インヘリタンス 果てなき旅 ドラゴンライダーbook4 クリストファー・パオリーニ 静山社

前作の『ブリジンガー』から3年あまり。待っていた完結編が刊行されました。上下巻の力作です。ただ人がたくさん死ぬ戦闘ファンタジーは苦手なんですが、この物語は単なる善悪の二元論に止まらず、争いという出来事の中にある人間の複雑さや心情をしっかり描き出しています。手に汗握る展開といい、キャラクターの魅力といい、この分厚さを一気に読ませて圧巻です。

そう、この物語の読みどころは、戦争という特殊な状況の中での、主人公たちの内面の葛藤や弱さが克明に描かれるところだと思います。ドラゴンライダーとして、ガルバトリックスという最強の敵と対峙しなければならない重圧に苦しむエラゴン。寄せ集めの軍隊をまとめて指揮をとるナスアダは強い女性ですが、今回は敵に誘拐され拷問を受けるという苦難に陥ります。そして、魔力も特別な能力も持たずに、自らの知恵と力だけで妻子を守り抜こうと苦闘するローラン。命をかけたぎりぎりの場所でまっすぐ自分の弱さを見つめた時に、もう尽きたと思った場所から新しい力が溢れてくる。そこに大きなドラマがありました。

でもねえ、ほんとにたくさん人が死ぬんですよ。息子たちがやっている「三国無双」を連想するくらい。ちょっとうんざりしかけました。でも、読んでいるうちに、そのあたりの矛盾も、作者は意識して書いてるんじゃないかと思ったんです。敵はばったばったとなぎ倒して死に対する感覚も麻痺するぐらいなのに、自分の身内の死に対しては深い喪失感に苦しむ。戦争の中で、エラゴンの身内に赤ん坊が生まれます。口に障がいを持って生まれたその子を、エラゴンは時間と力を使って必死に治すんです。何百人という人を殺したその手で。でも、本当はなぎ倒される名も無い兵士(実は名も無い兵士なんていないのですが)一人一人に家族があり、大切な人生がある。そこを感覚的に切り捨てる無自覚の怖さと、無自覚に気付いたときの苦しみ。その矛盾と葛藤の中に人は生きている。

それを象徴するのが、エラゴンとガルバトリックスとの最後の戦いと戦後処理の描かれ方です。ネタバレになってしまうので、あまり詳しいことは書きませんが、最後の戦いでは、相手を力でねじ伏せるのではなく、「理解」を求めるところから活路が見いだされる。この迫力溢れるシーンは圧巻でしたが、その戦いで勝利を収め(そこは予定調和だから書いていいよね)英雄になったエラゴンの身の処し方に、ああ、そうなのか、と私はこの物語のテーマが腑に落ちるような気がしたんです。ここも書いてしまうとこれから読む人が面白くないんで、明言は避けますが。エラゴンは、ガルバトリックスが犯した過ちを二度と繰り返さぬために、栄光とは無縁の、厳しい生き方を選ぶのです。そこには、ル=グウインの言うヒロイックファンタジーの本質ー「人が過ちを犯すこと。そして、ほかの人であれ、本人であれ、誰かがその過ちを防いだり、正したりしようと努めて、けれどもその過程で、さらに過ちを犯さずにはいられないこと」を描き出そうとする営みがありました。これを読んだ子どもたちは、ハラハラドキドキしながら、自分自身と語り合い、矛盾も含めた人間という存在に思いを馳せることになると思います。この壮大なファンタジーを締め括りに相応しい爽かなラストも良かった。何はともあれ、最後までこの分厚さにめげずに読み終われてほんとに良かった(笑)

2012年11月刊行 静山社

 

※表紙の画像を入れたいのですがiPadでどうしたらそれができるのかわからない。ああ。。。普通のパソコン欲しい(笑)

2012年 今年印象に残った本

あと少しで2012年が終わります。年齢を重ねるごとに一年が短くて、今年も「○○をした」と自分に言えないまま終わってしまうのが悔しいというか、歯がゆいというか。でも、とにかくこうして本を読みながら無事に一年を終えられることは、とてもありがたいことです。そして、ブログを移転したにも関わらず、たくさんの方がこちらにもレビューを読みに来てくださっていることに、心から感謝いたします。どうもありがとうございました。

2012年に書いた本のレビューは、102本でした。読んだ本の3分の1くらいしかレビューをかけないのが我ながら情けないのですが、不思議なことに、年々レビューを書くということが難しく感じられます。時はさらさらと過ぎていくのに、その中で出会うものの重みは増すようなのです。一冊の重み。そこに注ぎ込まれた思い。感じれば感じるほど、筆は重くなる(汗)でも、私は本をとにかく愛しているので、来年もたゆまずレビューを書いていきたいと思っていますし、そのほかにも自分なりに立てている目標に向かって、一歩ずつ進んでいきたいと思っています。どうか、ときどき「何書いてるんかな~」と覗いてやってくださいませ。

さて、2012年に読んだ中でも、自分の印象に強く残った本をピックアップしてみました。

☆国内作品

『八月の光』 朽木祥 偕成社 http://oisiihonbako.at.webry.info/201206/article_10.html

朽木さんの渾身の作品。今、そしてずっと私たちが心に刻まねばならないことがぎゅっと凝縮されています。今年の一冊をあげろと言われたら、この本を選びます。

『雪と珊瑚と』 梨木香歩 角川書店 http://oisiihonbako.at.webry.info/201205/article_8.html

梨木さんの投げかけるものは、いつも私にとってこれからを考える羅針盤です。

『天山の巫女ソニン 巨山外伝 予言の娘』 菅野雪虫 講談社http://oisiihonbako.at.webry.info/201205/article_2.html

シリーズの外伝というだけでもファンには嬉しいのに、とても深く読み応えのある内容で、ここで終わってしまうのが残念なくらいでした。

『リンデ』 ときありえ 高畠純絵 講談社 http://oisiihonbako.at.webry.info/201202/article_4.html

犬のあったかい体、命のぬくもりの確かさが心に残ります。

『ある一日』 いしいしんじ 新潮社 http://oisiihonbako.at.webry.info/201204/article_7.html

生まれ来るひとつの命が、すべての生死と繋がっていく壮大なドラマ。見事でした。

『ことり』 小川洋子 朝日新聞出版局 http://oishiihonbako.jp/wordpress/?p=465

これは、昨日レビューを書いたところなので、下の記事を読んでください(笑)

☆翻訳作品

『クロックワークスリー マコーリー公園と三つの宝物』 マシュー・カービー 石崎洋司訳 講談社  http://oisiihonbako.at.webry.info/201201/article_9.html

手に汗握って読んだという点においては、今年のNo.1!

『サラスの旅』 シヴォーン・ダウド 尾高薫訳 ゴブリン書房http://oisiihonbako.at.webry.info/201209/article_2.html

サラスのおぼつかない足取りの旅が、愛しかった・・・。

『少年は残酷な弓を射る』 ライオネル・シュライヴァー 光野多恵子/真貴志順子/堤理華訳 イーストプレス』 http://oisiihonbako.at.webry.info/201207/article_3.html

先日もアメリカで銃の発砲事件がありました。この作品のことを考えました。幼い子ともたちのこと。それでも銃社会をやめられない大人の事情・・・。

『ジェンナ 奇跡を生きる少女』 メアリ・E・ピアソン 三辺律子訳 小学館SUPER YA  http://oisiihonbako.at.webry.info/201204/article_9.html

この作品も、今年のノーベル賞であるIPS細胞とリンクしていました。文学作品というのは、不思議に時代とリンクしていきます。

追記;『ミナの物語』デイヴィッド・アーモンド 山田順子訳 東京創元社  http://oishiihonbako.jp/wordpress/ya/78/ 

を忘れていました。私としたことが(汗)

今年も、たくさんの素敵な作品と出合えました。活字本や雑誌の発行額は年々減り、電子書籍の台頭も話題になる今ですが、私は一冊の「本」という世界に出会うことが大好きです。2013年はどんな本に出会えるのか。それを楽しみに新しい年を迎えます。小さな声ですが、細々とでも語り続けることを目指して・・・。一年間どうもありがとうございました!

シフト ジェニファー・ブラッドベリ 小梨直訳 福音館書店

18歳。子どもから大人へ、シフトチェンジの季節です。働くにしても進学するにしても、親の羽の下から飛び出して、自分の生き方を探すとき。この本は、少年が青年になる、ギュンとギアが入れ替わる瞬間をとらえた物語。疾走感にあふれた魅力がありました。

18歳のクリスは、高校を卒業し、大学に入るまでの2カ月で、親友のウィンと自転車で大陸を横断するという冒険旅行に出かける。ところがその親友は、旅の終わりに、自分を置き去りにしていなくなってしまったのだ。実力者であるウィンの父親は、クリスが居所を知っているはずと圧力をかけてくる。物語は、大学の新生活と、そんなウィンをめぐるごたごたに振り回されるクリスの戸惑いから始まります。

幼いころからの親友だったウィン。何もかも知りつくしているはずだった。でも、本当にそうだったのか。クリスは、ウィンとの旅を思い返しながら、見知らぬ人のように遠くなってしまった彼の心を手繰り寄せようとします。この物語は、夏の旅から帰ってきたあとの、もう一つの心の旅なのです。旅の濃密な時間の中に隠されていた、わずかなサインを、クリスは思い出します。男子ならではの、ライバル心と親しみが交錯する距離感が、ジェットコースターのように展開する旅の面白さ。腕立て伏せや、パンク修理のタイムトライアルに始まって、水のかけあいから、派手な喧嘩やら・・・その子どものじゃれあいのような楽しさと、風景や人と出会いの、なんときらめいていること。でも、その中にこれまでとは違う空気が、冷やりとする水のように流れていたことが、クリスの「今」と交互に書かれていく構成の中で浮かび上がってくるのがスリリングで、物語から目が離せなくなりました。

ウィンは、この旅がクリスとの別れであると心に決めていたのです。高圧的な父に反発して、ずっと自分を出すことなく生きてきたウィン。でも、親友はそんな自分とは裏腹に、勉強もボーイスカウトも、親との関係もしっかり自分のものにして、進学も自分の力で決めた。それに引き換え、自分のこれまでの人生は、やたらに人を支配しようとする父親にたてつくためだけに費やされている。そんな自分からシフトするための、崖を飛び降りるような決断の旅だったのです。これまでずっとくっついて暮らしてきたウィンとクリスの激しいぶつかりあいは、今までの自分との闘いでもあるのです。自転車で大陸を横断するという、無謀に近いような旅。でも、その旅は、ウィンの背中を確実に押したのです。「追いつくよ、いつか」というウィンの言葉は、ここからが自分のスタートだというしるしなんですよね。

いまは-おれたちふたりとも変わって、みんなが考えるより、すごいんだってことがわかって-お互いそれを知ったいまは、もうもどれないよな、もとの場所には。

親子という関係は、ほんとに難しいものだと思います。捨てようと思って簡単に捨てられるものではないんですよね。父親の支配という引力から抜け出すために、ウィンが走った距離を思うと、ため息が出そうです。子は親を捨てていい、私はそう思っています。(反対は絶対だめですけどね)また、いつか拾わなければならないときがやってくるから。若いとき、自分が自分らしく生きる道を探すためには、一度精神的に親を捨てる必要があると思うのです。この二人の旅は、これまでの自分との闘いであると同時に、いわば親捨ての闘いの旅だと思うのですよ。執拗に追いすがってくるウィンの父親の手を、なんとか振り切るクリスの闘いも、ある意味親という引力を振り切る闘いなのでしょう。歩きだそうとする若者に対するエールを、この物語から感じました。

今あちこちで展開されている教育論を聞いていると、若い人たちをなんとか自分の思い通りにしたいという欲望が先に立っているように思えてなりません。そう、このウィンの父親が繰り出す教育論のように。その欲望から逃げ出して、地に足のついた生活をしていこうとするウィンのような若者は、これから増えてくるんじゃないか。そんな風にも思います。もしかしたら、それがこれからの希望かもしれない。選挙のあとの、おじさんたちの高揚の中で読んだこの本は、何やら象徴的でした。YAを対象とした物語としては、少し読み手の想像力に頼る部分が大きいかもしれません。でも、これが第一作という筆者の熱い思いをふつふつと感じる、面白い一冊でした。装丁もとてもしゃれていて、カッコいい。男子向けの貴重なYA小説です。

2012年9月刊行
福音館書店

by ERI

ふたつの月の物語 富安陽子 講談社

置き去りにされた双子。人里離れた神社に伝わる神事。狼の血をひく、青く輝く瞳を持つ少女。横溝正史の世界のような伝奇ホラーの雰囲気を湛えた、YA小説です。富安さんのYAものを読むのは初めてなんですが、幻想的なモチーフを使いながら、主人公の双子の少女のキャラがそれに負けずに立っていて、読み応えがありました。

離れ離れに育っていた双子が、大きくなってから出会うという設定や、人里離れたお屋敷とか。代々伝わる神事とか。さっきも書きましたが、横溝正史シリーズを連想させるような要素がいっぱいです。若い頃好きだったんですよね、私も。古本屋をあさって全部読んだ身としては、何やら懐かしい昭和の香り(笑)すっと体に馴染んでお話に入っていけました。若い頃って、こういう因習の匂いのする物語が、かえって新鮮で面白かったりしますよね。『獄門島』とか、『悪魔の手毬唄』とか、タイトルを書くだけで、今でもちょっとワクワクする(笑)私が言うまでもなく、民俗学がからむミステリーというのは日本では一つの王道です。富安さんも、こういうジャンルがお得意の方だけあって、雰囲気作りはお手の物。出だしの少女二人の登場から、ぐぐっと読み手を引き込む力があります。

私がいいなと思ったのは、主人公二人のキャラです。美しくて聡明で、人間離れした嗅覚を持つが故に、人から浮いてしまう少女・美月と、行動力旺盛でまっすぐな気性の、テレポーションの能力を持つ少女・月明。二人でひとつのような彼女たちが、自分で考えて行動し、自らの出生の謎を解いていくのが読んでいて気持ちよかった。児童文学の手練れの富安さんは、二人の性格や表情を活き活きと描きます。富豪の女性、津田節子が何の目的でそんな二人を引き取ったのか。それがこの物語の核心で、二人の出生の秘密と深く関わる部分です。そこを語ってしまうとネタばれになってしまうので伏せますが、最愛の孫を失った節子の深い悔恨と悲しみが、その目的の裏にあります。人の生死の理を超えようとしてしまうほど、節子はその悲しみに囚われている。愛するものを失う悲しみ、しかも逆縁で愛するものを失う苦しみは、筆舌に尽くしがたいものがあると思います。でも、悲しいことに、私達は、そんな理不尽の中に生きている。

昨日、『菖蒲』という映画を見てきましたが、そこに描かれていたのは、やはり別れという名の理不尽に戸惑う人間の姿でした。どんな人生経験を積もうとも、私たちは「別れ」に慣れることはない。でも、その辛さと悲しみの中に、一番尊いものがあるのではないか。私は、そう思いながら昨日帰ってきたのです。ラストシーンで、若い男の子を抱きしめる主人公の中年女性は、我が子を失って泣くピエタを思わせました。節子の悲しみは、人を愛したが故の喪失の苦しみです。受け入れられない、飲み込めない事実―でも、再び自分の近くに少女たちの若い命を感じたとき、節子の心に、優しさが生まれた。理不尽に打ち砕かれても、悲しみに打ちひしがれても、またその中から誰かを思う気持ちが芽生える。それが、理不尽に翻弄されて生きている、私達に与えられた唯一の祝福なのかもしれません。途中まではらはらしながら読んでいた物語は、思いがけず穏やかな充足をもたらせて終わります。節子さんの満足が切ないけれども、心に沁みました。酒井駒子さんの表紙と装丁も、夜の匂いのするこの物語にぴったりあって、さすがの出来栄えでした。

2011年10月刊行
講談社

by ERI

十一月の扉 高楼方子 千葉史子絵 講談社青い鳥文庫

十一月のうちに、この本のレビューを書きたかったのだけれど、気が付いたら12月に突入してしまった(汗)秋が深くなって風が冷たくなると、この物語が読みたくなります。年末に向けてあれこれしなきゃ、と想いながらぼんやりしたりして、あっという間にすぎてしまう11月。でも、この物語の中で爽子と過ごす11月は、感受性の塊のような14歳の心が紡ぐきらびやかなタペストリーです。高楼さんの筆は、彼女の心のひだを一つ一つ色鮮やかに描き出します。憧れ。ほのかな恋。背伸び。少女の感性は憧れとおなじくらい失望も経験します。恋心は、ため息と苦しみを。家族と離れた日々は、同性である母への複雑な想いも具現化したりします。物語の中に迷い込んだような十一月荘の日々は、様々な色で爽子を照らし、その心を染め上げるのです。少女の心の光も影も見つめながら、この作品世界は瑞々しい「美を感じる喜び」に満ちています。だから、爽子と一緒にこの物語の空気を胸いっぱいに吸い込みたくなるのです。

中学生の爽子は、ある日偶然に素敵な家を見つけます。それは「十一月荘」と名付けられた下宿ができるらしい洋館。急に父の転勤が決まった爽子は、3学期までの二ヶ月間、そこから学校に通うことを思いつきます。思いがけずその願いがかなった爽子は、十一月荘で、女性ばかりの個性的な住人たちと過ごすことになるのです。

まず、この物語は、とても重層的な構成になっています。まず、舞台となる十一月荘が、少女小説のエッセンスがぎゅっと詰まったような場所なのです。爽子の部屋は、赤毛のアンの部屋のよう。女ばかりの家は、若草物語を連想させますし、爽子と、幼いるみちゃんの関係は「小公女」のセーラとロッティを思わせます。この十一月荘に足しげくやってくる、おしゃべり好きの鹿島夫人は、赤毛のアンのレイチェル夫人…という風に、大好きな少女もののあれこれが、あちこちに散りばめられているようでうっとりしてしまう。この物語には、先行作品として人々の心に生き続ける永遠の少女たちのエッセンスが香りのように漂っています。そして、この物語には、爽子の書くもう一つの小説が描かれます。ドードー鳥の細密画の表紙の美しいノートに爽子が書きつづる「ドードー森」の物語。動物たちのファンタジーは、この物語の中でも触れられる「たのしい川べ」のような雰囲気なのですが、登場人物たちは、十一月荘の住人や、そこを訪れる人々なのです。物語の中で、もう一つの物語が語られる。それは、爽子という少女から生まれる新しい場所でもあります。家庭という檻の中から抜け出して、新しい扉を開いた爽子が、そこで出会う人たちから、これまでとは違う世界を教えてもらう。そして、そこから爽子の新しい扉が開く。それは、アンやジョーを愛する少女たちがたどってきた道のりでもあり、爽子という少女だけが開くことのできる、たった一つしかない世界でもあります。受け継がれるものと、そこから新しく生まれるもの。過去と今が出逢い、きらめくように溶けあってかけがえのない世界を作る幸せな一瞬が、ここにあります。そんな幸せが音楽の喜びとなって降り注ぐラストシーンに爽子がつぶやく言葉が、私は好きなのです。「だいじょうぶ。きっときっと、未来も素敵だ。」

物語は、心を繋ぎます。爽子の書くドードー森の物語が、るみちゃんと、そして耿介との心を繋ぐように。遥かなものに憧れ続けた少女の頃の私と爽子を繋ぎ、アンやセーラやジョーが大好きだった女の子たちの心も繋ぎます。そして、これからを生きる子どもたちの心にも、暖かい光を投げかけてくれるに違いないと思うのです。

「きょう一日(ひとひ)また金の風
大きい風には銀の鈴
きょう一日また金の風 … 」(中原中也 早春の風)

この詩は春の風の詩ですが、私はこの物語を読むと、この詩を思い出すのです。私の心が通り過ぎてしまった青春の風。でも、無くしてしまったわけじゃない。この物語に私の風も託して、今の子どもたちの心が、新しい扉を開いてくれることを願っています。「十一月には扉を開け。」りんりんと、爽やかな鈴の音がするような言葉に、物語の力が宿ります。この本は2011年に講談社の青い鳥文庫から新しい装丁で刊行されています。元々の単行本も好きなのですが、この青い鳥文庫には、高楼さんのお姉さんの千葉史子さんの挿絵がたくさん入っています。これがまた、可愛くて素敵なんですよね。こうして文庫になることで、またたくさんの子どもたちに読まれるといいなと心から思います。

2011年6月刊行
講談社青い鳥文庫

by ERI

父と息子のフイルム・クラブ デヴィッド・ギルモア 高見浩訳 新潮社

 16歳で学校に通うことが出来なくなってしまった息子に、父親は二つ条件を出して学校からリタイアすることを認める。一つは麻薬に手を出さないこと。もう一つは、父親と一緒に週に3本映画を見ること。この本は、そこからの3年間の日々を綴ったノンフィクションです。

親にとって、子どもが学校に行かなくなるというのは、結構こたえることです。いろんな不安が押し寄せる。子ども自身の将来がどうなってしまうんだろうという不安。どんどん社会から取り残されてしまうような不安。これまでの自分の子育てを反芻してはその原因を探して堂々巡りに陥ったり、右往左往の連続です。私の場合、これからリタイアするよ、と明確に引き際を決めることさえも難しかった。無理かも・・・と思いながら、車で大幅に遅刻した息子を無理やり送っていったり。毎日毎日学校に「今日も休みます」と連絡することに疲れ果ててしまったり。ひたすらじたばたし、かえって息子にストレスを与えてしまったようにも思います。まず、不登校という事実を受け入れるまでに親も疲れ果ててしまう。そこからまた歩き出すには、私は時間が必要でした。しばらく呆然としていた、というのが正直なところです。この本の著者のデヴィッドも、だいぶ右往左往されたようなのです。でも、とうとうその事実を受け入れざるを得なくなったとき、彼は息子と「映画を一緒に見る」という取り決めを交わします。そこでこの提案が出来、ちゃんとそのプログラムが実行されたこと。それが、私にはまず驚きでした。うちの場合、鬱や胃腸障害を抱え込んでしまったので、そのときの体調に全てが左右されてしまう面が大きかったこともありますが、ほんとにいろんなことを途中で放り出してしまった。流されるままになし崩しにしてしまった。その後悔があります。だから、こんな風に学校に行くか行かないのかをきっちりと判断させ、なおかつ親子でひとつのことを続けていくことが出来たら、もっと早く精神的な支柱を取り戻せたかのかな、と読みながら思うことしきりでした。

まず、映画を親子で見続けるということが出来たのは、映画という媒体の力が大きいし、父親自身が、映画のことを知りつくしている人だから出来たことでもあるでしょう。自信を持って息子に語れることが父親にある。そのことについて、話が出来る。この『話が出来る』というは、子どもがずっと家にいる状態では、かえって難しかったりします。距離の取り方が難しいのです。ただでさえ、思春期の子どもと親が話をするのは難しい。いろんないざこざでお互い傷つけあったあとでは、なおさら難しい。部屋にとじこもりがちになる子どもに何を話しかけていいのかわからなくなるんですよね。だから、こうしてずっと息子と話が出来るきっかけを映画という媒体を通して作り続けたことが素晴らしいと思うのです。ずっと息子に対して自分を開いた状態にし続けた父親の愛情と努力を尊敬してしまう。父親であるデヴィッドは、説教したり上から目線の言葉を決して投げかけません。息子の感性と考え方を尊重し、彼の若さゆえの行動も、ガールフレンドとのあれこれも、自分の問題として受け入れて誠実に答えていくのです。自分の性的なことに関しても父親に話すジェシーのまっすぐさにも驚きましたが、そこにはお互いに対する強い信頼があるんですよね。私はここまで息子を信頼できていたのかな・・・いや、今も出来ているんだろうか。そんなことを思ってしまいました。

ジェシーは、19歳で学業に復活し大学生になります。ジェシーとデヴィッドは、二人三脚でこの時期を乗り切ったのです。もちろん、この親子と同じことをしようと思っても、はいそうですか、と出来ることではありません。でも、この親子のたどった道から、いろんなことを教えてもらうことは出来そうです。そして、優れた映画案内として読むことも出来ます。私自身が好きでよく見た映画もいっぱい紹介されていましたが、デイヴィッドが語る映画のみどころを読むと、もういっぺん見たくてうずうずしましたもん。もちろん見ていない映画は、メモメモしました(笑)老後は映画をいっぱい見よう・・・って、死ぬまでに読み切れないほどの本のリストを抱えて、まだそんなことを言う自分の欲深さが恐ろしい(笑)

私の子育ては後悔の連続で、ほんとに、ただひたすら流されてしまったことが多すぎた。流されなくては、今度は自分が生きていくことに踏みとどまれなかったのかもしれないし、今もどんどん流されてしまっていることには変わりないのですが・・。その時々の分かれ目でどうすれば良かったのか、それをいまだに考えます。この本は今、苦しみの中にいる人の助けにはならないかもしれないけれど(不登校には、千差万別の事情がありますから)、同じ苦しみを体験した親として分け合える何かがあると思います。その『何か』を与えてくれるものは、これだけ専門書や関係書が出回っているにも関わらず存外少ないのです。読めば読むほど苦しみの中に堕ちてしまうことの方が多いんですよね。自分の家庭のことを書くのは、後書きでご自身がおっしゃるように大変なことだったと思います。でも、そこを押してこの本を出版されたことに、著者の同じ苦しみの中にいる人たちへの想いを感じる・・そんな一冊でした。

by ERI

飛ぶ教室 31 2012 秋号

今号の『飛ぶ教室』は、【44人の「わたしの一冊」】という特集。本好きには堪えられない。メモメモ片手に、読みふけってしまう。「わたしが出会ったこの一冊、わたしを作ったこの一冊」というテーマで、44人の方々が自分を変えた一冊を語っておられるのだ。本に深く関わる生き方をしている人の「一冊」への想いは深く濃く、それぞれの出逢いの熱さに、こっちも感染してしまいそうになる。

例えば、いしいしんじさんの「大人以上の大人の、本以上の本」の長新太さんへの想い。私も、こんな風に長さんを語りたかった。あの大きくて突き抜けていて、長さんの絵を見ているだけで、どこまでも世界が広がっていくようなあの感じ。長さんが書いた本たちがなかったら・・・という想像は、マンガ界に萩尾望都さんがいなかったら、と思うくらいの欠落感を伴う。巨人だよねえ、と思うんだが、その大きさをこんなに肉体的な感動で書けるのはさすがにいしいさんだと心から感嘆した。

江國香織さんの、もはや自分とうさこちゃん(ブルーナです)の区別がつかないほどの混然一体ぶりも凄いし魚住直子さんの『ムーミン谷の冬』への共感の仕方にも、感じるところがあった。ムーミンのシリーズはどれも大好きなのだけれど、『ムーミン谷の冬』は、私にとっては別格なのだ。それは、夜の中で自分だけ起きているという孤独への親和感なのかもしれないと、魚住さんの文章を読んで思ったことだった。植田真さんの、「日常の景色を変える鍵」という、ホームズ作品に出逢った夏の想い出は、コナン・ドイルの本の魔法に強烈に囚われていた小学生の頃にタイムスリップさせてくれたし。ここには、44人の、本と出逢ってしまった人の幸せがぎゅっと詰まっている。うん。やっぱり、本と出逢うのは幸せなことだ。

新人短編共作では、庭野雫さんの『母のワンピース』と、くぼひできさんの『俺を殺す方法』が印象的だった。『母のワンピース』は、母とのささやかな行き違いが、痛みのままに残ってしまった女の子の気持ちが、とても伝わってきた。母が生きていれば、そのうち笑いごとになってしまったかもしれないことが、少女には後悔となって残っている。でも、手作りのワンピースという温もりを感じ、そこに母の想いを感じることが、少女を少し大人にする。共感する、そこにいない人の心を理解しようと伸ばす手が、心を結んでいくのだということがさり気ないメッセージとして書かれているように思えた。『俺を殺す方法』は、なかなかショッキングな物語だった。母親の自殺未遂を目撃してしまった少年の話だ。語り手は、主人公の秀一の中に住む「俺」。日常の中でいきなり両親とものっぺらぼうになってしまうような秀一の疎外感が、「俺」に語らせることで浮かび上がっている。あまりにもショッキングなことが起こると、人は記憶を途切れさせて自分を守ろうとする。でも、本当は忘れられるはずなどない。心の奥深くにしまいこんでいるだけ・・・ややもするとぽっかり浮かびあがろうとする不安や恐怖の在りかを考えさせる作品になっている。これは、けっこう挑戦的な試みかもしれないけれど、私は、子どもというのは、心の奥底に恐怖という箱を持っているように思う。怖いけれど、怖ろしいけれど、時々そこをあけて見ずにはいられない、箱。この短編も、その箱に転がっていることの一つのような気がするのだ。家庭の崩壊というのは、子どもにとって一番の恐怖だ。その恐怖の手触りを、ざらりと乾いた筆致で書いてあることに惹かれた。知らなくていいことなのかもしれない。でも、物語という方法で、自分の、もしくは他者の未知の領域を知るのも、私は子どもの物語のひとつの営みだと思う。

「books」には、加藤純子さんによる朽木祥さんの『八月の光』の評が載っていた。三つの短編の有機的な繋がりを「記憶」を鍵として述べてらっしゃる文章に、自分のレビューに欠けていたものを見つけてはっとした。そう、こういうことだったんだなあ・・。さすがだ。

最後に、自分の「わたしの一冊」を考えてみた。子どもの頃の一冊なら・・・『小公女』だと思う。今でも時々読み返すくらいの一冊だ。なんでこんなに惹かれるのか、ということに、先日高楼方子さんの新訳を読んで気がついた。セーラは、どんな境遇にいても変わらない。ちやほや甘やかされても、どん底の暮らしの中でも、彼女はいつでも自分自身で在り続ける。その気概と誇り高さが、私は好きだったのだ。どこにいても、自分を物語の主人公になぞらえてしまうことで現実から距離を置いて自分を見つめる。そんな生き方を、私は知らず知らずにセーラに教えてもらったように思う。そして、大人になってからの一冊は、朽木祥さんの『かはたれ』だ。目に見えないものを感じること。耳に聞こえない美しい音楽を聞こうとする心。それこそが、この人生を生き切るための光であることを、大人になって新鮮な眼を失いかけた私に教えてくれた一冊。河童の八寸は、出会った日から、ずっと私の中に棲んでいる。やはり、折に触れて読み返す、中年になってからの私の原点なのだ。

デイヴィッド・アーモンド講演会 「想像から生まれる力」 

今日(11月3日)大阪府立中央図書館で、来日されているデイヴィッド・アーモンド氏の講演会「想像から生まれる力―国際アンデルセン賞作家、デイヴィッド・アーモンド自身を語る」という講演会がありました。こんな機会は一生に一度かもしれないと、張り切って行ってきました。

初めて拝見したアーモンドさんは、とても気さくなあったかいオーラを放っておられる方でした。会場に気軽な感じで入ってこられて、とても熱心にいろんなお話をしてくださって・・・何だか、ますますファンになってしまいました。アーモンドさんは日本が大好きで、岩手にも行ってらしたとか。宮沢賢治の詩が好きで、とてもインスピレーションを感じられるそうです。賢治が方言を使って物語を書いているところに共感してらっしゃるようで・・講演の中でも、故郷の風景や子どもの頃のお話をいろいろしてくださいましたが、彼の言葉のひとつひとつが、そのまま作品世界を連想させるものでした。空が、土が、spiritが呼び掛けてくる・・という言葉が印象的でした。

作品が好きで読みこんでいる作家さんのお話を聞くと、当たり前かもしれませんが、共感できるところがとても多いです。「ありふれた(ordinary )」という言葉をよく私たちは使うけれども、この世界にありふれたものなど、何もないということ。存在の奇跡ということにからめて、ウイリアム・ブレイクの「THE TIGER」という詩を朗読しておられましたが、ブレイクの詩は、イギリスでもアーモンドさんの著書に影響されて読む人が多いとか。昨日レビューを書いた『ミナの物語』の主人公ミナは、(登場人物は誰でもそうだけれども)自分の一部だと。そして、「私が作品を書くのを助けてくれる部分」だともおっしゃっていました。ミナの世界に対する無垢な驚きの眼は、そのままアーモンドさんの心の眼なんですよね。・・・うん、納得。

ご自分の作品がどんな風に生まれるかという話も、創作ノートを公開してまで説明してくださって、とても興味深いものでした。子どもたちにも、同じように創作について説明されるそう。それは、本は遠いものに見えるが、皆さんにも近づきやすいものだということを伝えたいからとか。「あなたも出来ます」ということを伝えたいのだとおっしゃっていました。いやいや、それは難しいよ、と思いながら、そんなアーモンドさんの姿勢が素敵です。いろんな作品のお話もしてくださったのですが、その中でも印象的だったのを一つだけ。

『肩胛骨は翼のなごり』のスケリグ。「あの不可思議な存在を思いつかれたきっかけは何だったのですか」という質問(実はこれ、私でした)に、シュン、と降りてきたんだと。(シュン、という擬音とジェスチャー付きでした)一冊本を書き上げてポストに投函し、頭の中は空っぽで、やれやれ、ちょっと休憩しようと思って10mほど歩いたところで、いきなりあの物語を思い付いた。机に向かって書き始めたら、スケリグが、いきなり頭の中にやってきたらしいんです。「どこから来たのかわからないけど」とおっしゃってました。びっくりされたらしい(笑)あの物語は、書いている間、自分でもどうなるのかわからなかったと。あの作品をよく「巧みだ」と評されることが多いけれど、「その通りだよね」と笑ってらっしゃいました。『肩甲骨は翼のなごり』は、どうもとてもお気に入りのようです。5歳の頃に、氏の肩胛骨をお母様がさわって、「これはあなたが天使だったときの名残りよ」と言ってくれたと。そのことは忘れられないとおっしゃってました。あの物語には、そんな想い出も込められていたらしいのです。だからこそ、より特別な作品なのかもしれません。

既にイギリスでは出版されている著書を幾つか見せてくださったのですが、どれも涎が垂れるほど読みたいものばかり・・・どうか、日本でも出版されますように。これから書きたいものも、山のようにおありになるとか。嬉しいなあ。

「物語は楽観主義と希望から生まれる」「物語は崩壊に向かう力を押し戻すもの」「人間は物語を語るもの。人は人である以上、物語を語り続ける」

この言葉に、アーモンドさんの物語に対する信頼と愛情、物語を生みだすものとしての気概を強く感じました。参加できて幸せでした。アーモンドさん、ありがとうございました。そして、この機会を作って頂いた関係者の方々に、心からお礼を申し上げたいと思います。本にサインまでして頂きました~!幸せ・・・。

by ERI

 

ミナの物語 デイヴィッド・アーモンド 山田順子訳 東京創元社

大好きな『肩胛骨は翼のなごり』のミナの物語・・・もう、この惹句を読んだとたん、アマゾンでぽちっとしてしまったこの本。ひとつひとつの言葉が、優しい雨のように、木漏れ日のように心に降り落ちて、沁み込んでいくのです。生まれおちて初めて空や海を見る幼子のように新鮮な眼で全てを見つめ、言葉を紡いでいくミナ。私はミナと一緒に、この世界の不思議を見つめます。何て豊穣なミナの世界!原題は『My NAME IS MINA』。ミナが自分のノートに綴った心の記録が、この本です。

ミナは、常に考えています。ミナのお母さん曰く「自分の意見や見解を持っている子」なんです。いつも驚きを持って自分と世界を見つめている彼女にとって、毎日は冒険。思考は果てしなく展開し、心はフクロウのように翼を広げてどこまでも飛んでいこうとする。その自由さといったら!この本は、ミナのノートそのものという設定で、そこがとても楽しいのです。ぴょんぴょん跳ねるウサギのように、楽しく跳ねまわる彼女の視線。美しいもの、素敵な言葉を見つけると、一直線に走り寄って言葉にせずにはいられない。

「この刺激的で、すばらしくて、不可思議で、美しくて、息を呑むような、驚きに満ちた、ゴージャスで、いとおしい、あたしたちの世界をみつめよう!」

ミナの心を書き写すアーモンドの筆は、冴えに冴えます。月の夜。地下の坑道。お気に入りの木の上。埃だらけの隣の家(そう、マイケルが越してくるあの家です)まで、ミナにとってはこの世の不思議を内包する、存在の輝きに満ちた特別なもの。その心の軌跡を、少女の瑞々しい瞳が見つめるままに書きとっていきます。この本は、ミナの心の自由そのもの。その眼差しに心を重ねるのは、心躍る体験でした。しびれた足のように堅くなっている心に血が巡る感覚・・・ル・クレジオの『地上の見知らぬ少年』のように、この世界をはじめて眼にする新鮮な喜びに、心が躍りました。ミナと一緒にこの世界を愛せる気持ちになれるんです。まだ少女であるミナの世界は、物理的に言うとほんの狭い場所なんですが、彼女の心の旅はどこまでも広がっていく・・そう、本の世界と同じです。

でも、そんな彼女は、学校という場所では異端者です。ミナにとって学校は鳥籠。彼女の羽を縛る恐るべき場所。「標準学力テスト」とミナが折り合うはずもありません。「標準」という言葉で、たった一つの価値観で、子どもを評価しようとすることに、ミナはことごとく反発します。「上手くやる」「人に合わせる」ということが全く出来ない。心に自由の翼を持つ彼女は、現実世界では落伍者なのです。ミナは、学校にいかずに、家で母の教育を受けています。今は、それでいい。でも、いつまでもそのままではいられないことも、わかっているのです。自分の心の王国では女王であるミナも、いやいや行ったフリースクールでは、おびえ、戸惑うちっぽけな女の子。

「“成長する”ことは、すばらしくて胸がどきどきするけれど、同時に、決して簡単なことではないのだろう。こんちくしょうにむずかしいことなのだろう」

自分だけの心の世界から、誰かと共有する世界へ。しなやかな心は、別の魂と出逢いたくてうずうずする。でも、繊細すぎる感性は、傷つくことを恐れ、伸ばした手を引っ込めようとする。そんなミナの葛藤が、アーモンドならではの細心さで書き綴られます。差し出そうとする手をそっと抱き寄せるようなアーモンドの優しさは、少女や少年と呼ばれる年代を生きる子たちの心に必ず届くと思います。

この本は、マイケルと新しい物語を始める、その日までの物語。彼女が、その手で新しい扉を開く、その瞬間までを綴ります。新しい扉を開いたミナは、マイケルと、スケリグと出逢い、「不可思議な存在」がもたらす奇跡を分け合います。そう。人と出逢い、勇気を出して心を繋ぐことで、世界は広がっていく。傷つきやすい魂の苦しみを見つめながら、生きる喜びを心いっぱいで抱きしめようとするアーモンドの詩情に、心深く打たれる一冊でした。この本を読んで、再び『肩胛骨は翼のなごり』を読むと、感動がひとしお。そして、またこのミナの物語を読み・・という、循環に陥ってしまう、きっと折に触れて読み返す大切な本になりそうです。山田順子さんの繊細な訳に感謝です。

明日(もう今日になってしまったけれど)は、大阪の中央図書館で、この作品の著者デイヴィッド・アーモンドの講演会があるのです。もちろん行きます!また、お伝えできることがあったら報告しますね。

2012年10月刊行

by ERI

ラビット・ヒーロー 如月かずさ 講談社

自信満々な男の人が苦手です。どちらかというと、ちょっと自信なさげな繊細な人の方が、守ってあげたい感じがして好みかな(知らんがな)そういう意味では、この物語の主人公宇佐くんは、ツボでした。(もっと知らんがな・・・)特撮ヒーローものが大好きな高校生・宇佐くんが、本物のヒーローのようなかっこいい先輩・日高さんに誘われて、ローカルヒーローのショーを作り上げるお話です。出来のいい兄に押されて、ずっと自信なく生きてきた宇佐くんが、初めて自分の意見と力を発揮して少しずつ世界を広げていきます。濃いキャラたちのきめ細かい心理描写とテンポのいい文章で、最後までぐいぐい引き込まれて読みました。その昔、体育祭や文化祭で、あれこれ皆で悩みながら必死になって何かを作り上げた高揚感を想い出します。始めは何だかんだと足並みが揃わなかったりするのに、いつの間にか一つの目的に損得勘定抜きで邁進してしまう、あの感じ。一晩眠れば、すっかり疲れがリセットされる体力がある若い頃にしか味わえない、体ごとの達成感・・・久しぶりに感じさせてもらってとっても楽しかった。そんな世代のみならず、現役中高生も夢中になれる楽しい作品だと思います。

特撮ヒーローの創成期に育ったもんですから、仮面ライダーやウルトラマンシリーズ、怪傑ライオン丸やミラーマン、キカイダーに仮面の忍者赤影(ちょっと違うか)、子ども時代はありとあらゆる特撮ものを見てました。今、ローカルヒーローが日本各地で大流行りなのも、きっと私たちの世代のオジサンたちが企画にからんでるからやないかと睨んでます(笑)男子というのは、染色体に特撮ヒーローものが好きな遺伝子が組み込まれてるんでしょうねえ。この物語の主人公の宇佐くんも、傍からは「オタク」と呼ばれるマニアです。でも、彼はそんな自分に自信がない。出来のいい兄と厳しい抑圧型の母親に押され、学校でも部活もせず、ひっそりと生きる毎日。でも、そんな彼に出逢いが待っています。ひょんなことから、本物のヒーローのような日高先輩と知り合い、先輩のおじいさんが作ったというキリバロンGという本格的なマスクと衣装を使って、ヒーローになることになったのです。身長190センチ、爽やかな男前、バスケ部の英雄という、もう自分と対極の日高先輩。普通なら彼がやる役ですが、いかんせんおじいさんの作った衣装は小さかったのです。

宇佐くんは、とても人の気持ちのわかる子です。日高先輩に恋心を抱く佐倉さんの気持ち。大好きだったおじいさんを亡くしてしまった日高先輩の気持ち。日高先輩が、おじいさんの死に対して、何か屈託を抱えているらしいのにも気づくほど繊細な心を持っています。だから、人の思惑や感情を感じすぎて身動きとれなくなってしまう。でも、そんな彼は、自分の好きなものに対しては細やかな愛情を注ぐことが出来るのです。人は、そんな彼の見た目の弱さを笑うかもしれない。役立たずとなじるかもしれない。でも、本当はそうじゃない。宇佐くんのそんな繊細さや、自分の好きなものを大切に抱きしめる気持ちが、一見なんの悩みもなさそうに見える日高先輩の弱さと苦しみを知らず知らずに救うのです。それまで知らなかった自分と向き合い、内面という未知の領域に踏み込むとき、人は常に弱者なのかもしれません。物語は常に心の旅をする弱者の味方です。この物語は、まるで正反対に見える二人の心に踏み込んで、本当の強さやたくましさというものが何なのかということを考えさせてくれます。読後感もとっても爽やか。佐倉さんの双子の弟たちと、宇佐くんのやりとりにもほっこり、和ませて頂きました。とっても元気が出る一冊です。

 

by ERI

100%ガールズ 1st season 吉野万理子 講談社YA!EATERTAINMENT

「けいおん!」とか、「じょしらく」とか、タイトルが平仮名でキャラもきっちり萌えタイプ別に設定され、これでもか!というくらい可愛い女の子たちが出てくるという、ガールズもののアニメが人気です。うちにも二次元の女子しか愛せないヲタ男子がいるので(笑)私も一通りは見てます。(別に一緒に見なくてもいいんですけどね)そこに出てくるガールズたちは、見事に男子の妄想そのままの可愛さ。ま、現実にはおらんよね、という設定です。(まあ、あり得ない美少年BLものに萌え萌えだったりする女子と妄想度では同じ・爆)この作品も、ガールズたちの物語ですが、男子というよりは、女子が読んで楽しい学園もの。舞台は100%ガールズ、つまり女子校です。
主人公の真純は、宝塚命の母に男役になることを期待されて育った女の子。同級生に制服のスカート姿を見せたくないという理由だけで、遠くの横浜にある女子高に進学することにしたのです。初めて通う学校のしきたりや気風、初めて出逢うクラスメイト、先輩たち。新しい環境の中で、どんどん新しい目を開いて変わっていく女の子の気持ちが、鮮やかにテンポ良く描かれて、ほんとにあっという間に読んでしまいました。主人公の真純が良い子なんですよ。彼女は大切なことに自分で気づける子なんですよね。この「自分で気づく」って大事やな、と思うのです。
彼女は、男の子っぽくすることがカッコいいことだと、思っていたわけです。でも、先輩の人に対する優しい接し方や、自分が怖気づいて逃げたことに対して同級生が誠心誠意頑張る姿を見て、人のカッコよさというものが外見だけにあるわけじゃないと気づきます。
「カッコいいというのは、男とか女とか年齢とか関係ないんだ。きっと生き方の問題なんだ。」
何だか、胸のあたりがスカっとします。ほんと、そうだよね~、と真純と女子会したくなるわけですが(誰が女子やねん)誰に強要されたわけでもなく、こうして自分で獲得した価値観というのは、一生の宝物だよね、と思うんです。例えば、真純は、妹に「女子校ってネチネチしてるって、決まってるんだって」と聞いて、びくびくしていたのです。こういうもっともらしい伝聞情報って、ほんと山のようにあって、それこそネットを開けるだけでも洪水のように溢れてなだれ込んでくるし、口コミでも恐ろしい早さで伝わっていく。でも、そういう伝聞情報を頭に詰め込めば詰め込むほど、身動きがとれなくなったりします。だから、そういう伝聞情報を頭に詰め込むことを「仕入れる」というのかも。ただストックして次に流すだけで、自分の血肉にはならないんですよね。「知る」ということは、本当は人を解放するものであり、既成概念に風穴を開けること、心の自由を獲得すること。自分の人生を決めていく大切な羅針盤です。自分の心と体で、いろんなことを「知って」いく真純の毎日がフレッシュで、元少女(誰が少女やねん)の価値観にも酸素を入れてくれる感じです。この本はシリーズになるのかな。宝塚受験をめぐって、母と娘の攻防も生まれそうな予感。揉め揉めになるんかなあ、楽しみやなあ。(楽しみなんかい!)
2012年7月刊行 講談社

by ERI

日本児童文学 2012 9・10月号 『ソルティー・ウォーター』と『明日美』

落ち葉今号の『日本児童文学』のテーマは「3.11と児童文学」である。震災から1年半ほど時間が経って、3.11が少しずつ文学という形に現れてきた。この号では、3.11以降の核の問題をテーマにして、芝田勝茂さんの『ソルティー・ウォーター』と、菅野雪虫さんの『明日美』という作品が掲載されている。どちらも、核とともに生きていかねばならない子どもたちの物語だ。
菅野さんの『明日美』は、南相馬に住む中学3年生の少女・明日美の日常を描いた物語だ。菅野さんの眼差しは、静かな文体で明日美の生活の一コマを切り出していく。切りだされた日常に断層写真のように積み重なっているフクシマの今は、静かな日々の中に、明らかな被災地以外の場所との温度差を孕んでいる。私が個人的に衝撃だったのは、明日美の家の「茶の間にはこたつとミカンと煎餅と線量計」が並んでいること。外出から帰ってきた明日美にその線量計は反応してピーピー音をたてる。明日美はその線量計に向かってふざけてみせるのだ。ここで私はいろんな意味で深くうなだれてしまった。
線量計が、こたつやみかん並んで茶の間にある。日常の中にあるから、その違和感にはっと胸を突かれる。明日美はそのことに慣れている。その、「慣れている」ということにも胸を突かれる。いつもの日常、自分の家の茶の間。穏やかに自分を包むはずの日常に潜む非日常から、明日美は毎日傷つけられている。でも、それに慣れていかなければ生きていけない。傷つけられることに慣れる・・・そんな悲しいことがあるだろうか。違和感は、明日美の心の中から消えることはないだろう。明日美は、あの日以降を、忘れられない風景の中で、失った痛みと共に生きているのだから。「みんな忘れない。あの日のことも、あの日からのことも、みんな、忘れるもんか。」慣れるのと忘れるのは違うのである。被災地の外にいる私たちの方は、その違和感に慣れていないが、その違和感を感じなくなっているのかもしれない。その温度差を思ったとき、私は明日美の孤独に深くうなだれてしまう。その孤独感は、まるでフクシマをホラーの地のように扱うネットの世界を見る明日美の眼差しに感じられる。傷つけられたものが疎外され、孤独を感じなければならない。この理不尽を、静かに私たちの目の前に置く菅野さんの物語は、無関心という見えない壁を超えて心を繋ごうとする物語の大切さを感じさせてくれた。
菅野さんがそっと描き出した温度差は、芝田さんの『ソルティー・ウォーター』で、熱く燃え上がって疾走する。この作品は、3.11以降の近未来を舞台にしたSF仕立てで、芝田さんならではの切れ味のある緊迫感が漂う。バクハツがまるでなかったかのように放射線を遮るという泥の中に埋められたカマの中で、ウランが再び煮えたぎろうとしている。病気を何度も繰り返す主人公のエツの体の中にある熱い塊が、そのウランを感知するのだ。彼は走る。今はもういない少女・ミヤの声に導かれて、ウランの釜の丘に走る―。無責任さや嘘、無関心や事なかれ主義、コストと経済効果という泥に原発を塗り込めようとしても、これから何万年も放射能は拡散しようとするエネルギーをもち続ける。エツが吸い込む空気に水にまき散らされている苦いものは、私たちにとって永遠とも思える時間を生きる。その何万年という時間の前に、すっかり骨抜きになってしまった「安心」という言葉は、はたして意味を持つのだろうか。私たちは忘れっぽい。嫌になるほど同じ過ちを繰り返す。

わたしのつもりでは、自分が書いているのは―ほとんどの小説家と同じで―人が過ちを犯すこと、そして、ほかの人であれ、本人であれ、誰かがその過ちを防いだり、正したりしようと努めて、けれどもその過程で、さらに過ちを犯さずにいられないことです。  ~アーシュラ・K・ル=グウィン「ファンタジーについて前提とされているいくつかのこと」※

だからこそ、私たちは、何度も何度も子どもたちに、自分たち大人のした過ちについて語り続けなければならないのだと思う。明日美の孤独と、真実を見据えようと走るエツの痛みを何度も何度も感じて、心に刻むことがこれから先の希望に繋がるのだと信じて。その3.11以降の長く大切な営みは、まだ始まったばかりだ。私は物語を刻めないから、こうして何度も自分が大切だと思った作品について語ろうと思う。そう思わせてくれた、今号の特集号だった。
※『いま、ファンタジーにできること』河出書房新社 2011年8月刊行に所収されています。

 

by ERI

 

弟子 アラルエン戦記1 ジョン・フラガナン 入江真佐子訳 岩崎書店 

身寄りのない孤独な少年が、優れた先達に素質を見出され、修行を詰み紆余曲折を経ながらその才能を開花させていく―というのは、ファンタジーの型の一つです。弱者であると周りに思われていた少年が、ヒーローになっていく。ある意味RPGの王道ですが、面白いなと思ったのが、日本の忍者ものに設定が似ていること。さる王国の孤児院で大きくなった少年が「レンジャー」という国のために偵察活動をする道に入っていく物語です。塔を体一つで登ったり、敵国の情報集めをしたり、国内の情勢を見て歩いて領主に進言したり、というまさに隠密行動のやり方は、まさに忍者なんですが―日本の忍者のように、全く影の存在というわけではなく、戦功をたてればおおっぴらに褒めたたえられるし、英雄として扱われもします。耐え忍ぶことが多すぎる日本の忍者が見たら地団太踏んで悔しがりそうなくらい、恵まれています(笑)もうね、とっても物語として素直なんですよ。英雄は英雄、悪役はどこまでも悪役、努力はした分きっちりと報われ、友情は熱く育まれる。この費用対効果がわかりやすく現れるというのが素直に楽しい反面、物語としての深みにかけるきらいはあります。ゲドのように悩み苦しんだり、闘うという行為の理不尽や空しさに耐えたり、相手を傷つけることで自分を傷つけたりという懊悩もありません。日本の緻密な忍者観からすると、おーい!とツッコミたくなるところもいっぱいあるのですが、その分とってもおおらかな親しみやすさがあります。主人公の少年ウィルと、年老いた師匠ホールトとの関係も、おじいちゃんと孫みたいで微笑ましいしいのも、読んでいて素直に楽しい要素の一つかもしれません。こうなったらいいなあ、というところが見事にそこに収まっていく快感はありますね。裏切られない。そこが少し物足りなくもありますが、とにかく安心して読める成長物語です。もうすぐ2巻が出るようです。

2012年6月刊行
岩崎書店

by ERI

サエズリ図書館のワルツさん1 紅玉いづき 星海社

最初は、ごく普通の町にある図書館の物語かと思っていました。しかし、どうも違うらしいと気づいてから一気に面白くなって読みふけることに。この物語は、近未来の図書館。しかも、本というものがとてつもなく高価で手に入りづらくなってしまった時代の図書館のお話です。まるで骨董品のような扱いを受けている紙の本。それを、登録さえすればただで貸してくれるという、この時代には非常識な場所。それがサエズリ図書館です。そこには、ワルツさんという若くて聡明な特別探索司書(!)がいて、「こんな本が読みたい」というと魔法のように本を揃えてくれる。自分のような本読みが、もしこんな時代に放り込まれたら・・と思うと、えらく切なくなってしまうシチュエーションです。文章も、どことなく切なさを湛えていい感じ。
どうやら、大きな戦争があり、その前と後とで大きく全てが変わってしまっているらしい。そして、このサエズリ図書館が出来た経緯も、ワルツさんがたった一人でこの図書館の全書物を所有していることにも、複雑で悲しい事情が絡んでいるらしい。らしい・・というのは、まだこの物語は「1」で、全てが語りつくされているわけではないからです。一篇ごとに秘密を小出しにする感じが、また後を引いていくのだけれども・・・全ての情報が「端末」で所有されるという設定の中で、「紙の本」が人に働きかけるものが、一層心に沁みました。手の中の重み。紙の匂い。新しい本を一度読むと、少し自分の痕跡が残ること。持ち主がいなくなっても、変わっても、大切に保管されていれば本は長い時間を生きます。一冊の本には命があって、持ち主と一緒に時間をその体に刻んでいく。目の前からいなくなった人とだって、本を開いて同じ世界に飛べば、想いを共有することが出来る。そんな紙の本にしかない温もりが、ワルツさんの本を愛する気持ちとともに伝わってくるようでした。
印象的だったのは「第四夜」の中のワルツさんのひとこと。サエズリ図書館の本を持ちだした女性の「一冊ぐらい、一冊ぐらいいいじゃないですか!」という言葉に対してワルツさんが言います。
「かって、この地で、人はいっぱい、亡くなりましたね」 「たくさん亡くなったんだから、ひとりひとりのことなんて、どうでもいいって。ひとりぐらい死んだっていいって、そう思いますか?」
数の多寡というものに、何故か人は左右されます。殺人なら糾弾されるのに、遥かに多い命が失われる戦争ではそうではないし。数が少ないパンダは何億ものお金で取引されて、たくさん生まれてくる猫や犬は、何十万匹も殺処分して平気だったり。図書館の本が受けることが多い受難も、本屋さんが悩む万引きというやつも、そんな危うさと繋がることなのかもしれません。そして、もしかしたら、そんな危うさは、この物語の中で、終末戦争のボタンを押してしまう過ちにも繋がるものなんじゃないか。自分が愛する本だから、私はこの物語に痛みを感じる。でも、こんなふうに数という目に見えるものに騙されて、見過ごしてしまっていることが私にもあるんだろうなと、考えてしまいました。
あと、このワルツさんが、「特別探索司書」という設定が凄い!何が凄いかというと、ワルツさんは、本に内蔵されたマイクロチップから図書の位置情報にアクセスする権限があるらしい。つまり、どの本がどこにあるか、ということを離れた場所から探索することが出来るらしいのです。これはもう、よだれが出るほど羨ましい(笑)本は、油断するとすぐに迷子になります。何十万冊という本の迷路に隠れてしまう。そんな迷子を捜すのは、私のお仕事の一つです。私はこれが何故か人より得意で、いつのまに~か、私だけのお仕事になってしまったという・・・。常に図書館の中を歩きまわって、棚の本を一冊一冊食い入るようにみつめ、いなくなってしまった子(本)を探しております。いなくなった本を呼ぶと、「は~い」「ここ、ここ」と答えてくれるような超能力が欲しい・・・と思いますね、ほんとに(笑)もちろん、図書館には守秘義務があるので、ワルツさんのような権限を持つというのはとても難しいことなんですが。紅玉さんは、後書きを読むと、どうやら図書館のお仕事をされていた様子。きっと、同じ願望をお持ちだったのだと親近感がわきました。
この後の展開がとっても気になるので、楽しみに2巻を待っていようと思います。
2012年8月刊行 星海社

私は売られてきた パトリシア・マコーミック 代田亜香子訳 作品社

これは、非常に辛い本です。
毎年、たくさんの・・後書きによると、年間一万二千人近いネパールの少女たちが、インドの売春宿に売られているとのこと。それも、たった300ドル。円高であることを考慮に入れても、たった三万円くらいのお金と引き換えに、売られていく。この本は、その少女たちのことを実際に取材し、自分の目と足で確かめた著者が、一人の少女を主人公に、物語という形にまとめたもの。ですので、フィクションですが、この本に書かれていることは、事実です。今も、この世界のどこかで起こっていること。読めば読むほどに辛いです。でも、目をそらしてはいけない現実でもあります。

主人公のラクシュミーは、ネパールの山の村で生まれた女の子。荘厳な山の自然の中で、彼女は母と、義父と、兄弟たちと暮らしている。彼女が初潮を迎えた頃、村は洪水に見舞われ、働かない義父のせいもあって彼女の家は貧窮する。もともとラクシュミーに辛くあたっていた義父は、ほんのわずかなお金を引き換えに、彼女を売ってしまう。自分がどこに行くのか、何をさせられるのか、知らないままに遠くに運ばれてしまったラクシュミー。彼女を、過酷な現実が待っています。その一部始終が、押さえた筆致で、冷静に描かれています。ラクシュミーが、母を、兄弟たちをどんなに愛していたか。故郷の山々を、どんなに切なく思い出すことか・・。その思い出を散々に汚してしまうような、悲惨な出来事が、どれだけ彼女の心を、身体を引き裂くことか。私たちは、21世紀になっても、この貧困ゆえに女の子が売り飛ばされることさえ終わらせることが出来ない。その事にうなだれます。

こういう悲劇を食い止めるために、行わなければいけないことは、たくさんあると思うのだけれど、まずは教育なんだろうと思うんですよ。文字を知る。本を読む。様々な価値観があることを知る。自分の身体を大切にする権利を、誰かが奪うことが間違いだという事。例え、それが親であっても。人間を売り買いしてはいけない事。男も女も、性によって暴力を受けてはいけない事。私たちはその事を当たり前だと今は思っているけれど、つい戦前までは日本にも、この本に書かれているような現実があった。それは、そんなに昔のことではないんだから・・・。

後書きで、著者が、このような悲惨な状況から逃れた少女たちに実際に会ったことが書かれています。自分たちの置かれていた現実の問題に気づき、様々な活動をしている少女たちは、人間としての誇りと尊厳をかけて、自分たちのような少女たちが少しでも減るように頑張っているらしい。その尊厳を取り戻すのも、また知識の、教育の力だと思う。人として生まれたものが、等しくきちんとした教育が受けられる。そんな最低限のことが出来る世の中に・・なって欲しいと、まるで人ごとのように書く自分が嫌になってしまうけれど。同じ女として、この本を読んでいる間中、心と体が痛かった。

著者もきっと非常に辛い想いをした事だと思いますが、感情に流されず、悲惨な体験をした少女たちの尊厳を、きちんと尊ぶ姿勢でこの本を書いている。その事が伝わってくる文章でした。

あたしの名前はラクシュミーです。
ネパールから来ました。
わたしは十四才です。

この結びの文章がいつまでも胸に残ります。身体の中に鈍痛のように・・・。

2010年6月刊行
作品社

by ERI