リジーと雲 テリー・ファン&エリック・ファン作 増子久美訳 化学同人

淡い黄色とセピア色を基調にした配色がとても美しい絵本。

リジーは、公園の「雲うり」から、小さな雲を買ってもらって「ミロ」と名付けます。リジーは、ミロを大切にお世話します。どこに行くにも一緒です。でも、ミロはだんだん大きくなって、リジーの手にはおえなくなってしまいます。大きくなりすぎた雲は、お部屋に閉じ込めていてはいけないのです。悲しいけれどお別れしなくてはなりません。

子どものときに持っていたもの。名前をつけて慈しんでいたもの。大人になっていくどこかで、別れのときがやってきたりするのだけれども、それは消えてしまうわけではなくて。いつもミロのように、眼差しのどこかに宿っているし、なぜか年をとればとるほど、色鮮やかによみがえってくるように思う。だから、この本自体が、懐かしい記憶のように思えて、何度も頁をめくって細かいところを眺める。カーテンの揺らめきも、雨上がりの空気の匂いも、子どものときのあこがれも、細部まで心のこもった絵のなかにやさしく閉じ込められているようで、うれしくなる。この季節に何度もめくりたい。

カメラにうつらなかった真実 3人の写真家が見た日系人収容所  エリザベス・パートリッジ文 ローレン・タマキ絵 松波佐知子訳 徳間書店

第二次大戦中、アメリカ西海岸に住むすべての日本人と日系アメリカ人が強制収容所に収容され、「敵対外国人」として暮らさなければならなかったことを、当時収容所の写真を撮影した3人の写真家たちの写真を中心に、「日系人たちになにが起こったのか」を伝えた本。

ある属性を有している人々を、「強制収容」するということが、どういうことなのかを、この本は非常に的確に、詳しく教えてくれる。収容所に向かう日系人の一家が、小さな子どもまで荷札のようなものを付けられ、こちらを見つめている。荷札は識別タグで、そこには番号が書かれている。人間を番号で管理しようとする、ナチスの強制収容所と同じやり方だ。強制収容の告示のなかの「ペットの同行は一切認めない」という一文にも凍り付いた。小さな家族の一員を置いていかねばならないということ。それは子どもたちにどんな苦しみと悲しみを残したのだろう。想像すると胸が痛くなる。

挿絵も印象的だが、やはり三人の写真家たちの手によって撮影された写真たちが、違う角度から日系人たちの表情を切り取っていて、興味深い。同じ日系人の宮武東洋が同胞として撮影した写真たちは、写す側と移される側の距離感がほとんどなくて、表情が豊かだ。それに対して3人目の写真家、アンセル・アダムズの撮影した日系人たちは、皆笑顔、笑顔だ。「忠誠を誓うこと、善良な市民であること、真面目で働き者であること」をアピールする必要があったからだ。この笑顔は、収容所から解放されたあとも、「モデル・マイノリティ」として、日系人の人々を縛ったという。この「モデル・マイノリティ(マイノリティの手本)」という言葉は、「マイノリティ(少数派)でありながら、社会的に平均よりも成功しているグループ」を指す言葉で、アメリカにいるアジア系の人に対して、よく使われるそうだ。アジア系だからといって、皆が皆働き者で、従順なわけはないのだが、そうあらねばならないという呪縛がずっとアジア系の人たちにはかかっている。つまり、「白人の眼鏡にかなう者」としてふるまうことを求められているということで、これもまた差別の現れであるということ。なるほどと深く納得した。そして、「忠誠を誓うこと、善良な市民であること、真面目で働き者であること」という三つの価値観は、アメリカ社会のみならず、今の日本の社会の中でも、同調圧力として存在するのではないかと思う。では、私たちは誰の眼鏡にかなうために、そうふるまっているのだろう?

そして、この強制収容という極悪非道なことが、同じく第二次大戦中に日本国内においても行われていたということを、忘れてはいけないと思う。中国や朝鮮の人々を強制連行して労働させていたところがたくさんあったのだ。アメリカ政府は、日系人の強制収容に対して公的な謝罪の文書に署名し、賠償金を支払った。しかし日本は、きちんと過去に向き合うことすら出来ていない。そして、今、私たちが生きている日本のなかにも、外国人を強制収容している場所があり、人権を踏みにじる行為が行われている。そのことも合わせて考えてみる助けにもなる本だと思う。数日前に我が国でも可決した、障害を持つ人や、認知症の人などが使うことが難しいことを無視して、マイナンバーカードを国民皆保険と結びつける強引な法案のこと。人権や生存権を踏みにじる行為があからさまに行われているにもかかわらず、それを無視して、改悪とも言われる入管法を、成立させようとしていること。これもまた、数の力による暴力なのではないかと思う。この本に書かれていることは過去のことではなく、すべて「今」と繋がっていることなのだ。

かげふみ 朽木祥作 網中いづる絵 光村図書

 

「ヒロシマ」「原爆」をライフワークにしておられる朽木祥さんの最新作。

妹が水ぼうそうにかかったせいで、一人で広島にある母の実家で夏休みを過ごすことになった拓海は、近くの児童館の図書室で、白いブラウスに黒のスカート、三つ編みの透き通るような色白の女の子「澄ちゃん」に出会う。しかし、心惹かれたその子とは、雨の日しか出会えない。少しずつ話をするようになった拓海は、女の子が「影の話」を探していること、石けりやらかげふみをして遊ぶことが好きなのに「長いことあそんでない」ことを知る…。

澄ちゃんは「影」をずっと探している。『八月の光 失われた声に耳をすませて』(小学館、2017)の連作短編にも、「影」はいろんな形で、失われた命や声を呼び戻す手がかりとして登場していた。あの日さく裂した「空に現れた二つ目の太陽」は、たくさんの人を、石段や壁に、影だけ残して焼き尽くした。その影たちは長い年月の間に薄れ、人々の記憶からも消え去ろうとしている。この物語は、その影たちを、体温と顔のある、ひとりの人間として立ち上がらせ、温かい血を通わせる。儚げな澄ちゃんに、拓海はほのかな思いを抱く。一人で、慣れないところにやってきた拓海と、一人でずっと影を探してきた澄ちゃんは、どこかで心が共鳴したのかもしれない。近くにいると、日向の温かい匂いのする少女。いつも図書室にいる謎めいた澄ちゃんと、本好きな拓海は本を通じていろんな話をする。

この物語は、朽木さん自身の作品も含めて、たくさんの文学作品が登場する。『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス)のタイムスリップという、ファンタジー要素も重ねあわされ、この物語自体が、時間と空間を旅する小さな船のようだ。

よそからやってきた拓海と、すぐに仲良くしてくれた広島の友人たちと、拓海は川で古いボタンや「石けり」を拾う。それは、あの日に逝ってしまった子どもたちが残したもの。広島もまた、あの日の記憶を幾重にも隠し持つ船のようだ。いっしんに遊ぶ子どもたちのなかに混ぜてもらって、自分の「石けり」を拾ってもらった子も、きっと嬉しいだろう。ここにいるよ、という小さい声が聞こえるようだ。ふっと、見知った顔のなかに、いつもと違う、澄ちゃんのような子が遊んでいるかもしれない。そんな優しい空間が、この物語には広がっている。原爆の話はこわい。恐ろしい。子どもだけではなく、大人でもそう思ってしまいがちだ。

「うまいこと言えんのじゃけど、あの日いきなりおらんようになった人らのことをね、遺族らは、こわいとは思うとらんのよ。ただただ慕わしいっていうか……」

「『こわい』という言葉と『かわいそう』という言葉は、なんだか似てる」という拓海の言葉にはっとさせられる。自分とは違うものを私たちは畏れるが、それは異質なものを排除したい、という気持ちの現れ、無意識に作る心の壁なのだ。物語は、その壁を越えてゆくもの。本という、時間と空間を超えたタイムカプセルと共に長い年月を過ごした澄ちゃんは、拓海の心に刻まれて、これからを生きる子どもたちの希望に、未来を照らす光になっていく。何度も読んで切なくて美しい二人の物語に浸りたい。「この本は、あなたの前の扉です。/扉をあけて、「澄ちゃん」に出会ってくださいね。/わたしたちひとりひとりの「命」について、考えを深めるきっかけになりますように。」というあまんきみこさんの帯文もまた、心に沁みる。

共に掲載されている「たずねびと」は、小学五年生の国語教科書に載っている短編。「さがしています」という『原爆供養塔納骨名簿』のポスターに、「楠木アヤ」という自分と同じ名前を見つけたことが縁で、広島を尋ねた少女の物語だ。このふたつの物語を合わせて読むことで、私たちはかけがえない「記憶」への旅をすることができる。朽木さんが後書きで書いておられるように、ウクライナ侵攻により、子どもたちにも戦争は遠くのことではなくなっている。核もまた、力の顕示や政治の道具として使われることが多くなってきた。それがいかなる惨禍をもたらすのか。改めて心に刻むべきだと思う。

大塚忍 写真展 dialogue  ギャラリー南製作所 

 

 

 

 

 

 

 

4/14~4/30(日)12時~18時 (月・木休廊):大塚忍写真展「dialogue」

「水」をテーマに写真を撮り続けてきた大塚が、3年の間取り続けた55000枚から、366枚を選んだ写真展。366枚は日付順に並んでいる。すべての写真は、大塚(敬称略)が庭においた、何の変哲もない30センチほどの水桶のなかを撮影したものだ。水は基本注ぎ足すだけで入れ替えず、そこに落ち葉が入り、鳥がやってきて水を飲み、昆虫たちが生まれたり、死んだりする。

ひとつのテーマを真摯に追いかける人なのだ。水は生き物を生み、育てもするが無残に殺したりもする。その二面性が気になった、と大塚は言っていたが、ここに写っているのは、二面性を超えた混沌であり、宇宙であり、らせんでもあった。二日間かけて何度もはじめから最後まで、最後からはじめまで、そして一枚一枚を見ながら、私は「時間」というものが押し寄せ、また引いて、波のように繰り返したりするのを感じた。366枚が並んだギャラリーには、直線ではない時間が流れていて、そこに身を置くのはとても心地よく、それでいて海の底に引き込まれるような、不思議な感覚を覚えた。23日に行われた写真家六田知弘さんとのギャラリートークに参加したが、この写真たちを「存在と非存在のあわいにあるもの」と評されていてなるほど、と思った。

目に入らぬままに見過ごしてしまうもの。私たちが意識できないところで、ひそかに営まれているものにじっと目を凝らし、撮り続ける。すると、水面に映るもの、波紋、腐っていくもの、死んで堆積していくもの、ダニやごみと言われるものからどこか聖性が漂い出してしまう。永遠の匂い、ともいうべき何かが。

写真展は明日の日曜日までですが、5月2日&5月5日に延長展示があるということ。蒲田のどこか懐かしい住宅街の一角にある、温かみを感じるギャラリーです。ぜひ足を運んでみてください。

2222gmf ギャラリー南製作所: 大塚 忍写真展「diarogue」延長展示が決まりました!

 

大塚 忍×六田知弘ギャラリートーク

パンに書かれた言葉 朽木祥 小学館

元首相が聴衆の目前で銃弾に倒れるというショッキングな事件があった。犯人はカルト宗教信者の家庭に生まれた二世で、その宗教と繋がりのある元首相を狙ったとのこと。同じ宗教ではないが、私も幼い頃から新興宗教にのめり込む母に悩まされてきた。金銭的にも精神的にも、カルト宗教二世は大きなダメージを受ける。いまだに子どもの頃に叩きこまれた価値観が自分のなかに根深く存在することに気づいてうんざりする。人生の基盤をカルトに左右されてしまう子どもの辛さに溜息がでる。だからといって、その恨みを直接的な暴力に結びつけてしまうのは許されることではないのは重々承知しながら、もし彼に自分の苦しみや状況を語る、自分の言葉があったなら、もし自分で綴れないとしても、自分の痛みと響き合い、問題を可視化してくれる言葉や物語に出会っていたら、と思ってしまうのだ。

 周りがすべて一つの価値観に染まっているなかで自分の言葉を持つことは非常に難しい。抑圧は沈黙を強いるから。しかし、人間が理不尽な力に押しつぶされそうになるとき、人の心を支え、自分のいる場所を客観的に見ることで怒りや絶望を別のエネルギーに変えてくれるのは、「言葉」なのだと私は思う。例えば、隠れ家の日々を批判精神と真摯に思考する言葉で日記に綴ったアンネ・フランクのように。

 この『パンに書かれた言葉』という物語は、イタリア人の母と日本人の父を持つ少女、光・S・エレオノーラ(通称エリー)が、東日本大震災をきっかけに、第二次世界大戦下のイタリアでファシズムに抗おうとしたレジスタンス、そしてヒロシマの記憶を旅する物語だ。彼女のミドルネームは最後まで伏せられている。そこに大切な秘密が隠されているから。

物語は東日本大震災の日々から始まる。余震と停電が繰り返されるなか、「毎日のようにテレビに映し出される光景をいやというほど観て、心が痛いのか痛くないのかわからなくなって、しびれたみたいな感じ」になるエリー。戦争に銃による襲撃と、次々と目の前で繰り広げられる恐怖に、同じようなしんどさを抱えている子どもたちは多いのではないだろうか。エリーは両親のすすめで母の故郷であるイタリアのフリウリの村にあるノンナ(祖母)の家にしばらく滞在することになる。そこで、エリーは、ノンナから、ナチスに連れていかれ消息不明になった当時十三歳だった親友のサラと、レジスタンス活動に身を投じたために十七歳で処刑されてしまったノンナの兄、パオロの話を聞くことになる。パオロは、処刑前に一冊のノートと、自分の血である言葉を書き記したパンを残していった。ノンナはずっとそれを大切にしてきたのだ。

世界中に報道されるほどの大震災があった日本からやってきたエリーに、ノンナがナチス支配下の記憶をしっかり話して聞かせるのがとても印象的だ。ノンナはエリーに、素晴らしい家庭料理を作ってくれる。(これがもう、たまらなく美味しそうで涎が出る)その一方で、人間の罪の暗い淵をのぞき込むような過去の記憶を語り、しっかりエリーに伝えようとする。ヨーロッパにおける戦争の記憶の継承のあり方は、特に加害の過去に蓋をしがちな日本とは全く違う。ガス室に送り込まれた人たち、レジスタンス活動で殺されていった人たちの声を、顔と名前を取り戻し、決して忘れない記憶としてすべての子どもたちが継承していくことが大前提なのだ。エリーは、サラとパオロの話をノンナから聞くうちに、これまで、心のどこかで自分と無関係だと思っていたアウシュヴィッツの光景が、まるで今目の前で起こっていることのように思えてくる。どこかの見知らぬ人ではなく、顔と名前のある存在として人間を取り戻す、というのはこういう営みなのだ。

イタリアから帰ってきたエリーは、今度が自分から広島に行き、祖父母が体験した原爆の話を聞き、広島平和記念資料館で、やはり十三歳で被爆し、死んでいった祖父の妹、真美子の写真に出会う。なぜ、真美子は体中を焼かれて死ななければならなかったのか。戦後もピカドンに焼かれた人たちは、差別と後遺症に苦しみ続けた。エリーの祖父母のヒロシマの記憶は、フクシマへ繋がっていく。

チェルノブイリ原発にロシア軍が侵攻し、世界中が震え上がったのは、つい数か月前のことだ。恐ろしかったのは、ロシア軍が、チェルノブイリでも特に放射線量の高いことで有名な森に野営し、兵士たちが被曝したことだ。チェルノブイリの記憶が、全く彼らには共有されていなかった。決して忘れてはならない記憶が、継承されていなかったのだ。ヒロシマもフクシマも、チェルノブイリも、ショア―(ホロコースト)も、決して過去のものではない。現在進行形の、いつわが身にふりかかるかもしれぬ未来でもある。その未来を生むのは、忘却と無関心なのだ。

パオロが処刑前に、自分の血でパンに書き残した言葉が何かは、読んで確かめてほしい。いつまでも、まるでゾンビのように戦争と暴力を繰り返すのを、「人間ってこんなもの」「弱いものがやられるのは仕方ない」などとうそぶいてやり過ごすのは、もういい加減やめにしよう。言葉の力を信じて、素敵なミドルネームを持つエリーとともに何度も記憶をめぐる旅に出よう。美味しいものもたくさん出てくる、愛しい人たちと出会う旅に。大切な人々から聞いたそれぞれの記憶が少女の心のなかで輻輳し、お互いを照らし、響き合いながら、少女の視界を開いていく。共に旅する私たちの心の扉も。だからなのだろうか、辛く悲しい記憶への旅なのに、読後感は優しい光に満ちている。

一冊の本は大切な記憶への扉だ。ただ、羅列的に知識を得るだけなら、ネットでも出来る。しかし、他者の経験や心の動きを通じて歴史の奥行きを体験し、心に刻むことができるのは、厚みを供えた本への旅が必要なのだ。戦争と暴力の恐怖が世界中を駆け巡っている今、この本が刊行された意味はとても大きい。暴力に、同じ暴力で立ち向かおうとする負の連鎖を断ち切るのは、痛みや苦しみへの真の理解と共感を促す言葉の力であることを信じてやまない。

 

 

うまれてそだつ わたしたちのDNAといでん ニコラ・デイビス文 エミリー・サットン絵 越智典子訳 斎藤成也 監修 ゴブリン書房

 

国とは何だろう。国という大きな枠組みに属していないと、わたしたちが人間らしく生きることは難しい。しかし、「国」というアイデンティティは、私たちを形作る複雑な、無数の要素のたった一つにすぎないはず。好きな音楽、食べ物の好み、どんな家に住み、どんな仕事をしているのか。映画の好みや、それこそ推しのアイドルに至るまで、ひとりの人間のなかには、無数のアイデンティティがある。それなのに、たった一つ、国という帰属のために、敵と味方に分かれて殺しあわねばならぬという価値観に縛られる理不尽から、そろそろ自由になってもいいはずだ。

 

「すべての いきものが、うまれて そだつ」という文章と生き物たちの鮮やかな絵からはじまるこの絵本は、DNAという生き物の「せっけいしょ」について、わかりやすく楽しく教えてくれる。驚くほどはやく成長するもの、長い時間をかけるもの。大きく成長するもの、小さいサイズでおとなになるもの。環境にあわせてDNAの設計書がつくりかえられ、驚くほど多様な生き物たちが、この地球上に生きているという奇跡がどのようにこの青い星に満ちているのか。その理由が科学の力でわかりはじめたからこそ、なお募る不思議さと豊かさが、ぎっしりとこの絵本には描きこまれている。

 

様々な肌の色、髪、体格、服装をした人たちが100人以上いる駅を描いた頁と、動物や植物たちが300種類近く(正確に数えるのが難しいほどたくさん!)も描きこまれた頁が呼応するように配置されているのは、考え抜かれてのことだろう。様々な人種に分かれているように見えるが、私たちは「人間」という大きなひとつの種だ。肌や髪の色の違いは、多様性というDNAの生存戦略。人間のDNAという設計書は、ひとりひとり違うけれども、「わたしたちは みんな おなじ、にんげんだから。」地球上のほかの人たちとも似ていること。そして、地球上のすべての生き物の設計書も、どこか同じところがあって、「みんなが おおきな かぞく」であること。大きな命の樹に実る果実のように。

 

見かけも、生き方もこんなに違う生き物がいる地球の不思議と、それが塩基というたった4つの文字で書かれた暗号から、出来ているんだという驚きを何度も味わいたい。科学は、積み上げられた事実に裏打ちされた大切なことを教えてくれる。動物学者であるニコラ・デイビスは、科学者の視点から、命の不思議を教えてくれるが、そこには深い祈りがあると思う。どうやら、私たち人間の遺伝子には、ある条件がそろうと発動する残虐さが組み込まれている。ゾンビのように蘇る戦争を、これほど繰り返しているのだから。しかし、この血塗られた呪いを解く鍵もやはり私たちのなかにあると思いたい。ニコラ・デイビスは、その鍵のひとつを、子どもたちに手渡したいと思っているのではないだろうか。彼の書いた『せんそうがやってきた日』(レベッカ・コップ絵、長友恵子訳、鈴木出版)という絵本もぜひ読んでほしい。もう、大人たちの憎しみに子どもたちが殺されるのは、たくさんだ。

2021年4月発行

日・中・韓平和絵本 へいわって、どんなこと? 浜田桂子 童心社

今こそ確認したい「へいわ」(平和)の原則

 

お昼時に寄った焼き立てパンの店で、支払いの列に並ぶお父さんと小さな男の子。多分家族の分もなのだろう、パンを溢れんばかりにトレイに載せて「たくさん買っちゃったねえ」「ちょっと買いすぎちゃったねえ」と話していた。温かいパンを抱えた二人を迎える家族の声も想像して、幸せな気持ちになる。同時に、男の子の笑顔にウクライナの避難シェルターで「死にたくない」と泣いていた男の子の泣き顔がかぶり、心が曇る。

 

浜田桂子さんの『へいわって、どんなこと?』というこの絵本を、『戦争と児童文学』の原稿を書いている間、何度も開いて読み返した。戦争の記録を読めば読むほど、この絵本に描かれている「へいわ」(平和)の原則が、まさに原則として的を射ていると思ったからだ。この絵本は平和という抽象的な言葉が具体的にどういうものなのかを、子どもの目線で描いている。注目すべきなのは、その言葉が、すべて「せんそうを しない」「ばくだんなんか おとさない」とすべて決意表明としてはっきり言い切る形になっていることだ。

 

この絵本は「アジアの絵本作家と連帯し、一緒に平和の絵本を作る」というプロジェクトの中から生まれている。各国の絵本作家が集まる南京でのディスカッションの場に持っていくこの絵本の試作では、浜田さんは「ばくだんが ふってこないこと」と受け身の表現として描いていた。しかし、「日本の被害者意識を表している」という意見が出て、話し合いを繰り返すなかで、浜田さんは被害者意識に偏っていた自分の平和認識を見つめなおす。そして「被害認識も戦争の実相を知る上で大事だけれども、本当に戦争を拒否するためには、加害意識を持つことが必要だ」と思うようになったという。(「好書好日」https://book.asahi.com/article/13568012 より)

 これはとても大切な認識だと思う。なぜなら、戦争はまず正義の名のもとに始められるのが常道であり、国民の被害者意識に訴えることから始められるからだ。今回のプーチンによる侵略も、「我々は平和的な解決を目指してきたが、これ以上我々の主権に対する脅威を許すわけにはいかない。ドンバスで行われている残虐行為から人々を救うための派兵」という大義名分が掲げられている。ナチスドイツも、戦争を始めたときの日本も、全く同じ理屈で他国を蹂躙していった。どんな大義名分を唱えられても、どんなに被害者意識を喚起させられようとも、殺し合いである戦争は絶対にしない、武力に対して「No」と言い切ることが、この巧妙なプロパガンダに飲み込まれない意識を育てる。そう思う。テレビで日本の防衛大臣が、チャンスとばかり軍備増強を口にし、首相経験者の国会議員(自称プーチンの友達らしいが)が、あろうことか核兵器の配備まで言い出す始末だが、その発想はプーチンが陥った過ちと同じ道をたどるものでしかない。軍備増強や核配備はますます国同士の緊張を高め、攻撃される糸口になってしまうだろう。誇大妄想にとりつかれた為政者が、防衛と称していたずらに巨大化した軍事力を手にしたとき何が起こるかを、私たちは今目にしている。愚かにも同じ轍を踏めば、次世代の子どもたちに恐ろしい苦しみをもたらしてしまうはずだ。

『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争』の著者スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチは、「血の時代、武器の時代、暴力の時代は去ったのです。そして私たちは、命というもののとらえ方を、今までとは違うものに切り替えるべきなのです。」(文藝2021年冬号・インタビュー(「抵抗するために『聞く』、アレクシェーヴィチの今」)と述べている。彼女はウクライナの隣国ベラルーシで弾圧を受け、国外滞在中だ。暴力で他者をねじ伏せようとするやり方は、もはや過去の遺物として葬り去らねばならない。NHKが放映したイギリス制作の「プーチン政権と闘う女性たち」というドキュメンタリーを見た。ただ選挙戦に立候補したいだけの女性たちを逮捕・監禁するなどというのは、血なまぐさいソ連・スターリン時代の再来でしかない。ロシア国内でも、プーチンのやり方に抵抗しようとして闘い、傷ついている人たちはたくさんいる。「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる」ことを許さない体制など、ロシアの人々も、もういらないはずだ。

この絵本に書かれている「へいわ」(平和)の原則を、世界中が共有できるようになればと心から思う。「現実はそんなに甘いもんじゃないよ」「お人よしは潰されるだけ」と冷笑されても、「お花畑」と笑われても、何度も何度も言いたい。この原則を、何度も声に出して確認したい。かがり火のように世界の片隅から掲げたい。

 

「へいわって ぼくが うまれて よかったって いうこと。」

「へいわって きみが うまれて よかったって いうこと。」

 

子どもたちが、この言葉を笑顔で言える世界を作ることこそが、政治の目的であり、大人たちの責任であるということを。

 

『戦争と児童文学』繁内理恵 みすず書房 2021年12月10日刊行のお知らせ

この評論集は、雑誌『みすず』二〇一八年四月号から二〇二〇年六月号にかけて十二回連載したもののうち、十篇を選んで加筆・修正を加えたものです。連載は隔月で、枚数も限られていたこともあり、刊行にあたり、随分書き直しました。お手にとって頂けると幸いです。

ここ数年、戦争に関する本を多く読みました。まだまだ勉強し足りない身ではありますが、それでも読めば読むほど、戦争が「今」と深く関係していることを知りました。児童文学が描いてきた戦争。そのなかで必死にもがく子どもたちの姿は過去のものではない。その思いが、この連載と改稿を続けられた原動力のひとつであったと思います。
そして戦争と文学という果てしなく巨大なテーマに打ちひしがれる私を支えてくれたのは、児童文学に込められている愛情と光です。戦争という絶望と狂気ののなかから、作者たちが掲げてくれた灯は、未来を照らしてくれる羅針盤です。そんな児童文学の奥深さと豊かさが、少しでも伝わる本になっていればよいのですが。収録された評論は次の十篇です。

・小さきものへのまなざし 小さきものからのまなざし――越えてゆく小さな記憶  朽木祥『彼岸花はきつねのかんざし』『八月の光 失われた声に耳をすませて』

・命に線を引かない、あたたかな混沌の場所――クラップヘクのヒューマニズムの懐に抱かれて  エルス・ペルフロム『第八森の子どもたち』

・空爆と暴力と少年たち――顔の見えない戦争のはじまり  ロバート・ウェストール『〝機関銃要塞〟の少年たち』

・普通の家庭にやってきた戦争――究極の共感のかたち、共苦compassionを生きた弟  ロバート・ウェストール『弟の戦争』

・基地の町に生きる少女たち――沈黙の圧力を解除する物語の力  岩瀬成子『ピース・ヴィレッジ』

・国家と民族のはざまで生きる人々――狂気のジャングルを生き延びる少年が見た星(ムトゥ)  シンシア・カドハタ『象使いティンの戦争』

・転がり落ちていくオレンジと希望――憎しみのなかを走り抜ける少女  エリザベス・レアード『戦場のオレンジ』

・核戦争を止めた火喰い男と少年の物語――愛と怒りの炎を受け継いで  デイヴィッド・アーモンド『火を喰う者たち』

・歴史の暗闇に眠る魂への旅――戦争責任と子ども  三木卓『ほろびた国の旅』
三木卓と満州

・忘却と無関心の黙示録――壮絶な最期が語るもの  グードルン・パウゼヴァング『片手の郵便配達人』

巻末に、取り上げた作家の作品、そして戦争を描いた児童文学のブックリストを載せています。ぜひ、そちらもお手に取っていただけますように。

さくら村は大さわぎ 朽木祥作 大社玲子絵 小学館 

久しぶりの朽木さんの新作。春らんまんのさくら色の表紙に心が躍る。

表紙を開くと「風色湾」という文字。朽木ワールドファンにはなじみ深い場所だ。
ああ、久しぶり、と嬉しい物語の空気を深呼吸する。

 

風色湾の「さくら村」では、子どもが生まれたら、庭にさくらの木を一本植える約束がある。だから、春には村中がさくら色。トウモロコシ農家のハナちゃんこと「わたし」を語り手に、村の子どもたちと大人たち、そして動物たちが繰り広げる、ささやかで、それでいてわくわくする毎日。海と森と湿地がある、自然豊かな村には、季節の移り変わりと共に心躍ることがたくさん起こる。それを心待ちにするのは、なんて素敵なことなんだろう。何より、この村は、風通しが良くてとても居心地がよさそうだ。ずっとこの土地に住んでいる人も、新しく引っ越してきたパン屋さんの一家も、カワセミじいちゃんも、いたずら者の双子も。海からの風に吹かれて、助け合って気持ちよさそうに暮らしている。とても包容力のある共同体なのだ。
 

村には時々事件も起こる。トウモロコシ畑にニワトリと、お腹をすかせたドロボウがやってきたりもする。このもじゃもじゃさんというドロボウの行く末がとても気になったのだけれど、この村の包容力は、行き場のない人をちゃんと受け止めて、温かい。最後まで読んだとき、それがどんなに嬉しかったか。心に染みたか。きっとこの村は、子どもたちの、とっても素敵な心のふるさとになるだろうなと、確信した。

毎週楽しみに聞いている高橋源一郎さんのラジオ「飛ぶ教室」の2月5日の回で、高知の沢田マンションが紹介されていた。夫婦二人で作り上げた沢田マンションは、実に自由な造りの融通無碍な場所で、ご夫婦は、困っている人がいれば、保証人だ、入居審査だということは何も言わずに、目を見て大丈夫だと思えれば部屋を貸すという方針だったらしい。従って、沢田マンションは、様々な事情を抱えた人たちの駆け込み寺のようになっていたという。高橋源一郎さんの、こういう場所を「アジール」というのだという言葉が、胸に響いた。困っている人を、ごく自然に懐に入れてしまえるような場所。思えば、文学もひとつの「アジール」だ。ここに帰って来れば、心がほっとやすらいで、人を信じる気持ちになれる。生きる喜びを感じることができる。そんな場所がどんなに大切なことか。

 
この「さくら村」は、リンドグレーンの「やかまし村」のように、子どもたちに愛されるシリーズになるんじゃないか。だって、まだまだ語られないさくらの木の秘密がたくさんありそうなんだもの。最後にもまた、新しい秘密が増えているし。ぜひ、そうなって欲しいと、ファンは強く願っている。もっとこの村の物語が知りたい、読みたい。

2021年2月刊行 小学館

 

 

 

おむすびころりんはっけよい! 森くま堂作 ひろかわさえこ絵 偕成社

 絵本の世界は今、ボーダーレス化が進んでいて、刊行される新刊も大人を意識して書かれたものが多いように思う。絵本という表現形式はそれだけ大きな可能性を秘めているということなのだから、それはそれで歓迎されるべきことなのだ。しかし職業柄、図書館で子どもたちに紹介する目線で絵本を見てしまいがちな私には、時にこの傾向が寂しく思われることがある。昨日もこの「おいしい本箱」の相棒のkikoさんと大阪のジュンクで新刊チェックをしていたのだが、この絵本の楽しい存在感が、私にはひときわぴかぴかと光って見えた。

さんかくとまんまるのおむすびの国というのが、もう視覚的に楽しい。ふたつの国は仲が悪い。とはいえ、同じおむすびで、同じ畑で「からあげ」や「めんたいこ」の具を育てている(これもまた、おもしろい)のだから、違うのはただ形だけなのだ。似て非なるものは最も仲が悪いという。まんまるの国のおむすびたちが、なぜか大阪弁であるところをみると、東京と大阪、くらいの違いにすぎないのだが、得てして関係がこじれがちなのが常。ふたつのおむすびの国はとうとういくさをすることになる。

私がとっても素敵だと思うのはここからだ。「いくさ」がわからぬおむすびの殿様同士で、お相撲をとることになるのである。家来や一般人のおむすびを戦わせて、後ろでふんぞりかえったりしないのである。殿様が自分で身体を張って、いざ、尋常に勝負!毎日毎日自分でも呆れるほど戦争の記録を読み続けているが、こんなにいい争いごとの解決方法は見たことがない。兵器もなにも使わずに、まわし一つで健気に相撲をとる殿様ふたりが可愛くて、しかももの凄い熱戦なのである。ふたりとも応援したくなるではないか。そして熱戦のあとは・・・これはもうこの作品を読んで確かめていただきたい。爆笑して、ほっとして、おいしいおむすびを頬張ったときのように笑顔になれる。

ここに描かれているのは「人間」への信頼だ。おむすびのように、中身はおんなじなのに、ほんの少しの肌色や、うまれた場所や、その他もろもろ、そんなんどっちでもかまへんのと違いますか、ということで対立しあう人間の業のようなものは確かに存在する。それが人間やねん、弱い方が滅びていくのは当たり前や、そやから強う、誰にも負けへんようにしとくもんや、そうやろ、という声は、いろんな形で迫ってくる。子どもたちも、日々その価値観に追い回される。しかし、私たちの喜びは、この絵本の最後のページ、色も形も味も違うおむすびたちが、思いのままに楽しんでいる、この風景そのものにある。ここを目指してきた力が、様々な時代を生き抜いてきた人間には必ず備わっている。そう思わせてくれる。

何よりいいのは、こういう深読みさせてくれるテーマをはらみつつ、あくまで楽しいユーモアと、おにぎり一つ一つが活き活きしている絵の素晴らしさで「面白い!」ということを堪能させてくれるところであることも申し添えておきたい。コロナでしんどい今、子どもと一緒に大笑いして、何度も楽しめる一冊。

セイギノミカタ 佐藤まどか作 イシヤマアズサ絵 フレーベル館

「正義」ってなんだろう。正しいことってなんだろう。アンパンマンも仮面ライダーも、悪人をやっつける正義の味方は大人気のはずなのに、なぜか日々の暮らしのなかで「正しいこと」を言うと嫌われる。「偽善者」「ええかっこしい」「いい子ちゃん」などと言われ、疎まれる。
例えば、この物語の主人公のキノは、すぐに顔が真っ赤になることを気にしている。それをクラスメイトのお調子者のタイガが目敏く見つけてからかいのネタにしてくる。キノは心のなかではムカつくけれど、はっきりと「やめろ」とは言えない。そんな空気を読まないことを言うと、余計にからかわれるだけだから。そんなとき、空気を全く読まない、セイギノミカタの周一が「やめろよ!」とやってくる。ところが、キノは助けてくれてありがとう、と思うどころか、そうやってしゃしゃり出てくる周一がウザくてたまらない。よけいなお世話なんだよ、ほっといてくれよ!と思ってしまうのだ。タイガの悪ふざけはますますエスカレートし、それに対する周一のリアクションも大きくなってキノはどうしていいのかわからなくなってしまう。前の席のひとみちゃんは、そんなクラスの雰囲気に流されず、いつもクールに本を読んでいる。
あるよね、こんなこと!と共感できるシチュエーションを自然に描くことができる筆力はさすが。その上で、キノと周一、そして飄々とマイペースで知的なひとみちゃん、という三人のキャラが活き活きとしているので、語り手としてのキノに感情移入しながら、いろんな角度からこのささやかで、でも、解決しにくい出来事を眺めることができる。私ならどうするかな。こんなにはっきり、自分の意見が言えるかな。どうして、いつも正しいことを言う周一を、みんなうっとうしく思うのかな―知らず知らずのうちに想像してしまうに違いない。ブレイクしたブレイディみかこさんの『ぼくはイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)の言葉を借りるならエンパシー、他人の靴を履いてみる体験ができる。
正しいことを正しい、というのは勇気のいることだ。そして、正しいことや正義、というのもまた考え出すと難しい。この物語のこの本のタイトルの「セイギノミカタ」は、正義の味方と、もう一つ「正義の見方」という意味も含んでいるように思う。大抵の戦争は正義を唱えることから始まるし自分にとっての正義が相手にとってもそうだとは限らない。そして社会の構造的な暴力のあり方を考えていくと、その根っこが自分のなかにも生えていることが、否応なく見えてしまう。私のなかに、タイガもキノも、ひとみちゃんも、周一も住んでいるけれど、一番やっかいなのはタイガの作った空気に便乗して流されていく、その他大勢でいたい自分だ。アニメや時代劇の正義のヒーローはわかりやすい小悪人をやっつけるから胸がすく。でも、自分との戦い方は教えてくれはしないのだ。最後にキノが見せた勇気が、この社会を変える一歩。この光をつぶさないようにしたいと心から思う。空気を読んで、強いものに流されてきた一人一人のあきらめが、今の私たちの社会のどうしようもなさを作り上げているように思うから。

 

コロナ日記 2020年4月5日

 

 コロナ日記 2020年4月5日

.・コロナの感染死者数が国内で100人を越えた

・大阪の感染者数 新たに41人 累計387人

・政府がコロナ終息後に二兆円規模の観光・飲食支援の方針

 

ええっと・・・この政策のネーミングが「Go To Eat」「Go To Travel」というらしいのだが、これ、知識の乏しい私でもアカンと思うヘンな英語だ。東大卒の官僚たちは、このネーミングに誰も異を唱えなかったんだろうか。「総理、さすがです」とか言って揉み手しているお取り巻きの図が彷彿とするが、もう、その絵に描いたような馬鹿さ加減に吐き気がする。

もうこの感染症で、公式に発表されているだけで70人の方が亡くなっているのに。海外では死者が5万人を越えた。

 

コロナ日記2020年4月4日

コロナ日記2020年4月4日

 

・大阪における感染陽性者数 346名

・全国の医療従事者 151名感染

 

素人目にも感染爆発は近いと思われてならない。国からは何の具体策も提示されない。

医療現場はぎりぎりの状態だという。これから発症しても治療してもらえるのかどうかもわからない。この状況のなかで、家のなかをどう清潔に保つか、ウィルスを持ち込まないか、日々神経質になっていく自分がいる。夫や息子はいまいち危機感が薄いのが、またいらだちの元になり、ストレスが溜まっていく。買い物にもあまり出たくはないが、やはり日々足らなくなるものはあり、スーパーやドラッグストアに行く。そしてふらふらと、除菌グッズを買いたくなる。4匹の猫がいて、日々あちこちで色々な落とし物をしてくれるというのもあって、拭き取り用のシートなどは確かにいくらあっても足らないぐらいだ。しかし、それ以上に、弱っている心が、除菌グッズに引きよせられる。アルコール系はほぼ皆無で、豊富に売っているのは手洗い石けんの詰め替えぐらいなのだが。恐怖は人の弱さを増幅させる。いや、私の弱さというべきか。

 

職場の大切な友人が、ご家族の介護で退職することになった。十年以上共に働いた、とても有能で、よく気がついて、信頼できる人。これからもずっと一緒に働けると思っていただけにショックは大きい。ご両親が体調を崩されたときと、このコロナウィルス騒ぎが重なってしまったのが、何とも辛い。病人を抱えながら、この難局を乗り切らねばならないストレスを思うと、背筋に冷や汗が浮いてしまう。高齢の母と暮らす私だって、明日は我が身だ。病気や障害を抱えた家族とともに暮らす人。デイケアなど、公的な援助を受けながらやっと日々を送る人たちの大切な支えを、このコロナが奪ってしまう悲劇も、もうあちこちで起きているに違いない。にも関わらず、国は大企業に気前よくお金を渡すことしか考えていない。このことを、絶対に忘れない。この駄文を毎日綴ろうと思ったのは、忘れないためだ。

 

コーヒーを入れる。香が立つ。そのたびに、ほっとする。

庭のフリージアが甘く香る。ああ、まだ大丈夫だと思う。

陽光が降り注ぐ庭には、バラの新芽が赤く萌えて、命が漲っている。

ただただ、圧倒される。彼らの強さに。

 

今日読んだ本 『詩の言葉・詩の時代』三木卓 晶文社

コロナ日記2020年4月3日

コロナ日記 2020年4月3日

 

 自分の覚え書きとして。

 

・本日の大阪における陽性者数 累計311名

・政府より困窮生活者への支援として一世帯あたり30万支給との発表

・フリーランスを含む個人事業主に最大100万円、中小企業に最大200万円の現金給付を検討

・日本中のツイッター民と海外から、昨日発表された一世帯あたり二枚の布マスク配布が「アベノマスク」と失笑を買う

・大企業には一千億円出資案(融資ではなくて、出資というところがキモ)

・ロシアなどの食糧供給国が、輸出から自国消費へと方針切り替え

  昨日の布マスク二枚配布にも腹が立ったが、それ以上に怒りが沸騰したのが、「新型コロナウィルス感染症による小学校休業等対応支援金」から風俗営業者を除外したこと。セックスワーカーの女性たちをなぜ支援から除外するのだろう。「過去に企業向けの助成金で反社会的勢力の資金洗浄に使われたことがある」という理由だというのが厚生労働省の説明だが、今回の支援の対象は企業ではなく、生活している個人だ。しかも、子どものいる家庭に対しての支援なのだから、原則全員給付するのが当たり前。偉そうにロンダリングなんて言いますけど、一日たった4100円ですよ。ロンダリング、どうやってすんねん。子どもを持つセックスワーカーの女性たちは、一人で子育てしている方も多いはず。上間陽子さんのお書きになった『裸足で逃げる』(太田出版)を読んで知ったのだが、いわゆるキャバクラなどで働く若い女性たちにはシングルマザーが多いらしい。若く学歴がなく、幼い子どもがいて、実家から援助を受けられない女性たちが手っ取り早く生活費を稼ごうと思えば、やはり接待業なのだ。これは女性が受け続けている社会的な差別構造にも深く関わることで、だからこそ手厚く手を差し伸べることこそ、行政の、国としての仕事だろう。それを冷たく切って捨てる。しのごのご託を並べてみたところで、この措置が風俗業に就く女性たちへの蔑視によるものだということは明白だ。

日々発表される支援策には、このセックスワーカーの方たちへの蔑視と同じ、命の線引きがあからさまに行われている。あんたは助けないよ、と毎日言われ続けて、コロナのストレスにまた新たな痛みが加わる。今、この国を動かしている人たちにとって、人間と認識されているのは、ごく一部の一流企業に勤めている、時々偉そうなことばかり言う、首相とお友達の経団連のお歴々だけなのだろう。この国に生きる人間の顔が、彼らには見えていない。文学と、哲学を切り捨ててきた彼らには。

じわじわと黒い水が足元を浸すようなウィルス感染の不安を解消するどころか、ますますストレスをかけてくる政府にこそ、私たちは殺されるかもしれない。

月白青船山 朽木祥 岩波書店

この物語のプロローグをもう何度読み返したことだろう。追っ手の気配を感じながら闇の中で笛に隠された瑠璃を塚に埋める若者。若者を導くような、妖しく光る白猫。この幻想的かつ、若者の血と汗の匂いまで感じるほどの緊迫した空気に肌が総毛立つような気さえする。ここから、引きずり込まれるままに物語にのめり込んでいく気持ちよさは唯一無二だ。物語は一旦夢から醒めたように現代へと移り、兵吾と主税という古風な名前を持つ兄弟が登場する。ある事情で夏休みの間東京を離れ、父の生まれた古い家に滞在することになった二人は、近所に住む靜音という少女と犬のダンと共に、不思議な場所と現実を行き来する一夏を過ごすことになる。

鎌倉には、八〇〇年近く前からの落ち武者の道である切り通しがそのまま残っているという。三人と一匹は、その切り通しから、時が止まったまま流れない村に迷い込む。その村の桜はつぼみのまま咲くこともなく、人々は闇に食い尽くされそうになりながら恐れと不安の日々を繰り返している。三人と一匹は、村人に失われた瑠璃を取り戻してほしいと頼まれるのだ。現代に帰ってきた彼らは、「星月谷」「大姫」「瑠璃」という言葉を道標に、鎌倉に秘められた悲しい伝説に迫っていく。歴史という地層が積み重なっている鎌倉という土地の魅力、小さな手がかりから謎を解き明かしていく探偵の謎解きのような面白さ。吾妻鏡をベースにした古典世界に触れる典雅な趣。あちこちにちりばめられている、次の本への扉。開けても開けてもきりが無い玉手箱のような作品世界の深みにため息が出る。これだけの複雑な構成をするりと読ませる手腕はさすがとしか言いようがないが、何より心打たれるのは、子どもたちが歴史や時間の壁を越えて、悲しみや痛みに閉じ込められた過去の魂を解放していくところだ。

この物語には幾つかの時代の深い悲しみが、夜空を貫く天の川のように流れている。いや、流れているならば良かったのだ。理不尽にもぎ取られ、踏みにじられたまま置き去りにされた悲しみ。その過ちを解放するのは、「不思議なできごとを苦もなく信じられる」子どもの力だ。その力は物語の力そのものでもあるし、大人の心に秘められた子どもの心を取り戻すことでもある。時間が止まった村の人々の願いを叶えたいという子どもたちの行動が、現在を生きる大人の心もまた動かしていく。ミッションを果たした子どもたちが見た鮮やかな風景は、その力の具現化したものなのかもしれない。「歴史とは過去と現在の対話である」とE・H・カーは述べている。まるで自分と関係なさそうな歴史の出来事が、実は現在と地続きの場所で繋がっていることを子どもたちは実感する。鎌倉という歴史と深く結びついた土地で、過去との対話を通して開いた心の扉は、未来を開く扉でもあるはずだ。物語への旅は、すぐに現実を変えるものではない。しかし、この旅で子どもたちと読み手の心には、先の見えない未来へ進むときの方向感覚のようなものが宿るのではないだろうか。いつか、この物語を手に鎌倉を旅してみたい。靜音や兵吾や主税とともに、輝く星空を眺めてみたい。

2019年5月 岩波書店