炎と茨の王女 レイ・カーソン 杉田七重訳 東京創元社

異世界ファンタジーが好きであれこれ読むんですが、最近読んだ中では、これは特筆物のおもしろさでした。主人公は王女様。生まれつき神に選ばれしゴッド・ストーンの持ち主である彼女が、試練の旅を通じて大きな成長を遂げるというファンタジーの王道です。王道ですが、設定がとてもユニークで文章が瑞々しいので、良い意味でその王道を感じさせません。恋も、裏切りも、悲しみも、友情も、冒険も楽しめるジェットコースターストーリー。こういうの、いいですよねえ。ここまでいろんな要素を盛り込んであるにも関わらず、とても読みやすい。感情移入しやすいんです。それは、思うに主人公である王女さまであるエリサのキャラによるものなのかも。華やかさとは無縁の性格。食いしん坊で汗っかき、国政の面倒なことは優秀な姉に任せ、趣味は勉強。三カ国語を話し、聖典や歴史書は暗記するほど読み込んでいるという、引きこもり系のオタク女子王女なんですよ。何だかもう、読書好き人間にとっては他人とは思えない(笑)

その彼女がいきなり隣国のえらくかっこいい王と結婚することになります。嫁ぎ先にいく途中で既に命を狙われ、やっと着いたと思ったら、なぜか王は自分を王妃としては紹介してくれない。美しい愛人はいるは、先妻はやたらに美女だは、落ち込むことばっかりの日々で、ますます引きこもり傾向が加速するエリサ。このあたりのエリサのもやもやがとても丁寧に書き込まれていたので、そうか、宮廷を舞台にした心理劇になるのかなあと思ったら、何とある日いきなり誘拐されて砂漠の旅に放り込まれてしまうという運命の急変から、それはそれは息つく暇もないジェットコースターストーリーになるんですよ。ぐっと主人公の気持ちに引きつけておいてから翻弄する。もうね、読むのが止まらなくて困りました。

物語は、エリサの持つゴッドストーンをめぐって展開していきます。王女暮らしのエリサが、砂漠を越え、大きな国の戦争の狭間でぼろぼろに傷ついた人たちと出会って、何とかして彼らの力になりたいと思うようになる。これまで与えられていただけの生活から、自分の力と才覚で居場所を勝ち取っていくまでの、彼女の闘いと成長がまぶしくて読み甲斐があります。個人的には侍女として宮廷に潜入し、エリサを誘拐する美女のコスメ、エリサを愛する、優しい大型犬のような若者のウンベルトがお気に入りかなあ。この物語は三部作で、次々翻訳されるみたいです。早く続きが読みたいなあ。

そこに僕らは居合わせた 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶  グールドン・パウゼヴァング 高田ゆみ子訳 みすず書房

作者のパウゼヴァングさんは、終戦時17歳でした。そのとき、軍国少女だった彼女は、戦時中に叩き込まれた価値観が全て粉々になる体験をしたのです。この本は、ナチス・ドイツ下にあった頃、ドイツの少年少女たちが何を考え、どんな風に過ごしていたかを、その自らの体験と見聞きしたエピソードから20の短編に仕上げたものです。実は、私はこの本を読むとき、身構えていました。戦争に関する本を読むのは、時として辛いものです。みすず書房という出版社といい、この装丁といい、もう見るからに誠実な作りの本だけに、よしっ、と気合いを入れて頁を開いたのですが、読み始めると、今度はやめられなくなりました。読み物として、非常に面白かったのです。面白かった、というのは語弊があるかもしれません。しかし、とにかく一気に引き込まれて読むのがやめられなかった。ここには、人の醜さ、ずるさ、無関心や偏見が引き起こす残酷さがあります。そして、同時に人の美しさ、悲しみ、友情、尊さも描かれています。つまり、私たちがおくる人生と少しも変わらない人々の生活と心境が、非常にシンプルに、かつ深く描かれていて心に響いてくるのです。たまたま、彼らはあの当時のドイツに生まれ、それぞれの人生を生きていた。それが伝わってくるからこそ、その彼らを大きな狂気に引きずり込んだものが何かを、時代と個人の関係を、深く考えさせられます。そしてまた、私があの時代に、ドイツ人として生きていたら、どうしていただろうと考えざるを得ないのです。

連行されたユダヤ人の家に入りこんでスープをすする家族。可愛い甥っこを「狩り」と称して連れて出て、練習だからと逃亡してきたロシア人を射殺させる。一方で、アメリカに逃れていこうとするユダヤの家族に、村中の冷たい目を浴びながら自分の貯金をすべてはたいて旅費として与える人がいる。連行されていった友達が残していったお人形を生涯大切に持ち続けた人もいる。一方を非難して一方を偉いと思うことはたやすいけれど、果たしてその時代の空気の中にいたら自分はどちらの行動をとっていただろうと思うのです。その昔、自分がおかしいと思うことをうっかり口にして、いじめられたときの恐怖も思い出します。そのあと、すっかり口をつぐむことに慣れてしまったことも。わかっているつもりで、わかっていないことだらけの人生をおくってきたと、最近思い知らされることばかりです。私には、自分が彼らから遠い場所にいると思うことが出来ません。だからこそ、この本はぜひ子どもたちに読んで欲しい。この本に書かれていることが他人事でなく、自分たちの今の社会のあり方にも繋がっていることだと実感できると思うのです。そして、ここには教育の恐ろしさも書かれています。人種と外見だけで人の価値を決めつけることが、授業で行われていたこと。おとぎ話のイメージを借りて、子どもに人種的偏見を植え付けてしまう『おとぎ話の時間』は作者自身の経験だといいます。こんなこと、戦争中だからだよ、などと言えるのかどうか。例えばヘイトスピーチや、ヘイトスピーチまがいの記事をまきちらす雑誌の見出しを見ると、私はその根っこにあるものは同じだと思わざるを得ません。意味の無い優越感が何を生み出すのか。だからこそ、この本は大人にも読んで欲しい。

ドイツという国は、確かに大きな負の遺産を残したけれども、その負の遺産との向き合い方には、日本との大きな違いがあるように思います。紆余曲折はあっても、とにかく事実に向き合おうという努力が払われている。でも、この国でこのように日本が戦争でしたことをわかりやすく子どもたちに伝えることが、どれくらい行われてきたか。私自身の記憶をたどっても、それはゼロに近いのではないのでしょうか。この本の『アメリカからの客』というお話の中に、昔のことを伏せようとする祖母に「私は本当のことが知りたいの!」と少女が叫ぶシーンがあります。そう、本当のことが知りたい。都合の悪いところを伏せて「美しい日本」を押しつけようと思ったところで、子どもはそんな嘘は簡単に見抜きます。嘘は不信しか生みません。確かに辛い過去をみつめるのは苦しい。パウゼヴァングさんがこの本を書くのも、決して簡単なことではなかったはずです。「私の十七歳までの人生を形作ったものと向き合えるようになるには、何十年という年月が必要だったということです」という言葉が紹介されていますが、それでもこの本を書こうと思ったのは、時代の証人が段々いなくなることに危機感を覚えたからとのこと。時代の証人がいなくなってしまう前に、徹底的に、あらゆる角度から検証した事実と向き合うことが、これからを生きる子どもたちのためにもしなければならないことではないのか。それは、日本という国のためだけではなく、人類に対する責任としても果たすべきことではないのかと、この本を書かれたパウゼヴァングさんの思いに心を打たれながら、思ったことでした。

2012年7月刊行

みすず書房

 

ゾウと旅した戦争の冬 マイケル・モーパーゴ 杉田七恵訳 徳間書店

ゾウがとっても可愛いです。戦争という、人間の最も醜い愚行の中で、一頭の子ゾウの姿だけが生き物としてのまっとうさに輝いているのです。空襲の中を子ゾウと旅するというのは、本来なら非現実なことなんですが、戦争がその非現実をひっくり返します。支え合い、いたわり合うということを思い出させてくれる穏やかな、優しい命。戦争のお話なのに、読み終わったあと、生きる喜びがじんわりと心を包んできます。マイケル・モーパーゴならではの不思議な輝きを放つ物語です。

第二次世界大戦の末期、空襲が始まったドレスデンの町から、一組の家族が子ゾウと共に逃げだします。16歳のリジーと、9歳の弟のカーリ、そして母のムティ。飼育員をしていたムティが動物園から連れ帰ってきた子ゾウのマレーネは、人懐っこくて可愛い子。マレーネがいるところには、いつも安らぎが生まれます。空襲の夜、命からがら逃げ、動物園から聞こえる悲鳴を聞きながらたちすくむ三人を、マレーネがそっと鼻で包むシーンがあります。人間の勝手な都合に何の罪もない動物たちを巻き込んでしまったこと。町が焼き尽くされていく悲しみと怒り。地獄絵図のような状況の中で、ただ自分たちを信頼して温もりを伝えてくるマレーネ。その対比が鮮やかで忘れられない情景です。

傷つけ合う愚かさと、心を繋ぐ素晴らしい力と、どちらもが人間であり、生きていく上で多かれ少なかれ誰もが身のうちに抱える両面です。作者はその両面を戦争という極限の中で見事に描いていきます。命を繋ぐぎりぎりの場所で、怒りや悲しみに胸を焦がしながら、家族がいつも「愛」に軸足を置いて歩こうとする。その先頭にゾウのマレーネがいることが、私にはとても象徴的なことに思えるのです。ありとあらゆる手段でお互いを差別化しようとしてしまう人間が陥る最大の過ちが戦争。その過ちをどう乗り越えるかを、種という垣根を超えて心を繋ぐマレーネが教えてくれているようだと思うのです。そして、その力は子ども達の中にも溢れています。たどり着いた叔父さんの農場で出会った敵国人であるカナダ人の兵隊であるピーターに、リジーはあっという間に恋をして、カーリはなついてしまうのです。兵隊という顔の見えない存在から、名前と顔のあるひとりの人間として出会ったとき、いろんな壁が消えてしまう。子どもの持つ、壁を超えてゆく力の鮮やかさが、この物語の中で希望として輝いています。

大人はなかなかそうはいきません。戦争に反対で、日頃ドイツ政府を批判していた母が、一番ピーターに抵抗感が強いのも、これまたよくわかるところです。しかし、この物語にはもうひとつの輝きが描かれています。傷ついた人たちを助け、敵国人であるペーターと共にいるリジー達家族を救ってくれた公爵夫人の知性の輝きです。避難民を受け入れ、自らの信念を貫く勇気は、きっと長い時間をかけて磨き上げられた教養と知性に支えられている。その美しさに、リジー達は救われるのです。壁を超えていく子どものしなやかな心と、磨き上げられた大人の知性。その両方に敬意を払う作者の願いが伝わってきます。

リジーとペーターがその後、どんな人生を送ったか。子ゾウのマレーネが戦争のあとどうなったのか。それは、ネタばれになるので書きませんが。老婦人の回想として少年に語られるこの物語が、かけがえのない子どもたちへの贈り物であることは間違いがありません。表紙も装丁も素敵で、ほんとに読んで良かったなと思わせられる1冊でした。

2013年12月刊行

徳間書店

 

2013年の心に残った本 

2013年が終わります。自分でもツッコミたくなるくらい、久しぶりの更新ですねえ。実は今年の後半は、ずーっと評論を書いていました。一つは10月締め切りで、もう一つは今日、12月31日締め切り。もう、大掃除も何にもしないままに、やっと書き上げて送ったところです。公募の評論なので、結果がどうなるかはわかりませんが、とにかく書き上げられただけで自分では満足かな(笑)でも、10月に送った方は、おかげさまで選考を通過しまして、来年『日本児童文学』という雑誌に載せて頂く予定です。何月号に載るかはっきりしたら、お知らせします。タイトルは「朽木祥の『八月の光』が照らし出すもの」。機会があれば、読んで頂けると嬉しいです。

私は不器用というか、頭の切り替えが出来ないというか、評論を書いていると、ずーっとそのことで頭がいっぱいになってしまって、他のレビューが書けなくなってしまいます。ほんとに、いろんな作品を並行して書き上げられる作家の皆さんは凄い!もうね、30枚くらいの評論を書くのに、こんなに苦労する自分に笑えます。でも、あれこれ悩んでじたばたしながら書いていると、ふっと自分の思考の蓋がパカッと開いて次に行ける瞬間があって、そこが面白くて苦しくて、面白いという(笑)来年はどうするかわかりませんが、いろんな機会を捕まえて、評論を書いていこうと思っています。ですので、ブログの更新がしばらく無かったら、「あ、今、苦しんでるな」と思ってください(笑)(知らんがな!!)

今年はそんな関係で、評論や社会学の本を読むことが多くて、肝心の児童書や、大好きな翻訳作品を集中して読むことが出来なかったのが心残りです。来年はもっとがっつりと読んで、レビューもたくさん書きたい!うん、これはちゃんと言葉にして言っとくべきですね。言霊、言霊。そんな中でも、心に残った本たちをあげておきます。順不同。

光のうつしえ―廣島 ヒロシマ 広島 朽木祥 講談社

実は、この作品で今日まで評論書いてました。ヒロシマは、とても大切な、私たちが伝え続けていかなければいけないことです。ヒロシマを置き去りにしてきたことが、今、私たちの暮らしとこれからの子どもたちの生きる場所を脅かしている。戦後70年経った今、ヒロシマをどう自分の問題として若い人たちに伝えていくのか。この作品は、その難しさに対する真摯な挑戦であると思います。原発の問題、それから秘密保護法案、きな臭い情勢の中での靖国参拝。非常に危機感を覚えます。この本を、少しでも多くの人に読んでもらいたい。ヒロシマは、他人事ではありません。今、ひしひしとそれを感じます。

嵐にいななく L・S・マシューズ 三辺律子訳 小学館

近未来のような、位相が少しずれた世界のような、どこか不安を感じさせる場所が舞台のこの物語。冒頭の洪水のシーンが忘れられません。ひたひたと押し寄せる黒い水のような不安の中から、主人公の少年が自分の手で掴む信頼という名の黄金がきらめきます。最後まで読んで、あっと驚くどんでん返しの妙も味わってほしい一冊。

マルセロ・イン・ザ・リアルワールド フランシスコ・X・ストーク 千葉茂樹訳 岩波書店

今年のYA翻訳作品の中で、一番好きな作品です。主人公のマルセロがほんとに素敵で、どんどん感情移入してしまう。マルセロの感受性と内面の豊かさに、大切なことを教えられます。何を目指して人生を歩いていくのか。人を愛するということはどういうことなのか。マルセロの眼差しとともに、じっくりゆっくり考えたくなる。文章もとても美しくて何度も読み返したくなる作品でした。

象使いティンの戦争 シンシア・カドハタ 代田亜香子訳 作品社

今年は戦争についての本をたくさん読みました。思うのは、戦争とはある日突然始まるのではなく、いつの間にか一線を越えてしまっているもの、知らないうちに巻き込まれているものなんだということ。その「知らないうちに」の恐ろしさが、この本には描かれています。ジャングルの混沌の中を彷徨うティンと、暁の星のように彼を導く象たちの愛情に満ちた姿。忘れられない物語です。

わたしは倒れて血を流す イェニー・ヤーゲルフェルト ヘレンハルメ美穂訳 岩波書店

岩波のSTAMP BOOKSは面白い。この本はのっけから血だらけだし、主人公の少女のエキセントリックさや性の描き方など、YAとしては結構リスキーな選書です。でも、だからこそ面白い。時代が突きつけてくるテーマから目をそらさず、挑み続けるこの姿勢は、さすがに岩波だと思うのです。身体と心から血を流す少女の痛みと危うさに、もっと身を浸していたくなる。母と娘の根源的なテーマを描いた骨太さも魅力的でした。

スターリンの鼻が落っこちた ユージン・イェルチン 若林千鶴訳 岩波書店

今年は信じられないことが次々と起こった一年でした。オリンピックの誘致で首相が原発事故について、全世界に嘘をついたこと。橋下大阪市長の慰安婦発言。さっきも書きましたが、特別秘密保護法案の強行採決。原発ゼロを目指すと決めたことを翻して、原発をベース電源にするとの方針転換。そして、過敏になっている神経を逆なでするように行われた靖国参拝。この流れに、恐ろしいものを感じてしまうのです。この「スターリンの鼻が落っこちた」の中の一節。

「わたしたちがだれかの考えを、正しかろうが間違っていようが、うのみにし、自分で選択するのをやめることは、遅かれ早かれ政治システム全体を崩壊に導く。国全体、世界をもだ」

この言葉を忘れないように。そして、子どもたちにも伝えていきたいと思います。

花びら姫とねこ魔女 朽木祥作 こみねゆら絵 小学館

この本に登場するたくさんの猫たち。ゆらさんのお書きになる猫さんたちがとても可愛くて愛しくて。しかも、うちの猫二匹もこの中に書いて頂いたんですよね~~(自慢自慢!)この本を何人に見せたことか。―という個人的な事情は別にして、これはとても素敵な本です。あなたにとって「とくべつ」って何ですか?と問いかけてくる物語なのです。他の誰かの「とくべつ」ではありません。自分だけの「とくべつ」です。心通う「とくべつ」を探して、自分だけの「とくべつ」を抱きしめて見失わずにいたい。声高に語られる大きな物語や誰かの思惑に振り回されずに。それが来年の私の目標でもあります。

こんな気まぐれの更新しかないブログにきて下さって、やたらに長いレビューを読んで頂けたこと、心から感謝しております。ありがとうございました。 来年もよろしくお願いいたします。

Rie Shigeuchi

紙コップのオリオン 市川朔久子 講談社

母親というものは、当たり前のようだが家庭にとっては大きな存在だ。良くも悪くも家庭というものの中心にいて、家の中を丸く治めてしまう存在でもある。特に食欲で一日が回っているような男子中学生にとっては、例えもやもやとしたものがあったとしても、母親がいて帰ったらご飯が出てきて日常が回っていると「ま、いっか」といろんなことをやり過ごしてしまったりするだろう。しかし、この物語ではまず冒頭でその母親が「やるなら今でしょ」的な書き置きを残して、冗談ではなく本当に旅に出てしまうのだ。同じ母親の立場から言うと、思い切ったなあと関心してしまう。もっとも、なぜ母がそこまで思い切ったのかもこの物語の伏線として最後にわかることになるのだが。母親の不在でぽっこり空いた穴は、これまでうやむやにしてきた父親との関係を浮かび上がらせる。そして、少し日常から外れてしまった視点は、学校という「埋もれるのが勝ち」の世界で少しだけ自分と彼に関わる人を変えるきっかけを主人公の少年に与えるのだ。日常の中にある、ささやかだけれども大きな意味を持つこと。それに気付くことで起こる変化のダイナミズムを描き出した素敵な物語だった。

主人公の論里は、父親とは血が繋がっていない。思春期になり、これまでのように無邪気に父親に向かいあうことが出来なくなってしまった論里は、母の不在によって、父親との仲がぎくしゃくしてしまう。シングルマザーだった母と結婚することが世間的にどんな意味を持つかがわかってしまう年頃なのである。論里は自分の存在が父親にとって迷惑なのではないかと内心怖くてたまらないのだ。そんな中、論里は創立行事委員会で、ふとキャンドルナイトを提案してしまい、面倒くさいと思っていた行事に主体的に関わっていくことになる。そのきっかけは、同級生の女子、白(ましろ)がキャンドルナイトを「あたし、ほんとにいいと思う」と言ってくれたことだ。白は、その名前のように皆から「変わってる」と思われている。「気になっていることはすぐに突き詰めちゃう」性格の白は、でしゃばりだとか、テンポが合わないと思われているらしい。白は自分が大切だと思ったことにまっすぐ向かっていこうとする性格なのだ。委員会でキャンドルナイトで何を描くのか、という話になったとき、「絆」といういかにもそれらしい提案に流れかけるのだが、白は果敢にも「めんどくさいな」という空気に負けず、「あたしは、なんか、嫌です」ときっぱり言う。皆でやる行事だからこそ、お弁当のプチトマトのように「みんな入れてるからそれを入れてれば安心」という安易な言葉に乗っかりたくない。その思いを、論里は受け止めるのだ。

この世界はとても複雑に出来ている。家族と一口に言っても、論里が母親の気持ちを全く知らなかったように、自分を育ててきた父親の気持ちがわからないように、見せている顔はごくわずかだ。小学校の時に仲良しだった大和が学校を休みがちなのも、多分本人にも論里にもどうしようもない家庭的な背景がある。それをきちんと見つめていくことは、白のように人との軋轢を生む結果になったりするし、論里のようにしなくていいことを背負わなければならなかったりする。損得―今風に言えば「コスパ」で考えたら効率の悪い、損なことなのかもしれない。しかし、白の思いを叶えたいと思ってはまり込んだキャンドルナイトは、論里に「やろうという意志を持って動き始めると確実に物事は動きだす」ということを教えてくれる。面倒だと思っていたことも、誰かのためにと思ってやり出したことも、自分の手で成し遂げれば大きな実りをもたらすこと。その実りは自分以外の人も幸せにする力を持つこと。論里は自分という小さな星を、他人の星と繋いでいく一歩を踏み出したのだ。物語のクライマックスであるキャンドルナイトはとても美しい。論里と白の想いがぴったり重なる告白のシーンも、とても印象的だ。誰かを大切に思うことは、迷惑や損得で割り切れることではない。論里の胸の中に芽生えた恋心、「好き」と想う気持ちは、この世の中で一番大切なダイナミズムなのだ。自分に大切なことを教えてくれた白への想いを、「好き」という言葉を使わずに現したこのシーンは、とても素敵だ。

星座とは見ようとしなければ見えない。人の心も、世の中の動きも、やっぱりそうなのだ。昆虫好きでマイペースな妹の有里や、笑顔がさわやかで完璧そうに見える進藤先輩や、調子が良くていつも賑やかな同級生の元気も、皆どこかしらでこぼこや痛みを持っているのだ。それをめんどくさいと見ないようにしていると、大切なものを見失う。そこにあるものを新しい眼差しで見つめること。そうして自分で発見したことだけが、自分の中で経験になって新しい星座になって輝き出す。

「考えてみれば水原は、いつも自分の言葉に勇敢だった」

私はこの一節がとても好きだ。自分の言葉を大切にする、この勇気がないと心は枯れる。枯らそうとする圧力がやたらに多い息苦しい今、小さな勇気が灯したかけがえのない光を描き出す市川さんの繊細さが胸に染みる物語だった。

2013年8月刊行

講談社

光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島  朽木祥 講談社

「美」はいつも心に新しい感動をくれる。美しさは人の心の扉を開いて、そっと奥底に滑り込む。夕焼けが、樹々や海の色が人の心にいつも何かを語りかけるように、「美しい」ということは私たちの心を解き放つのだ。ヒロシマの物語、というと「怖い」「恐ろしい」という拒否反応が特に子どもたちには生まれがちだが、この『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』は、ヒロシマの記憶を残された人たちの心と共に伝えながら、しみじみと美しい。この作品は、児童文学というジャンルにおいて、「ヒロシマを美を以て語る」という難しいことをやってのけたのではないかと、読み終えてまず思ったことだった。卓越した文章力がある朽木さんだから出来たこの物語は、灯籠の光とともに、原爆投下前の廣島、あの日のヒロシマ、そして現在の広島を繋いで確かなメッセージを刻み、読み手の心に色鮮やかに流れ込んでくる。

舞台は、あの日から25年後の広島。犠牲者を悼む色とりどりの灯籠流しのシーンから始まる。12歳の希未は、母が何も書かれていない白い灯籠を流すことに初めて気がつく。「あれは誰の灯籠なんだろう」と思った希未に、一人の老婦人が声をかける。「あなたは、おいくつ?」どうやら、老婦人は誰かの面影を希未に見つけたようなのだ。その老婦人のことが気になっていた夜、希未は仏壇の部屋で声を殺して泣く自分の母を見る。「もはや戦後ではないと言われ始めたころになっても、人びとは変わらず誰かを待ち続け、探していたのである」これは、朽木さんが書かれた「過ぎたれど去らぬ日々」(※1)という文章の一節だが、25年が経っても希未の周りにいる人々は、それぞれ亡くなった人の面影を心に「うつしえ」として刻んだままなのだ。希未は、ひょんなことから自分の通う中学校の美術教師である吉岡先生にも、忘れられない人がいることを知る。そして、その吉岡先生の入院をきっかけに、希未たち美術部は「あのころの廣島とヒロシマ」というテーマで文化祭に向けて作品を作ることを決め、自分たちの身近な人たちのかっての「廣島」と、あの日の記憶 「ヒロシマ」を聞くことにする。そのための打ち合わせのために若い希未や俊が話し合っている言葉の一つに、私ははっとした。

「よう知っとると思うとることでも、ほんまは知らんことが多いよな」
「よう知っとると思うとる人のこともね・・・・・ 」

この夏にNHKが放送した『ヒバクシャからの手紙』という番組を見たのだが、68年経った今でも、自分の娘や息子たちに被爆体験を語れない人たちがたくさんおられる。親しい肉親相手だからこそ、語れない人も多い。この「語れない」というところに、何が込められているのか。その言葉にならぬ思いを、朽木さんはこの作品の中で、丁寧に選び抜かれた言葉で綴られているように思う。この本の献辞は【世界中の「小山ひとみさん」のために】と綴られている。小山ひとみさんは、戦死された息子さんのことを歌った短歌をたくさん新聞に投稿された実在の方で、この物語にも何首か紹介されている。その短歌には、夫も子どもにも先立たれた小山さんの、極北に一人佇むような日々が凝縮されているようだ。先日の講演会で聞いたところによると、朽木さんはこの小山さんの短歌をリアルタイムで読んでおられたらしい。私は母親だから、やはり、息子を失った母の辛さに共鳴してしまう。そのしんしんと伝わってくる思いが、作品中に挿入される一人一人の記憶の物語と深く響き合って、まるで昨日自分の身におこったことのように身に染みた。吉岡先生の、耕造の祖父母の、須藤さんの、そして、希未の母が流す灯籠に託された思い。「知っていると思うとる人」が心の奥深くにしまい込んでいた記憶、顔の見える身近な人たちの見えなかった苦しみに触れることは、希未たち若者の心に新しい目を開いていく。人を成長させるのは、誰かの苦しみや痛みを自分自身のものにする力、「共感共苦」(Compassion)(※2)の力なのだ。お見舞い帰りのバスの中で吉岡先生の気持ちに気がついて大泣きしてしまった希未の涙は、今まで気づかなかった他人の心に深く共感したからこそ生まれてくるものであり、その共感は、この混沌とした世の中でいったい何が真実なのかを見抜く鍵でもあるのだと思う。

そう、この「よう知っとると思うとることでも、ほんまは知らんことが多いよな」という一言には、私たち人間が常に意識して考えていかねばならない深いものが隠されている。 1996年にノーベル賞を受賞したポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカは、言う。自分に対して「わたしは知らない」ということが、自分の選び取った仕事に対する不断のインスピレーションを生むものだと。そして、反対に「知っている」と思うことの危険性についてこう述べている。「どんな知識も、自分のなかから新たな疑問を生み出さなければ、すぐに死んだものになり、生命を保つのに好都合な温度を失ってしまいます。最近の、そして現代の歴史を見ればよくわかるように、極端な場合にはそういった知識は社会にとって危険なものにさえなり得るのです。」(※3)私たちはヒロシマを知っていると、記憶していると思っていた。少なくとも、私はそんな風に思い込んでいた。ところが、だ。真の記憶として心に刻まずにいた核の恐ろしさは、いつの間にか「知っている」と思う傲慢さの陰で忘れられて、日本は名だたる原発依存の国になっていた。そのことが、3.11のフクシマに繋がっているのだと私は思う。そんな私たちに、この物語は静かに語りかける。「あなたは知っていますか?」と。真の意味で、「知ろうとしていますか?」と。この、固定概念や思い込みを解き放ち、新しい目で、新鮮な心で物事の本質を見極めようとする、それは物語の力であり、芸術の力なのだ。

しかし、この『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』でも語られているように、美術や音楽、芸術は、国が危険な方に向かおうとするときに一番に弾圧されてしまう。「戦争が始まって真っ先に無用とされた科目は美術や音楽だったって。あと本もたくさん規制されたって」というのは事実だ。なんだか、その萌芽が今、あちこちに芽生えているような気がするのは私だけなんだろうか。(余談だけれど・・。「役にたたない」というお題目のもとに、文学や哲学さえも大学の学部から無くなっていくことが、私には何か恐ろしいことの始まりのように思えてならない。)希未や俊は、絵や彫刻を制作し、自由に「あのころの廣島とヒロシマ」を表現することで新しい心の目を開いていく。そして、ヒロシマを出発点として、その眼差しはもっと広がっていくのである。子どもを、若者を自分たちの都合の良いように使いたがる大人は、まずそういう自由な心の目をふさごうとする。吉岡先生からの手紙の中で述べられている「加害者になるな。犠牲者になるな。そしてなによりも傍観者になるな」という言葉は、心の自由を奪われない未来に向けての、これからを生きる子どもたちへの大切なメッセージだ。そして何より私がいいなと思うのは、この物語の中で、そのメッセージが「自分たちの出来ること」と結びついていることだと思う。大きな暴力や社会的な問題に対するとき、人は自分の小ささと非力を感じて、無力感に襲われてしまう。自分に出来ることなど、何もないと思ってしまいがちだ。私もずっとそう思っていた。しかし、吉岡先生が手紙の中で希未たちに伝えているように、「この世界は小さな物語が集まってできている。それぞれのささやかな日常が、小さいと思える生活が、世界を形作っている」のだ。そこから離れたところに、人の幸福はない。だからこそ、私たちは自分たちの小さな人生の中で何度も大切な記憶を心に刻みつける必要があるのだ。小さいからこそ出来ることがある。心に小さな灯籠流しの光を刻むことが、まことしやかに語られる大きな嘘を見抜く礎になるはずなのだ。希未や俊や耕造が、小さな「自分に出来ること」を精一杯やり遂げたことが、彼らの身近にいた人たちに、どんなに希望を与えたか、この物語の最後に原爆ドームを照らした色とりどりの美しい輝きを、どうか味わって欲しい。

ヒロシマは、過ぎた過去のことではなく、これから世界中どこにでも起こりえることでもあるし、この世界のどこかで、今、起こっていることでもある。ヒロシマを深く記憶することは、過去と現在と未来を繋ぐ視点を持つことではないか。私は最近ようやく、そんな風に考えるようになった。この物語のサブタイトル『廣島 ヒロシマ 広島』が意味するところも、そこにあるように思う。この物語は、これまでヒロシマを知っていたつもりであった私のような大人にも、これからヒロシマを知る子どもにも、非常に大切なことを丁寧に伝えてくれる物語だと思う。原爆についての基本的な知識もきっちりと書かれている。たくさんの人に読んで貰いたいし、『八月の光』(偕成社)の時にも思ったのだが、ぜひ翻訳されて海外の人にも読んで頂きたい。

2013年10月11日発行

講談社

 

(※1)「過ぎたれど去らぬ日々」朽木祥 子どもの本2012年9月号 日本児童図書出版協会

(※2)「「記憶」から去らない姿」朽木祥 子どもと読書 2013年7・8月号 親子読書地域文庫全国連絡会

(※3)「終わりと始まり」ヴィスワヴァ・シンボルスカ 沼野光義訳 未知谷

朽木祥講演会と池袋ジュンク堂でのブックフェア

久しぶりの更新です。何と一ヶ月近く放置してました・・。今日からまたぼちぼちと更新していきます。実はその間、堅い文章を一生懸命書いていたので、自分のブログにどんな感じで書いていいのか軽く戸惑い中(笑)

更新はさぼっておりましたが、その間にも文学オタクはますます昂進しておりまして、この週末は東京のオリンピックセンターで開かれた、親地連(親子読書地域文庫連絡協議会)の全国大会に行ってまいりました。一番のお目当ては朽木祥さんの講演会『物語の力』ですが、夜の交流会も次の日の分科会も、非常に充実した内容で有意義な時間でした。はるばる行って、本当によかった。まず、朽木祥さんの講演会のご報告と感想を・・・。

朽木祥さんの講演会のタイトルは「物語の力」。去年上梓された『八月の光』(偕成社)と、刊行されたばかりの『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』(講談社)を中心に、「ヒロシマをどう伝えるか」というお話でした。その鍵は“Compassion”(共感共苦)だと。この、人の苦しみを他人事にせず、自分の痛みとして記憶する、という営みをいろんな手法で積み重ねてらっしゃる朽木さんのお仕事に、私は深く共感するところがあります。『彼岸花はきつねのかんざし』(学研)はきつねと少女が心通わせるファンタジーの手法で。そして、『八月の光』は精緻なリアリズムの手法で。その「物語の力」で、忘れっぽい私たちが見失いかけている大切なことを問いかけてくださるように思うのです。朽木さんも講演の中でおっしゃっておられましたが、私たちが(少なくとも日本人の大部分が)ヒロシマを忘れてしまっていたことは、そのままフクシマと繋がっているように思うんですよ。だからこそ、今、またヒロシマを深く記憶する必要があるんですよね。でもでも・・・そんな風に思う人間は、少数派なのかと、憲法改正やオリンピック招致の際の原発に対する発言、『はだしのゲン』に対する圧力なんかを見るたびに苦しい思いに駆られてました。でも、朽木さんのお話を聞いて、やっぱりここで、子どもたちにしっかり過去のことを伝えていかなきゃいけないんだと思いました。「声高にではなく、静かな声であきらめず、しぶとく語ること」と朽木さんはおっしゃった。「静かな共感を呼ぶ物語を書きたい」と。

世間を暗い方向に引きずっていこうとするプロパガンダは大声でがなり立てることで、聞き手を思考停止に陥らせます。人は、暴力や破壊に惹かれていく一面を持ち合わせていて、私の中にも、そういう衝動は確かにある。でも、心に静かな声で語りかける愛しい物語の主人公たちが住んでいたら。きっと、そんな衝動に優しい手を当てて引き留めてくれると思うんですよね。朽木さんの物語には、そんな優しさと力があります。新刊の『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』もヒロシマがテーマで、そのお話もたくさんしてくださいました。ネタばれになるので詳しくは書きませんが、「芸術の力」と「失われた声を聞くこと」という二つが重要なモチーフになっているとのこと。「被害者、加害者という次元ではなく、この人類が経験した未曾有の事件を、人類共通の問題として記憶し、伝えたい」と語っておられたことを、しっかり覚えておきたいと思います。

こうして書くと、ひたすら堅い重い講演会かという感じですが、所々でユーモアも交えながら、ぎゅっと中身の詰まった一時間半でした。最後にファンタジーの物語に触れて、「ファンタジーを読むことで心が育ってくる。幸福な約束をちゃんと果たして終われることが児童文学のすばらしいところ。この世の楽しさも味わってもらいたいし、自由な心と深い知性を育てて欲しい」と述べておられたことに、深く頷きました。『光のうつしえ』と『花びら姫とねこ魔女』にもサインをして頂いたし。大満足でした。私ももっと勉強しなくちゃなあと、教養の塊のようなあれこれをお聞きして思ったことでした。

朽木祥さんの新刊『光のうつしえ』(講談社)と『花びら姫とねこ魔女』(小学館)については、また改めて長々と書きます。(笑)

池袋のジュンク堂で、新刊発売に合わせて朽木祥ブックフェアが開催されています。私も行ってきましたが、とっても可愛くコーナーが作ってありました。可愛いミニ冊子もありました。これは数量限定でいつ無くなるかわかりませんが、貰えます。 初日に行けてラッキーだったなあ。10月いっぱい開催の予定だそうです。

親地連のことも書きたかったのに、時間ぎれ。また明日・・・。

by ERI

わたしは倒れて血を流す イェニー・ヤーゲルフェルト ヘレンハルメ美穂訳 岩波書店

とっても痛い物語です。冒頭の自分の親指の先を切り落としてしまうシーンのリアルさに、正直びっくりしました。実は私も自分の親指の先を、ほんのぽっちりですが切り落としたことがあって、その記憶も相まって頭がくらりと・・・。うーん、痛い!でも、本当に痛いのはその指先よりも、心なんですよね。脈打つ痛みは、強く肉体を意識させます。自分の体に血が巡っていることを強烈に感じさせるという意味で、痛みは自分が生きている証でもあります。特に女は痛みと共に生きているようなもの。その身体性と心が呼応して強く脈打つ、少女の感性が鋭く描かれています。鍵は存在不安。そして、「自分」は何なのか、という大きな問いかけもこの物語の底に流れているように思います。そして、母と娘の葛藤と繋がりも。だからこそ、エキセントリックな主人公・マヤの中に潜む弱さと強さに、心が共に揺れるのです。

主人公のマヤは、美術の授業で電動ノコギリを使っているときに、誤って自分の親指の先を少し切り落としてしまう。その出来ごとにショックを受けたマヤは、離れて暮らしている母に連絡するが、返事がない。その翌日、離婚後の取り決めに従って母を訪ねたマヤだが、母は駅に迎えに来ず、家にもいないのだ。途方にくれたまま、マヤは母のいない家で一人で過ごすはめになってしまう。この母の不在は、ショッキングな事件にショックを受けているマヤをますます不安にさせてしまう。大学の心理学の教授である母は、「ママ」と呼んで無防備に甘えられるような人ではなく、「なにからなにまで、分析して、計画して、話しあわなきゃならない」性格の持ち主。肉体的な接触が苦手で、子どもをあやす、ということも出来ない。非常に知的でありながら、目の前にいるマヤの気持ちを考えることができない人なのだ。心理学の教授のくせに、普通に人と会話することは苦手な母。でも、幼いマヤが限りなく投げかける「なぜ?」という問いかけに、すべて答えようとする母。マヤは、そんな母に愛憎半ばする複雑な気持ちを抱えている。

痛みを抱えて母の愛情が欲しかったときに突き付けられた母の不在に、マヤが抱えている存在不安が間欠泉のように噴出してマヤを翻弄します。ネタばれになるのではっきりとは書きませんが、マヤの母親は、ある心理的な症候群の持ち主なんですね。彼女のマヤに対するときのベクトルの違い、ボタンを掛け違えるようなすれ違いは、そこに原因がありそうです。ただ、この物語は、母と娘の葛藤を、それだけに帰納させるものではありません。マヤは、自分の前から姿を消してしまった母のヤナについて、とことん考え抜き、その行方を追います。この、まっすぐ母に相対することは、マナの心から血を流させますが、同時に母が「母」という役割をもつ前に、「ヤナ」という一人の人間であることを感じさせるのです。初めて知る母の苦しみ。コミュニケーションをとることが難しい母の孤独。不在であるからこそ初めて見える母の姿は、マヤを打ちのめしますが、子ども時代を経て新しい関係を母と築くための、産みの苦しみでもあるのだと思います。

母と娘というのは、切っても切れない絆で結ばれる厄介な存在です。このマヤのような愛情の欠落感や存在不安は、決して特別なことではなく、誰もが心に抱えている痛みではないでしょうか。マヤの娘としての痛みは、私にも覚えがあります。そして、同時に母でもある私は、マヤの母としての苦しみもやはり身に沁みます。そして、自分が症候群という類型の中にいることを知ったときの、自分がいなくなってしまうような苦しさもわかるような気がするのです。身内に心の病をもつものを抱える人なら、これは誰しもが思うことだと思うのですが―こうですよ、と言われる症状を医師にあれこれ説明されても、どれだけその関係の本を読んでも、何やらつるつるの壁を目の前にしているような気がしてしまうことがあります。上手く言葉にするのは難しいのですが。たった一つしかない心の発する声が届く前に消えてしまうような、目の前で扉を閉められるような疎外感があるんですよね。簡単に片づけられてしまうことへの、不安かもしれません。(反対に病名がつくことで安心する気持ちもあったりするのが、これまた複雑なんですが)マヤの母であるヤナが、自分のアイデンティティとして自覚していたことが、実は症候群のせいだったかもしれないと思ったときの存在不安も、私にはひしひしと伝わってきたのです。だからこそ、そんなお互いの中にある不安を、たった一人のよるべない人間同士として見つめ合う二人の姿に心が震えました。その上で結びあう、これまでとは違う母と娘の絆が生まれるラストも、良かった。

「あなたに助けてほしいと思っています。理解できるように助けてほしい。ひとりでは無理だから。」

このヤナの声を、マヤは確かに聞いたのです。そのことが、爽やかな風のように心を吹き抜けていきます。ここから、二人は「自分は何なのか」という問いかけ、つまり人生そのものに新しい一歩を踏み出すのです。この物語には、ほかにも色んな人間同士の繋がりが出てきます。親友であるエンゾ。恋人になるジャスティン・ケース。(このジャスティンは、偶然なんだと思うんですが、メグ・ローゾフの『ジャスト イン ケース 終わりのはじまりできみを想う』(理論社)の主人公を連想させます)  年上の姉ごのようなセーラ。彼らが、ハリネズミのようなマヤをそっと包む気配もいい感じ。まあ、これはブラックなケレン味たっぷりなこの物語の中での安定剤なのかもしれませんが(笑)スプラッタな出だしで投げ出さず、最後まで読んでほしい。これも、岩波のSTAMP BOOKS のシリーズ。こんな風に好き嫌いがはっきり別れるだろう作品を持ってくる岩波の気風の良さに脱帽です。

2013年5月刊行

岩波書店

 

ゲンタ! 風野潮 ほるぷ出版

嬉しい『ビート・キッズ』シリーズの新刊です。なんと、ビート・キッズのヴォーカルのゲンタが、小学生の見知らぬゲンタと入れ替わってしまう物語。キレのいいテンポで、読後感も爽快。しばし暑さを忘れて読みふけりました。

小学校5年生のゲンタは、林間学校で行ったキャンプ場で高いところから落ちて気を失う。同じころ、キャンプ場の近くの高原でライブをしていたビート・キッズのヴォーカル、ゲンタもステージからジャンプしてそのまま意識を失ってしまう。そして、気がついたときには、二人は入れ替わっていた!というお話です。

大阪弁バリバリで、いらん笑いを取りにいっては滑る25歳の子どものようなゲンタと、少々ひねくれていて、こまっしゃくれた小学生のゲンタ。その二人が入れ替わって、右往左往しながらもとに戻ろうと悪戦苦闘。そのゲンタをサポートする25歳と11歳のサトシ、というなんとも憎い構成になっています。表のゲンタと裏のゲンタ―というと、どっちが表やねん、ということになるんで紛らわしいんですが。この二人、性格は違うんですが、どことなく「今」の自分に行き詰まり感があるんです。25歳のゲンタは、自分の家庭の事情が原因で、ライバルだったバンドに差をつけられてしまったのが面白くない。一方、11歳のゲンタは、母親が離婚するといって家を出ていったのを止められなかった自分が悔しくて仕方ない。もやっとしていた二人の心が入れ替わって別の体に放り込まれたときに、その体で体感することが、ビンビンとハートをゆさぶっていくのがとっても新鮮で楽しいんです。まさに、心のビートが伝わってきます。そして、大阪弁の飛び交うノリの中に、たまらん胸キュンが不意に現れるのに、私のような大阪もんは、特にやられてしまいます。

ツボは、25歳のゲンタのダメダメっぷり(笑)自分の携帯の番号ぐらい覚えときいや、とか。なんで11歳のサトシに全部おまかせやねん、とか。ものすごツッコミました(笑)いやもう、ほんまに「あかんやん」なゲンタなんですが、こういうアホで憎めんキャラを書かせたら、風野さんはほんまに上手いです。でも、その25歳のゲンタの刻むビートと音楽が、11歳のゲンタと彼を「歌う喜び」で繋いでいくんです。11歳のハートのゲンタが、たくさんのオーディエンスの前で25歳の体で歌う。そして、25歳のハートのゲンタが、サトシだけしかいない道端で、11歳の体で歌う。その時に訪れる至福の、無垢な喜びの手触りがまっすぐ胸に落ちてきます。

「歌うことは、喜びなのだ。声を出すことは―言葉を、心を伝えることは、喜びだったんだ。それを相手に伝えることも大事だけど、自分に伝えることはもっと大事だったんだ。」

この生きる喜びが、ビートになって心に伝わってくる。音楽の喜びって、今、ここにいる喜びに直結するんですよね。それを物語で伝えてしまう風野さんの言葉たちが気持ちよくて、ここ数日いろんなことで凹んでいた心に風穴があきました。子どもも大人も、先を見て歩くことばかりです。役に立つ大人にならなきゃいかんとか。どんなスキルを身につけるかで将来が変わってくるとか。そして、いざこの年齢になってみると、先に待っていることって、そんなに好いとは思えないあれこればかり。おいおい、ってそれこそツッコミたくなってしまう。そう思うと、私たちは限りなく「今」を失っているのかもしれないのです。音楽は、そんな私たちを「今」に結びつける営み。その輝かしい瞬間が、この物語には煌めいています。

そして、もうひとつ嬉しかったのは、最後に出てくるライブ会場が、万博のもみじ川広場だったこと。うふふ。地元です。夏のもみじ川というと、FM802のライブかなあ、なんて思うのも楽しい。自分のよーく知ってる場所が出てくると臨場感たっぷりで萌えます。久々にライブ行きたいなあ~と、音楽好きの血が騒いだ一冊でした。

2013年6月刊行

ほるぷ出版

by ERI

 

 

象使いティンの戦争 シンシア・カドハタ 代田亜香子訳 作品社

ティンはベトナムの高地に住むラーデ族の象使いの少年だ。学校に行くのももったいないと思うほど大好きな象のそばにいたいティンは、将来立派な象使いになりたいと思っている。ところが、ベトナムからアメリカが撤退して二年後、かってアメリカ特殊部隊に協力した彼らの一族は、北ベトナムの攻撃を受けるようになってしまった。ティンの村にも危険が迫り、ある日いきなりの総攻撃を受けてしまうのだ。

大好きな象のことで頭がいっぱいの少年・ティンの日常があっという間に崩れ去るのが胸に痛くて、頁をめくるのがとても辛かった。私の幼い頃、まだベトナムは戦時下にあった。テレビのニュースでも度々見たのを覚えている。戦争は恐ろしいと思い、ニュースを見るたびに心が痛んだけれども、私にとってはどこか遠いところでやっている他人事の戦争だった。子どもというのは、とにかく自分のことでいっぱいいっぱいなもの。そして、どこかで大人たちがやっている戦争と自分は無関係だと思っていた。この物語のティンだって、そういう子どもの一人なのだ。なぜ、大人が始めた戦争のために、自分がこんな目にあわねばならないのか、わからない。しかし、子どもだからといって、戦争と無関係では決していられない。それどころか、まず一番に殺され、傷つけられるのは子どもたちなのだ。わけもわからぬままに、いきなり生死を分ける決断を次々と迫られるティンの慄きと恐怖が痛いほど伝わってくる。子どもが子どもでいられなくなる、それが戦争なのだ。しかも、突然の襲撃で、村人たちの半分近くが殺されてしまう極限状況は、ティンが信じていた世界を何もかも狂わせてしまう。

突然の殺戮は、村人たちを守っていた精霊の存在も吹き飛ばしてしまう。ということは、長い時の中で培ってきた土地との結びつきも無くなってしまうということなのだ。そして、一緒に暮らしてきた人たちとの絆も。辛くも兵士たちのところから逃げ出したティンは、ジャングルを仲間の象使いの少年たちと彷徨うのだけれど、極限状況の中でずっと親友でいたユエンや、象使いの先輩であるトマスとの仲も壊れていく。ティンの父は、優れたトラッキング(敵の足跡をたどること)の才能を持っていたので、何度かアメリカの兵士を案内したことがあった。ティンも、その手伝いをしたことがあったのだ。ユエンもトマスも、今のこの状況は、アメリカに協力した人間が招いたのだとティンを責める。苦しいとき、辛いとき、人はそれを誰かのせいにしてしまいたくなるものだ。責める二人にティンは反発し、ますます溝は深くなる。しかも、逃げ道のない状況は、大人たちも狂わせる。あんなに考え深かった父さんが、負けしか見えない戦いに突き進もうとしているのだから。

「ときどき、考えもしないうちに、一線を越えてしまうことがある。そして線の向こうにいってから、望んでもない状況に踏みこんでしまたことを知る。わかるか?わたしは、戦うという決断はしなかった。線を越えるという決断をしただけだ。」

なぜ戦うのかというティンの問いに答える、この父さんのセリフが胸に刺さる。戦争になるのか、ならないのかを分けるのは、こういう〈考えもしないうちに、踏み越えてしまう一線〉なのだろう。例えば、アメリカがベトナムに介入したときも。日本が軍国主義に染まってしまったときも。ドイツがヒットラーに政権を明け渡してしまったときも。きっとその前に踏み越えてしまった一線があったはず。私たちは、まだ踏み越えずにいるんだろうか。そうではないと、確証を持って言えないのが、また怖い。

でも、何もかも変ってしまった中で、唯一変わらないものがある。それが、象たちだ。象たちだけは、自分を可愛がってくれる少年たちを最後まで信じてついてくる。ジャングルの中で象たちが見せる表情の、なんて優しく穏やかなこと。佇まいの高潔なこと。深い絆で結ばれている賢い自分の象・レディと再会したティンは、どんなに嬉しかったことか。レディと、彼女が生んだ子象のムトゥ(星という意味)は、ティンの幸せそのもの。母子の象とティンが過ごすジャングルでのひとときは、それはそれは美しくて、読んでいて涙が出てしまう。彼らの幸せがつかの間だとわかっているから余計に切ない。でも、その喜びが、ティンにどうすればいいかを教えてくれるのだ。憎しみや悲しみではなく、愛情が、ティンに生きる道を指し示してくれる。苦しむティンの心の中から最後に生まれる微かな光が、とても胸に沁み渡るのだった。

シンシア・カドハタさんの文章は簡潔で、なおかつ抑制された文章から静かに滲みだしてくる詩情がある。風景が、心を持って語りかけてくるようだ。ティンたちが迷い込む果てしないジャングルが、苦しみ惑う彼らの心象風景と重なって、読み手に戦いの中で踏みつぶされていくたった一つの人生について問い続ける。もう大人の私は、戦争が地球上のどこで行われていようとも、自分と無関係で無いことを知っている。そして、今でもいろんな理由で戦争したがっている人たちがたくさんいることも知っている。だけど、私にその一線が見えるだろうか?自分も、無関心という罪を持って、うっかりそこをまたいでしまうのではないだろうか?そう思うと、とても恐ろしい。この物語を読んだ若い人たちが、その一線について、大きなものに流されようとするときに、私たちを呼び戻す象たちの声について、何かを感じとってくれたら嬉しい。私も、この物語を忘れまいと深く思う。

2013年5月刊行

作品社

 

そして、ぼくの旅はつづく サイモン・フレンチ 野の水生訳 福音館書店

音楽も本も、旅と深く結びついていると思う。本は頁を開くだけで、私たちをどこにでも連れていってくれるし、音楽なら言葉の壁すらない。辛いときや苦しい時、何百年も昔に作られた曲が心の真ん中に届いて痛みを和らげてくれることがある。その曲は、どんなにたくさんの人たちの心を、時間を旅してきたことか。そして、私の手元にある物語も、出版に関わった多くの人の手をわたって旅をしてきてくれる。そう思うと、出会いというのはやはり一つの奇跡です。この物語の主人公・アリも旅の途中です。母さんとしてきたたくさんの旅。そして故郷から離れてくらす異国の風景の中で、彼が奏でるバイオリンの音が胸に響きます。

アリは幼い頃に事故で父を亡くしてからドイツの祖父(オーパ)の農場で暮らしていました。バイオリンの手ほどきもしてくれたオーパはアリの精神的な支柱です。でも、アリは、11歳の今、オーパと離れて暮らしています。アリが8歳のとき、一緒に出かけたオーストラリアへの旅で、母が運命の人と出会ってしまったから。そのままオーストラリアに母と移住して3年、アリは思春期の入り口に立ち始めています。まるで友だちのような関係だった母との間にも、少しずつ違う感情が混じり始める頃です。親子として生まれる、ということは抜き差しならない偶然です。人生で一番深い関係なのに、自分で結ぶわけじゃない。誰を親に生まれてくるか。どんな性格の子を持つか。それは、全く選べないのです。だから、いつも幸せなわけじゃないし、理不尽に耐えなければいけないときもある。この物語は、その偶然が奏でる様々な音楽に彩られています。

アリはボヘミアン気質の母、イロナに幼い頃から振り回されっぱなし。まだ6歳のアリを連れてイロナは何カ月もの旅に出たりします。詐欺師に出会ったりしながら続ける、バックパッカーの旅は、幼い子には過酷です。でも、その旅は、生まれながらにアーティストであるアリの感受性を鍛えることにもなるのです。そして、はっきりとは書かれないのですが、このイロナの放浪は、若くして夫を亡くしてしまった彼女の中から生まれてくる、言葉にならない衝動でもあるのでしょう。悲しみ。孤独。寂しさ。怒り。どんな言葉をつけてもどこかが抜け落ちてしまうような感情が、イロナを旅に向かわせたはずです。そして、アリもそれを感じとっていた。遅れた列車を待って凍りつきそうな駅で上着にくるまった二人の姿がそれを感じさせます。でも、その過酷な旅は、アリの音楽の才能にとってはかけがえのない御馳走なんですよね。孤独と感受性は裏返しです。心の葛藤なしに、優れた芸術は産まれません。母と二人、行きずりの人に出会いながらアリは心にたくさんの風景を刻みます。その旅の途中で、アリはバイオリンを弾きます。その音楽を、じっと耳を澄ませて追いたくなるんですよ。もちろん聞こえないんですが、彼の音の中にきらめくような詩情が溢れているのがわかるのです。そして、そのバイオリンは、今度はイロナの新しい人生の扉を開きます。

イロナは、オーストラリアへの旅で、アリのバイオリンがきっかけで再び人生を共にする人を見つけます。そのせいで、アリは、今度はオーパと離れて住むことになるのです。アリは、音楽家ならではの早熟さと聡明さを持ち合わせています。それ故に、とっても「いい子」してしまうんですよね。自分をぐっと抑えてしまう。新しい場所に、見知らぬ言葉、新しい父親。その場所でバイオリンを人前で弾くことを自ら封じてしまうのは、自分を封印してしまうことに近いのでしょう。そして、最愛の祖父であるオーパを亡くしてしまったとき、アリはあまりに大きな喪失感から、心を閉ざしてしまいます。その彼が、どんな風に、自分の心の声であるバイオリンを取り戻していくのか。この物語は、そこが読みどころです。アリを解き放つ鍵は、やはり音楽にあります。父親とのたった一つの記憶をよみがえらせてくれた一枚のCD。オーパと過ごしたドイツでのレッスンの想い出。新しい父親であるジェイミーと鳴らす、母へのプレゼント曲。リー先生が導く新しい音楽の扉。音楽の喜びが、少しずつアリの悲しみを美しさで満たして、新しい力に変えていきます。そのシーンの素敵なことったら。耳には聞こえないけれど、アリは自分に降り注がれる愛情を、音楽と共に感じ、歩き出すのです。親も含めて、偶然の人との出会いは、悲しみももたらすし、かけがえのない喜びも生み出す。でも、その中から何を感じてどう生きるのかは、自分にゆだねられるのです。親に左右されてしまう子ども時代から、人生を自分の手で選び取る時代へと、アリが成長していく姿が音楽と共に描かれるのがとても魅力的です。

アリは、音楽と生きる喜びが直結している、希有な才能の持ち主です。でも、彼が抱く孤独や寂しさ、そしてたくさんの人と出会う喜びは、誰もが感じる普遍的なこと。そして、アリを取り巻く人たちが、とてもユニークで生き生きしているのも、この物語を豊かなものにしています。子どもも大人も、自分の人生に、出会った人に一生懸命向き合って生きている。その陰影や凹凸も含めて、しっかり描き込まれているのが魅力です。アリが奏でるバイオリンの音に、身も心もゆだねたくなる。そんな一冊です。

2012年1月刊行

福音館書店

 

引き出しの中の家 朽木祥 ポプラ文庫

朽木祥さんの『引き出しの中の家』が文庫になりました。(以前書いたレビューはこちら→「おいしい本箱Diary 引き出しの中の家」)単行本も赤い表紙のとても可愛い本だったのですが、今度はピンクの表紙で、これまた乙女心をキュンとくすぐる可愛さ、愛しさです。文庫化を機会に、またこの本を読み返しました。再読って、いいですね。新しい発見と、時間を経て自分の中に積み重なってきたものとの両方を感じながら読むことが出来る。若い頃、大学で物語の受容と創造について講義を聞いたことがあります。昔、印刷がなかった頃は、写本を繰り返して物語は波及していった。その際に、写本をしながら、読み手は自分の物語を少しだけそこに付け加える。もしくは書き換える。それを繰り返すことによって物語は変貌を遂げていくわけです。その変化を研究することによって、私たちはその頃の人たちの価値観や物語観を知ることが出来る。もちろん、私は写本はしませんが、初読みのときから自分の中につけ加わったものを意識することで、いろんなことを改めて感じ、また考えさせられました。これまで単行本で買った本を文庫本で買いなおすことはしませんでした。これが初めての体験なんですが、再読をきちんとし直す機会になってとても貴重でした。朽木さんの本は折に触れて読み返すことが多いのですが、読むたびに新しい発見があります。だから、いつも付箋だらけ。

この作品の感想は、以前のレビューに書いています。ですので、重なる感想は書きませんが。物語の、目に見えているものの奥にあるものの深さに、改めて感じ入ってしまいました。「小さい人」が登場する物語というのは、『床下の子どもたち』(メアリー・ノートン)を初めとして私が知っているだけでも幾つかあります。彼らは小さいがゆえに常に危険と隣り合わせに住んでいます。日本のもので有名なのは、いぬいとみこさんの『木かげの家の小人たち』と佐藤さとるさんの『だれも知らない小さな国』ですが、『木かげの家の小人たち』では戦争が、『だれも知らない小さな国』では、都市開発が彼らの前に立ちはだかる大きな困難として描かれます。この物語の「花明り」たちもそうなんですね。殿様によって弾圧された歴史を持っている。そして、もしその存在が大多数の人に知られるところになれば、散在が池で河童が見つかったときの大騒ぎのようになることでしょう。花明りたちが、ひっそりとどこで暮らしているのは、この物語で詳しく書かれていませんが、常に怯えながら生活していることは想像に難くありません。この物語の前半では、そんな花明りと、病気がちで義母ともうまくいかない七重の孤独な心が重なります。散在が池に身を隠す河童たち。そして、人差し指ほどの小さな人たち。朽木さんのファンタジーは、常にマイノリティである存在が描かれます。河童。小さな人たち。きつねや猫、犬。その心に寄り添い、そっと彼らの世界に目を凝らせて見えてくるもの。その中に、私たちが忘れてはならない一番大切なものが隠れている。思えば、子どもも、この社会の中でのマイノリティである存在です。常に七重のように大人の思惑に左右される。だからこそ、二つの魂は出会うのです。河童の八寸と麻が出会ったように。そんな彼らと心を重ね、寄り添うことで、私たちはとても美しい風景を見ることが出来る。それは、大きなものばかりを見ていては気がつかない、人間らしく生きるための原風景ではないかと思うのです。

大きくがなりたてるプロパガンダや、一斉に雪崩を打って変わっていく世論。マスコミの喧騒に、私たちはとかく引きずられがちです。でも、自分の心の中に、こんな小さな人や、幼い河童の姿を住まわせ、彼らの声に耳を傾けていれば。きっとすべての見え方は違ってくるのではないか。そう思うのです。小さな人は、私たちが守らねばならない時代の中で抑圧されていくものの影を背負っているのかもしれません。そう思いながら読んでいると、この大きな屋敷のからくりは、アンネ・フランクの潜んでいた屋根裏に、ふと重なるように思ったりもしました。小さな存在、隠れているもの、耳を傾けなければ聞こえない声の中に、私たちが守らねばならないものがある。この物語を読む子どもたちの心の中に、花の香りと光を放つ小さな人が住んでくれますようにと思います。そして、大人の心には、彼らが帰ってくる喜びがもたらされるはず。

物語の後半、「今」を生きる薫と桜子が、失われそうになっていた七重と独楽子の絆を結び合わせます。人間と花明り。大きさも生き方も違うけれど、お互いの立場を超えて心を繋ぐ薫と桜子の笑顔が、ラストで見事に花開く光景に胸が熱くなってしまいます。実は数日前にぱせりさんのブログでこの本の感想を読ませて貰ったのですが。ぱせりさんは、この物語の最後に脳内でアメリカに住む七重から手紙がくるシーンを付け加えてしまっていたらしいのです。それをふんふん、さもありなん、と読んでいた私なのですが、なんと私もちゃっかり同じことをしていました。「おばあちゃんが薫にこのライト様式の家屋敷をゆずるつもりで、手入れをしようと密かに決意する」「七重を乗せた飛行機がタラップに到着して、彼女の足先が見える」という二つのシーンを勝手に付け加えていたことが判明。何度もこの物語の細部を反芻するうちに、自分の願望まで付け加えていたんですね。そんなシーンがつけ加わるほど、私もぱせりさんも、この物語に「希望」を貰っていた。そんな気がします。希望は、これからを生きる力、そしてかけがえのない「今」を感じる力です。

「瑠璃のさえずりはね、忘れていた大切なことを思い出させてくれる。あたしたちが、どんなすてきなものを持っているか教えてくれる。ほんとうに大切なことを、きっと思い出させてくれる。だから、瑠璃と会えた人はとても幸せなんだって」

花明りの独楽子に、七重に、薫に、桜子に、またこの文庫で会えて、とても幸せでした。物語の力を信じることが出来る。その喜びも、またこの物語から貰うことが出来ました。薫のおばあちゃんの口からふと「散在が池」という言葉がこぼれて、私の脳内朽木ワールドの地図帳に、そっとこの家の場所が書き記されています。ファンとしては、そんなオタクな楽しみもまたこたえられません。この物語を読んだ人たちが、それぞれどんなシーンを頭の中で付け加えたのか。とっても知りたい・・・。

2013年6月刊行
ポプラ社

マルセロ・イン・ザ・リアルワールド フランシスコ・X・ストーク 千葉茂樹訳 岩波書店

YAの物語に惹かれるようになったのは大人になってからです。息子たちが思春期を迎え、子育てにあれこれ深く悩み始めた頃から、一気にハマりました。若い頃は自分のことをリベラルな人間だと思っていたのに、親業をしているうちに、自分の感性よりも「こうあるべき」とか、「出遅れちゃ駄目」とかいう、他人からどう思われるかを物差しにした、カチコチの価値観に縛られるようになっていた。そのことに気付かせてくれたのは、YAの物語たちです。大人の入り口に差しかかって、自分の手で扉を開けねばならないときの慄きや、傷口の痛み。不安を抱えてみつめる空の美しさ。自分の心の中に眠る風景を呼び覚まし、目に見えない大切なことに気付かせてくれる―そんなYAの物語に、どれだけ助けてもらってきたことか。この物語も、とても瑞々しい物語です。主人公のマルセロが初めて「リアル」を見つめる眼差しと一緒に、また新しい目で自分とこの世界の関わりを見つめることが出来る。内に閉じた美しい世界に暮らしていたマルセロが、悩みながら発見する新しい「美」に心が震えます。

この物語の主人公であるマルセロは、内面的に豊かな生活を送っている青年なのです。その象徴ともいえるのが、心の中に鳴り響く音楽、IM(インナーミュージック)を持っていること。宗教について深い関心があり音楽のCDを何千枚も持っていて、自宅の庭のツリーハウスで寝起きしています。アスペルガーに近い障害を持っている彼は、他人の表情を読み取ることや、たくさんの人がいる知らない街を歩くこと、予定を決めずに行動することなどが苦手です。マルセロは、閉じた美しい世界にいます。しかし、彼の父親は、そんな彼に「普通」になって欲しい。競争社会の中で生き抜く術を身につけて欲しい。マルセロは、そんな父の提案に従って、夏休みに父親の経営する法律事務所にアルバイトに行くことになるのです。彼はそこで、生まれて初めての恋と、悩みを経験します。これは、初めてリアルな世界に触れたマルセロの心の記録なのです。

この物語はマルセロの視点で描かれています。初めて「リアル」に触れるマルセロの視線があぶり出す私たちの世界が、とても奇妙なんですよ。「こんなもんだよね」という暗黙のルールは、矛盾や無神経を思考停止の中に閉じ込めてしまう。マルセロはそのひとつ一つにひっかかるが故に、とことんまで考える。その筋道をたどるうち、私たちが日々の暮らしの中でどれほど心の中からふるい落としてしまっているものがあるのかを思い知らされます。例えば、私が冒頭で書いた彼の障害について。それは、「科学的なひびきのことばで定義したほうが、ほかの人たちもわかった気になれる」のだけれど、本当はそんな言葉ひとつで、説明しきれることでも、個々の状態に対応することも出来ない。本当は、その「出来ない」部分が大切なのに、私たちはわかった気になったところで大概のことを切り捨ててしまう。競争社会だから。ただ、ひたすら前に進んでいかねばならないから。でも、一番大切なことは、その切り捨てられてしまうことの中にあるのです。マルセロは、ゴミの中に捨てられていた少女の写真を拾います。それは、父親が扱っている企業の製品の不具合によって大けがをしてしまった女の子の写真です。企業側に立つ父が切り捨てようとしていた少女の顔が、マルセロはどうしても忘れられない。その事件を調べたマルセロは、重大な発見をします。しかし、そのことを公にすれば、父親を窮地に追い込むことになる。傷ついた少女と父親の間に立って、マルセロは悩みます。

マルセロが、そこからどんな風に自分の進むべき道を探したのか。どんな風に自分の心の声を聞いたのか。この物語の一番美しい場面は、その答えを探しながら、事務所で仲良くなったジャスミンとゆく彼女の田舎への旅です。ジャスミンは、マルセロの中にある豊かな感受性と純粋さに気付くことの出来る女性。瑞々しい自然の中で目覚めるリアルな女性への愛情が、なんと煌めいて描かれていることか。初恋なんですよねえ。マルセロは、IMよりも美しいものを見つけてしまうのです。そして、自分がどうするべきか、静かに自分の心の声を聞きます。湖の上で彼がその答えを見つける場面が、印象的です。マルセロは、自分の中の声を聞き、正しい道を見つける。そのゆるぎなさも心に沁みるのだけれど、私が素敵だと思ったのは、彼がその正しさを追求するのと同時に、人との出会いを通して、自分の醜さと弱さもまっすぐ見つめるところです。人は誰も心の中に美しいものと醜いものを持っている。マルセロは、醜い欲望を持たない聖者のように見えるけれども、聖者というのは欲望を持たないことではなくて、欲望を持つ自分を静かに見据えることのできる人なんじゃないか。読み進めるほどに大好きになっていくこの青年の面影を想像しながら、そんなことを考えてしまいました。

もちろんマルセロは聖者ではありません。だから、ジャスミンの過去を知って苦しみもします。庇護してくれていた父親からの自立と、初めて知った愛の苦しみは、マルセロを新しいリアルな人生へと導きます。そのリアルは、勝ち組になるとか、人よりいい人生を送るためのリアルではなくて、なりたい自分と共に生きていきたい人とが美しい音楽を奏でるために必要なリアルなのです。マルセロがひと夏の間にたどった旅は、未知の自分に出会う深い心の旅でした。この物語は、訳者の千葉茂樹さんもおっしゃるように、私たちが常に出会う普遍的な命題への問いかけに満ちています。そして、その問いかけに、真摯に向かい合うマルセロの姿が、とても美しいのです。人生の垢に凝り固まった大人の心も溶かしてくれる静かに深い湖のような物語でした。何度も読み返したくなること必至です。

この岩波のSTANP BOOKS、とても選書が素敵です。これまで読んだ3作品、「アリ・ブランディを探して」「ペーパータウン」、そしてこの「マルセロ・イン・ザ・リアルワールド」どれも読みごたえのある作品ばかり。岩波の底力を感じます。これからの刊行に、期待大。YAのこういう物語が、日本からももっと出て欲しいなあ・・・。

2013年3月刊行

岩波書店 STANP BOOKS

by ERI

スターリンの鼻が落っこちた ユージン・イェルチン 若林千鶴訳 岩波書店

橋下大阪市長の従軍慰安婦に対する発言が物議をかもしていますが、私は彼が使う「活用」という言葉が、彼の女性に対する考え方を語っているように思います。性は、人が人として生きていく根幹にある、自己の尊厳と不可避に結びついているもので、決して人に「活用」されてはならないものなのです。彼は、そういうことがわからない人なのでしょう。でも、今の日本では、こうして「おかしい」と思ったことについて発言も議論も出来ますが、もし政治に対して何も言えなくなってしまったときに、彼のような人間がトップに座ってしまったら―そう思うと非常に恐ろしい。この『スターリンの鼻がおっこちた』は、スターリン時代のソ連の少年が経験した恐怖の物語です。全く他人事ではない恐怖が目の前に迫ってくる迫力に満ち溢れています。

子どもは、一番強く時代の影響を受ける存在です。子どもは自分の弱さをよく知っています。そして、大人のように思想や教育から距離を取って生きていくことはできません。この物語の主人公であるザイチクも、秘密警察の父を幹部に持つ筋金入りの共産主義者として、ピオネール団という党の少年部に入団することを楽しみにしています。ところが、入団式の前日、今度は父親が秘密警察に逮捕され、連行されてしまうのです。密告したのは隣に住む男で、ほかに家族のいないザイチクはあっという間に夜の町に放り出されてしまいます。

ソ連という国がかってあったこと。スターリンが「大粛清時代」に2000万人もの人を追放したり処刑したり、収容所送りにしたこと。この本をいきなり手にした子どもは、そんな歴史的な知識を持ち合わせないことだろうと思います。でも、冒頭の、ザイチクが書いたスターリンへの手紙に、まず衝撃を受けるはずです。衝撃を受けないまでも、その為政者に対する盲目的な「いい子」っぷりに居心地の悪さを覚えるはずです。彼にとっては秘密警察にいる父親は英雄なのです。ザイチクを取り巻く何もかもが、今の自分たちの価値観とは違うらしい。ザイチクの眼を通じて感じるその居心地の悪さは、読むに従ってますます強くなります。監視しあっているアパートの人たちの目つき。いきなり鳴らされる真夜中の呼び鈴と、階段を上がってくる軍靴の音。いきなり連れ去られる父親の背中。ザイチクは一夜にして「いい子」から人民の敵の子どもに転がり落ちてしまったのです。転がり落ちてしまったザイチクの世界は一変します。しかも、ザイチクは学校でスターリンの胸像の鼻を壊してしまうのです。ゴーゴリの『鼻』の八等官のように、自分を取り巻くすべての世界が変わってしまったのです。今や、ザイチクも「人民の敵」。ザイチクは怯えます。教室内で行われる胸像を壊した犯人探しの恐ろしいこと。しかし、恐怖はこれで終わりません。これまで馬鹿にしていた同級生のメガネがまず自分の代わりに連れて行かれ、それから密告によって担任の先生が連れていかれ・・・ザイチクは校長に自分の父親を密告することを勧められ、そのときにもっと恐ろしい秘密を教えられるのです。

ザイチクの恐怖は、過ぎ去った過去の、自分とは関係ない恐怖なのか。この本は、読み手にそう語りかけます。自分の周りに、偉そうな洋服を着た「鼻」はいないか。もしくは、自分の鼻は、勝手に歩き出したりしないか。自分が信じている価値観が、一夜にしてくるりとひっくり返ったらどうするのか。カリカチュアライズされた挿絵の迫力も相まって、手がかりのない悪意の壁に囲まれるような孤独感が怖さを倍増させます。作者のユージン・イェルチンは、ソ連生まれです。それだけに、この物語には大粛清時代の恐ろしさが生きて脈打っているようです。私がこのザイチクの立場にいたら―きっと、彼のように「いい子」してしまったような気がします。子どもの頃、大人の顔色を読むことは抜群に上手でしたから。だから、この物語は他人事ではないし、今の日本にとっても他人事ではない。この物語のスターリン主義を、「グローバル」や「実力主義」という言葉に置き換えてみることだって出来るでしょう。訳者の若林さんが後書きで書かれているように、今の日本の子どもたちの状況に通じるものがあります。今の若い人たちに要求されるグローバリズム社会への適応力は、私のようなナマケモノには辛いとしみじみ思います。若い人の能力を、安価で、根こそぎ吸いつくそうとする化け物は、カッコいい服を着た大きな鼻かもしれません。そんな鼻はメガネくんの写真を塗りつぶしたように、ひとりの人間をモノ扱いします。そんな人をモノ扱いする大人の冷たさは、子どもの社会のいじめの問題にも繋がっている気がします。ザイチクの学校での粛清の恐ろしさに、学校での孤独を重ね合わせる子どもたちもいるでしょう。

「わたしたちがだれかの考えを、正しかろうが間違っていようが、うのみにし、自分で選択するのをやめることは、遅かれ早かれ政治システム全体を崩壊に導く。国全体、世界をもだ」

粛清の嵐が吹き荒れる教室の中で、たったひとりゴーゴリの『鼻』を教え続けるルシコ先生の言葉が身に沁みます。この物語は、ニューベリー賞のオナーブックに選ばれています。子どもたちにもぜひ読んで欲しいし、大人にも新しい目を開かせる一冊だと思います。この時代に収容所に送られた人がたどった恐怖は、『灰色の地平線のかなたに』(ルータ・セペティス 岩波書店)や、実際にシベリヤで抑留生活を送った石原吉郎の著書にも詳しく書かれています。

2013年2月発行

岩波書店

 

村岡花子と赤毛のアンの世界 生誕120周年永久保存版 河出書房新社

今日、初めて梅田のグランフロントに行ってきました。目的は、本を大好きなもの同士のおしゃべりです。デイヴィッド・アーモンド氏の講演会に行った折に、本当に偶然に知り合った若いお友達と、マニアックな本の話をしに行ったのでした。好きな本が重なる、というのはこんなに楽しいものかという勢いで喋りに喋り、気が付いたら夕方。本人たちの感覚では、つい1時間くらいしゃべったかな、くらいの感覚でびっくりしたのでした。本を読むというのはとても個人的な行為なのですが、思い入れのある本のことを同士とあれこれお喋りするのは、本当に楽しいことです。一つの本について、複数の目が持てる。自分が気付かない良さを発見する、話しあうことで深いところまで分かり合えたりする。そんな喜びは、本読みの大きな幸せです。この本のようなマニアックな特集本を読む楽しみも、そこにあります。村岡花子さんと赤毛のアンを大好きな人たちが集まって、自分の想いを語る楽しみ。今まで知らなかったことを教えてもらえる楽しみ。そして、これまで以上に、またその本が好きになれる幸せ。たくさんの喜びがぎゅっと詰まっています。

村岡花子さんについては、以前『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』を読んだことがあります。その時にも思ったのですが、こうして様々な論考やご自身のエッセイなどを読むと、モンゴメリという作家と村岡さんが出会った必然性というか、深い縁に驚きます。ポール・オースターと柴田元幸氏、フランクルの『夜と霧』と霜山徳爾氏、という風に、深く結びついて切り離せない名訳というのがありますが、それはただ文章を訳するという作業以上のものがあるような気がします。明治という時代に、特権階級でない女性が学問を修め、家庭を持ち、幼子を亡くし、戦争を乗り越えて生き抜いていく中で、モンゴメリの物語と魂が結びついていったのではないか、この本の様々な資料を読みがなら、その感はより強くなりました。そして、この本はまた新しい驚きもくれました。モンゴメリが亡くなった当日に出版社に届けられた原稿があったこと。それが最後の赤毛のアンシリーズとしてカナダで出版されたのが2009年であること。そして、その日本語訳が村岡美枝さんの訳で去年出版されていること!慌ててアマゾンでポチりました。アンの後日談ではなく、アンの周りにいた人たちの物語で、これまでよりもダークな、人間の影の部分に焦点を当てた物語が多いとのこと。(まだ全然読めていません)そして、モンゴメリが、最後は自分で命を断ってしまったことも、この本で初めて知りました。彼女は実生活でいろいろな苦しみを抱えていたんですよね。そのことはある程度は知っていたのですが。小説家として成功しながら、晩年を迎えて自殺しなければならなかったその苦しみを、この年齢になって考えると胸がしんとします。そのことも含めて、最後の小説が現れたことで、ここから新しい検証と論考が始まっていくのでしょう。それは、戦争や家庭、女性の生き方という「今」の困難と響き合うのものなのではないか。そんな予感もします。

『赤毛のアン』を、私は何度読み返したことか。アンのような友だちが欲しいと願った幼い頃から、このシリーズは理屈抜きの私の腹心の友でした。アン・シャーリーや『小公女』のセーラ、そしてアンネ・フランクが、ある意味、現実の友だちよりも大切な存在だった時もあります。その自分の強い思い入れが何故だったのか。私は今でも折に触れ考えることがあるのです。この本のような多角的な資料を集めた特集本は、その自分の心のへの道しるべとなるのです。一応図書館で予約して読んでみましたが、やはりこれはポチっと購入決定です。これまた大好きな梨木香歩さんと熊井明子さんの対談が載っているのにも興奮しました。河出書房新社さん、ありがとう。そして、今気付いたんですが、同じく河出書房新社から『図説赤毛のアン』という本も出てるんですね。これも読まねば。