そして、ぼくの旅はつづく サイモン・フレンチ 野の水生訳 福音館書店

音楽も本も、旅と深く結びついていると思う。本は頁を開くだけで、私たちをどこにでも連れていってくれるし、音楽なら言葉の壁すらない。辛いときや苦しい時、何百年も昔に作られた曲が心の真ん中に届いて痛みを和らげてくれることがある。その曲は、どんなにたくさんの人たちの心を、時間を旅してきたことか。そして、私の手元にある物語も、出版に関わった多くの人の手をわたって旅をしてきてくれる。そう思うと、出会いというのはやはり一つの奇跡です。この物語の主人公・アリも旅の途中です。母さんとしてきたたくさんの旅。そして故郷から離れてくらす異国の風景の中で、彼が奏でるバイオリンの音が胸に響きます。

アリは幼い頃に事故で父を亡くしてからドイツの祖父(オーパ)の農場で暮らしていました。バイオリンの手ほどきもしてくれたオーパはアリの精神的な支柱です。でも、アリは、11歳の今、オーパと離れて暮らしています。アリが8歳のとき、一緒に出かけたオーストラリアへの旅で、母が運命の人と出会ってしまったから。そのままオーストラリアに母と移住して3年、アリは思春期の入り口に立ち始めています。まるで友だちのような関係だった母との間にも、少しずつ違う感情が混じり始める頃です。親子として生まれる、ということは抜き差しならない偶然です。人生で一番深い関係なのに、自分で結ぶわけじゃない。誰を親に生まれてくるか。どんな性格の子を持つか。それは、全く選べないのです。だから、いつも幸せなわけじゃないし、理不尽に耐えなければいけないときもある。この物語は、その偶然が奏でる様々な音楽に彩られています。

アリはボヘミアン気質の母、イロナに幼い頃から振り回されっぱなし。まだ6歳のアリを連れてイロナは何カ月もの旅に出たりします。詐欺師に出会ったりしながら続ける、バックパッカーの旅は、幼い子には過酷です。でも、その旅は、生まれながらにアーティストであるアリの感受性を鍛えることにもなるのです。そして、はっきりとは書かれないのですが、このイロナの放浪は、若くして夫を亡くしてしまった彼女の中から生まれてくる、言葉にならない衝動でもあるのでしょう。悲しみ。孤独。寂しさ。怒り。どんな言葉をつけてもどこかが抜け落ちてしまうような感情が、イロナを旅に向かわせたはずです。そして、アリもそれを感じとっていた。遅れた列車を待って凍りつきそうな駅で上着にくるまった二人の姿がそれを感じさせます。でも、その過酷な旅は、アリの音楽の才能にとってはかけがえのない御馳走なんですよね。孤独と感受性は裏返しです。心の葛藤なしに、優れた芸術は産まれません。母と二人、行きずりの人に出会いながらアリは心にたくさんの風景を刻みます。その旅の途中で、アリはバイオリンを弾きます。その音楽を、じっと耳を澄ませて追いたくなるんですよ。もちろん聞こえないんですが、彼の音の中にきらめくような詩情が溢れているのがわかるのです。そして、そのバイオリンは、今度はイロナの新しい人生の扉を開きます。

イロナは、オーストラリアへの旅で、アリのバイオリンがきっかけで再び人生を共にする人を見つけます。そのせいで、アリは、今度はオーパと離れて住むことになるのです。アリは、音楽家ならではの早熟さと聡明さを持ち合わせています。それ故に、とっても「いい子」してしまうんですよね。自分をぐっと抑えてしまう。新しい場所に、見知らぬ言葉、新しい父親。その場所でバイオリンを人前で弾くことを自ら封じてしまうのは、自分を封印してしまうことに近いのでしょう。そして、最愛の祖父であるオーパを亡くしてしまったとき、アリはあまりに大きな喪失感から、心を閉ざしてしまいます。その彼が、どんな風に、自分の心の声であるバイオリンを取り戻していくのか。この物語は、そこが読みどころです。アリを解き放つ鍵は、やはり音楽にあります。父親とのたった一つの記憶をよみがえらせてくれた一枚のCD。オーパと過ごしたドイツでのレッスンの想い出。新しい父親であるジェイミーと鳴らす、母へのプレゼント曲。リー先生が導く新しい音楽の扉。音楽の喜びが、少しずつアリの悲しみを美しさで満たして、新しい力に変えていきます。そのシーンの素敵なことったら。耳には聞こえないけれど、アリは自分に降り注がれる愛情を、音楽と共に感じ、歩き出すのです。親も含めて、偶然の人との出会いは、悲しみももたらすし、かけがえのない喜びも生み出す。でも、その中から何を感じてどう生きるのかは、自分にゆだねられるのです。親に左右されてしまう子ども時代から、人生を自分の手で選び取る時代へと、アリが成長していく姿が音楽と共に描かれるのがとても魅力的です。

アリは、音楽と生きる喜びが直結している、希有な才能の持ち主です。でも、彼が抱く孤独や寂しさ、そしてたくさんの人と出会う喜びは、誰もが感じる普遍的なこと。そして、アリを取り巻く人たちが、とてもユニークで生き生きしているのも、この物語を豊かなものにしています。子どもも大人も、自分の人生に、出会った人に一生懸命向き合って生きている。その陰影や凹凸も含めて、しっかり描き込まれているのが魅力です。アリが奏でるバイオリンの音に、身も心もゆだねたくなる。そんな一冊です。

2012年1月刊行

福音館書店