ヘリオット先生と動物たちの8つの物語 ジェイムズ・ヘリオット 井上由見子訳 集英社

私は動物に弱い。パソコンもiPhoneも犬猫ブログのブックマークだらけだし。自分のレビューを書くよりも、よそのお宅の猫さまを見て、「かわいー」「かわいー」とうっとりしている時間のほうが多い。(あかんやん・・・)うちにも猫が2匹いて、何だかんだとかまったり撫でまくったり、お腹に顔を埋めてモフったりしているうちに、一日が過ぎていく。夜になると一緒に寝ようと猫が呼びにくるので、甘えたの猫を抱きこんで、干したてのお布団で眠る。もういくらでも眠れる(笑)。動物と暮らして何が一番嬉しいか。それは、彼らが幸せそうにしているのを見るということに尽きると思う。あったかい毛布の上でのびのびになって寝ていたり、おもちゃに目をらんらんさせてじゃれついたり、美味しそうにご飯を食べていたりするのを見ると、「これでいいのだ」というバカボンのパパ的な全世界肯定感が溢れてきて、もっと甘やかしたくなる。

この本に収録されている8つのお話も、「これでいいのだ」という幸せが溢れている。ヘリオット先生は、イギリスのヨークシャー地方の動物のお医者さんだ。農家が多いこの地方で、ヘリオット先生はいつもあちこちに往診に飛び回っている。そこで出会ったいろんな動物たちとのお話が、この本にはいっぱい詰まっている。ここに描かれているのは、動物と人との信頼と愛情だ。たとえば冷たい北風の中で死にかけていた子猫。ヘリオット先生に拾われて、農家のあったかいオーブンの中で息を吹き返して、豚さんのおっぱいでつやつやのお猫さまに育ったり。自分の身なりなど一度も構わず過ごしてきた農家のおやっさんが、長年働いてくれた馬を、見事に飾り立ててペットコンテストに連れていったり。このお話に出てくる人たちは、みんな自分と関わりのある命を大切にする。そして動物というのは、大切にされると必ずその愛情に応えようとする。人間同士だと時に愛情は難しく絡み合ったり、ねじれたり、すれ違ったりするものだが、動物はいつもまっすぐ愛情を受け止めて、つやつやの毛並みで返してくれる。そこには確かな心の繋がりがある。ほんとに、この世の中難しい事やどうしようもない事がいっぱいなのだけれど、動物が寄せてくれる愛情のこもった眼を見ていると、これが生きていることの基本だよなあと素直に思える。その肯定感がこの物語8篇のすべてに溢れていて、とても幸せな気持ちにさせてもらった。

ヘリオット先生は、長年実際に獣医として働いておられた方。それだけに物語には体験に裏打ちされた厚みがある。たくさんの本が既に翻訳されているらしい。この本は、若い読者のために書きおろされた一冊。小学校高学年くらいなら余裕で読めると思う。こういう愛情から生まれる信頼感、それも積み重ねられた体験に裏打ちされた信頼感というのは、元気が出てとても素敵だと思う。表紙も挿絵もとても可愛くて、中の活字もセンスがいい。この表紙に呼ばれて読んでみたら、やっぱり当たりだった。ヘリオット先生、もっと読んでみようっと。

2012年11月刊行

集英社

 

フォーラム 子どもの本と「核」を考える 

先週末(1月26日)、広島平和記念資料館で開かれた、日本ペンクラブ主催のフォーラム『子どもの本と核を考える』に行ってきた。第一部が、ペンクラブ会長浅田次郎さんのチェルノブイリの現状報告、そして二部はアーサー・ビナードさん、令丈ヒロ子さん、朽木祥さん、那須正幹さんという、核をテーマにした児童文学を書かれている方をパネリストに、子どもの本と核を考えるというお話があった。実際に自分の目でチェルノブイリを見てこられた浅田さんのお話、そして自著を通して、子どもたちに何を伝えていくかという作家さんのお話、それぞれに驚きと新しい発見があり、日ごろ考えている自分の思いと共感するところも多かった。これからを生きる子どもたちのために何ができるのか、ということを真摯に考え、歴史的な視野に立って実践していこうとされていることが伝わるフォーラムだった。

●浅田次郎さんのチェルノブイリ報告について

子どもの甲状腺ガンとDNAの異常が増えていること。これは、いろんな方の報告から知ってはいたのだが、やはり直接見聞きしてこられた浅田氏の言葉を直接耳で聞くと、ずっしりと重い。事故から27年が経ち、石棺といわれるコンクリートの覆いも劣化が酷い。そこで、もう一回り大きな石棺を作ってかぶせる作業が必要になるのだけれども、それもまた数十年後には劣化してしまう。放射能の半減期を計算すると、その作業はこれから何千年も繰り返さねばならない・・。そのことに茫然としてしまう。「一国が滅亡するかもしれないものは持ってはいけない」「負の遺産は私たちの世代で決着をつけていくという覚悟が必要」という言葉に深く頷く。歴史小説をたくさん書いておられる氏の言葉には、「今」を俯瞰で捉える強さがある。戦争を経験した親世代は、負の遺産を後の世代に伝えてはいけないという思いがあったのではないか。その親たちに珠のように育てられた私たちが、原発の事故を起こしてしまったということは、過去に対しても未来に対しても無責任なことであるということを述べられていた。このところ「やっぱり経済優先」という空気が世間に流れているように思う。経済をないがしろにする積りはないのだが、この原発の問題だけは、その短期的な視点から外れないと、また大きな過ちにつながってしまうような気がしてならないのだが、浅田さんの言葉に改めてその通りだと思う。浅田さんいわく、フクシマの原発事故に対して、外国からは「日本なら何とかするだろう」という期待が寄せられている、この期待を裏切ることは、日本に対する信頼を失うことになる。これは、国家として絶対に乗り越えねばならない試練である、という言葉が印象的だった。

●核をテーマにした児童文学を書かれた作家さんたち

アーサー・ビナードさんは、『さがしています』という、原爆の遺品の写真をテーマにした写真絵本を出してらっしゃる方。あの絵本は4年前に撮影するための台の石づくりから始められたらしい。その手間暇と思いが深く伝わってくる絵本だ。母国語である英語の「atomic bomb」「Nuclear weapons」という言葉ではなく、「ピカドン」という体験者の側から生まれた言葉で核を見たときに初めて自分の視点が変わったという体験を話された。「ピカドン」は、自分が原爆ドームのそばにいて、あの日を見ている視点の言葉だと。英語を母国語にするアーサーさんだからこその気付きは、いろんな問題提起を含んでいると思う。

令丈ヒロ子さんは、『パンプキン!模擬原爆の夏』についてのお話だった。これは、パンプキン爆弾という、原爆投下のための練習として日本全国に落とされた模擬原爆のことをテーマにした作品だ。この作品を書かれたきっかけは、近所に模擬原爆の慰霊碑があったことだったとか。この作品は、主人公の子どもたちが、自由研究で模擬原爆と戦争のことを調べていくという形式で書かれている。出版後大きな反響があって、テレビのドキュメンタリーでも放送されたほど。若おかみシリーズなど、子どもたちに絶大な人気を持つシリーズを書いておられる令丈さんだけあって、面白く、わかりやすく、しかも資料もふんだんに取り入れた説得力のある作品だ。その令丈さんが戦争というテーマに取り組まれたことはとても有意義なことだと朽木さんもおっしゃっていた。御苦労もたくさんおありだったようだが、教育現場からの反響がすごかったということ、そして、子どもたちがこちらが思うよりも普通に受け止めてくれた、という報告になるほど、と思った。子どもたちは、こちらが真摯に伝えたことを、ちゃんと聞く力を持っている。この作品のような、今の子どもたちの生活と戦争・核という問題を繋ぐような作品がたくさん生まれることがこれからとても大切なのではないかと思った。

八月の光』『彼岸花はきつねのかんざし』など、ヒロシマをライフワークにしてらっしゃる朽木祥さんのお話はとても心に沁みた。文学が持つ力は「共感共苦」にある。共感し、誰かの苦しみを分かち持つこと・・・正しい歴史認識を後世に伝え、理解することで正しい「心情の知性」を育む本を書きたいと述べておられた。「心情の知性」は、時代が全体主義に流されようとしたりしたときに、踏みとどまり、違うと言える知性のこと。全体主義は、他人事では決してないと私も思う。人の心の中には、ややもすると大きな声を出す人に飲み込まれて思考停止してしまう昏い部分がある。それは、人を、国家や民族や、性別などのわかりやすい切り口でくくってしまうところから始まるのだ。数ではなく、ひとりひとりを顔のある存在として認識することの大切さを心に刻みつけること。『八月の光』について、私は昨年[時が経てば経つほど困難になる【記憶】の刻印に、真摯に向き合い、共有することで、私たちは確かな繋がりを手にすることが出来るのだと思う。その心の糸を繋ぎ、張り巡らせることだけが、ただのお題目になってしまいそうな「過ちは 繰返しませぬから」という言葉に命を与えるのではないか]と書いた。その思いを改めて感じたし、忘れてはならない記憶を「今」に結びつける営みに、果敢に挑戦され続ける姿勢に頭が下がる。「失われた顔と声を聞いてそれを伝えていく」という言葉に物語の根源的な力を信じるものとして強く共感した。

●那須正幹さんは、3歳の時にご自身も被爆されている。『絵で読む広島の原爆』『八月の髪かざり』『ヒロシマ 歩き出した日』『ヒロシマ 様々な予感』『ヒロシマ めぐりくる夏』など、核をテーマにした本をたくさん書かれている。当日は、那須さんまで順番が回った時点であまり時間がなくなってしまい、詳しいお話は伺えなかったのだけれど、自分の後に続く世代の人たちが核について作品を発表されていることが、とても心強いとおっしゃっていた。私も強くそう思う。

もうすぐ、3.11から2年になる。まだ何も終わっていない。事故の後始末も、震災の傷跡も、何もかもそのままだ。でも、最近、そのことを忘れようとする力がいろんな場所で働いているように思えて仕方がない。マスコミは、すぐに何もかも忘れてしまおうとする。彼らは数の論理で動いているから・・・だからこそ、これから物語がとても大切になってくると思うのだ。フォーラムの最後で、中日新聞の記者の方が、沈黙を守ってきた被爆された方々のことに触れ、「なぜ人は語ってこなかったのか」という問いかけをされておられた。そこには声高に語れなかった事情や心情があるだろうし、語ることを許さなかった力も働いていたと思う。その記憶と心に寄り添う、朽木さんのおっしゃる「失われた顔と声を聞いてそれを伝えていく」営みこそが、これからの私たちの進むべき道を指し示してくれると思うから。顔のあるたった一人の心に思いを馳せる力、想像力を育てること・・・このフォーラムに参加された作家さんたちのお話を聞いて、その必要性をひしひしと感じた。それはとても辛いことではあるけれども、今、とても大切なことなのではないかと思う。こんな偉そうなことを言っていても、久しぶりにじっくり見た平和記念資料館、そして初めて拝見した国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の、被爆された方の写真のお顔を見て、実は私自身打ちのめされ、しばらく言葉を綴ることも苦しかった。この問題に向き合うには、本当に気力と体力が必要だとしみじみ思う。だから、ずっとこのテーマと向き合って作品を書いておられる方々には素直に尊敬の気持ちを感じてしまうのだ。那須さんは「この年齢なんで、どこまで書けるか」などとおっしゃっておられたが、お体に気をつけて頂いて、これからも子どもたちに大切な作品を届けて頂きたいと思った。

フォーラムの参加者に配られたパンフレットもさすがの出来栄えだった。特に、2部の司会をされていた野上暁さんの「核と日本の児童文学」という評論は個人的にとてもありがたく、これを頂けただけでも行った甲斐があった。とても寒いヒロシマの週末だったけれど、遠征してとてもよかったと思えるフォーラムだった。

 

 

 

劇団6年2組 吉野万理子 学研教育出版

懐かしや、クラス演劇。思い出すとけっこうやってましたねえ。外したときのリスクも高いんですが、その分ツボにはまったときの達成感は半端なかったことを覚えています。盛り上がれば盛り上がるほど凝り性になって、家からいろんなものを持ってきてあれこれ作ったり。私たちの頃は、放課後塾に行っている子なんて全くいなかったので、時間が使い放題だったというのもあるかも。そして、あの頃はドラマ全盛の時代です。百恵ちゃんの『赤い~』シリーズに本気で泣いていた時代ですから。漫画だって『ベルサイユのばら』に『ガラスの仮面』という、セリフを口にするだけでお芝居気分になれたものがいっぱいありました。どれだけ皆で真似っこしたことか。近所のバラの生垣のところで、オスカル役とアンドレ役を決めて、ラブシーンやったり(笑)そんな下地もあったせいか、とにかくやってみたかったんですよね、お芝居というやつを。この本を読んで、久しぶりにあの頃のときめきと楽しさを思い出しました。

お芝居の楽しさは、何にもない空っぽのところから、皆で架空の国を作り上げるところ。この物語もそうです。学校に公演に来たプロの演技に魅せられて、卒業のお別れ会でお芝居をやりたい!と思った立樹が、クラスの皆と自分たちだけのシンデレラのお芝居を作り出すところが描かれます。お芝居なんて、どうしたらできるのかわからない立樹たちは、プロの人に話を聞きにいったり、自分たちで台本を探したりします。でも、俄然面白くなるのは、台本通りにする必要はなくて、自分たちの自由にお話を作り上げていけばいい、と知ったところからです。誰もが知っているシンデレラのお話。でも、なぜ継母はシンデレラに意地悪したくなるのか。魔法使いはなぜシンデレラを舞踏会に送り込んだのか。「なんで?」と登場人物の気持ちになって考えていくことで、物語はどんどん膨らんで、自分たちだけのリアルな心が入っていく。そして、それが、見ている人に伝わっていく。「伝わる」ということは、とても嬉しいことなんですよね。その喜びが、とてもストレートに物語から溢れてきました。

「伝える」というのは、本当は生きていく基本なんですが、これがけっこう難しかったりします。立樹たちがこのお芝居から見つけた「人の気持ちを考えると、これまで見えなかったことが見えてくる」ということは、思いを伝えたり、伝わったりするために絶対必要なことなんだと思います。自分ではない誰かになりきってみる、という経験は、これまで知らなかった人の心に踏み込んでみることに繋がりますよね。この物語でも、立樹やクラスの子どもたちは、お芝居を通じてお互いの知らなかった部分に気づきます。自由な想像力は、現実を変える力ともなるのです。そのパワーを、さわやかに描きあげた楽しい物語でした。ト書きというあまり子どもたちが目にしない脚本形式を物語の中に交えてあるのですが、とても自然で新鮮な印象になっていて、これはとても苦労されたところではないかと思いました。脚本家でもある吉野さんの手練の賜物ですね。挿絵も『チームふたり』のコンビである宮尾和孝さんで、さすがのチームワークです。

2012年11月刊行

学研教育出版

 

 

かえでの葉っぱ D・ムラースコーヴァー 関沢明子訳 出久根育絵 理論社

とても美しい絵本です。この何とも美しい絵本に、もっと他に素敵な表現はないかといろいろ考えたんですが、美しいものは美しいんだから、仕方ない。(開き直ってますね)金色で、片方のふちがピンクの大きなかえでの葉っぱが、ふわりと自分の樹から旅立ち、さまざまな場所に自分のその身を置く話です。ムラースコーヴァーさんのとてもシンプルなテキストと、出久根育さんの詩情に満ち溢れた絵が溶け合って、一頁一頁がとてもドラマチック。ツバメと葉っぱが一緒に空を飛んでいる頁なんて、一緒に風を感じてドキドキします。こんな風に空を飛ぶなんて、絶対に私たちは体験できない。でもね、不思議なんですけど、私はどこかにこの記憶を持っているようなんです。少年と山の上で出会うことも。虫を乗せて川を下るのも。無数の星たちを見上げて夜の空を飛んでいくのも。雪の下で、じっと春を待つのも。この絵本の舞台のチェコなんて全く知らないのに、葉っぱの出会う風景が、心がぎゅっとするほど懐かしい。散々旅をして、いっぱい命と出会って、そのあと懐かしい人に火の近くで再会して燃え尽きる。そんなことが、いつか自分にもあったと思うんです。

生まれて、死んで。輝いたり燃え尽きたり、風に吹かれて舞い上がったり、どこかに落ちてそのまま朽ち果てたり・・・きっと、私たちはそんな風に命を繋いで繰り返してきた。その流れが、自分にも、葉っぱにも、少年にも、ムラースコーヴァーさんにも、出久根さんにも、そして私にも流れている。言葉にならない原風景のような記憶が溢れるような、静かだけれどもドラマチックな時間がここにあります。ただただ、その時間に身を浸す寂しさに近いような幸せを感じました。手元に置いて、いつも眺めたい一冊。この絵を原画で見たいものです。どこかで原画展をしてくださらないかしらん・・・。

 

2012年11月刊行

理論社

 

サースキの笛がきこえる エロイーズ・マッグロウ 斎藤倫子訳 偕成社

この物語の主人公であるサースキは「とりかえ子」です。妖精が、人間の子どもをさらうかわりに、置いていった子どもが「とりかえ子」。しかも、サースキは妖精の母親と人間の父親との間に生まれた子。つまり、妖精の世界でも居場所がなくて人の世界に送られてきた子なのです。サースキは、妖精であったときの記憶を自分の心の奥底に封じ込め、なぜ自分がこんなに他の人とは違うのかということがわからぬままに苦しみ、悩みます。両親とも、村の人たちとも違う自分。「とりかえ子」という悲しい言葉の響きそのままに苦しむサースキと、彼女を育てる両親の心の痛みを感じながら・・・いつしか、彼女の悲しみと苦しみが、自分の中に潜むいつの日かの自分と響きあっていくのを感じました。

サースキは見かけもやることも、人間の子とは違っています。少しの間もじっとしていられないし、人間ならだれも恐れて近づかない荒れ地が大好き。壁を駆け上がれるほど身軽です。誰に教えてもらわずとも、バグパイプの演奏ができる。そんな彼女は村の子どもたちだけではなく、大人からも冷たいまなざしを向けられます。それは、彼女の両親だって例外ではありません。サースキがほかの子と違うということを、一番よくわかっているのは父と母。そして、サースキが「とりかえ子」であるということを一番先に感じていた祖母のベスです。その不安と戸惑いも、この物語はきちんと描き出します。なかなか分かり合えないサースキと家族の行き違いは、読んでいてとても切ない。サースキは、幼いころにすべてに戸惑い、壁に囲まれているような違和感に固まってばかりいた自分のようだし、サースキの両親は、手探りで悩みながら子育てをしていた自分の姿を見るようなのです。人がどこに、どのような親の元に生れ落ちてくるのか。それは、全く自分には意思決定権がありません。だから・・・行き違うし、誤解しあうし、全く理解しあえないこともあるし、気持ちが通じないことだってたくさんある。親子だから分かり合える、などというのは思い込みや幻想にすぎないのです。でも、その幻想に私たちはとことん振り回されます。この物語の中でも、サースキを理解し、お互いに安らぐ存在になれるのは、赤の他人であるタムという少年だけ。でも、サースキの両親は、サースキを理解できなくても、ただひたすら守ろうとします。災いをもたらすものとして村の大人全員が、サースキをつるし上げようとしても。(この集団心理の描き方は見事です)親って、ほんとはこれだけでいいのかもしれません。その気持ちさえあれば、子どもはそこから生きる力を生み出すことができる。サースキは、そんな両親に少しずつ愛情を感じ、彼らの本当の子を妖精たちから奪い返そうとするのです。その不器用な、ぎこちない愛情が生まれていく様子がなんとも愛しくて仕方ありませんでした。親子であることの苦しみと喜びが、子どもであった、親でもあった(両方とも過去形ではないけれども)私の心に、しみこんでいきました。荒れ野に広がるサースキのバグパイプの音のように。

 

そう、どこにも馴染めないサースキが奏でる音楽だからこそ、響いてくるものがある。彼女が傷だらけになりながら獲得していく感情のひとつひとつの感触が、今更のように胸の底に落ちてくるのです。自分の声が届かない悲しみ。絶望。誰かを大切に思うこと。自分を守ろうとしてくれる愛情を感じること。理解してくれる人と出会う奇跡。レコードの針が小さな溝のくぼみをたどって美しい音楽を奏でるように、サースキの心の震えは、読み手の心の中に埋もれていた柔らかい部分から大きな共振を引き起こします。それは、サースキの心を借りて、また自分自身と向き合うということでもあると思うのです。物語だけが果たすことができる役割が、ここにあります。

 

サースキは、失っていた記憶を取り戻し、自分が自分でいられる場所を探してタムと旅立ちます。悲しい結末ではありますが、私はそこに新しい希望を感じさせるすがすがしさも感じました。ここにカタルシスを感じる子どもたちもたくさんいるのではないでしょうか。生きる悲しみと喜びを見事に浮かび上がらせた物語でした。訳と装丁も、繊細さを伝えて素敵です。このタイトルに惹かれて読んだ自分の勘が、見事に当たった一冊でした。

2012年6月刊行

偕成社

 

2012年 今年印象に残った本

あと少しで2012年が終わります。年齢を重ねるごとに一年が短くて、今年も「○○をした」と自分に言えないまま終わってしまうのが悔しいというか、歯がゆいというか。でも、とにかくこうして本を読みながら無事に一年を終えられることは、とてもありがたいことです。そして、ブログを移転したにも関わらず、たくさんの方がこちらにもレビューを読みに来てくださっていることに、心から感謝いたします。どうもありがとうございました。

2012年に書いた本のレビューは、102本でした。読んだ本の3分の1くらいしかレビューをかけないのが我ながら情けないのですが、不思議なことに、年々レビューを書くということが難しく感じられます。時はさらさらと過ぎていくのに、その中で出会うものの重みは増すようなのです。一冊の重み。そこに注ぎ込まれた思い。感じれば感じるほど、筆は重くなる(汗)でも、私は本をとにかく愛しているので、来年もたゆまずレビューを書いていきたいと思っていますし、そのほかにも自分なりに立てている目標に向かって、一歩ずつ進んでいきたいと思っています。どうか、ときどき「何書いてるんかな~」と覗いてやってくださいませ。

さて、2012年に読んだ中でも、自分の印象に強く残った本をピックアップしてみました。

☆国内作品

『八月の光』 朽木祥 偕成社 http://oisiihonbako.at.webry.info/201206/article_10.html

朽木さんの渾身の作品。今、そしてずっと私たちが心に刻まねばならないことがぎゅっと凝縮されています。今年の一冊をあげろと言われたら、この本を選びます。

『雪と珊瑚と』 梨木香歩 角川書店 http://oisiihonbako.at.webry.info/201205/article_8.html

梨木さんの投げかけるものは、いつも私にとってこれからを考える羅針盤です。

『天山の巫女ソニン 巨山外伝 予言の娘』 菅野雪虫 講談社http://oisiihonbako.at.webry.info/201205/article_2.html

シリーズの外伝というだけでもファンには嬉しいのに、とても深く読み応えのある内容で、ここで終わってしまうのが残念なくらいでした。

『リンデ』 ときありえ 高畠純絵 講談社 http://oisiihonbako.at.webry.info/201202/article_4.html

犬のあったかい体、命のぬくもりの確かさが心に残ります。

『ある一日』 いしいしんじ 新潮社 http://oisiihonbako.at.webry.info/201204/article_7.html

生まれ来るひとつの命が、すべての生死と繋がっていく壮大なドラマ。見事でした。

『ことり』 小川洋子 朝日新聞出版局 http://oishiihonbako.jp/wordpress/?p=465

これは、昨日レビューを書いたところなので、下の記事を読んでください(笑)

☆翻訳作品

『クロックワークスリー マコーリー公園と三つの宝物』 マシュー・カービー 石崎洋司訳 講談社  http://oisiihonbako.at.webry.info/201201/article_9.html

手に汗握って読んだという点においては、今年のNo.1!

『サラスの旅』 シヴォーン・ダウド 尾高薫訳 ゴブリン書房http://oisiihonbako.at.webry.info/201209/article_2.html

サラスのおぼつかない足取りの旅が、愛しかった・・・。

『少年は残酷な弓を射る』 ライオネル・シュライヴァー 光野多恵子/真貴志順子/堤理華訳 イーストプレス』 http://oisiihonbako.at.webry.info/201207/article_3.html

先日もアメリカで銃の発砲事件がありました。この作品のことを考えました。幼い子ともたちのこと。それでも銃社会をやめられない大人の事情・・・。

『ジェンナ 奇跡を生きる少女』 メアリ・E・ピアソン 三辺律子訳 小学館SUPER YA  http://oisiihonbako.at.webry.info/201204/article_9.html

この作品も、今年のノーベル賞であるIPS細胞とリンクしていました。文学作品というのは、不思議に時代とリンクしていきます。

追記;『ミナの物語』デイヴィッド・アーモンド 山田順子訳 東京創元社  http://oishiihonbako.jp/wordpress/ya/78/ 

を忘れていました。私としたことが(汗)

今年も、たくさんの素敵な作品と出合えました。活字本や雑誌の発行額は年々減り、電子書籍の台頭も話題になる今ですが、私は一冊の「本」という世界に出会うことが大好きです。2013年はどんな本に出会えるのか。それを楽しみに新しい年を迎えます。小さな声ですが、細々とでも語り続けることを目指して・・・。一年間どうもありがとうございました!

緑の精にまた会う日 リンダ・ニューベリー 野の水生訳 徳間書店

今日はクリスマス。眼に見えないものに思いを馳せる日です。私は特別な宗教をもたない人間です。でも、クリスマスという日に、世界中でたくさんの祈りが捧げられることは、とても大切なことだと思います。愛する人の幸せを願って。生きていることへの感謝をこめて。不条理に生きる私たちは、祈らずにはいられない。この本は、眼に見えない大切なものと再会を果たす物語。厳しい冬のあとで春が芽吹くような希望の物語です。

ロンドンに住む少女のルーシーは、大好きなおじいちゃんがいます。おじいちゃんは田舎の農園で、それはそれは見事な野菜を作る「緑の手」を持っている人なのです。そして、おじいちゃんの農園には、緑の精のロブが住んでいます。お気に入りの場所にいて庭仕事を手伝ってくれるロブ。彼の存在を信じ、その気配を感じるのは、おじいちゃんとルーシーだけ。ところが、大好きなおじいちゃんは、突然帰らぬ人となります。農園は売り払われ、つぶされてしまう。ルーシーは、ロブに手紙を書きます。どうか、私のところへ、ロンドンへ来てくださいと。その願いにこたえるかのように、歩きだしたロブ。彼の、ロンドンまでの旅が始まります。

ロブというのは、どういう存在なのかをルーシーに伝えるおじいちゃんの言葉がいいんです。

いいかい、ロブは雨と風からできている、ひざしと、そしてひょうからも。それに、光と闇からも、…(中略)…過ぎ去った時間、訪れる時間からも、ロブはできているんだよ。考えてみりゃあ、わたしらだっておんなじだ。みーんな、おんなじなんだよな

命の船を、ともに浮かべようとする、意志のようなもの。どんなときにも歩き続けてきた、そして歩き続けていこうとする、古い古い記憶のようなもの…ロブはそんな存在なのかと思います。でも、この物語で大切なのは、ロブが何者であるかを解き明かすことではありません。ただ、感じること。彼がいるおじいちゃんの農園が、どんなに満ち足りて美しいか。ルーシーが、農園から森に入ってしまう夜のシーンが、とても印象的です。闇に抱かれて感じる、ぴりぴりするような精神の覚醒は、体の中に眠る動物であったころの自然への記憶そのもののようです。そして、その楽園を失ったルーシーとロブの悲しみ。ロブの旅は困難を極めます。道の途中でロブが出会ったのは彼がまったく見えない人、利用しようとする人、見えても化け物扱いして追いだす人。あちこちでサンドバッグ状態になってしまうロブの旅…その苦しさを読んでいると、酸素が足りなくなった金魚のような心地がします。その中でも、ロブが見えているのに、一緒にいる友達に馬鹿にされて、見えないことにしてしまった女の子のことが、心に刺さりました。本当に大切なこと、自分の心が感じる声を無視してしまうことは、あとになるほど心を荒らします。私にも、何度も何度もそんなことがあったから…わかるのです。だから、ここを子どもたちに読んで欲しい、そう心から思いました。一番大切なことは、心の声に、見えないところに潜んでいるのです。私たちは、いろんな大人の事情で、その声を無視しようとする。その結果がどうなるのか、何度歴史の中で経験しても同じことを繰り返す。でも、声なき声は、ちゃんと胸の中に潜んでいるのです。どんなにひどい目にあっても、やっぱり人と共に命を育てようとするロブのように。この物語は、ほんとはどこにでもいる、誰も知っているはずの、でも、人がすぐに忘れてしまう存在の痛みと希望を描き出そうとしています。

わたしは道を歩むだけ。どこへ行くかは、たどりつくまで、わからない。

そう。わからないけれど…ルーシーと、ロブの再会の旅のように、子どもたちが何度も大切な存在とめぐりあって、秘密を共有してくれたらいいなと心から思います。

「おークリスマスツリー おークリスマスツリー みどりのきよ とわに
よろこびのよるに ほしひとつひかり みどりごうまれん
おークリスマスツリー おー クリスマスツリー」

大好きな、マーガレット・ワイズ・ブラウンの『ちいさなもみのき』の一節です。
子どもたちに、祝福がたくさん舞い降りますように。
Merry X’mas!!

2012年3月刊行

 

くりぃむパン 濱野京子 黒須高嶺絵 くもん出版

私はパンが大好きで、一日2食はパンを食べます。とにかくパンなら何でも食べますが、一番好きなのは、昔からずーっとある地元の商店街のお店のパン。いつ行っても変わらない味で、品揃えも多少のリニューアルはあっても、基本同じ。アンパン、クリームパン、メロンパンは必ずある。甘い甘いコロネパンもね。こういう昔っからあるパンって、とにかく人を黙らせてしまう力があると思います。疲れたとき、欲しくなる。舌に馴染む味に、ほっとする。実は、そんなシンプルなパンほど、ほんとは作るのが難しいんじゃないかと思うんですが、この物語は、そんなくりぃむパンの細やかな味みたいに、プレ思春期の女の子の心境を丁寧につづった物語です。

一家9人、下宿している人も合わせて11人という大家族で暮らす4年生の香里の家に、ある日同学年の未香がやってきます。遠い親戚筋の未香は、お父さんの失業のために、一人で香里の家に身を寄せることになったのです。でも、美人で聞き分けがよくって、お手伝いもし、みんなにお小遣いをもらう未香が、だんだん香里はうっとうしくなります。そんなある日、もやもやした気持ちで、つい同級生の前でつぶやいた、未香への「守銭奴」という言葉が、あっという間にクラス中に広まってしまうのです。

聞き分けがよくてしっかりした子、というのは、ほんとは危なっかしいものなんです。この物語の未香は、自分の立場をよくわかっている子なのです。自分の家ではない場所で、居候させてもらっている自分。肩身の狭さを、「いい子」でいることで何とか埋め合わせをしようと必死なのです。大人は、そこをよくわかっているからこそ、未香を労わろうとする。でも、一度もそんな立場に立ったことのない四年生の香里には、そんな未香の気持ちはわかるはずもありません。みんなにちやほやされているだけのように見えてしまう。だから、つい、意地悪な気持ちになってしまう。幼いころから、父親のお金の苦労を見ている未香とは、感覚が違うのです。早くに大人びてしまった未香と、まだ子どものままの自分。その違いを慮るほどの人生経験は、香里にはまだないのです。

普通は、ここから一気に二人の関係が煮詰まってしまうものなのですが、香里の家には、回復力が備わっています。それは、五世代にもわたる家族が、たくさんいるところ。成り行きで、ひいばあちゃんのところで一緒に過ごしたり、下宿している志帆さんのマンガの話をしたり、いろんなシチュエーションで未香と触れ合う機会がたくさん生まれます。そこで、二人の間には共感が生まれます。未香と自分は違うけれど、ひいばあちゃんのところで過ごす時間は、ゆったりした「魔法の時間」だったこと。おんなじくりぃむパンを食べて、美味しい!と思えること。そんな、単純な時間を分け合うことで、香里は徐々に未香の心の内を知ることになるのです。分け合う、という大切な時間が丁寧に描かれているのが、とてもよかった。

「なんかさあ・・・生きるってせつないね」

小学校四年生の香里の口から出たこの言葉に、「ほんまやねえ」と答えそうになってしまいました。生きる切なさは、大人だけが感じるものではありません。子どもだって自分たちの切なさの中で生きている。彼女たちの人生は始ったばっかりで、いろいろあるのはこれからです。でも、生きることの切なさを分け合う友達がいるということは、いつ食べてもおいしいクリームパンを手にしているように、心強い。違う境遇を抱えてひとつ屋根の下に暮らす違和感から、友だちになるまでの時間を、細やかに描いた物語でした。その時間を支えるものを、この物語から子どもたちが受け取ってくれたらいいなと思います。

2012年10月

くもん出版

by ERI

 

イクバルと仲間たち 児童労働にたちむかった人々 スーザン・クークリン 小峰書店

橋下大阪市長(すっかり大阪はほったらかしにされてるみたいですけど)が、最低賃金制の廃止を言い出したそうで、一体何を目指しているのかと怖くなります。最低賃金制が廃止されるということは、どんなに安い賃金で働かせてもいいということ。今でも、必死に働いても食べていけない人が増えているというのに。若い人たちを安くこき使おうとする思惑がぷんぷん匂う。この本には、そんな欲得しか考えない企業論理のしわ寄せがどこに行くのかが書かれています。理不尽な暴力そのものである、児童労働。一日働いて2.6円しかもらえず、逃げ出せば連れ戻されて拷問され、埃だらけの環境で病気を患いながら働かされ、学校にもいかせてもらえない。働いても増えるのは借金ばかり・・・まるで、江戸時代の遊郭のような労働条件です。でも、実際にこの世界のどこかでは、そうして働かされる子どもたちがいる。世界中がネットワークで繋がれた大きな網の中では、誰もそんな事実と無関係ではないのです。子どもたちの作り出した商品を買うのは、先進国の人間だから。買う人間には罪はない、という考え方もあります。でも、この本を読んだら、誰もそんな考え方に違和感を覚えるのではないでしょうか。

この本は、パキスタンで絨毯を織るという児童労働に、4歳(4歳!)の頃から従事させられていたイクバルという少年の、子ども向けのドキュメントです。彼は、600ルピー(約1600円)の借金のカタに、売り飛ばされたも同然の形で働かされる人生を送りながら、BLLF(債務労働開放戦線)の集会に参加したことがきっかけで、自分と仲間たちを工場主から解放させ、開放運動の先頭に立って活動を展開した少年です。彼はアメリカに渡り、「リーボック行動する若者賞」を受賞し、たくさんの子どもたちの前で自分の経験を語る、いわゆるBLLFのシンボルともいえる存在になるのです。

この本の読みどころは、イクバルという少年の人生を軸にして、児童労働の歴史や現状、どうして子どもたちが働かされるのか、という問題を多角的に説明しているという点にあると思います。児童労働の悲惨さは、驚くべきものです。読んでいて、胸が痛くなる。でも、それだけでは「世界にはかわいそうな子がいるんだな」で、自分と無関係に終わってしまうこともあります。児童労働が貧しさと結びついていること。だからこそ、なかなか無くならないこと。児童労働だけをやめさせようとしても、新たな貧困を生んでしまうだけに終わってしまうこと。その貧しさは、世界の別の場所の豊かさと結びついていること。この本は、そこまで踏み込んでこの問題を追っていきます。地図資料や語句の解説、写真も多数添えられていてとてもわかりやすく、著者がなるべく公平な視線で冷静にこのテーマを子どもたちに伝えようとしていることがわかります。著者は、なるべく自分の目と足でたくさんの人に会い、取材をし、この本を書いています。そこに、たった12歳で殺されてしまったイクバルという少年の理不尽な人生に真摯に向き合おうとする誠実さを感じます。グローバルという言葉を安易に使うのが私は嫌いですが、世界中に張り巡らされたシステムの中にいるという事実からは逃げられません。その中で、イクバルを殺してしまった大人のように、大切なものを見失わないようにする目をどうやって獲得するのかが、これからとても大切なことだと思うのです。

 大勢が声を揃えて一つのことを言っているようなとき、少しでも違和感があったら、自分は何に引っ掛かっているのか、意識のライトを当てて明らかにする。自分が、足がかりにすべきはそこだ。(「僕は、僕たちはどう生きるか」梨木香歩・理論社)

自分の違和感に意識のライトを当てるのは、自分を大切にすることでもあります。知識と思考訓練は、自分を守る砦となり得ます。そのためにも、一つのテーマから、様々な学ぶきっかけが生まれる、こんな本がもっと注目されてもいい。そう思います。

2012年9月発行

小峰書店

by ERI

かかしのトーマス オトフリート・プロイスラー ヘルベルト・ホルツィング絵 吉田孝夫訳 さ・え・ら書房

最近、かかしが立っている風景をあまり見なくなりました。鳥対策も、最近はCDを並べてつるしたものとか、おっきな目の模様のバルーンみたいなもの(正式名称はなんていうんだろう)だったりで、手間のかかるかかしは、あまり立てないのかもしれません。あの、田んぼの中にぽつねんと立っているかかしって、何だか切ない。「自分があのかかしだったら・・」と想像してしまう。人の形をしているせいでしょうか。寂しくないかなー、とか。誰にも「御苦労さん」とも言ってもらわずに、それでもじーっと畑や田んぼの見張りをしているのが、切なかったり。個人的には、面白キャラクターかかしより、そういう「いつから立ってるんだろう・・・」と思わせるようなかかしが好みです。(って、かかしの好みなんて生まれて初めて考えたんですけどね)

この物語のかかし、トリビックリ・トーマスくんは、そんな正統派(?!)のかかし。キャベツ畑の真ん中で、帽子にマフラー、着古した上着を着て畑を見張ることになるのです。彼はとっても生真面目で誠実。生まれながらに自分の役割をよくわかっています。存在が先か、意識が先か、なんてことを連想させるほど哲学的で考え深いトーマスくんの眼にうつるのは、自分の影に空に雲。キャベツを食べにやってくるウサギたち…振り返ることも出来ない、身動きできないトーマスくんは、限られた視界の中でいろんなことを感じ、考えます。その目にうつる風景は、人間の眼とは少し違います。だって、彼はかかしなんだから。人間なら、一日自分の影を見つめて、大きさが変わっていくのを「不思議だね」と思うなんてことは、普通はありません。自分の体を叩く雨から逃れることもせずに打たれ、そのまま虹を見上げる、なんてこともありません。蜘蛛が自分の目の前で巣を作るのをじーっと見ていることもないのです。トーマスの見ている風景は、私たちが見ているそれと、同じで違う。定点カメラの長回しの風景を時折テレビで見ると、一輪の花が咲いて枯れるまでが人の一生のようにダイナミックで驚くことがあります。あの視点に近いのかも。影が生まれ、消えていく。雲がやってきて飛び去っていく。それをじーっと見つめる彼は、目の前のすべてを「見届ける」のです。そりゃもう、哲学的にもなりますよね。皆、自分の眼の前を通り過ぎ、生と死をくり返していくのだから。トーマスくんの眼の前にやってきては去っていくものが、また、なんと美しく描かれていることか。トーマスくんがこの世で過ごしたのは、人間の尺度で言えばほんの短い間なんですが、心を込めて全てを見届ける彼にとっては無限にも感じられるほどのものだったのかもしれません。そのせいで、彼は「旅に出たい」と思うようになったのかもしれないな、と思うのは、「月日は百代の過客にして・・・」なんて連想してしまう日本人だからかもしれません。

その彼の願いは、唐突に叶えられます。その消え方には、訳された吉田さんも書いておられますが、びっくりしました。でも、プロイスラーがトーマスくんにこの旅立ちを与えたのが、何だかわかる気もするのです。大地に生まれてそこで生きて旅立っていく、それはとても自然なことだから。この物語の背景は、農場です。種まきから収穫まで、人は一生懸命働いて、大地が野菜を育てて実らせます。トーマスもその営みの一つなんですよね。太陽が昇って沈んで、一年を繰り返して…大きなサイクルの中で、トーマスは自分の命をまっとうしたのです。一生懸命働いて、誰にも振り返られることなく、ぽつねんと自然を見つめた彼に自分の気持ちを重ねてしまう物語でした。読んだあと、彼の孤独が沁みて、その分彼の眼に映ったものが綺麗すぎて、何やら人恋しくなってしまうような物語でもありました。子どもたちは、この物語を読んでどう思うのかな。大人が読むようにトーマスくんに人生を感じる、なんてことは無いかもしれないけれど、人以外のモノに心を重ねてみる、ということを何となくでも感じてくれたらいいなと思います。それが、大切な、目に見えないものを感じる第一歩だと思うから。

プロイスラーは、『クラバート』や『大どろぼうホッツェンプロッツ』が有名ですが、私は『クラバート』という物語が、とても好きなんですよ。あの本の表紙を見ただけで、くらっと異世界に迷い込みます。この本の挿絵も『クラバート』と同じヘルベルト・ホルツイング。彼の描くトーマスの表情の、なんて素敵なこと!わらで出来ているのに、ちゃんと表情がある。この挿絵を見るだけでも価値があります。しみじみと滋味溢れる一冊です。

2012年9月刊行
さ・え。ら書房

by ERI

楽しいスケート遠足 ヒルダ・ファン・ストックム ふなと よし子訳 福音館書店

オランダはスケートが国技のようなお国柄。もっとも、それを教えてくれたのは、『銀のスケート』や『ピートのスケートレース』などのオランダを舞台にした物語たちでした。寒い冬に国中の運河や水路が凍りつく。そこをスケートで走り抜けるのです。200kmを滑りきる「エルフステーデントホト」というレースも行われるという、スケート王国。その冬の楽しみを、趣のある挿絵と楽しい文章で綴った、これからの季節にぴったりのお話です。

待ちに待った氷の大王がやってきて、街中が雪と氷になった朝から物語は始まります。双子のエベルトとアフケは大喜びで学校へと飛び出します。すると先生が、皆を一日がかりの日帰りスケート遠足の企画を立ててくれたのです。大喜びの二人は、張り切って遠足の準備を始めます。

私たち日本人は、設備の整ったリンクでのスケートしか知りません。でも、エベルトとアフケの挑むスケート遠足は、自然の作った道を滑るのです。でこぼこもあれば、ひび割れやこぶもある。色んなものが落ちていたりもする。そんな上を、何十キロも滑って違う街に遠足する。9歳の二人には大きな冒険なのです。私たちの世代は冬場になると必ず耐寒遠足というものに連れて行かれましたが(笑)これがまさに「耐寒」そのものでした。あちこち凍りついた山道を歩き、頂上で吹雪に見舞われながらかちかちのお弁当を食べるという、ほぼ拷問のような一日…。昔のこととて、今のような保温の水筒もありません。ダウンジャケットもなかった。吹雪の中で身を寄せあいながら、冷たい冷たいお茶を飲んで鼻水を垂らすというなんとも冴えない遠足だった…昔って、ああいう軍事教練の名残りのような行事がたくさんあったなあ(遠い目)でも、でも。この二人の体験するスケート遠足は、1934年の出版という昔なんですが、楽しさが全く違います。

まず、自然の中を走るスポーツの喜びがあります。きらきら光る運河の上を、皆で揃って走っていく。表紙の絵に描かれているように、女の子たちは先生がポールで引っ張ってくれるのです。その女の子たちの衣装の可愛いこと!真っ白な雪に映えるその光景がいいですよねえ。そして、何と凍りついた運河の途中には、美味しい熱いココアや焼き立てのお菓子を売るお店まであって、そこでスケートを履いたまま休むことも出来るのです。老若男女が皆スケーターであるオランダならではの楽しみです。もう何十年もスケート靴はいてませんから、きっと滑れないでしょうけど、ちょっとやってみたくなるじゃありませんか!こういう、伝統に根ざした楽しみって、心が豊かになりますよね。まず、風景が美しい。それに比べて道頓堀川にプール作るとかいうアホなこと言うてる人たちがおりますが、もう、想像しただけでげんなりする光景です。誰が泳ぐねん、あんなとこで。もうちょっと美的なことを考えられへんのかいな。・・・おっと、脇道にそれてしまいました。反省、反省。

先生とエベルトたち一行の一日は、いろんなアクシデントに襲われます。何しろいたずら盛りの男の子たちに、若くて元気な男の先生という布陣ですから(笑)エベルトが氷の割れ目におっこちるやら、助けて貰った農家で美味しそうなあっつあつの雪パンケーキを御馳走になるやら。(この農家の豊かな包容力は『第八森の子どもたち』を思い出させます)たどり着いた街で、他の学校の子たちと雪合戦になるやら。極めつけは教会での男子行方不明事件という盛りだくさんの一日の中で、子どもたちの気持ちが、生き生きと動いていくのが暖かい筆致で描かれます。シモンという内気な少年が、この一日の中で別の顔を見せて、男の子たちの友情を勝ち取るというのが、この物語の芯の一つ。自分が行動することによって、仲間を作ることができたシモンの誇らしい気持ちが伝わってきます。このスケート遠足のありようや友情の描かれ方に、子どもという存在に対する信頼と自発性の尊重を感じるんですよね。お膳立てされたプログラムをこなすのではなく、自分の力で問題を乗り越えていくことを尊重する姿勢があります。もちろん、それは見守る大人のしっかりした眼差しがあってのこと。その眼差しをこの本に感じました。子どもたちは、一日の冒険を終えて家路につきます。くたくたの体でたどりついた家にある、笑顔と暖かいご飯。この帰宅のシーンがとても良いんです。幸せそのものだなあと思います。ベッドにもぐりこむ安らぎの中で、子どもたちの冒険は生きた喜びとなるんですよね。どこに行っても、冒険しても、「ただいま」と帰ってくる場所がある。本を閉じて、面白かったなあと帰ってこれる。この「帰ってくる」という安らぎも、また子どもの本の良さだと思います。この子どもたちのように、皆に生きる喜びを味わって欲しいなと心から思います。この本は、1935年のニューベリー賞を受賞しています。画家でもある作者の美しい挿絵も堪能できる、楽しい本。この本を発見して翻訳し、紹介されたふなとよし子さんの後書きが印象的でした。思いのこもった暖かい一冊でした。

2009年10月発行

福音館書店

by ERI

 

小公女 フランシス・ホジソン・バーネット 高楼方子訳 福音館書店

昨日、「私の一冊」は何か、ということを考えていて、またこの本について語りたくなってしまいました。先日行った東京の教文館・ナルニア国で、この福音館の復刻シリーズが店頭に置かれていて、それがなんと高楼方子さんのサイン本!正直ちょっと悔しかった。だって、私はこの本が出版されたときに、すぐにネットで購入してしまっていたんです。実はそのときkikoさんがそのサイン本を購入しました。サイン見せて貰って、写メ撮りかけて思いとどまりました。だって、余計に切ないもん(笑)もう一冊買おうかと悶々とする今日この頃・・・。

以前のレビューにも書いたし、昨日の記事にも書いたのですが、私はこの本を幼い頃から何度も何度も読んできました。私が幼い頃に読んでいたのは、抄訳のものです。挿絵も、今から思うと妙ちきりんなフランス人形のようなセーラだった。でも、とにかく好きだったのです。その本を、私が特別に好きな高楼方子さんが翻訳される!これが興奮せずにいられようか、ということで、すぐに入手した私は、届いた完訳本の表紙のセーラを見て、打ち抜かれたのでした。それは、私が長らく心に思い描いていたセーラ・クルーそのものだったからです。エセル・フランクリン・ベッツの描くセーラは、飾り気のない黒いドレスを着て、強い眼差しで一点を見つめています。アニメのセーラのほんわか美少女ぶりとは全く違う、激しい内面をのぞかせるその眼。組んだ両手からは、繊細さと思索的な性格が感じられます。親しみやすいというよりは、簡単に声をかけるのをためらうような、凛とした佇まいの少女です。見る人が見れば、彼女が並々ならぬ魂を秘めていることがわかるはず。この表紙は、高楼さんのリクエストによるものだとか。さすが!と、私は心が震えました。そして、私はこのセーラを見て、高楼さんの訳によるこの本を読んで、なぜ自分がこの物語が好きなのか、やっとわかったのです。(遅っ!)

この物語の中で、セーラは劇的に境遇が変わります。特別寄宿生として、何不自由なく全てを与えられ、褒めたたえられる11歳までのセーラ。そして、父親の死によって全てを失い、下働きとして食事もろくに与えられずこき使われる2年間。でも、その浮き沈みの中で、セーラは常に変わらず、見事に自分を貫きます。その誇り高さと気概に私は惹かれていたのです。そして、その彼女を支えていたのは、高楼さんも後書きでおっしゃっていますが、「想像力」です。セーラは幼い頃から想像力と共に生きていた、アメリア先生に言わせれば「変わった子」です。セーラは本が、物語が大好きです。物語に入りこむ、ということはその時間他の人生を生きること。つまり、セーラは物語を通じて自分を相対化することを知っているのです。

「人に起こるいろんなことって、偶然なのよ」
「私があなたじゃなくて、あなたが私じゃないっていうのは、偶然のできごとみたいなものなのよ」

この世界にはありとあらゆる境遇があり、生き方があり、貧富の差があり、能力の差があり、千差万別の人生がある。ありとあらゆる時間と空間を超える本の旅は、常に見知らぬ「あなた」と「私」との回路を開くことなのです。セーラは、幼い頃からその回路を開いて生きていた。そして、その回路を通じて自由に想像力を羽ばたかせることを知っているのです。物語というフィクションの中に自分を投入することで、自分の幸福も悲劇も相対化し、そこに埋没しないこと。そして、物語の力を、自分の生きる力に変えること。そこから生まれる名シーンは、皆さんご存じのことだと思います。自分の棲む屋根裏部屋を、バスチーユの囚人の部屋になぞらえてベッキーと暗号を交わすシーン。せっかく拾った小銭で甘パンを買って、それをほとんど乞食の女の子に与えてしまう。たったひとつ残ったパンを、一口食べたらお腹がいっぱいになる魔法のパンだと想像してやりすごす。中でも私の好きなのは、ロッティに自分の屋根裏部屋のロマンを語ってきかせるシーンです。みずぼらしい屋根裏部屋が、セーラの言葉の魔法でロマンチックな短編小説の趣を帯びてしまう。こういう細部の彩りがこの物語の魅力です。ロッティが去り、セーラは自分の部屋を見回して思います。「・・・・寂しいところだわ・・・・・」「ときどき、世界でいちばん寂しいところのような気がする・・・・」でも、この、魔法の溶けた寂しいセーラとロンドンの空を眺めるのは、私にとってとても大きな慰めでした。それは、現実の私が生きている世界で見上げた空とセーラの見上げた空が、どこかで・・・そう、物語という世界を通じて繋がっていると思っていたからです。

想像力と、そこから生まれる物語の力。セーラが学園で大きな影響力を持ったのは、その能力によるところが大きいのです。アーメンガードが、ベッキーが、ロッティーがセーラから離れられないのは、その魔法のような魅力です。でも、その魅力を最初から最後まで理解できない人間が、たった一人います。それが、ミンチン先生です。彼女とセーラが出会った時、セーラがまだ見ぬ人形のエミリーのことを想像で語って聞かせたところから、もうセーラのことが大嫌いになるんですよね。それが見事に伝わってくるのが、バーネットの筆力ですが。そこから、この二人は敵対することに運命が決まってしまう。ミンチン先生はとことん現実派です。目に見えるものしか信用しない。この物語は、想像力と現実派の闘いとも言えるのかもしれません。セーラのミンチン先生に対する辛辣な物言いは、想像力派であるバーネットが常日頃抱いていた想いに近いものなのかもしれないな、などと想像したりします。その闘いに最後はお金という現実で決着がついてしまうところが、少々残念なところでもあり、一番ドキドキさせるところでもあるのですが、そのラストを引き寄せたのは、後書きで高楼さんもおっしゃっている「現実を変えていくセーラの想像力」なのでしょう。

先日参加した講演会でデイヴィッド・アーモンド氏が「物語は崩壊に向かう力を押し戻すもの」とおっしゃっていました。私も、その力を信じています。想像力の翼を、大きく広げる物語の力。その原点を、私はセーラの中に幼心の中にも見出していたのではないかと、思うのです。いや、カッコよく言いすぎやな。私は、想像力たくましい子どもでしたが、どちらかというと発想が貧乏くさいというか(笑)自分が悲劇の主人公みたいに死んでしまうところを想像して、自分をいじめた子が泣いてるところを想像してうっとりしたりとか・・・貧乏育ちでしたから、100万円拾ったら何を買うかを、新聞広告を見ながら計算してみたりとか(あーあ・・・)よくそんなことを考えていたのを思い出します。そんな私にセーラは憧れでした。だって、自分が女王さまだと想像する女の子なんて、本当に私の想像力では思いもつかないことだったのですから。彼女は、精神の香気がどこから生まれるのかを私に考えるきっかけをくれたのです。今読み返すと、物語としてはあちこちに矛盾もあります。でも、そのセーラの誇り高い精神は、いつの時代にも変わらぬ光を投げかけてくれるのだと思います。その精神の輝きをくっきりと浮かび上がらせたこの新訳は、かけがえのない物語の財産だと思います。きっと、何度も何度も読み返すだろうなあ・・。そして、また不意に思いだしてこうして語ると思います。文章長いね・・・。

2011年9月刊行
福音館書店

by ERI

飛ぶ教室 31 2012 秋号

今号の『飛ぶ教室』は、【44人の「わたしの一冊」】という特集。本好きには堪えられない。メモメモ片手に、読みふけってしまう。「わたしが出会ったこの一冊、わたしを作ったこの一冊」というテーマで、44人の方々が自分を変えた一冊を語っておられるのだ。本に深く関わる生き方をしている人の「一冊」への想いは深く濃く、それぞれの出逢いの熱さに、こっちも感染してしまいそうになる。

例えば、いしいしんじさんの「大人以上の大人の、本以上の本」の長新太さんへの想い。私も、こんな風に長さんを語りたかった。あの大きくて突き抜けていて、長さんの絵を見ているだけで、どこまでも世界が広がっていくようなあの感じ。長さんが書いた本たちがなかったら・・・という想像は、マンガ界に萩尾望都さんがいなかったら、と思うくらいの欠落感を伴う。巨人だよねえ、と思うんだが、その大きさをこんなに肉体的な感動で書けるのはさすがにいしいさんだと心から感嘆した。

江國香織さんの、もはや自分とうさこちゃん(ブルーナです)の区別がつかないほどの混然一体ぶりも凄いし魚住直子さんの『ムーミン谷の冬』への共感の仕方にも、感じるところがあった。ムーミンのシリーズはどれも大好きなのだけれど、『ムーミン谷の冬』は、私にとっては別格なのだ。それは、夜の中で自分だけ起きているという孤独への親和感なのかもしれないと、魚住さんの文章を読んで思ったことだった。植田真さんの、「日常の景色を変える鍵」という、ホームズ作品に出逢った夏の想い出は、コナン・ドイルの本の魔法に強烈に囚われていた小学生の頃にタイムスリップさせてくれたし。ここには、44人の、本と出逢ってしまった人の幸せがぎゅっと詰まっている。うん。やっぱり、本と出逢うのは幸せなことだ。

新人短編共作では、庭野雫さんの『母のワンピース』と、くぼひできさんの『俺を殺す方法』が印象的だった。『母のワンピース』は、母とのささやかな行き違いが、痛みのままに残ってしまった女の子の気持ちが、とても伝わってきた。母が生きていれば、そのうち笑いごとになってしまったかもしれないことが、少女には後悔となって残っている。でも、手作りのワンピースという温もりを感じ、そこに母の想いを感じることが、少女を少し大人にする。共感する、そこにいない人の心を理解しようと伸ばす手が、心を結んでいくのだということがさり気ないメッセージとして書かれているように思えた。『俺を殺す方法』は、なかなかショッキングな物語だった。母親の自殺未遂を目撃してしまった少年の話だ。語り手は、主人公の秀一の中に住む「俺」。日常の中でいきなり両親とものっぺらぼうになってしまうような秀一の疎外感が、「俺」に語らせることで浮かび上がっている。あまりにもショッキングなことが起こると、人は記憶を途切れさせて自分を守ろうとする。でも、本当は忘れられるはずなどない。心の奥深くにしまいこんでいるだけ・・・ややもするとぽっかり浮かびあがろうとする不安や恐怖の在りかを考えさせる作品になっている。これは、けっこう挑戦的な試みかもしれないけれど、私は、子どもというのは、心の奥底に恐怖という箱を持っているように思う。怖いけれど、怖ろしいけれど、時々そこをあけて見ずにはいられない、箱。この短編も、その箱に転がっていることの一つのような気がするのだ。家庭の崩壊というのは、子どもにとって一番の恐怖だ。その恐怖の手触りを、ざらりと乾いた筆致で書いてあることに惹かれた。知らなくていいことなのかもしれない。でも、物語という方法で、自分の、もしくは他者の未知の領域を知るのも、私は子どもの物語のひとつの営みだと思う。

「books」には、加藤純子さんによる朽木祥さんの『八月の光』の評が載っていた。三つの短編の有機的な繋がりを「記憶」を鍵として述べてらっしゃる文章に、自分のレビューに欠けていたものを見つけてはっとした。そう、こういうことだったんだなあ・・。さすがだ。

最後に、自分の「わたしの一冊」を考えてみた。子どもの頃の一冊なら・・・『小公女』だと思う。今でも時々読み返すくらいの一冊だ。なんでこんなに惹かれるのか、ということに、先日高楼方子さんの新訳を読んで気がついた。セーラは、どんな境遇にいても変わらない。ちやほや甘やかされても、どん底の暮らしの中でも、彼女はいつでも自分自身で在り続ける。その気概と誇り高さが、私は好きだったのだ。どこにいても、自分を物語の主人公になぞらえてしまうことで現実から距離を置いて自分を見つめる。そんな生き方を、私は知らず知らずにセーラに教えてもらったように思う。そして、大人になってからの一冊は、朽木祥さんの『かはたれ』だ。目に見えないものを感じること。耳に聞こえない美しい音楽を聞こうとする心。それこそが、この人生を生き切るための光であることを、大人になって新鮮な眼を失いかけた私に教えてくれた一冊。河童の八寸は、出会った日から、ずっと私の中に棲んでいる。やはり、折に触れて読み返す、中年になってからの私の原点なのだ。

夜の小学校で 岡田淳 偕成社

夜の小学校には、昼間とは違う時間が流れています。この物語は、夜の小学校の中から生まれたちょっと不思議な短編集。頁をめくるたびに、新しい扉が開きます。そこから吹いてくる風は、心に幸せなざわめきを残していくのです。御自身の手による素敵な挿絵と一緒に、大好きな岡田ワールドに浸りました。

主人公の「僕」は、桜若葉小学校というところで、夜警の仕事をすることになります。にぎやかな子ども達の声が溢れている昼間とは、違う顔をしている夜の校舎や校庭。そこには、不思議なお客様がやってくるのです。ほんとに夜の小学校で、こんなあれこれに出逢ったら・・・きっと、ちょっと怖い。でも、その隠し味のような怖さが、物語の醍醐味です。岡田さんの物語には、『二分間の冒険』『選ばなかった冒険』『ふしぎの時間割』など、学校を舞台にしたファンタジーがたくさんあります。『二分間の冒険』『選ばなかった冒険』は息子たちも大好きで、何度も何度も読みました。小学校を舞台にしたファンタジーは、岡田さんの魅力溢れる独壇場なのです。子どもたちにとっては、人生の半分を過ごす場所が学校です。いつもの見慣れた風景である学校。でも、ふと忘れ物を取りに帰った夕方の教室や、いつもは来ない日曜日のがらんとした校庭、気分が悪くなって行った保健室のベッドに寝転がって見上げた空の青さに、ふっと違う時間の流れや空気を感じてしまう・・・それは、生まれて初めて感じる異世界への、つまり物語への扉。一瞬で見失いそうになるその扉を、岡田さんは絶妙なタイミングで開けてみせます。長年小学校に勤務されて、学校の隅々まで知りつくしておられる、ということもあるかもしれません。そして、その長年過ごしておられた場所を見つめる瑞々しい眼差しと感性が、素晴らしいと思うのです。

この物語の「僕」は、若い頃の岡田さんご自身が投影されているようにも思うし、これから物語を書こうとする人、これから未来を切り開いていこうとする人への、優しい励ましも投影されているように思います。アライグマに「いろいろなしごとをしたことが力になるんですね」と言われて、「―そうだったんだ」と気がつく僕。日常の中に潜む不思議を発見する。それは、見慣れた風景を一変させる物語の力を得ることに繋がっていくのでしょう。『図書室』という短編では、本たちが静かに扉を用意して、開けてくれるのを待っています。学校という場所は、子どもたちにとっていつも幸せなところではありません。自分の小学生の頃を思い返してみても、まことに生き抜くのが大変だったとしみじみと思うのです。同年齢の子たちが何十人もひとつの部屋に揃う、あの人間関係を思い出しただけでも、もう無理と思ってしまう(笑)大人になった今なら、笑い話ですみます。でも、学校という逃れられない密室で自分の居場所がゆらぐ、あの不安は、真剣に辛いものでした。でも、本という扉を開ければ、私はいつも自分だけの時間を過ごすことが出来た。そこには、果てしない自由がありました。今、子どもをめぐる環境は、のんびりしていた私たちの頃とは比べ物にならないほど様々な難しさに満ちています。だからこそ、本当はもっと物語の力は必要なのだと思うのですが・・・児童文学というジャンルにおける物語の紡ぎ手は、少なくなってきているようにも思います。児童文学では食べられない。出版部数も限られていて、大人の文学に比べると、あまり注目されなかったりします。でも!でも、です。子どものときに、胸がわくわくするような物語に出逢わなければ、大人の本を読む人口だって、減ってしまうと思うんですよ。岡田さんも、密かにそんな危機感をお持ちなのかもしれないな・・・この本を読みながら、そんなことを思いました。

主人公の「僕」は、大好きな『ドリトル先生航海記』の扉を開けて、幸せな気持ちになります。

「本はいつだってああして待っているんだ」

子どもの心を受け止め、、時間と空間を超えて新しい場所に連れていってくれる・・・そして、懐かしい友達のように、いつも変わらずそこにいてくれる、本。本は一生の友達になってくれます。心から本を愛する岡田さんの気持ちが、溢れてくるような一冊でした。

by ERI

2012年10月

偕成社

日本児童文学 2012 9・10月号 『ソルティー・ウォーター』と『明日美』

落ち葉今号の『日本児童文学』のテーマは「3.11と児童文学」である。震災から1年半ほど時間が経って、3.11が少しずつ文学という形に現れてきた。この号では、3.11以降の核の問題をテーマにして、芝田勝茂さんの『ソルティー・ウォーター』と、菅野雪虫さんの『明日美』という作品が掲載されている。どちらも、核とともに生きていかねばならない子どもたちの物語だ。
菅野さんの『明日美』は、南相馬に住む中学3年生の少女・明日美の日常を描いた物語だ。菅野さんの眼差しは、静かな文体で明日美の生活の一コマを切り出していく。切りだされた日常に断層写真のように積み重なっているフクシマの今は、静かな日々の中に、明らかな被災地以外の場所との温度差を孕んでいる。私が個人的に衝撃だったのは、明日美の家の「茶の間にはこたつとミカンと煎餅と線量計」が並んでいること。外出から帰ってきた明日美にその線量計は反応してピーピー音をたてる。明日美はその線量計に向かってふざけてみせるのだ。ここで私はいろんな意味で深くうなだれてしまった。
線量計が、こたつやみかん並んで茶の間にある。日常の中にあるから、その違和感にはっと胸を突かれる。明日美はそのことに慣れている。その、「慣れている」ということにも胸を突かれる。いつもの日常、自分の家の茶の間。穏やかに自分を包むはずの日常に潜む非日常から、明日美は毎日傷つけられている。でも、それに慣れていかなければ生きていけない。傷つけられることに慣れる・・・そんな悲しいことがあるだろうか。違和感は、明日美の心の中から消えることはないだろう。明日美は、あの日以降を、忘れられない風景の中で、失った痛みと共に生きているのだから。「みんな忘れない。あの日のことも、あの日からのことも、みんな、忘れるもんか。」慣れるのと忘れるのは違うのである。被災地の外にいる私たちの方は、その違和感に慣れていないが、その違和感を感じなくなっているのかもしれない。その温度差を思ったとき、私は明日美の孤独に深くうなだれてしまう。その孤独感は、まるでフクシマをホラーの地のように扱うネットの世界を見る明日美の眼差しに感じられる。傷つけられたものが疎外され、孤独を感じなければならない。この理不尽を、静かに私たちの目の前に置く菅野さんの物語は、無関心という見えない壁を超えて心を繋ごうとする物語の大切さを感じさせてくれた。
菅野さんがそっと描き出した温度差は、芝田さんの『ソルティー・ウォーター』で、熱く燃え上がって疾走する。この作品は、3.11以降の近未来を舞台にしたSF仕立てで、芝田さんならではの切れ味のある緊迫感が漂う。バクハツがまるでなかったかのように放射線を遮るという泥の中に埋められたカマの中で、ウランが再び煮えたぎろうとしている。病気を何度も繰り返す主人公のエツの体の中にある熱い塊が、そのウランを感知するのだ。彼は走る。今はもういない少女・ミヤの声に導かれて、ウランの釜の丘に走る―。無責任さや嘘、無関心や事なかれ主義、コストと経済効果という泥に原発を塗り込めようとしても、これから何万年も放射能は拡散しようとするエネルギーをもち続ける。エツが吸い込む空気に水にまき散らされている苦いものは、私たちにとって永遠とも思える時間を生きる。その何万年という時間の前に、すっかり骨抜きになってしまった「安心」という言葉は、はたして意味を持つのだろうか。私たちは忘れっぽい。嫌になるほど同じ過ちを繰り返す。

わたしのつもりでは、自分が書いているのは―ほとんどの小説家と同じで―人が過ちを犯すこと、そして、ほかの人であれ、本人であれ、誰かがその過ちを防いだり、正したりしようと努めて、けれどもその過程で、さらに過ちを犯さずにいられないことです。  ~アーシュラ・K・ル=グウィン「ファンタジーについて前提とされているいくつかのこと」※

だからこそ、私たちは、何度も何度も子どもたちに、自分たち大人のした過ちについて語り続けなければならないのだと思う。明日美の孤独と、真実を見据えようと走るエツの痛みを何度も何度も感じて、心に刻むことがこれから先の希望に繋がるのだと信じて。その3.11以降の長く大切な営みは、まだ始まったばかりだ。私は物語を刻めないから、こうして何度も自分が大切だと思った作品について語ろうと思う。そう思わせてくれた、今号の特集号だった。
※『いま、ファンタジーにできること』河出書房新社 2011年8月刊行に所収されています。

 

by ERI