トオリヌケキンシ 加納朋子 文藝春秋

加納さんの物語は、いつもほろりと心に沁みる。人々が何気なく通り過ぎていく道の一つ裏に隠れている、迷路や路地の暗がり。小さな謎の顔をして蹲っている悲しみが、木漏れ日のように優しく透明感のある文章で語られることで、背中にささやかな羽をつけて飛び立っていくような、そんな優しさがある。皆身軽にすいすいと通り抜けていく扉が、なぜか自分にだけは閉まっていたり。皆には見えているものが、自分にだけ見えなかったり。反対に誰にも見えないものが、自分にだけ見えてしまったり。とにかくこの世界はハンディを持つものに厳しく、理不尽だ。この本には、理不尽の壁に「トオリヌケキンシ」されてしまった若者たちの物語が収められている。

自分を押し込めている理不尽の正体は何か。それがわからないことが、人と違う苦しみを抱えているものにとっては一番辛いことなのだ。どの扉を開ければいいのか。いや、もしかしたら自分を通してくれる扉などはないのではないか。悶々とするうちに、どんどん自分に対する疑いや、恐怖ばかりが膨れあがる。「フー・アー・ユー?」には、相貌失認の男の子が、ネットからたまたま自分と同じ症状を見つけるシーンがあるが、まさにこれは幸運な例だと思う。心に抱く恐怖や違和感は、特に子どものうちは他人に上手く説明できないことが多いし、周りの人間が気づけるとも限らない。私自身も、次男が生まれつき抱えていたしんどさに、彼が成人するまで気づかなかった。いやもう、それを知ったときは非常に驚いた。彼に「気付かずにいて本当に申し訳なかった」と謝ったら「いや、これを診断できるのは日本でも数人しかおらんらしいから」と反対に慰められてしまったが、やはり私は今でも彼にすまないことをしたと心から思う。ハンディを背負わせていたこともそうだが、何より気付かずにいた、ということは今でも自分が許せない。

だから、この物語に描かれている場面緘黙や相貌失認、醜形恐怖という、傍目からわかりにくい心のしんどさや病気の苦しみについて、この物語を手にとる若い人たちが知るきっかけになれば何よりだと思うのだ。もちろん、加納さんはミステリの名手であるし、ここに収められている短編はどれも切れ味が良くて面白さは折り紙つきだ。だからこそ、物語の面白さと共に、これまで知らなかった視点で自分を眺めてみたり、人の苦しみに思い当たったりする心ばえが、ごく自然に流れこんでくるのではないか。加納さんはご自分も大変な病気をされて、そのことを体験記に書かれた。最後の「この出口の無い、閉ざされた部屋で」という短編には、その経験がのたうっているようだった。「かくも世界とは、不合理で不平等に満ちている」なぜ自分だけが、と壁に頭を打ち付けて苦しむときは、誰にだってやってくる。「トオリヌケキンシ」の扉を開きたい。人の弱さ、悲しみを愛しく思い、精一杯さりげなく差し伸べられる手の温かさ。それが素直に伝わってくる物語だった。

2014年10月刊行

ヒロシマを伝えるということ 朽木祥さんの作品に寄せて

原爆忌に朽木祥さんの『彼岸花はきつねのかんざし』(学研、2008年刊)『八月の光』(偕成社、2012年刊)『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』(講談社、2013年刊)を読み返していました。

(以前書いたレビューはこちら)→『彼岸花はきつねのかんざし』『八月の光』『光のうつしえ

原爆をテーマにした作品はたくさんありますが、朽木さんのようにヒロシマをライフワークにして創作されている方は少ないです。今、原爆や戦争のことを若者に伝えることは、なかなか難しいものがあります。NHKの番組で放送されたことですが、長崎では原爆の語り部の方に「死にぞこない」と中学生が暴言を浴びせたとか。戦争は、今の若者たちの暮らしから遠すぎて、「ふーん、そんなことあったんだ」くらいの感情しか動かないのではないかと思います。いや、実を言うと、私自身もそうでした。それどころか、社会的なことに問題意識を持つこと自体、何やらタブー感さえ持っていました。

日本の社会は、同調意識が強いんです。当たらずさわらず、「皆と一緒」にしておくのが、一番都合がいい。空気を読むことに長けていた私も、若さゆえの頑なさと保身で、そんな価値観にすっかり縛られていたように思います。でも、子どもを生んで、子育てにもみくちゃにされ、すっかり裸になった心に、幼い頃に触れた児童文学が再び色鮮やかに染みこんできた。戦争や核のことを深く考えるようになったのも、実を言うと朽木さんの作品に触れたことがきっかけです。だから、今の若者たちだって、例え教えられたその時にはピンとこなくても、ふとしたことがきっかけで、もう一度自分から知りたくなる時というのは、必ずやってくると思うのです。心の中に、そのきっかけを作っておくためにも、子どものうちに素晴らしい作品に出会っていて欲しい。今、核は世界的に大きな、避けて通れない、しかも自分たちに必ず降りかかってくる問題です。福島の原発事故では、全ての炉がメルトダウンし、3号機ではほぼ100%の燃料が溶け落ちているとのこと。廃炉までの行程を考えると気が遠くなります。これほどの規模の大事故があったにも関わらず、政府は原発を手放そうとはしません。それは、何故なのか。そこに住む人々の命を犠牲にして、一体何を守ろうとしているのか。秘密保護法案を可決させ、憲法を恣意的に解釈することを自分たち閣僚だけで決め、近隣諸国との対決姿勢をあらわにする今の政治のあり方に、私は強い不安を覚えています。広島と長崎から始まった核の時代は、そのままフクシマに繋がっています。「今」しか見えない眼では、それを見通すことは難しい。連作短編の『八月の光』は、卓越した文章力で「あの日」をくっきりと立ち上がらせ、これからの未来をどう生きるのかを問いかける意欲作です。そして『光のうつしえ』は、記憶を未来に繋いでいくことが語られます。

「加害者になるな。犠牲者になるな。そしてなによりも傍観者になるな」

『光のうつしえ』の中で、婚約者を原爆でなくしてしまった先生が、子どもたちに送った手紙の中の一節です。この言葉の中で一番大切なのは「傍観者になるな」ということ。戦争は常に一人の人間を加害者にも犠牲者にもするのです。それは、今、パレスチナで続く戦闘を見てもわかるように、国家に軸を置いた二元論という単純な腑分けでは語りきれるものではありません。『八月の光』の『水の緘黙』の主人公の青年は、「あの日」から深い深い罪悪感にさいなまれて彷徨い続けます。それは、目の前で燃える少女を助けられなかったから。生き残った人たちは、皆、多かれ少なかれ、自らも傷つきながら「生き残ってしまった」という苦しみに苛まれるのです。ハンナ・アーレントが指摘したように、ホロコーストが行われていたとき、ユダヤ人の指導者たちの中にもナチスに協力した人がいた。もしくは、『夜と霧』でフランクルが語ったように、看守の中にも何とかしてユダヤ人に親切にしようと努めた人もいたのです。私たちは否応なく時代の中で生きている。その中で何を選んでいくのか、どのように生きるのかを自らに常に問いかけなければならないのです。『象使いティンの戦争』(シンシア・カドハタ)では、アメリカ兵をトラッキング(敵の足跡をたどること)して案内した村人の親切が虐殺に繋がり、村人たちは戦争へと踏み出していきます。気がつかないうちに、村人たちは戦争への一線を越えていたのです。そうならないように、一人の人間として考え抜くこと。それが、「傍観者になるな」という言葉の中には含まれているのではないかと思うのです。個々の思考停止の果てに戦争があるのだとすれば、常に私たちの中に戦争の可能性は眠っているのです。『光のうつしえ』は、過去を踏まえた上で、国や民族の枠を超えて、一人の人間としてどう生きるかという真摯な問いかけを投げかける作品だと思うのです。

広島は、長崎は、世界で唯一直接的な核攻撃を受けた場所です。そこで何があったのか。それは、徹底的に語られ、検証され、人類への責任として世界中に発信するべきことです。世界中に核は溢れていて、フクシマの事故もチェルノブイリの事故も人為的なミスから起こっていることを考えれば、人間のすることに絶対はあり得ない。唯一の被爆地に生まれた朽木さんは、被曝を風化させないという責任を、人類に対して、これからを生きる世代に対して背負い続けて、物語を書いていこうとされているのではと思います。その物語の力を、どうかこの夏休みに、子どもたちと一緒に感じて頂きたいと心から思います。

 

四月になれば彼女は 海街Diary6 吉田秋生 小学館

夏にこのシリーズの新刊を読むのがとても楽しみです。6巻の表紙も青空。でも、変化の予感に少し切ない夏の空です。

すずちゃんたちも中三になって、進学問題が目の前に迫ってきています。サッカー強豪校から特待生のオファーがきた彼女の揺れる気持ちと、そんな彼女を見守る風太の複雑な気持ち。「四月になれば彼女は」は、サイモン&ガーファンクルの懐かしい曲のタイトルです。久々にあの美しい歌声をYou Tubeで探して聞いてみたのですが、恋が季節が変わるように移ろっていく、という歌詞なんですね。「四月になれば 多分 何もかも変わる」という風太のセリフのように、きっと一年後にはいろんなことが変わっている。15歳という変化の季節のまっただ中にいることはお互いよくわかっていて、多分心の奥底で自分がどうすればいいかもよくわかってる。だからこそ「今」がかけがえなくて切ないんですね。思い切りジャンプする前の一時。鎌倉の海辺を、相合い傘で歩く二人のシーンがとてもいい。風太はすずちゃんが遠くに行ってしまうのが、やっぱり怖いんですよね。15歳でお互い何の約束も出来ないこともわかってる。でもなー。「理由とか別に聞かねえけど でも おまえが話聞いてほしいって時は いくらでも聞いちゃるから」って、こんなことを言ってくれる男子は、そんなにいないと思うわ。(私が出会ってないだけか?)もし、二人が変わってしまっても、きっとこの瞬間はすずちゃんの心の居場所の一つになると思うのです。

居場所といえば、すずといとこの直ちゃんが、鎌倉の山奥に工房を構えている女性を訪ねる「地図にない場所」というお話は、特に良かったですね。女性が作った作品の美しさに感応してやってきた直ちゃんは、彼女の心の扉を開く秘密の鍵を持っていた。美しさに共感するということは、同じ心を分け合うということなんですよね。地図にない場所は、自分の心の居場所でもあります。すずちゃんや風太の住む鎌倉は、現実の鎌倉にはない、読者だけがいける地図のない場所でもあります。何と、来年実写で映画化だとか。見たくもあり、怖くもあり(笑)今NHKでやっている村岡花子さんを主人公にした朝ドラは、あまりに酷い内容なので見るのをやめてしまったし。好きな世界を映像化されるというのは、微妙なことですねえ。どうなることやら。

リゴーニ・ステルンの動物記 ―北イタリアの森から― マリオ・リゴーニ・ステルン 志村啓子訳 福音館書店

今月の初め、kikoさんと六甲山にハイキングに行った。六甲は無数にハイキングコースがあって、私たちが行ったような初心者向けのコースは、人の手が入って整備されている。それでも山の中は別世界で、何より鳥の声がたくさん聞こえる。一カ所、家の周りではほとんどいなくなったウグイスが集まっている場所があった。深い谷の木々をじっと見ていると、あちこちに留まっているウグイスの姿が段々浮かび上がってくる。不思議に思いながらそこを離れたのだが、しばらく行ったところでバードウオッチングをしている方に会い、ウグイスの巣穴がある場所を教えて頂いた。どうやら、山ではその頃が鳥たちの子育ての季節らしかった。あれから時々あのウグイスの雛はもう巣立ちをしただろうかと考える。人と出会ってもすぐに友達にはなれないが、動物だと一瞬姿を見ただけでも、なぜだか心に残るのが不思議だ。この本にも忘れられない動物たちがたくさん登場する。

この本は以前に読んだことがあって、その時にもレビューを書いているのだが、今現在、版元では絶版になってしまったらしい。表紙を見て貰うだけで伝わると思うのだが、この本はとても美しい。表紙のノロジカに見つめられて扉を開くと、長靴のようなイタリアの地図。もう一枚開くと、二羽の愛らしいクロウタドリが出迎えてくれる。そこはもう、北イタリアの森の入り口なのだ。あちこちに散りばめられた挿絵も、活字の大きさや配置も、志村さんの訳されたリゴーニ・ステルンの文章にしっくりと溶け合っていて、見事な一冊だ。本というのは、特に翻訳されるものは、その一冊に関わる何人もの方の美意識が一点に凝縮されるものだろうと思う。作り手の「想い」が込められている本から伝わってくる風を感じるのは、とても幸せなことだ。特にこの本の巻頭に載せられている、リゴーニ・ステルンの「日本の若い読者への手紙」は、若い人たちに、ぜひ読んでほしいと思う。

「いつもこの世に平和と安らぎがあるとはかぎらない。それは日々守り、獲得していってはじめて可能だということを、これらの挿話は、わたしたちに気づかせてくれるでしょう。」

彼は兵隊として第二次世界大戦に従軍し、強制収容所にいたこともある。この本の中に出てくるように、彼の故郷も大きな傷跡を残した。その彼が、子どもたちや若い人たちに、なぜこの物語を読んで欲しいと思ったのか。この物語たちに登場する人たちは、「たいへんな労苦をはらって、平和の中での暮らしを再開」した人たちだ。現在の日本と中韓との関係を考えても、どんな時代に生きていても、私たちは戦争とは無関係ではいられない。また、戦争でなくても、いきなり厄災に巻き込まれることもあるし、理不尽な状況に陥ってしまうことだって多々ある。穴の中に落っこちてしまった人間には、「平和と安らぎ」は青空のように、あるのはわかっても手に入らない切ないものなのだ。「アルバとフランコ」の中で、男たちが冬のさなかに家にこもって、木の細工物を心満ち足りて作るシーンがある。苦しみの果てに取り戻した日常の中に漂う木の香りが、どんなに胸に優しく満ち足りたか。そして、故郷の山に生きる動物たちが、それぞれの人生に深く縫い止められながら、誇らしく自分の生をまっとうしていく姿に、どんなに愛情を感じているのか。多くは語られなくても、この物語たちには、喪失を体験した人の「平和と安らぎ」に対する深い思いが溢れている。「日本の読者へ 遠く、遠く離れたところに暮らす親愛なる友よ」とリゴーニ・ステルンが書いているように、ここには国や人種という壁を超える生き方が示されているのだと思う。動物たちは国境を持たない。ただ、故郷を持つのだ。リゴーニ・ステルンの描く故郷に愛情を抱くことの出来る若き読者は、心の中で彼と同郷になる。まだ見ぬ故郷を持つことができる、とも言える。その積み重ねが、もしかしたら―本当にわずかな望みであっても、次の世代の若者たちが、自分たちを超える繋がりを手にしてくれるかもしれないというかすかな、でも必死の希望をもって、彼は言葉を紡いだのではないかと思うのだ。

今読んでいる本の後書きで、管啓次郎さんが、こう述べている。「昨日に別れて、少しでもよい明日を作り出すために。きみは渡り鳥として飛ぶか。それとも小さな橋を作るのか。いずれにせよ、合い言葉は「渡り」となるだろう」(※)本屋さんではもう購入できないかもしれないけれど、図書館には所蔵しているところが多いと思う。まだ見ぬ北アルプスの静寂に住むノロジカや、クロライチョウや、ノウサギたち。言葉を持たぬ彼らの生き方に心を繋いでいく幸せを、どうか味わってみて欲しい。

※ミグラード 朗読劇『銀河鉄道の夜』 勁草書房

クラスメイツ 前期・後期 森絵都 偕成社

久々の森絵都さんのYA作品です。何と12年ぶりとか。そんなに経ってたのかと、びっくりしました。森さんのYA作品が大好きです。最近はすっかり成人の小説に移られて、もうYA作品はお書きにならないのかと、すっかり拗ねていました(笑)大人の小説もいいんですけど、こうしてYA作品を読むと、森さんにしか書けない世界がやっぱりあるんですよねえ。読みながら、やっぱり好きだなあと嬉しくなりました。

この物語は、1年A組24人全員を主人公にした短編が24篇という企画で、この試みは目新しくはないものの、森さんが書くと新しい風が吹き抜けます。学校というのは、同じ年齢の人間が一つの場所に集まる特殊な空間。その中で、全員のドラマを追うと、面白い反面、息が詰まるようなしんどさが生まれてしまったりします。(これは、私自身があまり学校という場所が得意ではなかったせいもあるのかもしれませんが。)でも、森さんの物語には、どんな物語にもその子だけの風が吹いていて、心地良い。『10代をひとくくりにする、ということの対極に森さんの作品がある』と、あさのあつこさんが以前言っておられましたが、まことに至言だと思います。一人の人間が、様々な距離から見た24の視線から浮かび上がってくる。自分でこうだと思う自分、他人から見た自分。その違いも含めて、24人を描いてますます「個」が際立つという、なんともニクイ構成になっているのです。一人一人の存在感が粒立っているからこそ、一人の人間が持つ多様性がプリズムのように輝いてお互いを照らし出す。そこがいい。この1年A組、とても居心地がよさそうなんですよね。読んでいて、自分の座る椅子も、このクラスの中にあるような気になってきます。その秘密は、担任の藤田先生にあると見ました。押しつけず、いい距離感で常に生徒を見守るしなやかな強さがあります。この「見守る」というのは、実は一番エネルギーのいることだと思うのです。ありとあらゆる機会を捕まえて、水泳部に生徒を勧誘する癖のある藤田先生には、その強さと同時に、人としての可愛げがあって、とても魅力的です。厚みを持つ「人」を書けるのが、森さんの魅力だとつくづく思います。

クラスカースト、LINE、いじめ、グローバル人材の育成・・・今の中学生たちは、マスコミからの情報や、流行のキーワードでとかく読み解こうとされがちです。(いや、これは中学生だけではないのかもしれませんけど)私の頭も、つい、そんな言葉に毒されそうになってしまう。でも、森さんの物語には、そんな薄っぺらさが吹き飛んでいく身体性があります。例えば、自分の子どもが、小学生であろうと、中学生であろうと、赤ん坊であろうと変わらない、たった一人の体温のある存在であるように。ひとり一人が確かに胸に刻まれていく実感がある。最近テレビをつけると流れてくる、首相と呼ばれる人が語る、薄っぺらで大きな物語は、ひたすらうそ寒く恐ろしいです。あれに負けない厚みのある、同時代に生きる「個」の物語を、私たち大人は子どもたちに語らねばならないと切実に思うのですが・・・。そんなことを、この楽しい物語を読みながらずっと考えていました。森さんには、やっぱりYAの世界に帰ってきて頂きたい。自分で物語を語れない私は、やはりそう願ってしまうのです。

2014年5月刊行
偕成社

 

 

わたしたちの島で アストリッド・リンドグレーン 尾崎義訳 岩波書店

本を読む楽しみの一つは、自分とは違ういろいろな価値観に出会えることだ。頭と心の風通しが良くなる。でも、もっと楽しいのは、まるで旧友と出会ったかのように、共感できる一冊に出会うこと。毛細血管に酸素がたっぷり供給されるように、隅々まで美しいと思える物語に出会えることは、かけがえのない幸せだ。岩波が少年文庫で復刊してくれたことが、とても嬉しい。
北欧の輝く夏。20人ほどが住むバルト海の小さな島、ウミガラス島に一組の家族が夏を過ごしにやってくる。詩人で子どもっぽいパパのメルケル、家族の母親代わりの長女マーリン、元気いっぱいの少年のユーハンとニクラス。そして、まだ幼い、大の動物好きのペッレ。この物語は、メルケルの個性豊かな子どもたちと、隣の家に住むチョルベンという女の子を中心に島の暮らしを描いた物語だ。まず舞台になる島の風景が素晴らしい。野バラと白サンザシが咲き誇る海岸と、そこに生えているかのような古いスニッケル荘。桟橋に朝日が昇り、夕陽が満ち、リンゴの大きな木があって・・・。こうして書いているだけでうっとりするような島は、まるで子どもの楽園だ。楽しい夏休みを描いた作品は、児童文学に数多くあるのだけれど、リンドグレーンの描く楽園は、精神性も備えた厚みを備えていて、大人も子どもも、彼女の世界に深く分け入っていくことが出来る。そこが、とても魅力なのだ。

まず、先ほど触れた素晴らしい島の自然に、子どもたちの日常が深く溶け込んでいること。
スニッケル荘の隣に住むテディとフレディという姉妹は、お母さんに「おまえたち、エラが生えてきてもいいの?」と言われるくらいの海の子で、ユーハンとクラウスと加えた四人は、冒険の夏を送っている。秘密の隠れ家、ボート遊び、釣り、イカダ作り。ギャングエイジの彼らは、神出鬼没なのであまり物語の中心にはいない。しかし、彼らがいつも黄金の夏を送っていることは、物語のそこかしこにきらめいていて、それこそ太陽のようにこの物語を照らしている。物語は、その妹のチョルベンと、メルケルの末っ子・ペッレを中心に中心に展開する。いつも大きなセントバーナードの「水夫さん」を従えて島中を歩くチョルベンは、生まれついての大物だ。「永遠に変わらない子どもの落ちつき、あたたかみ、かがやき」を持つチョルベンは、この島の王のように楽しく島中に君臨している。一方、ペッレは子どもの危うい感受性がいっぱいに詰まった子どもだ。ペッレは、いつも「どこかの人や、どこかのネコや、どこかの犬が」十分に幸せでないと心配しているような子で、すべてのことを不思議の連続だと思い、動物に限りない愛情を持っている。

この二人が動物をめぐる大騒動をいろいろと引き起こすのが読みどころなのだが、私が凄いなと思ったのはリンドグレーンが、この輝かしい物語の一番奥に、「死」というものをきちんと描いていることだ。まず、この家族には母親がいない。ペッレの出産のときに亡くなってしまった母のことを、この家族は誰も言葉にしない。それは、母の死が、この家族にとってまだ過去にはなっていないことを意味している。子どもたちにとって、そして、そそっかしくて夢見がちで、子どもたちよりも子どもっぽい父親のメルケルにとって、妻がどんな存在だったか。それは、語られないからこそ、この物語の奥から立ち上ってくる。彼らは実は、生々しい大きな不在を抱えてこの島にやってきたのだ。だからこそ、この島の美しさは彼らの心に染み渡り、幸せな記憶が刻まれた古い家は、彼らに安らぎを与える。ペッレの存在不安と思慮深さは、自分の命と引き替えに母がいなくなってしまったことと無関係ではないだろう。島は、ペッレにまた新しい命を与え、奪うことを繰り返す。彼は、その中で、幼いながらも真剣に考え抜いて、自分なりの最善を尽くそうとする。私はそこに、リンドグレーンの、幼い者への限りない愛情を感じるのだ。幼い心は、大人が思う以上に「死」について敏感だ。ペッレの感受性は、決して特別なものではなく、きっと全ての子どもたちの心の中に棲んでいる。リンドグレーンは、その奥深くに眠る不安と喜びに、魂と言い換えてもいいかもしれない深い場所に語りかける術を持っている。この物語は、実は、家族の再生の物語なのだ。だからこそ、母親代わりのマーリンは、この島で将来を共に生きる恋人を見つけることが出来るのだと思う。

私たちは自然の不条理と共に生きている。命は与えられ、美しく輝いて、必ず奪われる。まるで守護神のようにチョルベンの横にいる水夫さんだって、その危険から逃れることができない。(この水夫さんの危機は、本当にはらはらした)でも、私たちは人間だから、心を持っているから、奪われるものを奪われるままに失うことはないのだということ。生きることが、こんなにも光に満ちて輝いているということ、まさに「この世は生きるに値する」ということを、この物語は教えてくれる。夏の日に何度も何度も読み返すのに相応しい一冊だ。この作品を原作にした映画が、この夏に日本で公開されるらしい。絶対に見に行こう!

戦場のオレンジ エリザベス・レアード 石谷尚子訳 評論社

内線が激しくなったベイルートの町を、ひとりの少女が駆け抜けようとします。自分のいる場所から、闘いの激しい中心地を抜け、相手側に飛び込むという命をかけた旅。10歳の女の子が、町を分断するグリーンラインを命がけで超えて見たものは何なのか。少女が感じた「戦争」が、息詰まるような臨場感で迫ってくる作品です。

でも、主人公の少女アイーシャは、例えばナウシカのように特別に強い女の子でも何でもありません。彼女は、出稼ぎにいった父親が帰らぬうちに内戦の爆撃で母が死に、祖母と兄弟と、命からがら避難先で共同生活を送っています。弟の面倒も見ているけれど、10歳の女の子らしく、自分のことだけでいっぱいいっぱいな毎日。用事を言いつけられてふくれたりするアイーシャを、作者はとても身近な存在として描いています。中東、アラブ諸国に生きる人々に対して、私も含めて日本人は遠い距離感で感じていることが多いのではないでしょうか。イスラム、テロ、戦争―マスコミで伝えられるそんなイメージばかりが先行すると、そこに生きる人たちの顔が見えなくなってしまう。でも、そこには私たちと変わらぬ人間の暮らしがあり、家族が、子どもたちがいるのです。物語は、ひとりの人間の心に飛び込むことで、そんな先入観の壁を超えることができる。この物語も、そうです。あなたと、私と、どこも変わらぬ普通の少女が、なぜ危険地帯に行かねばならなかったのか。唯一自分たちの暮らしを支えてくれているおばあちゃんの具合が急に悪くなったのです。彼女に残された道は、たった一つ。戦闘地帯のグリーンラインを超えて、おばあちゃんの持病の薬を貰いにいくことだけなのです。

アイーシャを突き動かしているのは、「不安」です。戦争のさなか、もし母さんだけではなく、おばあちゃんまでもが死んで、自分たちだけ取り残されてしまったら。当たり前にいてくれると思う人がいなくなる、その恐怖は、アイーシャが身近な存在であるからこそ、余計に読み手の心に食い入ります。だからこそ、彼女が必死の思いで飛び込むグリーンラインの緊張感が、ダイレクトに伝わってくるのです。戦争という有無を言わさぬ暴力の気配が充満する中を走る恐ろしさ。でも、私が何より怖かったのは、そのグリーンラインを超えた一歩先の向こうには、またごく普通の人々の暮らしがあることでした。戦闘と日常が、こんなにも背中合わせだということ。これは、日本という島国から出たことのない私にとっては、やはり虚を突かれることなのです。内線は、一つの国を二分します。目指すお医者さんの家がわからなくて泣いているアイーシャを、ひとりの少年が助けてくれ、オレンジをくれる。その美味しさは、誰が食べても変わらないのに、なぜか人は敵と味方に分かれて殺し合う。戦争に大人の事情は、嫌と言うほどあるでしょう。青臭い物言いをするなと言われそうですが、この根本的な問いをまっすぐ投げかけられるのが、児童書の素晴らしいところだと、私は思っています。戦闘が始まった市場の中を、少年の店のオレンジが転がっていくシーンが忘れられません。殺戮の中で無防備な人間の命のようでもあり、踏みにじられる暖かい心の象徴のようでもあります。

アイーシャは子どもだから(いや、大人もそうかもしれないけれど)敵味方を単純に信じています。敵は悪い人で、味方はいい人。でも、「とってもいい兵隊さん」は、帰ってきたアイーシャに、敵の兵隊と同じ眼をして銃を突きつけます。そして、敵側にいるライラ先生は、アイーシャにおばあちゃんを助けるお薬をくれたし、アブー・バシールは、危険を冒して彼女を助けてくれた。アイーシャは敵も味方も超えた、何人かの善意で危険地帯を行って、帰ってくることができたのです。では、なぜ、その人間が殺し合うのか。その不条理が、アイーシャの眼差しの中から鮮やかに浮かび上がります。戦争がテーマですが、スリリングな展開にのめり込んでいるうちに、アイーシャの気持ちに、素直に寄り添っていくことが出来る。読後、子どもたちの心の中には、アイーシャが助かって良かったと思う気持ちと共に、たくさんのやり切れなさが残るでしょう。そのやり切れなさを、いつまでも覚えていて欲しい。「大人になっても、人をにくんじゃだめよ」というライラ先生の言葉を、アイーシャが敵側の少年から貰って食べた、オレンジの暖かい味と一緒に覚えていて欲しいと思います。そして、私のようにまっすぐな問いかけを忘れてしまいそうな大人は、せっせと児童書を読むことにしたいとおもいます。

2014年4月刊行
評論社

大震災から3年― 「さよならのかわりにきみに書く物語 田中正造の谷中村と耕太の双葉町」 一色悦子 随想舎

先日、kikoさんと、神戸の灘にある「阪神大震災記念 人と防災未来センター」に行ってきた。4Fのシアターで阪神大震災を、映像と音響で体験することができる。これが、「来る」と身構えているにも関わらず、非常に怖い。音と映像だけでも恐ろしい。あれがいきなり来たらと思うと、やはり想像を超える。そのあとの、震災の記憶を伝えるブースであれこれ資料を見ていると、6000人を越える死者数に改めて呆然とするのだが、そのときに横にいたkikoさんがぽつりと、「それでも私たちはまだ幸せやったな、って思う」と言う。(kikoさんは神戸の人だ)東日本大震災では、未だに行方不明の方たちがたくさんおられるから、と。kikoさんの中には、どうしても忘れられない記憶が、多分いつも、何をしていても自分の中のどこかにあるのだ。それは、きっと一生そうなのだろうと、いつも彼女を見ていて思う。この一週間、様々なドキュメンタリー番組で震災の三年後の姿が取り上げられると、その果てしなさが心を噛む。傷ついた心と暮らし、そしてもっと降り積もる原発の不安。西館の資料室には、犠牲者の方々のひとりひとりの名前と顔と人生の記録を丁寧に綴った記録がある。数ではない、たった一つの人生がそこには刻まれている。

前置きが長くなってしまったが、この物語は、福島県郡山市出身の作者が、双葉町という避難区域に住む中学生、耕太を主人公に書いた物語だ。あの日、原発の事故が起こり、いきなり避難勧告が出て避難生活を余儀なくされた中学生の耕太。茨城県古河市にある母方の祖父の家に疎開してきた彼は、そこの渡良瀬遊水池が、昔足尾銅山の鉱毒によって消えてしまった谷中村の跡地であることを知る。自分でいろいろと調べるうちに耕太は自分の故郷である双葉町と谷中村が重なって見える。富国強兵を推し進めるために銅山はどんどん開発され、そのためにふもとの谷中村は鉱毒被害に見舞われた。豊かだった村の作物はとれなくなり、渡良瀬川は死の川になり、人々は病気になり死んでいった。しかし、村民の苦しみよりも国の利益を選んだ結果、反対運動は押しつぶされ、村民は村を追い出された。その跡地が渡良瀬遊水池なのだ。

経済的な利益を優先して、一握りの人たちの苦しみは置き去りにしてしまう構図がどんな風に展開されていくのか。そして、それが今もそのまま繰り返されていることを、一色さんは、耕太の目を通して資料と共に説得力を以て描き出していく。実のところ、私がその構図に気付いたのは恥ずかしながら最近なのだ。ヒロシマを勉強していくと、必然的に核や水俣のことにぶつかる。若い頃には、それらは別々のことだと思っていた。しかし、その根っこは全て繋がっている、ヒロシマもフクシマも、谷中村の鉱毒も、水俣も。私は気付くのが遅すぎた。はっきり言うと、日本中の大人たちが気付くのが遅すぎたのだと思う。だからこそ、若い人たちにはこの国の根っこにある負の連鎖を知って欲しいのだ。そして、自分や大切な場所を守るためにも、嘘やごまかしを見抜く目を身につけて欲しい。生涯を捧げて谷中村のために奔走し続けた政治家の田中正造の言葉が紹介されている。「人、侵さばたたかうべし。そのたたかうに道あり。腕力殺りくを持ってせると、天理によって広く教えて勝つものとの二分あり。余はこの天理によりてたたかうものにて、たおれても止まざるはわが道なり」。言葉で、静かに繰り返したたかうこと。根気よく、諦めず。そのための知性を身につけることがこれからを生きる子どもたちには必要なのだと思う。この本には、一色さんの身を切るような切なる願いが込められている。子どもたちにも、そして大人にも、今是非読んでもらいたい本だ。

一色さんは、発売になったばかりの「日本児童文学 2014年3-4月号」に「「演題 だれが戦争を始めるのですか」福島県立安積女子高校三年 山崎悦子」という作品を書いておられる。十八歳の高校生のレポートという形で、日露戦争を始めたときの日本を通じて、今の日本に流れる不穏な空気を考える作品だ。原敬と田中正造という対照的な二人の政治家が、もし協力しあえていたら―お互いの立場を越えて力を合わせることが出来ていたら、戦争を繰り返した歴史は違っていたかもしれない。時代の空気に流されずに発言することはいつも勇気がいる。この一色さんの真摯な闘いに私は胸を打たれた。そちらも、是非読んで欲しい。

2013年10月刊行

随想舎

炎と茨の王女 レイ・カーソン 杉田七重訳 東京創元社

異世界ファンタジーが好きであれこれ読むんですが、最近読んだ中では、これは特筆物のおもしろさでした。主人公は王女様。生まれつき神に選ばれしゴッド・ストーンの持ち主である彼女が、試練の旅を通じて大きな成長を遂げるというファンタジーの王道です。王道ですが、設定がとてもユニークで文章が瑞々しいので、良い意味でその王道を感じさせません。恋も、裏切りも、悲しみも、友情も、冒険も楽しめるジェットコースターストーリー。こういうの、いいですよねえ。ここまでいろんな要素を盛り込んであるにも関わらず、とても読みやすい。感情移入しやすいんです。それは、思うに主人公である王女さまであるエリサのキャラによるものなのかも。華やかさとは無縁の性格。食いしん坊で汗っかき、国政の面倒なことは優秀な姉に任せ、趣味は勉強。三カ国語を話し、聖典や歴史書は暗記するほど読み込んでいるという、引きこもり系のオタク女子王女なんですよ。何だかもう、読書好き人間にとっては他人とは思えない(笑)

その彼女がいきなり隣国のえらくかっこいい王と結婚することになります。嫁ぎ先にいく途中で既に命を狙われ、やっと着いたと思ったら、なぜか王は自分を王妃としては紹介してくれない。美しい愛人はいるは、先妻はやたらに美女だは、落ち込むことばっかりの日々で、ますます引きこもり傾向が加速するエリサ。このあたりのエリサのもやもやがとても丁寧に書き込まれていたので、そうか、宮廷を舞台にした心理劇になるのかなあと思ったら、何とある日いきなり誘拐されて砂漠の旅に放り込まれてしまうという運命の急変から、それはそれは息つく暇もないジェットコースターストーリーになるんですよ。ぐっと主人公の気持ちに引きつけておいてから翻弄する。もうね、読むのが止まらなくて困りました。

物語は、エリサの持つゴッドストーンをめぐって展開していきます。王女暮らしのエリサが、砂漠を越え、大きな国の戦争の狭間でぼろぼろに傷ついた人たちと出会って、何とかして彼らの力になりたいと思うようになる。これまで与えられていただけの生活から、自分の力と才覚で居場所を勝ち取っていくまでの、彼女の闘いと成長がまぶしくて読み甲斐があります。個人的には侍女として宮廷に潜入し、エリサを誘拐する美女のコスメ、エリサを愛する、優しい大型犬のような若者のウンベルトがお気に入りかなあ。この物語は三部作で、次々翻訳されるみたいです。早く続きが読みたいなあ。

そこに僕らは居合わせた 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶  グールドン・パウゼヴァング 高田ゆみ子訳 みすず書房

作者のパウゼヴァングさんは、終戦時17歳でした。そのとき、軍国少女だった彼女は、戦時中に叩き込まれた価値観が全て粉々になる体験をしたのです。この本は、ナチス・ドイツ下にあった頃、ドイツの少年少女たちが何を考え、どんな風に過ごしていたかを、その自らの体験と見聞きしたエピソードから20の短編に仕上げたものです。実は、私はこの本を読むとき、身構えていました。戦争に関する本を読むのは、時として辛いものです。みすず書房という出版社といい、この装丁といい、もう見るからに誠実な作りの本だけに、よしっ、と気合いを入れて頁を開いたのですが、読み始めると、今度はやめられなくなりました。読み物として、非常に面白かったのです。面白かった、というのは語弊があるかもしれません。しかし、とにかく一気に引き込まれて読むのがやめられなかった。ここには、人の醜さ、ずるさ、無関心や偏見が引き起こす残酷さがあります。そして、同時に人の美しさ、悲しみ、友情、尊さも描かれています。つまり、私たちがおくる人生と少しも変わらない人々の生活と心境が、非常にシンプルに、かつ深く描かれていて心に響いてくるのです。たまたま、彼らはあの当時のドイツに生まれ、それぞれの人生を生きていた。それが伝わってくるからこそ、その彼らを大きな狂気に引きずり込んだものが何かを、時代と個人の関係を、深く考えさせられます。そしてまた、私があの時代に、ドイツ人として生きていたら、どうしていただろうと考えざるを得ないのです。

連行されたユダヤ人の家に入りこんでスープをすする家族。可愛い甥っこを「狩り」と称して連れて出て、練習だからと逃亡してきたロシア人を射殺させる。一方で、アメリカに逃れていこうとするユダヤの家族に、村中の冷たい目を浴びながら自分の貯金をすべてはたいて旅費として与える人がいる。連行されていった友達が残していったお人形を生涯大切に持ち続けた人もいる。一方を非難して一方を偉いと思うことはたやすいけれど、果たしてその時代の空気の中にいたら自分はどちらの行動をとっていただろうと思うのです。その昔、自分がおかしいと思うことをうっかり口にして、いじめられたときの恐怖も思い出します。そのあと、すっかり口をつぐむことに慣れてしまったことも。わかっているつもりで、わかっていないことだらけの人生をおくってきたと、最近思い知らされることばかりです。私には、自分が彼らから遠い場所にいると思うことが出来ません。だからこそ、この本はぜひ子どもたちに読んで欲しい。この本に書かれていることが他人事でなく、自分たちの今の社会のあり方にも繋がっていることだと実感できると思うのです。そして、ここには教育の恐ろしさも書かれています。人種と外見だけで人の価値を決めつけることが、授業で行われていたこと。おとぎ話のイメージを借りて、子どもに人種的偏見を植え付けてしまう『おとぎ話の時間』は作者自身の経験だといいます。こんなこと、戦争中だからだよ、などと言えるのかどうか。例えばヘイトスピーチや、ヘイトスピーチまがいの記事をまきちらす雑誌の見出しを見ると、私はその根っこにあるものは同じだと思わざるを得ません。意味の無い優越感が何を生み出すのか。だからこそ、この本は大人にも読んで欲しい。

ドイツという国は、確かに大きな負の遺産を残したけれども、その負の遺産との向き合い方には、日本との大きな違いがあるように思います。紆余曲折はあっても、とにかく事実に向き合おうという努力が払われている。でも、この国でこのように日本が戦争でしたことをわかりやすく子どもたちに伝えることが、どれくらい行われてきたか。私自身の記憶をたどっても、それはゼロに近いのではないのでしょうか。この本の『アメリカからの客』というお話の中に、昔のことを伏せようとする祖母に「私は本当のことが知りたいの!」と少女が叫ぶシーンがあります。そう、本当のことが知りたい。都合の悪いところを伏せて「美しい日本」を押しつけようと思ったところで、子どもはそんな嘘は簡単に見抜きます。嘘は不信しか生みません。確かに辛い過去をみつめるのは苦しい。パウゼヴァングさんがこの本を書くのも、決して簡単なことではなかったはずです。「私の十七歳までの人生を形作ったものと向き合えるようになるには、何十年という年月が必要だったということです」という言葉が紹介されていますが、それでもこの本を書こうと思ったのは、時代の証人が段々いなくなることに危機感を覚えたからとのこと。時代の証人がいなくなってしまう前に、徹底的に、あらゆる角度から検証した事実と向き合うことが、これからを生きる子どもたちのためにもしなければならないことではないのか。それは、日本という国のためだけではなく、人類に対する責任としても果たすべきことではないのかと、この本を書かれたパウゼヴァングさんの思いに心を打たれながら、思ったことでした。

2012年7月刊行

みすず書房

 

ゾウと旅した戦争の冬 マイケル・モーパーゴ 杉田七恵訳 徳間書店

ゾウがとっても可愛いです。戦争という、人間の最も醜い愚行の中で、一頭の子ゾウの姿だけが生き物としてのまっとうさに輝いているのです。空襲の中を子ゾウと旅するというのは、本来なら非現実なことなんですが、戦争がその非現実をひっくり返します。支え合い、いたわり合うということを思い出させてくれる穏やかな、優しい命。戦争のお話なのに、読み終わったあと、生きる喜びがじんわりと心を包んできます。マイケル・モーパーゴならではの不思議な輝きを放つ物語です。

第二次世界大戦の末期、空襲が始まったドレスデンの町から、一組の家族が子ゾウと共に逃げだします。16歳のリジーと、9歳の弟のカーリ、そして母のムティ。飼育員をしていたムティが動物園から連れ帰ってきた子ゾウのマレーネは、人懐っこくて可愛い子。マレーネがいるところには、いつも安らぎが生まれます。空襲の夜、命からがら逃げ、動物園から聞こえる悲鳴を聞きながらたちすくむ三人を、マレーネがそっと鼻で包むシーンがあります。人間の勝手な都合に何の罪もない動物たちを巻き込んでしまったこと。町が焼き尽くされていく悲しみと怒り。地獄絵図のような状況の中で、ただ自分たちを信頼して温もりを伝えてくるマレーネ。その対比が鮮やかで忘れられない情景です。

傷つけ合う愚かさと、心を繋ぐ素晴らしい力と、どちらもが人間であり、生きていく上で多かれ少なかれ誰もが身のうちに抱える両面です。作者はその両面を戦争という極限の中で見事に描いていきます。命を繋ぐぎりぎりの場所で、怒りや悲しみに胸を焦がしながら、家族がいつも「愛」に軸足を置いて歩こうとする。その先頭にゾウのマレーネがいることが、私にはとても象徴的なことに思えるのです。ありとあらゆる手段でお互いを差別化しようとしてしまう人間が陥る最大の過ちが戦争。その過ちをどう乗り越えるかを、種という垣根を超えて心を繋ぐマレーネが教えてくれているようだと思うのです。そして、その力は子ども達の中にも溢れています。たどり着いた叔父さんの農場で出会った敵国人であるカナダ人の兵隊であるピーターに、リジーはあっという間に恋をして、カーリはなついてしまうのです。兵隊という顔の見えない存在から、名前と顔のあるひとりの人間として出会ったとき、いろんな壁が消えてしまう。子どもの持つ、壁を超えてゆく力の鮮やかさが、この物語の中で希望として輝いています。

大人はなかなかそうはいきません。戦争に反対で、日頃ドイツ政府を批判していた母が、一番ピーターに抵抗感が強いのも、これまたよくわかるところです。しかし、この物語にはもうひとつの輝きが描かれています。傷ついた人たちを助け、敵国人であるペーターと共にいるリジー達家族を救ってくれた公爵夫人の知性の輝きです。避難民を受け入れ、自らの信念を貫く勇気は、きっと長い時間をかけて磨き上げられた教養と知性に支えられている。その美しさに、リジー達は救われるのです。壁を超えていく子どものしなやかな心と、磨き上げられた大人の知性。その両方に敬意を払う作者の願いが伝わってきます。

リジーとペーターがその後、どんな人生を送ったか。子ゾウのマレーネが戦争のあとどうなったのか。それは、ネタばれになるので書きませんが。老婦人の回想として少年に語られるこの物語が、かけがえのない子どもたちへの贈り物であることは間違いがありません。表紙も装丁も素敵で、ほんとに読んで良かったなと思わせられる1冊でした。

2013年12月刊行

徳間書店

 

2013年の心に残った本 

2013年が終わります。自分でもツッコミたくなるくらい、久しぶりの更新ですねえ。実は今年の後半は、ずーっと評論を書いていました。一つは10月締め切りで、もう一つは今日、12月31日締め切り。もう、大掃除も何にもしないままに、やっと書き上げて送ったところです。公募の評論なので、結果がどうなるかはわかりませんが、とにかく書き上げられただけで自分では満足かな(笑)でも、10月に送った方は、おかげさまで選考を通過しまして、来年『日本児童文学』という雑誌に載せて頂く予定です。何月号に載るかはっきりしたら、お知らせします。タイトルは「朽木祥の『八月の光』が照らし出すもの」。機会があれば、読んで頂けると嬉しいです。

私は不器用というか、頭の切り替えが出来ないというか、評論を書いていると、ずーっとそのことで頭がいっぱいになってしまって、他のレビューが書けなくなってしまいます。ほんとに、いろんな作品を並行して書き上げられる作家の皆さんは凄い!もうね、30枚くらいの評論を書くのに、こんなに苦労する自分に笑えます。でも、あれこれ悩んでじたばたしながら書いていると、ふっと自分の思考の蓋がパカッと開いて次に行ける瞬間があって、そこが面白くて苦しくて、面白いという(笑)来年はどうするかわかりませんが、いろんな機会を捕まえて、評論を書いていこうと思っています。ですので、ブログの更新がしばらく無かったら、「あ、今、苦しんでるな」と思ってください(笑)(知らんがな!!)

今年はそんな関係で、評論や社会学の本を読むことが多くて、肝心の児童書や、大好きな翻訳作品を集中して読むことが出来なかったのが心残りです。来年はもっとがっつりと読んで、レビューもたくさん書きたい!うん、これはちゃんと言葉にして言っとくべきですね。言霊、言霊。そんな中でも、心に残った本たちをあげておきます。順不同。

光のうつしえ―廣島 ヒロシマ 広島 朽木祥 講談社

実は、この作品で今日まで評論書いてました。ヒロシマは、とても大切な、私たちが伝え続けていかなければいけないことです。ヒロシマを置き去りにしてきたことが、今、私たちの暮らしとこれからの子どもたちの生きる場所を脅かしている。戦後70年経った今、ヒロシマをどう自分の問題として若い人たちに伝えていくのか。この作品は、その難しさに対する真摯な挑戦であると思います。原発の問題、それから秘密保護法案、きな臭い情勢の中での靖国参拝。非常に危機感を覚えます。この本を、少しでも多くの人に読んでもらいたい。ヒロシマは、他人事ではありません。今、ひしひしとそれを感じます。

嵐にいななく L・S・マシューズ 三辺律子訳 小学館

近未来のような、位相が少しずれた世界のような、どこか不安を感じさせる場所が舞台のこの物語。冒頭の洪水のシーンが忘れられません。ひたひたと押し寄せる黒い水のような不安の中から、主人公の少年が自分の手で掴む信頼という名の黄金がきらめきます。最後まで読んで、あっと驚くどんでん返しの妙も味わってほしい一冊。

マルセロ・イン・ザ・リアルワールド フランシスコ・X・ストーク 千葉茂樹訳 岩波書店

今年のYA翻訳作品の中で、一番好きな作品です。主人公のマルセロがほんとに素敵で、どんどん感情移入してしまう。マルセロの感受性と内面の豊かさに、大切なことを教えられます。何を目指して人生を歩いていくのか。人を愛するということはどういうことなのか。マルセロの眼差しとともに、じっくりゆっくり考えたくなる。文章もとても美しくて何度も読み返したくなる作品でした。

象使いティンの戦争 シンシア・カドハタ 代田亜香子訳 作品社

今年は戦争についての本をたくさん読みました。思うのは、戦争とはある日突然始まるのではなく、いつの間にか一線を越えてしまっているもの、知らないうちに巻き込まれているものなんだということ。その「知らないうちに」の恐ろしさが、この本には描かれています。ジャングルの混沌の中を彷徨うティンと、暁の星のように彼を導く象たちの愛情に満ちた姿。忘れられない物語です。

わたしは倒れて血を流す イェニー・ヤーゲルフェルト ヘレンハルメ美穂訳 岩波書店

岩波のSTAMP BOOKSは面白い。この本はのっけから血だらけだし、主人公の少女のエキセントリックさや性の描き方など、YAとしては結構リスキーな選書です。でも、だからこそ面白い。時代が突きつけてくるテーマから目をそらさず、挑み続けるこの姿勢は、さすがに岩波だと思うのです。身体と心から血を流す少女の痛みと危うさに、もっと身を浸していたくなる。母と娘の根源的なテーマを描いた骨太さも魅力的でした。

スターリンの鼻が落っこちた ユージン・イェルチン 若林千鶴訳 岩波書店

今年は信じられないことが次々と起こった一年でした。オリンピックの誘致で首相が原発事故について、全世界に嘘をついたこと。橋下大阪市長の慰安婦発言。さっきも書きましたが、特別秘密保護法案の強行採決。原発ゼロを目指すと決めたことを翻して、原発をベース電源にするとの方針転換。そして、過敏になっている神経を逆なでするように行われた靖国参拝。この流れに、恐ろしいものを感じてしまうのです。この「スターリンの鼻が落っこちた」の中の一節。

「わたしたちがだれかの考えを、正しかろうが間違っていようが、うのみにし、自分で選択するのをやめることは、遅かれ早かれ政治システム全体を崩壊に導く。国全体、世界をもだ」

この言葉を忘れないように。そして、子どもたちにも伝えていきたいと思います。

花びら姫とねこ魔女 朽木祥作 こみねゆら絵 小学館

この本に登場するたくさんの猫たち。ゆらさんのお書きになる猫さんたちがとても可愛くて愛しくて。しかも、うちの猫二匹もこの中に書いて頂いたんですよね~~(自慢自慢!)この本を何人に見せたことか。―という個人的な事情は別にして、これはとても素敵な本です。あなたにとって「とくべつ」って何ですか?と問いかけてくる物語なのです。他の誰かの「とくべつ」ではありません。自分だけの「とくべつ」です。心通う「とくべつ」を探して、自分だけの「とくべつ」を抱きしめて見失わずにいたい。声高に語られる大きな物語や誰かの思惑に振り回されずに。それが来年の私の目標でもあります。

こんな気まぐれの更新しかないブログにきて下さって、やたらに長いレビューを読んで頂けたこと、心から感謝しております。ありがとうございました。 来年もよろしくお願いいたします。

Rie Shigeuchi

紙コップのオリオン 市川朔久子 講談社

母親というものは、当たり前のようだが家庭にとっては大きな存在だ。良くも悪くも家庭というものの中心にいて、家の中を丸く治めてしまう存在でもある。特に食欲で一日が回っているような男子中学生にとっては、例えもやもやとしたものがあったとしても、母親がいて帰ったらご飯が出てきて日常が回っていると「ま、いっか」といろんなことをやり過ごしてしまったりするだろう。しかし、この物語ではまず冒頭でその母親が「やるなら今でしょ」的な書き置きを残して、冗談ではなく本当に旅に出てしまうのだ。同じ母親の立場から言うと、思い切ったなあと関心してしまう。もっとも、なぜ母がそこまで思い切ったのかもこの物語の伏線として最後にわかることになるのだが。母親の不在でぽっこり空いた穴は、これまでうやむやにしてきた父親との関係を浮かび上がらせる。そして、少し日常から外れてしまった視点は、学校という「埋もれるのが勝ち」の世界で少しだけ自分と彼に関わる人を変えるきっかけを主人公の少年に与えるのだ。日常の中にある、ささやかだけれども大きな意味を持つこと。それに気付くことで起こる変化のダイナミズムを描き出した素敵な物語だった。

主人公の論里は、父親とは血が繋がっていない。思春期になり、これまでのように無邪気に父親に向かいあうことが出来なくなってしまった論里は、母の不在によって、父親との仲がぎくしゃくしてしまう。シングルマザーだった母と結婚することが世間的にどんな意味を持つかがわかってしまう年頃なのである。論里は自分の存在が父親にとって迷惑なのではないかと内心怖くてたまらないのだ。そんな中、論里は創立行事委員会で、ふとキャンドルナイトを提案してしまい、面倒くさいと思っていた行事に主体的に関わっていくことになる。そのきっかけは、同級生の女子、白(ましろ)がキャンドルナイトを「あたし、ほんとにいいと思う」と言ってくれたことだ。白は、その名前のように皆から「変わってる」と思われている。「気になっていることはすぐに突き詰めちゃう」性格の白は、でしゃばりだとか、テンポが合わないと思われているらしい。白は自分が大切だと思ったことにまっすぐ向かっていこうとする性格なのだ。委員会でキャンドルナイトで何を描くのか、という話になったとき、「絆」といういかにもそれらしい提案に流れかけるのだが、白は果敢にも「めんどくさいな」という空気に負けず、「あたしは、なんか、嫌です」ときっぱり言う。皆でやる行事だからこそ、お弁当のプチトマトのように「みんな入れてるからそれを入れてれば安心」という安易な言葉に乗っかりたくない。その思いを、論里は受け止めるのだ。

この世界はとても複雑に出来ている。家族と一口に言っても、論里が母親の気持ちを全く知らなかったように、自分を育ててきた父親の気持ちがわからないように、見せている顔はごくわずかだ。小学校の時に仲良しだった大和が学校を休みがちなのも、多分本人にも論里にもどうしようもない家庭的な背景がある。それをきちんと見つめていくことは、白のように人との軋轢を生む結果になったりするし、論里のようにしなくていいことを背負わなければならなかったりする。損得―今風に言えば「コスパ」で考えたら効率の悪い、損なことなのかもしれない。しかし、白の思いを叶えたいと思ってはまり込んだキャンドルナイトは、論里に「やろうという意志を持って動き始めると確実に物事は動きだす」ということを教えてくれる。面倒だと思っていたことも、誰かのためにと思ってやり出したことも、自分の手で成し遂げれば大きな実りをもたらすこと。その実りは自分以外の人も幸せにする力を持つこと。論里は自分という小さな星を、他人の星と繋いでいく一歩を踏み出したのだ。物語のクライマックスであるキャンドルナイトはとても美しい。論里と白の想いがぴったり重なる告白のシーンも、とても印象的だ。誰かを大切に思うことは、迷惑や損得で割り切れることではない。論里の胸の中に芽生えた恋心、「好き」と想う気持ちは、この世の中で一番大切なダイナミズムなのだ。自分に大切なことを教えてくれた白への想いを、「好き」という言葉を使わずに現したこのシーンは、とても素敵だ。

星座とは見ようとしなければ見えない。人の心も、世の中の動きも、やっぱりそうなのだ。昆虫好きでマイペースな妹の有里や、笑顔がさわやかで完璧そうに見える進藤先輩や、調子が良くていつも賑やかな同級生の元気も、皆どこかしらでこぼこや痛みを持っているのだ。それをめんどくさいと見ないようにしていると、大切なものを見失う。そこにあるものを新しい眼差しで見つめること。そうして自分で発見したことだけが、自分の中で経験になって新しい星座になって輝き出す。

「考えてみれば水原は、いつも自分の言葉に勇敢だった」

私はこの一節がとても好きだ。自分の言葉を大切にする、この勇気がないと心は枯れる。枯らそうとする圧力がやたらに多い息苦しい今、小さな勇気が灯したかけがえのない光を描き出す市川さんの繊細さが胸に染みる物語だった。

2013年8月刊行

講談社

光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島  朽木祥 講談社

「美」はいつも心に新しい感動をくれる。美しさは人の心の扉を開いて、そっと奥底に滑り込む。夕焼けが、樹々や海の色が人の心にいつも何かを語りかけるように、「美しい」ということは私たちの心を解き放つのだ。ヒロシマの物語、というと「怖い」「恐ろしい」という拒否反応が特に子どもたちには生まれがちだが、この『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』は、ヒロシマの記憶を残された人たちの心と共に伝えながら、しみじみと美しい。この作品は、児童文学というジャンルにおいて、「ヒロシマを美を以て語る」という難しいことをやってのけたのではないかと、読み終えてまず思ったことだった。卓越した文章力がある朽木さんだから出来たこの物語は、灯籠の光とともに、原爆投下前の廣島、あの日のヒロシマ、そして現在の広島を繋いで確かなメッセージを刻み、読み手の心に色鮮やかに流れ込んでくる。

舞台は、あの日から25年後の広島。犠牲者を悼む色とりどりの灯籠流しのシーンから始まる。12歳の希未は、母が何も書かれていない白い灯籠を流すことに初めて気がつく。「あれは誰の灯籠なんだろう」と思った希未に、一人の老婦人が声をかける。「あなたは、おいくつ?」どうやら、老婦人は誰かの面影を希未に見つけたようなのだ。その老婦人のことが気になっていた夜、希未は仏壇の部屋で声を殺して泣く自分の母を見る。「もはや戦後ではないと言われ始めたころになっても、人びとは変わらず誰かを待ち続け、探していたのである」これは、朽木さんが書かれた「過ぎたれど去らぬ日々」(※1)という文章の一節だが、25年が経っても希未の周りにいる人々は、それぞれ亡くなった人の面影を心に「うつしえ」として刻んだままなのだ。希未は、ひょんなことから自分の通う中学校の美術教師である吉岡先生にも、忘れられない人がいることを知る。そして、その吉岡先生の入院をきっかけに、希未たち美術部は「あのころの廣島とヒロシマ」というテーマで文化祭に向けて作品を作ることを決め、自分たちの身近な人たちのかっての「廣島」と、あの日の記憶 「ヒロシマ」を聞くことにする。そのための打ち合わせのために若い希未や俊が話し合っている言葉の一つに、私ははっとした。

「よう知っとると思うとることでも、ほんまは知らんことが多いよな」
「よう知っとると思うとる人のこともね・・・・・ 」

この夏にNHKが放送した『ヒバクシャからの手紙』という番組を見たのだが、68年経った今でも、自分の娘や息子たちに被爆体験を語れない人たちがたくさんおられる。親しい肉親相手だからこそ、語れない人も多い。この「語れない」というところに、何が込められているのか。その言葉にならぬ思いを、朽木さんはこの作品の中で、丁寧に選び抜かれた言葉で綴られているように思う。この本の献辞は【世界中の「小山ひとみさん」のために】と綴られている。小山ひとみさんは、戦死された息子さんのことを歌った短歌をたくさん新聞に投稿された実在の方で、この物語にも何首か紹介されている。その短歌には、夫も子どもにも先立たれた小山さんの、極北に一人佇むような日々が凝縮されているようだ。先日の講演会で聞いたところによると、朽木さんはこの小山さんの短歌をリアルタイムで読んでおられたらしい。私は母親だから、やはり、息子を失った母の辛さに共鳴してしまう。そのしんしんと伝わってくる思いが、作品中に挿入される一人一人の記憶の物語と深く響き合って、まるで昨日自分の身におこったことのように身に染みた。吉岡先生の、耕造の祖父母の、須藤さんの、そして、希未の母が流す灯籠に託された思い。「知っていると思うとる人」が心の奥深くにしまい込んでいた記憶、顔の見える身近な人たちの見えなかった苦しみに触れることは、希未たち若者の心に新しい目を開いていく。人を成長させるのは、誰かの苦しみや痛みを自分自身のものにする力、「共感共苦」(Compassion)(※2)の力なのだ。お見舞い帰りのバスの中で吉岡先生の気持ちに気がついて大泣きしてしまった希未の涙は、今まで気づかなかった他人の心に深く共感したからこそ生まれてくるものであり、その共感は、この混沌とした世の中でいったい何が真実なのかを見抜く鍵でもあるのだと思う。

そう、この「よう知っとると思うとることでも、ほんまは知らんことが多いよな」という一言には、私たち人間が常に意識して考えていかねばならない深いものが隠されている。 1996年にノーベル賞を受賞したポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカは、言う。自分に対して「わたしは知らない」ということが、自分の選び取った仕事に対する不断のインスピレーションを生むものだと。そして、反対に「知っている」と思うことの危険性についてこう述べている。「どんな知識も、自分のなかから新たな疑問を生み出さなければ、すぐに死んだものになり、生命を保つのに好都合な温度を失ってしまいます。最近の、そして現代の歴史を見ればよくわかるように、極端な場合にはそういった知識は社会にとって危険なものにさえなり得るのです。」(※3)私たちはヒロシマを知っていると、記憶していると思っていた。少なくとも、私はそんな風に思い込んでいた。ところが、だ。真の記憶として心に刻まずにいた核の恐ろしさは、いつの間にか「知っている」と思う傲慢さの陰で忘れられて、日本は名だたる原発依存の国になっていた。そのことが、3.11のフクシマに繋がっているのだと私は思う。そんな私たちに、この物語は静かに語りかける。「あなたは知っていますか?」と。真の意味で、「知ろうとしていますか?」と。この、固定概念や思い込みを解き放ち、新しい目で、新鮮な心で物事の本質を見極めようとする、それは物語の力であり、芸術の力なのだ。

しかし、この『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』でも語られているように、美術や音楽、芸術は、国が危険な方に向かおうとするときに一番に弾圧されてしまう。「戦争が始まって真っ先に無用とされた科目は美術や音楽だったって。あと本もたくさん規制されたって」というのは事実だ。なんだか、その萌芽が今、あちこちに芽生えているような気がするのは私だけなんだろうか。(余談だけれど・・。「役にたたない」というお題目のもとに、文学や哲学さえも大学の学部から無くなっていくことが、私には何か恐ろしいことの始まりのように思えてならない。)希未や俊は、絵や彫刻を制作し、自由に「あのころの廣島とヒロシマ」を表現することで新しい心の目を開いていく。そして、ヒロシマを出発点として、その眼差しはもっと広がっていくのである。子どもを、若者を自分たちの都合の良いように使いたがる大人は、まずそういう自由な心の目をふさごうとする。吉岡先生からの手紙の中で述べられている「加害者になるな。犠牲者になるな。そしてなによりも傍観者になるな」という言葉は、心の自由を奪われない未来に向けての、これからを生きる子どもたちへの大切なメッセージだ。そして何より私がいいなと思うのは、この物語の中で、そのメッセージが「自分たちの出来ること」と結びついていることだと思う。大きな暴力や社会的な問題に対するとき、人は自分の小ささと非力を感じて、無力感に襲われてしまう。自分に出来ることなど、何もないと思ってしまいがちだ。私もずっとそう思っていた。しかし、吉岡先生が手紙の中で希未たちに伝えているように、「この世界は小さな物語が集まってできている。それぞれのささやかな日常が、小さいと思える生活が、世界を形作っている」のだ。そこから離れたところに、人の幸福はない。だからこそ、私たちは自分たちの小さな人生の中で何度も大切な記憶を心に刻みつける必要があるのだ。小さいからこそ出来ることがある。心に小さな灯籠流しの光を刻むことが、まことしやかに語られる大きな嘘を見抜く礎になるはずなのだ。希未や俊や耕造が、小さな「自分に出来ること」を精一杯やり遂げたことが、彼らの身近にいた人たちに、どんなに希望を与えたか、この物語の最後に原爆ドームを照らした色とりどりの美しい輝きを、どうか味わって欲しい。

ヒロシマは、過ぎた過去のことではなく、これから世界中どこにでも起こりえることでもあるし、この世界のどこかで、今、起こっていることでもある。ヒロシマを深く記憶することは、過去と現在と未来を繋ぐ視点を持つことではないか。私は最近ようやく、そんな風に考えるようになった。この物語のサブタイトル『廣島 ヒロシマ 広島』が意味するところも、そこにあるように思う。この物語は、これまでヒロシマを知っていたつもりであった私のような大人にも、これからヒロシマを知る子どもにも、非常に大切なことを丁寧に伝えてくれる物語だと思う。原爆についての基本的な知識もきっちりと書かれている。たくさんの人に読んで貰いたいし、『八月の光』(偕成社)の時にも思ったのだが、ぜひ翻訳されて海外の人にも読んで頂きたい。

2013年10月11日発行

講談社

 

(※1)「過ぎたれど去らぬ日々」朽木祥 子どもの本2012年9月号 日本児童図書出版協会

(※2)「「記憶」から去らない姿」朽木祥 子どもと読書 2013年7・8月号 親子読書地域文庫全国連絡会

(※3)「終わりと始まり」ヴィスワヴァ・シンボルスカ 沼野光義訳 未知谷

朽木祥講演会と池袋ジュンク堂でのブックフェア

久しぶりの更新です。何と一ヶ月近く放置してました・・。今日からまたぼちぼちと更新していきます。実はその間、堅い文章を一生懸命書いていたので、自分のブログにどんな感じで書いていいのか軽く戸惑い中(笑)

更新はさぼっておりましたが、その間にも文学オタクはますます昂進しておりまして、この週末は東京のオリンピックセンターで開かれた、親地連(親子読書地域文庫連絡協議会)の全国大会に行ってまいりました。一番のお目当ては朽木祥さんの講演会『物語の力』ですが、夜の交流会も次の日の分科会も、非常に充実した内容で有意義な時間でした。はるばる行って、本当によかった。まず、朽木祥さんの講演会のご報告と感想を・・・。

朽木祥さんの講演会のタイトルは「物語の力」。去年上梓された『八月の光』(偕成社)と、刊行されたばかりの『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』(講談社)を中心に、「ヒロシマをどう伝えるか」というお話でした。その鍵は“Compassion”(共感共苦)だと。この、人の苦しみを他人事にせず、自分の痛みとして記憶する、という営みをいろんな手法で積み重ねてらっしゃる朽木さんのお仕事に、私は深く共感するところがあります。『彼岸花はきつねのかんざし』(学研)はきつねと少女が心通わせるファンタジーの手法で。そして、『八月の光』は精緻なリアリズムの手法で。その「物語の力」で、忘れっぽい私たちが見失いかけている大切なことを問いかけてくださるように思うのです。朽木さんも講演の中でおっしゃっておられましたが、私たちが(少なくとも日本人の大部分が)ヒロシマを忘れてしまっていたことは、そのままフクシマと繋がっているように思うんですよ。だからこそ、今、またヒロシマを深く記憶する必要があるんですよね。でもでも・・・そんな風に思う人間は、少数派なのかと、憲法改正やオリンピック招致の際の原発に対する発言、『はだしのゲン』に対する圧力なんかを見るたびに苦しい思いに駆られてました。でも、朽木さんのお話を聞いて、やっぱりここで、子どもたちにしっかり過去のことを伝えていかなきゃいけないんだと思いました。「声高にではなく、静かな声であきらめず、しぶとく語ること」と朽木さんはおっしゃった。「静かな共感を呼ぶ物語を書きたい」と。

世間を暗い方向に引きずっていこうとするプロパガンダは大声でがなり立てることで、聞き手を思考停止に陥らせます。人は、暴力や破壊に惹かれていく一面を持ち合わせていて、私の中にも、そういう衝動は確かにある。でも、心に静かな声で語りかける愛しい物語の主人公たちが住んでいたら。きっと、そんな衝動に優しい手を当てて引き留めてくれると思うんですよね。朽木さんの物語には、そんな優しさと力があります。新刊の『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』もヒロシマがテーマで、そのお話もたくさんしてくださいました。ネタばれになるので詳しくは書きませんが、「芸術の力」と「失われた声を聞くこと」という二つが重要なモチーフになっているとのこと。「被害者、加害者という次元ではなく、この人類が経験した未曾有の事件を、人類共通の問題として記憶し、伝えたい」と語っておられたことを、しっかり覚えておきたいと思います。

こうして書くと、ひたすら堅い重い講演会かという感じですが、所々でユーモアも交えながら、ぎゅっと中身の詰まった一時間半でした。最後にファンタジーの物語に触れて、「ファンタジーを読むことで心が育ってくる。幸福な約束をちゃんと果たして終われることが児童文学のすばらしいところ。この世の楽しさも味わってもらいたいし、自由な心と深い知性を育てて欲しい」と述べておられたことに、深く頷きました。『光のうつしえ』と『花びら姫とねこ魔女』にもサインをして頂いたし。大満足でした。私ももっと勉強しなくちゃなあと、教養の塊のようなあれこれをお聞きして思ったことでした。

朽木祥さんの新刊『光のうつしえ』(講談社)と『花びら姫とねこ魔女』(小学館)については、また改めて長々と書きます。(笑)

池袋のジュンク堂で、新刊発売に合わせて朽木祥ブックフェアが開催されています。私も行ってきましたが、とっても可愛くコーナーが作ってありました。可愛いミニ冊子もありました。これは数量限定でいつ無くなるかわかりませんが、貰えます。 初日に行けてラッキーだったなあ。10月いっぱい開催の予定だそうです。

親地連のことも書きたかったのに、時間ぎれ。また明日・・・。

by ERI