夜の小学校で 岡田淳 偕成社

夜の小学校には、昼間とは違う時間が流れています。この物語は、夜の小学校の中から生まれたちょっと不思議な短編集。頁をめくるたびに、新しい扉が開きます。そこから吹いてくる風は、心に幸せなざわめきを残していくのです。御自身の手による素敵な挿絵と一緒に、大好きな岡田ワールドに浸りました。

主人公の「僕」は、桜若葉小学校というところで、夜警の仕事をすることになります。にぎやかな子ども達の声が溢れている昼間とは、違う顔をしている夜の校舎や校庭。そこには、不思議なお客様がやってくるのです。ほんとに夜の小学校で、こんなあれこれに出逢ったら・・・きっと、ちょっと怖い。でも、その隠し味のような怖さが、物語の醍醐味です。岡田さんの物語には、『二分間の冒険』『選ばなかった冒険』『ふしぎの時間割』など、学校を舞台にしたファンタジーがたくさんあります。『二分間の冒険』『選ばなかった冒険』は息子たちも大好きで、何度も何度も読みました。小学校を舞台にしたファンタジーは、岡田さんの魅力溢れる独壇場なのです。子どもたちにとっては、人生の半分を過ごす場所が学校です。いつもの見慣れた風景である学校。でも、ふと忘れ物を取りに帰った夕方の教室や、いつもは来ない日曜日のがらんとした校庭、気分が悪くなって行った保健室のベッドに寝転がって見上げた空の青さに、ふっと違う時間の流れや空気を感じてしまう・・・それは、生まれて初めて感じる異世界への、つまり物語への扉。一瞬で見失いそうになるその扉を、岡田さんは絶妙なタイミングで開けてみせます。長年小学校に勤務されて、学校の隅々まで知りつくしておられる、ということもあるかもしれません。そして、その長年過ごしておられた場所を見つめる瑞々しい眼差しと感性が、素晴らしいと思うのです。

この物語の「僕」は、若い頃の岡田さんご自身が投影されているようにも思うし、これから物語を書こうとする人、これから未来を切り開いていこうとする人への、優しい励ましも投影されているように思います。アライグマに「いろいろなしごとをしたことが力になるんですね」と言われて、「―そうだったんだ」と気がつく僕。日常の中に潜む不思議を発見する。それは、見慣れた風景を一変させる物語の力を得ることに繋がっていくのでしょう。『図書室』という短編では、本たちが静かに扉を用意して、開けてくれるのを待っています。学校という場所は、子どもたちにとっていつも幸せなところではありません。自分の小学生の頃を思い返してみても、まことに生き抜くのが大変だったとしみじみと思うのです。同年齢の子たちが何十人もひとつの部屋に揃う、あの人間関係を思い出しただけでも、もう無理と思ってしまう(笑)大人になった今なら、笑い話ですみます。でも、学校という逃れられない密室で自分の居場所がゆらぐ、あの不安は、真剣に辛いものでした。でも、本という扉を開ければ、私はいつも自分だけの時間を過ごすことが出来た。そこには、果てしない自由がありました。今、子どもをめぐる環境は、のんびりしていた私たちの頃とは比べ物にならないほど様々な難しさに満ちています。だからこそ、本当はもっと物語の力は必要なのだと思うのですが・・・児童文学というジャンルにおける物語の紡ぎ手は、少なくなってきているようにも思います。児童文学では食べられない。出版部数も限られていて、大人の文学に比べると、あまり注目されなかったりします。でも!でも、です。子どものときに、胸がわくわくするような物語に出逢わなければ、大人の本を読む人口だって、減ってしまうと思うんですよ。岡田さんも、密かにそんな危機感をお持ちなのかもしれないな・・・この本を読みながら、そんなことを思いました。

主人公の「僕」は、大好きな『ドリトル先生航海記』の扉を開けて、幸せな気持ちになります。

「本はいつだってああして待っているんだ」

子どもの心を受け止め、、時間と空間を超えて新しい場所に連れていってくれる・・・そして、懐かしい友達のように、いつも変わらずそこにいてくれる、本。本は一生の友達になってくれます。心から本を愛する岡田さんの気持ちが、溢れてくるような一冊でした。

by ERI

2012年10月

偕成社

ラビット・ヒーロー 如月かずさ 講談社

自信満々な男の人が苦手です。どちらかというと、ちょっと自信なさげな繊細な人の方が、守ってあげたい感じがして好みかな(知らんがな)そういう意味では、この物語の主人公宇佐くんは、ツボでした。(もっと知らんがな・・・)特撮ヒーローものが大好きな高校生・宇佐くんが、本物のヒーローのようなかっこいい先輩・日高さんに誘われて、ローカルヒーローのショーを作り上げるお話です。出来のいい兄に押されて、ずっと自信なく生きてきた宇佐くんが、初めて自分の意見と力を発揮して少しずつ世界を広げていきます。濃いキャラたちのきめ細かい心理描写とテンポのいい文章で、最後までぐいぐい引き込まれて読みました。その昔、体育祭や文化祭で、あれこれ皆で悩みながら必死になって何かを作り上げた高揚感を想い出します。始めは何だかんだと足並みが揃わなかったりするのに、いつの間にか一つの目的に損得勘定抜きで邁進してしまう、あの感じ。一晩眠れば、すっかり疲れがリセットされる体力がある若い頃にしか味わえない、体ごとの達成感・・・久しぶりに感じさせてもらってとっても楽しかった。そんな世代のみならず、現役中高生も夢中になれる楽しい作品だと思います。

特撮ヒーローの創成期に育ったもんですから、仮面ライダーやウルトラマンシリーズ、怪傑ライオン丸やミラーマン、キカイダーに仮面の忍者赤影(ちょっと違うか)、子ども時代はありとあらゆる特撮ものを見てました。今、ローカルヒーローが日本各地で大流行りなのも、きっと私たちの世代のオジサンたちが企画にからんでるからやないかと睨んでます(笑)男子というのは、染色体に特撮ヒーローものが好きな遺伝子が組み込まれてるんでしょうねえ。この物語の主人公の宇佐くんも、傍からは「オタク」と呼ばれるマニアです。でも、彼はそんな自分に自信がない。出来のいい兄と厳しい抑圧型の母親に押され、学校でも部活もせず、ひっそりと生きる毎日。でも、そんな彼に出逢いが待っています。ひょんなことから、本物のヒーローのような日高先輩と知り合い、先輩のおじいさんが作ったというキリバロンGという本格的なマスクと衣装を使って、ヒーローになることになったのです。身長190センチ、爽やかな男前、バスケ部の英雄という、もう自分と対極の日高先輩。普通なら彼がやる役ですが、いかんせんおじいさんの作った衣装は小さかったのです。

宇佐くんは、とても人の気持ちのわかる子です。日高先輩に恋心を抱く佐倉さんの気持ち。大好きだったおじいさんを亡くしてしまった日高先輩の気持ち。日高先輩が、おじいさんの死に対して、何か屈託を抱えているらしいのにも気づくほど繊細な心を持っています。だから、人の思惑や感情を感じすぎて身動きとれなくなってしまう。でも、そんな彼は、自分の好きなものに対しては細やかな愛情を注ぐことが出来るのです。人は、そんな彼の見た目の弱さを笑うかもしれない。役立たずとなじるかもしれない。でも、本当はそうじゃない。宇佐くんのそんな繊細さや、自分の好きなものを大切に抱きしめる気持ちが、一見なんの悩みもなさそうに見える日高先輩の弱さと苦しみを知らず知らずに救うのです。それまで知らなかった自分と向き合い、内面という未知の領域に踏み込むとき、人は常に弱者なのかもしれません。物語は常に心の旅をする弱者の味方です。この物語は、まるで正反対に見える二人の心に踏み込んで、本当の強さやたくましさというものが何なのかということを考えさせてくれます。読後感もとっても爽やか。佐倉さんの双子の弟たちと、宇佐くんのやりとりにもほっこり、和ませて頂きました。とっても元気が出る一冊です。

 

by ERI

天使の午後 伊津野雄二展~光の井戸~ 神戸 ギャラリー島田

今日は天使の午後を過ごしました。朽木祥さんの著書『八月の光』の表紙の天使を作られた伊津野雄二さんの展覧会に行ったのです。場所は神戸のハンター坂にある島田ギャラリー。安藤忠雄建築の建物にあるギャラリーです。
『八月の光』

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島田ギャラリー

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にぎやかな通りから地下に降り、光だけが射す静かなギャラリーに、作品が展示されていました。伊津野さんの作品を初めて拝見しましたが・・・まさに、光が溢れてくるような喜びを感じる作品たちでした。美しいとか、芸術的とか、そんな言葉まで不似合いと思えるような、魂が震える喜びです。天上の音楽。この耳には聞こえない、伊津野さんが形になさらなければ私たちの眼には決して触れないもの。命や時の重なりに、常に深く分け入る営みを自分に課してらっしゃる方だけが表現できる言葉にならぬもの。女性の形をしている胸像は、石や木の肌触りをそのまま残して、力強く微かに微笑んでいます。そこに、私は慈しみ、命への礼讃を感じてしまいました。
そう、作品たちは一見たおやかなのですが、とても力強いのです。さっき私は「天上の音楽」と書きましたが、この個展のタイトルは「光の井戸」。伊津野さんの光は、地から射しているらしい。大地から生まれるもの。草花や石や、木や、全てのものに宿る力が、そこから溢れだしてくるようでした。伊津野さんの女神や天使は、天と地を繋ぐもの、時の隔たりを超えて私たちを結ぶ「祈り」の根源的な形なのかもしれません。・・・などとどれだけ言葉を紡いでも、あの作品の香気はとても伝えられるものではないのですが。ギャラリーの主、島田氏のお話も少しお伺いしましたが、伊津野さんはこの作品そのもののような穏やかで気品のある方だとか。「女性の形をしているけれども、性を超えた命の力強さが溢れている」(言葉そのままではありません)というようなお話をされていました。なるほど・・・。
島田氏のブログに紹介されているのですが、「幕間」と名付けられた小さな小さな本を読む天使の像がありました。壁に掛けられているので、ふわりと浮かんでいるように見える天使です。この天使がもう、なんとも可愛らしくて無垢で、一目みてすっかり恋してしまったのです。静かな喜びに満ちているこの天使が、もし私のところに来てくれたら、どんなに心やすまるだろう。そう思った瞬間、あそこを綺麗にして、この天使のコーナーを作って、その下に美しい小机を置いて、花と大好きな本を飾って・・と、一気に妄想が膨らみ(笑)おそるおそるお伺いしてみたところ、二つとも既に完売でした(泣)そうだよねえ、まさかうちの家になど、あの天使が来てくれるわけないよねえと思いながら、今もあの優しいお顔を思い出すたびため息なのです。いつか・・いつか、伊津野さんの作品をお迎えできるような御縁がもらえたら良いなと、しみじみ思った午後でした。
帰りは、ひさびさに「にしむら珈琲」で遅いランチ。

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老舗らしい落ち着きと行き届いたサービスで、おいしい珈琲もますます美味。
そして、帰りの電車の中で、ふと思い立って持ってきたディヴィッド・アーモンドの新作、『ミナ』を読んだのです。伊津野さんの作品の香気に洗われて一瞬生まれかわった心に(ほんまかいな)ミナの瑞々しい息吹が吹きこんで、ずんと心の芯に響きました。『ミナ』は、蒼ざめた天使が登場する『肩胛骨は翼のなごり』の兄弟のような物語。主人公の男の子とスケリグを助ける女の子、ミナの物語です。我ながら、このセレクトに共時性を感じてしまいました。年に何度かあるかなしかの、佳き日。まさに、天使の午後を過ごした一日でした。『ミナ』については、また明日。

 

by ERI

東京本屋めぐりの旅 3

 

  19日(金)は、やっと快晴!再び本屋さん巡りに萌え・・・いや、燃えました(笑)
まず、中央線の御茶ノ水で降りて、ニコライ聖堂へ。秋の日射しに白壁の建築が映えて美しかった。正面のステンドグラスに『太初に言あり 言は神と共にあり』とあるのが、大学と古書の街である土地柄に相応しい。

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古書街を目指して歩いていると、有名な山の上ホテルがありました。池波正太郎先生はじめ、文人が缶詰になって原稿を書いたというホテルです。そっとロビーを覗かせて頂きました。落ち着いた雰囲気の、歴史を感じさせる佇まいにうっとり。田辺聖子全集が置いてありましたよ。東京での定宿なのかしらん。写真は、ホテルの立体駐車場の建物だと思うんですが、蔦が絡まって、なにやら不思議な佇まいを醸し出していました。東京というところは、割合に緑が多くて。人の多さに疲れた心がほっとします。

 

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昔から、それこそ池波正太郎先生はじめ、いろんな方のエッセイを読んで、東京の地名などはけっこう頭には入っているんです。でも、実際に歩いてみると、なぜこのホテルが文人たちに愛されてきたのか、立地条件や位置関係を知って腑に落ちるんですよね。皇居がどこまで広がっているのか、そんなことさえ、実際に見ていないとわからない。前日に、改装の終わった東京駅のど真ん中に立って、振り返ったとき、皇居まで何も遮るものなく道が通っているのを見て、なるほどと納得感が湧いたように、自分で歩いてはじめてわかることってあるな、としみじみしました。街の在り方は、やはり歴史と結びついている。土地の記憶を感じるのが東京歩きの面白いところです。
神保町の古書街では、みわ書房さんに行きました。児童書専門の古本屋さんです。細い通路の両脇には、子どもの本がいっぱい。ここでは、『ニューヨーク145番通り』を買いました。買おうと思っていた本にふっと出逢える、縁が繋がるのが、古本屋さんめぐりの楽しいところ。

 

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ここで、もっと神保町をぐるぐるしたい気持ちをぐっと抑えて、再び中央線で吉祥寺へ。まず、「百年」という古本屋さんに行きました。古本屋さんというよりは、おしゃれなセレクトショップという雰囲気のお店。ここは、ほんとに品ぞろえがとても良くて棚を涎を垂らしながら見つめてしまいました。絵本の状態が良くて、友人はここでたくさん絵本を購入。
次に「トムズボックス」へ。ここは、小さな絵本屋さんなんですが、絵本好きには有名なお店です。まず、入口が可愛い!!カレルチャペック紅茶店の吉祥寺本店の奥にあります。

 

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「トムズボックス」は、いつもギャラリーで個展が開かれているのが有名なんですが、私たちが行った時も、<「裏庭に咲いた話」大野八生展>が始まったばかりでした。実は、この大野八生さんの絵本『カエルの目玉』を、前日教文館ナルニア国で見て、「これ、いいよねえ」と友人と盛り上がっていたのです。非常によく観察して書いてらして、それでいてとぼけた味もあって、色がとても美しい。その絵を描いてらっしゃる方と、次の日にお会いできるなんて、思わず不思議な縁を感じてしまいました。個展は『夏のクリスマスローズ』(アートン)に収録されている絵の原画が展示されていたのですが、これがまた、ほんとに美しかった。愛情いっぱいに植物を育ててらっしゃるのが、伝わってくるんです。まっとうで鋭敏な感受性の美しさが、とても心地よくて・・描かれている植物の可愛さに胸がぎゅっとしました。会場には、ご本人がいらしてて、本を買った私たちに声をかけてくださって、さらさらと本の見返しにイラストまで書いてくださいました。「何がいいですか?」と聞いてくださったので「うちの2匹の猫たちを」とお願いすると、一瞬でさらさらと書きあげる、その筆運びの見事さに感動。
この本です。

 

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書いてもらったイラストは・・・内緒(笑)。友人はクリスマスローズを書いてもらっていましたが、それもとても美しかった。ほんと、行って良かった!
そのあと、高円寺の「えほんやるすばんばんするかいしゃ」へ。ところが、ここで迷いに迷ってしまい、たどり着くのが遅くなってしまいました。ここは、外国の絵本がたくさんあります。あまり他では見たことがないような珍しい絵本がたくさん。でも、帰りの時間が迫っているのと、歩きすぎてけっこう疲れてしまったので、あまり見る時間と体力がなかったのが残念でした。ここでは、マーガレット・ワイズ・ブラウンの『よるとひる』を買いました。ワイズ・ブラウンとレナード・ワイズガードのコンビの絵本が好きなんですよ。

 

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もう、ここで体力が限界でした(笑)中央線で東京までまっすぐ帰って新幹線に乗りました。中央線沿線って、便利ですよねえ。吉祥寺も高円寺も、また行ってみたい街です。
ふう・・・あちこち行ったなあ。本屋さんばかり行った三日間。楽しかった!また、来年あたり行きたいな。

by ERI

世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密 山田航 新潮社

今の若者たちは、短歌というものをどれくらい読むんだろう。中学や高校の授業で駆け足で通り過ぎて終わり・・というのが、大多数ではないかと思うんだけれど。かく言う私も、そんなに現代短歌に詳しいわけではないのだが、こういう本を読むと、やっぱり読まなきゃもったいないな、と思う。

風の交叉点すれ違うとき心臓に全治二秒の手傷を負えり

校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け

こういう心の動きに、キュンとこない高校生はいないんじゃないかと思う・・・んだけどなあ。どうなんだろう。膨れ上がった自意識がちりちりする感じ。世界中が夕焼け、と思うむき出しの視線と、そこに漂う不安。ぎゅぎゅっと、「今」が肉薄してくる感じがする。短歌は、当たり前だけれど、千年以上の長い長い歴史があって・・・私たちの使う日本語の言葉の力と呪いのように深く結びついているもの。五七五七七という定型は、そのまま日本語の基本です。だからこそ、一つ使い方を誤ると、ただの陳腐な入れものになってしまう。言葉の力をいったん定型から引き剥がして、再び構築しなければ「今」を語る短歌は生まれないでしょう。この本は、穂村さんの短歌を山田航さんが詳しく解釈し、その解釈に穂村さん自身がコメントを付けたもの。この、山田さんの解釈がとっても面白いです。優れた「読み」は、新しい目を開かせて、作品に新しい魅力を与えるものだと、改めて感じさせられました。

穂村さんと私はほぼ同世代で、自意識の在り方とか、言葉の背景にある時代感覚とかが、理屈抜きで伝わってくるところがあります。その自分の感覚で掴んだものと、山田さんの歌人としての眼差しと心性で掴んだものの違いに、はっとさせられます。

春を病み笛で呼びだす金色のマグマ大使に「葛湯つくって」

by ERI

 

東京本屋めぐりの旅 2

 

 

18日は、まずシャルダンの展覧会へ。三菱一号館美術館です。ここは、建物とお庭がとても綺麗。

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モノクロで撮影すると、まるでパリの街角。 前日に行った東京写真を意識してか、ちょっとアート風に撮りたい感じが見えるのが、我ながらどうかと思う(笑)

 

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ここでは、『シャルダン展―静寂の巨匠』を見ました。シャルダンという人の作品を、これだけ一同に集めてあるのは初めてです。この展覧会が、とても良かった。こうして、一人の画家をじっくり鑑賞できるのは、とても贅沢なことです。いろんな作家の有名な作品を、いいとこ取りみたいにして集めてあるより、私はこういう形式の展示が好きかな。ゆっくりその世界に浸れて、世界観を感じることが出来るから。例えば、このシャルダンの展覧会でも、若い頃の静物画と、晩年の静物画とでは、全く趣が違います。晩年になるほど、画面に光が満ちて瑞々しく、描かれている果物などが命そのものに見える。生きてここにある喜び、というものが溢れている。若い頃の、自分が命そのものに輝いているときに見るものと、晩年になって見るものとでは、対象物に対する距離感が違うんだと思うんですよ。生きているということに対する慈しみや愛情が、その眼差しに感じられるんです。もちろん、技法の円熟や成長もあるでしょう。でも、あの静かな画面に溢れていた光は、紛れもなく命への愛情そのものだと思いました。その慈しみが、やはり晩年に近い年齢の私の心に沁みこんできました。年齢を重ねてわかることもありますね、やっぱり。見れてよかったなあ。
そして、改修工事が終わった東京駅を見て・・・。

 

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いつものように、銀座の本屋さん、こどもの本のナルニア国(教文館)へ。ここはとても好きな本屋さんです。落ち着いていて見やすいし、選書がとてもいいんですよ。何時間いたかなあ。2時間は優にいましたね。そして、友達とやたらにテンションがあがって本を買う、買う(笑)
これが、当日の収穫。

 

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このほかにも、絵葉書は買うわ、ちっさなぬいぐるみをお土産に買うわ、あれこれあれこれ追加で買ってたら、お店の方が「お家に本を送りますよ」と言ってくださって、大助かりでした。1万円以上のお買い上げで宅配サービスをして貰えるそうで、ほんとに助かりました。友人も、たんまり絵本を買って「どないしよ」状態だったんで(笑) でも、ショックだったのが、岩波の、既に持っている高楼方子さん訳の『小公女』、高楼さんのサイン入りがあったんですよ!うーん・・・持ってるから、迷って迷って見送ったんですが。買った友人に見せて貰ったら、可愛いイラストまで入ってる!高楼さんの直筆!高楼さんファンとしては、心が揺れる・・・。お取り寄せしようかどうか、考え中。
・・・ふと気がつけば、既に真っ暗。本にお金を使いすぎてすっかりしぶちんになった私たちは、銀座なのに、なぜかドトールでお茶と相成りました(笑)でも、銀座のドトールはおしゃれだった。

 

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あー、疲れたということで、二日目はここまで。

by ERI

東京本屋めぐりの旅 1

17日(水)から、19日(金)にかけて久しぶりに東京に行ってきました。約1年ぶりの東京です。友人と会ってゆっくりしゃべるという目的のために行ったのですが、美術館に2か所行った他は、とにかく本屋さんばかりを巡るという、ニッチな旅でした(笑)
17日は、まず恵比寿にある東京都写真美術館へ。

 

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ここは、建物がとてもいいんです。美術作品を、どんな建築で見るかというのは、けっこう大きなファクターだと思います。採光や雰囲気、空気感によって、作品の印象も違ってしまう。この写真美術館は、写真を鑑賞する、ということに特化した美術館なので、写真という表現に対して、でしゃばらず、語りすぎず、ニュートラルに雰囲気が保たれています。そこが気持よくて、気が付いたら2時間あまりが経っていたという(笑)「繰上和美 時のポートレイト」という特別展と、「機械の眼 カメラとレンズ」という写真美術館コレクション展が開かれていました。展示としては「機械の眼」の方が面白かったかな。友人が写真家なので、彼女のいろんな話を聞きながらそれぞれの作家の作品を見るのが面白いんですよ。写真というのは、一瞬を切り取る芸術。それだけに、その作品を切り取るまでの作家のスタンバイの仕方が見事にそこに現れるような気がします。そこを読みとるのも、写真の見方の一つかもしれないな・・と、彼女の解説を聞きながら思いましたね。ここはギャラリーも楽しくて、思わず長居してしまい、マイケル・ケンナの写真集と、キーホルダーを購入。マイケル・ケンナは高いんですが、この写真集はけっこうお手頃な値段で、なおかつ装丁がとても美しいんです。満足(笑)
こういう、写真だけの美術館というのは、大阪にはありません。写真、というものは、写真集で見るのもいいんですが、一つの統一された世界観の中でゆっくり向き合うほうが、まっすぐ伝わってくるものがあります。常にその機会に恵まれているのと、そうではないのとでは、写真という芸術に対する感性に差が出てくるような気がします。大阪にも、こんな美術館が欲しいよなあ・・・。今の府知事や市長じゃ、無理な話だよなあ。
そこから、代官山に移動。お目当ては、おしゃれな古着屋さん・・ではなくて、おしゃれな書店・DAIKANYAMA TSUTAYA です。確かにおしゃれでした。本や雑誌、写真集が溢れんばかりに並べてあります。分類はいたっておおらかで、食べ物、旅、ファッション、アート、小説や哲学・・・と、おおざっぱな括りはあるものの、とにかく連想に任せてどっさり置いてある感じ。外国の雑誌もありとあらゆるものがあって、とにかくにぎやか。本を探すというよりは、本と出逢うという感じです。「あ、こんなのあるんだ」と手に取って・・いったん手に取ったら、放しちゃいけません。もう二度と出会えない(笑)建て物が三つあって、どこも似たような感じで、なおかつ分類がされていないので、もう一度そこにたどり着こうと思っても、難しい。実際に、後で買おうと思っていた本の居場所がわからなくなり、店員さんに聞いたところ、店員さんもわからなかったという。「あのへんかも」という答えしか返ってこなかった。東京、代官山というシチュエーションでないと成り立たない商売かも。大阪でやったら「姉ちゃん、どこにあるかもわからんのかいな」と、おっちゃんやおばちゃんに怒られます(笑)あと、写真集も非常に雑多に並べられていて、その規則性もわからず。著者順でも、タイトル順でも、ジャンル別でもない。これは、本をとにかく分類してきっちり並べたくなる図書館員にはむずむずする環境でした(笑)・・・と、いろいろ言いながら、ここでも長々と本を見て、Coyoteの星野道夫さんの特集のバックナンバーと、ブルース・チャトウィンの旅行記を買いました。Coyoteは大好きな雑誌で、この特集号も当たりでした。復刊されて良かった・・・。

 

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これが、一日目の収穫。あとは、銀座に戻って、ひたすらしゃべって、しゃべりまくりました(笑)
長くなったので、ここで一旦終了です。

by ERI

[映画] ソハの地下水道 アグニェシュカ・ホランド監督 

ナチ政権下のポーランドで、地下水道にユダヤ人をかくまった男・ソハの物語です。原題は「IN DARKNESS」。ユダヤ人狩りが執拗に行われる地上の闇(まさに、真の闇だった・・・)から逃れて、地下水道の暗闇に隠れるユダヤ人の人たち。彼らを、金のために匿った男が、少しずつ彼らと運命共同体のような絆を作っていく物語です。
この監督の眼差しのありようが、見ていてとても好ましかった。フラットなんですよ。人間は混とんとした存在です。一人の人間の中にも愛情や欲望や裏切りや嫉妬や悲しみや慈しみや・・・様々なものが溢れています。それは、どの時代に、どんな場所にいる人間でも同じだと思います。2012年の日本に生きている私たちも、1943年のポーランドに生きている人たちも、基本は同じ。平和な時には顕在化しない感情や行動が、見つかれば即射殺という極限状況の中で、膨れ上がったりしぼんでしまったりする、それが映画の中で描かれますが、この監督は「基本は同じ」という観点をずっとフラットに保ったまま、この物語を紡いでおられたように思います。だからこそ、彼らのおかれた状況が心底怖ろしく、ひとりひとりの心の動きが心に食い込んでくるのです。これらは、全く他人事ではない。普通の顔をして生きている人間が、ギリギリのところで選択肢を迫られたとき、何を選ぶのか。そこが胸に沁みました。
この物語の主人公であるソハも、金のためにコソ泥を働くような人間です。崇高な理想など持ち合わせてはいない。金のために動く男です。でも、彼は金のために人を救うことを選ぶ人間なんですよね。作品中に、ソハと旧知の間柄である将校が出てきますが、彼は金のためにとことんユダヤ人狩りをする。殺すことを選びます。それに比べれば、遥かにソハの方がまし・・・と現代に生きる私たちは簡単に思いますが、1943年のポーランドでは、ユダヤ人を殺すより、救う方がはるかに難しい。ソハも、とにかく苦労します。しかも、助けられている方も人間です。こっちはこっちで色々ある。不倫あり、裏切りあり、家族の内輪もめもあり。ほんとに、人間って、どこまで行ってもどうしようもないもんです。そこを、この監督は隠そうともせずにそのまま描きます。でも、そのどうしようもない暗闇の中から、小さく灯る美しいものが確かに生まれてくる。暗闇に灯る光の美しさに泣けました。
ソハは、そんな気のなかったところで、つい、ユダヤ人たちを助けてしまうんです。物資を手に入れようと地上にでたムンデクが、ドイツ人将校に殺されそうになっているところを、つい、救ってしまう。坑道の中で迷子になっている子どもたちを、送り届けてしまう。ギリギリのところで、彼は人に手を差し伸べるのです。その「つい」という、言葉にならない、利益にもならない行動こそが、もしかしたら人の一番ゆるがせに出来ない価値観そのものなのかもしれません。馬鹿なことしちゃったよなあ、ってその時の損得では思っても、心の一番芯にあるものが、ふとその方向に人を動かす。地下の暗闇に生まれて、すぐに死んでしまった赤ん坊を、ソハが埋葬するシーンがあります。そこで、映画館のあちこちから涙の気配が伝わってきました。「ああ・・皆、ここで泣いてはるんやな」と。あの時、映画館にいた人たちは、皆ソハの心に寄り添っていたんやなと思うんです。自分たちと同じ、弱さを持ったソハという男の芯から生まれて育ったものが、見るものの心を満たした。あの空気が、この映画の真価を物語っていたように思います。
あの当時、アンネ・フランクの一家を匿っていたミープさんは、自分は特別なことをしたわけじゃないと、ずっと言っておられたらしいです。何人もの人間を匿う、毎日の食料の買い出しだけでも大変な想いをしたことでしょう。その中で、一度たりとも迷いが生まれなかったかと言えば、決してそうではないと思うんですよね。あの当時、苦しみや葛藤を抱えながら、それでも、ソハやミープさんのように、ごく普通の人々が迫害されるユダヤの人たちを匿い続けた。それはもう理屈でもなんでもなく、そうせえへんかったらしゃあないねん、という心の声がさせたことだと思うんです。ギリギリの時に、自分の心の声がなんと囁くか。どこに自分を連れていくのか。そこを考えさせる映画でした。ラストシーンの青空が、心底美しく、目に沁みました。そして、ラストに映し出された「人は神の名をかたってでもお互いを罰したがる」(うろ覚えなので、そのままではないかも)という言葉にうなだれました。ほんと、その通りだわ・・・。
by ERI

100%ガールズ 1st season 吉野万理子 講談社YA!EATERTAINMENT

「けいおん!」とか、「じょしらく」とか、タイトルが平仮名でキャラもきっちり萌えタイプ別に設定され、これでもか!というくらい可愛い女の子たちが出てくるという、ガールズもののアニメが人気です。うちにも二次元の女子しか愛せないヲタ男子がいるので(笑)私も一通りは見てます。(別に一緒に見なくてもいいんですけどね)そこに出てくるガールズたちは、見事に男子の妄想そのままの可愛さ。ま、現実にはおらんよね、という設定です。(まあ、あり得ない美少年BLものに萌え萌えだったりする女子と妄想度では同じ・爆)この作品も、ガールズたちの物語ですが、男子というよりは、女子が読んで楽しい学園もの。舞台は100%ガールズ、つまり女子校です。
主人公の真純は、宝塚命の母に男役になることを期待されて育った女の子。同級生に制服のスカート姿を見せたくないという理由だけで、遠くの横浜にある女子高に進学することにしたのです。初めて通う学校のしきたりや気風、初めて出逢うクラスメイト、先輩たち。新しい環境の中で、どんどん新しい目を開いて変わっていく女の子の気持ちが、鮮やかにテンポ良く描かれて、ほんとにあっという間に読んでしまいました。主人公の真純が良い子なんですよ。彼女は大切なことに自分で気づける子なんですよね。この「自分で気づく」って大事やな、と思うのです。
彼女は、男の子っぽくすることがカッコいいことだと、思っていたわけです。でも、先輩の人に対する優しい接し方や、自分が怖気づいて逃げたことに対して同級生が誠心誠意頑張る姿を見て、人のカッコよさというものが外見だけにあるわけじゃないと気づきます。
「カッコいいというのは、男とか女とか年齢とか関係ないんだ。きっと生き方の問題なんだ。」
何だか、胸のあたりがスカっとします。ほんと、そうだよね~、と真純と女子会したくなるわけですが(誰が女子やねん)誰に強要されたわけでもなく、こうして自分で獲得した価値観というのは、一生の宝物だよね、と思うんです。例えば、真純は、妹に「女子校ってネチネチしてるって、決まってるんだって」と聞いて、びくびくしていたのです。こういうもっともらしい伝聞情報って、ほんと山のようにあって、それこそネットを開けるだけでも洪水のように溢れてなだれ込んでくるし、口コミでも恐ろしい早さで伝わっていく。でも、そういう伝聞情報を頭に詰め込めば詰め込むほど、身動きがとれなくなったりします。だから、そういう伝聞情報を頭に詰め込むことを「仕入れる」というのかも。ただストックして次に流すだけで、自分の血肉にはならないんですよね。「知る」ということは、本当は人を解放するものであり、既成概念に風穴を開けること、心の自由を獲得すること。自分の人生を決めていく大切な羅針盤です。自分の心と体で、いろんなことを「知って」いく真純の毎日がフレッシュで、元少女(誰が少女やねん)の価値観にも酸素を入れてくれる感じです。この本はシリーズになるのかな。宝塚受験をめぐって、母と娘の攻防も生まれそうな予感。揉め揉めになるんかなあ、楽しみやなあ。(楽しみなんかい!)
2012年7月刊行 講談社

by ERI

日本児童文学 2012 9・10月号 『ソルティー・ウォーター』と『明日美』

落ち葉今号の『日本児童文学』のテーマは「3.11と児童文学」である。震災から1年半ほど時間が経って、3.11が少しずつ文学という形に現れてきた。この号では、3.11以降の核の問題をテーマにして、芝田勝茂さんの『ソルティー・ウォーター』と、菅野雪虫さんの『明日美』という作品が掲載されている。どちらも、核とともに生きていかねばならない子どもたちの物語だ。
菅野さんの『明日美』は、南相馬に住む中学3年生の少女・明日美の日常を描いた物語だ。菅野さんの眼差しは、静かな文体で明日美の生活の一コマを切り出していく。切りだされた日常に断層写真のように積み重なっているフクシマの今は、静かな日々の中に、明らかな被災地以外の場所との温度差を孕んでいる。私が個人的に衝撃だったのは、明日美の家の「茶の間にはこたつとミカンと煎餅と線量計」が並んでいること。外出から帰ってきた明日美にその線量計は反応してピーピー音をたてる。明日美はその線量計に向かってふざけてみせるのだ。ここで私はいろんな意味で深くうなだれてしまった。
線量計が、こたつやみかん並んで茶の間にある。日常の中にあるから、その違和感にはっと胸を突かれる。明日美はそのことに慣れている。その、「慣れている」ということにも胸を突かれる。いつもの日常、自分の家の茶の間。穏やかに自分を包むはずの日常に潜む非日常から、明日美は毎日傷つけられている。でも、それに慣れていかなければ生きていけない。傷つけられることに慣れる・・・そんな悲しいことがあるだろうか。違和感は、明日美の心の中から消えることはないだろう。明日美は、あの日以降を、忘れられない風景の中で、失った痛みと共に生きているのだから。「みんな忘れない。あの日のことも、あの日からのことも、みんな、忘れるもんか。」慣れるのと忘れるのは違うのである。被災地の外にいる私たちの方は、その違和感に慣れていないが、その違和感を感じなくなっているのかもしれない。その温度差を思ったとき、私は明日美の孤独に深くうなだれてしまう。その孤独感は、まるでフクシマをホラーの地のように扱うネットの世界を見る明日美の眼差しに感じられる。傷つけられたものが疎外され、孤独を感じなければならない。この理不尽を、静かに私たちの目の前に置く菅野さんの物語は、無関心という見えない壁を超えて心を繋ごうとする物語の大切さを感じさせてくれた。
菅野さんがそっと描き出した温度差は、芝田さんの『ソルティー・ウォーター』で、熱く燃え上がって疾走する。この作品は、3.11以降の近未来を舞台にしたSF仕立てで、芝田さんならではの切れ味のある緊迫感が漂う。バクハツがまるでなかったかのように放射線を遮るという泥の中に埋められたカマの中で、ウランが再び煮えたぎろうとしている。病気を何度も繰り返す主人公のエツの体の中にある熱い塊が、そのウランを感知するのだ。彼は走る。今はもういない少女・ミヤの声に導かれて、ウランの釜の丘に走る―。無責任さや嘘、無関心や事なかれ主義、コストと経済効果という泥に原発を塗り込めようとしても、これから何万年も放射能は拡散しようとするエネルギーをもち続ける。エツが吸い込む空気に水にまき散らされている苦いものは、私たちにとって永遠とも思える時間を生きる。その何万年という時間の前に、すっかり骨抜きになってしまった「安心」という言葉は、はたして意味を持つのだろうか。私たちは忘れっぽい。嫌になるほど同じ過ちを繰り返す。

わたしのつもりでは、自分が書いているのは―ほとんどの小説家と同じで―人が過ちを犯すこと、そして、ほかの人であれ、本人であれ、誰かがその過ちを防いだり、正したりしようと努めて、けれどもその過程で、さらに過ちを犯さずにいられないことです。  ~アーシュラ・K・ル=グウィン「ファンタジーについて前提とされているいくつかのこと」※

だからこそ、私たちは、何度も何度も子どもたちに、自分たち大人のした過ちについて語り続けなければならないのだと思う。明日美の孤独と、真実を見据えようと走るエツの痛みを何度も何度も感じて、心に刻むことがこれから先の希望に繋がるのだと信じて。その3.11以降の長く大切な営みは、まだ始まったばかりだ。私は物語を刻めないから、こうして何度も自分が大切だと思った作品について語ろうと思う。そう思わせてくれた、今号の特集号だった。
※『いま、ファンタジーにできること』河出書房新社 2011年8月刊行に所収されています。

 

by ERI

 

さがしています アーサー・ビナード 写真・岡倉禎志 童心社

ここに映されている「もの」たちは、かっては人の体温に寄り添っていたものたちだ。お弁当箱。鼻眼鏡。手袋。日記。帽子・・・。本来なら、人生の時の中で、ゆっくりと持ち主に寄り添い、役立ち、共に朽ちていくはずだった「もの」たち。でも、彼らが寄り添っていた人たちは、あの広島の暑い夏の日に一瞬で消えてしまった。だから、彼らの時間は止まったままなのだ。彼らは原爆資料館にいて、小さな椅子が彼だけのイーダを待っていたように、ずっと持ち主を待っている。彼らはもの言わぬけれど、確実に持ち主だった人と繋がっているのだと思う。その証拠に、これらの写真を見ていると、彼らが生き帰って、役目を果たしている情景がむくむくと浮かんでくるのだ。「もの」が語るものを、こんなに鮮やかに浮かび上がらせた関係者の方々の心が深く感じられる一冊である。

巻末には、ひとつひとつの「もの」たちの由来が、持ち主の名前とともに語られている。これらの道具を使っていた個人を紹介することは、そのたったひとりの不在を強く意識させる。でも、ひとつだけ、その名前がない写真がある。銀行の階段についた、黒い影である。朽木さんは『八月の光』の中で、この影が、この世界でたったひとりの名前のある存在であることを浮かび上がらせていた。そのことについては、また後で述べようと思うけれど、ここには、永遠の不在が焼き付けられているのだと思う。ここに座っていた人が誰だったのかは、ほぼ特定されているそうだけれど、生前手元に置かれていた道具たちが「生」を繋がっていたのに比べて、この影は「死」にだけ結びついている。そのせいか、とても孤独で悲しい。

「死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名前を呼ばれなければならないのだ」と、シベリアの収容所で捕虜として暮らした石原吉郎は言う。人は尊厳を踏みにじられるとき、必ずその名前をはく奪される。その昔、初めてこの影のことを知ったとき、私が感じたのは原爆の威力の恐ろしさだけだった。でも、今、私はこの写真から、名前を持たない死、ジェノサイドの恐ろしさをひしひしと感じてしまう。そして、それは表紙の鍵が語るように、どちらが加害者だとか、被害者だとかという理屈を超えて私たちが考えなければならないことなのだろうと思う。

表紙の鍵は、10名の米軍兵士が収容されていた独房の鍵だ。原爆で、その収容されていた兵士も死んでしまった。異国の地で、独房に入れられたまま被爆した彼らは、どんな思いで死を迎えただろう。死の前には、国同士の事情など関係ない。国と国との関係は、まるで人同士のそれのように語られる。しかし、私たちが「あの国って・・・」と語るとき、そこから大切なものがこぼれおちてはいないだろうか。国同士の感情や国益が踏みつけにする現場に、生身のむき出しの体で実際に身を置く恐怖を、この鍵は語っているのではないかと思う。この表紙の鍵は、大切な命を閉じ込めた鍵。でも、だからこそ、大切なことを教えてくれる鍵なのではないかと思うのだ。「ヒロシマ」は世界共通の大切な遺産だと思う。世界が一瞬で繋がるグローバルな時代に、もっともっと語られねばならないことだと思う。

この絵本の話題から外れるのだけれど・・・この名前を持たない死について、考えていることがあるので自分の覚書も兼ねて書いておきたい。夏ぐらいから、ずっとしつこく石原吉郎の『望郷の海』『海を流れる河』、フランクルの『夜と霧』を読んでいる。そこで報告される収容所における徹底的な抑圧は、まず名前を奪われるところから始まる。そこには、個人としての生も死もない。そこから始まる悲惨を読みながら、私は朽木さんの『八月の光』に収録されていた『水の緘黙』の登場人物たちが名前を持たないことについてずっと考えていた。夏に書いたレビューでは、私はそこを「たったひとつのかけがえのない記憶であると同時に、大きな普遍性を持ちながら立ちあがっていくようなのだ」と書いた。でも、どうやら、この物語の登場人物たちが名前を持たないのは、それだけではなく、もっと深い意味があるのではないかと今は思っている。主人公の青年は、あの日に一人の少女を見捨てたという苦しみから、自分の名前も想い出せなくなってしまう。生きながら、名前のない存在になってしまうのだ。それは、この社会からも切り離された存在になってしまうということ。深い孤独の闇にたった一人残されてしまうことなのだ。この『八月の光』の中で生き残った人たちは、それぞれにあの日の記憶に苦しんでいる。それは、あの日の自分が人であって人でないように思えるから。人が人でなくなるとき、死者も生者もその名前を奪われてしまうのだ。

ここまで書いて、以前読んで心のどこかにひっかかったままの『乙女の密告』(赤染晶子)のことを思い出した。あの小説のラストで、乙女たちが「アンネ・フランク」という名前を呼ぶのは、彼女が名前を奪われてしまったことへの糾弾だったんだな、と。そんなことに今頃気づく私はアホですが(汗)あのレビューで、私は現代に生きる彼女たちの幼児性と、アンネ・フランクという存在を結び付けていいのか、というようなことを書いた。でも、それは今になって間違っていたなあと思う。中国との尖閣諸島をめぐっての争いや現大阪市長の言動を見るにつけ、大きく鬱積された不満がいかに幼児性と結びつきやすいかを実感するからだ。ヒロシマも、シベリアも他人事でもなく、遠い歴史上のことでもない。当たり前に、私たちのすぐそばに転がっている、それこそひとりひとりの心の中にも潜んでいることなのだ。この絵本の作者であるアーサー・ビナードさんは、「ピカドン」という言葉に生活者の実感を読みとられた。それは、生身の体で感じた恐怖だ。頭で、机上の理論をこねまわしているだけでは、私たちはかえって自らの幼児性に振り回されてしまうことになるんじゃないか。自らが体で感じること、そこをしっかり踏まえないと、また私たちは怖ろしいところに踏み込んでしまうのではないかと、自分の弱さを振り返るにつけ、そう思う。

・・・・・長い文章になってしまった。重く長い文章に最後までお付き合いいただいた方、ありがとうございました。

2012年7月
童心社

by ERI

弟子 アラルエン戦記1 ジョン・フラガナン 入江真佐子訳 岩崎書店 

身寄りのない孤独な少年が、優れた先達に素質を見出され、修行を詰み紆余曲折を経ながらその才能を開花させていく―というのは、ファンタジーの型の一つです。弱者であると周りに思われていた少年が、ヒーローになっていく。ある意味RPGの王道ですが、面白いなと思ったのが、日本の忍者ものに設定が似ていること。さる王国の孤児院で大きくなった少年が「レンジャー」という国のために偵察活動をする道に入っていく物語です。塔を体一つで登ったり、敵国の情報集めをしたり、国内の情勢を見て歩いて領主に進言したり、というまさに隠密行動のやり方は、まさに忍者なんですが―日本の忍者のように、全く影の存在というわけではなく、戦功をたてればおおっぴらに褒めたたえられるし、英雄として扱われもします。耐え忍ぶことが多すぎる日本の忍者が見たら地団太踏んで悔しがりそうなくらい、恵まれています(笑)もうね、とっても物語として素直なんですよ。英雄は英雄、悪役はどこまでも悪役、努力はした分きっちりと報われ、友情は熱く育まれる。この費用対効果がわかりやすく現れるというのが素直に楽しい反面、物語としての深みにかけるきらいはあります。ゲドのように悩み苦しんだり、闘うという行為の理不尽や空しさに耐えたり、相手を傷つけることで自分を傷つけたりという懊悩もありません。日本の緻密な忍者観からすると、おーい!とツッコミたくなるところもいっぱいあるのですが、その分とってもおおらかな親しみやすさがあります。主人公の少年ウィルと、年老いた師匠ホールトとの関係も、おじいちゃんと孫みたいで微笑ましいしいのも、読んでいて素直に楽しい要素の一つかもしれません。こうなったらいいなあ、というところが見事にそこに収まっていく快感はありますね。裏切られない。そこが少し物足りなくもありますが、とにかく安心して読める成長物語です。もうすぐ2巻が出るようです。

2012年6月刊行
岩崎書店

by ERI

サエズリ図書館のワルツさん1 紅玉いづき 星海社

最初は、ごく普通の町にある図書館の物語かと思っていました。しかし、どうも違うらしいと気づいてから一気に面白くなって読みふけることに。この物語は、近未来の図書館。しかも、本というものがとてつもなく高価で手に入りづらくなってしまった時代の図書館のお話です。まるで骨董品のような扱いを受けている紙の本。それを、登録さえすればただで貸してくれるという、この時代には非常識な場所。それがサエズリ図書館です。そこには、ワルツさんという若くて聡明な特別探索司書(!)がいて、「こんな本が読みたい」というと魔法のように本を揃えてくれる。自分のような本読みが、もしこんな時代に放り込まれたら・・と思うと、えらく切なくなってしまうシチュエーションです。文章も、どことなく切なさを湛えていい感じ。
どうやら、大きな戦争があり、その前と後とで大きく全てが変わってしまっているらしい。そして、このサエズリ図書館が出来た経緯も、ワルツさんがたった一人でこの図書館の全書物を所有していることにも、複雑で悲しい事情が絡んでいるらしい。らしい・・というのは、まだこの物語は「1」で、全てが語りつくされているわけではないからです。一篇ごとに秘密を小出しにする感じが、また後を引いていくのだけれども・・・全ての情報が「端末」で所有されるという設定の中で、「紙の本」が人に働きかけるものが、一層心に沁みました。手の中の重み。紙の匂い。新しい本を一度読むと、少し自分の痕跡が残ること。持ち主がいなくなっても、変わっても、大切に保管されていれば本は長い時間を生きます。一冊の本には命があって、持ち主と一緒に時間をその体に刻んでいく。目の前からいなくなった人とだって、本を開いて同じ世界に飛べば、想いを共有することが出来る。そんな紙の本にしかない温もりが、ワルツさんの本を愛する気持ちとともに伝わってくるようでした。
印象的だったのは「第四夜」の中のワルツさんのひとこと。サエズリ図書館の本を持ちだした女性の「一冊ぐらい、一冊ぐらいいいじゃないですか!」という言葉に対してワルツさんが言います。
「かって、この地で、人はいっぱい、亡くなりましたね」 「たくさん亡くなったんだから、ひとりひとりのことなんて、どうでもいいって。ひとりぐらい死んだっていいって、そう思いますか?」
数の多寡というものに、何故か人は左右されます。殺人なら糾弾されるのに、遥かに多い命が失われる戦争ではそうではないし。数が少ないパンダは何億ものお金で取引されて、たくさん生まれてくる猫や犬は、何十万匹も殺処分して平気だったり。図書館の本が受けることが多い受難も、本屋さんが悩む万引きというやつも、そんな危うさと繋がることなのかもしれません。そして、もしかしたら、そんな危うさは、この物語の中で、終末戦争のボタンを押してしまう過ちにも繋がるものなんじゃないか。自分が愛する本だから、私はこの物語に痛みを感じる。でも、こんなふうに数という目に見えるものに騙されて、見過ごしてしまっていることが私にもあるんだろうなと、考えてしまいました。
あと、このワルツさんが、「特別探索司書」という設定が凄い!何が凄いかというと、ワルツさんは、本に内蔵されたマイクロチップから図書の位置情報にアクセスする権限があるらしい。つまり、どの本がどこにあるか、ということを離れた場所から探索することが出来るらしいのです。これはもう、よだれが出るほど羨ましい(笑)本は、油断するとすぐに迷子になります。何十万冊という本の迷路に隠れてしまう。そんな迷子を捜すのは、私のお仕事の一つです。私はこれが何故か人より得意で、いつのまに~か、私だけのお仕事になってしまったという・・・。常に図書館の中を歩きまわって、棚の本を一冊一冊食い入るようにみつめ、いなくなってしまった子(本)を探しております。いなくなった本を呼ぶと、「は~い」「ここ、ここ」と答えてくれるような超能力が欲しい・・・と思いますね、ほんとに(笑)もちろん、図書館には守秘義務があるので、ワルツさんのような権限を持つというのはとても難しいことなんですが。紅玉さんは、後書きを読むと、どうやら図書館のお仕事をされていた様子。きっと、同じ願望をお持ちだったのだと親近感がわきました。
この後の展開がとっても気になるので、楽しみに2巻を待っていようと思います。
2012年8月刊行 星海社

かっこうの親 もずの子ども 椰月美智子 実業之日本社

維新の会が国政に進出するとか。よもやそんなことは無いと思いますが、こんな団体が政権とったら大変なことになりますよ。相続税100%とか言ってますけど、そうされて困るのはお金持ちではなく、(お金持ちはさっさと外国へ逃げるでしょう)生活に追われ、汲汲と生きている私たちです。要はお金は親に貰わず自分で稼げ、ということなんでしょうが、人生というものは、100人いれば100通りの事情があります。例えば障害を持っているとか、病気で働けないとか、幼い子どもがいるとか、そんな人は自分の住む家さえ取り上げられたら、どうしたらいいんでしょう。極端な個人能力主義は、弱者の切り捨てに繋がります。その昔、ヒットラーが障害を持つ子どもたちを弾圧したことを想い出してしまう。他人より優位に立つことだけを目指して努力する社会って、考えただけでもため息が出るほどしんどい。発達障害は親の責任だ、などと言い出す人たちのもとで子育てしなければならなくなるとしたら・・・と思うとぞっとします。大体、徴兵制とか言いだしてる時点で怖ろしすぎなんですが、なぜかテレビではそのあたりのことが伏せられてます。どうして?私は大阪の人間ですが、橋下さんにたくさん票を入れて彼を当選させたことは、大阪人の大失敗だと思います。彼は弱者の味方なんかでは、決してないですから。・・・前置きが長くなってしまいました(汗)
いつの時代にも、子育てというのは光と闇が息苦しいまでに同居しているものだと思うのですが、現代の医学の進歩は、これまでなかった苦しみも生みだします。この物語の主人公・統子の抱えている苦しみも、一昔前なら考えられなかったこと。統子は息子の智康をAID(非配偶者間人工授精)で生み、それが原因で離婚、子どもを一人で育てているのです。とことん話し合い、お互い納得した上で選んだ道だったのに、見知らぬ人の精子で妻が妊娠したということを、夫婦として乗り越えられなかった。愛しい我が子の出生に関することだけに、その傷は統子の胸をえぐります。
この物語は、AIDという秘密を抱えて苦しむ統子とともに、今の時代の子育ての問題を見つめていきます。統子親子以外にもたくさんの親子が描かれていて、それが逐一「ああ・・いるいる、こんな人」と思うリアルさなんですよ。我が子を守ろうと抱きかかえた背中で、お互い傷つけあったりしてしまう母親という生き物の愚かしさと健気さに、思わず鼻がツンとしてしまう。仕事との両立。一人前にしなくてはという重圧。小さな子を連れて歩くときの、まわりからの冷たい視線。親同士のいさかい。くたくたになる体。時折訪れる、天にも昇るような子育ての至福の瞬間も含めて、この物語に描かれている逐一は、この身体にも心にも強く記憶としてきざまれていることばかりで、ひたすら共感の嵐です。その喜びと苦しみに翻弄される統子の気持ちに寄り添いながら、AIDという縦糸を見つめているうちに見えてくるのは、「命」というものに対して母親が持っている、根源的な「畏れ」です。畏敬とは少し違う。自分のお腹を使って子を生んだ母は、命がどんなに脆く儚いものかを、背骨に刻む実感として持っているのではないかと思うのです。

 

自分は一体いつから、こんなに弱くなってしまったのだろう。子どもを持った瞬間から、世の中は怖いものだらけになってしまった。・・・(中略)今の自分は、生まれたての子猫よりも臆病だ。絶対に失いたくないものを手に入れた瞬間から、自分はすっかり怖気づいてしまった。涙もろくなり頑なになり、融通がきかなくなって利己的になってしまった。守るべきものがあるというのは、とても窮屈で心もとないことなんだ・・・

 

子育ての喜びも苦しみも、怖ろしいほど命の実感と直結しています。統子も、智康と出かけた美しい海辺の至福の瞬間に、自分が死ぬ時のことを想像します。魂だけになったとき、この風景に出逢いたいと思うのです。子どもを、命を生むということは、同時に死も生むことなんです。これが恐ろしくないはずがない。その根源的な畏れに正面から向き合わされてしまうケースもこの物語には描かれます。辛いです・・・でも、これも命を抱えていれば誰にでも起こりうること。だから、母は必死です。愚かでも、盲目でも、もがきながら我が子を抱きしめようとする。このタイトルにある「かっこうの親、もずの子ども」というのは、託卵というかっこうの習性とAIDとの問題を重ねてあると思うのですが、子どもというのは、ある意味すべて、どこかからやったきた、託されたものなんじゃないかとも思うのです。妊娠、出産、子育て、すべてがこんなに自分の想い通りにならないことも珍しいじゃありませんか(笑)私たちはみんな、かっこうに卵を託されて盲目的に子育てする、愚かなもずにしか過ぎない。だから、思い通りにならない同士、もう少し風穴あけて子育てできたら、命という奇跡をもっと愛しく思えるんじゃないか。そんな椰月さんの想いを感じる一冊でした。正直、私にはAIDという子どもの生み方に対する疑問がありました。その疑問はなくなってしまったわけではないのですが、この世界にたった一人の存在を生みだすという奇跡は、どんな事情の中にあっても等価なのだとしみじみ思ったのです。子育て中のお母さん、そしてお父さんにぜひ読んで欲しい一冊です。
2012年8月刊行

実業之日本社

by ERI

とにかく散歩いたしましょう 小川洋子 毎日新聞社

小川さんの新刊『最果てアーケード』を、発売してすぐ買い、ちびちび、ちびちびと読んでいて、まだ終わらない。小川さんの物語は、私にとっては美味しい美味しい飴ちゃんのようなもの。言葉のひとつひとつを口にいれて転がして味わい、そっと舌触りを楽しむ。長期間枕元に置いて、あちこち拾い読みしたり、また一から読んだり、そんなことをしながらいつの間にか自分の中に溶け込んでしまうことが多いので、必ず買って読んでいる割にはレビューが書けなかったりする。言葉があまりに緊密に結びついて物語世界を作っているので、それを他の言葉に置き換えて語りにくい。谷川俊太郎が石原吉郎の詩に対して言った言葉に、「この詩は詩以外のなにものでもない。全く散文でパラフレーズ(語句の意味を別の言葉で解説すること)出来ぬ確固とした詩そのものなんです」というのがあって、なるほどと思ったけれども、そういう意味では小川さんの文章は私にとって詩に近いものかもしれない。きらめきながら一瞬で消えていく風景を見つめ続けるようなもので、ただひたすらそこに自分を失くして埋没してしまうのである。

一方、これはエッセイなので、図書館で借りたのです。そうなると返却期限があるので割と早い時間で読めるのだけれど、いちいち個人的に気になるところが多くて付箋だらけになり、こらあかんわと、やはり購入決定。アゴタ・クリストフが母国語ではないフランス語で『悪童日記』を書いたことが、子どもの言葉の魅力に繋がっていること。漱石の小説の主人公たちが、とにかく散歩ばかりすること。ポール・オースターの声が、とても魅力的なこと。(これは、お友達にまず教えてもらったことだけれど・・・彼は、また好みのタイプの男前!)等々、「そうそう、そうなんよ!」と、自分がいつも思っていたことを、小川さんの的確、かつ美しい文章で綴られているのを読んで、思わず小川さんの肩を叩いて「わかる~~!」と言いたくなったり、やられたわ~、と思ったり(笑)共感と羨望、というのが一番はまるエッセイのあり方だと改めて思ったことだった。

中でも「そうそう!」度が高かったのが、「巨大化する心配事」という項。重大な問題だと、かえってあまり思い煩ず、なりゆきにまかせたりするくせに、ちっさな心配事が膨らみだすと、気になって気になって仕方ない。外で友達とランチしていても、ふっと「あの借りた本、どこに置いたかな」とか「あの受け取り証、もしかして今朝ごみに出してないよな」とか思いだすと、ぶわん、と心配の風船が膨れ上がって私を圧迫してくる。始めて車で出かける場所というのも果てしなく緊張する。あそこで右折するのに車線変更がちゃんと出来なかったらどうしよう、とか思いだすと寝られなくなったりする。ところが、心配性だから失敗しないかというと、ところがどっこい、そうではないところが我ながら悲しい。この間も、コメントでご指摘して頂いたように、レビューを書いた本のタイトルを間違って書いていたりするんである。正直、あれには落ち込みました。本文をどれだけ一生懸命書いても、タイトル間違えてたらしゃれになりませんから!ほんとに失礼なことですよね。ああ・・情けない。でも、どうやら小川さんも同じ性癖をお持ちらしい・・・いや、小川さんは私ほどおバカさんではないだろうが、この「そうそう!」は、落ち込んだ心に沁み入った。小川さん、ありがとうございます。

小川さんは、彼女にしか聞こえないないような、ひそやかな小さな声に耳を傾ける。私は、ビクターの犬のように、少し頭を傾けて、聞こえない音に耳を澄ませる小川さんを想像して敬虔な気持ちになる。小川さんが小説という形で、それを私たちに伝えてくれることに感謝する。小川さんの小説がなかったら、私はあの美しくも怖ろしい、でもなぜか私の座る小さな椅子がある世界を手に入れることが出来なかったのだから。この世界は、スナフキンが言うように平和なものじゃない。小川さんの小説は、生きていくのがどうもあんまり上手くない私の傍にいて、寄り添ってくれる。「とにかく散歩いたしましょう」と小川さんを連れて歩いた犬のラブのように、私を別世界に連れていってくれるのである。小川さんの世界を旅すると、私は穏やかな充足に包まれる。

こんなことをやって、何になるんだろう」と、ふと無力感に襲われるようなことでも、実は本人が想像する以上の実りをもたらしている

小川さんのこの言葉を勝手に心の糧にして、今夜は眠ろう。少しでも、そんな自分でいられますように。

2012年7月刊行 毎日新聞社

by ERI