ことり 小川洋子 朝日新聞出版局

年末は、なんだかバタバタして忙しい。そんなに特別はことはしないでおこうと思うのに、一日が飛ぶように過ぎていきます。そんな中で、この本を読む間だけは、時間の流れ方が違います。いつもの窓から見る風景なのに、穏やかな日の光が美しすぎて、なんだか怖いような思いにとらわれることがあります。日常の中に潜む、不意に永遠と繋がる神聖な瞬間。小川さんの物語は、私がごくたまに遭遇する特別な回路を、開きっぱなしにしてくれます。さらさらと音がするほどの、質量をもった光が降り注ぐ特別な空間に私をいざなってくれるのです。その光には、深い死の匂いがします。何十億年という孤独な暗闇にはさまれて、僥倖のように瞬く命のきらめき。その儚さと確固たる美しさを、光溢れる鳥かごに閉じ込めて、ただ、存在させる。五感のすべてを使って味わう福音のような時間が、頁をめくれば、そこにある。やっぱり、これは奇跡というべきものなんだと思うのです。

小川さんの著書に『言葉の誕生を科学する』という本があります。この『ことり』で謝辞を捧げられている岡ノ谷先生と、「言葉」についての考察を重ねた本なんですが、その中で言葉の起源として挙げられているのが、鳥のさえずりです。歌うことができるのは、鳥とくじらと人間だけ。求愛のために奏でる音楽が、「言葉」に繋がっていくのではないかという仮説が小川さんの心に種を撒いて、この『ことり』という物語に育っていったような気がします。この物語の主人公の「小父さん」は、ポーポー語という自分だけの言葉しか話さない兄さんと共に暮らしています。ある日、人間の言葉を捨てて、自分だけの言葉を話し始めた兄さん。その言葉を共有することができるのは、小父さんと小鳥だけ。その時から、世界はふたりだけの孤独と輝きに満ち溢れます。そう、言葉は常に私たちと共にあり、自分と世界を繋げてくれるもの。そして、同時に私たちと世界を切り離すものでもあります。この世界を言葉ですくい取ろうとしても、どうしても言い表せないものが残る。言葉にすることで、わかったような気になってしまう。そして、言葉は誰かを傷つける最大の武器になる。同じ言葉を使っていても、どうしても分かりあえないこともある・・・というか、そのことの方が多かったりする。その時の徒労感というか、孤独と疲労は、何よりも私たちの心を蝕みます。世間と同じ言葉を持つ小父さんが、心無い人たちの噂話で白眼視されてしまうように。ささやかな、本当にささやかな司書の女の子との思い出さえも、始末書という紙切れで汚されてしまうように。それに引き換え、お兄さんは、自分の中に、誰の手あかもついていない無垢な言葉を持っていた。その奇跡は誰にも顧みられず、称賛もされず、お兄さんだけのものとして朽ち果てていく。でも、そのお兄さんと、小父さんとことりたちの過ごす小さな世界が、なんとかけがえのない美しさに満ちていることか。そこには、言葉と自分との乖離は無いのです。言葉を通じて、たくさんの人と繋がっているかのように思っている私たちは、本当にそうだと言えるのか。お兄さんの言葉は、ことりのさえずりのように、自分自身から生まれてくるものだった。そんな、自分自身と不可分な言葉は、ほんとうは誰とも分け合えないものなのかもしれないのです。そこを分かち合う人がいたお兄さんは、世界の誰よりも孤独に見えるけれども、本当は誰よりも幸せな人だったのかもしれない。お兄さんだけの耳に聞こえていた鳥の歌が、少しだけれど私の耳にも聞こえるような・・・果てしない暗闇に挟まれた一瞬の光の中に存在することの小さな幸せを味わいつくす喜びが、静かに胸に満ち溢れる。そんな物語でした。

ただ、存在すること。そして、歌を歌うことができること。それだけで奇跡なんだけれども、私たちはすぐにそのことを忘れてしまう。言葉は、誰かに愛情を伝えるために生まれたのに、そのことも私たちは忘れてしまう。この物語は、小父さんの亡骸から始まります。小さなことりの死のように、誰からも顧みられない小父さんの死。たいていの私たちは、そんな生を命を生きている。でも、その小さな命が響き合って奏でる音楽は、こんなにも美しい。最後にメジロが奏でた小父さんへの求愛のさえずりが、いつまでも胸に残ります。この間の選挙や、毎日報道されるあれこれを見ていると・・・なんだかとても恐ろしいのです。なんて自分がマイノリティであることかとしみじみ思って、無力感に押し流されそうになってしまう。でも、そんな中で小川さんの小説を読んでいると、自分の足元がどこにあるのかがわかるような気がします。小川さんが生み出す、小さくて悲しくて、孤独で、でもかけがえのない喜びに満ちた世界がともす灯りが、ひとつずつ誰かの胸に増えていく。そのことを願って・・・ささやかな、このブログの2012年のレビュー書き納めといたします。また、もう一本日記はあげたいと思っているのですが。どうなることやら(笑)

皆様、良いお年をお迎えくださいませ。

by ERI

 

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