グーテンベルクのふしぎな機械 ジェイムズ・ランフォード 千葉茂樹訳 あすなろ書房

もし、私の人生に本が無かったら。想像することも出来ないほど真っ暗闇の人生だっただろうと思います。どういう遺伝子のいたずらなのか、物心ついてからずーっと活字中毒なんですよねえ。3つぐらいのときに、あいうえお磁石で文字を覚えたんです。「言葉」と「文字」が頭の中で結びついた瞬間、自分の中でぱちん、と音がして、もやもやしていたもどかしいものが、するん、とほどけていった。なーんて気持ちいい!と思った快感は忘れられません。それからずっと、私にとって文字は、活字は快楽なのです。その活字を発明してくれたグーテンベルクは、まさに恩人というか、心の御先祖さまというか、日々感謝を捧げても捧げ足りない人であることに間違いはありません。―前置きが長くなりましたが、この絵本は、グーテンベルクが発明した印刷技術を、手順を追って絵にしてある本なのです。紙と皮、真黒なインクと金や緋色やラピスラズリの青で飾られた美しいグーテンベルクの本が、どうやって作られたか。それは、グーテンベルクだけではなく、当時のすべての知恵と、気が遠くなるほど根気のいる作業の上に生まれたものだったのだと、この本を読んで思ったことでした。

頁の見開き左側に、「紙」「インク」「革」「金箔」などが項目ごとに語られ、一冊の本になっていくまでが順を追って解説されます。右側にはそれらの挿絵。唐草模様の装飾に、忠実に当時の風俗を再現した絵が見事です。凝りに凝った造りです。紙をすく人、革をなめす人、真黒になってインクを作る人、大きな木の機械を作る人―名前も残っていない、当時の職人や下働きの人たちが、ここにはとても丁寧に書きこまれています。ただ黙々と働いた、たくさんの人たちの努力があって、やっと一冊の本が出来る。そのことに対する尊敬と感謝がこの本から溢れています。

私にとって「読む」ことは、考えることと同義です。その訓練を長年紙の本で積み上げてきた結果として、私は読むことを紙の活字本から切り離すことが難しい。後書きで訳された千葉茂樹さんがおっしゃるように、印刷技術はここ数十年で恐ろしく進化を遂げて、グーテンベルクのような活字を使った印刷は無くなってしまいました。昔は―なんて話をすると、息子たちに過去の遺物を見るような眼をされるのですが(笑)―出版社ごとに活字が違って、本を開くとまず、どこの出版社かわかったものでした。活字と活字の間の微妙な空き具合や、紙の色の違い。組まれた活字から立ち上る気配のようなものを感じることも、読書の一部に組み込まれている世代です。ところが、「書く」ことになると、今度はパソコンに向かってキーボードを叩かないとダメなんですね、これが。原稿用紙に万年筆なんて、畏れ多くて何も書けない(笑)人間のこの順応性の高さと、一旦何かを自分の標準にしてしまったあとの融通のきかなさは、果てない世代格差を生むんですね、きっと。生まれたときから携帯端末が身近にあるような今の子どもたちは、情報ツールに対する意識も根本的に違うでしょう。印刷技術が発明されたことによって、母国語という概念が生まれ、中産階級が形成された。文学や哲学、科学技術を同時代の共有財産として分け合うことで、市民意識や民主主義が生まれていった。では、これから、私たちはこのインターネットの情報網を土台にして、何を生み出していくのだろう。ほんとに、これから何もかも変っていくのかもしれない。そうとも思います。

今、携帯端末に決して出来ないことは、この本に込められている「美」でしょう。装丁と印刷の美しさ。細部へのこまやかな心遣い。でも、それだっていつの日か、携帯端末が乗り越える時代が来るのかもしれません。でも、何があっても、どんな形態になろうとも、本がひとりひとりの心の扉を開くものであること、知る権利と自由を保障するものであること、国境も人種の違いも、性別も年齢も、時代も地理的な距離も、何もかもを超えて、ひとりの人間同士を繋ぐものであることは変わらないと思っています。数ある人間の中からたったひとりの人と友達になるように、本を愛する。その感謝と愛情を、この本と分け合えるのは、とても幸せな体験でした。グーテンベルクが発明してくれたのは、本によって魂の自由を得る幸せなのかもしれません。そのことを大切に、心から大切にしたいと思う一冊でした。

2013年4月発行

あすなろ書房

by ERI