発は安い電力を産む、などと脳天気なことを言ってよいのだろうかと思う。今だけのコストパフォーマンス(この言葉は大嫌いだけれども)と引き換えにするものは大きすぎないか。この物語を読んで、ますますそう思ってしまった。この物語は、本当に「今」読まれるべき物語だと痛切に思う。

2012年11月発行

あかね書房

by ERI