嵐にいななく L・S・マシューズ 三辺律子訳 小学館

この物語、冒頭からとてもドキドキします。嵐の夜、お母さんと二人きりで暮らすジャックの家を洪水が襲います。あっという間にあがってくる水の中、ボートで漂う二人・・。思わず3.11を思い出してしまうのですが、その後の展開は津波の話ではありません。でも、この不気味に襲ってくる水のような不安は、この物語の中にずっと漂うことになります。上手いなあ・・・と引きずり込まれるうちに、この物語が近未来のような複雑な設定になっていることに気付くのです。ひたひたと迫る暗い水のような時代の不安。その中で少年が自分の手で掴む、信頼という黄金がきらきらと泥の中から現れる。その鮮やかさに思わず涙してしまう物語でした。

村を襲った洪水から逃れ、新しい町に引っ越ししたジャック。そこで彼は、一匹の傷ついた馬・バンに出会う。バンは、人間とトラブルを起こしたせいで、もうすぐ殺されてしまうという。思わずバンを飼うことにしたジャックだが、動物をペットとして飼うことは許されていない。馬なら、運送に使うという目的でしか飼育できないのだ。一度も馬と過ごしたことがないジャック。でも、両親と隣に住むマイケルの力を借りて、何とかバンに荷を引かせる訓練を始める・・・。

主人公のジャックは、あまり自分に自信を持てていない男の子なのです。度重なる父親の転勤で、まとまって学校に通えず、読み書きが遅れがち。しかも引っ込み思案な彼は、友だちも作りにくい。読みながら、私は、そんなジャックの不安が、そのまま自分の中の不安と繋がっていくのを感じていました。ジャックの生きる世界は、私たちの社会の不安が、そのまま膨れ上がっているような世界なのです。先進技術がありながら、エネルギーが足りない。動物も自由に飼えない。戦争が絶え間なく続き、気候も不順で雨季と乾季を繰り返す。そして、どうやら教育もお金の有無で格差が広がっているらしい。いろんなことを考えれば考えるほど、まるで窒息しそうな息苦しい世界。でも、ジャックは引っ越してきた町で、バンに出会ったのです。躍動する命、温かい体とまっすぐな眼差しを持った美しい馬が、ジャックの内に眠っている力を呼び覚ましていくのです。その毎日の手ごたえが、とても瑞々しく描かれます。「ぼくはこうやってここに、馬といることで、とても満たされた気持ちになる」というジャックの気持ちが、私はとてもよくわかります。嘘偽りなく生きている動物がくれる愛情と信頼ほど、胸にまっすぐ沁み込むものはないですから。バンのいななきが、温かい体が、ジャックの視界に一筋の光を連れてくるのが見えるようでした。

そして、もう一つ大切なのが、隣に住むマイケルとの関係です。このマイケルの描き方がねえ、それはもう上手いというか、何というか。この物語は、ジャックの視点からの部分と、マイケルが日記として書いた部分とが交錯して進みます。マイケルはジャックに自分の日記を書き写すことを勧めて読み書きの手ほどきをするのです。読み手は、ジャックとともに、マイケルの日記から、彼の人となりを想像しながら読み進めていくのですが、いい意味で、その想像を最後の最後で裏切られることになるのです。このどんでん返しが、何とも鮮やかで、「やられた」と思いながら涙が溢れて、もう一度この物語を初めから読み返したくなること請け合いです。マイケルがジャックに与える優しさと希望が、読み返すたびに胸に沁み込んでいくのです。

作者のマシューズさんは、読み手の想像力を刺激することに長けた方です。以前読んだ『フイッシュ』も、とても不思議な味わいの物語でした。読み手の視点によって、プリズムのように様々に色を変えるような、そんなお話なのです。この物語も、そんな仕掛けがいっぱいです。ジャックの世界は、どうしてこんな風になってしまったのだろう?犬や猫が全く出てこないけれど、ペットが許されない時代で、彼らはどうしているのか。・・・そんなことを考えてしまう。ジャックの世界も、私たちの世界も、簡単に答えの出るようなことばかりではありません。簡単に見せかけていることほど、裏にややこしい、どす黒いものを秘めていたりする。情報が溢れるほど押し寄せるこの時代に、子どもたちは一人でこぎ出していかねばならないのです。その中で生き抜く、お仕着せではない知性、本当の知恵とは何かを、この物語は考えさせます。そして、どんな時代であっても、自分の手で繋ぐ信頼こそが、人の背中を押してくれるということを教えてくれるのです。彼らの信頼という黄金は、バンを、ジャックを、マイケルを、嵐になぎ倒されてしまいそうになった村の人たちも救っていくのです。訳された三辺さんもおっしゃっていますが、この最後の驚きを、ジャックとバンとマイケルが成し遂げた奇跡を、どうか味わってみて頂きたいと思います。

2013年3月刊行

小学館

 

 

図工準備室の窓から 窓をあければ子どもたちがいた 岡田淳 偕成社

昨日、この本を神戸からの帰りの電車の中で、待ち切れずに読んでしまったんです。いやー、失敗でした。もうね、面白すぎて、楽しくて、うふうふと声が漏れてしまうのです。あまりにツボにはまって、爆笑したくなるのを必死でこらえ、でも読むのをやめられなくて目を白黒してる私は、相当ヘンな人だったと思われます(笑)トンビのトンちゃんのくだりや、川を飛び越えられんで落っこちたお話、トイレのよこに図工準備室があるのをええことに、肝試しにきた子どもたちを脅かしてるところ・・・「さんばんめーのーはーなこさーん」「は~~~い」・・・もう、帰宅後再読して、転がりまわるくらい笑いました。「先生、何してんねんな!」ってツッコミながら。

そう、この本を読んでいる間、私はすっかり岡田先生に図工を教えてもらってる小学生みたいな気分でした。私、小学生のときは図工が大好きだったんです。でも、段々人と自分の作品を比べるようになって、あんまり好きじゃなくなってしまった。ほんまに勿体なかったなあ・・と、この本を読んで思ってしまった。岡田さんは、ずっと小学校で図工を教えてらして、その想い出がこの本にはぎっしり詰まっています。それがもう、楽しいのなんの。岡田先生は、図工準備室をうす暗くして、大きな枝やら不思議なオブジェ、雑然といろんなものを詰め込んで、ワンダーランドみたいにしてしまう。しかも、「先生のゆるしなく、じゅんびしつにはいったら、おしりペンペンです」などと書いた紙を張る。思わず裏返すと「うらがえしたひとはもういっぱつおしりペンです」と書いてあって「つぎのやつをひっかけるから、もとのむきにもどしておくこと」なんて、書いてある。ひゃ~!もう、こんな図工準備室に、行かずにおられようか、ってなもんです。そして、岡田先生の授業の楽しそうなこと!あー、これやりたかった!(今でもやってみたい)と思うことばっかり。それだけやなくて、岡田先生はいろんなことを子どもたちに働きかけます。演劇部をつくったり、お昼休みの放送のDJをして、そこで自作の短編を朗読してしまう。その短編は、今、自分が通ってる小学校が舞台なんです。ああ!なんて幸せなこどもたち。だって、その物語は、「今」の自分たちと一緒にあるワンダーランド、現在進行形の物語なんですよ。それは、不思議と一緒に生きること。子どもたちは、どんなにドキドキして放送を聞いたやろう。これこそ、エブリディマジックの魔法です。

岡田先生が図工の授業で目指してはったのは三つ。

わくわくどきどきしながら、
①絵をかくことが好きになること
②ぼくはやったぞ、と思えること
③あの子やるなあ、と思えること

ああ・・これに尽きるなあ。なんかもう、これがすべてやなって。そう思います。生きる喜びが、ここにはぎゅっと詰まっています。「図工は、いつの日か豊かな人生を送れるために、ではなく、今を豊かに生きる実学であったのだ」(本分より)私たち大人は、子どもたちに「先々のために勉強しなさい」と言う。でも、その「先」って、どこにあるんやろう。高校受験のため。大学受験のため。就職のため。スキルアップのため・・いつまで行っても「先」ばかり見なければならない人生って、しんどくない?って、思うんですよ。子どもたちの気分を支配している行き詰まり感って、そこにあるんじゃないのか。そう思います。岡田先生のような発想の先生が教育現場にいはって、子どもたちに「先生、はよ図工しよ」と言われる授業をしはることは、どんなに大切なことか。

昨日「しあわせなふくろう」さんで、この本にサインをして頂きました。その時に岡田淳さんがイラストも一緒に書いて下さったんです。私が『夜の小学校で』の最後の物語、『図書室』がとても好きだと言うのを聞きながら書いてくださったのは、人が軽く腰に手をあてて佇むシルエット。私は単純に「うわあ、素敵だ」と喜んで「ありがとうございます」と脳天気に抱きしめて帰りました。そして、この本をずーっと読んでいって。その『図書室』の話が出てきました。そこに書いてあった「本」に対する思を書いた一節に、私は撃ち抜かれてしまったんです。「世界はやっていける、人生は生きるに値する、ひとは信頼できるという感覚を、ドリトル先生の台所は育ててくれたのではないか」そう!これやん!って。私が幼いころに物語からもらったもののこれやった。そして、これからを生きる子どもたちに必要なんは、やっぱりこれやんな、って。もう、まっすぐ胸の真ん中に落ちました。岡田さんの作品の根底にあるのもこれで、だから、私はいっつも岡田さんの物語に勇気と優しさをもらうんやな、って。そう思って頁をめくったら・・・その言葉の裏に、私がサインしてもらった人のシルエットの絵が出てきたんです。うわあ!とびっくりしました。岡田先生にやられてしまった。もしかして・・私の一言を聞いて、岡田先生はこの絵を書いてくれはったんかも!そう思ったら、ドキドキして、嬉しくて、何だか泣けてしまった…。岡田先生のマジックに、笑って泣いて、感動して。すごく大切な宝物を頂きました。

この本には、阪神淡路大震災の話も出てきます。神戸に生きる人たちは、みんなこの記憶を抱えています。岡田先生も、きっときっと大変な思いをされたに違いない。でも、岡田先生は、悲しい話、つらい話ではなく、「それ以外の話をしよう」と心に決めたらしいのです。kikoさんもそうなんですが、神戸の人にはこういうところがあるなあと思います。優しいんです。悲しみも辛さも、お互いの中にあることを受け止めながら、「生きてるうちは、笑っとこや」て労わりあうような。美しいもの、美味しいものが大好きで、今を一生懸命生きてる。そんな強さと優しさ。『願いのかなうまがり角』(偕成社)に出てきた、震災でつぶれてしまったまがり角の話を思い出しました。大きな悲しみを知っている人ほど、人に優しい。身内に教育関係が多い私は、学校という場所の大変さについてもよく聞きます。それはそれは、いろんなことがあったに違いない。でも、こんなふうに学校生活の想い出を書き、愛情の溢れる本にされた岡田先生の想いに、たくさん幸せを頂いて、大切なことを教えて頂きました。岡田先生、素敵なサインとイラストを、本当にありがとうございました。大切にします。

2012年9月刊行
偕成社

 

岡田淳さんの「夜の小学校で」原画展と“ひつじ書房”

春らしい穏やかなお天気のもと、神戸まで足を伸ばして岡田淳さんの作品展に行ってきました。JRの摂津本山駅前の画廊「しあわせなふくろう」さんで、『夜の小学校で』の原画展が行われていたのです。

原画はとても素敵でした。やっぱり印刷されたものよりも色がとても鮮やかに美しく、絵から優しさや温かさが溢れてくるようでした。ほかにも素敵な絵がいっぱい出品されていて、そちらは販売されてもいたのですが、何とほとんどが売約済み。わかるなあ・・・だって、岡田さんの絵って、見ていると、何だか胸にぽっと明るいものが宿るようなのです。落ち込んだ時や、心がすさんでやさぐれた時に、あたたかい光を投げかけてくれるような。「しあわせなふくろう」さんの中には、そんな岡田さんのパワーが満ち溢れていました。小さな画廊は、もういっぱいの人。今日は岡田さんご自身も来られていて、本にサインもして頂けるということで、小学生たちがたくさん来てました。皆、手に手に岡田さんの本を持って、とっても嬉しそう。岡田さんは一人ひとりとお話しながら、ゆっくりサインとイラストを描いてあげておられました。もう、子どもたちも岡田さんも幸せそうで、いつまでも見ていたい光景でした。一人の女の子なんか、岡田さんの大ファンで、ノートに書いた自分の物語も岡田さんに読んでもらおうと持ってきてて。一生懸命な顔して岡田さんが読むのを見てました。一生の思い出になるよなあ、もしかして、将来作家さんになって、この日のことをエッセイに書いたりして・・・なんて思うのも幸せでした。もちろん私もkikoさんもサインして貰いました。私がサインしてもらったのは『図工準備室の窓から』です。

その「しあわせなふくろう」さんの数軒横に、児童書の専門店「ひつじ書房」さんがあります。ここは、kikoさんの馴染みの本屋さん。児童書の専門店として有名です。以前からkikoさんに聞いて、ぜひ行ってみたかったので、今日は心おきなく埋没(笑)kikoさんと私をこんな本屋さんにほりこんだら、もう、何時間でもいます(笑)岡田淳さんを偕成社に紹介して、作家さんになるきっかけを作られたのは、ここの店主さんです。児童書に深い造詣と理解をお持ちの方なのです。もちろん品ぞろえも充実。大好きな本、気になる本がいっぱい。選書がとても素敵なんですよね。端から端まで欲しくなる。絵本から専門書まで、何を聞いてもいろんなお話をしてくださるので、嬉しくなってあれこれとおしゃべりしているうちに、数時間も経ってしまったという・・・。本を、児童書を、とても愛してらっしゃる。その愛情がたっぷり詰まった本屋さんでした。アイザック・B・シンガーの『ショーシャ』(吉夏社)と、マーガレット・ワイズ・ブラウン&バーバラ・クーニーという大好きなコンビの絵本『どこへいってた?』(童話館)を購入。ここは、また通ってしまうと思います。

たっぷり本を見たあとで、kikoさんのお友達の雑貨屋さんでカレー皿を衝動買いし、「tea room mahisa」で、美味しいスイーツとミルクシナモンティーを満喫し、帰りの電車の中で岡田さんの『図工準備室の窓から』を読んで、電車内で爆笑したくなるのを必死でこらえつつ帰宅するという、至福の一日でした。楽しかった~!

※「しあわせなふくろう」での原画展は、3月26日(火曜日)まで。最終日の26日は、1時頃から岡田さんご自身が来店されます。店内で本の販売あり。お近くの方は、ぜひ!

 

 

 

 

おなやみジュース 15歳の寺子屋 令丈ヒロ子 講談社

この本、まず、タイトルがいいなあ!と思うのです。「おなやみジュース」。とても日常的な言葉で、核心をぎゅっと掴むこの言語感覚が、いつも凄いなあと思うのです。令丈さんは大阪の方で、日ごろコテコテの大阪弁の私としては、文章のリズムや言葉のニュアンスが、とても心に馴染む、というのもあるのですが、この本、15歳をとっくに過ぎた…過ぎたというのもはばかられるような年齢の私にも、まっすぐ伝わってくるものがありました。自分の不甲斐なさへの実感と、この年齢になってこそわかる「そう!その通り!」という共感がいっぱい(汗)この本、ぜひぜひ15歳の人たちに、いや、それ以外の年齢の人たちにも読んでほしいなあ~と思います。

自分の人生という小さな世界の中で起こる、悩み事。当事者以外には、そないに大したことやなくても、これがもう自分にしてみたらしんどくて、切なくてしゃあないこと。ほんとに、人生ってそんなことの繰り返しなんですよね。令丈さんは、そんな「コップの中の嵐」に揉まれた自分の経験を、「作家になりたい」と気付くまでのジタバタする気持ちを振り返りながら率直に語ってはります。自分の将来を考える時期になって、美大への受験で悩んだこと。悩んで悩んで、お父さんの言葉がきっかけで気付いたのは、「作家になりたい」という自分の本当の思い。その覚悟を受け入れるまでの葛藤。こう書いてしまうと簡単だけれど、自分という人生の「おなやみジュース」を飲み干すのは、とても勇気がいることです。誰のせいにもしない、自分をごまかさないでまっすぐ見つめること。私はこれが今でも非常に苦手で、やっぱりすぐに逃げたくなる。苦い「おなやみジュース」を飲まずにおこうとする弱さ、失敗したり傷ついたりしたくないという防衛本能に振り回される…令丈さん曰く「気に入らないおなやみジュースをそっと捨て、なかったことにする」ことが、たびたびです(汗)そんな私に追い打ちの言葉。「おなやみジュースが、グレードアップして再登場」そう!そうそう!これやん…もう、人生の真理を突いてますわ。その通りなんやわ、と何度もグレードアップに打ちのめされた経験があれもこれもと湧いてきます。私も、若い頃の自分に言うてやりたい。「おなやみジュースは、どんなにしんどくても飲んだほうがええよ」って。ほんまに楽しいことや、嬉しいことは、そんなおなやみジュースから生まれてくることも、知ってるから。

自分の思いを言葉にする、っていうのは客観的に捉える余裕を持つということやと思います。ぐるぐる回るコップの中の嵐に出会ったとき、「あ、これって令丈サンの言うてはったおなやみジュースかも」って思えたら、それだけでも安心できたり、少しだけ違うところからおなやみを見る目が出来るかもしれない。自分以外のだれかに相談してみよかな、と思えるかもしれない。だからこそ、この「おなやみジュース」というネーミングのセンスが素敵やと思います。悩みに悩んだあげくに、自分の命を断つ、なんていう取り返しのつかないことろまで自分を追い込んでしまう悲しいことにならないように。こんなふうに心に届く本がもっとあったらええなあと真剣に思います。ほんまに、たくさんの子どもに読んでほしいなあ。

2009年刊行
講談社

狛犬の佐助 迷子の巻 伊藤遊 岡本順絵 ポプラ社

表紙の狛犬さんの顔がとても良いんです。お人よしのワンコのような、今にも何か話しかけてくれそうな、この狛犬さん。ワンコ好きの私としては見逃せません(笑)思わず読んでみたら、体中にあったかいパワーが溢れてくるような、そんなお話でした。

街中にある古い神社を守る2頭の狛犬さんには、石工の佐助と、親方の魂がそれぞれこもっています。この2頭、きっちり神社を守護しているというよりは、いつもしゃべくりまくって過ごしている、ゆるーい狛犬です。いつも弟子の佐助が親方に怒られてるんですが、めっちゃ仲良しなんやね、ということが伝わってくる、とってもいい漫才コンビです。そして、佐助は「心持ちも狛犬らしくなってきたし」なんていいながら、いろんなことが気になってしまう、やっぱりお人よし。最近はいつも神社にくる耕平という少年が気になって仕方がないのです。耕平は飼っていた大切な犬のモモがいなくなって落ち込む毎日。佐助は、ある日、そのモモの行方の手がかりを聞いて、なんとか耕平にそのことを伝えたいと必死になってしまうのです。佐助は狛犬です。石の身動きできない体では、何も出来ない。親方に「あきらめろ」と諭される佐助ですが、どうしても彼は諦められない。その思いが、佐助を石の体から解き放ってしまうのです。

神社というのは、たくさんの人が自分の願いを伝えにくるところです。中には切ない願いもあることでしょう。これまで、願いをする立場からしか、狛犬さんや神社の神様を見たことはなかったけれど、この必死の佐助の奮闘ぶりを読んで、もしかしたら神様もしんどいのかもしれへんな、と思ったり。何かしてあげたい、思いを叶えてあげたいと思っても、してあげられへんことのほうが多いやないですか。いろんなことが見えたり、俯瞰できたりすれば、尚更その思いは強いのかもしれないですよね。家族や友達や、恋人が苦しみや悲しみを抱えているのを知っていて、何も出来ない、というのはとても辛いことです。でも、だからこそ、その「何かしてあげたい」「喜ばせてあげたい」という気持ちというのは、とても尊い、強いパワーでもあると思うのです。佐助のパワーも思わず爆発してしまうのですが、獅子奮迅のおせっかいは、見当はずれの結果に終わってしまいます。これもねえ、何だかじーんとよくわかるんですよね。私もお節介な性質で、ついあれこれ世話を焼きたがるほうなんです。でも、それがいつもいい結果につながるとは限らない。佐助のように見当はずれになることも多いし、やめときゃ良かった、と後悔することもあります。だから、この佐助の気持ちがよーくわかる。佐助は狛犬としてはおバカさんかもしれないけれど、そのおバカさんなところが、よくわかるというか、何とも愛しいんです。

佐助は生きている間も、とても不器用な人でした。でも、だからこそ、親方の期待に応えたいと一生懸命で必死でこの狛犬を彫ったのです。その誰かの思いに応えたいという純粋さが狛犬さんに宿り、息づいている。見かけはあんまりカッコよくなくても、お節介がうまく実を結ばなくても、その「思い」は、とても大切な宝物なんですね。今日読んでいた『それでも人生にイエスと言う』(※)の中で、フランクルが次のようなことを述べていました。「私たちは、生きる意味を問うてはならない」と。私たちは、人生に問われている存在、つまり人生は我々に何を期待しているか、を考えていくことが大切なんだと。そういう生き方は不器用に見えるし、要領よく生きていったり、得することとは縁遠かったりするのかもしれないけれど、どこかで誰かを笑顔に出来る唯一のパワーを生み出すものでもあると思うのです。その不器用な温かさが、溢れてくるような物語でした。狛犬さんの挿絵は、岡本順さん。伊藤さんといいコンビですねえ。見返しのどんぐりも可愛くて、心のこもった一冊でした。

2013年2月刊行

ポプラ社

(※)「それでも人生にイエスと言う」V・E・フランクル 春秋社

 

 

ふしぎな八つのおとぎばなし ジョーン・エイキン クエンティン・ブレイク絵 こだまともこ訳 冨山房

「奇妙な味」の短編集です。ナンセンス、怪奇幻想、SF、神話・・・そのすべてをひっくるめての「おとぎばなし」。鮮やかなイメージを生み出す言葉の喚起力が半端なくて、読みだしたら止まらない。ブラックなスパイスも効いていて、とても好みです。特に好きなのは、『怒り山』と『冬の夜にさまよう』。心の奥底のぽっかりと空いた穴から、闇の匂いが吹き上げてくるような短編です。怖いのに、凝視する目が離せない・・・「魅入られる」というのは、こういうことなんでしょうね。暗い森の奥でたき火をしながら、誰かの昔話を聞いているような、そんな気持ちになってしまう物語たちです。

『怒り山』の頂上にある村に、八本足の馬に乗って片目の男がやってくる。彼は家々の石に指先で輪を書きつけた後に、村の井戸の横で骨接ぎを始めます。彼は村人に聞きます。「わたしの父は、死の床で、むすこになんといいのこしたのかね?」誰もその問いに答えぬまま、すべての治療を終えた男は、村人たちに引きずられて崖の上から突き落とされる。すると家々の石に書きつけられた輪が、ぎらぎらと真っ赤に輝きだし、そこで物語はおわります。どうやら、この男は、村であった『九つの火の戦い』と深い関係がありそうなのです。何かを全員で隠している様子もある。その何かとは、たぶん自分たちも直視するのが怖いほどの非人道的なことのような気配も漂います。開けてはいけない記憶の箱を封じ込めるかのように、村人たちは自分を治療してくれた男を崖から突き落とします。昔、何があったのか。そのあと、村がどうなったのか・・描かれなかったものが闇の中で膨れ上がるような見事なラストです。

最近、戦争関係などの本や資料を少しずつ読んでいます。目に見えていることの裏側にあるものの大きさと果てしなさに愕然とするのですが、同時に国家というもののあまりの人間臭さに虚を突かれたような気持ちになることが多い。どうやら、私たちは、自分で思っているほど理性的でも公平でもない。そして、自分たちがしてしまったことを直視するのはもっと怖い。この物語の村人たちのことも、私には他人事とは思えないのです。この物語を読んだ子どもたちは、もしかしたら、ただ怖いだけの感想しかその時には持てないかもしれない。でも、エイキンの刻む真っ赤に燃える輪は、その理不尽さと一緒に子どもたちの心に刻まれると思います。そして、人生のどこかで人間の残虐さに触れてしまったとき、その輪が語りかけることがあるのではないか。そんな気がします。

『冬の夜にさまよう』は、とても幻想的な物語です。気難しい粉ひきのバーナードは、木の彫刻を作ることに取り憑かれた男。とうとう、村のシンボルであるオークの木まで勝手に切り倒してしまいます。ところが、そのせいで、彼は朝一番に手に触れたものがことごとく木になってしまうという呪われた体になってしまう。一人娘アリスを木にしないために、納屋に寝かせていたのだけれど、アリスは夜な夜な森の中をさまよい、眠りながら歩く大きなくまと夜を過ごす・・・。

真っ赤な服を着て森をさまようアリスの姿と、ゆらゆらと眠りながら歩く大きなくまのシルエットが月明かりに重なります。物語の始まりから、アリスには月に魅入られたような不吉な影が射しています。彼女が木になってしまうことが運命のように彼女に縫いとめられているのを感じざるを得ないのです。その空気感の見事さ。ブレイクの挿絵と相まって、悪い夢のように美しく、引き込まれます。人間の男には一切目をくれなかったアリスが、なぜ森をさまようくまに心惹かれていったのか。なぜくまは、夜な夜なふらふらと歩いていたのか。単なる因果応報のお話ではない、人間のどうしようもない根っこのようなものとへその緒で繋がっているような、古い記憶を呼び覚ますような不思議なお話なのです。得体が知れなくて美しい。エイキンという人の懐の深さをしみじみと感じました。

ちょっと怖いお話ばかり取り上げましたが、幸せなお話も、宇宙をまたにかけるスケールの大きなホラ話も、ロマンチックなお話もあって、どれも楽しい。そして、どれも冒頭に述べたように、どこか奇妙な味を漂わせて、とてもセンスが良いのです。物語の力が横溢している、充実の短編集。子どもも大人も一緒に楽しめる一冊だと思います。

2012年12月刊行

冨山房刊

 

 

ヘリオット先生と動物たちの8つの物語 ジェイムズ・ヘリオット 井上由見子訳 集英社

私は動物に弱い。パソコンもiPhoneも犬猫ブログのブックマークだらけだし。自分のレビューを書くよりも、よそのお宅の猫さまを見て、「かわいー」「かわいー」とうっとりしている時間のほうが多い。(あかんやん・・・)うちにも猫が2匹いて、何だかんだとかまったり撫でまくったり、お腹に顔を埋めてモフったりしているうちに、一日が過ぎていく。夜になると一緒に寝ようと猫が呼びにくるので、甘えたの猫を抱きこんで、干したてのお布団で眠る。もういくらでも眠れる(笑)。動物と暮らして何が一番嬉しいか。それは、彼らが幸せそうにしているのを見るということに尽きると思う。あったかい毛布の上でのびのびになって寝ていたり、おもちゃに目をらんらんさせてじゃれついたり、美味しそうにご飯を食べていたりするのを見ると、「これでいいのだ」というバカボンのパパ的な全世界肯定感が溢れてきて、もっと甘やかしたくなる。

この本に収録されている8つのお話も、「これでいいのだ」という幸せが溢れている。ヘリオット先生は、イギリスのヨークシャー地方の動物のお医者さんだ。農家が多いこの地方で、ヘリオット先生はいつもあちこちに往診に飛び回っている。そこで出会ったいろんな動物たちとのお話が、この本にはいっぱい詰まっている。ここに描かれているのは、動物と人との信頼と愛情だ。たとえば冷たい北風の中で死にかけていた子猫。ヘリオット先生に拾われて、農家のあったかいオーブンの中で息を吹き返して、豚さんのおっぱいでつやつやのお猫さまに育ったり。自分の身なりなど一度も構わず過ごしてきた農家のおやっさんが、長年働いてくれた馬を、見事に飾り立ててペットコンテストに連れていったり。このお話に出てくる人たちは、みんな自分と関わりのある命を大切にする。そして動物というのは、大切にされると必ずその愛情に応えようとする。人間同士だと時に愛情は難しく絡み合ったり、ねじれたり、すれ違ったりするものだが、動物はいつもまっすぐ愛情を受け止めて、つやつやの毛並みで返してくれる。そこには確かな心の繋がりがある。ほんとに、この世の中難しい事やどうしようもない事がいっぱいなのだけれど、動物が寄せてくれる愛情のこもった眼を見ていると、これが生きていることの基本だよなあと素直に思える。その肯定感がこの物語8篇のすべてに溢れていて、とても幸せな気持ちにさせてもらった。

ヘリオット先生は、長年実際に獣医として働いておられた方。それだけに物語には体験に裏打ちされた厚みがある。たくさんの本が既に翻訳されているらしい。この本は、若い読者のために書きおろされた一冊。小学校高学年くらいなら余裕で読めると思う。こういう愛情から生まれる信頼感、それも積み重ねられた体験に裏打ちされた信頼感というのは、元気が出てとても素敵だと思う。表紙も挿絵もとても可愛くて、中の活字もセンスがいい。この表紙に呼ばれて読んでみたら、やっぱり当たりだった。ヘリオット先生、もっと読んでみようっと。

2012年11月刊行

集英社

 

フォーラム 子どもの本と「核」を考える 

先週末(1月26日)、広島平和記念資料館で開かれた、日本ペンクラブ主催のフォーラム『子どもの本と核を考える』に行ってきた。第一部が、ペンクラブ会長浅田次郎さんのチェルノブイリの現状報告、そして二部はアーサー・ビナードさん、令丈ヒロ子さん、朽木祥さん、那須正幹さんという、核をテーマにした児童文学を書かれている方をパネリストに、子どもの本と核を考えるというお話があった。実際に自分の目でチェルノブイリを見てこられた浅田さんのお話、そして自著を通して、子どもたちに何を伝えていくかという作家さんのお話、それぞれに驚きと新しい発見があり、日ごろ考えている自分の思いと共感するところも多かった。これからを生きる子どもたちのために何ができるのか、ということを真摯に考え、歴史的な視野に立って実践していこうとされていることが伝わるフォーラムだった。

●浅田次郎さんのチェルノブイリ報告について

子どもの甲状腺ガンとDNAの異常が増えていること。これは、いろんな方の報告から知ってはいたのだが、やはり直接見聞きしてこられた浅田氏の言葉を直接耳で聞くと、ずっしりと重い。事故から27年が経ち、石棺といわれるコンクリートの覆いも劣化が酷い。そこで、もう一回り大きな石棺を作ってかぶせる作業が必要になるのだけれども、それもまた数十年後には劣化してしまう。放射能の半減期を計算すると、その作業はこれから何千年も繰り返さねばならない・・。そのことに茫然としてしまう。「一国が滅亡するかもしれないものは持ってはいけない」「負の遺産は私たちの世代で決着をつけていくという覚悟が必要」という言葉に深く頷く。歴史小説をたくさん書いておられる氏の言葉には、「今」を俯瞰で捉える強さがある。戦争を経験した親世代は、負の遺産を後の世代に伝えてはいけないという思いがあったのではないか。その親たちに珠のように育てられた私たちが、原発の事故を起こしてしまったということは、過去に対しても未来に対しても無責任なことであるということを述べられていた。このところ「やっぱり経済優先」という空気が世間に流れているように思う。経済をないがしろにする積りはないのだが、この原発の問題だけは、その短期的な視点から外れないと、また大きな過ちにつながってしまうような気がしてならないのだが、浅田さんの言葉に改めてその通りだと思う。浅田さんいわく、フクシマの原発事故に対して、外国からは「日本なら何とかするだろう」という期待が寄せられている、この期待を裏切ることは、日本に対する信頼を失うことになる。これは、国家として絶対に乗り越えねばならない試練である、という言葉が印象的だった。

●核をテーマにした児童文学を書かれた作家さんたち

アーサー・ビナードさんは、『さがしています』という、原爆の遺品の写真をテーマにした写真絵本を出してらっしゃる方。あの絵本は4年前に撮影するための台の石づくりから始められたらしい。その手間暇と思いが深く伝わってくる絵本だ。母国語である英語の「atomic bomb」「Nuclear weapons」という言葉ではなく、「ピカドン」という体験者の側から生まれた言葉で核を見たときに初めて自分の視点が変わったという体験を話された。「ピカドン」は、自分が原爆ドームのそばにいて、あの日を見ている視点の言葉だと。英語を母国語にするアーサーさんだからこその気付きは、いろんな問題提起を含んでいると思う。

令丈ヒロ子さんは、『パンプキン!模擬原爆の夏』についてのお話だった。これは、パンプキン爆弾という、原爆投下のための練習として日本全国に落とされた模擬原爆のことをテーマにした作品だ。この作品を書かれたきっかけは、近所に模擬原爆の慰霊碑があったことだったとか。この作品は、主人公の子どもたちが、自由研究で模擬原爆と戦争のことを調べていくという形式で書かれている。出版後大きな反響があって、テレビのドキュメンタリーでも放送されたほど。若おかみシリーズなど、子どもたちに絶大な人気を持つシリーズを書いておられる令丈さんだけあって、面白く、わかりやすく、しかも資料もふんだんに取り入れた説得力のある作品だ。その令丈さんが戦争というテーマに取り組まれたことはとても有意義なことだと朽木さんもおっしゃっていた。御苦労もたくさんおありだったようだが、教育現場からの反響がすごかったということ、そして、子どもたちがこちらが思うよりも普通に受け止めてくれた、という報告になるほど、と思った。子どもたちは、こちらが真摯に伝えたことを、ちゃんと聞く力を持っている。この作品のような、今の子どもたちの生活と戦争・核という問題を繋ぐような作品がたくさん生まれることがこれからとても大切なのではないかと思った。

八月の光』『彼岸花はきつねのかんざし』など、ヒロシマをライフワークにしてらっしゃる朽木祥さんのお話はとても心に沁みた。文学が持つ力は「共感共苦」にある。共感し、誰かの苦しみを分かち持つこと・・・正しい歴史認識を後世に伝え、理解することで正しい「心情の知性」を育む本を書きたいと述べておられた。「心情の知性」は、時代が全体主義に流されようとしたりしたときに、踏みとどまり、違うと言える知性のこと。全体主義は、他人事では決してないと私も思う。人の心の中には、ややもすると大きな声を出す人に飲み込まれて思考停止してしまう昏い部分がある。それは、人を、国家や民族や、性別などのわかりやすい切り口でくくってしまうところから始まるのだ。数ではなく、ひとりひとりを顔のある存在として認識することの大切さを心に刻みつけること。『八月の光』について、私は昨年[時が経てば経つほど困難になる【記憶】の刻印に、真摯に向き合い、共有することで、私たちは確かな繋がりを手にすることが出来るのだと思う。その心の糸を繋ぎ、張り巡らせることだけが、ただのお題目になってしまいそうな「過ちは 繰返しませぬから」という言葉に命を与えるのではないか]と書いた。その思いを改めて感じたし、忘れてはならない記憶を「今」に結びつける営みに、果敢に挑戦され続ける姿勢に頭が下がる。「失われた顔と声を聞いてそれを伝えていく」という言葉に物語の根源的な力を信じるものとして強く共感した。

●那須正幹さんは、3歳の時にご自身も被爆されている。『絵で読む広島の原爆』『八月の髪かざり』『ヒロシマ 歩き出した日』『ヒロシマ 様々な予感』『ヒロシマ めぐりくる夏』など、核をテーマにした本をたくさん書かれている。当日は、那須さんまで順番が回った時点であまり時間がなくなってしまい、詳しいお話は伺えなかったのだけれど、自分の後に続く世代の人たちが核について作品を発表されていることが、とても心強いとおっしゃっていた。私も強くそう思う。

もうすぐ、3.11から2年になる。まだ何も終わっていない。事故の後始末も、震災の傷跡も、何もかもそのままだ。でも、最近、そのことを忘れようとする力がいろんな場所で働いているように思えて仕方がない。マスコミは、すぐに何もかも忘れてしまおうとする。彼らは数の論理で動いているから・・・だからこそ、これから物語がとても大切になってくると思うのだ。フォーラムの最後で、中日新聞の記者の方が、沈黙を守ってきた被爆された方々のことに触れ、「なぜ人は語ってこなかったのか」という問いかけをされておられた。そこには声高に語れなかった事情や心情があるだろうし、語ることを許さなかった力も働いていたと思う。その記憶と心に寄り添う、朽木さんのおっしゃる「失われた顔と声を聞いてそれを伝えていく」営みこそが、これからの私たちの進むべき道を指し示してくれると思うから。顔のあるたった一人の心に思いを馳せる力、想像力を育てること・・・このフォーラムに参加された作家さんたちのお話を聞いて、その必要性をひしひしと感じた。それはとても辛いことではあるけれども、今、とても大切なことなのではないかと思う。こんな偉そうなことを言っていても、久しぶりにじっくり見た平和記念資料館、そして初めて拝見した国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の、被爆された方の写真のお顔を見て、実は私自身打ちのめされ、しばらく言葉を綴ることも苦しかった。この問題に向き合うには、本当に気力と体力が必要だとしみじみ思う。だから、ずっとこのテーマと向き合って作品を書いておられる方々には素直に尊敬の気持ちを感じてしまうのだ。那須さんは「この年齢なんで、どこまで書けるか」などとおっしゃっておられたが、お体に気をつけて頂いて、これからも子どもたちに大切な作品を届けて頂きたいと思った。

フォーラムの参加者に配られたパンフレットもさすがの出来栄えだった。特に、2部の司会をされていた野上暁さんの「核と日本の児童文学」という評論は個人的にとてもありがたく、これを頂けただけでも行った甲斐があった。とても寒いヒロシマの週末だったけれど、遠征してとてもよかったと思えるフォーラムだった。

 

 

 

劇団6年2組 吉野万理子 学研教育出版

懐かしや、クラス演劇。思い出すとけっこうやってましたねえ。外したときのリスクも高いんですが、その分ツボにはまったときの達成感は半端なかったことを覚えています。盛り上がれば盛り上がるほど凝り性になって、家からいろんなものを持ってきてあれこれ作ったり。私たちの頃は、放課後塾に行っている子なんて全くいなかったので、時間が使い放題だったというのもあるかも。そして、あの頃はドラマ全盛の時代です。百恵ちゃんの『赤い~』シリーズに本気で泣いていた時代ですから。漫画だって『ベルサイユのばら』に『ガラスの仮面』という、セリフを口にするだけでお芝居気分になれたものがいっぱいありました。どれだけ皆で真似っこしたことか。近所のバラの生垣のところで、オスカル役とアンドレ役を決めて、ラブシーンやったり(笑)そんな下地もあったせいか、とにかくやってみたかったんですよね、お芝居というやつを。この本を読んで、久しぶりにあの頃のときめきと楽しさを思い出しました。

お芝居の楽しさは、何にもない空っぽのところから、皆で架空の国を作り上げるところ。この物語もそうです。学校に公演に来たプロの演技に魅せられて、卒業のお別れ会でお芝居をやりたい!と思った立樹が、クラスの皆と自分たちだけのシンデレラのお芝居を作り出すところが描かれます。お芝居なんて、どうしたらできるのかわからない立樹たちは、プロの人に話を聞きにいったり、自分たちで台本を探したりします。でも、俄然面白くなるのは、台本通りにする必要はなくて、自分たちの自由にお話を作り上げていけばいい、と知ったところからです。誰もが知っているシンデレラのお話。でも、なぜ継母はシンデレラに意地悪したくなるのか。魔法使いはなぜシンデレラを舞踏会に送り込んだのか。「なんで?」と登場人物の気持ちになって考えていくことで、物語はどんどん膨らんで、自分たちだけのリアルな心が入っていく。そして、それが、見ている人に伝わっていく。「伝わる」ということは、とても嬉しいことなんですよね。その喜びが、とてもストレートに物語から溢れてきました。

「伝える」というのは、本当は生きていく基本なんですが、これがけっこう難しかったりします。立樹たちがこのお芝居から見つけた「人の気持ちを考えると、これまで見えなかったことが見えてくる」ということは、思いを伝えたり、伝わったりするために絶対必要なことなんだと思います。自分ではない誰かになりきってみる、という経験は、これまで知らなかった人の心に踏み込んでみることに繋がりますよね。この物語でも、立樹やクラスの子どもたちは、お芝居を通じてお互いの知らなかった部分に気づきます。自由な想像力は、現実を変える力ともなるのです。そのパワーを、さわやかに描きあげた楽しい物語でした。ト書きというあまり子どもたちが目にしない脚本形式を物語の中に交えてあるのですが、とても自然で新鮮な印象になっていて、これはとても苦労されたところではないかと思いました。脚本家でもある吉野さんの手練の賜物ですね。挿絵も『チームふたり』のコンビである宮尾和孝さんで、さすがのチームワークです。

2012年11月刊行

学研教育出版

 

 

かえでの葉っぱ D・ムラースコーヴァー 関沢明子訳 出久根育絵 理論社

とても美しい絵本です。この何とも美しい絵本に、もっと他に素敵な表現はないかといろいろ考えたんですが、美しいものは美しいんだから、仕方ない。(開き直ってますね)金色で、片方のふちがピンクの大きなかえでの葉っぱが、ふわりと自分の樹から旅立ち、さまざまな場所に自分のその身を置く話です。ムラースコーヴァーさんのとてもシンプルなテキストと、出久根育さんの詩情に満ち溢れた絵が溶け合って、一頁一頁がとてもドラマチック。ツバメと葉っぱが一緒に空を飛んでいる頁なんて、一緒に風を感じてドキドキします。こんな風に空を飛ぶなんて、絶対に私たちは体験できない。でもね、不思議なんですけど、私はどこかにこの記憶を持っているようなんです。少年と山の上で出会うことも。虫を乗せて川を下るのも。無数の星たちを見上げて夜の空を飛んでいくのも。雪の下で、じっと春を待つのも。この絵本の舞台のチェコなんて全く知らないのに、葉っぱの出会う風景が、心がぎゅっとするほど懐かしい。散々旅をして、いっぱい命と出会って、そのあと懐かしい人に火の近くで再会して燃え尽きる。そんなことが、いつか自分にもあったと思うんです。

生まれて、死んで。輝いたり燃え尽きたり、風に吹かれて舞い上がったり、どこかに落ちてそのまま朽ち果てたり・・・きっと、私たちはそんな風に命を繋いで繰り返してきた。その流れが、自分にも、葉っぱにも、少年にも、ムラースコーヴァーさんにも、出久根さんにも、そして私にも流れている。言葉にならない原風景のような記憶が溢れるような、静かだけれどもドラマチックな時間がここにあります。ただただ、その時間に身を浸す寂しさに近いような幸せを感じました。手元に置いて、いつも眺めたい一冊。この絵を原画で見たいものです。どこかで原画展をしてくださらないかしらん・・・。

 

2012年11月刊行

理論社

 

サースキの笛がきこえる エロイーズ・マッグロウ 斎藤倫子訳 偕成社

この物語の主人公であるサースキは「とりかえ子」です。妖精が、人間の子どもをさらうかわりに、置いていった子どもが「とりかえ子」。しかも、サースキは妖精の母親と人間の父親との間に生まれた子。つまり、妖精の世界でも居場所がなくて人の世界に送られてきた子なのです。サースキは、妖精であったときの記憶を自分の心の奥底に封じ込め、なぜ自分がこんなに他の人とは違うのかということがわからぬままに苦しみ、悩みます。両親とも、村の人たちとも違う自分。「とりかえ子」という悲しい言葉の響きそのままに苦しむサースキと、彼女を育てる両親の心の痛みを感じながら・・・いつしか、彼女の悲しみと苦しみが、自分の中に潜むいつの日かの自分と響きあっていくのを感じました。

サースキは見かけもやることも、人間の子とは違っています。少しの間もじっとしていられないし、人間ならだれも恐れて近づかない荒れ地が大好き。壁を駆け上がれるほど身軽です。誰に教えてもらわずとも、バグパイプの演奏ができる。そんな彼女は村の子どもたちだけではなく、大人からも冷たいまなざしを向けられます。それは、彼女の両親だって例外ではありません。サースキがほかの子と違うということを、一番よくわかっているのは父と母。そして、サースキが「とりかえ子」であるということを一番先に感じていた祖母のベスです。その不安と戸惑いも、この物語はきちんと描き出します。なかなか分かり合えないサースキと家族の行き違いは、読んでいてとても切ない。サースキは、幼いころにすべてに戸惑い、壁に囲まれているような違和感に固まってばかりいた自分のようだし、サースキの両親は、手探りで悩みながら子育てをしていた自分の姿を見るようなのです。人がどこに、どのような親の元に生れ落ちてくるのか。それは、全く自分には意思決定権がありません。だから・・・行き違うし、誤解しあうし、全く理解しあえないこともあるし、気持ちが通じないことだってたくさんある。親子だから分かり合える、などというのは思い込みや幻想にすぎないのです。でも、その幻想に私たちはとことん振り回されます。この物語の中でも、サースキを理解し、お互いに安らぐ存在になれるのは、赤の他人であるタムという少年だけ。でも、サースキの両親は、サースキを理解できなくても、ただひたすら守ろうとします。災いをもたらすものとして村の大人全員が、サースキをつるし上げようとしても。(この集団心理の描き方は見事です)親って、ほんとはこれだけでいいのかもしれません。その気持ちさえあれば、子どもはそこから生きる力を生み出すことができる。サースキは、そんな両親に少しずつ愛情を感じ、彼らの本当の子を妖精たちから奪い返そうとするのです。その不器用な、ぎこちない愛情が生まれていく様子がなんとも愛しくて仕方ありませんでした。親子であることの苦しみと喜びが、子どもであった、親でもあった(両方とも過去形ではないけれども)私の心に、しみこんでいきました。荒れ野に広がるサースキのバグパイプの音のように。

 

そう、どこにも馴染めないサースキが奏でる音楽だからこそ、響いてくるものがある。彼女が傷だらけになりながら獲得していく感情のひとつひとつの感触が、今更のように胸の底に落ちてくるのです。自分の声が届かない悲しみ。絶望。誰かを大切に思うこと。自分を守ろうとしてくれる愛情を感じること。理解してくれる人と出会う奇跡。レコードの針が小さな溝のくぼみをたどって美しい音楽を奏でるように、サースキの心の震えは、読み手の心の中に埋もれていた柔らかい部分から大きな共振を引き起こします。それは、サースキの心を借りて、また自分自身と向き合うということでもあると思うのです。物語だけが果たすことができる役割が、ここにあります。

 

サースキは、失っていた記憶を取り戻し、自分が自分でいられる場所を探してタムと旅立ちます。悲しい結末ではありますが、私はそこに新しい希望を感じさせるすがすがしさも感じました。ここにカタルシスを感じる子どもたちもたくさんいるのではないでしょうか。生きる悲しみと喜びを見事に浮かび上がらせた物語でした。訳と装丁も、繊細さを伝えて素敵です。このタイトルに惹かれて読んだ自分の勘が、見事に当たった一冊でした。

2012年6月刊行

偕成社

 

2012年 今年印象に残った本

あと少しで2012年が終わります。年齢を重ねるごとに一年が短くて、今年も「○○をした」と自分に言えないまま終わってしまうのが悔しいというか、歯がゆいというか。でも、とにかくこうして本を読みながら無事に一年を終えられることは、とてもありがたいことです。そして、ブログを移転したにも関わらず、たくさんの方がこちらにもレビューを読みに来てくださっていることに、心から感謝いたします。どうもありがとうございました。

2012年に書いた本のレビューは、102本でした。読んだ本の3分の1くらいしかレビューをかけないのが我ながら情けないのですが、不思議なことに、年々レビューを書くということが難しく感じられます。時はさらさらと過ぎていくのに、その中で出会うものの重みは増すようなのです。一冊の重み。そこに注ぎ込まれた思い。感じれば感じるほど、筆は重くなる(汗)でも、私は本をとにかく愛しているので、来年もたゆまずレビューを書いていきたいと思っていますし、そのほかにも自分なりに立てている目標に向かって、一歩ずつ進んでいきたいと思っています。どうか、ときどき「何書いてるんかな~」と覗いてやってくださいませ。

さて、2012年に読んだ中でも、自分の印象に強く残った本をピックアップしてみました。

☆国内作品

『八月の光』 朽木祥 偕成社 http://oisiihonbako.at.webry.info/201206/article_10.html

朽木さんの渾身の作品。今、そしてずっと私たちが心に刻まねばならないことがぎゅっと凝縮されています。今年の一冊をあげろと言われたら、この本を選びます。

『雪と珊瑚と』 梨木香歩 角川書店 http://oisiihonbako.at.webry.info/201205/article_8.html

梨木さんの投げかけるものは、いつも私にとってこれからを考える羅針盤です。

『天山の巫女ソニン 巨山外伝 予言の娘』 菅野雪虫 講談社http://oisiihonbako.at.webry.info/201205/article_2.html

シリーズの外伝というだけでもファンには嬉しいのに、とても深く読み応えのある内容で、ここで終わってしまうのが残念なくらいでした。

『リンデ』 ときありえ 高畠純絵 講談社 http://oisiihonbako.at.webry.info/201202/article_4.html

犬のあったかい体、命のぬくもりの確かさが心に残ります。

『ある一日』 いしいしんじ 新潮社 http://oisiihonbako.at.webry.info/201204/article_7.html

生まれ来るひとつの命が、すべての生死と繋がっていく壮大なドラマ。見事でした。

『ことり』 小川洋子 朝日新聞出版局 http://oishiihonbako.jp/wordpress/?p=465

これは、昨日レビューを書いたところなので、下の記事を読んでください(笑)

☆翻訳作品

『クロックワークスリー マコーリー公園と三つの宝物』 マシュー・カービー 石崎洋司訳 講談社  http://oisiihonbako.at.webry.info/201201/article_9.html

手に汗握って読んだという点においては、今年のNo.1!

『サラスの旅』 シヴォーン・ダウド 尾高薫訳 ゴブリン書房http://oisiihonbako.at.webry.info/201209/article_2.html

サラスのおぼつかない足取りの旅が、愛しかった・・・。

『少年は残酷な弓を射る』 ライオネル・シュライヴァー 光野多恵子/真貴志順子/堤理華訳 イーストプレス』 http://oisiihonbako.at.webry.info/201207/article_3.html

先日もアメリカで銃の発砲事件がありました。この作品のことを考えました。幼い子ともたちのこと。それでも銃社会をやめられない大人の事情・・・。

『ジェンナ 奇跡を生きる少女』 メアリ・E・ピアソン 三辺律子訳 小学館SUPER YA  http://oisiihonbako.at.webry.info/201204/article_9.html

この作品も、今年のノーベル賞であるIPS細胞とリンクしていました。文学作品というのは、不思議に時代とリンクしていきます。

追記;『ミナの物語』デイヴィッド・アーモンド 山田順子訳 東京創元社  http://oishiihonbako.jp/wordpress/ya/78/ 

を忘れていました。私としたことが(汗)

今年も、たくさんの素敵な作品と出合えました。活字本や雑誌の発行額は年々減り、電子書籍の台頭も話題になる今ですが、私は一冊の「本」という世界に出会うことが大好きです。2013年はどんな本に出会えるのか。それを楽しみに新しい年を迎えます。小さな声ですが、細々とでも語り続けることを目指して・・・。一年間どうもありがとうございました!

緑の精にまた会う日 リンダ・ニューベリー 野の水生訳 徳間書店

今日はクリスマス。眼に見えないものに思いを馳せる日です。私は特別な宗教をもたない人間です。でも、クリスマスという日に、世界中でたくさんの祈りが捧げられることは、とても大切なことだと思います。愛する人の幸せを願って。生きていることへの感謝をこめて。不条理に生きる私たちは、祈らずにはいられない。この本は、眼に見えない大切なものと再会を果たす物語。厳しい冬のあとで春が芽吹くような希望の物語です。

ロンドンに住む少女のルーシーは、大好きなおじいちゃんがいます。おじいちゃんは田舎の農園で、それはそれは見事な野菜を作る「緑の手」を持っている人なのです。そして、おじいちゃんの農園には、緑の精のロブが住んでいます。お気に入りの場所にいて庭仕事を手伝ってくれるロブ。彼の存在を信じ、その気配を感じるのは、おじいちゃんとルーシーだけ。ところが、大好きなおじいちゃんは、突然帰らぬ人となります。農園は売り払われ、つぶされてしまう。ルーシーは、ロブに手紙を書きます。どうか、私のところへ、ロンドンへ来てくださいと。その願いにこたえるかのように、歩きだしたロブ。彼の、ロンドンまでの旅が始まります。

ロブというのは、どういう存在なのかをルーシーに伝えるおじいちゃんの言葉がいいんです。

いいかい、ロブは雨と風からできている、ひざしと、そしてひょうからも。それに、光と闇からも、…(中略)…過ぎ去った時間、訪れる時間からも、ロブはできているんだよ。考えてみりゃあ、わたしらだっておんなじだ。みーんな、おんなじなんだよな

命の船を、ともに浮かべようとする、意志のようなもの。どんなときにも歩き続けてきた、そして歩き続けていこうとする、古い古い記憶のようなもの…ロブはそんな存在なのかと思います。でも、この物語で大切なのは、ロブが何者であるかを解き明かすことではありません。ただ、感じること。彼がいるおじいちゃんの農園が、どんなに満ち足りて美しいか。ルーシーが、農園から森に入ってしまう夜のシーンが、とても印象的です。闇に抱かれて感じる、ぴりぴりするような精神の覚醒は、体の中に眠る動物であったころの自然への記憶そのもののようです。そして、その楽園を失ったルーシーとロブの悲しみ。ロブの旅は困難を極めます。道の途中でロブが出会ったのは彼がまったく見えない人、利用しようとする人、見えても化け物扱いして追いだす人。あちこちでサンドバッグ状態になってしまうロブの旅…その苦しさを読んでいると、酸素が足りなくなった金魚のような心地がします。その中でも、ロブが見えているのに、一緒にいる友達に馬鹿にされて、見えないことにしてしまった女の子のことが、心に刺さりました。本当に大切なこと、自分の心が感じる声を無視してしまうことは、あとになるほど心を荒らします。私にも、何度も何度もそんなことがあったから…わかるのです。だから、ここを子どもたちに読んで欲しい、そう心から思いました。一番大切なことは、心の声に、見えないところに潜んでいるのです。私たちは、いろんな大人の事情で、その声を無視しようとする。その結果がどうなるのか、何度歴史の中で経験しても同じことを繰り返す。でも、声なき声は、ちゃんと胸の中に潜んでいるのです。どんなにひどい目にあっても、やっぱり人と共に命を育てようとするロブのように。この物語は、ほんとはどこにでもいる、誰も知っているはずの、でも、人がすぐに忘れてしまう存在の痛みと希望を描き出そうとしています。

わたしは道を歩むだけ。どこへ行くかは、たどりつくまで、わからない。

そう。わからないけれど…ルーシーと、ロブの再会の旅のように、子どもたちが何度も大切な存在とめぐりあって、秘密を共有してくれたらいいなと心から思います。

「おークリスマスツリー おークリスマスツリー みどりのきよ とわに
よろこびのよるに ほしひとつひかり みどりごうまれん
おークリスマスツリー おー クリスマスツリー」

大好きな、マーガレット・ワイズ・ブラウンの『ちいさなもみのき』の一節です。
子どもたちに、祝福がたくさん舞い降りますように。
Merry X’mas!!

2012年3月刊行

 

くりぃむパン 濱野京子 黒須高嶺絵 くもん出版

私はパンが大好きで、一日2食はパンを食べます。とにかくパンなら何でも食べますが、一番好きなのは、昔からずーっとある地元の商店街のお店のパン。いつ行っても変わらない味で、品揃えも多少のリニューアルはあっても、基本同じ。アンパン、クリームパン、メロンパンは必ずある。甘い甘いコロネパンもね。こういう昔っからあるパンって、とにかく人を黙らせてしまう力があると思います。疲れたとき、欲しくなる。舌に馴染む味に、ほっとする。実は、そんなシンプルなパンほど、ほんとは作るのが難しいんじゃないかと思うんですが、この物語は、そんなくりぃむパンの細やかな味みたいに、プレ思春期の女の子の心境を丁寧につづった物語です。

一家9人、下宿している人も合わせて11人という大家族で暮らす4年生の香里の家に、ある日同学年の未香がやってきます。遠い親戚筋の未香は、お父さんの失業のために、一人で香里の家に身を寄せることになったのです。でも、美人で聞き分けがよくって、お手伝いもし、みんなにお小遣いをもらう未香が、だんだん香里はうっとうしくなります。そんなある日、もやもやした気持ちで、つい同級生の前でつぶやいた、未香への「守銭奴」という言葉が、あっという間にクラス中に広まってしまうのです。

聞き分けがよくてしっかりした子、というのは、ほんとは危なっかしいものなんです。この物語の未香は、自分の立場をよくわかっている子なのです。自分の家ではない場所で、居候させてもらっている自分。肩身の狭さを、「いい子」でいることで何とか埋め合わせをしようと必死なのです。大人は、そこをよくわかっているからこそ、未香を労わろうとする。でも、一度もそんな立場に立ったことのない四年生の香里には、そんな未香の気持ちはわかるはずもありません。みんなにちやほやされているだけのように見えてしまう。だから、つい、意地悪な気持ちになってしまう。幼いころから、父親のお金の苦労を見ている未香とは、感覚が違うのです。早くに大人びてしまった未香と、まだ子どものままの自分。その違いを慮るほどの人生経験は、香里にはまだないのです。

普通は、ここから一気に二人の関係が煮詰まってしまうものなのですが、香里の家には、回復力が備わっています。それは、五世代にもわたる家族が、たくさんいるところ。成り行きで、ひいばあちゃんのところで一緒に過ごしたり、下宿している志帆さんのマンガの話をしたり、いろんなシチュエーションで未香と触れ合う機会がたくさん生まれます。そこで、二人の間には共感が生まれます。未香と自分は違うけれど、ひいばあちゃんのところで過ごす時間は、ゆったりした「魔法の時間」だったこと。おんなじくりぃむパンを食べて、美味しい!と思えること。そんな、単純な時間を分け合うことで、香里は徐々に未香の心の内を知ることになるのです。分け合う、という大切な時間が丁寧に描かれているのが、とてもよかった。

「なんかさあ・・・生きるってせつないね」

小学校四年生の香里の口から出たこの言葉に、「ほんまやねえ」と答えそうになってしまいました。生きる切なさは、大人だけが感じるものではありません。子どもだって自分たちの切なさの中で生きている。彼女たちの人生は始ったばっかりで、いろいろあるのはこれからです。でも、生きることの切なさを分け合う友達がいるということは、いつ食べてもおいしいクリームパンを手にしているように、心強い。違う境遇を抱えてひとつ屋根の下に暮らす違和感から、友だちになるまでの時間を、細やかに描いた物語でした。その時間を支えるものを、この物語から子どもたちが受け取ってくれたらいいなと思います。

2012年10月

くもん出版

by ERI

 

イクバルと仲間たち 児童労働にたちむかった人々 スーザン・クークリン 小峰書店

橋下大阪市長(すっかり大阪はほったらかしにされてるみたいですけど)が、最低賃金制の廃止を言い出したそうで、一体何を目指しているのかと怖くなります。最低賃金制が廃止されるということは、どんなに安い賃金で働かせてもいいということ。今でも、必死に働いても食べていけない人が増えているというのに。若い人たちを安くこき使おうとする思惑がぷんぷん匂う。この本には、そんな欲得しか考えない企業論理のしわ寄せがどこに行くのかが書かれています。理不尽な暴力そのものである、児童労働。一日働いて2.6円しかもらえず、逃げ出せば連れ戻されて拷問され、埃だらけの環境で病気を患いながら働かされ、学校にもいかせてもらえない。働いても増えるのは借金ばかり・・・まるで、江戸時代の遊郭のような労働条件です。でも、実際にこの世界のどこかでは、そうして働かされる子どもたちがいる。世界中がネットワークで繋がれた大きな網の中では、誰もそんな事実と無関係ではないのです。子どもたちの作り出した商品を買うのは、先進国の人間だから。買う人間には罪はない、という考え方もあります。でも、この本を読んだら、誰もそんな考え方に違和感を覚えるのではないでしょうか。

この本は、パキスタンで絨毯を織るという児童労働に、4歳(4歳!)の頃から従事させられていたイクバルという少年の、子ども向けのドキュメントです。彼は、600ルピー(約1600円)の借金のカタに、売り飛ばされたも同然の形で働かされる人生を送りながら、BLLF(債務労働開放戦線)の集会に参加したことがきっかけで、自分と仲間たちを工場主から解放させ、開放運動の先頭に立って活動を展開した少年です。彼はアメリカに渡り、「リーボック行動する若者賞」を受賞し、たくさんの子どもたちの前で自分の経験を語る、いわゆるBLLFのシンボルともいえる存在になるのです。

この本の読みどころは、イクバルという少年の人生を軸にして、児童労働の歴史や現状、どうして子どもたちが働かされるのか、という問題を多角的に説明しているという点にあると思います。児童労働の悲惨さは、驚くべきものです。読んでいて、胸が痛くなる。でも、それだけでは「世界にはかわいそうな子がいるんだな」で、自分と無関係に終わってしまうこともあります。児童労働が貧しさと結びついていること。だからこそ、なかなか無くならないこと。児童労働だけをやめさせようとしても、新たな貧困を生んでしまうだけに終わってしまうこと。その貧しさは、世界の別の場所の豊かさと結びついていること。この本は、そこまで踏み込んでこの問題を追っていきます。地図資料や語句の解説、写真も多数添えられていてとてもわかりやすく、著者がなるべく公平な視線で冷静にこのテーマを子どもたちに伝えようとしていることがわかります。著者は、なるべく自分の目と足でたくさんの人に会い、取材をし、この本を書いています。そこに、たった12歳で殺されてしまったイクバルという少年の理不尽な人生に真摯に向き合おうとする誠実さを感じます。グローバルという言葉を安易に使うのが私は嫌いですが、世界中に張り巡らされたシステムの中にいるという事実からは逃げられません。その中で、イクバルを殺してしまった大人のように、大切なものを見失わないようにする目をどうやって獲得するのかが、これからとても大切なことだと思うのです。

 大勢が声を揃えて一つのことを言っているようなとき、少しでも違和感があったら、自分は何に引っ掛かっているのか、意識のライトを当てて明らかにする。自分が、足がかりにすべきはそこだ。(「僕は、僕たちはどう生きるか」梨木香歩・理論社)

自分の違和感に意識のライトを当てるのは、自分を大切にすることでもあります。知識と思考訓練は、自分を守る砦となり得ます。そのためにも、一つのテーマから、様々な学ぶきっかけが生まれる、こんな本がもっと注目されてもいい。そう思います。

2012年9月発行

小峰書店

by ERI